んど~ぉもっ、そうだいです。
ドわたくしごとで恐縮なのですが、今日は弟の大学入学式があったようです。ゴールデンウィークがあけてからやっと大学に入学するなんてねぇ。とてつもない年に大学生になったもんですよ。
ちょっと、「おめでと~う。」なんて言いながら気楽にあいさつに行ける距離ではなかったので私は電話ですませたのですが、ぜひとも弟なりのおもしろおかしいみのりある4年間をおくっていただきたいものです。
弟よ、なにか困ったことがあったらなんでも聞いてちょうだい。なんの役に立つかはわかんないけどできるかぎりのアドバイスはするよ。こんな外道な兄で申し訳ないが、遊びに行った時はなんか料理つくって!
そりゃ外道ですよ……こんな大変な時代なのに、30年前の時代のことばっか考えてるんですからね。「道を外れている」という以外にいったいどんな表現があたるというのでしょうか。
とかなんとか言っておきながら、平然と「アイドルグループ史」を続けていくというこの人生オフロード車っぷり。
道なんてものは自分の前にはない。自分のうしろにできてるものだけが道なんだ。
ひあ~もうコレ絶対に誰か先に言ってるよ! はずかし~。
あ、さて。
前回までは1970年代のアイドルグループ、っていうかキャンディーズとピンク・レディーの両巨頭を中心につづってきたわけなのですが、いよいよ今回からは次なる1980年代に入っていきたいと思います。私そうだいが生まれた年代ですよ~。
そして! 1980年代のアイドルグループといえば。もう間違いなく「せーえーらっ、ふっくっおっ!」のあのクラブを抜きにして語ることはできないでしょう。
2011年現在に「この世をば 我が世とぞおもふ もち月の……」とみずからの全盛を謳歌しているAKB48の直接の原型とも言えるようなこのクラブなんですが、80年代に入ったからといってすぐここにとりかかるわけにはいかないんだなぁ。
かのクラブが結成されたのは1985年のことなのですが、ピンク・レディーの(その覇業のわりには)静かな退場があった1981年からその時期までの4~5年のあいだにも、アイドルグループというジャンルの絶え間ない歩みは続いていたのです。
結果として、みなさんもご存じの通り1980年代のアイドルグループの成果は「おニャン子クラブ」に結実していくわけなんですけども、この流れも80年代前半のさまざまな試行錯誤があった末に生き残った1形態がそれだったということなのであって、決して「あっ、コレだ!」という感じで突然変異のように1985年におニャン子クラブが誕生したのではなかったということなんですね。
っつうことで、今回は1980年代前半、85年のおニャン子クラブ結成にいたるまでに「アイドルグループ」の世界で繰り広げられたさまざまなこころみの内のいくつかを追ってみたいと思います。
そういえば、1970年代に現れては消えていった無数のフォロワーグループたちを見ても思ったんですけど、こうやってわたくしごとき馬の骨が3~40年たった未来から見渡してる記録って、当時に起こったことのほん~の! ごく一部でしかないのよねぇ。まさに歳月の経過というものを感じてしまいますね。
1980年代前半。
かつて史上空前の国民的ブームを巻き起こしたアイドルグループ(デュオ)「ピンク・レディー」は、前回にもふれたように1979年の後半から活動の場所をアメリカに移しており、その間隙をつくかのように、翌1980年からはかつてない規模でのソロアイドルブームが幕を開けることとなりました。
まず先陣をきったのは、1980年の松田聖子(18歳)と河合奈保子(17歳)! でっけぇな~、しょっぱなから。
1980年はいろんなことがあったねぇ。まず松田さんは1月のラジオ出演が初仕事となっており歌手としてデビューしたのは4月のこと。河合さんは「西城秀樹の妹オーディション」に合格し6月に歌手デビューしました。
そしてその一方では、3月に俳優・三浦友和との婚約を正式に発表したあの山口百恵サマ(21歳)が、もはや伝説となった感のある10月の東京・日本武道館でのファイナルコンサートをもって芸能界を去っていきます。ピンク・レディーの翌年解散が発表されたのは、その直前の9月のことでした。
