ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海上自衛隊東京音楽隊第55回定例演奏会 後編

2016-12-12 | 音楽

というわけで、当日いただいてきた東音特製カレンダーです。
月めくりカレンダーでないのが残念ですが、それはとりもなおさず、

年間通じておはようからおやすみまで、あなたの暮らしを
この樋口隊長の微笑みにに見守られて過ごすということでもあります。
三宅さんにならぜひ見守られたいが以下略という声も聞こえそうですが、
それはともかく、ここに新隊長をばーん!と持ってきたところに
樋口新体制での発進への意気込みが窺い知れるというものではありませんか。

 

さて、後半に入って2曲目は 

ファッシネーション(魅惑のワルツ)〜映画「昼下がりの情事」より

「アリアーヌ巻き」がかわいかったヘプバーン主演映画の
あまりに有名な挿入曲のバンドアレンジです。

映画の原題は「Love in the Afternoon」
LOVEを「情事」とは随分乱暴な翻訳だなと昔も今も思うのですが、
(実際に情事というようなことはなにもなかったわけですし)
このきわどい響きが日本における集客に繋がったんだろうなと思います。 

 後半はジャジーな雰囲気を取り入れて、ソリストがソロをとる曲が続きました。
ワルツから軽快なボサノバのリズムに変わってから、クラリネット、
フルート、トランペットなどがソロを取り、再びワルツに戻って終わります。

アメイジング・グレイス

フィーチャーされたのは新隊長と共に横須賀音楽隊から転勤してきた
フルート奏者の目黒渚2等海曹。

当ブログの熱心なファンの方に是非聞かせてあげたかったです(笑)

それにしても一つ残念だったのは、遠すぎてソリストの顔まで見えなかったこと。
すみだトリフォニーホールの三階はオペラグラス必携です。


ニカズ・ドリーム

ホレス・シルバーの曲で、バップの名曲です。
わたしもセッションではよく取り上げたものです。
ラテンのリズムで始まり、中間部で4ビートになる構成はドライブ感溢れ、
演奏していても快感で、それゆえミュージシャンに広く好まれています。

場内のアナウンスでは「ニカ」はミュージシャンたちのパトロンをしていた
「ニカ公爵夫人」といっていたようですが、正確には「ニカ」は彼女の
ニックネームで、本名は「パノニカ」。

結婚して「パノニカ・ド・ケーニヒスウォーター」(Koenigswater)
となりましたが、旧姓は

Kathleen Annie Pannonica Rothschild

はい、もうおわかりですね。
ロスチャイルド家のおぜうさまだったわけです。

おまけにこのようなお美しい方でしたので、名だたるミュージシャンが
彼女をディーバのように崇め、曲を献呈したというわけです。

これを見て全員の名前が分かる方は相当のジャズファンです。
右、マイルス・デイビス、ニカを挟んでクラリネットのシドニー・ベシェ
そしてビッグ・ラッセル・ムーア(トロンボーン)。

ジャズの前田憲男氏が書いたスコアを日本では高校生が演奏しています。


アヴェ・マリア〜シューベルト

アベマリアというと思い出すのがリオオリンピックでの閉会式の「安倍マリオ」。

完璧に左派の政治発現の場と化した今年の流行語ですが、
問題となった「日本史ね」なんかより、こちらの「安倍マリオ」の方が
よっぽど認知度もあり、かつ「氏ね」みたいに不穏当でもないと思いません?
まあ、安倍マリオになったらなったで政治利用とか言い出す人が出るんだろうな。
 

それはともかく、この曲ではバスクラリネットがメロディを取りました。
バスクラというのは大きくて、立って演奏するときには床に
チェロのようにエンドピンを指して支えます。

一番有名なのは、「くるみ割り人形」の「金平糖の踊り」 。
チェレスタのキンコンカンコンとともに出てきます。
あとざっと思いつくのは音楽まつりでも最後に演奏された
「アッピア街道の松」の主題でしょうか。

バスクラリネットを演奏したのはプログラムによると清水恭子三曹でした。
 

Have Yourself A Merry Little Christmas

ポピュラー・ユールタイド・フェイバリッツ 

今回はクリスマスが近いということもあって、前半にも「ロシアのクリスマス」、
そして後半は思いっきりクリスマスメロディで盛り上げました・

プログラムには「あなたにやさしいクリスマスを」と紹介されていた
「Have yourself〜」ですが、この翻訳は「どうぞ楽しいクリスマスを」
となっていることもあるようです。
ただ、この英語タイトルはそのまま歌の最初の

どーみーそーどーそふぁみれどーれー

という出だしにぴったりはまり、語呂もいいので
わたしはこの曲を
邦題で呼んだことがありません。
メリーリトル、というのは「ささやかな」というニュアンスでしょうか。

この曲はすべてのクリスマスソングの中で
「クリスマス・ソング」と並んでもっとも好きな曲でもあります。

 Here we’re are as in olden days
 happy golden days of yore

 Faithful friends who are dear to us
 gather near to us once more

 Through the years we all will be together
 If the fates allow
 So hang a shining star upon the highest bough
 And have yourself a merry little Christmas now

さあ、また昔のように 黄金に輝く幸福な昔がかえってくる
心からのともだちが昔のようにまた集まってくる

もし運命が許すなら これからもずっと一緒にいようね
輝く星をクリスマスツリーのてっぺんに飾って
そして、ささやかだけど楽しいクリスマスを祝おうね

と適当に翻訳してみましたが、この歌詞がいいんですよー。

わたくし、クリスマスというのはつまり「愛の日」だと思うのです。

世界のどこかにいる愛する人を(そんなに愛してなくてもいいけど)思う日。
あなたを思っている誰かがここにいるよ、と伝える日。

 


さて、自衛隊音楽隊の演奏会に行くと、いつも感じるのは

彼らの演奏には英語で言うところの「service」があることです。

この言葉には、日本語の「サービス」、
相手のために気を配って尽くすことであるとか、品物を売るとき、
値引きをしたり景品をつけたりして客の便宜を図ることというだけでなく、
たとえば兵役、そして礼拝のことを指すこともあります。 

任務でありながら主体は奉仕であり、存在意義の第一が本来

「隊員の士気鼓舞」「儀式・式典における演奏」

である軍楽隊は、音楽家の自己発現とはある意味対極にある、
「service」精神のもとに演奏を行うプロ楽団であることを要求されています。

ですから、定例演奏会におけるそのservice(任務)にも、あくまでも
国民に向けて平易で親しみやすい音楽の世界への架け橋であろうとする
いい意味での「腰の低さ」を感じずにはいられませんでしたし、
この日のプログラムにもそれが現れていました。

本来音楽演奏とはそうあるべきだと思うのですが、もしかしたら
それは音大出ばかりの芸術家集団であるプロオケには
案外難しいところにあるのかもしれません。


さて、ここまで聴いてきて、わたしはたとえば「アメイジング・グレース」の
コーラス部分とか、最後のクリスマスメドレーのどこかで、
三宅由香莉三曹が今にもロングスカートの裾を翻して入場してくるのではないかと
心待ちにしていたのですが、ついに最後まで彼女が出演することはありませんでした。

歌手というのはそれだけで一座を圧して主役となってしまうので、
東京音楽隊の演奏を聴かせるということをコンサートの主眼にすえた場合、
いつどういう風に歌手を配するのかはなかなか難しい問題かもしれません。


が、この日彼女が初めて登場したのはなんとアンコール曲でした。
なんとも粋な登場というか、皆に「待ってました!」とばかりに迎えられ、
満を持して最高に効果的な登場となったのです。


Tommorow〜ミュージカル「アニー」より

いやー、とことん盛り上がりましたね。会場は。
わたしのところからは遠すぎてあまり見えませんでしたが、
彼女が満面の笑みで、あのいつもの「両手バイバイ」をしながら
袖に去る時には、前列近くのファンが熱狂的に手を振り、彼女もそれに答え、
そのやりとりを見ているだけでこちらも思わず微笑んでしまいました。 

 彼女の登場は、終わってから指揮台の上の樋口隊長と交わしたハイファイブにより、
さらにアンコールにふさわしい明るく楽しいエンディングとなりました。


それにしても、歌手とかトランペットソロというのは
少しの狂いも万人にわかってしまうので、本当にプレッシャーが
すごいだろうなあと、いつも聞く時には他人事ながらドキドキしてしまいます。

あ、あとエレキベースでのランニングもね><


さて、わたしは今まで新音楽隊長の樋口二佐のことをおりにふれて
書いてきたものの、実はご挨拶させていただいたのは今回初めてです。

「音楽まつりは樋口さんとお知り合いの方の隣で見まして、
その方が『ひぐちさーん』と手を振るのでわたしも一緒に手を振ったら
『ご存知なんですか』
といわれたので
『いえ、向こうはこっちを知りません』といいました」

「はあ」

「また、観閲式ではやっぱり樋口さんをよくご存知の方の隣だったので、
その方と一緒になって『ひぐちさーん』と手を振ったらその方にも
『ご存知なんですか』
といわれたので、『いえ向こうはこちらを(略)と」

「・・・これからは知り合いだと言えますね」


はい、そうさせていただきます。

そうそう、それからプログラムを見ていて気付いたのですが、
トロンボーンの「国防男子」が東京音楽隊に転勤してきていました。
全国のファンの皆様、ここに謹んでお伝えしておきます。

一層これからの東音から目が離せなくなりますね。


最後になりましたが、今回の演奏会参加にご配慮下さいました
皆様方にこの場をお借りしてお礼を申し上げます。 

 

 

 

 

 

 


海上自衛隊東京音楽隊第55回定演@すみだトリフォニーホール 前編

2016-12-10 | 音楽

わたしが最初に東京音楽隊の定期演奏会を聴かせていただいたのも
ここすみだトリフォニーホールで、音楽隊長は河邉和彦二佐でした。

ピアノの太田沙和子二曹がソロを務めるプロコフィエフのピアノ協奏曲、
という意欲的な前半に対し、後半はトランペットのエリック宮城氏を迎え、
ビッグバンド風を前面に出したエンターテイメント性あふれる後半、と
一回で普通のコンサートの3倍分の充実した内容に驚いたものです。

