長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第8回 『おニャン子クラブじょーすいき 中』

2011年05月17日 22時16分44秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 どうもこんばんは~、そうだいです。
 最近は天気のいい日が続いていたんですけど、今日はまた崩れてきちゃいましたね。またこんな感じのゲリラ豪雨が多くなってくんのかなぁ~、夕方とか。

 先日、およそ2ヶ月ぶりに髪を切ってもらおうかと床屋に行きまして、そこのメニュー表を見たところ、カットやら顔そりやらシャンプーやらを全部やってもらう「フルコース」っていうのよりも、ちょっとお安めの「シャンプーセット」というのがありまして、急いでることもあったし顔そりなんかはいいや、と思ってそのシャンプーセットを初めて頼んでみたんですね。
 そしたら、「シャンプーセット」って、「フルコース」をちょっと簡略化した「セット」っていう意味じゃなくて、「シャンプー」と髪型の「セット」だけをやるコースだったのね……
 椅子に座ったとたんに頭にシャンプー液がかかって、「あれ、カットは? カットは?」と思ったんですけど言葉に出せず、「シャンプー」と「セット」がとどこおりなく終わった時には、
「そうそう、最初っから髪切ってもらうつもりなんてなかったんだよ、オレ! ハハハハ~……」
 という表情を顔にはりつけてお金を払ってお店を出ました。この小市民が!
 いいんですよいいんですよ、いいシャンプーだったし、ドライヤーとかマッサージもすっごく気持ちよかったからねぇ!

 ……ということで、今日は仕事もなかったので別の床屋さんに行って髪を切ってもらいました。もちろん、カットで!!
 なんで2日間かけて床屋に行ってるんだ、おれは。はじめから「フルコース」にしておけば……そうか~、そういや「セット」って、「整える」っていう意味もあったなぁ~などと、身をもって再確認。


 と、いうことで、今回も引き続いての「おニャン子クラブじょーすいき」なんでございますが、当時圧倒的な支持を得ていた邦楽チャート「ザ・ベストテンのランキングチャート」に出演できない事情があったおニャン子クラブがとった方策とは!?

 普通だったら、アイドルにとって出て唄うことがひとつの重要なステイタスだとまで言われていた大人気番組が、他局の番組なので出演できないとなってしまったら、単なる1番組の企画アシスタントグループで終わってしまうところだろうし、実際にそうした例はおニャン子クラブの前後にいくらでもあったわけなのですが、そんなハンディキャップさえも逆に自分達の武器にしてしまったのがおニャン子クラブのすごいところ!

 天下の『ザ・ベストテン』にたいして、なんとおニャン子クラブは「別流の邦楽チャートを権威化する」という真っ向勝負に打って出たのです。
 まさしくこれは、「音楽番組に出られないのなら、出られる音楽コーナーを自前でつくったらいいんじゃない!」というマリー=アントワネット魂。ケンカ売ったぁ~!

 前回にも申したとおり、『ザ・ベストテン』の総合チャートは「レコード売上げ」、「ラジオリクエスト」、「有線リクエスト」、「番組へのハガキリクエスト」の4種のランキングをもとに作成されるというものだったわけなのですが、お互いの影響パーセンテージの「さじ加減」は、毎週番組スタッフが実際に番組に出演してくれるスターの状況をみて裁定していたのです。
 であるがゆえに、TBSの看板番組である『ザ・ベストテン』はフジテレビ専属のおニャン子クラブを高いランキングに上げるわけにはいかなかったのですが、

「ちゃんと人気があってレコードも売れてるのに、出してくれないなんておかしいじゃないか! だったら私たちでもっと正しいランキングを発表しちゃおう!」

 と気勢をあげたのが他ならぬおニャン子クラブ自身だったのです。
 おニャン子クラブは自分達のレコードをリリースしてから『夕焼けニャンニャン』の中で「今週のランキング」というコーナーをもうけ、オリコンチャートだけをもとにした週間売上げランキングを発表していくという手段に出ました。

 オリコンチャート(1968年~)は、純粋に音楽ソフト売り上げ枚数のみを調査・発表していた邦楽ランキングで(レコード売上げ以外にカラオケランキングを導入したのは1994年、パソコン・着うた配信ランキングの導入は2006年から)、番組のしがらみにとらわれない「純粋な音楽ランキング」を味方に付けたかったおニャン子クラブにとってはうってつけの武器になっていたのです。

