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オフィサーズ・キャビンとワードルーム〜USS「スレーター」

2020-01-31 | 軍艦

USS「スレーター」の艦内ツァーは、まずメインデッキ階の
前方の第一銃座とその後ろのヘッジホッグを見学し、
次のセクションに移動が始まりました。

非常時に鳴り響いたであろうベル。

第一銃座のフェンスにはこのような識別表が貼ってありました。
一段目左上から、

戦闘機

P-38「ライトニング」P-29「エアコブラ」
P-40「ウォーホーク」P-47「サンダーボルト」

二段目

戦闘機 P-51「マスタング」

軽爆撃機 A-20「ハヴォック」あるいは「ボストン」

重爆撃機 B-17「フライングフォートレス」

重爆撃機、輸送機 B-24「リベレーター」

三段目

中型爆撃機 B-25「ミッチェル」B-26「マローダー」

輸送・グライダータグC-47「スカイトレイン」
 C-53「スカイトゥルーパー」

輸送機 C-54「スカイマスター」

さすがにこれだけ長いこと軍用機について語っていると、
これらの名前で聞いたことがないのが一つもないのですが、
問題はライトニングとかはともかく、機体の形が見分けられないことですね。
興味の問題というより、人には得手不得手があるんだとしみじみ思います。 

海にものが落ちた時にはこれを接続して伸ばし、拾う。
多分間違っていると思いますが、本当は何にするものでしょうか。

ポンプに使うホースのストアージ(収納場所)だそうです。

赤くペイントされているのでおそらく火災に関係のある器具。
仮置きされているように見えます。

ここは先ほど見学したギャレーの裏側にあたり、このアクセス・ハッチから
下に降りるとクルー・メス(兵員食堂)です。
先ほどのキッチンでできたものはここから手で運んで下におろしていました。
キッチンのクルーの苦労が忍ばれます。

ギャレーの艦首寄り部分全体が、士官の居住区となります。
ここ全体を「オフィサーズ・キャビン」といいます。

一番艦首寄りにある部屋は士官の4人部屋。
駆逐艦では士官といえども二段ベッドで寝ています。

おそらくこの部屋は初級士官の寝室でしょう。

デスクは蓋収納式で、航海中は閉めておくようになっています。

ロッカーの上に二人分の士官用正帽を置くスペースが。

クリフトン・W・ウォルツ中尉コルトン・P・ワグナー大尉の二人部屋。
オフィサーズ・キャビン左舷側は二人部屋が並んでおり、
そのうち一室は機関士官の部屋となっています。

「スレーター」は一度ギリシア海軍に譲り渡され運用されていたので、
これらの写真は後から展示のために集めてきたものだと思われます。
つまり、この写真は本当にここの住人であった可能性あり。

おそらく航海長らの部屋。洗面所付き。

この一角にシャワーとトイレは一箇所あります。
おそらく艦長以外の士官15名は全員ここを使用したと思われます。

オフィサーズ・キャビンはこのような廊下をはさんで、全部で4部屋居室があります。
右側には「X.O」つまりエグゼクティブ・オフィサーの部屋があります。

この一角で一番階級が高いのはこのエグゼクティブオフィサー。
日本語で言うと副長です。

副長だけは洗面台付きの一人部屋をもらえます。

いくつかの海軍映画では必ずそうであるように、階級的には
副長は艦長と同じということになっているようです。

航海長や船務長にあたる役職の士官は、二人部屋。
おそらく先任が下のベッドを使えるのではないでしょうか。

デスクライトは机に作りつけですが、それにしても変わった形です。

艦の前方にキャビンが固まっていますが、その後方には
「オフィサーズ・ワードルーム」があります。

しかしなぜ「バトルドレッシング・ルーム」と書いてあるのでしょうか。

それはこの士官食堂が、非常時には傷病者の看護室になるからでした。

テーブルにはクロスがかけられ、陶器の食器とシルバーが並びます。
駆逐艦でも潜水艦でも、オフィサーはこういう食事を取るのが慣例。
これは大航海時代の帆船のころからあった慣習です。

ワードルームの壁には、この駆逐艦の名前となった「スレーター」の写真があります。
スレーターとは1920年、アラバマ生まれのフランク・オルガ・スレーター
海軍入隊後、1942年4月4日から

USSサンフランシスコCA-38

の乗員でした。
ご存じのように巡洋艦「サンフランシスコ」は1942年11月12日〜13日、
ソロモン諸島で日本軍と交戦しますが、このときスレーター水兵は
20ミリ対空砲の砲手として、死の瞬間まで持ち場で攻撃を続けました。

アーリントン国立墓地にある彼の墓石にはこのように刻まれています。

彼は1942年11日、12日、13日にソロモン諸島地域で、
USS「サンフランシスコ」の砲手として並外れたヒロイズムを発揮した。

攻撃しながら突撃してきた日本軍の戦闘機に直面しても、
彼は自分の持ち場を放棄するなく勇敢に戦い続けた。

我が身の安全を省みることもなく冷静に迎撃を続け、
敵航空機が炎のように急降下攻撃を行い、
彼の持ち場に激突する瞬間まで、
攻撃をやめることはなかった。

そして自分の任務のために死に直面しながらも献身的に義務を果たした。
彼は祖国の防衛のために人生を投げ打って勇敢に戦ったのである。

 

