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軍艦香取征戦記念写真集〜士官室士官、士官次室士官の肖像

2020-01-08 | 軍艦

さて、古書店で手に入れた「軍艦香取征戦記念」
「香取」が第一次世界大戦でマリアナ諸島に派遣された、
というところまでわかりました。

ついでに、第一次世界大戦についてさらっとおさらいでき、
さらには日本がどのような形で参戦に至ったのかあらためて確認しました。

今まで全く知識の及ばなかった分野なので、この写真集をきっかけとして
また色々と勉強できそうな気がして嬉しい限りです。

さて、アルバムを開くと、昔の装丁らしくなぜか薄紙が二枚挟んであり、
その次にはこんな書が現れます。

ちなみにこちらは最初にブラザーのコピー機でスキャンした最初のページ。

「同心協力」

という達筆の書は、「香取」艦長近藤常松海軍大佐が、
大正3年12月に揮毫したものです。

近藤常松大佐の写真は、ネット上ではほぼ見ることができないため、
これがもしかしたら唯一出回る肖像になるかもしれません。

 

香取艦長近藤大佐は兵学校15期卒。

同期の「出世組」は、こんなメンバーです。

大将:小栗孝三郎・岡田啓介・財部彪・竹下勇
中将:浅野正恭・中野直枝・永田泰次郎・布目満造・森越太郎・山中柴吉
少将:九津見雅雄

クラスヘッドは、のちに統帥権干犯事件で左遷されることになる
財部彪ですが、わずか80名と人数が少なかった割にはのちの総理大臣(岡田)
を出していますし、このクラスで少将まで行った近藤は、
クラスの上位15名くらいには入っていたんではないでしょうか。


しかし、15期で最ものちに有名になり軍神とまで呼ばれたのは、
成績がトップから程遠かったと言われる広瀬武夫です。

対してほぼ無名の近藤常松は、軍神広瀬の話のついでに
「同級生の近藤がこんなことを書いているが」
という形で海軍史にかろうじてその存在を残しているだけです。

持つべきものは軍神の級友ってことですね。

 

余談ですが、広瀬武夫の兵学校でのハンモックナンバーは、現在でも
「とにかく下の方だった」ということくらいしかわかっていません。

これは、わたしにいわせると、当時の兵学校資料、
ハンモックナンバー順の卒業名簿が存在していないからです。

15期のハンモックナンバーは首席財部、次席岡田ですが、

「卒業者中学術試験に最高点を得たる財部彪は機関砲一班を、
岡田啓介は水雷一班を講演せり」

とだけ記載があるものの、名簿の最初は彼らの名前ではありません。
かと行ってあいうえお順でもなく、全く謎の名簿となっているのです。

兵学校の名簿が成績順になるのは、当ブログの調べたところによると、
明治27年卒業の兵学校21期からのことです。

ちなみに、広瀬や近藤が卒業した明治22年、学術優等として
特に賞を授与されていたのが、当時二号(三年生)だった
秋山真之、三号だった加藤寛治、そして四号からは
前にアルバムを取り上げた練習艦隊司令官だった百武三郎でした。

 

そして艦長と同じベージに並んで写真が掲載されている副長。
艦長と副長を同格にするあたり帝国海軍のリベラルさが窺えます。

副長は菅沼周次郎海軍中佐

しかし中佐の割に若くないですか?この人。
まあ、自衛隊の二佐にはこんな感じの人普通にいそうだと考えると、
髭がないせいでこの頃の軍人にしては幼く見えるだけなのかもしれません。

髭=貫禄

ということで、偉くなると皆普通に髭を立てていた時代、菅沼中佐は
何を思って副長という職にありながら髭なしを選択したのか。

ちなみに冒頭の士官室士官の集合写真で、菅沼副長は、
二列目真ん中の艦長の左側にいますが、遠目に見ても若い。
調べてみるとwikiがありました。

旧平戸藩士菅沼量平の二男として長崎県松浦郡平戸に生まれる
兄は平戸派南進論者として知られた菅沼貞風で、幼時よりその指導を受けた

兄の死後、海軍兵学校(26期)に進み海軍入り

ちなみに兵学校26期は59名クラス、同期には

大将:小林躋造・野村吉三郎
中将:清河純一
少佐:高柳直夫

などがいます。
菅沼は成績は43位とどちらかといえば後ろに近いですが、
最終的にクラスのトップ9入りして少将になったわけですから、
軍人になってから実力を発揮した人なのでしょう。

ちなみに中将になった清河純一は、日露戦争の時に第一艦隊参謀だったので、
東郷司令と一緒の写真に清河大尉として写っています。

関連画像

右上、清河大尉。

わたしは早くから清河大尉のイケメンぶりに目をつけていたのですが、
実はそれは当時も周辺では自他共に認めるところだったらしく、
11期下の井上成美などが「気障だ」といって嫌っていたとかいう噂も。
(あくまでもネットの噂ですので念のため)

