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リチャード・バード少将と「ハイジャンプ作戦」

2016-06-10 | アメリカ

空母「ホーネット」博物館にあった「フィリピン・シー」コーナーに
展示してあった「BABYSAN」というカートゥーンについて調べたら
それに一項を費やしてしまい、またしても今回、「フィリピン・シー」を
描こうとして、「フィリピン・シー」が参加した「ハイジャンプ作戦」
の司令官リチャード・バード少将のドレスジャケット姿を見つけてしまったので、
すべての予定を変更してバード少将の少佐時代の絵を描いてしまいました。
右上の星二つは、最終的にリア・アドミラルであったことを表します。

Richard Byrdで画像検索すると、エスキモーのようなフードを被った
バード少将の写真が出てくるかと思います。


バードが少佐の時に指揮した「ハイジャンプ作戦」とは、終戦後、

海軍によって行われた南極探検作戦です。
なぜ海軍がこんなことをしたのか、もしかしたら日本との戦争が終わって、
することがなく、次なる敵のソ連が台頭してくるまで「自分探し」でもしていたのか、
と穿ったことをつい考えてしまうのですが、それはともかく、
この作戦、調べれば調べるほど結構大変なものだったことがわかりました。 

アムンゼンと南極到達を争ったスコットがイギリス海軍中尉であり、
我が日本の白瀬矗が陸軍輜重中尉だったように、極地探検には多くの
陸海軍人が名前を残しており、だからこそこの頃アメリカ海軍は、
このような作戦を行うことにしたのでしょうか。

しかも、このときのアメリカ海軍は、不確かな情報ながら
とんでもないことをやらかしていたという噂さえありましたよ。



wiki的にいうと、ハイジャンプ作戦は、アメリカ海軍が1946年から
1年にわたって行った南極観測「作戦」でした。
目的は、

恒久基地建設の調査

合衆国のプレゼンスの提示

寒冷地における人員・機材の動作状況の確認・技術研究

ということになっています。

参加艦艇は13隻の艦船と多数の航空機。
バード少佐は、このうち空母「フィリピン・シー」に座乗して

その全体指揮を執りました。
「フィリピン・シー」は単艦行動を行い、航空機輸送が任務です。

ここで(本来本題の)「フィリピン・シー」について少し。



空母「ホーネット」の「フィリピン・シー」コーナーにあった巨大な模型。


 
ふざけたセイラーもいますが、これはご愛嬌。
ってかアス比が全く違うっつの。



94飛行隊(戦闘機)は、ヴォートF4U-4コルセアの部隊で、1952年まで
「フィリピン・シー」の艦載戦闘部隊でしたが、
この後戦闘機を「パンサー」に変えられています。

しかしこの白い軍服を着ていると皆男前に見えるねえ。

ところでこの写真を見て気付くのは、アメリカ海軍の「正しい椅子の座り方」

というのは自衛隊とは全く違うということです。
皆一様に脚を足首でクロスし、手は揃えて膝の真ん中(というか股間?)
に、左手を上にして置く。

偶然でなければ、これは米海軍で公式に決まっているポーズらしいのです。

海上自衛隊は(陸空もね)脚は少し開いて爪先は真っ直ぐ前方に向け、
両手は拳にして各々の膝の上に軽く乗せるというのが正しい姿勢です。
(今まで観察してきたところによると)
日本人的にはこの写真のような座り方ってなんだかお行儀悪く見えますね。



機体の穴からこんにちは。



とふざけられるような事故ならいいんですが、こりゃやばい。
その「パンサー」、F9Fで、派手にネットを突き破った事故例。
スペックでは劣っていたこのパンサーを、腕利きのパイロットが
MiGを撃墜するくらい使いこなしていたというのはたいへんご立派ですが、
やはり着艦にはこのようなことも多々あったようです。

アメリカ海軍は、空母の離着艦で今日のように事故がなくなるまで、
それこそ数知れない犠牲の上にその技術を積み重ねてきました。

今日の事故率になるまで、米軍はそれこそ40年以上を費やし、

文字通り搭乗員の亡骸を超えてここまでやってきたわけです。
そのことひとつ取っても、昨日今日そういうことをやりだしたばかりの中国海軍には
これだけの技術の昇華の前には後塵を拝すどころか後ろ姿を見ることもできまい、
先日ある元海幕長がおっしゃっていましたが、まったくもってその通りだと思います。

