長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第6回 『しろうと革命おニャン子クラブ』

2011年05月13日 23時05分04秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 みなさん、どうもこんばんは~。

 最近、自分のふともものふとさが右と左とでちがっているような気がしてならないそうだいに応援のお便りを送ろう!
 ※募集は終了いたしました


 前回にもふれたように、1983年という年は「モモコクラブ」という大人数のアイドル(の卵)をまとめあげるシステムを発明したアイドルグラビア雑誌『Momoco』が創刊された重要な年だったのですが(11月)、くしくも同じ年の4月、のちの「おニャン子クラブブーム」の誕生を考えるうえでモモコクラブ以上に大切な役割をになうこととなる伝説の深夜番組が放送を開始しました。

 それが、フジテレビで毎週土曜日の深夜0:45~3:30ぐらいに放送していたお色気情報バラエティ番組『オールナイトフジ』です。
 この番組は本当になにからなにまで伝説ずくめといった感じで、放送時間帯に「ぐらい」とあるように、番組の終了時間が「あんまりはっきり決まっていない」という異例の生放送番組でした。資料によると、どうやら最長では夜明けの5:30まで放送していたこともあるらしく、その時は日曜日早朝の番組を編成していたスタッフさんにかなり注意されたそうです。
 若き日の片岡鶴太郎、とんねるず、ウッチャンナンチャン、松村邦洋らといった、のちの「東京お笑い界」の看板となっていくみなさんが大暴れしていたことでも有名で、1983~91年にかけて放送された全404回の平均視聴率は3.5%で最高7.2%! 深夜番組ですよ!? ところでみなさん、片岡鶴太郎さんがかなりイケイケのお笑い芸人だったってこと、知らない人はいません……よね?
 バラエティ番組としての伝説エピソードは、1984年に発生した笑福亭鶴光のさしがねによる当時アイドルだった松本明子(18歳)の「おではじまる4文字発言事件」や、翌85年に発生したとんねるず石橋貴明(24歳)の「1500万円のTVカメラをノリで破壊事件」などが特に有名です。
 深夜番組とはいえ、これらの事件は松本さんのバラドル転向のきっかけとなったり、とんねるずの「危険でおもしろい兄ちゃん2人組」というイメージを決定づけたりと、『オールナイトフジ』の世間への影響力は絶大なものがあったのです。
 そういった破天荒な部分もありつつも、この『オールナイトフジ』は、「女子大生ブーム」の仕掛け役といった側面も持ち合わせていました。ここが大事なとこなんだ!

 番組では「お色気要員」として、常に10~20名のしろうと現役女子大生(短大生も含む)を番組アシスタントとしてスタジオにまねいており、彼女たちを「オールナイターズ」というグループとしてあつかっていました。
 基本的には完全なド素人だったオールナイターズなのですが、番組の中では全員レオタード姿になってダンスを披露したり、アダルトビデオの紹介コーナーを恥ずかしがりながら進行したりしてお色気パートを積極的に担当しており、まったく場慣れしていない、しかもある程度の知的教養のある娘さん達が本気で恥ずかしがりながら番組を進行していく姿は、プロのタレントさんには出せないおもしろさやいやらしさがあって番組の人気を大いに底上げしていくこととなりました。まさに、TVにあえて「しろうとさん」を出演させることの良さを最大限に利用したわけだったのです。

 そんなこともあって、しろうとだったはずのオールナイターズはみるみるうちに視聴者(もちろん同年代の男性がメイン)の人気を集めていき、『オールナイトフジ』が生放送される土曜日にはフジテレビ社屋(当時は新宿・河田町)の外に出待ちのファンが詰め寄せるといった状況になっていました。
 当時のオールナイターズと番組のフィーバーぶりを物語るものとして有名なのが1983年の「池袋サンシャインシティ生中継事件」で、サンシャインシティ噴水広場に仮設された会場からの中継となった回には、ビートたけしなどの大物ゲストが出演していたこともあって深夜にもかかわらずなんと約1万人ものファンが大集結するという事態になってしまい、観客と番組側とのあいだで乱闘が起きたりオールナイターズが移動時にもみくちゃにされたりと現場は大混乱に。結局、スタジオ以外の場所から『オールナイトフジ』が放送されたのは後にも先にもこの回だけとなってしまいました。

 こういった「女子大生ブーム」にのっからない手はない! とばかりに1984年に番組の中から結成されたのが、オールナイターズからの選抜3人組アイドルグループ「おかわりシスターズ」でした。
 片岡鶴太郎の命名によるなんとも不思議なグループ名なのですが、楽曲や3人のキャラクターはいたってオーソドックスな正統派アイドルグループ路線。もともとが20~21歳の女子大生であるということもあってか、番組のボルテージや若さはあまりひきずっていないまさに「シスターズ」といった感じの3人組でした。
 余談ですが、私はこのおかわりシスターズの中でも特に人気のあった山崎美貴さんの出演していた舞台を偶然にも去年拝見しており、その時には美人だなぁとは思っていたもののまさか元アイドルだったとはつゆしらず。そのお芝居では落ち着いたあたたかみのある役柄を好演していらっしゃいました。
 
