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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

勇気の殿堂 オンライン上のブロンズスターメダル〜兵士と水兵のための記念博物館

2021-03-03 | 歴史

長らくお話ししてきた兵士と水兵のための記念博物館展示、
最後にペンシルバニア出身の軍事章受賞者を顕彰するためのホール、
「勇気の殿堂」で紹介されている人々を紹介して最終回になります。

 

ここからの賞受賞者の紹介には、当博物館の手によるものらしい
イラストが加えられています。

 

【命を賭けて試みた生還】

アーチボルド・マシーズ陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

ここからはなぜか博物館スタッフによると思われるイラスト付きです。

1944年2月、ライプツィヒへの爆撃に参加中、B-17の機長は攻撃を受けて重傷、
副操縦士は死亡したため、彼はナビゲーターと共にイギリスまで帰還し、
そこで残りの乗組員を全員ベイルアウトさせた。

マシーズとナビゲーターは脱出を命じられたが機長を置き去りにすることを拒否し、
機体の着陸を試みたが、墜落し、機内の全員が死亡した。

マシーズの階級は軍曹となっていますが、これは死後特進した結果です。
機関兼砲塔射手だったので、指揮官二人が任務遂行不可能になっても
彼が代行として指揮を執るという配置ではなかったわけですが、
砲塔射手という機内における自由に動く配置であったというだけで、
(映画『メンフィス・ベル』でも射手がコクピットに顔を見せていた)
ベイルアウトをせず、瀕死の副操縦士と機体を無事に地上に戻すために
自分の命を賭け、そして斃れたのでした。

このとき最後を一緒にしたナビゲーターもまた叙勲されたと思われますが、
地元出身ではないので彼については触れられていません。

 

【死ぬまで投げ続けた手榴弾〜ニューギニア戦線】

ドナルド・R・ロボー陸軍一等兵 第二次世界大戦

この勇気の殿堂で、初めて日本軍と戦った軍人が登場しました。

受賞理由:彼の小隊がニューギニアで進攻していた日本軍と対峙したとき、
自分に放火が集中したにもかかわらず、負傷しながら手榴弾を投げ続け、
部隊の犠牲は彼だけに止まった

ところで、名誉勲章を受けるとその人生のあまり公にしたくない部分まで
歴史に留められてしまうわけですが、彼の場合、16歳で車泥棒でつかまって
その後更生して海軍に入ろうとしたら成績不良ではねられ、仕方がないので
陸軍を受けたらなんとか入れてもらえた、なんてことまで記録に残っています。

これって、陸軍には海軍に入れなかった人も入れてもらえたってことですか?

 

それから、日本人としては、彼がこのとき殺戮したのが日本兵でその数が
「最低でも10人以上だった」ことをつい考えずにいられません。
戦争の英雄は、敵国にとっての殺人者であるというのは当たり前の事実なのですが。

【手榴弾を帯びて単身突入】

アルビン・P・キャリー陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

フランスのブルターニュで進軍中、激しい敵の機関銃砲火を受けたとき、
キャリーは持ち運べるだけの手榴弾で武装したのち敵地に単身突入し、
ドイツ兵のカービン銃に斃れたが、その勇敢な行為に触発された後続部隊は
敵の抵抗を打ち負かした。

 

【壮絶な敵地突入の果てに】

ジョン・W・ドゥトゥコ陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

受賞理由:1944年5月、イタリアのポンテロットの近くで、ドイツ軍塹壕からの機関銃3丁、
1丁の88mm砲に対し片手に銃を持っただけで対抗し、負傷で倒れる前にこれら全てを殲滅した。
この行動のために、彼は死後最初の軍曹に昇進した。

殿堂入りしている軍人の階級は全て最終的に昇進したものなので、
ほとんどが軍曹となっています。
戦死時のドゥトゥコの階級はPrivate 1st class、つまり上等兵でした。

ここに詳しく書かれている彼の戦死の状況は、

「マシンガンに撃たれて一度昏倒するも、立ち上がって走り続け、
10ヤードの位置まで迫った時、5人の敵の一斉掃射を受けたが

彼はその中でも二人を倒し、次の射手が彼に銃弾を撃つと、
それを受けながらもなおさらに相手を倒し続け、
最後に倒れ込んだのは自分が倒したドイツ兵たちの遺体の上だった」

と壮絶です。

 