この写真の状況は、ネットを越してしまっているので、
アレスティングワイヤーが利かない状態のままネットを張るも失敗したようです。
パイロットが無傷だったのはなによりです。


 
フライトデッキの一部が、製造板と一緒に飾ってありました。

さて、「ハイジャンプ作戦」の話に戻りましょう。

この作戦に際し、アメリカ海軍は東海岸(ノーフォーク)と

西海岸 (サンディエゴ)から、別々に部隊が出動しています。
南極における調査箇所も、それぞれ西南と東南、というように別を担当しました。
それだけでなく、「中央隊」というのまであって、また別の箇所を調査しています。

このうち、事故による殉職者を出したのは東部グループでした。

作戦中、USS「パイン・アイランド」から海上に降ろされたPBM飛行艇は、
航空写真を撮るために飛び立ちましたが、そのうちクルー8名を乗せた
「ジョージ・ワン」が雪上にクラッシュしてしまいます。

「ジョージ・ツー」が捜索に向かったとき、「ジョージ・ワン」の翼には、


「LOPEZ HENDERSIN WILLIAMS DEAD」

と三人のクルーがすでに死亡していることを知らせるメッセージがペイントされていました。
そのうち二人は墜落によって死亡したのではなく、凍死だったそうです。


このような殉職者を出したこの作戦でしたが、全体としては多数の航空機投入による
航空写真を一挙に撮ることによって、成功を見たとされています。

このときのバードが出した提言というのは、

「米国が南極からの敵対国の侵入の可能性に対する保護の措置をとるべきである。
現実として、次の戦争の場合には、南極や北極経由で攻撃される可能性がある。」

というものでした。
このミッションにおける観察と発見の最も重要な結果は、極地が、
米国の安全保障における潜在的な効果を持っているということです。

世界は驚異的なスピードで縮小しており、その距離によって
海洋、および両極は安全性を保証されていた時代は終わった、
という海軍軍人としての彼の警告だったのでしょうか。



バード少将は、海軍軍人でしたが、実際探検家としての活動の方が有名でした。

兵学校を出てから艦隊勤務をしていたバードは、第1次世界大戦までに
飛行機の操縦資格を取り、それだけでなく、ナビゲートシステムを
発明して、のち極地探検にそれを生かしています。

1926年には、北極上空をフォッカーで飛行するという試みにより
名誉勲章を得るとともに、国民的英雄にもなっています。
わたしが描いたのは、おそらくこのころのバード少佐でしょう。

このようにスマートでハンサムなネイビーパイロットが、前人未到の
冒険飛行を成功させたのですから、さぞかし国民は熱狂したと思われます。


もっとも、このときバードは北極点に到達していなかった(したと思ったが間違い)
という噂はその直後からあったようです。
同乗した飛行士が、この冒険からわずか数カ月後「実は北極点には達していない」

と告白し、後日それを翻すなど、その真実は闇に包まれたまま論争だけが残っています。

1927年、大西洋横断飛行に二回目の支援を行った後、彼は最初の南極探検を行います。
「ハイジャンプ作戦」のときが彼にとって最初の南極ではなかったってことですね。
このときと7年後の1934年には、彼は5ヶ月を南極でたった一人、越冬しています。
先ほどの「アローン」という自叙伝は、このときのことを回顧したものです。

このとき、バードは狭いところでストーブに当たり続けたため、
一酸化中毒を起こして混迷状態に陥るという事故に遭っています。

彼の無線の異常さに異変を察知したベースキャンプの隊員たちが、
心配してアドバンスキャンプに飛行機で迎えに行くという騒ぎになりました。
その救助隊の出動も第一次は失敗して、第二次救助隊がたどり着いたとき、
そこにはぐったりとしたバード少将が倒れていたということです。




ちなみにバードは史上最年少の41歳で少将となっています。


第二次世界大戦中はヨーロッパ戦線に赴いていたそうですが、
どういうわけか1945年9月2日の降伏調印のときは東京にいて、
ミズーリ艦上で行われた降伏調印式に立ち会ったりしています。


そして、もうひとつ不思議なことがあります。

「ハイジャンプ作戦」の10年後、すなわち、1955年に海軍は「ディープフリーズ作戦」
という南極観測隊を送り、その隊長にアメリカ海軍はバード少将を指名しているのです。


しかし、よく考えていただきたいのですが、これって少将の亡くなる直前ですよね。


いくらエキスパートでも、67歳の老人を南極探検の隊長にするか?


