どもどもど~も~どおも~。そうだいです。
あの、ゴールデンウィークまだ終わってなかったのね。まあいいや、どっちでも! 頭ん中がアイドルグループウィーク真っ最中の私には関係のないことです……
え~前回は、日本における本格的なアイドルグループの先駆となったキャンディーズのことをつづってみました。
さまざまな部分部分での原型はすでに出そろってはいたものの、それらすべてが一つに合体して「キャンディーズ」という結晶となったことは、まさに奇跡と言ってよい出来事だったわけです。
また、どこまで偶然でどこまでが必然だったのかは探るだけ野暮という感じがするのですが、最初から完成されていることの多いソロアイドルにはなかなか出せない「成長の過程・リアルタイムのサクセスストーリー」を思い切ってさらけだす! この未完成ささえもが、やりようによっては大きな魅力になるということをアイドルグループは発見してしまったのです。「プロらしくないグループが次第に経験をつんでいき、メンバーが互いに切磋琢磨して有名になり、大衆の喝采をあびるエンターテイナー集団になっていき、そして……解散。」まぁ~劇的なストーリー展開の連続なわけでございます。
そんなわけで、のっけからかなりポンポンと現代に通じる法則を見つけてしまったキャンディーズだったのですが、今回とりあげるのは、当時からなにかと比較されることの多かった、それでいて活動の方向性や音楽性がまったく対称的な位置にあったあの超有名すぎるデュオでございます。
その名は……ピンク・レディー!!
キャンディーズの活動期間は1972~78年でそのブームが盛り上がったのは1975~78年のこと。それにたいして、ピンク・レディーの活動期間は1976~81年で最盛期は1976~78年とされています。
ほぼカブってますねぇ。しかし、当時の世間の実感として、キャンディーズとピンク・レディーがファンの取り合いをしたり血まなこで人気を競ったりしたような印象はうすかったのではないでしょうか。
まずなんといっても、キャンディーズとピンク・レディーとではファンの性別や年齢層がまったく違っていました。同世代の異性(男の子)へのほのかな愛情を日常のなにげない行動で隠したりそこからチラリと見せたりするしぐさを見事に歌詞世界に込めていたキャンディーズ。そのファンとなるのは、むろんのことその意味を読みとることのできる同世代の男子たちでした。
しかし。ピンク・レディーに夢中になったのは、とにっかくピンク・レディーのパフォーマンス、当時のアイドルはあんまりやらなかった「押しの一手で聴く者を圧倒するパワフルなヴォーカル」、恋愛ソングのルールにとらわれない「ストーリーよりも映画的な情景・キャラクター描写のあざやかさに魂を賭けた歌詞世界」、なにはなくともテンションのあがる「テンポよくリズム感あふれる曲調」、そしてうら若い2人の娘さんが激しくガニ股になったり前後左右に揺れたりする「革新的だが思わずおぼえたくなってしまう親しみのあるダンス振り付け」、これにイチコロになった人なら全員! だったんですねぇ。
つまり、ピンク・レディーの魅力を感じ取ることに、年齢や性別という違いはあまり障害にならなかったのです。これはとんでもねぇことですよ……ある意味、アイドルデュオでありながら「アイドルのファン=若い男子」というリミッターにとらわれることのない「国民的アイドル」になることができた史上初の存在ということになります。うひょ~。
こういった戦略の結果、ピンク・レディーがどのような歴史を日本芸能史上にきざむことになったのか。ちょっと、ピンク・レディーの「ピ」の字も生まれていなかった1971年から順にたどっていくことにいたしやしょう。