そして、河邉隊長の後任となった手塚裕之二佐による前回定演。
戦前の軍楽隊によって演奏された行進曲など、自衛隊以外の演奏では
まず聴けないような貴重な歴史的楽曲が取り上げられ、
多角なアプローチの試みに、これも心から驚嘆させられました。

今回は、新隊長樋口好雄二佐が着任して最初の定期演奏会となるわけで、
新隊長のもとでどんなカラーを打ち出した演奏会なるのか、
楽しみにしつつ、すみだトリフォニーホールに向かいました。

ロビーにはクリスマスツリーが飾られています。
ピアノを弾いている人の像の前には以前ピアノがあったような気がしますが、 
今日はどこかにピアノだけ出払っているようでした。

並んだ段ボール箱の中身は特製東京音楽隊カレンダーです。

この前を通り過ぎたところ、ホルンの川上一曹が前に立っていたので、
ご挨拶をさせていただきました。

「音楽まつり、聴かせていただきました。素晴らしかったです」

三宅三曹とともに「われは海の子」の幻の7番を歌い上げた
川上一曹の朗々たる声はまだありありと心に残っています。

「今日は(歌は歌わず)ホルンだけですが」

「それは残念です」

カレンダーお持ちにならないんですか、と聞かれ、

「終わってから取って帰るつもりだったんですが、なくなっちゃいますか」

 「大丈夫とは思いますが・・・わかりません」

なくなってはいけないので、2本いただきました。

ロビーには東京音楽隊のポスター各種が飾ってありました。
前々回はロビーでCDを販売していたので、もし今回も売っていれば
買って帰ろうと思っていたのですが、最近は販売そのものをしないようです。

自衛隊という組織ゆえ「いろいろと」あるんだろうなと勝手に解釈しました。

2014年のミリタリー・タトゥーの時の写真。
三宅三曹が美しい着物姿で確か「ふるさと」を歌ったときですね。 

東京音楽隊のお仕事紹介。
晴海埠頭からの練習艦隊出港、「しらせ」のときも演奏したようです。

 

今回の演奏会は、全席指定方式になっていました。
わたしのチケットは3階だったので階段をひたすら上っていったのですが、
途中で中を覗いてみますと、すでに演奏が行われています。

開演前にもかかわらず、ステージでは小編成でミニコンサートが行われていました。
わたしが聴いたときにはくるみ割り人形の「トレパック」をやっていましたが、
演奏は1830頃から始まっていて、これが最後だったようです。

ちなみにこのミニコンサートの内容は 

モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」より第一楽章
バッハ「小フーガト短調」
チャイコフスキー「バレエ組曲 くるみ割り人形」より小序曲
同じくトレパック 

もう少し早く来ていたら小フーガが聴けたのにな。
金夜で高速を降りてからがすごい渋滞だったのだけど、
ナビが幹線道路を避けて変な道を案内するもので、それに逆らっていたら
1時間前に着くはずが遅くなってしまったのです。

 

さて、自衛隊の演奏会というと、関係者・来賓に配られる席以外は
当日並んで窓口で座席券と引き替えるか、自由席になっているのが普通です。

そのため、何時間も前から座り込んで順番を待ったり、
このあいだの横須賀音楽隊のふれあいコンサートのように、
開場と同時に人々が血相変えて席取りを行い、酷い場合は
目標をどけてまで人の席を横取りする人が現れたりするわけです(笑)

今回は送られてきたチケットには最初から座席が振ってありました。
開演は7時、開場は6時だったのですが、チケットをよく見ると、

「 6時より前には来ないでください

と書いてあります。
もしかしたら、ホール側から

「自衛隊の催しは早くからコンコースに人がたくさん並ぶので困る」

とか言われて全席指定になったという経緯でもあったのではないかと
疑われる書き方です。

3階に登っていく階段の踊り場に展示してあったワーグナーチューバ。
大変エレガントで華奢なチューバといった印象です。 

名前はチューバですが、ホルン奏者によって演奏されるもので、
ワーグナーが「ニーベルングの指環」のためにわざわざ取り入れた楽器です。

ホルン奏者が吹けるチューバ、というのがコンセプトだったようですね。

というわけで指定席にたどり着きました。
まるで谷底を覗き込んでいるみたいです。 

奏者の顔までははっきり見えませんが、音響はさすがによく計算されていて、
ブラスの響きが心地よく耳に届く好席でした。

2階3階の両袖には一列に椅子が並んでいます。 

わたしの横に入場口から降りてくる階段があったのですが、
降りきったところにこんな柵が設けてありました。
階段を降りていて、万が一つんのめって転げたらここから落ちるからです(笑)

実際この部分は視界を確保するために柵が大変低く、
前列に立ったら高所恐怖症の人なら戦慄してしまうくらいでした。

この柵はたためるようになっていて、開演直前に会場の案内係が
ちゃんと収納して行ったので安心しました。

 

 

さて、そしていよいよ開演です。

冬至のためのモーニング・アレルヤ〜 R・ネルソン

表題からは全く内容が想像できませんが、スコアには
「広島の人々のために」と添え書きされているそうです。

日本のトップブラスバンドでもある東京佼成ウィンドオーケストラの
指揮者であったフレデリック・フェネルが公演のために訪れた広島で
原爆資料館を見て衝撃を受け、この曲を知人の作曲家、ネルソンに依頼しました。


現代的な手法でありながら特に前半のコラールを思わせる多声部からなる旋律は、
そうと思って聞けば鎮魂と祈りの「人間の声」そのものです。

原題はMorning Alleluias for the Winter Solstice」といい、
Winter Solstice を「冬至」と翻訳してあるのですが、音楽ライターの

 富樫鉄火氏の解釈によると、これは「冬至」という前に
「太陽が止まった日」と解釈するべきだということです。 

まさに1945年8月6日、広島では「太陽が止まった」のではなかったか。
それは、長く、恐ろしく、暗い、「冬」の始まりでもあったのだ。
これほどふさわしい曲名はないかもしれない。 (吹奏楽マガジン)

クライマックスのうちに曲は終わりますが、それは「アレルヤ」
という表題の通り、主を讃える祈りの声にも似た力強さを感じさせます。
 

ロシアのクリスマス音楽(アルフレッド・リード)

Russian Christmas Music for Symphonic Band


わたしはYouTubeで吹奏楽を鳴らしながら作業することがあって、

「吹奏楽の父」ともいわれているリードの作品は

「エル・カミーノ・レアル」「アルメニアン・ダンス」

など、有名どころはよく知っているのですが、これは初めて聴きました。
リードはニューヨーク生まれでロシア系というわけでもないですが、
この曲からは「ロシア」が色濃く匂い立っています。

彼のイメージするところのロシアは、やはり5人組やロマン派、
そして何と言っても「鐘」ですかね(笑)
 

「花のワルツ」バレエ組曲「くるみ割り人形より」〜チャイコフスキー

司会の女性隊員がこの曲名を紹介したとき、後ろのハープに人が座っていないので
あれっと思ったら、すぐに彼女がハープ奏者だったことが判明しました。

どんな曲でもブラスで再現、という難題に挑むべく?
このいかにもなワルツも難なく弦抜きでやってしまう東京音楽隊ですが、
さすがにハープは必須です。 


ハープという楽器は大変特殊なので、大抵のプロオケは団員として雇わず、
必要な曲の時にエキストラを呼んでくるというのが常態なのですが、
東京音楽隊のハープ奏者(荒木美佳三曹)はトラではなく隊員です。

専門のハープ奏者、歌手、ピアニストを団員として抱えるプロ音楽団体は
もしかしたら世界でも自衛隊音楽隊だけかもしれません。 

ドラゴンクエストによるコンサート・セレクション〜すぎやまこういち

今日ミッドタウンで見たのですが、ドラゴンクエストは今年発売30周年で、
記念大吟醸が発売されたようです。(升にはスライムの絵入り)

わたしはせいぜい6までくらいしかゲームはしていませんが、
(それだけやれば十分という説も)
このセレクションに出てくる音楽は全部よく知った曲ばかり。

そういえば、都内オケの木管バンドのために何曲かアレンジしたこともありましたっけ。


セレブレイション〜クール&ザ・ギャングKool & The Gang - Celebration

休憩に続いて後半はポピュラー中心のプログラムとなりました。
セレブレイションをブラスで思いっきりファンキーにアレンジ。

ところで、わたしはクール&ザ・ギャングの「クール」が「cool」
ではなく「Kool」であることをいま初めて知ったのだった。 

バンマスがクールさんだったんですね。


この曲は5名の奏者によるパーカッションで始まりましたが、
そのうち一人、赤いスティックでかっこよくドラム乱れ打ちをしていたのは
新音楽隊長の樋口2佐(打楽器出身)でした。
もしかしたら観客の中には曲が終わってパーカッションセクションが
紹介されるまで気がつかなかった人もいたかもしれません。

樋口隊長にとって今定演は「お披露目」ということになるのですが、
東京音楽隊がどんな新隊長を得たかは、ある意味この一曲だけで
どんな紹介よりも強烈に皆に伝えることができたのではないかと思います。

 

後半に続く。 

 


 

 

 


 


江の島 児玉源太郎神社の再建

2016-12-09 | 日本のこと

江ノ島にある兒玉神社(こちらが正式な表記)は、ここ江ノ島が
生前の児玉源太郎が愛していた地であるということから創建されたと言います。

 

当時の読売新聞によると、日露開戦間際の頃、参謀次長となった児玉は、
毎日曜日に鎌倉の別荘に静養のため出かけていたのですが、そこに
面会希望の者たちが押しかけてくるので、江ノ島を「隠れ家」にして
おもむろにシベリアの形勢を案じていたのだそうです。

ところが、いつの間にかこの退避先にも「陸軍の諸星や顕官の面々」が押し寄せ、
江ノ島町内ではだれであろうかと穿鑿の末、参謀次長児玉源太郎大将と知れて、
町民は大いに大将を徳とするようになりました。

そこで

「将軍沒後江の島町民は将軍の静養の地を購つて其霊を祀つたが
大正七年内務大臣から兒玉神社を公認された」

というのがここに神社ができた経緯です。

 

鳥居のある山門を左に曲がると、そこが児玉神社。
前にきた覚えがあるようなないような。

石段の左手に児玉神社の鳥居がいきなり現れます。

祭神はもちろん児玉源太郎(1852〈嘉永5〉年~1906〈明治39〉年)。
創建は児玉死去12年後の1918(大正7)年であり、後藤新平らの尽力により、
主要な社殿が建立されたのは1921(大正10)のことです。