というのがまずわたしの疑問。
なぜこの作戦の隊長がバード少将でないといけなかったのでしょうか。

このときバードは1週間だけ南極で過ごすというミッションをこなしたそうですが、
そんな短期間の「作戦」でアメリカ海軍はいったい何をしようとしたのか?

ちなみに「ディープフリーズ作戦」の1年後、バード少将は亡くなりました。
南極に行かなければもう少し長生きできたのでは、とおもうのはわたしだけ?



さてさらに、ここで皆さんには眉に唾をつけて読んでいただきたいことがあります。

南極上空を飛行中に、原野や森林・河川が見られる地域に
マンモスのような動物が歩いているのをバード少将は目撃した」

さらには


「バード少将は作戦終了後海軍病院に入れられ、目撃した事実を
一切口外しない事を軍から誓約させられ、真実を一切語らずに没した」

などという、それなんてムー?
みたいな噂まで「ハイジャンプ作戦」にはまつわっているのです。

(それがもっともらしく書いてあるサイトは、ハイジャンプ作戦を
”北極点に行った”などと言っている時点でもう信憑性アウトだと思いますが)


そこであらためて、なんでこの時期アメリカは

南極に行かなければならなかったのか、という疑問がわいてきます。

米海軍は1958年頃(バード少将の死んだ年)、南極点に向けて
弾頭装備のICBMを海軍艦船から撃った、という噂もあり、南極探検は
実はこれをするための調査だった(だから1週間ですんだ)のでは、とか、
終戦直後に南極を偵察したのは、ナチスの秘密基地があるという情報もあり、
そのために、送り込むのが軍隊でなければならなかったともいわれています。

 いずれにしてもその理由は現在も明らかになっていませんし、表向きには
「ハイジャンプ作戦」は観測と対ソに備えた訓練ということになっています。




亡くなったとき、彼は多分自分でも覚えていないくらいの叙勲をされており、
メダルにその肖像が描かれる米海軍の4提督(サンプソン、デューイ、パーシング)
の一人であり、海軍軍人として彼に与えられた栄誉はそれは輝かしいものでした。

それにしては「アドミラル」なのにどうして死ぬまで少将だったのか、
史上最年少の41歳で少将になってから、なぜ一度も進級することがなかったのか、
死んでも階級がそれ以上上がらなかったのはなぜか。

これも不思議といえば不思議です。
(サンプソンも少将なのでは海軍的にはそういうこともあるのかもしれませんが) 


もしかしたらですが、この男前の少将が、「アメリカの闇」を
南極点の上に見てしまったという噂に関係しているのでしょうか。





 



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9 Comments

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老境に再び (ハーロック三世)
2016-06-11 02:23:45
バード少将が67歳で再び南極へ向かったと知り、頭に浮かんだのはジョングレン上院議員でした。

人類初の地球周回軌道の偉業をなしえた人物ですが、無理に無理を重ねたアポロ計画で再び11号で人類初の月面着陸に推す声があったそうです。

しかし英雄を死なせては政権を揺るがしかねないとしてケネディ大統領が絶対に許可しなかったとか。

その29年後に、ケネディの申し子を自負するクリントンによってディスカバリーで宇宙へ。

クリントンも2期目で外交的には成果をあげられなかったものの、経済立て直しを成し遂げる間近でもあり、最後の花道にしたかったのかもしれません。

一方バード少将が南極へ派遣されたのは1955年。
1956年には大統領選を控え、共和党候補のアイゼンハワーの圧勝が予想されていたものの、なんらかの意図があったのかと思うのはいささか穿ち過ぎでしょうか?
返信する
政治的事情 (エリス中尉)
2016-06-11 12:07:57
なるほど、政治が絡んでいた可能性は大きいですね。

