こぉ~んばぁーんわぁ~い。そうだいでございます。みなさん、今日も1日お疲れさまでした。
いやぁ、今日も私の身のまわりは、ごく当たり前の天気のいい日曜日として時間が過ぎていったわけなのですが……
「ちょっとメルトダウンしちゃってました。」じゃないでしょ!? 「甘栗むいちゃいました。」じゃないんですから。
こちとら、少年期まっさかりのころに『ゴジラVSデストロイア』を観て衝撃を受けた人間なもんでねぇ。
「メルトダウン」ったらもう、そりゃーえらいことになると思いこんでたもんだったのですが、なんか「ちょこっとメルトダウン」ですんでいたようで。
というか、もしかしたらこれからさらに「どえりゃーこと」になるかも……という状況は今も続いているんですね。
でもそれなのに、世界地図で見たらほんのちょびっとの距離の場所にいる私たちは日常の生活を送ってるのね。
もはや、なにかに批判的になったり悲観的になったりする時期は過ぎたというか……鈍感になりようもない不気味な緊張感の続いたこの日常。
被災したわけでもないので、私の町はパッと見はほんとにふつうなんですが、ちょっと友だちのホテルマンと話をしたりすると、
「ゴールデンウィークはやっぱりヒマだったねぇ。だって今年は、このへん(東日本)に旅行にいこうかって考える人があんまりいないから。」
こんなことを聞いたりもするんですよね。それでも、住んでいる当の私たちはほんとに普通なんです。仕事もあるし、娯楽もある。
私なんかはほんとに「不思議」としか理解できなくて。そんな私でも敏感に感じちゃうのは、すぐに崩れるかもしれないそんな社会の中で、それでもまっとうに働いて食べて笑って生きていかなければならない、人間の「さが」というかなんというか。
やっぱ、みんなで元気にはげましあって生きていくことしかできないのよね。
被災地や原発の近くにいる人たちのことを思う「祈り」の力というものを今は信じます。
フォースがあればなんでもできる! バカヤローッ!!
こ~んな、世界史にバリバリ余裕で刻まれるような人類規模の大事件のまっ最中だっていうのに、私、「アイドルグループ史」なんてものをつづっております。
え? そんなことしてる場合なのかって? それは100年か200年後の未来の人に聞いとくれっ!
70を越えた金髪のおじいちゃんがストーカーをしてつかまるようなご時世ですからね。法を犯す気はさらさらありませんが、私も気持ちはロックでありたいのです。シェケナベイベ~。
さて、今回はいよいよ「おニャン子クラブ」が80年代なかばに世に問うた「しろうとアイドルブーム」というものの盛衰の物語をおっていきたいと思います。
全然関係ありませんが、「盛衰」という言葉は昔ふうに「じょうすい」と読むとカッコいいぞ! でも、あんまり使い過ぎるとなんにも知らない大人に「せいすいだよ。」ってバカな訂正をされるからほどほどにしよう。
「軽チャー路線」を標榜するフジテレビの本格的な専属アイドルグループとして誕生したおニャン子クラブ。
活動の拠点となったのは、毎週月~金曜日に夕方5時から放送していた生放送番組『夕焼けニャンニャン』で、内容は応募してきた女子高生の中から新たなおニャン子クラブメンバーを発掘していくというオーディションコーナーと、メンバーがとんねるずら当時の若手芸人とクイズやゲームなどをするというお遊びコーナーが中心でした。番組スタッフや出演タレントのほとんどが『オールナイトフジ』からシフトしてきたということもあり、生放送に慣れている周囲はほぼしろうとのおニャン子クラブを的確にサポートしていき、ここでの出演によってさらに人気と実力を上げたとんねるずは、そのまま自分達の冠番組『とんねるずのみなさんのおかげです』(あったり前のようにフジテレビ)を立ち上げていくこととなります。
ここで大事なのは、こういった経緯もあったために、最初っからおニャン子クラブというアイドルグループの中身が「本物のしろうと」と「すでにタレントだった人」の混成部隊になっていたことです。