苔むした表参道ひだりという道案内。
ひだりもなにも、道は一本しかないので間違えようがありません。

参道には幾つかの石碑が置かれていました。
これはなんと、蒋介石の詩碑だそうです。

内容はというと、児玉の武勲、才知を褒め称えるもので、
蒋介石は満州国の初代外交部総長を務め、満州国全権駐日大使でも
ありましたから、児玉源太郎とは縁が深かったのです。

わたしはその後の蒋介石の色々を知っているので、
その人物についてはあまりいい印象がないですが、
蒋介石が児玉源太郎を敬愛していたことは確かであるようです。

こちらは後藤新平が児玉の徳を称えて読んだ詩碑。

児玉源太郎が台湾府総督時代、後藤は民政長官として辣腕を奮い、
台湾の近代化をこの「黄金コンビ」で推し進めました。


あのNHKが訴訟されるきっかけとなった「JAPANデビュー」内でも

日本は台湾をアジア進出の拠点として激しい抵抗運動(日台戦争)
を武力で制圧して進出したが、統治が混乱したため、
後藤新平を民政局長に起用してあめとムチの政策を推し進めた

などと表現されていましたっけね。
詩碑には

 森嚴羽衛老將軍 功烈眞兼武與文

 造次不離忠孝旨 于花于月又思君

と刻まれています。

 

咸臨丸復元保存協会の設置したモニュメントがありました。
咸臨丸のレリーフがまっすぐでない気がするのはわたしだけでしょうか。

日章旗をひるがえしてはじめて、太平洋横断の壮挙をなした

 本艦乗員の進取をたたへ咸臨丸の復元保存と
「青少年に夢と希望を」ねがい、先年、オランダ政府の尽力により、
設計図発見、贈与をうけたことに対し、謝恩をこめ、
永世に記念するため本碑を建立した。

昭和五十五年十二月十六日

咸臨丸復元保存協会会長 

片山臨舟
駐日オランダ大使館
CH ファン・デル・スロート

 

ここで咸臨丸の図面がどこで発見されたのか、それは今どこにあるのか、
復元の計画はどうなったのか・・・。
一切わからないままです。

ところで、それよりも驚いたのは、児玉神社の鳥居にたどりつくと
このような状態であったこと。

宮大工の名前が書かれたシートがかけられ、立ち入り禁止になっています。

お掃除をしていた人に頼んで、神主さんを呼んでもらいました。
話によると、神殿が老朽化で今にも倒壊しそうになったため、
とりあえず工事を始めたということでした。

神主さんは女性で、わたしがつけていたツィードのコサージュを
おしゃれねー、と声をかけてくるような気さくな方でした。 

 

 

調べてみたところ、社殿を設計したのは建築家伊東忠太
帝国大学名誉教授であり、建築家で初めて文化勲章を受けた人物です。

浅学のわたしは名前すら今回初めて知ったのですが、手がけた作品を
見ただけでその業績の凄さに驚きました。

橿原神宮・平安神宮・台湾神社・東京大学正門
明治神宮・靖国神社遊就館・靖国神社神門
靖国神社石鳥居・築地本願寺・湯島聖堂 

それだけではありません。
日本に入ってきた’architecture’ という言葉は当初
「造家」と訳されていたのですが、彼は「造家」では
芸術的な意味合いが抜けているので「建築」と訳すべきと提唱し、
これを受けて造家学会が「建築学会」に(明治30年)、
東京帝国大学工科大学造家学科が建築学科に(明治31年)改称。

建築という言葉を作ったわけではありませんが、この言葉に
「建築」を意味するところの定義を与えた人物だったのです。 

児玉神社の境内からは、かつて海を一望することができたはずですが、
今では深々と木が生い茂り、その視界のほとんどを遮ってしまっています。

 

境内には、わたしたちがいる間も、何人かの人たちがやってきて、
一様に工事中の様子に目を見張り、そして帰って行きました。

調べたところ、児玉神社は以前、境内を浮浪者が徘徊したり、
参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だったのを、
1980年に山本白鳥氏が見かねて宮司を拝命し、持ち直したのだとか。
しかし長年の放置のあいだに社殿は腐食していたらしいのです。


児玉神社を設計した伊東忠太は当時、留学先の主流だった西欧ではなく、
日本建築のルーツを訪ねるため、アジアへの留学を選び、
中国からインド・トルコを旅し、中国では雲岡石窟を発見した人物です。

そのためか、新しい建築物像を模索する中でも、神社に関しては

「神霊住ます宮居であり、木造である」

と述べ、神社の設計に関しては古典的なスタンスを指向していました。
児玉神社社殿も、その設計思想の元に完成したものでしょう。

しかし、関東大震災が彼のポリシーを少々変化させます。

1926年の大震災で消失した神田神社復興の設計顧問に迎えられた際には、
不燃耐震化の必要性から鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用したのです。

児玉神社は震災による被害を受けなかったようですが、もしその創建が
震災より後であれば、社殿の造りは若干違うものになっていたのでしょうか。 

 

とにかく、児玉神社の一日でも早い再建を祈ってやみません。

 

その後藤沢から電車で横浜中華街に到着。
ここは中華街の中でも珍しい、台湾料理のお店です。
一行はここで美味しい台湾料理と紹興酒に舌鼓を打ったのでした。

メインの米軍基地見学についてはまた日を改めて
(ほとぼりがさめたころこっそり)投下しますのでお楽しみに。 

 

 

 


江ノ島 児玉神社(おまけ:アメリカでのたま駅長死去報道)

2016-12-08 | 日本のこと

わたしが防衛部長を務める防衛団体で、

厚木米軍基地見学→江ノ島児玉神社参拝→横浜中華街で懇親会

という、その移動範囲ひとつとっても関東圏の人間には思いもつかない
大胆な計画の会が催され、それに参加してこの神社に初めて行ってきました。

児玉神社とはあの児玉源太郎を祭神とする神社で、
江ノ島の海を望む高台にあります。

当ブログで「児玉源太郎」というワードを検索すると、それだけで
たちどころにいくつものエントリが上がってくるというくらい、
今までこの慧眼の偉人についてはその功績について述べてきましたが、
迂闊なことにわたしはこのお知らせをいただくまで、江ノ島に
児玉源太郎の神社があるという認識を持ちませんでした。

明治以降の人物が祭神になっている神社、というのが
東郷神社以外にもあるということを知らなかったのです。 




原宿の東郷神社はご存知のように聖将とまでいわれた東郷平八郎元帥が
祭神として祀られています。

昭和9年に東郷元帥が亡くなると、国民の間に神社創建を望む声が高まり、
6年後の昭和15年海軍記念日に御鎮座祭が行われることになりました。

日本は八百万の神がおわすとはいいますが、東郷神社の境内に翻る
たくさんのZ旗を見るにつけ、日本では人が崇めたいものが
即ち神となるのだなあとわたしは実感するのです。


そこで思い出すのが、今年の5月に亡くなった貴志駅の猫駅長「たま」です。
人々に愛され、「ネコノミクス」という経済効果すらもたらした、この
スーパーキャットは、死後神様として祀られることになったようですね。

そこでついでに超寄り道ですが、アメリカにいたときに見た

「日本の猫駅長が死去」 

というニュースの話をしておきます。 

いきなりこのニュースが始まってわたしは「たま」げました。

テレビ局はFOX、レポートするのがデニス・ミラーという「コメディアン」。
もうこれだけで、お前ら真面目に報道する気ないだろ、って感じです。

わたしは「たま」の仕掛け人にお会いしたことがあり、生存中に
たまを見ておこうと夫婦で話していたのですが、アメリカにいながら
彼女の死を知ることになってしまったのでした。

しかもこのニュースによると、たま駅長のご遺体は
字幕に「Pneumatic」とある(Pは無音でニューマチックとよむ)
圧搾空気入りのチューブに入れられて日本海に水葬されたというのです。

ほんまかいな。

「たま」のwikiを見ましたが、埋葬法については触れていません。
だいたい、和歌山なのになぜ日本海に流されたという話になっているのやら・・。

で、このコメディアンが言うには、

「猫の体(彼はたまがオスだとして"He"といっている)は
圧搾空気のチューブに入っているので新鮮さが保たれます。
これがもし日本海で韓国人に拾われたとしたら」

「彼はヒーローからジャイロサンドウィッチ(ピタサンド。
写真はピタサンドではなくただのサンドイッチ)に

変身してしまうかもしれませんね!」

ってあほか。

説明するまでもないですが、

たまの遺体を日本海に流す→隣は韓国→韓国人は猫を食うので以下略

ヒーローとジャイロ(ギリシャ風)が韻を踏んでいる、
というだけで、この笑えないジョークを思いついたと見えます。
日本だったらどこぞの団体が大騒ぎすること間違いなし。

さらには日本海をSEA OF JAPANといっているし、
さあ怒れ在米韓国人(笑)


おっと、そんな話はどうでもいいんだった。
おヒマな方はwikiの「たま駅長」を読んでいただければ詳しいですが、
たまは死して皮じゃなくて名を残し、神様になってしまいました。
駅舎の横に創建された「たま神社」に祀られたのです。

まあ、日本という国は猫が神様になっても全く不思議はありません。
身近な例ではTOのご先祖も神様になっているわけでして(笑)
実在の人物が死して神として祀られるということも普通にあるのです。 

況や明治の偉人をおいてをや。

江ノ島はもちろん初めてではありません。
が、もういつだったか覚えていないくらい昔行ったきりです。 

ですから、駅舎がまるでこんな竜宮城みたいだったかとか、
全く記憶に残っていません。
昭和33年の白黒写真を検索していて見つけましたが、
形はやはりこの竜宮城なので、割と最近、赤く塗ったのではないか?
と思われます。

しかしなんというか・・・・すごいセンスですね。

まあ、誰も江ノ島にセンスの良さなんか求めてはいない(断言)
駅前のコンビニも海を見ながらバーガーを食べるカフェも昔はなかったな。

あーなんか記憶にあるなあ。
昔来た時には寒くて、ところどころに出没する猫が風に吹かれて毛をなびかせていたっけ。

「猫はいなくなりましたよ」

と同行の会員でわたし以外のもう一人の女性、広報部長のMさん。
ある有名な作家の娘さんだったりします。
彼女によると、昔は「猫島」といわれるくらいいたのが、
最近は駆逐されて滅多に見なくなったそうです。

