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「ミッドウェイ燃ゆ」〜空母展示・スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-25 | 歴史

スミソニアン博物館の中に空母の一部を作り、そこでは
歴史的に空母を使った戦争の歴史について説明されています。

真珠湾攻撃、世界初の空母決戦となった珊瑚海海戦とくれば、
次はやはりミッドウェイ海戦がくるわけです。

まず、ミッドウェイ海戦における両艦隊の行動図から。
赤が日本でブルーが米海軍艦隊です。

まずミッドウェイ海戦における両艦隊の行動図を地図で説明です。
赤が日本、青が米海軍艦隊です。

海戦海域を赤で囲んでくれています。
千島列島線から出ている赤い矢印には

「アリューシャンフォース」

とあります。

「ミッドウェイ海戦 太平洋戦線におけるターニングポイント」

とタイトルされた地図は、このような解説から始まります。

珊瑚海の戦いでの米国の戦略的勝利にもかかわらず、日本軍は引き続き
防御境界のさらなる拡大と米国太平洋艦隊との決定的な関与を試みました。

山本五十六大将は、日本は1942年に米艦隊を全滅させることができなければ
それは敗北を意味するということを確信していました。

山本大将とその参謀は、日本の海軍令部の反対を覆し、ミッドウェー島、そして
アリューシャン列島西部を占領することで真珠湾の基地から米艦隊をおびき出し、
破壊するという計画を立てたのでした。

そうすれば、1942年の冬の前にオアフ島への攻撃の道が開かれると考えたのです。

いろんな解釈があろうかと思いますが、この解説だと、まるで
山本と一部の参謀が軍令部の反対を押し切って作戦強行したかのようです。

信じがたい勝利

通常の基準でいうと、アメリカ軍の勝利は絶望的でした。
彼らは戦艦を持っていませんでしたが、敵は11隻保有。
重巡洋艦はこちらが8隻に対し敵は23隻。
軽巡洋艦は3隻でしたがそのうちの1つは動かないのに、
敵は8隻を持っていました。

海岸防衛の前線には時代遅れの銃がしばしばみられ、
しかも彼らは肝心の戦争についてほとんど知りませんでした。

海軍の空母パイロットは誰一人として戦闘の経験はなく、
もちろん陸軍も海兵隊もそれは同じ事情です。

21人のパイロットのうち17人は飛行学校を卒業したばかりでした。
彼らは疲弊し、そして斃されていきました。
機器の問題もあり、彼らは壊滅的な損失を被りました。

つまり彼らは勝つための要素をまったく持っていなかったのです。

それでも彼らは戦いました。
戦うことでで彼らは戦争の行く末を変えました。

なによりそれ以上に、彼らはきらりと光る何人かの男たちの名前を
ミッドウェイという新しいリストに書き込んだのです。

斃れて行った男たちの中から雄々しく立ち上がった男たちは、
いくつかの敗北から信じられないほどの勝利へと導いて行ったのでした。

ポエムです(笑)

アメリカのこういう「敵は強かったがしかし我々は」という論法を、
わたしは永らく「スイカに塩理論」と呼んで、苦労して得た勝利ほど尊い、
ということを強調するためのレトリックのようなものだと決め付けていたのですが、
ことミッドウェイ海戦に関する限り、これは必ずしもそうではないらしいことがわかってきました。

アメリカにとってミッドウェイ海戦というのは、状況的に
勝てる要素のない絶望的な状態を、あらゆる偶然とそれを引き寄せるガッツで
ひっくり返した輝かしい勝利、という位置づけであるということなのです。

ここで両軍司令官の紹介があります。

山本五十六大将

IJN最高司令官、連合艦隊司令官

山本提督は、ミッドウェー海戦を北軍による米軍への空母攻撃で開始する予定でした。
アリューシャン列島でのインスタレーション、続いて
米国のミッドウェイからの注意をそらすためのアダック、キスカ、アッツ上陸。

南雲提督の空母打撃部隊による途中での空襲は6月5日に始まり、
6月7日に侵攻部隊による水陸両用攻撃が続き、米艦隊は
これと戦うために出動しました。

南雲忠一中将 

IJN 空母打撃部隊司令官

南雲忠一中将は、ミッドウェイ海戦で主要な役割を果たしました。
ミッドウェイ島の防衛力と航空戦力を破壊し、太平洋艦隊を排除しようとしました。

チェスター・ミニッツ大将

USN司令官 太平洋艦隊司令官

ニミッツ大将は「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」
この三隻の空母しか使えず、さらに戦艦もなく、ほんの一握りの巡洋艦と
護衛駆逐艦だけの戦力でミッドウェイ海戦を戦うことになりました。