【通信機器を死守した上陸作戦の通信兵】

ジョン・J・ピンダーJr.陸軍伍長 第二次世界大戦

1944年6月6日、ノルマンジー上陸作戦において、敵攻撃の中ボートから
作戦に不可欠な通信機を持ちだし、腰の深さの水の中岸に向かって進んだ。

ボートから降りてわずか数ヤードのところで、彼は敵の砲火に見舞われ、
重傷を負ったが、彼は岸に辿り着き機器を無事に届けたあと、
彼は傷の治療を受けることを拒否し、通信機器を救助するために
砲火の中ボートと岸のあいだを三往復し、三度目に再び機関銃に撃たれ、
衰弱しながらもつぎに無線通信の確立を支援を行う。

その任務中、三度目の銃弾によって死亡した。

ノルマンディ上陸作戦のとき、舟艇から上陸したアメリカ兵たちが
敵の狙撃やあるいは舟艇の位置、冷たい水に濡れた軍装のせいで
どんな壮絶な戦いをしたかについては様々な媒体で述べられていますが、
単身上陸するだけでなく、機器を運搬する係の兵たちはもっと大変だったわけです。

ピンダー通信兵だけでなく、いわゆる後方支援の部隊の兵隊もまた、
このとき物資を運ぶ任務でやはり多くが負傷あるいは戦死したと思われます。

【自ら傷を負いながら負傷兵の治療】

アルフレッド・L・ウィルソン陸軍技術軍曹 第二次世界大戦

フランス戦線で医療班として従事していたウィルソン軍曹は、
治療中重傷を負ったが、避難することを拒否し、激しい痛みと失血にもかかわらず、
最後の瞬間まで応急処置を続け、自分が立てなくなってからも
部下に治療を指示し、少なくとも10名の命が彼によって救われた。

最後の瞬間、ウィルソンは苦しい息の下から絞り出すような声で
それでも懸命に指示を続けていました。
結局彼はその傷が下で亡くなりました。

【一人で12人を降伏させる】

エドワード・A・シルク陸軍中尉 第二次世界大戦

意外なことに今までの受賞者で中尉は初めてです。

エドワードA.シルク中尉は、1944年11月フランスのモワンムティエを見下ろす
高台を占領する任務を遂行中、道沿いの農家をアジトとしたドイツ軍から、
機関銃と自動小銃を発砲されたため、中尉は一人でその農家まで接近し、
敵の発砲を受けながら攻撃を行い、手榴弾と機関銃を駆使して内部を攻撃し、
手榴弾がなくなると窓から岩を投げこみながら残りの敵の降伏を要求しました。

彼の執拗で「非正統的な」攻撃にに混乱した12人のドイツ人は、
この一人のアメリカ人将校に降伏したのです。

 

■ 女性の名誉賞受賞者

クレア・M・ガレヒト空軍准将 

このコーナーでは3人の受賞女性軍人が紹介されています。

ガレヒト准将はワシントンDCの米空軍本部の外科医総長室の空軍看護隊長でした。 

第二次世界大戦で陸軍看護隊に入隊し、その後キャリアを重ね、
1974年、空軍看護隊長に就任、メリット勲章、任務メダル、空軍メダル、
空軍殊勲部隊賞リボンなどを受賞し、1974年准将に昇進しました。

テレサ・ジェームズ陸軍少佐 第二次世界大戦

この人のことは女性補助部隊のパイロットとして以前紹介したことがあります。
が、今回バイオグラフィーを見て、彼女がパイロットになったきっかけというのが

「好きになったビルというパイロットの気を引くためだった」

というのを初めて知りました(笑)

やるじゃん。

ちなみに、輸送飛行隊としてあらゆる飛行機を飛ばしてきた彼女が、
CBSの制作したドキュメンタリーでのインタビュー中、

「まだ飛ばしたことがないのはF-14だけ」

といったので、CBS は彼女がF-14に乗れるように手配しました。
そのとき、彼女はもうすでに86歳だったということです。

さすがに操縦したわけではないと思いますが、86歳を
マッハなんぼの戦闘機に乗せるってどうなのよって。

彼女が心臓発作とか起こせばテレビ的には美味しいとか思ってたんでしょうか。

アンバー・L・フィッシャー陸軍准尉 イラクの自由作戦

フィッシャーはイラクの自由作戦での任務に対してブロンズスターメダルを与えられました。
ブロンズスターメダルは

「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」

アメリカ合衆国軍の兵士に対して授与される勲章で、
5回授与されるとシルバースターに格上げされます。

まず、フィッシャー准尉の受賞理由は、

「バグダッドにおけるTAREX OICが素晴らしかった」

TAREXとはターゲット・エクスプロイテーションの略ですが、
「対象利用」というこの任務の具体的な内容がよくわからないので
全文をそのまま翻訳しておきます。

彼女は、反照合部隊の活動で使用された機密通信の活用を先導し、
テロ組織やイラクの反乱軍が使用する機器を技術的に利用して報告しました。

CW3フィッシャーは、連絡業務に加えて、
バグダッドで機密性の高いサイトの収集と悪用を行いました。
これにより、イラクの最重要標的(HVT)の1つが捕獲され、
6人のテロ工作員が逮捕されました。