時に1971年。尾崎紀世彦の『また逢う日まで』が日本レコード大賞を受賞し、その作詞を手がけた阿久悠(あく・ゆう 34歳)の名が本格的に世に出ることになります。
翌1972年に阿久は、かつて1966年にデビューシングル『こまっちゃうナ』でブレイクしたものの、「アイドル」という概念のない時代だったために「かわい子ちゃん歌手」とかたづけられて不遇をかこっていた歌手・山本リンダ(21歳)の新曲の作詞を手がけ、のちに名コンビとなる若き作曲家・都倉俊一(24歳)と初めて組んだ20thシングル『どうにもとまらない』でみごと、山本リンダの再ブレイクを呼び込むこととなります(この第2次ブームは1973年まで)。『狙いうち』もこの時期のコンビ作ですよ。まさに大人のセクシーな女性に変身したリンダさんに、当時の男性のみなさまはみんなまとめてこまっちゃったわけなんですが……まさか、のちにあれほどまでに高校球児たちの純真な汗と涙にマッチする曲になってしまおうとは。
作詞家として確固たる地位を築いた阿久に続けとばかりに、都倉俊一も1973年にデビューした山口百恵(14歳)のアイドル時代の楽曲のほとんどを担当してその才能を発揮していきました。
さてさて、前おきはそのくらいにしときまして運命の年となった1976年。
後のピンク・レディーこと未唯(18歳)と増田恵子(19歳)のデュオが、TVの公開オーディション番組『スター誕生!』で合格します。
こんなことは言わずもがなかと思うのですが、『スター誕生!』とは芸能事務所のエージェントやら音楽業界のプロやらが、全国からはせ参じた歌手・アイドル志望の素人さんの歌を聴いてスカウトできる人材かどうかをジャッジするという当時の超人気番組で、かつては「花の中3トリオ」(桜田淳子・森昌子・山口百恵)もこの番組をきっかけにデビューしており、阿久悠も都倉俊一も当然のように審査員として出演していました。
合格した2人を「歌って踊れるアイドルデュオ」として売り出すとした芸能事務所は、作詞・阿久悠と作曲・都倉俊一に加えて、一連のダンス振り付けにこれまでザ・タイガース、ザ・ピーナッツ、桜田淳子などの振り付けを手がけてきたベテラン・土居甫(はじめ 40歳)をまねき、アイドルグループどころか、「アイドル界全体」に革命的な新風を巻き起こし、さらには日本歌謡界に覇を唱えることとなる運命のアイドルデュオを誕生させます。
あとはもう、読んで字のごとく、下のと~おり。
1976年 未唯と恵子、「ピンク・レディー」として『ペッパー警部』で歌手デビュー・その他シングルは『S・O・S』
1977年 発表シングルは『カルメン‘77』、『渚のシンドバッド』、『ウォンテッド』、『UFO』
(『UFO』はアイドル初の日本レコード大賞を受賞)
1978年 発表シングルは『サウスポー』、『モンスター』、『透明人間』、『カメレオン・アーミー』
『サウスポー』がアイドル初のオリコンチャート初登場1位となる
(『S・O・S』~『カメレオン・アーミー』はオリコンチャート9曲連続首位、『ペッパー警部』からは10曲連続ミリオンセラー)
人気絶頂をむかえたが、年末のNHK『紅白歌合戦』出場辞退が物議をかもす
1979年9月 本格的にアメリカ進出(1980年5月に撤退)
1980年9月 解散宣言(夏には応援テーマを担当する予定だったモスクワオリンピックが日本不出場になったりしていた)
1981年3月 東京・後楽園球場でのラストコンサートをもって解散
2010年9月 期間限定復活でない本格的な「解散やめ!」宣言を発表(期間限定の復活はそれまで3回あった)
2011年3月 本格的に活動再開(まことに失礼ながら、2人とも50代なかばなんだぜオイ!!)
