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航空郵便輸送の始まり〜スミソニアン航空博物館

2025-05-08 | 航空機

前回お話ししたのは、初期の商業航空定期便が、
ほとんどは資金不足のために長続きしなかったという例ですが、今日は、
米国政府がどうやってその後の輸送システムを支援したかについて話します。

■郵便局は航空便を始めた

航空輸送という新しい分野はリスクの高いビジネスでした。
初期の航空会社は採算が取れず撤退し、そして解散していきます。
航空業界は軌道に乗ることができませんでした。

そこで政府は、航空輸送システムを確立するために、
飛行機を使った郵便物の運搬を開始しました。

従来の駅馬車、蒸気船、鉄道に加わる新しい交通システムの育成のために
連邦政府は、郵便を空輸することを米国郵便局に許可したのです。

そして1918年、アルバート・バールソン郵便局長と
オットー・プレーガー第二郵便局長補の構想は、
アメリカ航空郵便サービスの創設によって現実のものとなったのでした。

■ システムのテスト

航空による郵便輸送の可能性を示すため、郵政局は、
1911 年 9 月 23 日にニューヨーク州ロングアイランドで開催された
国際航空大会の祝賀行事の一環として、特別航空郵便飛行を承認しました。 

Earl Ovington

パイロットのアール・オヴィントンは、1911 年に
クイーン機でこの短い、しかし歴史初の航空郵便飛行を行いました。
クイーンは、人気のあったブレリオの単葉機の設計をベースとしていました。

オヴィントンは、両足の間にいっぱいの郵便袋を挟んで離陸し、
数マイル離れたミネオラに向かいました。
彼は飛行機を傾けて、袋を船外に押し出しました。
袋は地面に落ち、地元の郵便局長が回収しました。 



この時のオヴィントンのフライトは記念飛行でしたが、
歴史上これが初めてのUSPOD後援による郵便空輸となりました。

距離にしてわずか6マイルで、所要時間は6分。
地面に投下したせいで、バッグは地面で破損してしまいましたが、
この時の手紙640通とハガキ1,280枚は、無事に配達されました。

翼に13 Ovington U.S.Mail Aeroplane と書かれた世界初の郵便輸送機
ブレリオ・クイーントラクター型単葉機ドラゴンフライ


郵政長官から公式郵便パイロットを任命されたオヴィントンの宣誓書

■ 定期航空便サービスの開始

1918年、ニューヨークからフィラデルフィアを経由し、
ワシントンD.C.への郵便輸送が始まりました。
このサービスのスタートは困難に満ちていました。

1918年5月15日の朝。

2機のカーチス・ジェニーがどちらも郵便物を搭載し、
1機はワシントンD.C.から、もう1機はニューヨークのロングアイランドから、
ほぼ同時刻に離陸を行いフィラデルフィアを目指しました。



ワシントンから離陸したのは、ルーベン・H・フリート陸軍少佐(左)と、
操縦を担当したジョージ・ボイル中尉でした。


ニューヨークから出発したのは、トーリー・H・ウェッブ大尉
ジェームズ・C・エドガートン大尉。(写真はウェッブ大尉)

彼らの目的地はフィラデルフィアのエドガータウンで、
2機の飛行機は、ここで郵便袋を交換して飛び立ち、帰路に着きます。

そう、そしてこれがワシントン-フィラデルフィア-ニューヨークの
双方向航空郵便サービスという夢のような計画でした。

計画段階ではそれはうまくいくかに思われました。



この国家的大行事のために、ウッドロー・ウィルソン大統領は、
ワシントンのウエスト・ポトマック・パークでの開会式を司会しました。

写真は、陸軍航空局から必要な航空機とパイロットを集めて
最初の航空郵便サービスを組織したフリート少佐と話す大統領です。


ワシントンのポログラウンドを離陸するボイル機。
両翼端を人が押しているのに注意。


こちらは出発前ポーズを取るフリート少佐。

■’フィリー’はどっち?