左下 ニミッツ提督を表紙にしたライフ

右上 報道雑誌「コリアーズ」

「コリアーズ」は1888年から54年までアメリカで発行されていた週刊誌で、
表紙のイラストには当時一線だった画家が作品を提供していました。

中央の新聞は、イタリアが降伏したときのニュースが掲載されています。

「バトルドレッシング・ルーム」と日本語で検索しても、それが
戦闘時負傷者の応急手当てを行う軍艦の場所のことであるという
説明がされているのは残念なことに当ブログだけです(笑)

つまり、日本語では全く流通していない名称ということになりますが、
その思想はしっかり受け継がれています。

たとえば我が自衛隊の護衛艦などには、必ず
幹部用の食堂テーブルの上部にこのような医療用無影灯が設えてあって、
いざという時にはテーブルの上で手当て(手術)が行われる、
ということを見学の際説明を受けてご存知の方もおられるでしょう。

その「いざ」というときのため、ワードルームの一角には医療品の棚もあります。

左、「スレーター」の生まれ故郷である「ベツレヘムスティール」のポスター。
戦争中、造船所はフルスピードで「スレーター」のような
「戦死した乗組員の名前シリーズ」を量産していました。

一隻の駆逐艦を23日と8時間で建造、というのは「新記録」です!
と誇らしくポスターにも書いているわけです。

右側の戦意高揚ポスターは、当時の造船担当の中将のことばで、

護衛駆逐艦の装備の生産者の皆さん:大西洋の戦いは時間の戦いです。
Uボートの「ウルフパック」は攻撃を待ってはくれません。
我々の護衛駆逐艦「ウルフ・ファウンド」を待たせないでください。
しっかり働いてあなたたちの役目を果たしてください!

と書かれています。
ナチスの潜水艦作戦「ウルフパック」(群狼作戦)に対抗して、
対戦駆逐艦を
「オオカミ探し屋」と呼称しているわけですね。

このポスターを「スレーター」に寄付したのは、面白いことに
このアルバニー地域にある「元潜水艦乗りのベテランたち」の協会です。

テーブルの上の食器にはことごとくアンカーのマークが刻まれています。

レコードを何枚もストックして順番に演奏することができる
当時最新式の蓄音器も士官室食堂ならでは。

右側は「ベルボトム・トラウザーズ」(ラッパズボン)なるレコード。
これは、ギイ・ロンバルドという歌手のヒット曲です。

Bell Bottom Trousers - Guy Lombardo

かつて隣に住んでいた女の子 彼女はセーラー服の三歳の少年を愛してた
今、彼はセーラー服を着て戦艦に乗ってる 
もう「立派な船乗りだけど 彼女は彼をかわいいと思ってる 
(ベルボトムズボン、紺のコート付き 彼女は水兵を愛し、彼も彼女を愛してる)
船乗りたちがオカにあがると、みんな彼女に夢中でも、
彼にとっては彼女が本命さ
彼らは笑顔で水兵帽を傾けてウィンクする
彼女はただ微笑んで頭を横に降り、そっとため息をつく
彼女のセイラーが海に行く  そこで何をみたんだろう
2番には、
「ほうれん草を食べるとたちまち彼は大きくなった」
なんて、それどこのポパイ、みたいな歌詞もあります。

キッチンにはいまでは滅多に見ることのないコーラの瓶が。

 

コーラの瓶で思い出した余談ですが、昔、まだ息子が2歳くらいの時、
アメリカに住んでいたわたしたちは、西海岸のカーメルという街
(クリント・イーストウッドが市長をしていた)にドライブで立ち寄って、
そこで小さな古いホテルに泊まったことがあります。

フロントでチェックインをしていたら、その間しばらく
一人でテラスのところで庭を眺めていた息子が、部屋に入ってからずっと、

「お姉ちゃんが車に轢かれたの」

「お姉ちゃんは死んでしまってお父さんが泣いてる」

「そのときにコーラの瓶が割れたの」

と語り出し、ことに最後の「コーラの瓶が割れた」を
何度もくりかえしたので、夫婦でゾッとしたことがありました。

なぜなら2歳の息子はコーラというものを飲んだこともないし、当然
「コーラの瓶」など一度も見たことがなかったのです。

あのとき、一人で庭にいた彼に(というか彼の脳内に)何が起こったのか、
今でも
不思議に思うことがあります。

先日ふとその時のことを聞いてみたところ、全く覚えていませんでした。

さて、「スレーター」の修復には莫大なお金がかかりましたが、
ほとんどは寄付で賄われました。

現在の維持費も常に寄付を募っています。

かつての「スレーター」乗組員の写真。
一緒に写っているのが若い女性ばかりなので、ダンスパーティのときのものでしょう。

当時のダンスパーティのBGMの定番はグレンミラーです。
男性が何かを手に持っていますが、基本的に展示は
どこを触っても咎められるようなことはありません。

「スレーター」の第二次世界大戦中の行動範囲と
当時の姿が額に入れられていました。

第二次世界大戦中の全ての行動を線で表したものですが、
大西洋側は船団護衛任務で大戦初期、後半は
太平洋側に進出したことがわかります。

このシリーズを始めてから、読者の方々からもその保存と
維持の努力には称賛の声が上がっていますが、電話の後ろの盾は、

「The Amerikan Welding Society 
Historical Welded Structure Award 」

(アメリカ溶接業界:歴史的溶接構築物大賞)

このアワードは地域社会で溶接のイメージを向上するのに
模範的な献身を示した個人と組織が表彰されることになっています。

歴史的な艦船の復元を溶接業界に高く評価されたということですね。

 

続く。