猫は江ノ島では神様にならなかったようです。

歩いて行くと、なにやらこれも前にはなかった
欧風を装ったおされなホテルみたいなのが見えてきました。

「ホテルでもできたんですか」

「スパらしいですね。
あれができたとき、江ノ島リピーターからこんなの江ノ島じゃない!
と大変な反発だったとか」

江ノ島リピーターというのは、どうやら昭和の香りのする、
どこまでもダサい江ノ島を
愛している人たちのことらしいです。

こういう雰囲気はあまり変わっていない気がします。
前と違うことがあるとしたら、中国人が溢れかえっていること。
確かに現地の人たちにすれば、寂れた観光地だった江ノ島に
大挙して押し寄せてくれる中国人観光客はありがたいかもしれません。

おしゃれなようで全くおしゃれでないこの微妙な街並み。
スパには大江戸温泉物語のような大きな浴場があるとか。

昔の旅館っぽい建物もまだまだそこここに残されています。


最近これにそっくりな場所に行ったなあと思ったら金比羅山でした。
石段を、鳥居をくぐりながら登りつめると神社があります。



もちろん階段登るのがしんどい人のためにはあのエスカーもありまっせ。
江ノ島ファンの間で名高いエスカーとはなにか。

その昔、江の島の頂上に行くには
数百段の階段を上り下りしなければなりませんでした。
そこで、昭和34年に国内初の屋外エスカレーターとして、
高低差46メートルを4連で結ぶ全長106メートル の
「江の島エスカー」が登場しました。
頂上まで石段を上っていくと20分かかるところ、
江の島エスカーだとわずか4分でアクセス。
江島神社参拝に訪れるご高齢のお客様をはじめとし、
観光に来られる家族連れ・カップルのお客様にご利用頂き、
喜ばれております。(HPより)

なぜこれを普通にエスカレーターと称しないのかは昔から謎です。
Mさんの知り合いは、エスカーを降りてから、

「どこからエスカーに乗るの?」

と真面目に聞いたそうです。

さて、それはともかく、兒玉神社にたどり着きました。


続く。


「エ・プルリブス・ウヌム」〜パールハーバー体験ショー

2016-12-07 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」についてようやくお話しし終わったばかりですが、
他の展示艦のお話に進む前に、真珠湾攻撃の日にちなんで、
バトルシップ・コーブで見た「体験ショー」について書きます。 

その前に、まずは積み残した写真を一枚。
「マサチューセッツ」艦内の「敵国コーナー」の「ナチス・ドイツ」。

ナチスドイツの海軍少尉の制服だけをこの間ご紹介しましたが、
コーナー全体の写真が出てきました。

ナンバーが打ってありますが、その説明を撮り忘れたので
なんの補足もできないのが辛いところですが、
左下のは全てドイツ海軍の下士官の袖章で、
どれも錨のマークで、例えば雷があしらってあるのが通信、
羽ペンが庶務、舵輪がメカニックなどとなっています。

亀の甲文字で「マリーン」と書かれた帽子の水兵は
楽しそうにもやい結びをやっております。

袖のデザインにひねりがあって大変よろしいですね。

こちらはなんのコーナーか忘れましたが、水兵の制服は米海軍のもの。
一等兵曹、Petty Officer First Class(PO1)のものです。

右下のお札は、日本統治時代にグアムで流通していたお金。
発行はもちろん日本政府となっています。

左は、なんと日本海軍の魚雷が搭載していたジャイロスコープです。
魚雷のジャイロスコープホイールは、圧縮された空気によって回転し、
回転するホイールが進行方向をホールドします。

ジャイロの回転方向が逆向きに固定されており、
魚雷のコースが左右にずれている場合は、
圧縮空気モーターが作動して魚雷の垂直舵を回し、
まっすぐなコースで走行させます。

・・・・という説明がありますが、そんなことより、
この魚雷のジャイロがレイテ湾で
どうのような状況で
アメリカ軍の手に渡ったかを知りたいものです。

ところでわたしは、ここバトルシップ・コーブに入った途端、

「パールハーバー・エクスペリエンス」

のお知らせを目ざとく見つけて注目しておりました。 

これはチケット売り場のようなところにも貼ってあったので、
もしかしたら予約が必要なショーなのか、と思ったのですが、そうでもないようです。
どこでどんな風に行われるのか全く説明がなかったし、
わたしはとにかく「マサチューセッツ」の中を駆け回るのに忙しかったので、
それどころではなく、もし万が一、タイミングが合えば
見ることもやぶさかではない、程度に思っていました。

ニューヨークの「イントレピッド」艦内でやっていた
「カミカゼ体験ショー」というので大体この手の「体験ショー」が
どんなものかわかったような気になっていたせいもあります。 

2回目に訪れ、駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」に乗艦し、
さあこれから見て回ろうとしたとき、そのショーが始まるという
アナウンスがあったので、しばし足を止めることにしました。

その辺にいた人たちがなんとなく集まってきています。 

「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」の舷側からショーが始まるのを
待っている間、下に展示してあった飛行機を撮ってみました。

アメリカでこの「トロージャン」を見るのは何度目かです。
しかし練習機として赤と白に塗り分けられたものは初めて見ました。 

T-28は1940年後半から、T-6/SNJと置き換えられていったもので、
基本練習機でしたが、戦闘バージョンが作られたこともあり、
ベトナム戦争の時にはアメリカ空軍が運用していました。 

このT-28は、フロリダのペンサコーラ基地で、空母への着艦が
可能な機体として長年運用されてきましたが、1975年、
に空母「レキシントン」に「ハードランディング」してダメージを受け、
それがきっかけで退役したそうです。

ハードランディングとは、「軟着陸」の反対で「硬着陸」のこと。
早いはなし、甲板に「叩きつけられてどこか破損した」ってことですね。 

「レキシントン」(CV-16)といえば、映画「トラ・トラ・トラ!」で
空母「赤城」を演じたことがありましたっけ。
「ミッドウェイ」その他多数の映画に出演してきましたが、あの抱腹絶倒映画
「パールハーバー」でも「赤城」を演じたという経歴があります。


というわけで、めでたく超間接的にタイトルの「パールハーバー」とつながりました。

ところで、バトルシップコーブに入場して最初におおっと思ったのが、これ。
なぜか昔のアメリカ軍用車が停まっています。 

こんな感じで、なぜここに車が?と不思議だったのですが、
これはいわゆる一つの演出だったことが後から分かりました。

さて、いよいよ「パールハーバー体験ショー」の始まりです。
ハンガーのようなトタン屋根の展示棟(こちらにもPTボートの展示が)
の前に、大きなスクリーンがあることが始まって初めて気づきました。

DECEMBER 1941

と映画のような出だしですが、会場には緊張感ゼロ(笑) 

んー、なんか第2次世界大戦のヨーロッパ戦線だったと思う。
アメリカは真珠湾以前から中立国としながらも

「レンドリース法」

という武器貸与法を作って、イギリス、ソビエト連邦(ソ連)、中国
(蒋介石国民党政府)、フランスやその他の連合国に対し、
膨大な量の軍需物資を供給していたわけですね。

もちろん、義勇軍と名乗って中国大陸にも参入していました。

ハワイに駐留しているアメリカ軍は、日本軍の攻撃があることなど
夢にも知らずにフラダンスを見ていましたとさ。 

そこに襲い来る日本軍の機動部隊。
アメリカ側航空機もこれを迎え討たんと飛び立ちます。

ちなみにせっかくなので、大石第一航空艦隊参謀が書き遺した
その時の感激ぶりを戦史叢書から抜粋して書いておきます。


0327頃 奇襲成功電来る 東京及び連合艦隊全部の喜び想像に余りあり

0530ー0830頃まで収容 本日ウネリ大なるため発進、収容諸作業困難を極む

僅に一時間半にて米戦闘部隊に布哇空軍を事実上殲滅せり
武人の本懐之に過ぎず
之にて戦争の前途に無限の光明生ぜり 
四二年の生涯 唯今日のためにあり 

藤田第8戦隊参謀の日誌も紹介しておきましょう。
ちょっとわかりにくいので、現代文に翻訳しておきます。

間も無く攻撃隊総司令官の電報「奇襲成功せり」
敵は警戒していなかったということだ。やったぜ!
ついにアメリカ側は攻撃に気づくことがなかったんだ

「見たか、アメリカ!」

30余年の積年の恨みが刃となって今お前らの胸を刺しているのだ
まず匕首で敵の心臓を衝く雷撃は始まった
続いてきた報は

「我的主力艦を雷撃す、効果絶大」 

この頃から我奇襲に続き、敵の緊急通信を頻々と傍受する。
敵は狼狽を極めているらしく、平文電報を乱発している。
愉快、てか、平文でなんて馬鹿みてーじゃね?