ジョン・グレンについては映画「ライトスタッフ」で扱ったので
老境に入ってから最高齢で宇宙に行ったということは知っていましたが、
アポロ11号で一度拒否されていたということは初めて知りました。
グレンにとっては願っても無いチャンスで、自信もあったと思うのですが、
参加が許されなくてさぞ落胆したでしょうね。

政治家がそういうチャンスを「危険だから潰す」というのは、決して本人のためを
思ってではなく、あくまでも政権維持の障害になる可能性を排除した、
というのは現実ではありましょうがなんかやりきれない感じです。

政治がそのように国家事業を動かすことを念頭に置くと、
ディープフリーズ作戦にもなにかそういう政治的配慮があったと考えるのは
大変可能性の高い仮定ではないかとわたしも思います。
返信する
バリヤーとバリケード (佐久間)
2016-06-11 18:48:35
初めまして

いつも拝見させていただいております。

私は、若い頃にコネチカットに住んでおりましたので、貴サイトのニューヘブン紹介などを懐かしく拝見しておりました。チャレンジャーの事故やブラック・マンデーの頃です。トランプ氏のニューヨーク・タイムス全面広告を見て、ボスにこいつは政治家か?と聞いたら、「Nop, but he owns some.」と答えられました。いつも、とんでもない精力的なアップに圧倒されていましたが、とうとう我慢できなくて、カキコさせていただきました。今後とも宜しくお願い申し上げます。

パンサーの着艦事故の写真をご供覧いただき、ありがとうございました。ただ、バリケード(ネット)を突き破ったのではないと思います。

この頃の米空母には、アレスティング・ワイヤー(“arresting wires” or “cross deck pendants”)の他に3種類の制止装置を備えていました。バリヤー(プロペラ機)・デービス・バリヤー(ジェット機)・バリケードです。

この機はたぶん、着艦時にアレスティング・ワイヤーを捉えそこねると同時に前脚がおれて、デービス・バリヤーのアクチュエーター・ストラップも押しつぶしたのだと思います。幸い着艦フックが甲板上のバリヤー・ケーブル?をつかみましたので、跳ね上がって右翼しかバリケードに引っ掛からなくても、この程度ですんだものと思います。エクステンシブ・アンカーがそのままですので、バリケードはまだ展開していません。

長文失礼しました。v
返信する
佐久間さん (エリス中尉)
2016-06-11 20:32:17
初めまして。ようこそおいでくださいました。
今年の夏もまたニューヘイブンに行きます。
ニューヨークまで1時間くらいのノーウォークに1週間滞在し、
残りはマサチューセッツのフウェストボロで過ごします。
また佐久間さんにとって懐かしい景色がここでご紹介できるかもしれません。

事故についての詳細をこの写真から詳しく解説していただいて驚きです。
これはバリケードではなかったのですね。

航空機に詳しい方とお見受けしましたので、今後もご指導いただければ嬉しく存じます。
返信する
ごめんなさい (佐久間)
2016-06-12 12:21:28
早速にご丁寧なお返事を頂き、有難うございました。

わかりにくいカキコをして、申し訳ございませんでした。
写真に写っているのは、バリケードで間違いありません。
この機体は、左翼を上にして跳ね上がったのか、
かろうじて右翼だけがバリケードの上側のケーブルに
引っかかっています。
胴体は、バリケードを飛び越えている様ですので、
このままでは右翼端の燃料タンクを引きちぎって、
艦首の駐機している飛行機たちを巻き込んでの
大事故になっていたと思います。
着艦フックがケーブルを引っかけたのが大幸運です。


つまり、バリケードを突き破ったのではなく、
ほとんど飛び越えてしまっていたのです。
今の空母にも使われているバリケードは、
胴体・両翼が上下のケーブル内に収まっていれば、
スタンチョンから外れて機体を包み込みますので、
絶対に、突き破られることはないそうです。

米国にバリヤーとバリケードにうるさい
Tommy H. Thomasonという方がいます。
自分のブログで:
http://thanlont.blogspot.jp/
専門書でもごっちゃにされているとこぼしております。
著書も多いので、ご興味のある方はご参照下さい。


この夏もニューイングランドに行かれるのですね。
とてもうらやましいです。
最近の、ハンバーガー発祥の店ルイーズ・ランチや
ブランフォードのインディアンネック
(その先の海辺に住んでいました)
のロブスターなどの様子も、楽しみにしております。