番組が放送された期間は1985年4月から1987年8月の2年間あまりで、おニャン子クラブの解散コンサートは番組終了の翌月9月に東京・代々木第一体育館で盛大に挙行されたわけなのですが、その活動期間のあいだ、おニャン子クラブは常に新たなメンバーの加入と先輩メンバーの卒業というイベントがおこなわれていました。
おニャン子クラブの構成人数は番組開始当初が11名、毎月のように新メンバーが増えていって最大時には30名前後。解散時には正式メンバーは19名だったようです。
そんな中で、総勢50名もの娘さん達が正式メンバーの証である「会員番号」を取得していったわけなのですが、それだけ集まったらおんなじ若い娘さんでも、「おもしろいから遊んじゃお~。」と思う人もいれば、「あたしは絶対にここで有名になって独り立ちしてやる!」という野望を胸に秘める人もいたわけで。
ちょっとここでですね、おニャン子クラブを代表するメンバーであると、私の独断と偏見のみでセレクトさせていただいた9人の方の情報をのせてみたいと思います。
あの、何度も言いますけど、ここにあなたの好きなあの方がいないからって、怒っちゃいやよ! 字数の都合もあったので9人にしぼらせていただいた、というだけであります。
・新田 恵利 (結成メンバー~1986年9月在籍)結成時には高校生だった(17歳)、卒業後は歌手・女優
※1986年1月に『冬のオペラグラス』でソロデビュー
・国生 さゆり(結成メンバー~1987年3月在籍)結成時にはすでに高卒でタレントだった(19歳)、卒業後は歌手・女優
※1986年2月に『バレンタイン・キッス』でソロデビュー
・高井 麻巳子(まみこ 結成メンバー~1987年3月在籍)結成時には予備校生だった(19歳)、卒業後は歌手・女優、1988年に秋元康と結婚引退
※1986年6月に『シンデレラたちへの伝言』でソロデビュー
・河合 その子(放送開始直後に加入~1986年3月)加入時には専門学校生だった(20歳)、卒業後は歌手・女優、1990年に引退し94年に後藤次利と結婚
※1985年9月に『涙の茉莉花(ジャスミン)Love』でソロデビュー(おニャン子クラブ初のソロプロジェクト)
・岩井 由紀子(1985年6月加入~解散まで)加入時にはモデル事務所に所属していた(17歳)、解散後は愛称だった「ゆうゆ」に改名し歌手・タレント、1997年に結婚引退
※1987年3月に『天使のボディーガード』でソロデビュー
・渡辺 美奈代(1985年11月加入~解散まで)加入時にはタレントだった(16歳)、解散後は歌手・女優
※1986年7月に『瞳に約束』でソロデビュー
・渡辺 満里奈(1986年3月加入~解散まで)加入時にはタレントだった(16歳)、解散後は歌手・タレント
※1986年10月に『深呼吸して』でソロデビュー
・工藤 静香 (1986年5月加入~解散まで)1985年にすでにアイドルグループ「セブンティーンクラブ」として活動していた(15歳)、解散後は歌手
※おニャン子クラブ解散直前の1987年8月に『禁断のテレパシー』でソロデビュー、代表曲は1993年の『慟哭』(名曲ですね~。)
・生稲 晃子 (1986年6月加入~解散まで)加入時にはモデル事務所に所属していた(18歳)、解散後は歌手・女優
※おニャン子クラブ解散後は「うしろ髪ひかれ隊」メンバーとして活動、1988年5月に『麦わらでダンス』でソロデビュー
いやぁ~錚々たる面々でございます。現在は引退されている方もいらっしゃるのですが、みなさんおニャン子クラブのメンバーとしても、1人1人のソロアイドルとしても当時は絶大な人気をはくしていたのです。
ただ、ここで気をつけておかなければならないのは、上のように芸能界に残っていくメンバーだけでおニャン子クラブが構成されていたわけではない、ということ。
