
スミソニアン航空博物館の初期の航空セクションから、
今日は当時の航空技術についてお話しします。
■初期の航空技術
1918年に航空郵便サービスが開始されたとき、
驚くべきことに飛行機は誕生してからまだ15年しか経っていませんでした。
それは依然として、木材と布を加工して作られ、ほとんどが複葉機でした。
驚くべきことに飛行機は誕生してからまだ15年しか経っていませんでした。
それは依然として、木材と布を加工して作られ、ほとんどが複葉機でした。

ツェッペリンE.4/20
かたやヨーロッパはというと、
第一次世界大戦後、航空技術で世界をリードしまくっていました。
彼らはコクピットのモノコック(単一の殻)構造を開発し、
機体に空力負荷を担わせ、構造重量を軽減する技術を手に入れていました。
特にドイツでは、ヒューゴ・ユンカースが、
内部支柱付き片持ち翼の特許を取得していましたし、
アドルフ・ロルバッハは、このツェッペリンE.4/20を含む
一連の先進的な全金属製航空機を製造していたのです。
彼らはコクピットのモノコック(単一の殻)構造を開発し、
機体に空力負荷を担わせ、構造重量を軽減する技術を手に入れていました。
特にドイツでは、ヒューゴ・ユンカースが、
内部支柱付き片持ち翼の特許を取得していましたし、
アドルフ・ロルバッハは、このツェッペリンE.4/20を含む
一連の先進的な全金属製航空機を製造していたのです。
米国の航空技術は当時ヨーロッパにかなり遅れをとっており、
しかもその差が開いていく事態を懸念したアメリカ議会は、1915年、
米国航空技術委員会
The National Advisory Committee for Aeronautics
(NACA)
を設立し、米国の航空研究を監督・指導することになります。
その成果は1920年代の終わりまでに現れ、実を結びました。
スミソニアン学芸部長のチャールズ・D・ウォルコットの働きかけにより、
NACAはすぐに米国屈指の航空研究機関となり、その結果、
米国で最も創造的なエンジニアの何人かが集結してくることになります。
NACAとその後継機関である
NACAはすぐに米国屈指の航空研究機関となり、その結果、
米国で最も創造的なエンジニアの何人かが集結してくることになります。
NACAとその後継機関である
米国航空宇宙局
The National Aeronautics and Space Administration
(NASA)
の先駆的な研究により、飛行に関する最も困難な問題の多くが解決され、
すべての航空機の性能と安全性が大幅に改善されました。
NACA/NASAは、航空輸送において最も重要な技術を開発し、
この重要な研究は現在も継続されているのです。
この重要な研究は現在も継続されているのです。

スミソニアンの3人目の事務局長、サミュエル・P・ラングレーにちなんで
名付けられたNACAのラングレー記念研究所は、1917年に開設されました。
この飛行試験施設には、初の与圧(可変密度)風洞が設置されました。
風洞は、翼の形状に関する精密なデータを収集するためのものです。
名付けられたNACAのラングレー記念研究所は、1917年に開設されました。
この飛行試験施設には、初の与圧(可変密度)風洞が設置されました。
風洞は、翼の形状に関する精密なデータを収集するためのものです。
そうそう、このラングレー。
この名前にあまりいいイメージがなかったので記憶を辿ったところ、
自分の開発したエアロドームという飛行機の実験に失敗したので、
ライト兄弟の世界初飛行の功績を潰そうとしたやつじゃないですか。
このように、初のNACA研究所に名前を残し、のみならず
アメリカ海軍最初の空母、「ラングレー」CV-1にも名前を残したんだから、
そんなに欲張らなくてもよかったんじゃないかって気はしますが。

この名前にあまりいいイメージがなかったので記憶を辿ったところ、
自分の開発したエアロドームという飛行機の実験に失敗したので、
ライト兄弟の世界初飛行の功績を潰そうとしたやつじゃないですか。
このように、初のNACA研究所に名前を残し、のみならず
アメリカ海軍最初の空母、「ラングレー」CV-1にも名前を残したんだから、
そんなに欲張らなくてもよかったんじゃないかって気はしますが。

NACAは、飛行特性をテストし、新たな設計パラメータを作成するために、
19機の航空機を入手して研究に取り掛かります。
翼の空気圧分布を測定する機器を設計し、エンジンの研究も開始したのです。
翼の空気圧分布を測定する機器を設計し、エンジンの研究も開始したのです。
この結果完成したのが、水冷式エンジン、リバティV-12でした。
■ 水冷式エンジン