 こうして自前のアイドルグループを持つ程までに発展した『オールナイトフジ』だったのですが、あまりの人気番組ぶりになんと国会から「待った」がかかってしまいます。
 お達しの内容は例によって「青少年への悪影響をおよぼす番組づくりはいかがなものか。」というもので、この論議が持ち上がったのは1985年のはじめだったのですが、その年の3月いっぱいをもって『オールナイトフジ』の番組内容はお色気要素をいっさい廃した「健全なバラエティ番組」に路線変更していきます。
 『オールナイトフジ』自体はその後も1991年まで人気深夜番組として存続してゆき、オールナイターズの設定もいちおうアシスタントとして残っていくこととなるのですが、「アイドルグループ史」に重要な足跡を残した番組としての『オールナイトフジ』はこの1985年3月をもって幕引きとなっており、おかわりシスターズも同じ3月に東京・厚生年金会館でおこなわれたコンサートをもって涙の解散とあいなっています。約1年間の活動期間の中でおかわりシスターズがリリースしたシングルは4枚でした。ほんとにいっぱしのアイドルグループだったわけですよ。

 だが、しっかし!!

 ここまでの大人気となった『オールナイトフジ』の遺産をおいそれと手放すわけにはいかない……

 『オールナイトフジ』と、それを世に問うたフジテレビが開いてしまったパンドラの箱。それは「しろうとっぽい肩の力をぬいた軽さ」!
 1980年代前半、まだNHKには負けていたものの、視聴率で民放キー局5社中トップとなっていたフジテレビが標榜したキャッチフレーズは、

「軽チャー路線」!!

 うわ~、もうこれ、まんま1980年代っぽいですよね! まさにポップ、まさにI☆I☆KA☆N☆JI。ひえ~。

 要するに、部屋のすみっこにあることが当たり前になってきたTVを観る人が要求しているものが、わざわざ入場料を払って映画やコンサートを観る人のそれと本質的に違うということを初めて意識したのが、この時代の番組づくりだったんじゃないかと私は思うんですね。
 真剣な人々の注目に耐えうる姿を見せつけるプロフェッショナルな仕事よりも、だら~んと寝そべり、「この子とデートしてぇなぁ~。」や「こいつバカだなぁ~。」などとつぶやきながらTVを観ることを許してくれるスキありまくりのしろうと芸!
 もちろん、とんねるずや当時のフジテレビの看板バラエティ番組『オレたちひょうきん族』(1981~89年)でメインをはっていた多くの芸人さんの現在を見ていただいてもわかるように、最終的に生き残るのは「しろうと芸のように見える仕事もできる周到なプロフェッショナル」だったわけなのですが、とにかく当時は視聴者にとって距離感がほぼない「近所のかわいい女の子」や「近所のおもしろいおじさん、お兄さん」のかもしだすアドリブっぽい空気感がもてはやされる時代だったのです。

 実際、『オールナイトフジ』で導入されたスタジオ演出に「フロアサブ」といったものがありました。
 これは簡単に言ってしまうと「TV画面にたまに映りこむことを計算に入れてあえてスタジオのすみに設営された番組調整ブース」のことです。
 本来TVに映ってはいけないはずの、スタジオにいるタレントにCM指示を出したり時間進行を調整したりするスタッフがなぜわざわざスタジオのカメラ近くにたむろしているのか? しかも、『オールナイトフジ』だって本当に番組の進行をコントロールしていたのは、他の番組と同じようにスタジオとは離れた場所にある「調整室」のスタッフだったというのに?
 これこそまさにプロが考案した「しろうとっぽいグダグダ感」をだす演出の最たるもので、タレントの発言に同じスタジオでワハハと笑うスタッフの声がまじったり、逆にタレントのほうが裏方であるはずのスタッフのことを堂々と番組でイジったりする。画面には生放送の進行上でのトラブルにおたおたするスタッフ、カンペを出すスタッフが映ったりする、つまりはスタッフまでをもひっくるめて「番組の出演者」とすることで、これまでの堅苦しい「節度をわきまえた各方面のプロたちによる番組を提供しております。」というスタイルから脱却した(ように見える)エンタテインメントの新境地を開拓したわけなのです。

 とにかくまぁ、今まで日本のTV界に築かれていた「お上品さ」や「格式」といった堅苦しいパッケージを徹底的に解除し徹底的に笑うというのが1980年代に時代を象徴する「軽さ」を構築したフジテレビの戦法だったのです。
 これをお笑いの世界で後押ししたのが『オレたちひょうきん族』で、これまでザ・ドリフターズが確立してきた「作り込まれたコント」覇権にいどんでいった闘いの歴史はつとに有名です。