しかし定期航空便の初日は、なかなか予定通りにはいかなかったのです。

午前 11 時 47 分に離陸した直後、ボイル中尉は方向感覚を失い、
目標にしていた線路の方角を間違えて南へ飛んで行ってしまいます。
(コンパスが故障していたという話もあり)

道に迷ったことに気づいたボイルは、わずか 18 分後の午後 12 時 5 分、
とりあえず着陸して、地上で自分の位置を確認しようとしました。

しかし、不運なことに、着陸時に飛行機がひっくり返ってプロペラが壊れ、
再び飛び立てなくなり、任務の継続が困難になりました。

とりあえず、相手のあることなので、運んでいた 郵便物を
トラックでワシントンまで運ぶことにします。

ボイル中尉とフリート少佐はルートについて打ち合わせていましたし、
フリート少佐は正しい方向を指示したのにも関わらず、
何を思ったか、ボイル中尉がそれに逆らって方向を失ったとされます。

悪いことは言わん。一応上官なんだから言うことを聞いておけ。

それではウェッブ中尉-エドガートン中尉組はどうだったかというと、
144ポンドの郵便物を積んでロングアイランドのベルモント競馬場を出発し、
1時間後にフィラデルフィアに到着しました。

そしてその日のうちにニューヨークに帰還しましたが、
持って帰るべきワシントンからの郵便物は間に合いませんでした。

うーん・・・・これって要するにボイル中尉一人のミスなんじゃね?

そう思ったのはもちろんわたしだけではなく、ボイル中尉は
ミスの責任を取らされ、フリート少佐に飛行隊のクビを言い渡されました。

まあでも、飛行学校を出たての彼にはちょっと荷が重かったのかな。
だったら尚更上官の言う通りにしろって話ですが。

■ エドガートン大尉グッズ



冒頭の写真は、ほとんどがこの時エドガートン大尉が着用していたものです。

エドガートン大尉は191年に陸軍を退役し、その代わり、
アメリカ航空郵便サービスの飛行部長を務めるようになりました。


初期の航空郵便は厚手のキャンバス地の袋に入れられ、
パイロットの足元の特別なコンパートメントに積まれて運ばれました。


画面右下の手紙は、史上初のエアメイルフライトで運ばれたもの。

「今日開通したニューヨーク、フィラデルフィア、
ワシントンを結ぶ航空便があなたへのメッセージを配達しました。
これは11万1000人規模のネットワークの先駆けとなるでしょう」


と始まるこの手紙の差し出し主は、どこにも説明がないのですが、
ワシントンにいる「プレジデント」のようです。(ウィルソンではない)


これは、1918年5月14日と15日の飛行記録が記された、
ジェームズ・ エドガートン大尉の飛行日誌です。

パイロットは、他のパイロットに残すため自分の経験を書き留めます。

どんな問題を抱えて飛んだのか、バストルトンフィールドからワシントンまで
どんなことがあったのかがきっとここには克明に記されているのでしょう。

■ カーチス「ジェニー」



同じスミソニアンと言ってもここではなく、空港近くの
ウドバーヘイジー国立航空博物館展示の「ジェニー」です。
ワシントンのこちらにもかつてはあったようですが、この訪問時、
ジェニーは保存のため撤去されていて現地にはありませんでした。

ジェニーJN-4Dはカーチスの名機で、この頃のパイロットの一人は、

「私はいつも、それはとても安全な飛行機だと思っていた。
なぜなら、キャブレターがひどく飛行機を振動させるので、
翼の氷を振るわせるほどだったからだ。」


と言っています。
キャブレターが振動すればなぜ安全と感じるのかよくわかりませんが。

米陸軍航空隊の練習機として設計されたカーチスJN-4は、1916年に初飛行。
一般に「ジェニー」として知られ、第一次世界大戦中、
何千もの連合国パイロットに飛行を教える優れた練習機でした。

ジェニーはニックネームで、機体名の「JN」を、アメリカ人はどうしても
「ジェイエン」とか「ジェン」と発音してしまうので、
それならいっそ名前にしてしまおうと「ジェニー」になりました。

