長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そりゃあね……おもしろくはないっすよね。  映画『清須会議』  ~やっぱり資料編!~

2013年11月13日 23時27分44秒 | 日本史みたいな
 ハイど~も~、こんばんは! そうだいでございます。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました~。

 えぇ、えぇ、観てきましたよ~。話題のこの映画。今日はお仕事が早めに終わったもんですからね、一も二も無く映画館にすっ飛んでまいりました。

 そして、我が『長岡京エイリアン』ではかなりまれなハイスピードで、先に結論をズババンと言っちゃうと~?


「どうも おめえとは思想があわねえな。」  (『ゲゲゲの鬼太郎 土ころび』より 鬼太郎の言葉)


 ……そんなことは映画を観る前からわかりきってたことなんですけどね。

 はばかりながらも「おめえ」と言い放ってしまった相手は、そりゃもう天下の三谷幸喜サマであります。こりゃまた、ずいぶんと大きく出てしまいました。

 そりゃあね、私だって三谷さんの作品にはいっぱいいっぱい楽しませてもらってきました。生で観たことはまだないんですが、お芝居なんかはそれこそ高校生くらいのころからビデオの形になったものを繰り返し観て、「どうしてこんなにおもしろいのか?」なんてことを考えて、何かを盗んでやろう、なんてバカなことをくわだててましたっけねぇ。無論のこと、『古畑任三郎』の第2シーズンなんかは夢中になってチェックしてました。
 そして、大河ドラマの『新選組!』にくわえて、今回のこの映画。三谷さんがかなりの歴史好きであられることは間違いがないし、とにかく当代一の売れっ子作家さんが歴史ものを手がけてくれるということに、作品の出来不出来は置いておいて、まず「あんがとね。」くらいは言っとかなければいけないところはあるでしょう。歴史好きは謙虚であれ。寛容であれ。

 まぁ、「俳優」としての三谷さんには、一刻も早くおっちんでいただきたいんですけど♪

 要するに、歴史上の出来事を題材にしたフィクション作品というものは、その作品自体のクオリティはもちろん「核」ではあるわけなんですが、それがおもしろくてもつまんなくても、「どうしてそれをおもしろく感じたのか?」「どうしてそれをつまんなく感じたのか?」という雑感を考えたり議論したりすることに大部分の楽しみがあると思うんです。歴史ものを楽しむということは、自分が持っていた「既成概念」と他人が形にした「違う解釈像」とをぶつけあう知的ゲームなんじゃないんでしょうか。

 私の感覚では、だいたい歴史ものの作品を観る楽しみというものは、くだもののメロンみたいな構造になっています。つまり、作品そのものは真ん中のぐじゃぐじゃしたタネの部分で、それをもとに考えごとをする楽しみこそが、スプーンですくって食べる果肉の部分です。そういう配分になってますね、私の中では。じゃあ作品なんかいらないんじゃないかって? そんなこたぁ絶対にありません。

 余談ですが、私は三谷さんの映画とほぼ同時の公開となった映画『利休にたずねよ』は、まるで観に行く気が起こりません。たぶん、ある意味では三谷さんよりも「真面目に」歴史に取り組んでいる作品なんでしょうが、それを観て、自分がなにか新鮮なものに衝突する期待がほとんど持てないからです。まぁ、ほんとのことは実際に観てみないとわかんないわけなんですが、1800円払うってことはそんだけ大変なギャンブルなのよねぇ。今のビンボーなわたくしにとりましては。

 そういうことからも、実は三谷さんの映画がおもしろいかどうかなんてことはけっこうどうでも良くって、要は1800円ぶんのコストパフォーマンスを「自分の脳内」がペイできるくらいのお題をゲットできるかどうか! そこが最初のキモなんでありまして、そこらへんを確約してくれる信頼感が、三谷幸喜という作家さんには、ある。だからこそ、私はこの映画を公開直後にはりきって観たわけだったのでありました。

 そんでま、納得の「うん、おもしろくなかった!!」感。やっぱり、三谷作品はこうでなくっちゃネ☆



映画『清須会議』(2013年11月9日公開 138分)

 映画『清須会議(きよすかいぎ)』は、2012年6月に出版された三谷幸喜の小説を原作とする映画作品。題材は、天正十(1582)年6月27日に実際に開催された「清洲会議」である。

原作小説について
 三谷幸喜にとっては『大根性』(1995年)以来17年ぶりの本格小説となる。
 登場人物のモノローグ(独白)形式で物語が進行していく。

主なスタッフ
原作・脚本・監督 …… 三谷 幸喜(52歳)
撮影       …… 山本 英夫(53歳)
美術       …… 種田 陽平(53歳)
衣装デザイン   …… 黒澤 和子(59歳)
配給       …… 東宝
製作       …… フジテレビジョン、東宝