曰く「日本軍のオアフ空襲により日本との戦闘行為開始さる」
曰く「真珠湾状の空襲は演習にあらず」

wwwwwww(原文・笑止々々) 

曰く「オアフ空襲さる SOS SOS」

曰く「出航容易なる艦より出動せよ」

曰く「港外に機雷を敷設した 戦艦は止まれ」

狼狽の様子が手に取るようにわかる

曰く「ウェストバージニア付近の重油大火災、
メリーランド、テネシーを脅威する 防火艇送れ」

惨状を目の当たりに見るようだ 

我が攻撃隊指揮官から「雷撃終了頃敵防御砲火あり」と
あっという間に防御砲火を出してくるとは敵ながらあっぱれ

次いで、雲の上はるか、水平攻撃で弾を降り注ぎ、
飛燕のように頭上から急降下爆撃と銃撃によって敵飛行場に
縦横無尽の攻撃を開始した

フォード、ヒッカム、ホイラー、カネオヘ、敵機のあるところ
余すこと無く獅子奮迅の猛襲だ 

次いで第二次発信部隊の攻撃は続く

この隊は手を変えて、艦爆隊には艦船攻撃、艦攻隊、戦闘機隊は対地攻撃、
この頃から敵の防御砲火は悉く熾烈なりとの報があった 

戦い終わって誇らしげな我が機の攻撃報告、周章狼狽のうちに
懸命に手配を命じている敵の平文電報が入り混じって
艦橋のテレトークは連続してくる快報で耳も裂けそうだ

艦橋に立つ司令官以下は緊張と愉快の連続に顔面が軒昂としていた

こちら側の記述ばかりになりましたが、肝心の「真珠湾体験」は、
藤田参謀が平文で聞き取った「これは演習ではない」などといった通信や、
警報音、爆音などが流れ、そうするうちに、しょぼい水しぶきが! 
多分薄々お気づきかと思いますが、これは日本軍の爆撃を意味しています。 

当時の軍用車がこのときのためにそこにあったことがわかりました。

子供たち「はえー」

攻撃が終わった後、アメリカ側にはこれだけの犠牲が・・・というシーン。
ちなみに、藤田参謀の日誌から日本側の犠牲について言及している部分です。

しかしこの大戦果の影には尊い犠牲もなかったわけではない
約30機の飛行機はこの大壮挙の犠牲として敵地上空に散華した
惜しんであまりあるが、栄光ある壮挙に加わって名誉の戦死を遂げたのだ
武人の本懐之に過ぎず、勇士たちに莞爾として冥するものである 

ふと気づくと、岸壁にこのとき使われた93式酸素魚雷が(嘘) 

「体験」とやらがあまりにもしょぼいので思わず目眩したわたしは、
この手のアメリカのアナウンスがあれこれとうざいことを言い出す前に
場所を移動することにしました。 

まあ、最後までいても知っていること以上のことはなにもなかったと思います。

さて、パールハーバーと言えば、「マサチューセッツ」の艦内には
「パールハーバールーム」というのがあって、若干の資料がありました。 

 真珠湾攻撃時のパールハーバーの艦艇の位置とか。
手前には「カッシン」「ペンシルバニア」、
画面右上にはあの「ウェストバージニア」「アリゾナ」の姿があります。 

パールハーバーの生存者協会なんてのがあるみたいですね。
今でも集まっては「リメンバー・パールハーバー」とかやってるんだろうか。 


USS「パールハーバー」 LSD-52

はまだ1998年に就役したばかりのドック型揚陸艦です。
冒頭写真のいかにもアメリカらしい怨みを忘れず、
さらに「フリーダムノットフリー」(自由は無償ではない)
というアメリカ人の好きそうなロゴをこれでもかとあしらったマーク、
わたしはてっきり戦時中に制作されたものだと思っていましたよ。

E PLURIBS UNUM(エ・プルリブス・ウヌム)

というのはラテン語で「多数から一つへ」という意味を持ち、つまり
「ユナイテッド」であるアメリカ合衆国を意味します。
この言葉はアメリカ合衆国の国章にも書かれています。

 

1941年以来、「パールハーバー」と名付けられたフネが一隻もなかった、
というのもなんだか不思議なのですが、それを20世紀も終わる頃、
わざわざ恨み骨髄忘れんぞみたいなマークをくっつけて作るかねえ・・・。

察するに、パールハーバーの生存者協会が、新しくできる揚陸艦に
このマークを否応なく押し付け、いや贈呈したみたいですね。



このマークに書かれた赤い飛行機は日本機、そして、
2403って・・・もしかして

真珠湾攻撃の犠牲者の数? 

現代に生きるアメリカ海軍の軍人さんたちにとっては、正直なところ
微妙なマークではないのかとわたしは考えるのですが・・。

だいたいほら、この揚陸艦、何があっても日本には持っていけないし、
同盟国海軍たる海上自衛隊と一緒に行動しにくくなるじゃない?

 

 

 


オールド・アイアンサイズに捧げる詩〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

2016-12-05 | 博物館・資料館・テーマパーク

「コンスティチューション」は「ナショナル・シップ」として、
そしてかつて敵を沈没させたことのある世界で一つの現役艦として、
永久保存されることが議会で決まり、さらには1960年に
国の指定歴史建造物となっています。
従って、この船を多くの著名人が公式に訪問しています。

この写真は1976年、7月11日、当時の「コンスティチューション」艦長であった
タイロン・マーチン少佐が、エリザベス二世陛下を甲板でお出迎えする様子。
この後「コンスティチューション」は女王陛下をお乗せして航行し、さらに、
海軍長官のJ・ウィリアム・ミッデンドーフは、1970年代初期の改修の際に
船穀から取り出した当初材を使って制作した私物箱を陛下にプレゼントしています。

かつて「国王陛下の船」をコテンパンにやっつけた船に乗船して、

その末裔である女王陛下がどのようなことをおっしゃったのか知りたいものです。

しかもこのときにはアメリカ独立200周年記念だったという・・・(笑)



1931年、甲板の上のフーバー大統領夫妻。
艦長らしき軍人は当時の制服を着ています。
まだこのころは1812年のコスプレ(プレイじゃないけど)をするべし、
という
ことは海軍では決められていなかったようですね。



はい、これが誰かお分かりですか?
あのダグラス・マッカーサー元帥の1961年の姿です。
日本での統治中、朝鮮戦争をきっかけにトルーマンから解任されて、
あの「老兵は死なずただ消えゆくのみ」という演説を最後に
引退してから10年が経っていました。

このころマッカーサーはケネディと会談しなぜか意気投合しています。
おそらくケネディは理想から、そしてマッカーサーは経験から、
マクナマラのドミノ理論に反対する立場は同じであり、マッカーサーは


アジア大陸にアメリカの地上軍を投入しようと考える者は
頭の検査でもしてもらった方がいい」wiki

といっていたくらいですから、お互い意見の一致を見たのかもしれません。

この写真が撮られた翌年の1962年、元帥は人生最後の演説を
母校のウェストポイントで行い、候補生たちに最後の別れを告げ、
3年後に84歳で死去しました。



日本人にはあまり知られていないこの船の存在ですが、アメリカでは
子供でも(学校で習うので)その名前とその存在を知っています。

ディズニーが「コンスティチューション」を題材にして
「オールド・アイアンサイズ」という映画まで作ってしまいます。

いまいち駄作だったらしく、今日なんの資料も残っておりませんが。



メカニック雑誌の表紙になった「コンスティチューション」の模型。

「’オールド・アイアンサイズが再び蘇る」

という特集は、この模型の制作についてでしょうか。
その下の

「あなた自身のスイミングプールを作る」

という内容の方が気になるのはわたしだけ?



生活の中の「コンスティチューション」。
この船をモチーフにした絵を施した商品はもちろん、1812年の
勝利に寄与した艦長の肖像までが英雄としてあしらわれました。

当時のインテリがこぞって「コンスティチューションをうちに!」
と提唱したのもあって、ブームが巻き起こりました。
彼女を讃える歌、詩、そして多くの絵画がこの時期たくさん制作されたのです。



歴史的人物と彼女の写真が多く残されているのもこれ全て
「コンスティチューション」が「国の船」であるからですが、
そんな彼女も一度は解体されそうになったことがあります。



海戦からわずか18年後の1830年、最初の解体案が出されました。
その理由は
修復にお金がかかりすぎたからです。
その噂を聞き、心を痛めたハーバード・メディカルスクールの学生、
オリバー・ホルムズが、こんな詩を書きました。

”オールド・アイアンサイズ”

アイ!彼女のぼろぼろの旗を下ろせ
かつて高みになびいたその旗を
多くの眼差しがその旗を求めて踊った
空になびくその旗のもと、戦いの叫びがうずまき、
そし大砲の轟音が破裂した
海の上に見る流星は、もうこれ以上雲を払わない

その甲板はかつて英雄の血で赤く染まった
打ち負かされた敵がそこにひざまずいた
風が大急ぎでそこに波で覆わせても
そして波が白くその下で砕けようとも
もうこれ以上勝利の足音を聞くことも
敵を打ち負かしたという知らせを聞くこともない
渚のハルピュイアが海原から鷲をもぎ取ってしまうから

ああ、それならいっそ彼女の体を
波の下に沈めてやってくれ

彼女が立てる轟音が深い海の底を揺り動かすだろう
そこにこそ彼女の墓はあるべきなのだ
そのマストに彼女の神聖なる旗を釘付けにせよ
そして擦り切れた帆をすべてマストに張ってやろう
そして、嵐の、雷の、強風の神に彼女を捧げよう


ところどころ苦しい翻訳ですがまあこんなところで(; ̄ー ̄A 

この詩は世間に大きな感動と関心を呼び、これがすべてではありませんが
一つのきっかけとなって解体を免れたのでした。

合衆国議会は「コンスティチューション」の再建予算案を可決し、
1835年に彼女はなんと7年ぶりに再び就役を果たしました。

その後、地中海と南太平洋で旗艦として従軍し、1844年から
30ヶ月かけて世界周航も果たしています。



再び「コンスティチューション」の第二甲板に戻りましょう。
かつて士官たちが食事をした船尾の特等室には、このような
銘板が飾ってありました。
一つ一つのプレートには個人名が書かれています。

おそらくですが、前回の修復に当たって大口の寄付をして
永劫この艦内に名前を残すことにした人たちの名前でしょう。



名前を残すといえば、永遠に現役艦である「コンスティチューション」の
艦長は、このように名前を記されて永久に人々に記憶してもらえます。

先ほどの1828年から1835年の間のように、解体の危機のときには
その間艦長の名前がありません。

それ以外は切れ目なく艦長がいましたが、大きなブランクがあるのが
1881年から1931年までの50年間で、この期間、「コンスティチューション」には
またしても解体の危機が訪れるのですが、愛国者たちの寄付によって救われ、
1931年、修復ののちアメリカ大西洋岸、メキシコ湾岸および
アメリカ太平洋岸の90の港湾都市を3年かけて回航して回りました。
(このときの艦長ガリバー少佐の任期は3年です)



そのときの写真。
ニューヨークの港に到着した「コンスティチューション」の姿です。
引き船に曳航されての船旅だったと書かれていますが、
これによると自力で航行しているように見えますね。 


1941年にはクラレンス・マクブライドという中尉が艦長になります。
けっきょくこの中尉が戦争中ずっとここの艦長をしていたのですが、
いかに国の船といえども港にいるだけの船の艦長に
働き盛りである少佐を当てるほど米海軍も余裕はなかったのでしょう。

