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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

地味だけど絶対に無視できないターニングポイント作! ~映画『疑惑の影』~

2025年06月12日 23時27分31秒 | ふつうじゃない映画
 はいどうもこんばんは! そうだいでございます~。
 いや~、私の住む山形もいよいよ梅雨入り……しそうになってきました。もうそろそろですかね? でも、そんなに雨も降らないしすでにあっちぃんですよ! なんかもう夏になっちゃったみたいな感じ。でも、野菜や果物さん的には梅雨が来ないとほんとに困っちゃうんで! 思いきりドザーっと降ってほしいんですけどねぇ。アイスコーヒーのおいしい季節になってまいりました。

 そんでま、今回も例によってヒッチコック監督の諸作を古い順に観ていく企画の続きなのでございますが、今回はもう、地味! あまり派手なアクションもないし、世界的に有名な名所も出てこない地味な作品ではあるのですが、観てみたらすぐにわかります、とっても重要な作品ですね!


映画『疑惑の影』(1943年1月公開 108分 ユニバーサル)
 『疑惑の影』(ぎわくのかげ 原題: Shadow of a Doubt)は、アメリカのサスペンス映画。本作は1958年にハリー=ケラー監督作品『 Step Down to Terror』としてリメイクされた。
 ヒッチコックは、当時所属していたデイヴィッド=O=セルズニックの映画制作会社の女性文芸部長の夫が思いついた原作を基にした『疑惑の影』を、ユニバーサルでの2作目として監督した。本作のほとんどのシーンは、スタジオでなく物語の舞台であるカリフォルニア州サンタローザでロケ撮影を行った。その撮影中の1942年9月26日にヒッチコックの母エマが79歳で病死し、その4ヶ月後には兄ウィリアムが52歳で亡くなった。ヒッチコックは母と兄の死に立ち会うことはできなかったが、それを機に肥満体だった自らの健康を危惧し、医師の助けを借りて食事療法に取り組んだという。
 ちなみに、ヒッチコックの体重は1939年に165kg に達した時期が最高であるとされ、本作の撮影に入る前の配役オーディション時には150kg ほど(メイキング映像でのヒューム=クローニンの証言より)、本作公開後に本格的に食事療法を開始した時点では136kg であったという。

 ヒッチコックは本編開始16分06~47秒のシーンで、サンタローザ行き列車の中でトランプのゲームをしている男として出演している(画面に映る時間は長いが顔は直接映っていない)。


あらすじ
 シャーロット=ニュートンは、カリフォルニア州サンタローザののどかな町で退屈している10代の女の子である。そんな彼女に素晴らしい知らせが舞い込んだ。彼女の母親の弟で興行師のチャールズ=オークリーが遊びに来るというのである。彼が来ると家族の誰もが、特に若いシャーロットは大喜びする。チャーリー叔父はシャーロットにエメラルドの指輪を贈る。しかし、彼女はその内側に誰か別人のイニシャルが刻まれていることに気づく。
 それから間もなく、ニュートン家に政府の調査員と称する2人の男が現れ、チャーリー叔父の写真を撮ろうとする。シャーロットは彼らが警察の潜入捜査官だと推測する。その内の一人である青年ジャック=グレアムは美しいシャーロットに好意を持ち、彼女の叔父が「メリー・ウィドウ連続殺人事件」の容疑者の一人であると説明し、捜査協力を求める。シャーロットは最初は信じようとしなかったが、彼が彼女に贈った指輪の内側に刻まれたイニシャルが、殺害された女性の一人のイニシャルと一致することを知る。