1920年代のほとんどの飛行機は、水冷エンジンを使用していました。
水冷エンジンは大きさの割に強力ではあったのですが、問題は重量。
その上、信頼性もイマイチでした。
それでも、当時空冷エンジンは小さなものが作れなかったことと、
パワーもなかったため、ほとんどの飛行機は水冷式エンジンを搭載しました。
写真は、第一次世界大戦の軽爆撃機用に設計された
リバティV-12 水冷式エンジン
で、1920年代に広く使用されていました。
リバティ・エンジンは、郵便局のデ・ハビランドDH-4や、
初期の航空会社が使用したほとんどの郵便機に搭載されていました。
しかし、1920年代後半にライト社やプラット&ホイットニー社が導入した
新世代の空冷式エンジンと比較すると、性能は明らかに劣るものでした。
水冷エンジンは大きさの割に強力ではあったのですが、問題は重量。
その上、信頼性もイマイチでした。
それでも、当時空冷エンジンは小さなものが作れなかったことと、
パワーもなかったため、ほとんどの飛行機は水冷式エンジンを搭載しました。
写真は、第一次世界大戦の軽爆撃機用に設計された
リバティV-12 水冷式エンジン
で、1920年代に広く使用されていました。
リバティ・エンジンは、郵便局のデ・ハビランドDH-4や、
初期の航空会社が使用したほとんどの郵便機に搭載されていました。
しかし、1920年代後半にライト社やプラット&ホイットニー社が導入した
新世代の空冷式エンジンと比較すると、性能は明らかに劣るものでした。
しかし、この欠点の多い水冷式も、第一次世界大戦時には
アメリカが貢献した最も重要な貢献の一つと評価されています。

1921年、デハビランドDH-4の郵便飛行機
次に、その後登場したライトの空冷式エンジンをご紹介します。
■ 空冷式エンジン ライト J-5 ワールウィンド

ライトJ-5 ワールウィンド。
世界最初の近代的な航空機エンジンと考えられています。
ライト・エアロノーティカル・コーポレーションが、
ローレンスJ-1エンジンを基に開発したJ-5は、220馬力、
ナトリウム冷却式排気バルブと自己潤滑式エンジン初めて搭載しました。
これらの革新により、信頼性が大幅に向上し、
J-5は1927年の名高いコリアー賞を受賞しました。
チャールズ・リンドバーグが大西洋横断のとき乗った、
「スピリット・オブ・セントルイス」にも搭載されていました。
また、初期の輸送機であるフォード4-ATトライモーター、
世界最初の近代的な航空機エンジンと考えられています。
ライト・エアロノーティカル・コーポレーションが、
ローレンスJ-1エンジンを基に開発したJ-5は、220馬力、
ナトリウム冷却式排気バルブと自己潤滑式エンジン初めて搭載しました。
これらの革新により、信頼性が大幅に向上し、
J-5は1927年の名高いコリアー賞を受賞しました。
チャールズ・リンドバーグが大西洋横断のとき乗った、
「スピリット・オブ・セントルイス」にも搭載されていました。
また、初期の輸送機であるフォード4-ATトライモーター、
ピトケアンPA-5メールウィング、フェアチャイルドFC-2など、
多くの航空機にも搭載されていました。
■ ピトケアンPA-5 メールウィング

多くの航空機にも搭載されていました。
■ ピトケアンPA-5 メールウィング

スミソニアンには、このコーナーのほとんど真上に、
ライトJ-5を搭載した郵便飛行機PA-5「メールウィング」を展示しています。

上のデッキからも写真を撮りました。

20年代半ばに製造された航空機の多くは、第一次世界大戦が終わり、
用済みになって全米の田舎の飛行場を飛び回っていた練習機と似ていました。
ある意味デザインはそこから離れられなかったというところです。
そこで、進取の気性に富んだ飛行機愛好家は、トップデザイナーを雇い、
「新しい」「今までになかった」タイプの飛行機を製造しました。

ライトJ-5を搭載した郵便飛行機PA-5「メールウィング」を展示しています。

上のデッキからも写真を撮りました。

20年代半ばに製造された航空機の多くは、第一次世界大戦が終わり、
用済みになって全米の田舎の飛行場を飛び回っていた練習機と似ていました。
ある意味デザインはそこから離れられなかったというところです。
そこで、進取の気性に富んだ飛行機愛好家は、トップデザイナーを雇い、
「新しい」「今までになかった」タイプの飛行機を製造しました。