※アイドル初のシングル累計枚数1000万枚アーティスト
※オリコンチャート通算首位獲得期間63週(1年4ヶ月!)は日本記録
※アイドルグループとしては2006年11月にモーニング娘。に並ばれるまでシングル9曲連続首位はトップだった
まぁ~大変なもんですよね。
オリコンチャートでは、あのキャンディーズがチャート首位に輝いたのは『微笑(ほほえみ)がえし』のみでした。レコード売上げという観点だけからアイドルの価値を判定するわけにはいかないのですが、その点ではピンク・レディーは先輩を完全に超えることに成功したアイドルグループでした。
しかし、ファンの熱い声援に送られて去っていったキャンディーズに比べて、どうにもすわりのよくない(第1期の)終焉のむかえ方をしたように見えるのは、やはりピンク・レディーというあり方を選択してしまった必然だったのでしょうか。
まず、ピンク・レディーはデビュー時から「完成されたアイドル」としてあり続けることをみずからに課したグループでした。ピンク・レディーにしか創りだせない独自の世界を提供することに徹したために、本人達は「アイドルになっていく成長物語」といった舞台裏を見せる戦略はとらなかったのです(最近に至るまでよくある、本当の2人を描いたというふれこみの「まんがピンク・レディー物語」みたいなものはあったようですけど)。
つまり、どんなに大きなブームを巻き起こしたとしても、人々がピンク・レディーの世界に飽きた瞬間にあっというまにすべてが消え去ってしまうということ。老若男女ひっくるめての大ブームというものは、なかなか「まわりがどうなろうがオレはファンでいつづけるぞ!」というコアなファンを残さないものですよね……
もちろん、そんな空気は百も承知でネクストステージを目指して決断されたアメリカ進出だったと思うのですが、単純に日本にいるファンにとっては「ミイちゃんとケイちゃんが……なんか遠い。」という距離感しか生み出さず、お留守になった日本では「松田聖子レックス」やら「河合奈保子ザウルス」やらといった巨大ダイナソーがバッコするソロアイドル白亜紀が現出。もはやピンク・レディーの帰国を喜ぶフィーバーは起こるべくもなかったということでして……
結局、ピンク・レディーは「ピンク・レディーであること」がいちばんしっくりくるスタイルであったわけで、「海外で活躍する国際派アーティスト」であったり「しんみりした大人のバラードも唄う」といった変容はあまり2人には期待されていなかったのです。
んがっ、しかし!
あの熱い時の流れの中でピンク・レディーが巻き起こした旋風は、それを経験した人々すべての心の奥底に、そして誰よりもミイちゃんとケイちゃん2人の生きざまに大変なケミストリー(化学変化)をおよぼしてしまっていました……
もはやあの2人は、永遠にアイドルであり続けるというのか。
正直な話、10代の現役アイドルグループが栄華をほこっている2011年に「ピンク・レディー本格復活!」との報を聞いた時には「カンベンしてよ……」と思ってしまったのですが、今現在でも元気いっぱいに、ひょっとしたら20代のころよりも完璧に『カメレオン・アーミー』(振り付けが最難!)をおどれている2人と、なんといっても子どものような表情にかえってそれに熱狂するお父さんお母さんがたくさんいる光景には圧倒されてしまいます。いやぁ、こういう形での時間の超越を見ちゃうと無条件に感動しちゃうなぁ。
こうして、1970年代なかばに誕生した「アイドルグループ」というジャンルは、早くも第2のスター「ピンク・レディー」の圧倒的ブームによって「ソロアイドル」を喰いまくり日本歌謡界さえも呑み込んでしまう恐るべきポテンシャルを発揮してしまいました。
さぁ~、そんなピンク・レディーの(いったんの)終焉とともに幕を開けた次世代・1980年代。これからのアイドルグループはどうなっていくというのか。
その前に整理しておくと、1970年代はアイドルグループに関していえば、まさに「キャンディーズ型」と「ピンク・レディー型」のどっちかを選択したフォロワー(ぶっちゃけ……まねっこ?)しか生存を許されていないようなまだまだ未開発な状態でした。
しっかしまぁ、雨後の竹の子のように似たような3人組かデュオがワンサカ出る出る!
ただはっきり言って、どの1組として「本家」を超えることはできませんでした。オリジナリティは大事よ。
すべてを挙げるわけにはいかないのですが、いちおう最低限おさえておくべきそれぞれのフォロワーを紹介させていただきましょう。
・キャッツ★アイ(1977~78年)ピンク・レディーの亜流デュオ
2人とも19歳 かたわれが失踪したため活動休止 アイドルグループ史上初のパンチラ衣装路線 デビュー曲『アバンチュール』
・トライアングル(1978~80年)3人組 キャンディーズの正式な後継グループ(解散宣言後の本家と一緒に活動)
活動初期のグループ名はまんま「キャンディーズJr」
のちにメンバーの小森みちこが1983年に日活ロマンポルノに主演 デビュー曲『トライアングル・ラブレター』
まぁ、こういった感じでアイドルグループの1970年代は過ぎ去っていったのでした。
80年代はどうなっていくのかな!? 相手のソロアイドルも強敵ぞろいですぞ~!!
次回は1980年代前期のアイドルグループのもようにうつっていきたいと思いま~す。
セーラー服までには……たぶん、行けない!