まぁ、百恵サマは1976年にあの阿木燿子・宇崎竜童夫妻の手がけた諸作を発表し始めたころからすでに「アイドル」ではない「山口百恵」というジャンルの唯一無二の体現者にメタモルフォーゼしてしまっていたわけなのですが、1980年はまさに、ある時代の終わりと新しい時代の幕開けをヴィヴィッドに伝えるアニバーサリーなイヤーとなったのです。私、ここの文章だけなんかルー大柴さんみたいになっちったね。
それから、次にアイドルの歴史を語る上で欠かせない年はというと、やあっぱり! 1982年ですよね。
まずはなんと言っても、中森明菜(17歳)、堀ちえみ(15歳)、松本伊代(16歳)、小泉今日子(16歳)らといった「花の82年組」と呼ばれるソロアイドルのみなさまがデビューしたという重要な意味合いがあります。
言わずもがなですが、今わたしが挙げた名前は、「花の82年組」の方々のほんとにごく一部でございます! キョンキョン殿下がブレイクするのはもうしばらくしてからなのですが、多くの方々はデビュー当初から次のアイドル界のトップをになうホープであるとして大いに注目をあびていました。
重要なのは、単純に1970年代にくらべて男女ともにアイドルの人数が思いっきり増加した(男はたのきんトリオとかシブがき隊とか)。そのことによって、世の同年代の中高生達が大いに感情移入できる「ヴァーチャル恋愛学校」がTVの世界に形づくられていたことです。
つまり、自分達の現実のクラスが鏡にうつっているかのようにTVの中のアイドル達を見る、そのことによって自分に似たアイドルを探したり友だちに似たアイドルを探したり、はたまた自分の好きなあの子に似たアイドルを探したりしてワイワイ楽しむという虚構のエンターテインメントができるほど、男女ふくめた「アイドル」の世界が拡大していった、ということに他なりません。まさにそれは、かつての日本芸能界にはなかった娯楽の提供でした。アイドルはもしその歌声や芸につたなさがあったとしても、それを十二分におぎなってあまりある「視聴者の美化されたアバター」という魅力を持つことになったのです。
といっても、っつうか、だからこそ、アイドル1人1人の「生身の人間としての現実の」恋愛沙汰は余計な邪魔でしかなかったんでしょうね。因果な商売だよ……
ま、とにかくおぼえておきたいのは、あるアイドルとあるアイドルの人気争いという構図だけでない、そういうひとつのコミュニティのようなふところの深さを持った「アイドル界」ができあがったということは、デュオやトリオ以上の人数規模を持ったアイドルグループが誕生するのももはや時間の問題だったということなんですな。
学生時代のクラス規模でいちがんとなってやる学園祭の準備とかって、一種異様な高揚感がありましたよね。あのへんの時空魔力がブラウン管(表現が古い)から全国に解き放たれる時が来たんです。ビューティフルドリーマーですよ、まさに。
話の流れがおニャン子クラブよりになってしまいましたが、また時間を戻します。
「おニャン子」以前のアイドルグループの模索を見る上でも1982年近辺は見るべき部分が多くありますので、ちょっと時系列でならべてみましょう。
1981年
10月 田原俊彦の妹役でTV出演していた松本伊代(16歳)が、『センチメンタル・ジャーニー』で歌手デビュー
※1981年のデビューだが、当時の日本レコード大賞などでの新人歌手の選定が「9月」で区切られていたため、翌1982年に各新人賞を獲得
同月 渡辺プロダクション・スクールメイツから抜擢された女性2人組(17・19歳)がその松本伊代のバックヴォーカルをつとめ、のちに「キャプテン」というユニット名を持つこととなる
※キャプテンと命名したのは当時の松本さんのマネージャーで、理由はキャンディーズにあやかって「キャ」ではじまる名前にしたかったかららしい
1982年
3月 堀ちえみ(15歳)、小泉今日子(16歳)、デビュー
5月 中森明菜(17歳)、デビュー
同月 ヤマハ・ポピュラーソングコンテストで、名古屋在住の現役大学生デュオ(のちの「あみん」)が『待つわ』でグランプリ獲得
