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”ライブ・オークの呪い”〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

2017-01-21 | 博物館・資料館・テーマパーク

ボストンの歴史的遺産であり、観光資源。
それだけでなく「ナショナル・シップ」として永久にその保存が
議会によって決められている帆船「コンスティチューション」。

その保存に至るまでのことを少し話しておきます。



1800年代終わりには蒸気船の時代となり、帆船は一線を退くことになり、
「コンスティチューション」も解体処分が検討されたのですが、
1905年、艦体を残すことが多くの国民の請願によって決まります。

1917年には「レキシントン型」巡洋戦艦(巡洋艦ではない)の
「コンスティチューション」に名前を譲るため、彼女はいったん
「オールド・コンスティチューション」と改名させられますが、軍縮条約で
レキシントン型の巡洋戦艦を造る計画そのものが中止になったため、
1925年には元の名前に戻されました。

そして熱心な支持者の寄付した資金で修復が行われ、アメリカの象徴として
全土の沿岸の都市を曳き船に引かれて訪問しています。

この後の修復でマストや艤装など全てが取り替えられ、砲はダミーに変わりました。
ただしこの写真は1907年に撮影された修復前のものなので、
写真に写っているカロネード砲は稼働可能なものだと思われます。

 

 1927年6月16日、「コンスティチューション」はドライドックに入りました。
修復に必要な942,500ドルのためにファンドが立ち上げられました。
写真は修復後上部構造物が元に戻された「コンスティチューション」の姿。
1931年の7月1日の写真です。



1992年から1996年にかけても大規模な修復が行われました。
この改装では、前の改装の際に時間と金を節約するために
取り除かれていた最小の構造材料の多くが再び使われました。
これは実際に海を帆走することを念頭に行われた措置です。

一つの波頭が船体の中央を押し上げて、船首および船尾が下がり、
船体が曲がることを「ホッギング」といいますが、
このホッギングに抵抗するため斜補強材を組み込むことも再現されました。



2度目の訪問時は天気が良かったので、甲板の
内側の綺麗なブルーグリーンがよくわかっていただけるでしょうか。
冒頭写真は甲板の船首部分に立ち、バウスプリット方向を真っ直ぐ見たところ。



て、前回「コンスティチューション・グッズ」でご紹介に漏れた
幾つかの製品をここであげておきます。

7番「ビレイング・ピン」です。
お節介船屋さんに「ビレイピン」という言葉を教えていただいていたので
たちどころにこれが何かを理解しました。ありがとうございました。

甲板のロープを結びつけるための可動式のピンで、これは
1873年から1877年の間に行われた全面改修のさい外されました。
全部が木でできているので、昔の船は改修ごとに頻繁に部品を変え、
それ自体を記念品として販売していたようですね。

8番の銅
メダルも同じ改修の時に「コンスティチューション」から
取り外された銅で作った記念品です。

9番のレターオープナーは1906年〜1907年の改修の際、
船体に使われていた釘をはずしてそれから作られたものです。

10番「カービル」(Carvil) といって、大きなビレイピンです。
1855年にポーツマスの海軍工廠で取り外されたものに銘板を打ち、
そこには

これはUSS「コンスティチューション」のカーヴィルであり、
ポーツマスのヘンリー・ザクスターがマサチューセッツの
スーザン・ウィラードに贈ったものである

ということが書かれています。 
男性から女性に贈るロマンチックなプレゼントには如何なものか、
という気もしますが、まあなんか事情があったのでしょう。 



さて、コンスティチューション博物館には「コンスティチューション」が
建造されるにあたって、木材の選定の経緯から説明があります。

「船の外殻はすなわち骨組みでもある。
内部に使う木材は、腐食に強いものでなくてはならず、
荒れ狂う波にも耐え、大砲発射の衝撃に耐えるものでなくては・・。
どの木が一番良いだろうか?」