1925年、一連の複葉機の設計を開始し、
1927年ピトケアンPA-5「メールウィング」を世に送り出したのは、
アグニュー・ラーセンという技術者です。

ピトケアン、ワシントンDCにて
1927年ピトケアンPA-5「メールウィング」を世に送り出したのは、
アグニュー・ラーセンという技術者です。

ピトケアン、ワシントンDCにて
機体名、ピトケアンとは、のちのイースタン航空となった、
ピトケアン・エアクラフト・カンパニーのことで、
設立したのはオートジャイロの父というべき航空設計の奇才、
ピトケアン・エアクラフト・カンパニーのことで、
設立したのはオートジャイロの父というべき航空設計の奇才、
ハロルド・フレデリック・ピトケアン(1897-1960)
の名前から取られています。
(死因は公式には自殺だったと言われていますが、拳銃事故説もあり)
(死因は公式には自殺だったと言われていますが、拳銃事故説もあり)
彼はPA-5メールウィングスの開発にも関わっていました。


このトリム式、オープンコックピットの複葉機は高い評価を得て、
100機を超える派生機が生産されることになりました。
PA-5の優れた性能は、3つの要因に由来するものでした。
それは、
クリーンで軽量な機体、
信頼性の高いライト・ワールウィンドエンジン、
ピトケアン開発のオリジナル翼型
で、時速136マイルの比較的高速な最高速度、そして何より
航空便に求められる優れた積載能力を実現していたことでした。
開発にあたり、ラーセンと彼のチームは、初期の航空郵便路線において、
小さな荷物を運べる航空機という目標の元に、
創造的なエンジニアリング技術を駆使しました。
航空便の需要が高まった数年後には、他の航空機設計者が陥った落とし穴を、
この、先を読んだ設計だけは避けることができたのです。
小さな荷物を運べる航空機という目標の元に、
創造的なエンジニアリング技術を駆使しました。
航空便の需要が高まった数年後には、他の航空機設計者が陥った落とし穴を、
この、先を読んだ設計だけは避けることができたのです。
構造は基本的に従来と大きく変わるものではありませんでしたが、
胴体に簡単に製造できる角形鋼管を使用したり、
エンジンの取り付けが簡単に素早くできる仕掛けなど、
いくつかの革新的な特徴がありました。
胴体に簡単に製造できる角形鋼管を使用したり、
エンジンの取り付けが簡単に素早くできる仕掛けなど、
いくつかの革新的な特徴がありました。

PA-5は、米国民間航空局の認可が出たわずか4か月後の1927年11月27日、
テキサス航空輸送の契約航空郵便路線21で初めて使用されました。
しかし、この飛行機の評判が確かなものになったのは、
ニューヨーク-アトランタ間のCAM #19便でのサービスです。
1928年5月1日に運航開始。
テキサス航空輸送の契約航空郵便路線21で初めて使用されました。
しかし、この飛行機の評判が確かなものになったのは、
ニューヨーク-アトランタ間のCAM #19便でのサービスです。
1928年5月1日に運航開始。
夜間飛行を行う小型のピトケアン機は、新たに照明が設置された
ニューヨークからフィラデルフィア、ボルチモア、ワシントン、
リッチモンド、アトランタまでの760マイルの航路を就航しました。

この飛行にかかるのは7時間、鉄道の所要時間のわずか3分の1でした。
先見の明のある同社は、1928年、アトランタ - マイアミ路線を引き継ぎ、
その後継企業イースタン・エア・トランスポートの基本構造を築きました。
新たな路線は595マイルが追加され、16機のメイルウィングの改造によって
ニューヨーク-マイアミ間の15時間運航が可能になりました。
その後継企業イースタン・エア・トランスポートの基本構造を築きました。
新たな路線は595マイルが追加され、16機のメイルウィングの改造によって
ニューヨーク-マイアミ間の15時間運航が可能になりました。
他の航空会社もPA-5、および後続のPA-6、PA-7、PA-8を購入しました。
その一部には、コロニアル航空輸送、コロニアル・ウェスタン航空、
ユニバーサル・ディビジョン・オブ・アメリカン航空が含まれています。
■空冷式エンジン プラット&ホイットニー ワスプ

ライト航空は成功したJ-5エンジンのさらなる開発を要求されましたが、
これに反旗を翻した社長のフレデリック・レンチュラー、チーフデザイナー
ジョージ・ミード、チーフエンジニアのアンドリュー・ウィルグースの3人は
独自の空冷星型ラジアルエンジンを開発する計画を海軍に伝え、
ライトを去って、プラット&ホイットニー航空機会社を設立しました。


レンチュラーとミード
信頼性と効率性に優れた425馬力の9気筒空冷ワスプは、
フォード5-ATトライモーターやボーイング40Aなど、
多くの軍用機や民間機に採用されるエンジンとなり、
アメリカ機械学会から歴史的工学ランドマークに指定されています。
続く。
フォード5-ATトライモーターやボーイング40Aなど、
多くの軍用機や民間機に採用されるエンジンとなり、
アメリカ機械学会から歴史的工学ランドマークに指定されています。
続く。