7月 あみん、『待つわ』でデビューし同曲が1982年最大のヒットを記録する
同月 伝説中の伝説テクノアイドルグループ「スターボー」が『ハートブレイク太陽族』でデビューするが、商業的にはほぼ黙殺
12月 大人気バラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の中で結成された企画ユニット「わらべ」のデビュー曲『めだかの兄妹』がリリースされる
同月 3人組アイドルグループ「ソフトクリーム」がデビューする
1983年
2月 スターボー、1stシングルでのテクノ路線をきれいさっぱり消して普通のぶりっこアイドル路線としての2ndシングルをリリースするが……後の祭り
4月 写真週刊誌『フォーカス』がわらべのメンバー・高部知子(16歳)の「喫煙中の姿を撮影した」とされる写真を掲載し(いわゆる「ニャンニャン事件」)、その影響により高部はわらべを脱退
5月 ソフトクリームの楽曲が2nd『すっぱい失敗』から作詞・森雪之丞(28歳)、作曲・後藤次利(30歳 プロベーシスト・のちのおニャン子楽曲を担当)の組み合わせになる
11月 学研のアイドル雑誌『BOMB』の姉妹誌『Momoco』が創刊され、雑誌のイメージガールとして菊池桃子(15歳)がデビューする(女優・歌手としてのデビューは翌年)
12月 デュオとなったわらべが2ndシングル『もしも明日が…。』をリリースし、同曲は翌1984年最大のヒット曲となる
同月 あみんが活動を休止する(発表されたシングルは4作、オリジナルアルバムは1作のみ)
ね~? いろいろあったでしょう。
話をアイドルグループのほうに持っていきたかったのでずいぶんと偏った年表になってしまい申し訳ないのですが、ここで注目したいのは5組のグループです。
・あみん(1982~83年・2007年~)
※岡村孝子(20歳)と加藤晴子(19歳)のデュオ
ここを「アイドルグループ史」で語るのはちびっとキビしいですよね……確かに、容姿や境遇からしてアイドルではなく地方大学生の雰囲気を強く持った2人ですし、さだまさしを敬愛する岡村さんの曲調もアイドルの世界とは隔絶した空気感をたたえています。
しかし、実質1年半という短すぎる(最初の)活動期間となってしまった原因が、『待つわ』の大ヒットによって普通の大学生だった2人に一気に押し寄せた全国規模の熱狂的人気の重圧だったり、岡村さん以外の作詞・作曲による楽曲の展開というアイドル的活動をあみんに望んだ所属事務所とセルフプロデュースアーティストを志向する岡村さんとの意見の相違だったりしたということで、ひとつ「アイドル」という世界の爆発的広がりが他の世界にも影響を与えてしまった例として見ておきたいと思うんですが、どっすか!?
みなさんもご存じの通り、岡村さんは1985年からソロ活動を開始して日本を代表するシンガーソングライターになっており、2007年からは加藤さんと共にあみんとしての活動も再開しています。
・スターボー(1982~84年)
※17歳の3人組テクノユニット・1stシングルは作詞・松本隆、作曲・細野晴臣という超豪華「はっぴいえんど」布陣
え~、「太陽系第10惑星スターボーからやってきた宇宙三銃士」という設定でしてね……まぁみなさん、まずは「スターボー」で検索して動画を見てみてくださいよ。
もう、私ごときの日本語では、そのグループの生み出す「空間ブラックホール効果」のすさまじさは表現できません。
「このグループが評価されなかった時代のほうがおかしい。」とは言いません。だって、21世紀になってしばらくたった今でさえスターボーに追いつけてないんですからね。
余談ですが、私そうだいは今回の『ざっくりすぎるアイドルグループ史』のために、1970年代から2011年現在までの代表的なアイドルグループというものをだいたい200組ほどリストアップしており、ひととおりざっと調べ終わってからこのブログを始めているのですが……それらの中でもダントツでもっともインパクトがデカかったのが、このスターボーでした。1980年代のニッポンって、ほんっとにとてつもない国だったんだね!
