
大正13年度帝国海軍練習艦隊、「司令官交代の謎」を追って
ひょんなことから隠されていた(と言うか放置されていた)史実を発見し、
古本屋でのこの写真集との出会いは大変価値のあるものだったと
今更ながら自己満足にふけっているわたくしです。
一度帰国までのエントリを全部作成し、アップする際にチェックし、
その後新しくわかったことや間違っていた箇所を加筆訂正しているのですが、
今回はアップしてから読者の皆様方に問いかけ、アイデアをいただき、
もう一度全てを見直すことで限りなく正解に近づくことができました。
この場をお借りして御礼を申し上げる次第です。
ところで、ひょんなことといえば、最近、我が家のご先祖が
土佐藩士出身の陸軍軍人であったことがわかりました。
海軍でなかったのは残念ですが、わかったことは児玉源太郎と同期で、
児玉が大尉時代には大阪陸軍省で同僚だったという事実です。
今回、ご先祖が児玉源太郎と一緒に写っている写真を発見し、
江ノ島の児玉神社に詣でたことや、日露戦争の勝因の一つとなった
「児玉ケーブル」というべき海底ケーブル敷設について
児玉の功績をここでアップしたのも何かのご縁かと浮かれてしまいました。
この人物のその後もわかっているのですが、予備役となった後、
為政者として地域に貢献し、地元の名士になったようです。
歴史を紐解くことは現在と過去の対話、という言葉がありますが、
写真ひとつが時には過去を解き明かすドアとなるということが、
練習艦隊司令官問題に続いて実感できた不思議な出来事でした。
さて、問題解決のために、キイとなった鎮海要港部での写真を
皆様にお見せするために順序が入れ替わっていましたが、
改めて江田島出港を果たした練習艦隊が、国内巡航に先立ち、
国内は国内でも当時日本であった「外地」に赴くところから始めたいと思います。
「外地」「内地」
今では聞きませんが、終戦までの日本では普通に使われていた言葉です。
「外地」の定義は「大日本帝国における内地以外の統治区域」で、
「属地」と呼ばれることもありました。
具体的には以下の地域を指します。
この「関東州」の欄を開いていただければお分かりのように、大連は関東州、
1905年のポーツマス条約で日本がロシアから引き継いだ租借地にあります。
一応念のためにあえて書き添えておきますと、ポーツマス条約は
日露戦争講和条約のことで、アメリカが仲介をして締結されました。
これもお節介かと思いますが、講和内容を記しておきます。
日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、
付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)
の租借権を日本へ譲渡する。
ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
これ以降、大連、そして旅順は「日本」となったというわけです。
朝鮮半島についていえば、もし日本が日露戦争で負けていたら、
朝鮮は日本が行ったような「統治」ではなくロシアの一地方として組み込まれ、
勿論今でも独立することはなかったと誰が見ても明白なのですが、
それでもあそこの人たちは、日本に「ひどい収奪支配を受けた」とか言って
いまだにひどい精神的苦痛を受け続けているらしいですね。
そして、日本の中国大陸進出のきっかけは、福島瑞穂()が口を開けばいうように
「侵略」というものではなく、戦争後の条約によってアメリカの立会いで認められた
正式な権利であったということになるのですが、その話はともかく、
赤太字の項目で日本が正式に得た租借地、それが関東州だったのです。
大正13年当時、大連も旅順も租借地になってすでに20年が経過しており、
日本が心血を注いで外地に求めた「理想の都」がすでに形になりつつありました。
【大連】
臼杵(うすき)佐世保を経、平穏なる海上に翡翠の漣を立てて
亜細亜大陸の一角大連港を訪う
豪壮な建物、美しき道路、緑滴る並木、完備せる埠頭、
先ず吾等の眼を驚かす星ヶ浦、老虎灘などに杖を曳いた後、
市の中央大和ホテルの屋上に立ちて全市を瞰下する時、
吾等の胸に去来するものはなんであったろうか
冒頭写真は大連の中心部。
放射状の市の中心部広場は実に美しいですが、
これらは皆日本統治となってから整備されたものです。
塔の前の銅像が誰のかはわかりません。
大連に上陸する練習艦隊の士官候補生たち。
埠頭には出迎えの人たちが並び、日本国旗が随所に見えます。
ヤマトホテルは現在でも営業しているということです。
ここにも銅像がありますが、軍人のようですね。広瀬大佐とか?