主な登場人物とそのキャスティング(歴史上の人物の年齢は数え年、俳優の年齢は映画公開時の満年齢です)

柴田 修理亮(しゅりのすけ) 勝家 (57歳)…… 役所 広司(57歳)
 織田家筆頭家老で五宿老の一人。通称・権六(ごんろく)。戦場では鬼神の如き強さを見せる反面、謀略や駆け引きは苦手。不器用だが素直で熱い性格。織田信長の後継者を決定すべく、清須城での会議を主催する。織田家のことを第一に考えており、次男の信雄(のぶかつ)よりも優秀な三男の信孝(のぶたか)を後継者に推している。信長の妹・お市の方に恋心を抱いている。

羽柴 筑前守(ちくぜんのかみ) 秀吉 (46歳)…… 大泉 洋(40歳)
 織田家五宿老の一人。通称・藤吉郎(とうきちろう)。宿老としては末席だったが、明智光秀を討ったことで急速に発言力を高めている。人心掌握術に長け、人懐っこい笑顔を見せる裏側で、己の目的のためには何でも利用する性格。清須会議では柴田勝家に対抗すべく、次男の信雄を後継者に推す。お市の方に強く憧れている。

丹羽 越前守(えちぜんのかみ) 長秀 (48歳)…… 小日向 文世(59歳)
 織田家五宿老の一人。通称・五郎左(ごろうざ)。冷静沈着で明晰な頭脳の持ち主。清須会議では古くからの盟友である柴田勝家の参謀として羽柴秀吉に対抗する。勝家の人格を好ましく思う一方で、その不器用さに一抹の不安も感じている。

滝川 左近将監(さこんのしょうげん) 一益 (58歳)…… 阿南 健治(51歳)
 織田家五宿老の一人。通称・左近。柴田勝家と近しい人物。信長が死んだ当時は関東で北条家と戦っていたために清須会議に参加することができず、北条家の追撃に遭いながらも必死に清須を目指す。

明智 日向守(ひゅうがのかみ) 光秀 (55歳)…… 浅野 和之(59歳)
 織田家五宿老の一人。通称・日向守。突如として謀反「本能寺の変」を起こし、主君である信長を討った。既に山崎合戦で秀吉に討たれているため、過去シーンのみの登場。

池田 紀伊守(きいのかみ) 恒興 (47歳)…… 佐藤 浩市(52歳)
 織田信長の乳兄弟。通称・勝三郎。武将としても人物としても二流で、己の出自を笠に着て威張っているために人望も低い。しかし処世術には長け、勝ち馬を見抜く眼力の持ち主。滝川一益の不在を埋めるために羽柴秀吉の推挙によって宿老に引き上げられ、急遽清須会議に参加することとなる。極めて打算的な人物であり、去就をはっきりさせないまま会議にのぞむ。

前田 又左衛門(またざえもん) 利家 (45歳)…… 浅野 忠信(39歳)
 柴田勝家の側近。通称・犬千代。上司である勝家の人物を好ましく思う一方で、かつて同僚だった羽柴秀吉にも強い友情を感じており、両者の対立に心を痛めている。賢さと純真さを兼ね備える、寡黙で一本気な人物。

黒田 官兵衛(かんべえ) 孝高 (37歳)…… 寺島 進(49歳)
 羽柴秀吉の側近。秀吉の才覚に期待し、様々な策を提案する。

前田 孫十郎 玄以(げんい) (44歳) …… でんでん(63歳)
 織田家に仕える僧侶出身の武将。本能寺の変では織田信長の嫡男・信忠と共に京の二条城にいたが、明智軍に包囲される寸前に信忠の妻子を連れて脱出した。清須城では会議の準備や議事録の作成などを執り行う。

堀 久太郎(きゅうたろう) 秀政 (30歳)…… 松山 ケンイチ(28歳)
 織田家重臣。もともとは織田信長の側近で、「名人久太郎」の異名をとるほど何事もそつなくこなす。清須に集まってきた宿老たちの接待役を担当する。

羽柴 お寧(ねい) (35歳)…… 中谷 美紀(37歳)
 羽柴秀吉の妻。夫・秀吉を深く愛しているが、それゆえに彼の際限のない野心に不安を感じている。

織田 右府(うふ) 信長 (49歳)…… 篠井 英介(54歳)
 織田家総帥。天下統一を目前にして重臣・明智光秀の謀反「本能寺の変」に倒れる。過去シーンのみの登場。