・わらべ(1982~85年)
※15歳の3人組ユニット「のぞみ、かなえ、たまえの3姉妹」という設定(のちにデュオとなる)
「ニャンニャン事件」の「ニャンニャン」というのは、わらべの1stシングル『めだかの兄妹』の歌詞からとったあてつけみたいな皮肉たっぷりの隠語なんですけど、今じゃあもうすっかり「チョメチョメ」に比肩されるH用語になってしまいました。
わらべの結成された『欽どこ』が当時のお化け番組だったことが、楽曲の大ヒットとともにこの事件の深刻さの度合いも大きくしてしまったということで。芸能界が良い面と悪い面、どちらでも極端なふれ幅を見せる世界なのであるということを改めて認識させる出来事でした。
しかし、1983年の最大ヒットが『待つわ』で1984年の最大ヒットが『もしも明日が…。』って! バブル時代前夜の不思議なおセンチ感がありますねい。
・キャプテン(1982年~)
※当初は松本伊代や麻生真美子のバックヴォーカルをつとめており、1987年から「Be-2(ビーツー)」に改名して単独活動を開始
あくまでバックヴォーカルとして結成された2人組なので、独立したアイドルグループとして考えるのはなかなか難しいのですが、スクールメイツの伝統を継承したとびっきりの笑顔と身のこなしは、時にセンターにいるソロアイドルよりも目立っていました。
そりゃ後年、いとうあさこさんにもマネされるわ。ビートたけしの激励を受けて現在に至るまで活動を続けているというエピソードも素晴らしいです。
キャプテンの2人が主人公になった小説とかドラマができたら、たぶんすっごくおもしろいと思うなぁ! アイドル版『まんが道』みたいな。
さてさて、かくして運命の1985年へと向かうわけなのですが、上の流れを見ていただいてもおわかりのように、それまでの80年代アイドル界はまさに「ソロアイドル」のほぼ独占状態。「アイドルグループ」のほうは1970年代に完成されてしまった感のある「キャンディーズ型」や「ピンク・レディー型」の巨大さのためにいまひとつ新しい形態を見いだせない時期が続いていました。
そういった産みの苦しみへて「スッポン!!」と爆誕したのが「おニャン子クラブ」だったわけなのです。
なんといっても、今回紹介したアイドルグループの中でそこへの突破口となったのはソフトクリーム(1982~85年)。特に重要なのはここから本格的な作曲活動を始めることになった後藤次利さんのポップな曲調ね!
15歳の3人組で森雪之丞による歌詞もソフトH路線。まさにおニャン子クラブの原型か? といった感じなのですが、ここから始まる道のりは、また次回のココロだ~。
ドわたくしごとで恐縮なのですが、今日は弟の大学入学式があったようです。ゴールデンウィークがあけてからやっと大学に入学するなんてねぇ。とてつもない年に大学生になったもんですよ。
ちょっと、「おめでと~う。」なんて言いながら気楽にあいさつに行ける距離ではなかったので私は電話ですませたのですが、ぜひとも弟なりのおもしろおかしいみのりある4年間をおくっていただきたいものです。
弟よ、なにか困ったことがあったらなんでも聞いてちょうだい。なんの役に立つかはわかんないけどできるかぎりのアドバイスはするよ。こんな外道な兄で申し訳ないが、遊びに行った時はなんか料理つくって!
そりゃ外道ですよ……こんな大変な時代なのに、30年前の時代のことばっか考えてるんですからね。「道を外れている」という以外にいったいどんな表現があたるというのでしょうか。
とかなんとか言っておきながら、平然と「アイドルグループ史」を続けていくというこの人生オフロード車っぷり。
道なんてものは自分の前にはない。自分のうしろにできてるものだけが道なんだ。
ひあ~もうコレ絶対に誰か先に言ってるよ! はずかし~。
あ、さて。
前回までは1970年代のアイドルグループ、っていうかキャンディーズとピンク・レディーの両巨頭を中心につづってきたわけなのですが、いよいよ今回からは次なる1980年代に入っていきたいと思います。私そうだいが生まれた年代ですよ~。
そして! 1980年代のアイドルグループといえば。もう間違いなく「せーえーらっ、ふっくっおっ!」のあのクラブを抜きにして語ることはできないでしょう。
2011年現在に「この世をば 我が世とぞおもふ もち月の……」とみずからの全盛を謳歌しているAKB48の直接の原型とも言えるようなこのクラブなんですが、80年代に入ったからといってすぐここにとりかかるわけにはいかないんだなぁ。