むしろ、おニャン子クラブのメンバーだった方のほとんど大多数は、『夕焼けニャンニャン』で他の芸能人とやりあっている時点でも特定の芸能事務所に所属しておらず、解散した後はふたたび普通の学生生活に戻っていくという「本物のしろうと」だったのです。
まぁ、だからといってそう簡単に普通の生活に戻れなくなってしまうのが芸能界の「魔力」なんではあるのでしょうが。
つまり、アイドルグループとしてのおニャン子クラブは、実態は「本物のアイドルを生み出すための養成機関」だったということになります。
ただ、時代や番組の要求するものが「しろうとっぽさ」だったため、おニャン子クラブは「一流のアイドルを育てる」というスタイルをいっさいとりませんでした。むしろ加入前、普通の高校生だった時のフレッシュさをどれだけ維持できるかが各メンバーひいてはグループ全体の魅力でもあったわけで、その点、「アイドルらしくなければらしくないほどいいアイドル」という、哲学的にものすごい矛盾をかかえたグループだったわけなのです。す、すごい……
結局この方針のため、もともとずぶのしろうとで芸能界への執着も特になかったメンバーと、なまじっかすでに芸能界に入ったあとで加入したメンバーとのあいだに微妙な空気感の違いが生じていたこともあったようです。新田さんと国生さんの存在感のちがいなんかが、まさにそうだったのではないでしょうか。まぁ、新田さんもその人気のために卒業後は芸能人になっていますが。
極端な例で言うと、工藤さんなんかはすでにおニャン子クラブに加入する前からアイドルだったんですからね! そんな彼女なのに、おニャン子時代にはそのへんを感じさせない「アイドルらしからぬしろうとっぽいおバカ発言」を持ち味としていたのです。やっぱり歌だけじゃなくて生き方も器用なお人なのね……
まぁこんな調子で、おニャン子クラブは「アイドルグループ」という形態では確かにのちのモーニング娘。やAKB48の直接の大先輩となる存在ではあったのですが、およそ汗や悔し涙を流しながら、
「みんなっ、がんばっていっしょにトップアイドルめざそうねっ!」
と誓いあうような、現代に通じるサクセスストーリーの似合うグループではありませんでした。どれだけぬるくやってラクに遊ぶかがおニャン子クラブの本領であったともいえます。そういう意味では、2011年現在に活躍するどのアイドルグループよりもはるかに革命的だったのかも!?
そんなおニャン子クラブが残した数多くの足跡の中でももっとも大きかったのが、彼女たちの音楽業界での大暴れっぷりでした。
「あるTV局のある番組でしか活動しない」というマイナスとしか思えない性質を逆手にとって、おニャン子クラブ、というかそれを武器にしたフジテレビは、当時の日本の音楽チャート業界にも革命をもたらす大勝負にうって出ることとなったのです。
おニャン子クラブは、その「フジテレビ専属のアイドルグループ」という特質もあり、基本的には他のTV局の音楽番組には出演できないという制限が生じていました。もちろん、NHKの紅白歌合戦にも出場していません。
それゆえに、1978年の放送開始以来、多くのビッグアーティストたちをまねいて「当時の日本でもっとも影響力の強いランキングチャート」を毎週発表していたTBSの超有名音楽番組『ザ・ベストテン』(木曜夜9時)にも、おニャン子クラブは出場できない宿命にあったのです。
『ザ・ベストテン』の発表する総合ランキングは、音楽ソフト(当時はレコード)売り上げ枚数・有線放送リクエスト・ラジオリクエスト・番組へのハガキリクエストから各データを集めて決定するというものだったのですが、当然ながらランキングに入ったアーティストがスタジオに来て唄ってくれないと番組が盛り上がらないため、そのへんの事情もあってか、おニャン子クラブはあまりランキング上位に入ってこないという状況になっていました。
しかし、時代の勢いというものは実に恐ろしいもので、「歌もダンスもあんまり上手じゃないけど、みんなでがんばってみま~っす。」という、おニャン子クラブの他に類を見ないしろうとっぽさがウケにウケ、レコードが売れた売れた!