戦争が終わっても「チーフボースン」、
すなわち掌長が文字通りの艦長にあてられたりしていました。
艦長が元の通り少佐になるのは1961年以降です。

東西冷戦を視野に入れてのことだったのだと思われます。
1961年に艦長職が少佐に戻ったのには、いわゆるベルリン危機で
冷戦が暫定的な解決を見たということと関係があるかもしれません。




さて、ここからは実際に「コンスティチューション」にまつわるものなど。



「コンスティチューション」は、イギリスのフリゲート艦「ゲリエール」と戦い、
圧倒的な強さで勝利したわずか4ヶ月後、やはり英海軍のフリゲート
「ジャバ」と遭遇して、3時間におよぶ戦闘ののちこれを打ち負かしました。
この戦闘で「ジャバ」は修復もできないほど破壊されたといわれます。


この戦闘のあと、「コンスティチューション」乗り組みの士官候補生、
デュラニー・フォレストは、降伏後の「ジャバ」に乗り込み、
戦利品としてチェストの中からこの写真の聖書を持って帰ってきました。

その日すぐに書き込んだらしい裏表紙には、

「この本はコンスティチューションに降伏したジャバから
勝利の記念に持ち帰ったものである」

という文章とともに、1812年12月20日の日付が書かれています。


1813年、コモドア、つまり代将ウィリアム・ベインブリッジの名で
基金集めのために行われた「海軍ディナー」のチケット。
砲を撃っている「コンスティチューション 」が描かれています。



ディナーに使われた豪華な銀器の数々。

手前には金でできたメダルも。



あまり語られることがありませんが、この時代、軍艦に乗って戦争をする
海軍の男たちの妻たちについても少し展示がありました。


写真は、「チェサピーク」の乗組員だったハル大尉の妻、アン。
彼女の肖像と、実際の持ち物であったイヤリングと髪飾り、
そして夫のアイザック・ハル大尉の肖像画が展示されています。


1813年には圧倒的な海軍力を誇るイギリス海軍は、

アメリカ沿岸の港に対する封鎖をおこないました。
コネチカットのチェサピーク湾も封鎖された地域です。

チェサピークに居を構える軍人たちの家族は、ときには夫や父の船が
イギリスの軍艦にやられ、捕虜になるのを
沿岸から見ることになりました。

「敵の砲撃する弾などが皆家から見ることができました。
弾が飛んでくることはなくても、わたしたちに戦いの用意はできていました」


とある妻は語っています。

妻たちにとって、英国との戦争は自宅のすぐ近くで起こっていたのです。
「コンスティチューション」で勝利を経験したパーサー、トーマス・チュウは
そのあと「チェサピーク」に転勤になっていました。

「パーサー」とはこの時代の「准尉」という立場だと思われます。
1813年の6月1日、彼の妻は彼にこんな手紙を書きました。

「ローレンス艦長があなたを尊敬していると知って、
それがわたしの慰めと満足になっています。
艦長を敬愛しているとお伝えくださいませ。
天があなたを見守ってくださいますように。

そしてあなたがあなたを愛する妻の腕の中に戻ってきますように」

皮肉なことに彼女がこの手紙を書いた同じ日、ボストン湾を就航した
「チェサピーク」はHMS「シャノン」に捕捉され、目撃者によると
アメリカ海軍にとって最も屈辱的な負けを喫したのでした。
チェサピークの士官候補生が負傷した艦長を命令なしに安全な場所に運び、
その結果敵艦の攻撃を受けて他の士官は全員戦死している)

 

チュウの妻がその名前を挙げた艦長のジェームス・ローレンスは狙撃手の弾を受けて負傷し、

「船を諦めるな!沈むまで戦え」
( Don't give up the ship! Fight her till she sinks.)

と言いながら死んでいきました。
その後「チェサピーク」は戦利品として「シャノン」に曳航されて
ノバ・スコーシアまで運ばれています。


チュウは生き残り、妻との間に7人の子供をもうけましたが、
長男に「ジェームス・ローレンス」という名前をつけたそうです。
8年後彼は海軍を退役し、さらに4半世紀後まで生きました。



続く。


 


ネイキッド・アンド・アフレイド〜「XL」とは?

2016-12-04 | アメリカ

さて、昨日に続きアメリカのサバイバル番組「ネイキッド&アフレイド」、
の新機軸?、「XL」をご紹介します。
「XL」とは従来の男女二人でなく、数名の男女のグループが
日数も40日と大幅に増えた期間、勿論全裸で密林をサバイバルするというものです。
 

これは面白かったですね。
グループになることで、ここに人間関係というのが複雑化し、
「社会」が生まれてくるからです。
まあ、「社会」が生まれる最小単位は二人からという説もありますが。

つまりギリギリのシチュエーションならばこそ、団体にはつきものの
不協和音なども生まれてくるので、番組にとっては「美味しいシーン」も
撮られやすくなってくるというものなのです。

これを考えた「ネイキッド」のスタッフえらい。

 

 最初から全員が同じところでスタートするのではなく、別々のところで2〜3人
という単位でサバイバルを始め、指示によってだんだん集まっていくという形。

 

ところでこの「商業漁師」のクリスさん、見たことがあるような・・。
ルークという人もです。
このバージョン、今まで男女のサバイバルに出演した、
経験者に再登場させているのかなと思ったんですが、
皆裸でヒゲをのばしているので、同じように見えるだけかもしれません。

 

クリスとルークが見つけたフルーツの木。

 

無農薬の自然栽培でございます。
けっこう美味しそうに見えますが、実際はどうなんでしょうか。

 

でもやっぱりこういうものも食べないといけないのよね。

『XL』のサバイバル期間は40日です。
人間は水を一滴も飲まないと4〜5日で脱水症状を起こして死にますが、
何も食べなくても2〜3週間は生きていられるそうですから、この番組の
オリジナルであるサバイバル期間3週間というのは、
”万が一何も食べられなくても死なずに済む”ぎりぎりの設定なのです。

しかしこの「XL」バージョンは、アリだろうがなんだろうが、
食べなくては文字通り生き残ることはできません。

まあ、本当に何も見つからずに死にかけるような事態になれば
スタッフが身柄回収に来てくれるわけですけど。

 

ありの佃煮なんてありそう、などと洒落を言っている場合ではありません。

 

 「アリ、苦(にげ)え〜〜〜〜!」

 

「・・・仕方ないじゃん・・?」

さて、次なるグループは女性二人、男性一人の三人。

 

アラナ、ダニエル、シェーンの三人。
アラナ姐さん、腕の刺青がすごいっす。



EMTはおそらく Emergency Medical Technician の略。
「wilderness」とつくので、こういう場所での専門家でしょうか。

いずれにしても頼もしい肩書きです。 


 

白一点のショーン。
何をしている人か忘れましたが、これが実は問題児だったりする。

そしてこちらはまた別のグループ。

 

プロフェッショナルの救助員であるというダニーさん。頼もしいっす。

 

この人も見覚えがあるなあ。気のせい?

 

見ていた限りでは、女性同士のパーティは皆うまくいっていました。

 

男女に限らず、怠け者は基本的にこういう番組には出てきません。
特に女性は超アクティブでチャレンジャーばかりですから、
女性同士でありがちな、仕事分担の場面での

「あの人全然働かないよね」「わたしたちばっかり仕事させて」

という事態にはなりにくいせいかなという気がします。
わたしのこれまでの数少ない経験からいえば、女性が何人かで寝泊まりすると、
必ず「働かない人」「それに不満を持つ人」がでてきて
互いの悪口を言いだすものなのです。
(働かない人が男性の前でだけはこまめになる傾向もなぜか共通している) 

 

サバイバルでは文字通り「働かざるもの食うべからず」。
このパーティもさくさくと服をつくり、テキパキと用具を作り、
とっとと食べ物探しに出かけました。

 

かたやこの二人、とりあえず果物とアリでお腹が膨れたので、
あまりカロリーを消費せず時間つぶしをしようということになりました。

 

左のルークの提案でヨガをすることに(笑)
クリスは娑婆でもヨガなどしたことなかったのに、とぼやきつつも、付き合います。

 

「インヘイル〜〜〜」「エクスヘイル〜〜〜」

全裸の男が二人、コロンビアのジャングルで逆立ちをしているの図。



ところで、この二人、ここに至る以前に女性の同行者がいたのです。
しかし、その人とクリスが衝突を繰り返してばかり。
女性が、こういう番組に出てくる人には珍しく、自分が女性であることで
特別に扱われるべき、という考えだったのが亀裂の原因でした。

「自分たちだけ果物食ったっていうけど最低の味だったんだぜ!」

クリスも激昂して女性相手に大きな声で罵ります。


やらせか本当かはわかりませんが、女性はわかりやすいヒール(悪役)
を演じているのではないかとすら思われました。



この女性は一人でいるときにトカゲを捕まえることに成功し、



自分で料理することもできたようなのですが、



もう一人のルークがそれを食べようとすると、「わたしのよ?」
穏やかだったルークも実は彼女の自分勝手には腹に据えかねていたようで、

「ちがうよ、チームのだよ」



ヒステリーを起こした彼女、たえきれなくなってここで脱落。
女性のスタッフが服を着せ、トラックの荷台(助手席には乗れない)
でドナドナされる画面に本人の声が。

「これがわたしの最初で最後のネイキッド体験だわ」

 

こちらの二人は、水を見つけた後、なんと野生のスイカを見つけました。 

さて、紅一点の女性が脱落し、ヨガで時間を潰したクリスとルーク、
合流地点でダニーたちのパーティと合流成功しました。
がっちり握手を交わします。

今までの成果を報告しあいながら、全員はまず親睦を深めるために

 

みんなで池につかって歓談。
火にあたりながら、という気候ではないし、車座になって、
というのも何か気まずい、ということでこの選択です。

 

さて、こちらの男性二人もサバイバルをしつつ合流地点に向かいます。

こちらのグループは火の周りで就寝。
女性二人、男性一人のパーティなんですが、この三人に不協和音が・・。

どうも男性のショーンの性格がこの二人には「うざい」ようです。
ショーンが一人だけどこかに行ってしまうと、途端に二人で
悪口を言ったりしております。

 

彼女らが彼を嫌うのは当然で、ちょっとしたことで気分を悪くして
グループを離れ、 自分だけの「ロッジ」をつくって立てこもり、
二人とは絶対に関わらないという態度でいるわけです。

女性二人に現場を見つかって呆れられても「何か悪いか」と開き直り、
それどころか、

「君らが俺を傷つけて、イライラさせるからだ」

などと言い返す始末。



短気なくせに粘着質、女性にとって一番苦手なタイプかもしれません。
ショーンの方も自分で

「I am not a Mysogynistic woman-hater.」

などとつぶやいております。
Mysogynisticというのは、辞書を引いても出てきませんが、
これそのものが「女嫌い」という意味なのです。

「 Mysogynistic woman-hater」というのは「頭痛が痛い」と同じ
意味を重ねた言葉ですが、わざわざこんなことを言うこと自体
もしかしたら本当に女嫌いである証拠なんじゃないか、と疑われます。

 

彼が「you」とカメラに向かって罵っているのは、なんと
女性二人のことではなく、自分自身なのです。
自分で思ったようにいかないことを自分のせいだとし、
その苛立ちから他人から遠ざかる。

中指を立てて、スタッフにいらない加工作業をさせております。 
中指を立てる仕草、というのは本場では放送禁止レベルなんですよ。

何処かの国では、大学のセンセや放送倫理を監視する役目である
BPOの委員や、仮にも精神科の医者を名乗るような、しかも女性が
公衆の面前中指を立てても公的に抹殺されずに済んでいるようですが、
欧米で公人がこんなことを写真に撮られたら、即社会的生命は終了です。 

ショーンさん、泣き出しました。おいおい。



この人実社会でもこんな人なんでしょうか。
それとも特殊な環境だから?