かのクラブが結成されたのは1985年のことなのですが、ピンク・レディーの(その覇業のわりには)静かな退場があった1981年からその時期までの4~5年のあいだにも、アイドルグループというジャンルの絶え間ない歩みは続いていたのです。
結果として、みなさんもご存じの通り1980年代のアイドルグループの成果は「おニャン子クラブ」に結実していくわけなんですけども、この流れも80年代前半のさまざまな試行錯誤があった末に生き残った1形態がそれだったということなのであって、決して「あっ、コレだ!」という感じで突然変異のように1985年におニャン子クラブが誕生したのではなかったということなんですね。
っつうことで、今回は1980年代前半、85年のおニャン子クラブ結成にいたるまでに「アイドルグループ」の世界で繰り広げられたさまざまなこころみの内のいくつかを追ってみたいと思います。
そういえば、1970年代に現れては消えていった無数のフォロワーグループたちを見ても思ったんですけど、こうやってわたくしごとき馬の骨が3~40年たった未来から見渡してる記録って、当時に起こったことのほん~の! ごく一部でしかないのよねぇ。まさに歳月の経過というものを感じてしまいますね。
1980年代前半。
かつて史上空前の国民的ブームを巻き起こしたアイドルグループ(デュオ)「ピンク・レディー」は、前回にもふれたように1979年の後半から活動の場所をアメリカに移しており、その間隙をつくかのように、翌1980年からはかつてない規模でのソロアイドルブームが幕を開けることとなりました。
まず先陣をきったのは、1980年の松田聖子(18歳)と河合奈保子(17歳)! でっけぇな~、しょっぱなから。
1980年はいろんなことがあったねぇ。まず松田さんは1月のラジオ出演が初仕事となっており歌手としてデビューしたのは4月のこと。河合さんは「西城秀樹の妹オーディション」に合格し6月に歌手デビューしました。
そしてその一方では、3月に俳優・三浦友和との婚約を正式に発表したあの山口百恵サマ(21歳)が、もはや伝説となった感のある10月の東京・日本武道館でのファイナルコンサートをもって芸能界を去っていきます。ピンク・レディーの翌年解散が発表されたのは、その直前の9月のことでした。
まぁ、百恵サマは1976年にあの阿木燿子・宇崎竜童夫妻の手がけた諸作を発表し始めたころからすでに「アイドル」ではない「山口百恵」というジャンルの唯一無二の体現者にメタモルフォーゼしてしまっていたわけなのですが、1980年はまさに、ある時代の終わりと新しい時代の幕開けをヴィヴィッドに伝えるアニバーサリーなイヤーとなったのです。私、ここの文章だけなんかルー大柴さんみたいになっちったね。
それから、次にアイドルの歴史を語る上で欠かせない年はというと、やあっぱり! 1982年ですよね。
まずはなんと言っても、中森明菜(17歳)、堀ちえみ(15歳)、松本伊代(16歳)、小泉今日子(16歳)らといった「花の82年組」と呼ばれるソロアイドルのみなさまがデビューしたという重要な意味合いがあります。
言わずもがなですが、今わたしが挙げた名前は、「花の82年組」の方々のほんとにごく一部でございます! キョンキョン殿下がブレイクするのはもうしばらくしてからなのですが、多くの方々はデビュー当初から次のアイドル界のトップをになうホープであるとして大いに注目をあびていました。
重要なのは、単純に1970年代にくらべて男女ともにアイドルの人数が思いっきり増加した(男はたのきんトリオとかシブがき隊とか)。そのことによって、世の同年代の中高生達が大いに感情移入できる「ヴァーチャル恋愛学校」がTVの世界に形づくられていたことです。
つまり、自分達の現実のクラスが鏡にうつっているかのようにTVの中のアイドル達を見る、そのことによって自分に似たアイドルを探したり友だちに似たアイドルを探したり、はたまた自分の好きなあの子に似たアイドルを探したりしてワイワイ楽しむという虚構のエンターテインメントができるほど、男女ふくめた「アイドル」の世界が拡大していった、ということに他なりません。まさにそれは、かつての日本芸能界にはなかった娯楽の提供でした。アイドルはもしその歌声や芸につたなさがあったとしても、それを十二分におぎなってあまりある「視聴者の美化されたアバター」という魅力を持つことになったのです。
といっても、っつうか、だからこそ、アイドル1人1人の「生身の人間としての現実の」恋愛沙汰は余計な邪魔でしかなかったんでしょうね。因果な商売だよ……