私は潜水艦も大好きですので、
可能でしたら、原潜ノーチラスの博物館や
ミスティック・シーーポート
(潜水艦救難艇DSRV-1の名前の由来)
のレポートもアップして頂ければ幸いです。
返信する
右主脚が引っ掛かっていますね (佐久間)
2016-06-12 12:47:16
すみません、追伸です

良く見ると、右主脚もバリケードの上部ケーブルに
引っ掛かっているようですね。
しかしながら、主脚一本では機体を止めきれませんので
幸いにも偶然着艦フックが、
(飛行甲板直上に寝ていたバリヤーのケーブル?)
を引っかけたために、
艦首の飛行機に突っ込まずにすんだのでしょう。
(絵をかかずに、ことばだけで説明するのは私には無理?)

これがアレスティング・ワイヤーを引っかけたのなら、
バリヤーやバリケードの手前で止まっていたはずです。

大事故でなくても、次の着艦にそなえての、
#309号機の移動と、バリケードの交換で、
飛行甲板は大忙しだったことでしょう。


しつこくて、申し訳ございませんでした。
先の掃海編は圧巻で堪能させいただきました。
潜水艦ネタも楽しみにしております。
返信する
米海軍の提督 ()
2016-06-18 12:56:58
>史上最年少の41歳で少将になってから、なぜ一度も進級することがなかったのか

つたない記憶ながら、米海軍における将官の階級は配置階級であり、バード少将の場合、適任たる配置が無かったため、少将のままであったものと推察されます。

米軍の階級は、戦時階級やら正規階級やら混乱させられることが多いのですが、一例を挙げれば、有名なパットン中将も、第一次大戦終了時には大佐でしたが、戦争終了後は正規階級である「少佐」に戻されています。

また、アイゼンハゥアー大将も、准将になってから大将になるまで2年かかっておらず、欧州反抗の最高司令官として配置されたため、その配置に見合った階級を与えられたものです。

彼は、終戦までに議会から「元帥(
General fo Army)」の称号が認められましたから、以後も「元帥」として大統領になりましたが、議会が、この称号を与えなければ、戦後、少将に戻っていた可能性もあります。

この辺りの経緯は、アメリカのTVドラマ「アイク」において、アイゼンハゥアーの秘書(愛人)であったケイ・サマスビー嬢が、米国でのパーティーの場で、アイゼンハゥアーの昇任を嫉んだ他の将軍の夫人から「私の主人は正規の少将よ!」と言われる場面から読み取れるものです。

余談ですが、おそらくエリス中尉は、このTVドラマはご覧になっておられないと思います。(ご覧になっておられたら、貴女のことですから、99%以上の確立でエントリーされておられたと思います。)
レンタルで借りられるか否かは判りませんが、おそらく米国内のヴィデオショップでは、まだ販売していると思います。
リージョンコードの違いは、DVDディクリプターというフリーソフトで解除できますので、是非一度ご覧になられたらとお勧めします。
返信する
佐久間さん (エリス中尉)
2016-06-18 20:54:45
ご提案を参考に早速予定を立てています。
博物館のHPに行ってみたら、かつてここで取り上げたことのある
潜水艦のギルモア艦長の写真があったのでおお!と思いました。(ピンタレストでした)
返信する
鷲さん (エリス中尉)
2016-06-18 21:10:56
アメリカ海軍って普通に降格があるんですよね。驚いた!
そういえば、東京空襲を最初に命じられた司令官は、無差別爆撃ではなく
軍事施設のピンポイント爆撃を主張して役職を解かれただけでなく、降格されてました。
(代わりに司令官になったのがルメイ)

日本では旧軍時代からあまり聞きませんが、悪く言えば身内をかばう体質のせい?
アメリカでは場合によっては一時的な昇格、終われば元に戻す、
というシステムのため、アドミラルで少将というのもあったんでしょうね。
そしてそれに伴う感情も人の世の常とはいえ色々あったようです。

「アイク」は「将軍アイク」というタイトルでNHKで放映されていたそうですね。
今アメリカにいるので一応検索してみましたが、全くヒットしませんでした。
日本でもVHSが時々出る程度です。
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