CW3フィッシャーは、ファルージャ、ティクリート、ナジャフへの
3つの戦闘情報任務を計画して実行し、それぞれ第1海兵遠征軍、
第1歩兵師団、第1歩兵師団を支援しました。

デタッチメントチーフとして本部と支部の両方で部隊を管理しました。

彼女は、標準的な操作手順、TTP、および
プログラムに不慣れな訓練を受けた要員を開発しました。

イラクでの戦闘中の彼女の卓越した任務への献身は、
司令部の任務の圧倒的な成功に貢献しました。

彼女の行動は兵役の最高の伝統に沿っており、彼女自身、
多国籍軍団イラク、および米国陸軍に対する大きな功績を反映しています。

彼女の任務は従来の戦闘で人を殺すというものではありません。
そしてこれはあらゆる意味で「現代の戦闘」を表しています。

女性軍人とは看護師か補助パイロットとしてしか
軍で評価され、軍事賞を与えられる方法がなかった時代は終わりました。

 

というわけで長らく語ってきたピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館シリーズ、
これでおしまいです。

あまり取り組んだことのない南北戦争の歴史に始まるアメリカの軍事史を
郷土史と並列して取り上げることで、仮とはいえ住んでいる地域に対する興味も
同時に深まるという一挙に何度もお得なリサーチとなりました。

 

終わり。

 

 


勇気の殿堂 受賞者の肖像〜兵士と水兵の記念博物館

2021-03-02 | アメリカ

ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館の展示を
長らくご紹介してきましたが、最終回にようやく近づいて来ました。

回廊を一周回って南北戦争からイラク戦争まで、おもに
ペンシルバニア出身の軍関係者が寄贈した記念品の展示を見てきましたが、
最後に

「ジョセフ・ドゥーガンJr.勇気の殿堂」
 Joseph A. Dugan. Jr. Hall of valor

という顕彰コーナーが現れました。

靖國神社の遊就館でも、戦争関連の展示の一番最後に、

靖國神社の「神」として祀られている英霊の写真が展示されていますが、
ここでも英霊?顕彰コーナーは最後です。

1963年、同博物館は軍事史博物館の一部として、退役軍人を顕彰するために
「勇気の殿堂」を創設しました。
殿堂入りの資格は、以下のメダルの最低どれか1つの受賞者です。

名誉勲章
殊勲十字章
海軍十字章
空軍十字章
シルバースター
殊勲飛行十字章
エアマンズメダル
ソルジャーズメダル
コーストガードメダル
海軍&海兵隊メダル

そして、ペンシルベニアで生まれ、軍に入隊した退役軍人であること。

現在、700人以上の退役軍人の名前がこの「記憶の倉庫」に収められています。

2006年11月、「勇気の殿堂」は「ジョセフ(略」に改名されました。
ドゥーガンJr.はソルジャーズ&セーラーズメモリアルホール&ミュージアム社の
初代社長兼最高経営責任者です。

それでは、ここで紹介されているオナーロールを何人か見ていくことにします。

■ 名誉勲章受賞者

 

【軍旗を死守】

ジョン・S・マシューズ陸軍軍曹 南北戦争

名誉勲章という場合は、戦功そのものについて与えられるので、
受賞者は負傷や死亡をしていないのが普通です。

ここは南北戦争以降の軍事博物館なので、この名誉の殿堂も
南北戦争から始まっています。

受賞理由:1865年のピッツバーグの戦いで軍旗を奪取し、
負傷したにもかかわらずそれを死守した

おそらく彼が名誉勲章を受けるときに撮られたこの写真を見たところ、
不鮮明ながら、彼はこの戦闘の際右手を失ったのではないかと思われます。

サム・ジョンソン陸軍1等兵 南北戦争

写真が遺されていなかった人物に関してはイラストのみの紹介となります。
そういえば、遊就館でも、提出する写真がなかったのか、
遺族が描いた似顔絵が展示されている英霊がおられましたっけ。