今回ネット検索していたら、イタリア人が選んだ日本のイケメン侍、
というランキングこの写真の中から三人、つまり

東郷平八郎、秋山真之、清河純一

の名前が上がっているのには驚きました。
日本人でもほとんど知られていない清河純一の美貌に目を付けるとは、
さすがはアモーレ至上主義のイタリア人。

 

それはともかく、清河の同級生の菅沼中佐です。

日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦に従軍

1924年(大正13年)に少将・佐世保鎮守府人事部長を最後に退官した後、
佐世保市助役に推されたが辞退し、退官翌年の1925年(大正14年)
「西海中学」(のちの西海学園高等学校)を佐世保市八幡町に開校
校名と校章は当時の佐世保鎮守府司令長官伏見宮博恭王より下賜を受けた

1963年(昭和38年)12月26日死去。従四位勲三等功五級

菅沼が創立した西海学園高等学校は、今でも佐世保の名門校で、
wikiによると、校歌は創立当時、

海軍軍楽隊が作曲・贈呈(歌詞は地元の作詞家)

したということです。
海軍式の厳格な教育をモットーとしていましたが、流石に今は
HPを見る限りそういう感じではなさそうです。

ただ、wikiによると、

運動部や体育授業の駆け足号令も、旧海軍同様に
「1ー!2ー! 1、2!(ソーレ!)」
を用いている

そもそもこれが旧海軍の号令だったとは知りませんでした。

ちなみに現在の理事長は菅沼さんとおっしゃる方で、
写真を見る限り菅沼少佐のご子孫であることは間違いなさそうです。

さて、それでは次に士官名簿をご覧ください。

その後の軍歴などもついでに記しておきます。

藤井精次 台湾総督府港務官

秋吉照一 「桜」「能登呂」「朝潮」艦長

海津良太郎 「高崎」「鳳翔」「赤城」艤装員長・初代艦長

(おそらく写真上段右から二番目)

入江淵平 「高崎」「音戸」艦長 三重海軍航空隊司令

脇田四郎 第65駆潜隊司令 44年クェゼリンで戦死

真崎勝次 兄は陸軍の真崎甚三郎、戦後政治家

(おそらく上段左端)

 

ここまでが士官室士官、大尉以上です。
海軍では大尉以上を士官室士官、中尉以下を士官次室士官、
ガンルーム士官と称していました。

 

有馬直 「保津」「汐風」「磯波」艦長 第26駆逐隊司令

藤城錦之助 1922年「新高」沈没時に殉職(33歳)

防護巡洋艦「新高」は、大正11年8月26日、カムチャッカ半島で
台風に遭遇し、座礁後転覆し、この時に藤城さんも亡くなりました。

艦長の古賀琢一大佐以下300余名のうち、生還したのは、
水兵一人、艦内から救出された機関兵15名だけだったそうです。

そして皆さん、気づいた方も多いと思いますが、
ガンルーム士官名簿の最後には、

東郷實

の名前があります。
言わずと知れた東郷平八郎元帥の次男ですね。

学習院中等科を経て、1912年(明治45年)7月、海軍兵学校(40期)を卒業。
「香取」は東郷少尉最初の赴任先でした。

40期は中将大繁殖?の期で、有名人を多出しています。

中将:宇垣 纏 ・大西瀧治郎・左近允尚正 ・醍醐忠重 ・ 山口多聞 

40期は卒業者144名、東郷實は後ろから数えて三番目の成績ですが、
最終的には少将にまで昇進し、上位25名となりました。

東郷元帥の息子だったから出世したのか、それとも
勤務についてから優秀だったからここまでこれたのかはわかりません。

現代でも防大や幹部候補生学校での成績が奮わなくとも、
任官してから実力を発揮して将官になる自衛官は陸空海ともに存在します。

 

ところで士官次室士官の写真のどこに東郷少尉がいるでしょうか。

彼はガンルーム士官の中でも最も「下っ端」ですから、
おそらく真ん中の列ではなく、前列に座っている可能性高し。

わたしはこの前列真ん中の男前がそうではないかと思うのですが、
どうでしょう。

Hyo Togo.jpg

ちなみにこちら東郷實の兄、東郷彪(ひょう)

父親が日露戦争の功労者として得た侯爵位を継ぎ、
貴族院議員となって昭和22年亡くなりました。

ちなみに今回得た情報ですが、東郷彪は黒猫が好きだったらしく、
黒猫の絵、黒猫の像を集めまくっており、
黒猫グッズの蒐集マニアとしても有名だったそうです。

でっていう(笑)

 

続く。