おもなキャスティング
シャーロット=ニュートン …… テレサ=ライト(24歳)
チャールズ=オークリー  …… ジョゼフ=コットン(37歳)
ジャック=グレアム    …… マクドナルド=ケリー(29歳)
サンダース刑事      …… ウォーレス=フォード(44歳)
エマ=ニュートン     …… パトリシア=コリンジ(50歳)
ジョゼフ=ニュートン   …… ヘンリー=トラヴァース(68歳)
アン=ニュートン     …… エドナ・メイ=ウォナコット(10歳)
ロジャー=ニュートン   …… チャールズ=ベイツ(8歳)
ハーブ=ホーキンス    …… ヒューム=クローニン(31歳)
ルイーズ=フィンチ    …… ジャネット=ショウ(24歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(43歳)
脚本 …… ソーントン=ワイルダー(45歳)、アルマ=レヴィル(43歳)、サリー=ベンソン(45歳)
製作 …… ジャック・ハロルド=スカーボール(46歳)
音楽 …… ディミトリ=ティオムキン(47歳)
撮影 …… ジョセフ=ヴァレンタイン(42歳)
配給 …… ユニバーサル・ピクチャーズ


 というわけで、ハリウッド時代もすでに6作目となった本作『疑惑の影』の登場でございます。

 この作品、前作『逃走迷路』から打って変わって、ありふれた日常生活に忍び込む疑惑を描く、一つの町の中で完結するような非常にミニマムな物語となっておりまして、予算規模もキャスティングの陣容もとってもつつましやか、カリフォルニア州サンタローザの実景ロケや、借りた一軒家で撮影を敢行したのも予算削減のためという、かなり地味な作品なのですが、あの『下宿人』いらいの長い歴史を誇るヒッチコックの「日常サスペンスもの」の中でも、確実に次なるフェイズへ進化していく息吹きを感じさせる新鮮な傑作に仕上がっているのです。

 詳しいことは例によって、この後にズラズラ~っと羅列した視聴メモをご覧いただきたいのですが、この作品は本当に、のちの『サイコ』を想起させる、登場人物の心理のうつろいにピッタリ寄り添う自由自在なクレーン撮影や、エドワード=ホッパーの絵画のように、家の中に無言でたたずむ人影から言い知れぬ不吉さを引き出すカット割りなどが大いに取り入れられた意欲作で、お金をかけなくとも観客の注目を引く画づくりはできるゾというヒッチコックの気概を感じさせる名品となっております。
 まぁ、タイトルの通り「疑惑」がメインの作品になっていますので、その疑惑が確信に変わった段階で映画はほぼおしまい、その後の容疑者が暴走し自滅していくくだりで急に古臭い犯罪活劇になってしまうのが非常に惜しいのですが、そこはそれ、第二次世界大戦にやっと参戦するかしないかという頃のアメリカで作られた作品ですので、時代がヒッチコック監督のセンスに追いついていなかったということで、勧善懲悪のやけにはっきりしたオチになってしまうのは仕方ないかと思います。まだ、悪役の心の闇を真正面から照射した作品が受け入れられる世の中ではなかったのでしょう。

 「ごくごく近くで生活しているあの人が、まさか殺人を!?」という設定こそ、前々作『断崖』と同じではあるのですが、舞台設定であるサンタローザや、そこに住む「古き良きアメリカの模範的家庭」をかなりリアルに接写した解像度の高さにおいて、本作はいかにもなフィクション世界のロマンスである『断崖』とはまるで段違いな、観客の肌身にじかに迫ってくる「迫真性」を持っていると思います。80年以上前の映画なのに、2020年代に観ても「あぁ~、いるいる、そういう人!」という共感を引き出せる登場人物を描くのって、ものすごいことですよね。

 イギリスはロンドンから来た異邦人であるがゆえに、「アメリカあるあるネタ」のそうとうな使い手でもあったヒッチコックのセンスが随所に光る名品です。そんなにハデで目立つ作品でもないのですが、のちの「ほんとは怖いヒッチコック」の到来を静かに感じさせる重要な一作ですので、おヒマならば、ぜひぜひ!