おニャン子クラブといえば1stシングルの『セーラー服を脱がさないで』(1985年5月)がつとに有名なのですが、こののっけから大ヒットを記録したレコード販売は快進撃を続け、3rdシングル『じゃあね』(1986年2月)からは、6作連続でオリコンチャート首位を獲得することとなります。
いや~、なんといってもおニャン子クラブの恐ろしさは、その「時流を見きわめる眼のバッチリ感」ですね!
その最たるものが『じゃあね』の大ヒットで、世間でいう卒業の季節に、自分達の最初の「卒業イベント」となる河合その子さんら2名の卒業コンサートを公演し(それ以前に卒業したメンバーもいたが、卒業コンサートという形式をとったのはこの時が初めて)、そこにこの卒業ソングの新曲をぶつけてきた戦略は、まさに一部のスキもないといった感じです。諸葛亮もビックリよ。
また、『じゃあね』っていう曲がいいんだなぁ! 「お別れ」を徹底して明るく唄いあげるこの歌は、秋元&後藤タッグがおニャン子クラブの陽性を最大限にひきだしたベストワークと言っても過言ではない名品でしょう。
「お別れ」はあくまで明るく! というと、どうしてもあのキャンディーズの『微笑がえし』(1978年)を想起してしまうのですが、思えばおニャン子クラブは、キャンディーズ以来ひさびさに登場した、
「成長と変身を魅力にもっているアイドルグループ」
だったと言えるかと思います。それもおニャン子クラブの場合は、「メンバーの定期的な交替」という、さらにダイナミックでストーリー性あふれるものになっていました。
まぁ~「新規メンバー登場!」やら「あのメンバーが……卒業。」といったイベントは、現在の芸能界でも尋常じゃない影響力をもったアイドルグループならではのビッグニュースになっていますよね。
ぐぬぅ! また字数がかさんでまいりました。
レコード業界その他におニャン子クラブが残していった大きな足跡などの、続きはまた次回っつうことで!
は~、長い……
いやぁ、今日も私の身のまわりは、ごく当たり前の天気のいい日曜日として時間が過ぎていったわけなのですが……
「ちょっとメルトダウンしちゃってました。」じゃないでしょ!? 「甘栗むいちゃいました。」じゃないんですから。
こちとら、少年期まっさかりのころに『ゴジラVSデストロイア』を観て衝撃を受けた人間なもんでねぇ。
「メルトダウン」ったらもう、そりゃーえらいことになると思いこんでたもんだったのですが、なんか「ちょこっとメルトダウン」ですんでいたようで。
というか、もしかしたらこれからさらに「どえりゃーこと」になるかも……という状況は今も続いているんですね。
でもそれなのに、世界地図で見たらほんのちょびっとの距離の場所にいる私たちは日常の生活を送ってるのね。
もはや、なにかに批判的になったり悲観的になったりする時期は過ぎたというか……鈍感になりようもない不気味な緊張感の続いたこの日常。
被災したわけでもないので、私の町はパッと見はほんとにふつうなんですが、ちょっと友だちのホテルマンと話をしたりすると、
「ゴールデンウィークはやっぱりヒマだったねぇ。だって今年は、このへん(東日本)に旅行にいこうかって考える人があんまりいないから。」
こんなことを聞いたりもするんですよね。それでも、住んでいる当の私たちはほんとに普通なんです。仕事もあるし、娯楽もある。
私なんかはほんとに「不思議」としか理解できなくて。そんな私でも敏感に感じちゃうのは、すぐに崩れるかもしれないそんな社会の中で、それでもまっとうに働いて食べて笑って生きていかなければならない、人間の「さが」というかなんというか。
やっぱ、みんなで元気にはげましあって生きていくことしかできないのよね。
被災地や原発の近くにいる人たちのことを思う「祈り」の力というものを今は信じます。
フォースがあればなんでもできる! バカヤローッ!!