ま、とにかくおぼえておきたいのは、あるアイドルとあるアイドルの人気争いという構図だけでない、そういうひとつのコミュニティのようなふところの深さを持った「アイドル界」ができあがったということは、デュオやトリオ以上の人数規模を持ったアイドルグループが誕生するのももはや時間の問題だったということなんですな。
学生時代のクラス規模でいちがんとなってやる学園祭の準備とかって、一種異様な高揚感がありましたよね。あのへんの時空魔力がブラウン管(表現が古い)から全国に解き放たれる時が来たんです。ビューティフルドリーマーですよ、まさに。
話の流れがおニャン子クラブよりになってしまいましたが、また時間を戻します。
「おニャン子」以前のアイドルグループの模索を見る上でも1982年近辺は見るべき部分が多くありますので、ちょっと時系列でならべてみましょう。
1981年
10月 田原俊彦の妹役でTV出演していた松本伊代(16歳)が、『センチメンタル・ジャーニー』で歌手デビュー
※1981年のデビューだが、当時の日本レコード大賞などでの新人歌手の選定が「9月」で区切られていたため、翌1982年に各新人賞を獲得
同月 渡辺プロダクション・スクールメイツから抜擢された女性2人組(17・19歳)がその松本伊代のバックヴォーカルをつとめ、のちに「キャプテン」というユニット名を持つこととなる
※キャプテンと命名したのは当時の松本さんのマネージャーで、理由はキャンディーズにあやかって「キャ」ではじまる名前にしたかったかららしい
1982年
3月 堀ちえみ(15歳)、小泉今日子(16歳)、デビュー
5月 中森明菜(17歳)、デビュー
同月 ヤマハ・ポピュラーソングコンテストで、名古屋在住の現役大学生デュオ(のちの「あみん」)が『待つわ』でグランプリ獲得
7月 あみん、『待つわ』でデビューし同曲が1982年最大のヒットを記録する
同月 伝説中の伝説テクノアイドルグループ「スターボー」が『ハートブレイク太陽族』でデビューするが、商業的にはほぼ黙殺
12月 大人気バラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の中で結成された企画ユニット「わらべ」のデビュー曲『めだかの兄妹』がリリースされる
同月 3人組アイドルグループ「ソフトクリーム」がデビューする
1983年
2月 スターボー、1stシングルでのテクノ路線をきれいさっぱり消して普通のぶりっこアイドル路線としての2ndシングルをリリースするが……後の祭り
4月 写真週刊誌『フォーカス』がわらべのメンバー・高部知子(16歳)の「喫煙中の姿を撮影した」とされる写真を掲載し(いわゆる「ニャンニャン事件」)、その影響により高部はわらべを脱退
5月 ソフトクリームの楽曲が2nd『すっぱい失敗』から作詞・森雪之丞(28歳)、作曲・後藤次利(30歳 プロベーシスト・のちのおニャン子楽曲を担当)の組み合わせになる
11月 学研のアイドル雑誌『BOMB』の姉妹誌『Momoco』が創刊され、雑誌のイメージガールとして菊池桃子(15歳)がデビューする(女優・歌手としてのデビューは翌年)
12月 デュオとなったわらべが2ndシングル『もしも明日が…。』をリリースし、同曲は翌1984年最大のヒット曲となる
同月 あみんが活動を休止する(発表されたシングルは4作、オリジナルアルバムは1作のみ)
ね~? いろいろあったでしょう。
話をアイドルグループのほうに持っていきたかったのでずいぶんと偏った年表になってしまい申し訳ないのですが、ここで注目したいのは5組のグループです。
・あみん(1982~83年・2007年~)
※岡村孝子(20歳)と加藤晴子(19歳)のデュオ
ここを「アイドルグループ史」で語るのはちびっとキビしいですよね……確かに、容姿や境遇からしてアイドルではなく地方大学生の雰囲気を強く持った2人ですし、さだまさしを敬愛する岡村さんの曲調もアイドルの世界とは隔絶した空気感をたたえています。
しかし、実質1年半という短すぎる(最初の)活動期間となってしまった原因が、『待つわ』の大ヒットによって普通の大学生だった2人に一気に押し寄せた全国規模の熱狂的人気の重圧だったり、岡村さん以外の作詞・作曲による楽曲の展開というアイドル的活動をあみんに望んだ所属事務所とセルフプロデュースアーティストを志向する岡村さんとの意見の相違だったりしたということで、ひとつ「アイドル」という世界の爆発的広がりが他の世界にも影響を与えてしまった例として見ておきたいと思うんですが、どっすか!?
