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初期エアメールパイロットの苦難〜スミソニアン航空博物館

2025-05-11 | 航空機

冒頭の写真を当ブログで以前一度紹介したことがあります。

この頃航空界のスターだった郵便配達便のパイロットが
いかに当時の機体で危険を犯して飛んでいたかを表す、象徴的な写真です。


ここには、当時の郵便局を模した建物がほぼ実物大で再現されています。



建物内部はこんなふうになっていました。
デスクの上部には「クリーブ(ランド)」「アイオワシティ」「オマハ」
など、配達先の都市名が書かれていて、ここに仕分けする仕組みです。

郵便物の中身は?
航空郵便は、高額な料金を支払いさえすれば、迅速な配達が可能でした。
1920年代には、航空郵便による配達には通常の4倍以上の料金が必要でした。
郵便バッグには、航空便で送られた典型的な品物が詰まっています。

なぜ航空便が高かったかというと、単純に配達が大変だったからです。

飛行機の初期の時代には、パイロット(時折乗客も)は、
風雨にさらされるオープンコックピットに座っていました。

同時期ヨーロッパでは、比較的大きな輸送機が
乗客を比較的贅沢に運んでいましたが、(当時技術力はヨーロッパが上)
その乗り心地は粗く、うるさく、居住性も極度に不快なものでした。

当時の飛行機搭乗体験は、現在の宇宙旅行のようなもので、
小説のように非現実的なそれは想像するだけで人々をワクワクさせましたが、
それを体験する機会を得る人は滅多におらず、したがって
それに対し、感想を述べる人もほとんどなかったということになります。


それだけに「まれな一握り」であるパイロットの誇りは並々ならぬもので、
彼らに対しては世間から大変な敬意が払われました。

写真の展示は、航空郵便パイロットのウィングマークバッジ。
パイロットは制服ではなく重厚なフライトスーツを着用していましたが、
パイロットであることを示すバッジや翼が支給されていました。

写真は、ウィルフレッド・A・「トニー」・ヤッキーパイロットのものです。
ノースウエスト航空は現在でも同様の翼をパイロットに支給しています。


多少改変あり


この時代のパイロットが頼りにしていたのは紙の地図でした。

彼らは「ニーボード」(膝板)と呼ばれるこれを脚に取り付けて、
飛行中ルートを確認するときにはノブを回して地図をスクロールします。

両手が使えないのでは折りたたんだ紙を広げることもできませんから。

この地図は、エアメイルパイロットだったジョセフ・モートンセン
博物館に寄付したもので、彼は、ユタ州ソルトレイクシティから
ネバダ州裏のまでの航空郵便ルートを航行し郵便物を運びました。


もう少し構造がわかりやすいのがこちらの写真。
ちょうど腿に乗るのにいい大きさとなっています。
左の皮バンドは脚に縛り付けるためのもの。


この写真は、前回お話しした実験飛行のとき登場し、
ワシントンから飛んだフリート少佐です。


出発前ウィルソン大統領と話すフリート少佐。
(結構イケメンでモテたっぽい雰囲気)


この出発直前の写真からお分かりのように、右腿に紙が縛ってあります。

この時は初めての実験フライトだったので、こんな風にしていましたが、
おそらくこの後、フリート少佐らの提言で、腿に縛り付け、
回すとスクロールできる地図が開発されたのだろうと思います。

必要は発明の母。

■ 航空便パイロットはいかにして目的地を見つけたか

「地面から30フィートか40フィート上空を飛び続けましたが、
それでも線路を見つけることができませんでした。
自分がどこにいるのか教えてくれるような目印を
ただ一つでも見つけようと探し続けました」


これは、最初の民間航空郵便サービスのために雇われたパイロット、
ボブ・シャンクが霧の中飛行したことを語った言葉です。


William Shank

彼は最初の 4 人の民間航空郵便パイロットのうち、
1922年まで「生き残った」唯一のパイロットでした。

彼は、この霧の中の飛行を結果的に拒否したため、
1918年11月には航空郵便サービスから解雇されましたが、
この慎重な態度こそが、彼を長生きさせた理由です。

彼はそのほかのパイロットと違い、無茶をせず、時には上に逆らってでも
危険なことは避け続け、ゆえに事故で死ぬこともなかったのです。

引退後、彼は自分の名前を冠したボブ・シャンク空港を運営し、
エアメール・パイオニアの活動を支援し、空港の運営と管理を行い、
1968 年に76歳で亡くなる直前まで元気に飛行を続けていました。