 結果として、1986~87年にアイドル界を席巻することになったおニャン子クラブを出演させることができず、かといって彼女たちにタメをはるようなフレッシュ戦力を見いだすこともできなかった(実力あるアーティストは山ほどいましたが)『ザ・ベストテン』はじょじょに勢力を失っていき、1989年に番組終了ということに。
 いっぽう、毎週毎週おもしろいようにレコードが売れていくおニャン子勢、そしてそれに大いに助力することになったオリコンチャートは旭日のいきおいで名を挙げていくこととなります。おニャン子クラブとの共闘がなかったら、あるいは現在のオリコンチャートの権威もなかったかもしれません。

 でもまぁ、『ザ・ベストテン』も災難でしたね。これはもう、一方的にケンカをふっかけられちゃったんですからねぇ。番組の内容がどうとかじゃなくてTV局どうしの都合で人気が低迷しちゃったんですから、実に無念なアクシデントでした!

 こうやって既存の勢力にうち勝つための武器をとったおニャン子クラブなのですが、やっぱり武器がどんだけ立派なものだったとしても、その武器をふるう「おニャン子クラブ」本人がへなへなだったのでは仕方ありません。
 だが、おニャン子クラブはすごかった。確かにプロのアイドル、プロの歌手としてはへなへななところもあったのですが、そのへなへなさを「柔軟性」と解釈して、次から次へと当時の若者たちを飽きさせないコンテンツを打ち出していったのです。
 これ! これがあったからこそほぼ2年間のおニャン子クラブの天下が維持されたわけなのです。もちろん、その立て役者の中でももっとも貢献したのが秋元康&後藤次利の楽曲づくりだったというわけで。

 「おニャン子クラブ」という「1つのアイドルグループ」だけで天下を2年間とり続けることは無理でした。しかも、おニャン子クラブは「アイドルっぽくないフレッシュ感」こそがウリである集団です。1グループだけでやったらあっという間に摩滅してしまうことは火を見るよりも明らか。
 そこでとられたのが、前回にもふれた「加入・卒業イベントの繰り返し」と、おニャン子クラブの中でも特に人気のあったメンバーをどんどんソロ歌手デビューさせていく作戦の両輪!
 加入・卒業イベントの話題性の豊富さは何度も言いましたが、それに加えて、主要メンバー1人1人のカラーを強くしていくソロデビュー作戦は、ファンのあいだでもあの子のファン、この子のファンというヴァリエーションの多様化をまねくことになり、1人っきりのソロアイドルにはなかなか出せないアイドルグループならではの「ファン層拡大の魅力」をいかんなく発揮させる効果をもたらしたのです。
 結果として、おニャン子クラブのシングルセールスの大ヒットに乗っかるかのようにクラブメンバーのソロシングルも軒並みオリコンチャートの上位を独占、首位をとるのもざらという「おニャン子会員にあらざるものは人気アイドルにあらず」な時代を現出せしめることとなったのです。その全盛期となった1986年の1年間では、オリコンチャートではシングル首位を獲得した46曲のうち、おニャン子クラブ関連の楽曲が30曲におよぶという盛況ぶりとなっていました。ちなみに、その年にそれらが首位をとっていた期間は52週中の36週。ひょえ~。

 でも今になってあらためて聴いてみると、

「唄ってる人がかわいいとは言え……これがいちばん売れてた当時の日本っていったい……」

 と首をかしげざるをえない曲も、ちらほら。まぁ、そんなこと言ったらおニャン子クラブにかぎった話じゃなくなっちゃうからね! そういう時代だったってことなんですな。

 そういうわけで、最終的にはおニャン子クラブは13人ものソロ歌手を生み出すことになりました。前回にふれた特に有名な9人衆も、解散後にソロデビューした生稲晃子さん以外は全員ソロ活動を並行しておこなっていたのです。
 国生さゆりさんの『バレンタイン・キッス』って、オリコン首位とってなかったのね(最高2位)。でも、今いちばん記憶に残ってるソロ楽曲って、首位をとったどれでもなくて『バレンタイン・キッス』ですよね。その時代その時代の人気って、おもしろいもんですね~!

 しかししかし、おニャン子クラブの攻勢は止まらない。おニャン子クラブ本体と各メンバーのソロ活動に加えて、とどめをさすように第3の形態としてくり出されたのが、

「ユニット活動」

 だったのです。「アイドルグループ内のアイドルグループ」とも言える「ユニット活動」はこのおニャン子クラブが史上初でした。まぁ、そんなことができる人数の余裕があったのもおニャン子クラブが史上初でしたからね。どんだけアグレッシブなんだ!