みなさんもご存じの通り、岡村さんは1985年からソロ活動を開始して日本を代表するシンガーソングライターになっており、2007年からは加藤さんと共にあみんとしての活動も再開しています。
・スターボー(1982~84年)
※17歳の3人組テクノユニット・1stシングルは作詞・松本隆、作曲・細野晴臣という超豪華「はっぴいえんど」布陣
え~、「太陽系第10惑星スターボーからやってきた宇宙三銃士」という設定でしてね……まぁみなさん、まずは「スターボー」で検索して動画を見てみてくださいよ。
もう、私ごときの日本語では、そのグループの生み出す「空間ブラックホール効果」のすさまじさは表現できません。
「このグループが評価されなかった時代のほうがおかしい。」とは言いません。だって、21世紀になってしばらくたった今でさえスターボーに追いつけてないんですからね。
余談ですが、私そうだいは今回の『ざっくりすぎるアイドルグループ史』のために、1970年代から2011年現在までの代表的なアイドルグループというものをだいたい200組ほどリストアップしており、ひととおりざっと調べ終わってからこのブログを始めているのですが……それらの中でもダントツでもっともインパクトがデカかったのが、このスターボーでした。1980年代のニッポンって、ほんっとにとてつもない国だったんだね!
・わらべ(1982~85年)
※15歳の3人組ユニット「のぞみ、かなえ、たまえの3姉妹」という設定(のちにデュオとなる)
「ニャンニャン事件」の「ニャンニャン」というのは、わらべの1stシングル『めだかの兄妹』の歌詞からとったあてつけみたいな皮肉たっぷりの隠語なんですけど、今じゃあもうすっかり「チョメチョメ」に比肩されるH用語になってしまいました。
わらべの結成された『欽どこ』が当時のお化け番組だったことが、楽曲の大ヒットとともにこの事件の深刻さの度合いも大きくしてしまったということで。芸能界が良い面と悪い面、どちらでも極端なふれ幅を見せる世界なのであるということを改めて認識させる出来事でした。
しかし、1983年の最大ヒットが『待つわ』で1984年の最大ヒットが『もしも明日が…。』って! バブル時代前夜の不思議なおセンチ感がありますねい。
・キャプテン(1982年~)
※当初は松本伊代や麻生真美子のバックヴォーカルをつとめており、1987年から「Be-2(ビーツー)」に改名して単独活動を開始
あくまでバックヴォーカルとして結成された2人組なので、独立したアイドルグループとして考えるのはなかなか難しいのですが、スクールメイツの伝統を継承したとびっきりの笑顔と身のこなしは、時にセンターにいるソロアイドルよりも目立っていました。
そりゃ後年、いとうあさこさんにもマネされるわ。ビートたけしの激励を受けて現在に至るまで活動を続けているというエピソードも素晴らしいです。
キャプテンの2人が主人公になった小説とかドラマができたら、たぶんすっごくおもしろいと思うなぁ! アイドル版『まんが道』みたいな。
さてさて、かくして運命の1985年へと向かうわけなのですが、上の流れを見ていただいてもおわかりのように、それまでの80年代アイドル界はまさに「ソロアイドル」のほぼ独占状態。「アイドルグループ」のほうは1970年代に完成されてしまった感のある「キャンディーズ型」や「ピンク・レディー型」の巨大さのためにいまひとつ新しい形態を見いだせない時期が続いていました。
そういった産みの苦しみへて「スッポン!!」と爆誕したのが「おニャン子クラブ」だったわけなのです。
なんといっても、今回紹介したアイドルグループの中でそこへの突破口となったのはソフトクリーム(1982~85年)。特に重要なのはここから本格的な作曲活動を始めることになった後藤次利さんのポップな曲調ね!
15歳の3人組で森雪之丞による歌詞もソフトH路線。まさにおニャン子クラブの原型か? といった感じなのですが、ここから始まる道のりは、また次回のココロだ~。