 いや~、戦争が始まったっていうのに、そしらぬ顔でこんなハイクオリティな映画をポンポン公開してる国なんだぜ。そりゃ勝てるわけないわな……思わず淀川長治さんな気分になっちゃいますね。


≪いつもながらの視聴メモでござ~い≫
・オープニングが、いかにも豪華絢爛なレハールの『メリー・ウィドウ・ワルツ』(1905年)の調べに乗せて、どこかの舞踏会場で紳士淑女が手を取りワルツを楽しんでいる情景なのだが、本編の内容とおもしろいくらいに乖離しているのが興味深い。そういった上流階級の娯楽とは無縁のように見える本作の登場人物たちにとって、このワルツは一体どのような存在なのであろうか……
・ワルツのオープニングから一転して、画面の情景はニューヨークと思われるアメリカの大規模な港湾都市に移り変わり、海辺にたむろする浮浪者や朽ち果てた廃車が映る。そしてそこからさびれたアパート街に移り、車のない通りいっぱいに走り回り、草野球ならぬ「道野球」をしている子ども達を映してから、道に面したアパートの一室の窓が映り、最後にその窓の奥でスーツ姿のままベッドに寝そべっているチャーリー叔父に画面が移って物語が始まる。このように、「街全景」→「通り」→「アパート」→「部屋の中」と大→小にカメラがズームしていって最終的に登場人物に到着するという流れが非常にスマートで面白い。まさに観客の視線を画面に引き込む魔術である。ただ、当たり前ながらも本作の時点でそれぞれの情景は別場所で撮影した映像をフェイドイン・フェイドアウトで切り貼りしたぎこちないものであるのだが、ここの撮影・編集技術がさらに洗練されて、街全体から部屋の中までがあたかもワンカメで撮っているかのように洗練され抜いた最終成果が、言うまでもなくあの『サイコ』(1960年)の冒頭映像なのではないだろうか。ヒッチコックの挑戦は、すでにここから始まっていたのか! くぅう~本作の存在意義はデカいぞ!!
・車も滅多に通らないし空き地も多い、さびれた通りのアパートに住むチャーリー叔父ではあるが、なぜか部屋のそこら中に無造作に紙幣が放り投げられており、それを見たアパートの大家のおばちゃんは眉をひそめる。お金には困っていないようなのに、チャーリー叔父の表情は常にかげり、おばちゃんが語っていた先刻の「2人の男」の来訪にいっそう警戒の色を強め、持っていたコップを床に叩きつける……なんだなんだ、おもしろそうだぞ! 本作の台風の目ことチャーリー叔父を演じるジョゼフ=コットンの無言の名演もあって目が離せなくなる。
・これは本作全体で言えることなのだが、映画音楽がめ~っちゃうるさい! ヒッチコックの映像演出が120% 物語を語っているのに、音楽も音楽で「ここ大事なとこ!」とか「ここスリル満点でしょお客さん!!」みたいな感じで、フルオーケストラガンガンで通販番組の司会のようにアピールしてくるのである。トゥウーマッチ!! 本作の音楽を手がけたのは、1925年にロシアから移住して以来ずっとアメリカで活躍し、『ジャイアンツ』(1956年)や『 OK牧場の決闘』(1957年)、それ以外にもほんとに映画史に残る多くの名作の音楽を創造した名匠ディミトリ=ティオムキンで、ヒッチコックともその後何度も組んで『ダイヤルM を廻せ!』(1954年)などを飾っている重要人物なのだが、それでもやっぱ、日常に潜む犯罪に照射したミニマムサイズな本作とは相性が良くないのでは……大作映画みたいな音楽設計なんですよね。