という不穏なチームに合流するためにやってきた男性二人。




そのうちのひとり、ジェフは「ビッグゲームハンター」
・・・・ってなんなんだよこの肩書きは・・。
「サスケ」とかの体力自慢サバイバルのことかな?



落ち込んでいたシェーンを二人が発見。



ジェフは屈託のない表情ですが、



こちら屈託ありまくり。
なんかこの人、精神的に、というか対人的に複雑な
トラウマからくる問題を抱えているんじゃないかという気がします。



「よくきたわね。向こうにスパがあるから一緒に入らない?」



「ほんと?やったー!」 




ショーンに手を焼いていた女性二人は、空気を変えてくれる
明るい男性が入ってきてくれたのでホッとしている様子。
もうここからはショーンなど無視していれば済む話です。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

さて、このあと「XL」がどうなったのか、残念ですが
この続きを放映する前にわたしはアメリカを発ってしまいました。
どうしても知りたいわけではありませんが、この混乱が
どのように収拾を見たか、少しだけ興味はあります。

おそらく来年の夏、アメリカに行ったらこのバージョンも
再々再放送くらいになっていると思うので、もし観たら
ぜひ続きをみなさまにご報告させていただこうと思います。


・・・・え? 別にそんなの知りたくもないって?(笑) 

 

おまけ*撮ったもののなんだったのか全くわからないまま終わった
巨大な「なにか」を見つけたシーン。
蛇でなければキュウリの漬物みたいですが。 

この正体もわかればぜひ調べて・・・え?別にいい、って?

 


 


ネイキッド・アンド・アフレイド再び

2016-12-02 | アメリカ

大自然の中、初対面の男女がいきなり一糸まとわぬ姿で出会い、
ともにサバイバルする、という番組「ネイキッド&アフレイド」。
日本でも有料チャンネルで放送が始まったことは確認しましたが、
日本ではそれほど話題にはなっていない様子ですね。(ですよね?)

まあ、出演するのが一般人といってもアメリカ人なので、我々からは
やはりどこか遠い世界でやっているような感が拭えず、
まあアメリカ人ならこれくらいやるだろうなあ、と違和感なく
見てしまうのが、逆にセンセーションを感じない理由でしょうか。

今年の夏アメリカでは、相変わらず毎日のようにナショジオで放映されていましたが、
さすがに同じパターンではいくら人が変わっても飽きてくるのか、
それまでにない企画を打ち出していました。

それをご紹介する前に、この番組のオリジナルのパターンを
一つご紹介しておきましょう。



今回出演の女性サバイバーはこの女性。
昔のことで詳細は忘れてしまったのですが(てへっ)、確か
看護師だったような気がします。



お相手はこの男性。こちらも忘れました。
アメリカ国内かブラジルか、サバイバルする部隊はその都度違います。
「服を着ない」というのがウリである関係上、季節は夏、水源地帯が多いですが、
アフリカなどだと夜間は寒さに耐えるというチャレンジもあります。

今回のチームは、船で合流地点にそれぞれが向かい、
船の上に着ているものを脱ぎ捨ててのち出会うという趣向。



パートナーがどんな人物か、出会うまではドキドキです。
3週間もの間全裸で一緒に過ごす相手ですし、なんといっても
サバイバルがうまくいくかどうかはほぼ相性で決まりますから。



腰の深さまでの穏やかな湿地(沼?)で握手を交わします。
ここでハグする二人もいますが、少数派です。
さすがのアメリカ人も最初はさすがにテレというか遠慮があるのでしょう。



早速二人は火を起こすという大事な仕事に取り掛かります。
今回は特に男性が用意万端、おそらく練習までしてきたので、
簡単に火を手に入れることができました。



お互い何か一つだけギアを持ってきてもいいことになっており、
男性は大抵の場合サバイバルナイフ持参です。
火おこし棒の回転を受け止める部分にビンのようなものを使っていますが、
これ、まさか現地で拾ったもの?

もしかして、ここ無人地帯でもなんでもないんじゃあ・・・。


当初から「やらせ」が疑われているこの番組ですが、どこからどこまでが

「本気」と書いてマジなのか、我々に知るすべはありません。
夜間、ハンディカムを持って自分語りをしている以外の映像は
角度的にも質的にもプロのカメラクルーによる撮影にしか見えず、厳密には
サバイバーの男女と少なくともカメラマン、ディレクターは一緒なのでは、
と思うのですが、番組の宣伝では「二人きり」とするものがほとんどです。



さて、火が起こせたので、次は食べ物の確保です。
以前ご紹介した「ファットガイ・イン・ザ・ウッド」では、
脂肪を蓄えたデブ三人が
サバイバリストの指南を受けながらサバイバルを学ぶ、
という趣向ですが、
こちらは凍え死ぬ可能性のない季節だけあって、
専門的知識は
ほとんど参加者に委ねられた状態。

サバイバルについてのスキルはプロ並みの人もいればほとんど皆無の人もいます。



あっという間にこの二人は何か食べ物を見つけてきました。
女性はすでに着るものを製作したようですね。
きっと事前に何かで練習してきたのに違いありません。


この番組、見えていけないところには終始ぼかしが入るのですが、
画像処理するスタッフも結構大変なのではないかと思われます。
番組側も当初、参加者はすぐにこのように着るものを調達するだろうから、

と甘く?見ていたらしいんですね。
ところが蓋を開けてみたら、ほとんどの出演者は「それどころではなくなり」、
番組は最初から最後までぼかしを入れるという手間を強いられるのだとか。

ですからこの二人のような人たちは番組にとって多分「ありがたい」のです。
(手間的な意味で) 




最初の食事は、何かの幼虫でした。
それにしてもよくこんなの見つけられたなあ。
これは結構クリーミーで美味しいんじゃないかしら。
もちろん食べたことはありませんが。



なぜか小指を立てて虫を食する女性。
覚悟はしてきたようですのでそう悲壮な感じではありません。



男性の方はどうやらサバイバルについてはかなり研鑽を積んでいるようで、
この二人はこのような罠を製作して川に仕掛けることまでしております。



現地に到着した時に、ここにはワニがいるらしい、
とこの死骸を見て確認しておいたのが役に立ったんですね。



おお!早速なんかかかってるよ!



この尻尾は紛れもなく、ピンポイントでワニそのものです。
ワニを狙ったらワニがかかるなんてやらせくさい、いやなんでもない。

女性は少し「ひいて」いるようです。



この男性が持ってきたのはサバイバルナイフでなく刀でした。
さっそく調理にかかります。
サバイバルナイフではこういう硬そうなものの首を落とすのは
難しかったかもしれないですね。



内臓の処理は丁寧にね。
寄生虫の危険がある内臓部分は食べないつもりかもしれません。
こちらも葉っぱの包み焼きにして食すようです。



尻尾にキャンデーのように棒を刺してあるのがシュールです。
火を通しやすいように串で穴を開けるという一手間を惜しまずに。



「虫に比べたら十分ご馳走よね」 

しかし、アメリカ人というのは表情に出ますなあ。
日本人が何を考えているのかわからないと彼らは言いますが、
こういうのを見るとそれも納得です。



この男性、甲斐性があるというのか(笑)せっせとこういうものを
捕まえては持ってきて調理してくれるのです。
この「スモークドスネーク」の調理台も男性考案のもの。

しかし、出来上がりを眺めている女性は浮かない表情。

ワニも蛇も焼けば「チキンみたい」だというものの、
やはりできれば食べずに一生過ごせたらそれにこしたことはありませんから。

日本国陸上自衛隊レンジャー「せやな」



男性、けっこうドヤってますか?
前にも書きましたが、食べ物の確保がうまくいったカップルは
最後までお互いうまくいく確率が高いように思えます。



男性がヘタレると、その反対より確実に空気は悪くなるのですが、
(そりゃそうですよね。女性の見下した目に男性がふてくされたりして)
今回はうまくいった例でもトップクラスではなかったでしょうか。

番組的には「事件」が起こらず制作者にとってはイマイチだったかもしれませんが。



帰りのトラックでもこんどは心を込めてハグし合います。
共通のサバイバル体験を乗り越えた二人は、たとえ全裸の男女でも
もはや「同志」という感覚しかないのでしょう。



経験値もかなり上がったようですし、良かったですね(適当)



ところで、サバイバルが終わって彼らが文明社会というか娑婆、
というかいつもの生活に戻ったところもこの番組ではときどき
後日譚のように見せてくれる時があります。

自宅に帰って感想を語る男性の左腕には包帯が巻かれています。



ただの怪我というより化膿してしまったのではないか?
と思われるような傷が・・・。
もちろん破傷風などの予防注射は万全に打っていくのでしょうが、
順調に見えた今回のチャレンジも結構実は大変だったようです。

いや、あまりにも順調だったので番組としては、オチのようにこのような

「サバイバルの証」みたいな疵をエピソードにいれてきたのかもしれません。



女性の傷も、普通ではありません。
欧米人はたとえそばかすだらけになっても日焼けしたがるので、

彼女の肌ももともときれいというわけではありませんが、
それでもこんな傷跡は嫌だろうなあ・・。

これ虫刺されだったら、もうわたしなら泣く自信ある。



ひえええ、これ、なんかやばいもの刺さってね?