織田 左近衛中将(さのこのえちゅうじょう) 信忠 (26歳)…… 六世 中村 勘九郎(32歳)
 織田信長の嫡男。優秀で家臣からの信望も厚く、父・信長からも高く評価されていたが、やや粘りに欠ける性格。本能寺の変を起こした明智光秀に自身が籠城した二条城(現在の京都にある二条城とは別の城郭)を攻められ、前田玄以に妻子を脱出させた後に自害した。過去シーンのみの登場。

織田 左近衛権中将(さのこのえごんのちゅうじょう) 信雄 (25歳)…… 妻夫木 聡(32歳)
 織田信長の次男。通称・三介(さんすけ)。どうしようもないバカ殿。ろくに考えもせず感覚で動くいい加減な性格で、家臣からの人望も皆無に等しいが、当の本人は「うつけ」と呼ばれていた頃の父を真似ているだけで、本当は自分は頭が良いと思っている。

織田 侍従(じじゅう) 信孝 (25歳)…… 二世 坂東 巳之助(24歳)
 織田信長の三男。通称・三七(さんしち)。実は信雄よりも早く生まれていたが、母方の血筋が卑しかったために三男にされた。次兄の信雄よりもはるかに文武に優れて聡明だが、プライドが高く、長兄の信忠に比べると器は小さい。

織田 上野介(こうずけのすけ) 信包 (40歳)…… 伊勢谷 友介(37歳)
 織田信長の弟。通称・三十郎。兄とは逆に堅実な性格で、織田家中では地味な存在だった。今現在は権力には興味を示していないが、一門の重鎮であり、織田家の後継者争いのキーパーソン。

織田 お市 (36歳)…… 鈴木 京香(45歳)
 織田信長の妹で、絶世の美女。かつて近江国大名・浅井長政に嫁いでいたが、浅井家の滅亡後は3人の娘と共に織田家に戻っている。亡夫・長政と深く愛し合っていたため、夫と当時10歳だった息子・万福丸を殺した兄・信長と、その命を実行した羽柴秀吉を深く恨んでいる。勝家と秀吉の双方から好意を向けられていることに気づいており、秀吉への恨みを晴らすべく勝家を利用する。

武田 松姫 (22歳)…… 剛力 彩芽(21歳)
 織田信忠の妻で、武田信玄の娘。政略結婚ながらも夫婦仲は良好だった。政治の道具として嫁ぎ先と生家を転々としており、夫の死後は息子の三法師と共に清須にいる。

織田 三法師 (3歳)…… 津島 美羽(子役)
 織田信忠と松姫の嫡男。まだ幼いが、その体には織田信長と武田信玄の血が流れている。

森 蘭丸 成利(なりとし) (18歳)…… 染谷 将太(21歳)
 織田信長の秘書官。信長とともに討ち死にしているため、過去シーンのみの登場。

佐々 内蔵助(くらのすけ) 成政 (47歳)…… 市川 しんぺー(49歳)

羽柴 なか(秀吉の母) (70歳)…… 戸田 恵子(56歳)

羽柴 小一郎 秀長(秀吉の弟) (43歳)…… 梶原 善(47歳)

小袖(お市の方の側女)…… 瀬戸 カトリーヌ(37歳)

門兵の義兵衛 …… 近藤 芳正(52歳)

くのいち枝毛 …… 天海 祐希(46歳)

更科 六兵衛(北条家武将)…… 西田 敏行(66歳)
 ※三谷幸喜監督の前作である映画『ステキな金縛り』(2011年)に登場している

稲葉 一鉄(いってつ) 良通 (68歳)…… 久世 浩(68歳)
 織田家武将。清須会議に際して、前田利家と佐々成政と同部屋に宿泊する。

金森 五郎八(ごろはち) 長近 (59歳)…… 清末 裕之(57歳)
 織田家武将。柴田派。

蜂屋 出羽守(でわのかみ) 頼隆 (49歳)…… 迫田 孝也(36歳)
 織田家武将。羽柴派。

長束 新三郎 正家 (21歳) …… 望月 章男(33歳)
 織田家武将。丹羽派。


映画『清須会議』の題材となった「清洲会議」とは?