・チャーリー叔父が「カリフォルニアのサンタローザのニュートン家(姉一家)のうちに行く」と電報で伝えた後に映画の舞台がそこに移るわけなのだが、先ほどの大→小のカメラワークと全く同じ文法で「風光明媚なサンタローザの町並み」→「笑顔で警官が交通整理をするにぎやかな大通り」→「白板壁の瀟洒なニュートン宅」→「窓」→「部屋の中のベッドに寝そべるチャーリー(シャーロット)」と画面が移り替わっていく「てんどん方式」が面白い。シャーリー叔父と全くいっしょの流れなのに、観客に与える町と人物のイメージが「陰」と「陽」でみごとに対照的なのが非常に象徴的である。もうすでに、誰が問題人物で誰が主人公なのかがはっきりわかる。ちなみに、本作では両者ともに「チャーリー」と呼ばれているのだが、まぎらわしいのでこのブログではヒロインのチャーリーの方は本名の「シャーロット」と呼んでいきます。
・ニュートン家の電話が鳴り、姉のシャーロットに「電話出て~」と言われ、思いッきり「うっせーな……」という顔をしながら電話に出る読書メガネ少女アンのキャラが非常にすばらしい。一般的な「かわいい子」ではないかも知れないが、髪に花を挿し、右手には帰ってきたウルトラマンかってくらいに主張のはげしいでかいブレスレットを着けているセンスに只者でなさを感じさせる。味があるな~この娘! 「クリスチーネ剛田」って筆名でマンガ描いてそう。
・いかにも人畜無害で実直生真面目そうな銀行員の父ジョゼフに対して「毎日がだらだらと過ぎていく……退屈そのもの。将来に夢なんてないわ。」とのたまう長女シャーロット。事件もロマンスもない平穏無事な日常に飽ききっているヒロインであるわけだが、その後の展開を考えると「そんなこと言ってるから神様がバチを与えたのでは……」と感じてしまう。いま放送してる『機動戦士ガンダム ジークアクス』のヒロインみたいなこと言ってますね。無事これ名馬!
・今作のヒロイン・シャーロットを演じるテレサ=ライトはとり立てて絶世の美人女優というわけでもないし、シャーロットのような夢見る少女を演じるにしてはちょっと年上でもあるのだが、映画が進むにつれてどんどんチャーリー叔父の闇を通じ社会を知り大人になっていく「心の成長の演技」は非常にみごとで、ヒッチコックのキャスティングは正しかったと言うしかない。初登場のベッドでの表情とエンディングでのジャックとの会話とで、ほんとに10年以上の歳月が経っているみたいな顔つきの違いがある。
・ニュートン家の末っ子である長男ロジャー(8さい)が、帰宅した瞬間に誇らしげに「薬屋からうちまで何歩だと思う? 649ほ~!!」と叫び、それをシャーロットと母エマが華麗に黙殺するという数秒の風景がまことにすばらしい。本作は「ヒッチコックが初めてアメリカを描いた映画だ」と評されることが多いが、それを如実に証明するワンカットである。アメリカを描いたというか、当時の「アメリカの家庭あるあるギャグ」を効果的に導入した作品と言うべきか。だから、これはヒッチコック流『サザエさん』とも言える作品なのではないだろうか。確かにニュートン家って、それぞれのキャラが立ちまくってるのに、一つ屋根の下にいてもぜんぜん邪魔し合わないんですよね。
・電報の内容を確認するために電話をしたエマを見て、「ママ、今の電話は大声で話さなくても聞こえてるよ。」と的確なツッコミを入れるアンに子どもならではのシニカルな視点も垣間見える。ヒッチコック流『ちびまる子ちゃん』か! でも、アンがさほど本筋に絡んでこないのが実にもったいない。
・電話でチャーリー叔父が来ることを知ったエマが大喜びで「ええ、私の末の弟なんですよ。末っ子はいつまでも甘えん坊でわがままでねェ~ホント!」と語るのを見てうんざり顔になる末っ子ロジャーという一コマが実にほほえましくうまい。フィクション作品内の家庭を見て「作者のうちもこうだったに違いない」と判断するのは大間違いなのだが、こういう非常にリアルな描写は、作中のロジャーやチャーリー叔父と同じく末っ子だったヒッチコックが実際に観た、「家族のことなら私がいちばん知ってる」とうそぶく母ちゃんの姿のトレースのような気はする。奇しくもヒッチコックの母の名前は本作のシャーロット達の母親と同じ「エマ」だし、本作の撮影中にその母がイギリスで亡くなっているというのもできすぎた符合なのだが、本作で実力派女優パトリシア=コリンジ(50歳)が演じる頑固で情に厚くやや専制君主ぎみな母親の造形は、他作品と比べても異様に彫りが深いのである。Mother of Love……ルナシーねぇ。