受賞理由:南軍から旗を二つも奪い、かつその際負傷をしたことに対して

南北戦争では、相手の旗を奪うというのが一つの勝利の決めてとなったようです。

【勇敢なる戦い】

ヘンダーソン・カルビン・ホワード陸軍伍長 南北戦争

受賞理由:敵の狙撃兵を追跡していて二人の敵に遭遇、銃撃戦の結果勝利

手前の、犬が寄り添っているのは(涙)伍長が戦った敵の遺体だろうと思われます。
彼は1919年、第一次世界大戦の終わり頃に80歳で亡くなりました。

 

ジョセフ・ギオン陸軍1等兵 南北戦争

受賞理由:チャンセラーズビルの戦いで勇敢に敵基地への前進をおこない、
『大事な情報を確保』した

ギオン1等兵もまた志願兵で、名誉賞を受けたときすでに38歳という年齢でした。

 

【晩年を見捨てられた後方支援の女性】



ヴィヴァンディエール・マリー・テぺ・レオナール 南北戦争

南北戦争でキアニー十字章を受賞された女性がいました。
名前がフランス風なのでレオナルドではなくレオナールとします。
検索してみるとウィキでは、彼女はやはり

「フランスのマリー」

と呼ばれており、記録では「マリー・テペ」が通称だったことがわかりました。

北軍に入隊したのは彼女の夫がペンシルバニア歩兵に入隊したからですが、
彼女は自ら望んでユニットに加わり、フランス系の外人部隊、ズアーブ兵部隊で
「連隊の娘」として料理、洗濯、縫い物などの「後方支援」を行っていました。

チャンセラーズビルでは激しい戦いの中、野戦病院で献身的に働き、
その功績に対してカーニークロス(勇気の十字架)が与えられることになりました。

これは、300名の受賞者の中の唯一の女性だったそうです。

ゲッティスバーグの戦いで夫を亡くした彼女は、この戦争が終わってから
南北戦争のヴェテランと結婚しますが、本人曰く「一般的な虐待(つまりDV)」で離婚しています。

晩年は兵役を行っていたとして国からの年金をなんとか受け取ろうとしたようですが、
どうもうまくいかなかったようで、貧困生活に甘んじていました。

戦争中に負傷した足首の傷に戦後も苦しめられ、さらにリウマチを発症し、
苦境の中、67歳でパリスグリーン(顔料や殺鼠剤の原料)を飲んで自殺しました。

【負傷を顧みず】

フランク・ウィリアムズ陸軍1等兵 第二次世界大戦

1944年、フランスに展開していた彼の歩兵部隊小隊は、行軍中
道の両側から巧妙に隠された場所からおマシンガンの掃射を受けました。

敵の銃が彼の仲間の安全に与える深刻な脅威に気づいて、ウィリアムズ1等兵は
勇気を持って持ち場からすぐ前の敵の定置に向かって移動しました。

身を伏せて地を這い、木から木の間を走り抜けて、有利な位置に移動し、
機関銃の標的になりながらも冷静に発砲し、敵兵士を倒し、一人を捕虜にしました。

この間、彼は敵からの射撃に晒され、負傷し、それが元で亡くなりました。

【メディックの献身】

 ジャック・プリングリー陸軍2等軍曹 第二次世界大戦

現地の子供が見守る中救護活動を行なっている衛生兵の写真ですが、
確かウェストポイントの軍事博物館で同じ写真が紹介されていて、
ここでも一度掲載したことがあります。

受賞理由:プリングリー二等軍曹はシシリー島に展開した部隊の衛生班に所属し、
砲弾の激しい一帯を横切って進攻する際、我が身の危険を顧みず、
軍務への揺るぎない献身のもとに複数の小隊を率いこれを勝利に導いた

【ベルリン爆撃命令】

ロバート・O・ロング陸軍大尉 第二次世界大戦

フライングクロス受賞理由:B-17でのドイツとドイツ占領地域に対する爆撃任務の成功

開戦直後はドイツ本土に対する空襲はほとんど行われなかったのですが、
バトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍がロンドンを誤爆すると、報復として
連合国はベルリンを空襲、以降ロンドンとベルリンへの報復爆撃合戦となっていきます。

戦争初期はドイツ軍のイギリス空軍迎撃は成功していましたが、
1943年以降はイギリス空軍が夜間爆撃を、アメリカ空軍が昼間爆撃を行い、
ロング大尉のB-17やB-24などの強力な爆撃機が大量されていくと、
ドイツ空軍の勢いは急激に衰退していくことになります。