こ~んな、世界史にバリバリ余裕で刻まれるような人類規模の大事件のまっ最中だっていうのに、私、「アイドルグループ史」なんてものをつづっております。
え? そんなことしてる場合なのかって? それは100年か200年後の未来の人に聞いとくれっ!
70を越えた金髪のおじいちゃんがストーカーをしてつかまるようなご時世ですからね。法を犯す気はさらさらありませんが、私も気持ちはロックでありたいのです。シェケナベイベ~。
さて、今回はいよいよ「おニャン子クラブ」が80年代なかばに世に問うた「しろうとアイドルブーム」というものの盛衰の物語をおっていきたいと思います。
全然関係ありませんが、「盛衰」という言葉は昔ふうに「じょうすい」と読むとカッコいいぞ! でも、あんまり使い過ぎるとなんにも知らない大人に「せいすいだよ。」ってバカな訂正をされるからほどほどにしよう。
「軽チャー路線」を標榜するフジテレビの本格的な専属アイドルグループとして誕生したおニャン子クラブ。
活動の拠点となったのは、毎週月~金曜日に夕方5時から放送していた生放送番組『夕焼けニャンニャン』で、内容は応募してきた女子高生の中から新たなおニャン子クラブメンバーを発掘していくというオーディションコーナーと、メンバーがとんねるずら当時の若手芸人とクイズやゲームなどをするというお遊びコーナーが中心でした。番組スタッフや出演タレントのほとんどが『オールナイトフジ』からシフトしてきたということもあり、生放送に慣れている周囲はほぼしろうとのおニャン子クラブを的確にサポートしていき、ここでの出演によってさらに人気と実力を上げたとんねるずは、そのまま自分達の冠番組『とんねるずのみなさんのおかげです』(あったり前のようにフジテレビ)を立ち上げていくこととなります。
ここで大事なのは、こういった経緯もあったために、最初っからおニャン子クラブというアイドルグループの中身が「本物のしろうと」と「すでにタレントだった人」の混成部隊になっていたことです。
番組が放送された期間は1985年4月から1987年8月の2年間あまりで、おニャン子クラブの解散コンサートは番組終了の翌月9月に東京・代々木第一体育館で盛大に挙行されたわけなのですが、その活動期間のあいだ、おニャン子クラブは常に新たなメンバーの加入と先輩メンバーの卒業というイベントがおこなわれていました。
おニャン子クラブの構成人数は番組開始当初が11名、毎月のように新メンバーが増えていって最大時には30名前後。解散時には正式メンバーは19名だったようです。
そんな中で、総勢50名もの娘さん達が正式メンバーの証である「会員番号」を取得していったわけなのですが、それだけ集まったらおんなじ若い娘さんでも、「おもしろいから遊んじゃお~。」と思う人もいれば、「あたしは絶対にここで有名になって独り立ちしてやる!」という野望を胸に秘める人もいたわけで。
ちょっとここでですね、おニャン子クラブを代表するメンバーであると、私の独断と偏見のみでセレクトさせていただいた9人の方の情報をのせてみたいと思います。
あの、何度も言いますけど、ここにあなたの好きなあの方がいないからって、怒っちゃいやよ! 字数の都合もあったので9人にしぼらせていただいた、というだけであります。
・新田 恵利 (結成メンバー~1986年9月在籍)結成時には高校生だった(17歳)、卒業後は歌手・女優
※1986年1月に『冬のオペラグラス』でソロデビュー
・国生 さゆり(結成メンバー~1987年3月在籍)結成時にはすでに高卒でタレントだった(19歳)、卒業後は歌手・女優
※1986年2月に『バレンタイン・キッス』でソロデビュー
・高井 麻巳子(まみこ 結成メンバー~1987年3月在籍)結成時には予備校生だった(19歳)、卒業後は歌手・女優、1988年に秋元康と結婚引退
※1986年6月に『シンデレラたちへの伝言』でソロデビュー
・河合 その子(放送開始直後に加入~1986年3月)加入時には専門学校生だった(20歳)、卒業後は歌手・女優、1990年に引退し94年に後藤次利と結婚