・「うちヒマすぎなので遊びに来て!」とチャーリー叔父に電報を打とうとして郵便局に向かったシャーロットは、まさにすれ違いでニュートン家に届いたチャーリー叔父来訪の電報を受け取る。この偶然の一致に喜ぶあまり、窓口のおばちゃんに「ねぇ……テレパシーって信じる?」と聞いて、おばちゃんが「テレグラム(電報)ですか? どうぞ。」と機械的に対応する単純なボケが、なんか妙におかしい。ほんと、夢見る少女のウキウキワクワクなんて他人にとっちゃどうでもいいよねぇ。
・機関車でサンタローザに向かうチャーリー叔父の描写で本作のヒッチコック出演シーンが出てくるのだが、具体的に彼が向かいの医者夫婦とやっているトランプゲームが何なのかが今一つはっきりしないのがもどかしい。スペードの AからK まで全ぞろいでヒッチコックの顔が青ざめているらしいので、たぶんババ抜きの最初なんじゃないか(捨てるカードがないから)と私は推測したのだが、これだとババのジョーカーがないのでそれほどダメでもないのである。それに始まったらどんどんカードは捨てられるし。そう不思議に思ってちょっと調べてみたら、スペードは「剣」がモチーフなので、人殺しの道具ということで不吉だという迷信があるのだそうだ。だから、それが全ぞろいで青ざめてたのか……なるほど。でも、日本ではあんまり浸透してない迷信ですよね。仮面ライダーブレイドとかキュアソードいるし。
・迷信といえば、ニュートン家での逗留中に割り当てられた部屋(もとはシャーロットの部屋)に入ったチャーリー叔父が、取った帽子をベッドに置こうとしたところを義兄のジョゼフに「置いちゃいけないよ!」と注意されるくだりも、ニュートン家のちょっと古臭い雰囲気を象徴していていいやり取りである。主にイタリアを中心に、ベッドに帽子を置くとベッドの持ち主に不幸が訪れるという迷信があるらしい。それはかつて、臨終をみとった医者や司祭が帽子をベッドに置いていたからだとか。勉強になるなぁ。そして、その忠告にもかかわらずベッドに帽子を投げ置くチャーリー叔父なのであった……
・さすがはニュートン家の全員から慕われているチャーリー叔父だけあって、彼はそつなく家族全員にプレゼントを贈り、その中でシャーロットに贈ったエメラルドの指輪が本作の重要なキーアイテムとなる。ただ、姉エマにプレゼントとは別に2人の両親(シャーロットの祖父母)の遺影を渡しているのも、本作の結末を予感させるようでちょっと違和感のある行動ではある。本作登場人物たちの言動はほんと、一挙手一投足に意味があり見逃せない。
・プレゼントのうち、義兄ジョゼフに贈られたのが簡素な革ベルトの腕時計で、ジョゼフがそれにかなり喜び「生まれて初めて着けるよ……職場でうらやましがられないかな!?」と語っているのが時代を感じさせる。今は「ケータイあるから着けない」を通り過ぎてスマートウォッチに戻ってきましたね。