 安土桃山時代の天正十(1582)年6月27日(新暦の7月16日)に開かれた、織田家の継嗣問題および領地再分配に関する宿老会議である。

 天正十年6月2日に京で発生した「本能寺の変」において、織田家「前」当主・織田信長は重臣・明智光秀によって討たれ、信長の嫡男で織田家「現」当主であった織田信忠も、二条城で自害した。その後、光秀は6月13日の山崎合戦で討たれ、織田家の後継者および遺領の配分を決定することを目的に、尾張国清洲城(現・愛知県清須市)で宿老による会議が開催された。
 集まった織田家宿老は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名で、滝川一益は関東地方へ出陣中だったために欠席した。一説によると、一益は会議直前の6月16~19日に繰り広げられた神流川(かんながわ)合戦で北条家に大敗したために、その引責で参加を拒否されたという説もある。 重要なことは、織田家の一族が集まって後継者を決めたのではなく、重臣たちが決定し、当主一族は参加すらできなかったことである。そしてこれ以後、重臣たちは個々の大名としてなかば独立する形で各自の領土を支配し、織田家当主は単なる傀儡(かいらい)的存在になってしまった。

織田家後継者の決定
 会議の最大の争点であった織田家の後継者問題では、信長の三男・神戸信孝(欠席)を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(のちの秀信)を擁立する羽柴秀吉との対立が起こった。しかし、秀吉は光秀討伐のいちばんの功労者であり、丹羽長秀らの支持や、三法師のほうが、当時すでに伊勢国の名族・神戸(かんべ)家の当主となっていた叔父の信孝よりも血統的な正統性が強いこともあって、結果としては三法師が後継者に決定し、信孝がその後見人となることで収まった。

織田家領地再配分
 領地の再分配では、次男・北畠信雄(のぶかつ)は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝は明智光秀の旧領だった丹波国を相続した。家臣団では、柴田勝家が越前国を引き続き統治する上で、秀吉の領地だった近江国の北部を割譲され、丹羽長秀が若狭国を引き続き統治する上で近江国の一部を、池田恒興は摂津国を、それぞれ加増された。織田家の新当主である三法師は近江国の坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城国が与えられた。

会議の影響
 清洲会議では、それまで織田家の宿老筆頭として最大の発言権を持っていた柴田勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が宿老筆頭の地位を獲得するなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられた。この時の対立が、同年末から翌年の4月に繰り広げられる賤ヶ岳(しずがたけ)合戦につながり、織田家の瓦解と秀吉の天下取りへと続いていく。
 この会議において、織田家の後継者になろうと画策した次男・信雄は北畠から織田に、三男・信孝も神戸から織田に復姓したため、北畠家と神戸家はどちらも名実ともに滅亡した。
 一説によると、秀吉が三法師を推したのは側近の黒田官兵衛孝高(よしたか)の献策によるもので、会議が開催された時点で、すでに他の宿老たちにも根回し工作が行き渡っていた後だった、と言われている。


「清洲会議」の舞台となった「清洲城」とは?

 尾張国春日井郡清須(現・愛知県清須市一場)に存在していた、平城(ひらじろ)形式の城郭。「清須城」とも表記される。尾張国の中心部に位置し、一時期は尾張国の守護所として栄え、京~鎌倉の往還と伊勢街道が合流し、なおかつ中山道にも連絡する交通の要所として重視されていた。

歴史
 清洲城は、応永十二(1405)年に、尾張・遠江・越前国の守護職だった管領・斯波義重によって築城された。当初は、当時の尾張国守護所だった下津城(おりづじょう 現・愛知県稲沢市下津高戸町)の別邸として築城されたが、文明八(1476)年の守護代・織田家の内紛によって下津城が焼失し、文明十(1478)年に守護所が清洲城に移転したことによって、以後は尾張国の中心地となった。一時期、織田「弾正忠」家の当主・信秀(信長の父)が清洲奉行として在城した以外は、常に織田「大和守」家の居城になっており、尾張国の南部を支配する守護代織田家の本城として機能した。

 清洲奉行として在城していた織田信秀が古渡城(ふるわたりじょう 現・愛知県名古屋市中区)に拠点を移すと、守護代の織田大和守信友が入城したが、弘治元(1555)年に織田信長の策謀によって信友が暗殺されて以降は、信長が居城の那古野城(なごやじょう 現・愛知県名古屋市中区)から移り住んで大改修を加え、新たな本城とした。信長は、この城から桶狭間合戦に出陣するなど、およそ10年間、清洲城を本拠地とした。その後、永禄六(1563)年に信長は、美濃国の斎藤家との抗争に備えて北の小牧山城(現・愛知県小牧市)に移り、清洲城は支城となった。