あの、ゴールデンウィークまだ終わってなかったのね。まあいいや、どっちでも! 頭ん中がアイドルグループウィーク真っ最中の私には関係のないことです……
え~前回は、日本における本格的なアイドルグループの先駆となったキャンディーズのことをつづってみました。
さまざまな部分部分での原型はすでに出そろってはいたものの、それらすべてが一つに合体して「キャンディーズ」という結晶となったことは、まさに奇跡と言ってよい出来事だったわけです。
また、どこまで偶然でどこまでが必然だったのかは探るだけ野暮という感じがするのですが、最初から完成されていることの多いソロアイドルにはなかなか出せない「成長の過程・リアルタイムのサクセスストーリー」を思い切ってさらけだす! この未完成ささえもが、やりようによっては大きな魅力になるということをアイドルグループは発見してしまったのです。「プロらしくないグループが次第に経験をつんでいき、メンバーが互いに切磋琢磨して有名になり、大衆の喝采をあびるエンターテイナー集団になっていき、そして……解散。」まぁ~劇的なストーリー展開の連続なわけでございます。
そんなわけで、のっけからかなりポンポンと現代に通じる法則を見つけてしまったキャンディーズだったのですが、今回とりあげるのは、当時からなにかと比較されることの多かった、それでいて活動の方向性や音楽性がまったく対称的な位置にあったあの超有名すぎるデュオでございます。
その名は……ピンク・レディー!!
キャンディーズの活動期間は1972~78年でそのブームが盛り上がったのは1975~78年のこと。それにたいして、ピンク・レディーの活動期間は1976~81年で最盛期は1976~78年とされています。
ほぼカブってますねぇ。しかし、当時の世間の実感として、キャンディーズとピンク・レディーがファンの取り合いをしたり血まなこで人気を競ったりしたような印象はうすかったのではないでしょうか。
まずなんといっても、キャンディーズとピンク・レディーとではファンの性別や年齢層がまったく違っていました。同世代の異性(男の子)へのほのかな愛情を日常のなにげない行動で隠したりそこからチラリと見せたりするしぐさを見事に歌詞世界に込めていたキャンディーズ。そのファンとなるのは、むろんのことその意味を読みとることのできる同世代の男子たちでした。
しかし。ピンク・レディーに夢中になったのは、とにっかくピンク・レディーのパフォーマンス、当時のアイドルはあんまりやらなかった「押しの一手で聴く者を圧倒するパワフルなヴォーカル」、恋愛ソングのルールにとらわれない「ストーリーよりも映画的な情景・キャラクター描写のあざやかさに魂を賭けた歌詞世界」、なにはなくともテンションのあがる「テンポよくリズム感あふれる曲調」、そしてうら若い2人の娘さんが激しくガニ股になったり前後左右に揺れたりする「革新的だが思わずおぼえたくなってしまう親しみのあるダンス振り付け」、これにイチコロになった人なら全員! だったんですねぇ。
つまり、ピンク・レディーの魅力を感じ取ることに、年齢や性別という違いはあまり障害にならなかったのです。これはとんでもねぇことですよ……ある意味、アイドルデュオでありながら「アイドルのファン=若い男子」というリミッターにとらわれることのない「国民的アイドル」になることができた史上初の存在ということになります。うひょ~。
こういった戦略の結果、ピンク・レディーがどのような歴史を日本芸能史上にきざむことになったのか。ちょっと、ピンク・レディーの「ピ」の字も生まれていなかった1971年から順にたどっていくことにいたしやしょう。