 そして! この風潮の「アイドル」方面軍の総司令を担当したのがなにをかくそう「おニャン子クラブ」であり、それを世に送り出したのが、毎週平日夕方5時から1時間放送していたアイドルバラエティ番組『夕焼けニャンニャン』だったというわけなのです。
 きた! やっと来ました、おニャン子クラブ。

 おニャン子クラブとはなにか? これはもう、パパッと言ってしまえば「オールナイターズ」の「女子高生ヴァージョン」です。
 1985年のはじめに『オールナイトフジ』が「お色気路線」を維持できなくなることが決定的となったとき、番組スタッフは盛り上がっていた「女子大生ブーム」を引き継ぐ次なるブームの担い手として、そこからちょっと低年齢化した中高生をターゲットにした、女子高生のしろうとアイドルをプロデュースする計画にうつることとなりました。
 迅速な行動力を発揮した『オールナイトフジ』スタッフは、その年の2月からオールナイターズやタレント志望の女の子たちの中からメンバーを選抜して、本放送から離れた夕方の時間帯に『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』という特別番組を2回ほど単発で放送、「イケる!」という確信を得た末に、4月1日から現役女子高生アイドルグループの結成を目的にすえたオーディションバラエティ番組『夕焼けニャンニャン』の放送を開始したのです。うおお~!

 とまぁこういった感じで、「おニャン子クラブ」というアイドルグループは、『オールナイトフジ』のオールナイターズのシステムをそのまま継承しそれをさらに発展・拡大させたフジテレビ肝いりの企画だったわけなのです。
 まさに、これまでのアイドルグループの歴史においては存在しなかった「TV局専属」にして「しろうと感がウリ」というダブルの、いやさ、「メンバーが3人や4人にとどまらない大所帯」というトリプルの意味で新しいグループが誕生することとなったわけなのです。

 このように、あくまでもおニャン子クラブというシステムはフジテレビという会社が戦略的にプロデュースしたものであったのですが、その中でも特に「おニャン子クラブの生みの親」と言われるようになったのが、『オールナイトフジ』と『夕焼けニャンニャン』の放送作家にしておニャン子クラブのほとんどの楽曲の作詞も手がけていた「放送業界の鮫」の異名をとる男・秋元康でした。秋元さん、1985年時点ではまだまだ若い29歳。やるわねェ~!
 なんとまぁ高校生時代からすでに放送作家としてのキャリアをスタートさせていたという秋元さんは一方で1981年から作詞家としての活躍も始めており、早くも翌1982年には稲垣潤一の初期の代表作とも言われる『ドラマティック・レイン』(「どら~まてぃ~~~~~~~っっっく……れいん!」のやつ)の作詞を手がけて名をなしていました。本人も語るように、決して秋元さんのみの単独プロデュースであるわけではないおニャン子クラブだったのですが、番組づくりや楽曲といったさまざまな面でこの若きカリスマが圧倒的貢献をみせていたことは間違いないでしょう。

 そして、もう1人「おニャン子クラブブームの仕掛け人」として忘れてならないのが、おニャン子クラブのほとんどの楽曲で秋元作詞とタッグを組んでいた作曲家の後藤次利(つぐとし)です。
 彼も大学生時代から若くしてプロのミュージシャンたちのツアーやレコーディングに参加するベーシストとして活躍しており、作曲家としての活動を始めるのは30代になったばかりの1983年ごろから。3人組アイドルグループの「ソフトクリーム」や「おかわりシスターズ」の楽曲のほとんどを作曲しており、有名なところではあの「一世風靡セピア」の作曲もやっていました。そいやっそいやっ!!

 秋元康と後藤次利という80年代を代表する黄金タッグ。1985年4月の『夕焼けニャンニャン』放映開始をきっかけに幕を開ける史上最大の「しろうと大革命」を巻き起こした両巨頭としておおいに記憶されるべき存在です。
 (ちなみに、おニャン子クラブの先輩にあたるおかわりシスターズのA面楽曲の作詞は秋元さんではありません。)
 まぁ、そうでなくても2人はファンのみなさんのあいだでは「おニャン子クラブの主要メンバーを嫁さんにしている人」という、忘れようにも忘れられない共通項があるわけなんですけどね! 2人ともホントにやるわねェ~!!


 ということで、具体的におニャン子クラブがどんな革命を80年代のアイドル界とTV界にもたらしたのかは、字数がかさんできたのでまた次回でございます!
 ひっぱるねぇ~。でもこれだけ大事だということなんですよ、おニャン子クラブ。みなさまには、がんばってもちっとだけおつきあいいただきたいと……

 この「アイドルグループ史」、今月中に2011年までには行きそうに……ない、かナ~!?
 続くよね~!!

コメント (2)
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