・見知らぬ他人のイニシャルの彫られた指輪をもらった直後から『メリー・ウィドウ・ワルツ』のメロディを口ずさみ、「これなんていう曲だったっけ……?」とつぶやきだすシャーロット。最終的に彼女は思い出すのだが、そのタイトルを言おうとした瞬間にチャーリー叔父はわざとグラスの水をこぼして話題を断ち切る。なぜ叔父は『メリー・ウィドウ・ワルツ』を嫌うのか。「メリー・ウィドウ」とは「陽気な未亡人」のこと。つまり……という感じで謎は深まるのだが、ちょっとここの経緯でのシャーロットの『メリー・ウィドウ・ワルツ』の連想が、先ほど彼女が嬉々として語っていたテレパシー的であるのがいかにも皮肉である。いや、指輪から読み取ってるから、これは「サイコメトリー」か。
・チャーリー叔父の歓待で沸くニュートン家に、父ジョゼフの推理小説好き仲間である隣人ハーブがやって来るのだが、どうやらこのハーブはジョゼフ以外のニュートン家からは一様に嫌われているようで、特にアンとロジャーはあからさまに顔をしかめてハーブから離れていく。確かに、周囲の空気に気づかずジョゼフとの推理小説談義にひたすら没頭する不器用なハーブが毛嫌いされるのもよく分かるのだが、そんなハーブに本作のどの登場人物よりも強い親近感をおぼえてしまうのはなぜなのかしらん!? わかるわ~。
・同じ推理小説好きなはずなのに、ジョゼフとハーブで話がまるでかみ合わないのがとっても面白い。これもわかるわ~。私、大学んときに推理小説同好会に入ってたから。横溝正史ファンと森博嗣ファンで話が合うかって話ですよ! 楽しいですけどね。
・ニュートン家に来た夕刊新聞のある記事を読んで顔をしかめたチャーリー叔父は、近くにいたアンを呼んでむりやりに「新聞を折りたたんで小屋を作る」工作を始め、ドアの部分を開けるしぐさで「その部分」をちぎり取るのであった……実に巧妙な隠ぺい工作! しかも小屋うまい。
・咄嗟に考えたにしてはいい作戦だったはずのチャーリー叔父の新聞工作だったが、超能力レベルで察しのいいシャーロットはすかさずこれを「都合の悪い記事を抜き取るための策」だと見抜いてしまう。叔父は一瞬顔をこわばらせるが、すぐ笑顔に戻り「昔つき合ってた彼女の記事が載ってたんだよ……恥ずかしいからさ。」と釈明するのだった。これ、ウソじゃないんですけどね……
・「政府のなんとか調査委員会」の2人組が来て、アメリカの模範的な家庭とみなされたニュートン家が取材と写真撮影を受けるという話を嬉しそうに話すエマと、それに対して露骨に嫌な表情になり「写真なんて絶対ダメだ! 国中のさらし者だよ。思慮が浅いと思わないのか?」と反対するチャーリー叔父。これは当然、その2人組が自分を追ってきた刑事だと確信している叔父だからこその拒絶ではあるのだが、2020年代の今から見ると、叔父の言い分も「お国から認められた」ことを全面的かつ無批判に受け入れる思考停止状態へのまっとうな抵抗のように見える。いや~、本作のチャーリー叔父というキャラクターは、単なる悪役にとどまらぬ造形の深さがハンパない。
・2020年代現在のサンタローザは人口約18万人の都市(日本の鎌倉市くらい)だが、本作が制作公開された1940年代当時は人口約1万2千人という町レベルの規模だった。作中でも、シャーロットが誇らしげにチャーリー叔父を連れて外を歩いて、彼女の友人や周囲の通行人が叔父を珍しげに見る様子や、交通整理をしている警官が叔父の来訪を知っている描写があることからも、サンタローザという町全体が一つの家族のような空気感を持っていた片鱗がうかがえる。フィクションではあるものの、古き良き第二次世界大戦前のアメリカを今に伝える貴重な史料映像ということになるのだろうか。
・ニュートン家の中では粋で明るいチャーリー叔父なのだが、ひとたび表に出ると、銀行では窓口にいるジョゼフに「やぁ、預金使い込んでる? 銀行はどこもいい加減だからな。」と周囲がドン引きするブラックジョークをかまし、ヒマしてる未亡人のポッター夫人に会えば「こんにちは、ミス・ポッター……え? ミセス? すみませんミスかと思ってしまいました。」と見え透いたお世辞を言って笑わせるという、サンタローザの純朴な住民にとって刺激の強い言動を繰り返し、さすがのシャーロットも閉口してしまう。単にニューヨーク仕込みのジョークがきついだけなのか、それとも冗談が通じないのは承知の上で周囲の人達を混乱させるのが好きなのか。