時に1971年。尾崎紀世彦の『また逢う日まで』が日本レコード大賞を受賞し、その作詞を手がけた阿久悠(あく・ゆう 34歳)の名が本格的に世に出ることになります。
翌1972年に阿久は、かつて1966年にデビューシングル『こまっちゃうナ』でブレイクしたものの、「アイドル」という概念のない時代だったために「かわい子ちゃん歌手」とかたづけられて不遇をかこっていた歌手・山本リンダ(21歳)の新曲の作詞を手がけ、のちに名コンビとなる若き作曲家・都倉俊一(24歳)と初めて組んだ20thシングル『どうにもとまらない』でみごと、山本リンダの再ブレイクを呼び込むこととなります(この第2次ブームは1973年まで)。『狙いうち』もこの時期のコンビ作ですよ。まさに大人のセクシーな女性に変身したリンダさんに、当時の男性のみなさまはみんなまとめてこまっちゃったわけなんですが……まさか、のちにあれほどまでに高校球児たちの純真な汗と涙にマッチする曲になってしまおうとは。
作詞家として確固たる地位を築いた阿久に続けとばかりに、都倉俊一も1973年にデビューした山口百恵(14歳)のアイドル時代の楽曲のほとんどを担当してその才能を発揮していきました。
さてさて、前おきはそのくらいにしときまして運命の年となった1976年。
後のピンク・レディーこと未唯(18歳)と増田恵子(19歳)のデュオが、TVの公開オーディション番組『スター誕生!』で合格します。
こんなことは言わずもがなかと思うのですが、『スター誕生!』とは芸能事務所のエージェントやら音楽業界のプロやらが、全国からはせ参じた歌手・アイドル志望の素人さんの歌を聴いてスカウトできる人材かどうかをジャッジするという当時の超人気番組で、かつては「花の中3トリオ」(桜田淳子・森昌子・山口百恵)もこの番組をきっかけにデビューしており、阿久悠も都倉俊一も当然のように審査員として出演していました。
合格した2人を「歌って踊れるアイドルデュオ」として売り出すとした芸能事務所は、作詞・阿久悠と作曲・都倉俊一に加えて、一連のダンス振り付けにこれまでザ・タイガース、ザ・ピーナッツ、桜田淳子などの振り付けを手がけてきたベテラン・土居甫(はじめ 40歳)をまねき、アイドルグループどころか、「アイドル界全体」に革命的な新風を巻き起こし、さらには日本歌謡界に覇を唱えることとなる運命のアイドルデュオを誕生させます。
あとはもう、読んで字のごとく、下のと~おり。
1976年 未唯と恵子、「ピンク・レディー」として『ペッパー警部』で歌手デビュー・その他シングルは『S・O・S』
1977年 発表シングルは『カルメン‘77』、『渚のシンドバッド』、『ウォンテッド』、『UFO』
(『UFO』はアイドル初の日本レコード大賞を受賞)
1978年 発表シングルは『サウスポー』、『モンスター』、『透明人間』、『カメレオン・アーミー』
『サウスポー』がアイドル初のオリコンチャート初登場1位となる
(『S・O・S』~『カメレオン・アーミー』はオリコンチャート9曲連続首位、『ペッパー警部』からは10曲連続ミリオンセラー)
人気絶頂をむかえたが、年末のNHK『紅白歌合戦』出場辞退が物議をかもす
1979年9月 本格的にアメリカ進出(1980年5月に撤退)
1980年9月 解散宣言(夏には応援テーマを担当する予定だったモスクワオリンピックが日本不出場になったりしていた)
1981年3月 東京・後楽園球場でのラストコンサートをもって解散
2010年9月 期間限定復活でない本格的な「解散やめ!」宣言を発表(期間限定の復活はそれまで3回あった)
2011年3月 本格的に活動再開(まことに失礼ながら、2人とも50代なかばなんだぜオイ!!)