※1985年9月に『涙の茉莉花(ジャスミン)Love』でソロデビュー(おニャン子クラブ初のソロプロジェクト)
・岩井 由紀子(1985年6月加入~解散まで)加入時にはモデル事務所に所属していた(17歳)、解散後は愛称だった「ゆうゆ」に改名し歌手・タレント、1997年に結婚引退
※1987年3月に『天使のボディーガード』でソロデビュー
・渡辺 美奈代(1985年11月加入~解散まで)加入時にはタレントだった(16歳)、解散後は歌手・女優
※1986年7月に『瞳に約束』でソロデビュー
・渡辺 満里奈(1986年3月加入~解散まで)加入時にはタレントだった(16歳)、解散後は歌手・タレント
※1986年10月に『深呼吸して』でソロデビュー
・工藤 静香 (1986年5月加入~解散まで)1985年にすでにアイドルグループ「セブンティーンクラブ」として活動していた(15歳)、解散後は歌手
※おニャン子クラブ解散直前の1987年8月に『禁断のテレパシー』でソロデビュー、代表曲は1993年の『慟哭』(名曲ですね~。)
・生稲 晃子 (1986年6月加入~解散まで)加入時にはモデル事務所に所属していた(18歳)、解散後は歌手・女優
※おニャン子クラブ解散後は「うしろ髪ひかれ隊」メンバーとして活動、1988年5月に『麦わらでダンス』でソロデビュー
いやぁ~錚々たる面々でございます。現在は引退されている方もいらっしゃるのですが、みなさんおニャン子クラブのメンバーとしても、1人1人のソロアイドルとしても当時は絶大な人気をはくしていたのです。
ただ、ここで気をつけておかなければならないのは、上のように芸能界に残っていくメンバーだけでおニャン子クラブが構成されていたわけではない、ということ。
むしろ、おニャン子クラブのメンバーだった方のほとんど大多数は、『夕焼けニャンニャン』で他の芸能人とやりあっている時点でも特定の芸能事務所に所属しておらず、解散した後はふたたび普通の学生生活に戻っていくという「本物のしろうと」だったのです。
まぁ、だからといってそう簡単に普通の生活に戻れなくなってしまうのが芸能界の「魔力」なんではあるのでしょうが。
つまり、アイドルグループとしてのおニャン子クラブは、実態は「本物のアイドルを生み出すための養成機関」だったということになります。
ただ、時代や番組の要求するものが「しろうとっぽさ」だったため、おニャン子クラブは「一流のアイドルを育てる」というスタイルをいっさいとりませんでした。むしろ加入前、普通の高校生だった時のフレッシュさをどれだけ維持できるかが各メンバーひいてはグループ全体の魅力でもあったわけで、その点、「アイドルらしくなければらしくないほどいいアイドル」という、哲学的にものすごい矛盾をかかえたグループだったわけなのです。す、すごい……
結局この方針のため、もともとずぶのしろうとで芸能界への執着も特になかったメンバーと、なまじっかすでに芸能界に入ったあとで加入したメンバーとのあいだに微妙な空気感の違いが生じていたこともあったようです。新田さんと国生さんの存在感のちがいなんかが、まさにそうだったのではないでしょうか。まぁ、新田さんもその人気のために卒業後は芸能人になっていますが。
極端な例で言うと、工藤さんなんかはすでにおニャン子クラブに加入する前からアイドルだったんですからね! そんな彼女なのに、おニャン子時代にはそのへんを感じさせない「アイドルらしからぬしろうとっぽいおバカ発言」を持ち味としていたのです。やっぱり歌だけじゃなくて生き方も器用なお人なのね……
まぁこんな調子で、おニャン子クラブは「アイドルグループ」という形態では確かにのちのモーニング娘。やAKB48の直接の大先輩となる存在ではあったのですが、およそ汗や悔し涙を流しながら、
「みんなっ、がんばっていっしょにトップアイドルめざそうねっ!」
と誓いあうような、現代に通じるサクセスストーリーの似合うグループではありませんでした。どれだけぬるくやってラクに遊ぶかがおニャン子クラブの本領であったともいえます。そういう意味では、2011年現在に活躍するどのアイドルグループよりもはるかに革命的だったのかも!?