・チャーリー叔父が刑事だとにらんでいる、くだんの「政府のなんとか調査委員会」の2人組、グレアムとサンダースがニュートン家を訪問するのだが、一階のキッチンでウッキウキで取材に応じるエマと、二階から階段の手すり越しに階下の様子をうかがっている叔父との「動」と「静」の対比が実に印象的。特に物音も立てずに無表情で下を見おろすチャーリー叔父のたたずまいは、どこからどう見ても『サイコ』のノーマン=ベイツと同種の不穏さを身にまとっている。比較すればけっこう家の作りも違うのだが、両者の「階段」を重要な境界線に設定した撮り方も、かなり似ているような気がする。
・本作のニュートン家のシーンは、実際にサンタローザにあった住宅を借りて撮影したとメイキング映像でも語られているのだが、セットを作って撮ったとしか思えないくらいにカメラが自由に登場人物に寄ったり離れたりしているのも特徴的である。今までのヒッチコック作品はカット割りで引きとアップを取り分けたり、ずっと引き固定で演劇みたいに話を進める古い手法が多かったような気がするのだが、いよいよ本作から「ハリウッドのヒッチコック映画」らしい、登場人物の心理状態に合わせてカメラが距離を変えていくタッチが始まったような気がする。明らかにフェイズが変わった感じ!
・チャーリー叔父が静かにキレてサンダースの写真フィルムを取り上げたせいで、30分もしない内に終わってしまった2人組の来訪だが、若いグレアムは実にスムーズにシャーロットとイイ感じになり、その夜に2人きりでサンタローザの町案内をしてもらうという名の初デートにこぎつける。やりますねぇ! グレアム役のマクドナルド=ケリーは決してケーリー=グラントのような完全無欠の二枚目スターという感じでもないのだが、とにかく笑顔がステキで、表情にチャーリー叔父のような裏表がないところが魅力的である。にしても、シャーロットといいエマといい、なんでこうも「よその都会から来たひと」に弱いのだろうか。まるで東京もんを見る山形人のごとし!
・本作も半分を過ぎたところで物語は大きく進みだす。出逢って数分でナンパし、数時間後の初デートにこぎつけたグレアムが、自身がチャーリー叔父を追う刑事であるという衝撃の告白をシャーロットにうちあけたのだ。え! 告白って、そっちの!? 全くひっぱりなしにすぐ正体を明かすのも実にグレアムらしいどストレートな攻め方なのだが、これによってシャーロットの叔父を見る目は大きく変わり、「そういえば……」という感じで叔父がもみ消した新聞記事を図書館で発見した彼女は、ニューヨークで世間をにぎわせている「メリー・ウィドウ連続殺人事件」の最後の犠牲者のイニシャルが、叔父からもらったエメラルドの指輪に彫られたイニシャルと同じであることを知るのだった。これによって、物語の焦点はシャーロット VS チャーリー叔父の構図にぐっと絞られてくるのだが、クロかシロかはまだわからないにしても、チャーリー叔父が容疑者であることが判明する経緯があまりにも最短ルート(刑事が教えてくれた)なのが、ちょっとヒッチコックらしくなくてもったいない気もする。まぁ、サンタローザで撮りきることを目指すような小品映画だし、しょうがないっちゃしょうがないのだが……なんかこう、さぁ!
・夜の町を図書館目指して疾走するシャーロットの姿にかぶせる BGMがやっぱりうるさいのだが、ラフマニノフみたいなピアノのゴリ押しで強引に「あハイ、いいシーンっすね……」と納得させられてしまう。問題の記事のどアップで「ジャーン!!」じゃないよ。2時間サスペンスじゃないんだから。