※アイドル初のシングル累計枚数1000万枚アーティスト
※オリコンチャート通算首位獲得期間63週(1年4ヶ月!)は日本記録
※アイドルグループとしては2006年11月にモーニング娘。に並ばれるまでシングル9曲連続首位はトップだった
まぁ~大変なもんですよね。
オリコンチャートでは、あのキャンディーズがチャート首位に輝いたのは『微笑(ほほえみ)がえし』のみでした。レコード売上げという観点だけからアイドルの価値を判定するわけにはいかないのですが、その点ではピンク・レディーは先輩を完全に超えることに成功したアイドルグループでした。
しかし、ファンの熱い声援に送られて去っていったキャンディーズに比べて、どうにもすわりのよくない(第1期の)終焉のむかえ方をしたように見えるのは、やはりピンク・レディーというあり方を選択してしまった必然だったのでしょうか。
まず、ピンク・レディーはデビュー時から「完成されたアイドル」としてあり続けることをみずからに課したグループでした。ピンク・レディーにしか創りだせない独自の世界を提供することに徹したために、本人達は「アイドルになっていく成長物語」といった舞台裏を見せる戦略はとらなかったのです(最近に至るまでよくある、本当の2人を描いたというふれこみの「まんがピンク・レディー物語」みたいなものはあったようですけど)。
つまり、どんなに大きなブームを巻き起こしたとしても、人々がピンク・レディーの世界に飽きた瞬間にあっというまにすべてが消え去ってしまうということ。老若男女ひっくるめての大ブームというものは、なかなか「まわりがどうなろうがオレはファンでいつづけるぞ!」というコアなファンを残さないものですよね……
もちろん、そんな空気は百も承知でネクストステージを目指して決断されたアメリカ進出だったと思うのですが、単純に日本にいるファンにとっては「ミイちゃんとケイちゃんが……なんか遠い。」という距離感しか生み出さず、お留守になった日本では「松田聖子レックス」やら「河合奈保子ザウルス」やらといった巨大ダイナソーがバッコするソロアイドル白亜紀が現出。もはやピンク・レディーの帰国を喜ぶフィーバーは起こるべくもなかったということでして……
結局、ピンク・レディーは「ピンク・レディーであること」がいちばんしっくりくるスタイルであったわけで、「海外で活躍する国際派アーティスト」であったり「しんみりした大人のバラードも唄う」といった変容はあまり2人には期待されていなかったのです。
んがっ、しかし!
あの熱い時の流れの中でピンク・レディーが巻き起こした旋風は、それを経験した人々すべての心の奥底に、そして誰よりもミイちゃんとケイちゃん2人の生きざまに大変なケミストリー(化学変化)をおよぼしてしまっていました……
もはやあの2人は、永遠にアイドルであり続けるというのか。
正直な話、10代の現役アイドルグループが栄華をほこっている2011年に「ピンク・レディー本格復活!」との報を聞いた時には「カンベンしてよ……」と思ってしまったのですが、今現在でも元気いっぱいに、ひょっとしたら20代のころよりも完璧に『カメレオン・アーミー』(振り付けが最難!)をおどれている2人と、なんといっても子どものような表情にかえってそれに熱狂するお父さんお母さんがたくさんいる光景には圧倒されてしまいます。いやぁ、こういう形での時間の超越を見ちゃうと無条件に感動しちゃうなぁ。
こうして、1970年代なかばに誕生した「アイドルグループ」というジャンルは、早くも第2のスター「ピンク・レディー」の圧倒的ブームによって「ソロアイドル」を喰いまくり日本歌謡界さえも呑み込んでしまう恐るべきポテンシャルを発揮してしまいました。
さぁ~、そんなピンク・レディーの(いったんの)終焉とともに幕を開けた次世代・1980年代。これからのアイドルグループはどうなっていくというのか。
その前に整理しておくと、1970年代はアイドルグループに関していえば、まさに「キャンディーズ型」と「ピンク・レディー型」のどっちかを選択したフォロワー(ぶっちゃけ……まねっこ?)しか生存を許されていないようなまだまだ未開発な状態でした。
しっかしまぁ、雨後の竹の子のように似たような3人組かデュオがワンサカ出る出る!
ただはっきり言って、どの1組として「本家」を超えることはできませんでした。オリジナリティは大事よ。
すべてを挙げるわけにはいかないのですが、いちおう最低限おさえておくべきそれぞれのフォロワーを紹介させていただきましょう。
・キャッツ★アイ(1977~78年)ピンク・レディーの亜流デュオ
2人とも19歳 かたわれが失踪したため活動休止 アイドルグループ史上初のパンチラ衣装路線 デビュー曲『アバンチュール』
・トライアングル(1978~80年)3人組 キャンディーズの正式な後継グループ(解散宣言後の本家と一緒に活動)
活動初期のグループ名はまんま「キャンディーズJr」
のちにメンバーの小森みちこが1983年に日活ロマンポルノに主演 デビュー曲『トライアングル・ラブレター』
まぁ、こういった感じでアイドルグループの1970年代は過ぎ去っていったのでした。
80年代はどうなっていくのかな!? 相手のソロアイドルも強敵ぞろいですぞ~!!
次回は1980年代前期のアイドルグループのもようにうつっていきたいと思いま~す。
セーラー服までには……たぶん、行けない!