さて、当時の航空便パイロットはどうやって目的地に辿り着いたのでしょうか。

彼らは、地上の馴染みのある目印となるもの、つまり町、
川、鉄道、競馬場、大きな建物、湖などを目印にする方法、
「コンタクト・フライ」
を使って飛んでいました。


今日では、最新の機器によって、パイロットは自分の位置を認識し、
機位は第三者からも正確に特定することができるようになりましたが、
多くのパイロットは今でも基本コンタクト・フライで飛行しています。



写真のパイロット、ジェームズ・P・マレーは、1920年、
ロッキー山脈越えという歴史的な大陸横断飛行で郵便物を運びました。

そして、危うく命を失うような大事故も経験しています。

その日彼は標高12000フィート飛行中、吹雪に遭い機体は墜落しました。
夕刻だったので、彼は夕日を目印に2インチの雪の中をひたすら歩き、
木下で夜を過ごし、8時間後にようやく道と人を発見したのです。

その後、マレーは、自分の体験を活かして下の地図を作成しました。



これは、マレーの自作の地図で、郵便局のコンテストに応募されたものです。

マレーが応募して入賞したこの地図は、1921年に

『パイロット用航路案内:ニューヨーク-サンフランシスコ航路』

として出版され、彼にはこの功績に対し50ドルの賞金が授与されました。


これらはパイロットがコンタクトフライの際目印にしたものです。

「サンバリーの南側の川は南側よりも川幅が広く、小さな島がたくさんある」

「競技場に併設した芝生は南西の方角」

「エッグヒルという山が見える方角は南」

「ニューベルリンは、ペン・クリークにかかる橋があるところ」

「ペンシルバニア鉄道は、南西から登ってくる山脈の終点にある」


こんな知識を叩き込んで確認しながら操縦を行うわけです。


ちなみに彼は、郵便サービスのキャリアを終えた後、法律家になりました。
ワイオミング州弁護士会に登録して、最終的にはワシントンD.C.で
ボーイング社のロビイストとなり、社会的にも高い地位を得て退職しました。

■ 『自殺志願クラブ』郵便パイロットの悲劇


郵便配達仕様 デ・ハビランド DH-4

1921年に改良されたデ・ハビランド DH-4 軽爆撃機。
この機体は米国航空郵便サービスの象徴となりました。 


1918年から1926年までに郵便局に採用されたパイロット、
200人のうち35人が、エアメールフライトの任務中に死亡しました。



吹雪により航行できなくなって緊急着陸したカーチスR-4型機。

冬場の飛行はより一層危険を伴います。
何しろパイロットはオープンのコクピットで外気に曝されて飛ぶのですから。



死亡事故は最初の数年で減少したとはいえ、郵便飛行機を飛ばすことは
依然として危険で、時には命にかかわる仕事でした。

この頃のパイロットたちが、自らを

「自殺志願者クラブ」

と自嘲していたのも宜なるかなというところです。


郵便局の建物の裏手にはベンチがあって、
エアメイルパイロットらしい二人が、携帯用の地図を見ながら
何やら談笑していました。(普通に横に人が座れるベンチ)

さて、というところで、次回はその「自殺志願者クラブ」について
もう少し深掘りしていきたいと思います。

今日では、特に日本人の我々にはピンときませんが、この時代、
空中郵便配達人は時代の最先端であり、そしてヒーローでもあったのです。


続く。




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2 Comments(10/1 コメント投稿終了予定)

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スマホを貼っておけ (Unknown)
2025-05-11 07:39:48
陸上自衛隊は、今でも地形地物を見ながら飛んでいます。パイロットではない知人が乗客として乗せてもらっていた時のパイロットとのやり取りです。

「間違えました。手前の国道の交差点まで引き返します」
「燃料は大丈夫か」
「大丈夫です」
「地図は持ってないのか」
「ありません。地形地物を見て飛んでいます」
「今度からスマホを計器盤に貼っておけ」
「承知しました」
返信する
車じゃないんだから (エリス中尉)
2025-05-12 08:25:04
手前の国道の交差点まで引き返すって・・。
でも小型の人員輸送機ならスマホ見ながら飛ぶのも普通にありかもですね。
返信する

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