ロング大尉の爆撃任務は1944年のノルマンディー上陸作戦以降のもので、
連合軍の爆撃がいっそう激化していくなか行われたもので、
これによりドイツ国内がくまなく廃墟になったのでした。

【33歳年下の妻】

ハーヴァート・クラウス陸軍 大尉 第二次世界大戦

フランスの戦線で功績を挙げシルバースターを受賞された人ですが、
それより、お葬式欄で見つかった、

「2007年、92歳で亡くなり、59歳の妻が残された」

という情報につい目を奪われてしまいました(笑)
なんでもこの人の娘さんは医学博士なんだそうですが、
絶対奥さんの方が娘さんより年下ですよね?

【とっさの判断で部隊を救う】

ジョセフ・コスグロウ海兵隊軍曹 ベトナム戦争

海兵隊第一偵察大隊で並外れた勇気を示した

ベトナムに参戦した時、彼はまだ18歳で上等兵でした。
戦地でベトコンとの戦闘が始まってから、彼は隣の中隊指揮官の至近距離に
手榴弾が転がってきたのをみて、全く躊躇うことなくそれを拾い、
爆発する前にそれを蹴って遠くに飛ばし、犠牲を防ぎました。

【撃墜された殊勲者】

ウィリアム・K・ハーディング中佐 ベトナム戦争

北ベトナムでの最初の任務でF-4ファントムでの敵基地爆破を成功させましたが、
が地対空ミサイルで撃墜されました。
ハーディング中佐は救出され、フライングクロスを受賞されました。

【ランボー並み】

レスリー・H・サボー陸軍軍曹 ベトナム戦争

それにしても不思議な肖像写真・・・というか写真じゃないですよねこれ。
南北戦争の頃なら写真がなくても納得しますが、
ベトナム戦争の軍人がどうしてこの肖像画?

というのはともかく、サボー軍曹は陸軍空挺隊所属です。

サボー軍曹の部隊が偵察任務を行っていたとき、待ち伏せによって
四方から多数の敵が襲いかかってくるという事態になりました。

まったくためらうことなく空挺団の精鋭であるサボー軍曹は
(スペシャリスト・フォー、特技兵)敵に向かって突撃し、
瞬時に数人の敵兵士を殺害し、その後すぐに敵を側面から攻撃し、
敵を最終的にたった一人で退却させました。

すげー・・・ランボーみたい。

■ 名誉勲章

【単身突入の勇気】

ジョン・ウィルソン・ミニック陸軍軍曹 第二次世界大戦

ここからは殿堂の中でも大きな写真が掲げられた、つまり
「自分の命を犠牲にして仲間を守った・戦った」人々になります。

1944年11月21日、ドイツのハルトゲン近郊での敵との交戦において、
ミニックの大隊は、広大な地雷原によって前進を止められ、
敵の大砲と迫撃砲の集中にさらされた。

ミニックは志願して4人を率いて有刺鉄線を破壊し、地雷原を突破、
機関銃の発砲を受けると彼は部下に避難を命じたうえで単身突入、
敵2人を殲滅、他の3人を捕虜にした。

その上で再び単独で前進、さらに20人のドイツ兵を殺し、20人を捕獲。
さらに前進し、大隊を有利な位置へ導くも、次の移動中に地雷を踏んで爆死した。

【俺しかいないから俺がやる】

ウイリアム・E・シャックJr. 海兵隊軍曹 朝鮮戦争

パープルハートと名誉勲章を受けた人物を紹介する写真として、失礼ながら
これしかなかったのか?とつい思ってしまうシャックJr.2等兵の肖像です。

Wikiをみると同じ写真が掲載されているので、本当にこれしかなかったのでしょう。

受賞理由:
小隊の攻撃中、敵の小火器、手榴弾、大砲、迫撃砲の壊滅的な弾幕にさらされ、
痛みを伴う負傷を負ったが、医療処置を拒否し、戦闘任務を行った。

指揮官が負傷したあとは躊躇なくライフル分隊の指揮を受け継ぎ、
敵位置にさらに2つの大胆な攻撃を行い、再び負傷するが、避難を断固として拒否し、
すべての死者と負傷者が避難するまで激しい砲火の下最前線にとどまった。

そして最後の犠牲者である同僚の遺体の搬送を支援している間に、
敵の狙撃弾によって致命傷を負った。

25歳で戦死した彼の未亡人に名誉勲章を授与したのは、
当時副大統領であったリチャード・ニクソンでした。

 



続く。