 おニャン子クラブが世に出したグループ内ユニットは、正式なもので3つありました。
 以下、ほんのデータだけ紹介させていただきますが、それに加えて、おニャン子クラブの活動末期である1987年夏に登場した「妹分的ポジション」の存在もまとめておきます。

うしろゆびさされ組(1985~87年)
 高井麻巳子(19歳)と岩井由紀子(17歳)のデュオ 代表曲『バナナの涙』(1986年)
 フジテレビのギャグアニメ『ハイスクール!奇面組』(1985~87年)にタイアップして結成された
 発表した6枚のシングル中、5枚がオリコンチャート1位になる
 高井の1987年3月での卒業(すでに在籍中の1986年からソロ活動をしていた)により解散
 高井は翌1988年まで歌手・女優として活動し秋本康と結婚して引退

ニャンギラス(1986年4~9月)4人組の史上初「色物」アイドルグループ
 発表したシングルがすべてオリコンチャート首位を獲得した史上唯一の女性アイドルグループ(キンキキッズやJフレンズなみ)
 ※まぁ、発表したシングルは2枚だけなんですけどね……
 リーダー格だった名越美香(なごや みか 20歳)のおニャン子クラブ卒業をもって解散
 名越は『風雲!たけし城』(1986~89年)に出演していたが結婚引退
 代表曲は1stシングル『私は里歌ちゃん』(メンバーでもっとも音程があやしかった立見里歌21歳がメインヴォーカルをつとめる)

うしろ髪ひかれ隊(1987~88年)「うしろゆびさされ組」の後継3人組グループ
 工藤静香(17歳)・生稲晃子(19歳)・斉藤満喜子(17歳) 代表曲『時の河を越えて』(1987年)
 うしろゆびさされ組の解散をうけて翌4月に結成され、アニメ『ハイスクール!奇面組』と続く『ついでにとんちんかん』(1987~88年)のテーマ曲を担当する
 1987年9月のおニャン子クラブ解散後も活動を続けるが、さすがに人気は失速した
 1988年5月のコンサートをもって、生稲と斉藤のソロデビューにより活動休止
 アニメ『ついでにとんちんかん』のタイアップはソロデビューした生稲晃子が後継 『麦わらでダンス』
 斉藤は1998年に結婚引退

アイドル夢工場(1987年の期間限定グループ)7人組・フジテレビ専属のアイドルグループ
 「ミスマガジン」の準グランプリ以下の受賞者で結成・おニャン子クラブの妹分 シングルは『アドベンチャー・ドリーム』のみ
 7~8月に東京・お台場と大阪・南港の2会場で開催された「コミュニケーションカーニバル‘87 夢工場」のマスコットアイドル
 夢工場イベント閉幕後の芸能活動は特になし


 はずかしながら、ここらへんなんですねェ~、やっと私そうだい自身の記憶がついてきはじめるのは!
 っていうか、残念ながらここでの私の認識は「アイドルグループおニャン子クラブの派生ユニット」じゃなくて、「アニメの歌を唄ってたおねえちゃんたち」なんですけどね。
 観てたなぁ~、『ハイスクール!奇面組』と『ついでにとんちんかん』。どっちも、天下の超人気マンガ雑誌『週刊少年ジャンプ』の当時を代表するギャグマンガだったのです。
 もちろん、その時の『ジャンプ』でいちばん人気があったのは言わずもがなの『ドラゴンボール』(Zじゃない! まだベジータもいない!)だったわけなのですが、ギャグ部門でのトップだったこの2作までをも味方につけちゃったんだなぁ、フジテレビとおニャン子クラブは。恐るべし!

 1987年、フジテレビは史上初めて、「NHKも含めた」在京TVキー局の中での視聴率トップを獲得しました。ついに民放がNHKをくだしてしまう時代がきた! 今じゃ当たり前ですけど、当時からしたら、ひとつの時代の区切りとなる大きな出来事だったのではないでしょうか。
 もちろんそれだけではないのでしょうが、おニャン子クラブの一連の大フィーバーがこの動きに大きな影響力をおよぼしたことは間違いないでしょう。

 おニャン子クラブ、天下を制す。

 しかし、ここで終わらないのがフィクションじゃない「人の歴史」ってもんなんですよね。
 さぁ~このあとどうなるおニャン子、どう動くアイドルグループ史!?

 激動の80年代後半は、まったじっかい~。
 わぁ~もう今月後半戦に入っちゃったよオイ!
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