ジャングルで何も身を守らずに過ごすということの恐ろしさは
実はこれなんですよね。
生きていかなくてはいけないから食べることがまず優先されるけど、
元の世界に戻って来れば、これが一番堪えるという・・。

まあ、自らが志願してやっているのだし、おそらくは山ほど
誓約書にサインさせられているので、何があっても
文句は言えないなずですが、それでも何かあれば訴えるのがアメリカ人(笑)



ところでわたしが個人的にすごくウケたのが、このとき画面に
見えてはいけないものと同じぼかし加工をされて、ちらっと映った彼女の旦那。

全裸サバイバルにチャレンジするアクティブな妻にしてこの夫ですよ。

なんというか、人生いろいろってかんじ(笑)
 

続く。


 

 


カサブランカ海戦の”真実” 〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-12-01 | 軍艦

さて、いよいよ戦艦「マサチューセッツ」見学最終回です。
戦艦のファシリティについてはこれで全部を網羅しましたが、
まだ特別展示が残っていますので、またいずれ、
他の艦艇見学の合間にお話しできればと思います。

さて、冒頭写真は艦内に説明なく展示してあった
割れた砲弾らしきもので、何かわからなかったのですが、
最後に撮った一連の写真にそれがわかる鍵がありました。



すべてを見終わって甲板に出てきたときにとった写真です。
ここにも同じような千切れた砲弾の先みたいなのがある!

実はこれ、「マサチューセッツ」が大戦当初に砲弾を撃ったという
あの「カサブランカ海戦」のときの砲弾らしいのです。

1942年11月8日、戦艦「マサチューセッツ」は「松明作戦」
(Operation Torch)に参加し、北アフリカのカサブランカ、
揚陸の一つの目的であるフランス領モロッコ近海に艦隊として配されていました。

ドイツ占領後もヴィシー政権が保持していたアルジェを、連合軍は
独軍よりも先に確保するため、またリビアの独・伊軍を挟撃するために、
フランス植民地のアルジェリアとモロッコに3方面から上陸して、
アフリカ北東部を制圧下に置く作戦です。

6:45、「マサチューセッツ」はフランス海軍の「ジャン・バール」から

砲撃を受け反撃を行った、とこの展示では説明されていますが、
アメリカ媒体ではないカサブランカ海海戦の経緯によると、


米戦艦マサチューセッツ、重巡ウィチタ、タスカルーサ、駆逐艦4隻が
沖合から接近して砲撃を加えるとカサブランカ西部のエルハンク砲台が応戦。
未完成の仏戦艦ジャン・バールも砲撃を返す。

となっているのです。
”先に撃ってこられたから反撃した”って、嘘じゃーん(笑)

だいたい「ジャン・バール」は艤装中で、まだ4分の3しかできておらず、
常識で考えてもそんなフネが戦艦に先に攻撃するわけないと思うのですが、
とにかくアメリカ側の記述にはこのことは一切書かれていません。



この写真のゴマ粒みたいなの一つ一つが16インチ砲です。

第1砲を撃った7:04から16分後の7:20には「マサチューセッツ」は
16インチ砲5発を命中させ、「ジャン・バール」は完全に沈黙した。

これもアメリカ側(というかここの)記述です。

案の定、この辺もアメリカの印象操作が入っていて、現実は

仏軍機の攻撃で347の上陸用舟艇の半分が撃破され、
結局上陸することができた米軍は8,000弱であった。
日没までに戦艦ジャン・バールの砲塔は修理された。
エルハンク砲台も健在だった。
そして仏軍潜水艦はなお5隻が米艦隊を狙っていた。

ってことなんで、もちろんカサブランカは結果陥落したんですけど、
とにかくアメリカ側、とくにマサチューセッツが思っていたほど
相手に対して決定的なダメージを与えたわけではなかったようです。
まあ、どちらにしても艤装中だったわけだし、当然のことながら
「ジャン・バール」の乗員も全員が乗っていたわけではなく、
被害も30名程度です。(あれ、やっぱり結構多い?)

Operation Torch-The invasion of North Africa



こちらアメリカ側からの映像。カサブランカ海戦は4:24から。
艦上で馬跳びしている水兵さんたちも見所ですが、
それより「マサチューセッツ」の砲撃が「ジャンバール」に命中、

炎上するところが映像に残されています。
映画カメラマンが乗ってたってことですよね。

 

「マサチューセッツ」、「ビッグ・マミー」の16インチ砲弾。
この海戦のとき、796回主砲は火を噴いたということです。
(そのうちの5発しか当たらなかったということになりますね。
戦艦の砲撃の命中率低っ)

「オペレーション・トーチ」ののとき、巡洋艦隊司令として
旗艦「マサチューセッツ」に座乗していた RADM、ロバート・ギッフェンが、

ジェントルメン、覚えておいてくれたまえ。
これらの大砲が歴史を作るのだ」

とここぞとばかりに語っております。
ちなみにこの提督の「ここぞ発言」はいっぱいあって、

”Let them heve it!" (やつらにやらせろ!)

そして、

"Pour it on THEM!" (やつらに降り注いでやれ!)

砲弾が彼の頭のすぐ横をかすめていったときに、

「 もし爆撃に”上陸”されたら、おれは真っ先に天国で
トロイのヘレンにデートを申し込むために並ぶぜ!」 


この洒落がいまいちよくわからないのですが、まあ提督なりに
いつか言ってやろうと手ぐすね引いてたのかもしれません。 



「ジャン・バール」が右舷に受けた砲弾の弾跡。
甲板から6階下まで到達しています。(右は5階)
これだけ損害を受けても廃艦にならずに修復できたのは、弾薬庫とか
そういう致命的なところに当たらなかったためでしょう。



弾痕跡の写真。

 

海軍が被害を検証するために回収してきた発射体の弾頭。
冒頭写真のもおそらくその一つでしょう。
つまり本物です。



の小さなかけらは乗組員が拾ってキープしていたもの。
「マサチューセッツ」が展示鑑になったとき寄付されました。

 

これが説明がなく何かわかりません。



別の角度から。これなんでしょうか。



さて、1944年という年にビッグ・マミーに起こったことです。

■  マーシャル諸島クェゼリンで被弾。
  艦長は「大当たりだね!」(You hit the jackpot) と一言。


■ 2月16日  チャールズ・エインスワース中尉がトラック諸島で
 キングフィッシャー水上機による敵地での救助により空軍殊勲賞を受ける。

5月19から7月15まで、オーバーホールのために帰国。
 クルーは「休暇をたっぷりと楽しんだ」ということです。
 
日本とはすでに余裕が違う。余裕が。
ちなみにデート中の水兵さんの絵もあのキャンフィールド画伯で、


「乗組員のビル・キャンフィールドは戦後人気漫画家になりました」

8〜10月 フィリピン、台湾、沖縄を爆撃。
 12月 台風に初めて遭遇。 

これってもしかして、あの、ハルゼー・マケインコンビの(嫌な予感)


使い慣れないPhotoshopなので切り抜きが雑なのはお許しを。
「8」と書かれた部分には5インチ砲が備えてあります。



どこかで見たことのある水兵さんが、
「砲がマッチ棒みたいだ」とか言ってますね



黒字の1番の部分がデリックです。
「スポッティング・プレーン」と呼ばれていたようです。

水上機をここから海面におろし発進させるのです。
先ほどのアインスワース中尉も「マサチューセッツ」が搭載していた
三機のヴォート製キングフィッシャーのパイロットでした。
水上機は撃墜された飛行機のパイロットの救出に大活躍しました。



白地の5番には無線室(三つのうちの一つ)がありました。
戦争中は安全のために長波は使われませんでしたが、
短波による交信は艦隊の中で頻繁に行われました。

写真は、同じ艦隊の別の船のクルーに、ニミッツと握手したことを
自慢している通信員、ジョセフ・ライリーくん。



 3月 誰それがパイロット誰それを救出(適当)
  4月 カミカゼ特攻機3機を撃墜する

■ 6月 台風に見舞われ煙突のところまで波が来る

■ 7〜8月 日本本土の楽器会社と釜石の製鉄所を爆撃
 これが大戦最後の砲撃となる


この6月の台風って、やっぱりあれですよね?
「マケインとハルゼーのコンビ」によるしかも二回目の大チョンボ。
台風に突っ込んでまたしても大被害を艦隊が被ったという・・。 

それと、この「楽器会社」ってヤマハとかカワイとかのことですか?
カワイがプロペラを作っていたのは知っていますが、
なぜわざわざ「楽器工場」を砲撃したのか・・・・・・?




特攻についてはこう書かれています。

連合軍の優勢に押された日本は、新しい、そして野蛮な戦法
カミカゼを選ばざるを得なくなった。
この自殺飛行機を操縦していたのは若い未熟なパイロットたちで、
連合軍の艦艇に体当たりするのを命と引き換えの「名誉」とした。 


まあ、アメリカから見るとそういうことなんでしょうね。



釜石の製鉄所を攻撃したことを言っているようです。
海軍旗はどこで見つけたのか(棒)

今、ebayなんかでこういう戦利品が売買されたりしていますが、
中には出征兵士に送る個人的な名前の書かれた寄せ書きなどもあるそうです。
こういうのって不謹慎という考えはない・・・んだろうなきっと。 



この説明には「戦艦」についてこう書かれています。


かつて青い海の巨人である戦艦は、敵を目前に
砲を撃ち合い決闘をするために作られた

しかし、(そのような戦いのチャンスがないわけではなかったが)
そういった会敵はもう起こることはなかった

あの大戦では戦艦の戦略的価値は、100マイル向こうの敵を
航空機で攻撃できる空母が現れてから影の薄いものとなった

しかし戦艦がその存在価値を失ったわけではない

その驚くべき攻撃のための武装は、要塞化された沿岸の基地を叩き、
そして空襲からその空母を守るものだった

これは他のいかなる鑑にもとって代わることができない


戦艦「マサチューセッツ」シリーズ 終わり