南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営し、多くの要人が利用した歴史があり、
2階には清朝最後の皇帝溥儀が泊まったという部屋も残されています。
スパイとして中国当局に処刑された愛新覚羅の血を引く川島芳子も
ここで最初の夫と結婚式を挙げ、その写真が残っています。
戦艦「大和」がその巨大な艦体をトラック島に停泊させていた時、
彼女は「大和ホテル」と揶揄されていましたが、そのネタ元はこちらです。
大連市の中央通り。
旧横浜正金銀行大連支店(中国銀行大連分行)など、
日本が統治していた1910年代ごろに建てられた欧風の建物で
今も大連市内に残って使用されている建築物はいくつかあります。
アメリカに入植してきたイギリス人が「テムズ川」「ニューロンドン」と名付けるように、
日本も整備した新しい橋に「日本橋」という名前をつけたようです。
そういえば「三丁目の夕日」で「今にこの上に高速道路が走る」と
登場人物が予言していたところ、薬師丸ひろ子のトモエさんが、
戦争前に思いを寄せ合った男性と偶然再会する場所にとても似ていますね。
道ゆく人々も全て和装で、ここは日本だったんだなと思わせます。
日本が租借した遼東半島の「関東州」の大きさは鳥取県と同じくらいの大きさでした。
旅順はその最南端というべき位置にあります。
【旅順】
錨地から眺めると港口の狭いのに今更ながら閉塞隊の苦心を思う
白玉山頂二万五千の霊に捧げるに、若き勇士は何を以ってしたことであろう
赤い夕日の沈む時、上甲板に涼をとりつつ回顧する老雄の感慨や蓋し無量
緑の間にチラツク赤い建物は一寸外国を覗いた様な気を起こさせる
旅順というと海軍の閉塞作戦、そして水師営の会談などを思い出すわけですが、
この頃、大正13年はまだ日露戦争から22年しか経っていません。
それはちょうど彼ら候補生が生まれた頃にあった戦争で、
彼らは幼い頃、その武功や英雄伝をおとぎ話のように聴きながら育った世代です。
おそらく彼らは学校の訓育において、広瀬中佐の部下を思う責任感や、
そして勝って驕らず敗者をいたわった乃木将軍の武士道を学んだのでしょう。
そんな彼らが広瀬中佐や東郷元帥と道を同じく海軍を志し、
夢見て入った海軍兵学校、機関学校を卒業した今、
士官候補生としてその戦跡をみる気持ちは如何ばかりであったでしょうか。
練習艦隊が旅順を訪問することになっていたのも、彼らにその地を見せ、
先人の苦労を目の当たりにするとともに、海軍将校の一員であることの
責任を自覚させるというところに目的があったのでしょう。
そして紹介の文中にも窺えますが、この練習艦隊に参加した者の中には
将官から熟練の下士官に至るまで、若き日に日本海海戦、もしかしたら
旅順攻撃に参加したという軍人がまだ残っていたのです。
例えば司令官の百武三郎中将は「松島」「鎮遠」などを擁する
第三艦隊参謀として日本海大戦に参加しています。
水師営の会見が行われた建物を見学です。
20年前の建物ですが、前に石碑を建てて保存してあります。
これはもちろんその後中国側に破壊されたはずです。
候補生たちは市内観光に馬車を利用したようです。
三、四人で一台をチャーターすれば、一日観光できたのではないでしょうか。
閉塞作戦を記念する碑も見学しました。
この碑の台になっているのは、ロシア軍が使用した砲台の基でしょうか。
表忠塔というのは白玉山にあります。
戦争が終わってから、東郷元帥と乃木将軍が共同で作ったもので、
材料は日本から運ばれてきた、と説明されているそうです。
旅順港を一望俯瞰できるこの塔は、現在も保存されており、
現地の観光スポットになっているそうです。
中国人は何処かの国のように「日本憎けりゃ杭まで憎い」とばかりに
統治時代のものを測量の杭だろうが桜の木だろうが、なんでも破壊してしまうという
稚気じみた国民ではないので、日本が建てた堅牢な建築物はそのまま使い続けます。
ここも「そんなことがあったから残しておく」という態度で現在でも保存されているのです。
まあ、これが普通だと思うんですけどね。
爾霊山(にれいさん)記念塔。
日露戦争が終わった1905年に建て始め、1913年に完成しました。
銃弾形の塔は二〇三高地で拾い集められた弾丸と砲弾の薬莢を
溶かし鋳造して作られたのでこれだけ年月がかかったということです。
そう、ここは二百三高地。
ここを
爾霊山(二百三高地→203→にれいさん\(^o^)/)
と名付けたのは他ならぬ乃木将軍であったそうです。
乃木将軍の二人の息子もここで戦死したことを考えると、
爾(なんじ)の霊の山という字を選んだわけが自ずと見えてきます。