右側の「メイドインアメリカ」の地図の上には、

「我が国の戦艦は我が国にある素材から作られるべきだ」

というベンジャミン・ストッダードという、ジョン・アダムス大統領に
初代海軍長官に任命された政治家の言葉が書かれています。



そこで1795年から、ジョージア・シー・アイランドで、ライブオークの木の
伐採が造船工と「アックスマン」という名の黒人奴隷によって行われたのでした。

しかしジョージアの潮を帯びた沼地で硬くて重いオークの木を
手仕事で伐採する重労働に彼らは大変苦しんだと言います。



「こんな仕事うんざりだ。
ご主人は俺がひでえ思いをして働いた賃金をまるまる懐にいれるが、
おれにはびた一文よこしやしねえ。
ほとんどのヤンキーアックスマンは見てるだけでここに住みもしねえで、
しかも病気になったらすぐに帰されてしまいやがる。

おれには選択肢はねえ。
逃げたくたってもどこにも行く場所はねえがな」 



こんな仕事、うんざりだ!
24時間働きづめでいつお迎えが来てもおかしくないんだ。
蛇に噛まれるか、熱でやられるかで死ななかったとしても、
すぐに倒れてきた木に押しつぶされるか、さもなければ
巨大な車輪の下に潰される大勢のうちの一人になるだろうさ」

みなさん、うんざりしておられるのはよーくわかりました。



さて、こんな苦労をして現地から切り出してきたライブオークの木。
この人物はジャン・バプティスト・ル・コートワという船大工です。

「ボストンで一番大きな船であるコンスティチューションを作るため、
巨大なオークの木を裁断したり組み立てるのは大変な仕事だ。
この船を作るためにはたくさんの人出が必要なんだ」

その下には「手伝いますか?」とありますが、これは右側の
船の外殻に合わせて木材を切り組み立てるコンピュータゲームへの
お誘いとなっています。



これはフリゲート艦「フィラデルフィア」の建造のようす。
ドライドックもない頃なので、地面にコロをしき、その上に
船を作って行っているような感じですね。

会談ではなくスロープ式の通路を作っていたようですが、
これではおそらく事故もしょっちゅうだったと思われます。



さて、二回目に「コンスティチューション」に乗った時のことです。
「コンスティチューション」乗員がいきなり一段高いところに登り、
ろうろうとその歴史、建造から彼女が「オールドアイアンサイズ」と
言われるに至ったイギリス軍艦との戦闘に至るまでを説明し始めました。



彼もまた先ほどの水兵のように、2週間のブートキャンプを終えたところで
いきなり「コンスティチューション」への着任を指示され、
ここでの仕事は国民にこの「アメリカの船」を宣伝すること、といわれて
こういうパフォーマンスも任務の一環として淡々とこなしているのでありましょう。

演説のような説明が終わった後は、見学客が盛大な拍手で
彼をねぎらいました。



あとで甲板下を見ていたらうろうろしていた先ほどの人。
見張りも彼らの大事な任務の一つなのでしょう。



こちらの写真は最初の訪問のとき。
甲板に人が少なく、天気が悪かったので画面が暗いです。

この二人の女性はおそらく姉妹でしょう(確信)



絵に描いたような「アメリカ人観光客スターターパック」な人が・・・・。

こちらは船尾。
船尾にはこのように下を覗き込むためのスリットが3つ穿たれています。
しゃがみこんで転落防止のネット越しに熱心に外を眺める家族がいました。



ちなみに先ほどのライブオーク伐採の話に戻りますが、
当時の先任船大工のトーマス・モーガンという人は、80人からなる
ニューイングランド在住のアックスメンと(エックスメンじゃないよ)
船でジョージアに渡りました。
 
一口で言ってそれは「バックエイキングワーク」(背中の痛くなる仕事)
だった、とかれは述懐しています。

現地は始終雨が降り、高温多湿でマラリアに罹る者が続出しました。
ニューイングランドの気候で生まれ育った彼らには、全く順応できない
厳しい現地の気候だったため、病気で送り返されなければ現地で
死んでしまうため、中には帰るために仲間を殺した人もいました。

結局、ニューイングランドからきた白人の船大工の中で
最後までここで仕事を続けることができたのは、モーガンを含む
たった4人だけであったと伝えられます。 
もちろん、帰ることを許されない黒人奴隷たちは別です。

彼はこんな言葉を残しています。


「もし、木を全部切るまでここに残っていたなら、必ず死ぬ。
ここにきた者には、等しく”樫の木の呪い”が待っているんだ」



続く。