そんなおニャン子クラブが残した数多くの足跡の中でももっとも大きかったのが、彼女たちの音楽業界での大暴れっぷりでした。
「あるTV局のある番組でしか活動しない」というマイナスとしか思えない性質を逆手にとって、おニャン子クラブ、というかそれを武器にしたフジテレビは、当時の日本の音楽チャート業界にも革命をもたらす大勝負にうって出ることとなったのです。
おニャン子クラブは、その「フジテレビ専属のアイドルグループ」という特質もあり、基本的には他のTV局の音楽番組には出演できないという制限が生じていました。もちろん、NHKの紅白歌合戦にも出場していません。
それゆえに、1978年の放送開始以来、多くのビッグアーティストたちをまねいて「当時の日本でもっとも影響力の強いランキングチャート」を毎週発表していたTBSの超有名音楽番組『ザ・ベストテン』(木曜夜9時)にも、おニャン子クラブは出場できない宿命にあったのです。
『ザ・ベストテン』の発表する総合ランキングは、音楽ソフト(当時はレコード)売り上げ枚数・有線放送リクエスト・ラジオリクエスト・番組へのハガキリクエストから各データを集めて決定するというものだったのですが、当然ながらランキングに入ったアーティストがスタジオに来て唄ってくれないと番組が盛り上がらないため、そのへんの事情もあってか、おニャン子クラブはあまりランキング上位に入ってこないという状況になっていました。
しかし、時代の勢いというものは実に恐ろしいもので、「歌もダンスもあんまり上手じゃないけど、みんなでがんばってみま~っす。」という、おニャン子クラブの他に類を見ないしろうとっぽさがウケにウケ、レコードが売れた売れた!
おニャン子クラブといえば1stシングルの『セーラー服を脱がさないで』(1985年5月)がつとに有名なのですが、こののっけから大ヒットを記録したレコード販売は快進撃を続け、3rdシングル『じゃあね』(1986年2月)からは、6作連続でオリコンチャート首位を獲得することとなります。
いや~、なんといってもおニャン子クラブの恐ろしさは、その「時流を見きわめる眼のバッチリ感」ですね!
その最たるものが『じゃあね』の大ヒットで、世間でいう卒業の季節に、自分達の最初の「卒業イベント」となる河合その子さんら2名の卒業コンサートを公演し(それ以前に卒業したメンバーもいたが、卒業コンサートという形式をとったのはこの時が初めて)、そこにこの卒業ソングの新曲をぶつけてきた戦略は、まさに一部のスキもないといった感じです。諸葛亮もビックリよ。
また、『じゃあね』っていう曲がいいんだなぁ! 「お別れ」を徹底して明るく唄いあげるこの歌は、秋元&後藤タッグがおニャン子クラブの陽性を最大限にひきだしたベストワークと言っても過言ではない名品でしょう。
「お別れ」はあくまで明るく! というと、どうしてもあのキャンディーズの『微笑がえし』(1978年)を想起してしまうのですが、思えばおニャン子クラブは、キャンディーズ以来ひさびさに登場した、
「成長と変身を魅力にもっているアイドルグループ」
だったと言えるかと思います。それもおニャン子クラブの場合は、「メンバーの定期的な交替」という、さらにダイナミックでストーリー性あふれるものになっていました。
まぁ~「新規メンバー登場!」やら「あのメンバーが……卒業。」といったイベントは、現在の芸能界でも尋常じゃない影響力をもったアイドルグループならではのビッグニュースになっていますよね。
ぐぬぅ! また字数がかさんでまいりました。
レコード業界その他におニャン子クラブが残していった大きな足跡などの、続きはまた次回っつうことで!
は~、長い……