爾霊山慰霊碑も未だに健在で、一世紀を経たその姿を見ることができます。
さて、練習艦隊はこの後、外地の一である朝鮮半島は鎮海に寄港し、
その後内地に帰って本当の国内巡航、「内地巡航」を行うことになります。
続く。
被害者意識はもう止めにして、もうちょっとしっかりしてくれたら、こんなことにはならない訳で(汗)
大連は中国で最もレベルの高い造船所があり、空母遼寧の改修もここです。今だとふらふら写真を撮っていたら拘束されるかもしれません。
行ったことがあるのですが、旅順港は今でも海軍が使っているので、許可がなければ立入禁止でした。
大和ホテルの広場は今でも変わりません。写真はありませんが、駅はちょうど上野駅そっくりの立派な駅舎です。
広瀬中佐が15才で海軍兵学校に入るまで育った飛騨高山の城山には、中佐の銅像がありますが、周囲は杉林。幼時の遊び場だった白山神社にも有名な杉の神木があります。しかし一番因縁を感じるのは、官吏だったお父さんと一時住んでいた高山陣屋に、李白の詩の軸があり「日本の友人が国に帰るのに、遭難して海中に没して亡くなったのを悼む」内容なのが、おそらく広瀬少年もこの軸を見たはずですが、山都に育ちながら、後年海で亡くなるとは当時夢にも思わなかったでしょう。
本当に昔から地に足がつかないというか、言葉は悪いけど「万年属国」のDNAなのか、
と思わずおもってしまうくらいですね、あの国は。
今回に至るもアメリカに媚び、中国には平身低頭、北朝鮮には下手に出て、
彼らが強気になれるのは何をしても怒らない日本が相手の時だけ。
蝙蝠外交のつけが一気にきていると思います。
日本もなまじ彼らの同胞を抱える国のせいか、態度が曖昧だったのが
現在の不和をより一層深刻にしてきたと言えるのではないでしょうか。
旅順に行かれたことがあるのですか!
旅順は軍港があるので最近まで一般人の立ち入りができないようになっていて、
2009年に解禁になったそうですが、やはり観光でフラフラ歩くのは無理みたいですね。
鉄火お嬢さん
広瀬中佐は飛騨高山の出身だったんですか。
清水次郎長と会った事があるという逸話が有名なので、駿河だと思ってました。
白根山の事故で亡くなったヘリコプター隊の陸曹長については
産経新聞が本人のインスタグラムから写真を掲載して詳細を伝えていますね。
何でももうすぐ退職して次の人生を計画していたということです。
「自衛官生活も残り少ないので日々が愛おしいです」
ご本人の訓練の直前にインスタグラムにあげられたこの言葉に嗚咽してしまいました。
亡くなった曹長は49歳とのこと。あと3年で定年です。嫌でも3年後には自衛隊を追い出され「同じ釜の飯を食った」仲間と離れ離れになります。
自衛官の定年は階級によって差はありますが50代なので、年金の支給開始前でもあり、ほとんどの人は定年後に再就職します。自衛隊での常識は通じないことが多いので、定年の10年前から「定年大学」と呼ばれる、定年後の生活を見据えた講習があります。
50代になって、そこからまた人生やり直しのような経験をしなければならないので「自衛官生活も残り少ないので日々が愛おしいです」という言葉は身に沁みます。
そうだったんですか。江田島に行ったときに買った漫画の広瀬中佐伝では
そこまで描いていなかったような気がします。
広瀬中佐については皆がいろんなことを書いていますが、
生まれ育ちとロシアでの広瀬の愛されぶりを関連づける説は初めて見ました。
unknownさん
報道によると、曹長は定年まで待たずに退職される予定のような書き方だったのですが、
もしそれが3年後のことだったとしてもあっという間であることには間違いありません。
整体とかマッサージの資格をお持ちの方だったということなので、
おそらくこの型の場合は人生設計がちゃんとできておられたと思います。
もうすぐ制服を脱ぐ日が来るとなると「愛おしい」という心境だったのでしょうね。
部下を庇って覆いかぶさったということですが、自衛官として日々の任務と訓練を
行ううち培われる使命感がこの行動を自然に取らせたのでしょう。
入間で墜落した空自のパイロット然り。
That others may live.
ちなみに樺太も1943年(昭和18年)3月に内地に編入されています。沖縄戦を指して「国内唯一の地上戦」と呼ぶ人がいるのは、論理的に極めてよろしくないと思います。
※硫黄島は東京都だし、占守島は北海道ですしね。
「内地の人」=「ナイチャー」というそうです。
明治の廃藩置県によって例えば沖縄は「沖縄県」となりました。
この遠洋航海当時、北海道ももちろん日本だったと思うのですが、
どちらにも艦隊は寄港していませんし、何より自他共に「内地」とは呼んでいなかったわけです。