・本作の核心に迫る、ニュートン家の晩餐におけるチャーリー叔父の「都会の陽気な未亡人」を痛烈に糾弾する30秒ワンカットの独白シーン! 徐々に叔父の顔にズームしていき、シャーロットの「あの人たちだって人間よ?」という反論を聞いて、叔父が急にカメラ目線になって「果たしてそうかな?」とつぶやく余韻がものすごい。思えば、この映画の公開された直前にアメリカも真珠湾攻撃を受け、「未亡人が大量に生まれる時代」が始まっていたわけで、そこにこういうテーマを持ち込んでくるヒッチコック監督のセンスは相当にきわどいものがある。もうちょっと遅れてたら、この映画お蔵入りになってたかもね……
・物語の本筋には全くからんでこないのだが、チャーリー叔父とシャーロットが入った、勤務明けの兵隊さんがクダを巻いてるような場末のバーで働いている、シャーロットの幼なじみの娘ルイーズのやさぐれ感が妙に印象深い。これもまた、ヒッチコックが描きたいと思ったアメリカの一面だったのだろうか。「バイト先しょっちゅう変わるの」と語るルイーズらしく、店員の制服のサイズがまったく合っておらずだぶだぶなのが細かい!
・本作のラストまでの残り30分くらいは、大好きだった叔父が連続殺人犯であるという疑いが確信に変わったシャーロットと、その命を奪おうとつけ狙う叔父との緊張関係がメインのサスペンスドラマが展開されていくのだが、正直、シャーロットを殺そうと工作してるヒマがあるんだったら夜逃げしてでもとっととトンズラぶっこいた方がいいんじゃないかと思えてしまうので(逃走資金にも困ってなそうだし)、ここらへんから叔父の行動に合理性が無くなっている気がして、ドラマとしては質が落ちているように思える。サンタローザにいる限りグレアムたちが逐一マークしてるのは明らかだし、とりあえず通報しないと約束してくれているシャーロットをあえて殺す意味がないのである。
・映像として、クライマックスの列車内でのシャーロットとチャーリー叔父のアクションシーンは非常にスリリングで面白いのだが、やはりそこで叔父が犯行に及ぶ意味がないように感じられるので、やはり物語の帰結でそうなったというよりも、「映画として悪人には死んでもらわないと」という大人の事情で叔父が無理やり退場させられたように見えてしまう。結局、叔父が悪人であると確定するまでの演出は本当に先鋭的で面白かったのだが、確定したとたんに古臭い勧善懲悪の犯罪活劇みたいになってしまったのが、本作の致命的なマイナス点だと思う。ふろしきを畳むための展開でしかないんですよね、後半が。そこにちょっとヒッチコック一流のセンスが光る余裕はなくなってるんだよなぁ。惜しい! 実に惜しいんだけど、この失敗への反省がのちの『サイコ』を生んだのではないかという気配は、かなりある。
・ただ、後半のチャーリー叔父の行動の論理性の破綻の原因となったのは、娯楽映画としての事情とかいう単純な話ではなく、冷徹な殺人鬼である彼ですら生身の人間に戻ってしまうほどの強さを持った「エマやシャーロットのいるニュートン家の愛の引力」だったのかも知れない。一刻も早く逃げるのが最善のはずなのに、叔父は姉エマの一点の曇りもない信頼のまなざしに「自慢の弟」として応えるためにニュートン家に留まり、「あんなに敬愛してくれていたはずの姪が自分を裏切った」という絶望に憑りつかれたがゆえに、功利計算抜きでシャーロットを殺さねばという執着にひた走ってしまったのである。すべては愛のなせるわざだったのか……いや~やっぱ、この映画は深いわ!!

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