しかし、米海軍の暗号解読者は日本軍の暗号を解読することに成功し、
山本提督の計画と意図を知ることができたので、この情報から
ニミッツはミッドウェイと彼の海軍が日本からの攻撃に備えるための作戦を講じました。

フランク・ジャック・フレッチャー中将

USN司令官、空母打撃軍司令官

珊瑚海海戦の指揮を執ったあと、米海軍の戦術指揮案に任命され、
ミッドウェイ海戦ではTF17(旗艦ヨークタウン)に加え空母部隊を率いました。

「ヨークタウン」とその護衛部隊は5月30日に真珠湾を出発し、
6月2日にミッドウェイの北東約523kmでTF16と合流しました。

レイモンド・A・スプルーアンス中将

USN司令官、第16任務部隊(TF 16)

ハルゼー提督が病気になったため、代わって第16任務部隊司令官に就任しました。
スプルーアンスは飛行出身ではありませんでしたが、 戦闘が進むにつれ、
ハルゼーの戦術を継承した優秀で細心かつ高度な知識を持つ戦略家としての評価を固めました。

フレッチャー提督が戦術指揮を執っていたにもかかわらず、スプルーアンスは
最終的にTF16とは別行動でアメリカの勝利につながる重要な決定の1つを行いました。

この写真の軍服の襟でもわかるように、スプルーアンスは後に提督の階級に達しました。

ミッドウェイ島は前部のイースタンアイランドと後部のサンドアイランドで構成されています。
陸地は環礁全体のうち7.7平方キロメートルにすぎません。

そして地理的な位置はハワイからわずか1828メートルの中央太平洋に位置していたことが、
ミッドウェイの名前を歴史に止めることになるのです。

■ ミッドウエイ島 戦いに参加

1942年の終わりまでに、ミッドウェイ島はいわば「浮沈艦」となりました。

陸軍航空隊のB-17と、双発エンジンのB-26中型爆撃機、
同時に海兵隊の各種戦闘機、そして爆撃機が発進する「母艦」となったのです。
また、PBYカタリナ飛行艇と6機のTBMアベンジャー爆撃機もおり、
トータルで121機の航空機が日本軍の攻撃を待ち受けていました。

 

中でも「インペスベンサブル(欠くことのできない)カタリナ」と呼ばれた
カタリナ飛行艇は、日本艦隊を見つけるためにミッドウェイから扇状に展開して哨戒を行いました。

6月3日午前9時、ジャック・リード少尉(左写真後列右から二人目)率いる哨戒隊は、
ミッドウェイ西方1126キロの海域でミッドウェイに向かってくる敵艦隊を発見しました。

リード少尉の報告を受けて、陸軍のB-17 が爆撃任務のため出撃しましたが、戦果なし。
その夜遅く、4機のPBYが魚雷爆撃を試み、一発のヒットをスコアしています。

さらに6月4日の5時53分、ミッドウェイ島基地のレーダーが150キロの距離に
敵の爆撃機を発見しました。

■ ミッドウェイ島 反撃

7時10分。

ミッドウェイの航空部隊が初めてPBYが発見した敵空母部隊に反撃を行いました。
連続した、しかし組織されない攻撃が数時間にわたって展開され、その過程で
6機のTBMアベンジャー雷撃機が投入されました。

魚雷を換装したBー26爆撃機4機、16機の海兵隊SBD爆撃機、15機の陸軍B-17重爆撃機
そしてついに11機の海兵隊SB2Uヴィンティケイター急降下爆撃機が出撃しました。

Vindicator

アメリカ側の喪失は「驚異的」で、敵にダメージを与えることもできませんでした。
しかしながら、継続的な攻撃は敵の指揮官を混乱させたのも事実です。
このことはアメリカ側の勝利のための条件の潜在的要素となりました。

■ ミッドウェイ燃ゆ

午前6時30分、日本軍の爆撃機がミッドウェイを攻撃しました。
このとき爆撃は海兵隊の司令部、資材庫、飛行艇格納庫に命中し、被害を受けます。

この写真は、戦いの最中にもかかわらず、星条旗を掲揚している海兵隊員たち。
炎上する燃料タンクが向こうに見えています。


続く。