戦後、余剰となったジェニーは「バーンストーム(遊覧飛行)」や
巡回航空ショーに広く使用され、定期航空郵便サービスを開始しました。


1934年に行われたマックロバートソン・レースで、
クライド・パンボーンが自動車からジェニーのランディングギアに
飛び移って飛行機に乗ろうとしているところ。

パンボーンはのちにボーイング247-Dの副操縦士になりました。



JN-4Dは、90馬力のカーチスOX-5エンジンを搭載していました。
陸軍はカーチス社に、より大型の150馬力のイスパノ・スイザエンジンと
郵便箱を搭載した米国航空郵便サービス用に、
6機のJN-4Dの改造を依頼しました。

これらの航空機はJN-4Hに再指定されました。
スミソニアン博物館がこの機体を手に入れたのは1918年と早い時期です。


■逆さまの切手



昔一度この逆さま切手についてお話ししたことがありますが、
郵便フライトが始まった時、郵便局は記念切手を発行しました。

ジェニーが郵便物を輸送している絵柄だったのですが、
印刷所のミスで逆さまに曲芸飛行している飛行機になってしまいました。



アクロバット飛行にも使用される大変に操作性に優れた飛行機ですが、
流石に郵便物を積んだ飛行機でこれはない。と言うことで、
正しい向きの切手が後日再発行されることになりました。

しかしこの「逆さまジェニー」、希少価値ゆえ大変な高値がついており、
まさにマニアの間では高嶺の花となっているのだそうです。

今ちょっと調べたところ、オークションでは2ミリオンドル、
日本円に換算すると今日のレートでなんと2億9千9百19万円だそうです。

ちなみに切手の世界というのは相当変動があるようで、
あるサイトによると3億はちょっと大袈裟で8,400万円が相場だそうですが、
状態が悪いものでも1〜2千万円なので、高価であることに違いはありません。

ところで先日、本を整理していたら、中からTOが少年時代に集めた切手帳
(保存状態かなりよし)が出てきたのですが、これ、
希少切手が何かの間違いで紛れ込んでいたりしないかな。

続く。



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2 Comments

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切手 (お節介船屋)
2025-05-09 10:55:16
私も小さい頃から切手収集をしていましたが最初は親戚が保管していた郵便物の使用済み切手を貰っていました。
小遣いで買えるようになって記念切手を1~2枚、シートで買って収集するようになったのは大人になってからでした。ただ切手趣味週間切手等で集めたり集めなかったりで断続して収集していました。記念切手の発行は年30種類くらいありますので日にちや小遣い等勘案したりや忘れたり、興味を失ったりでそう多くはありません。
女房殿が終活で処分しようとなり、買取店に持ち込みましたが3,40年前の記念切手でも額面上の値段より下回っており、近年の記念切手では高くないようです。ですのである程度気にいっている記念切手まだ残置しています。
何でも鑑定団等に出て高価格が付くものは数少なく希少価値のある切手や郵便が始まった当初の使用日付や場所が特定できる切手、沖縄米軍統治下の島発行の切手等特殊なもののようです。郵便が始まった当初の切手等で数百万円となるものがあるようですが数億円等は無いようです。夢を破るようで申し訳ないですが未使用、保存状況の良いものでも通常の多く発行された記念切手は額面以下で高くないようです。
昔は記念切手は1,2枚でも郵便局で購入できましたが近年郵便局によってはシート売りしかしないでバラ売りは断ることが多いようです。子供が小遣いで買えない状況や通常の郵便物をその時記念切手を貼りたい希望があり、本庁に問いただした所、シール形式の記念切手はシート売りとするが、ミシン目の記念切手はバラ売りするとの回答でしたが地方や各郵便局によって記念切手をバラ売りしない所もあるようです。
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見返り美人 (エリス中尉)
2025-05-12 08:19:51
わたしでも知っているレア切手、「見返り美人」でも、今調べたらせいぜい2〜3,000円くらいだそうで、高額だった頃はいわゆる切手収集ブームだったかららしいですね。
わたしの見たサイトでは、「プレミア切手のどんどん需要は今後ますます落ちていくと予想されますので、現在手元にあって売りたいなーと思われている場合はできるだけ早く買取してもらうのが高く売るコツです。」なんて書かれていて、切手帖を鑑定してもらう気力すらすっかり失せました。
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