 天正十(1582)年の清洲会議以後、清洲城は尾張国を相続した次男・織田信雄の居城となり、天正十四(1586)年には2重の堀や大天守、小天守、書院などを造営する2度目の大改修が行われている。小田原征伐後に豊臣秀吉の怒りを買った信雄が除封された後は、一時的に秀吉の甥・秀次の所領に組み込まれ、文禄四(1595)年には秀吉の重臣・福島正則の居城となった。
 慶長五(1600)年の関ヶ原合戦のおりには、徳川家康率いる東軍の後方拠点として利用され、戦後は福島正則に代わって徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が病死すると慶長十二(1607)年には家康の九男・徳川義直が入城し、以降は「徳川御三家」尾張藩の政庁となった。
 慶長十四(1609)年に、徳川家康によって清洲から名古屋への移転が命じられると、翌慶長十五(1610)年から清洲の城下町は名古屋に移転され(「清洲越し」)、清洲城そのものも名古屋城の資材として利用された。特に名古屋城・御深井丸の西北隅櫓(3層3階建て)は、清洲城の天守閣の資材を転用して建造されたため「清洲櫓」とも呼ばれる。慶長十八(1613)年、名古屋城とその城下町の完成により、清洲城は廃城となった。

現在の清洲城
 現在、城跡は土地開発によって大部分が消失し、さらには東海道本線と東海道新幹線によって土地が分断され、本丸土塁の一部が残るのみになっている。東海道本線以南の城跡「清洲公園」には織田信長の銅像が、以北の城跡「清洲古城跡公園」には清洲城跡の顕彰碑がある。なお、すぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、公園内で復元されている。

 現在、付近にそびえたっている望楼型3層4階建ての模擬天守閣は、1989年に清洲城跡に隣接する「清須市・清洲地域文化広場」に建設されたものである。外観や規模は、織田信雄が築城した天守閣をイメージして設計された。
 いっぽうで、清洲城の天守閣または小天守の部材を転用したものとされる名古屋城・御深井丸の西北隅櫓は現存しており、重要文化財に指定されている。また、尾張旭市にある良福寺の山門は清洲城の搦手門(裏門)を移築したものといわれており、市の文化財に指定されている。清洲城内に飾られていたとされる障壁画は、一部が名古屋市中区の総見寺に移されて現存しており、愛知県の指定有形文化財になっている。

清洲城と天正大地震
 1988年に実施された五条川河川改修に伴う発掘調査によって、清洲城下から史上2回の地震による液状化現象の痕跡が発見され、新しいものは1891年に発生した濃尾地震、古いものは天正十三(1585)年11月29日に発生した「天正大地震」によるものである可能性が高いことが判明した。これによって、天正十四(1586)年に織田信雄によって行われた清洲城大改修は、天正大地震の被災が直接のきっかけだった可能性が指摘された。

「清洲」と「清須」
 表記に「清洲」を使う場合と「清須」を使う場合があるが、どちらも正しく、同じ城のことを指している。14世紀中期の記録文書集『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に「清須御厨(きよすみくりや)」と記載されているのが最古の表記例だとされている。『信長公記』(17世紀初頭)では「清洲」、『三河物語』(17世紀前期)では「清須」と表記されている。



 ……ハイッ、やっぱり長いよね~、前情報が!

 ということで、毎度おなじみ「本文はまったじっかい~」の流れにいくんですが、いちおうまず言っておきますと、この『清須会議』は、史実の「清洲会議」をもとにした純然たるフィクション作品になっております。つまり、「アレが史実と違う」とか「コレが時代考証的にありえない」なんて真面目にやったほうがバカをみちゃうわけなんです。こんなのにいちいち目くじらを立てていたら、あっという間に脳みその血管がブチ切れて周瑜公瑾ばりに頓死してしまいます。ていうか、毎週日曜日の夜8時台なんか、日本中の病院がパンクしちゃいますよね。
 やっぱり、歴史好きは謙虚であれ。寛容であれ。自分のためによ?

 そんじゃあ、なんでそんなこと言ってるヤツが『清須会議』を「おもしろくなかった! おもしろくなかったってばよ!!」と繰り返し叫んでいるのかといいますと、そりゃあもう答えはひとつ、

「歴史うんぬん以前に、作品がつまんない。」

 ってことなんですよね。それだけ。

 別に歴史好きな人じゃなくても、ちょっと観たらこの作品の欠陥はすぐにわかるんじゃないんでしょうか。ほころびがありまくりなんですよね、いろいろと。

 ということで、具体的にどこがどうだったからつまんなく感じたのか? そこらへんのことは、またあらためて! ついでにふろくもつけちゃうかも~?

 でも、役所広司さんは、やっぱりいいね~。
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