ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

内地巡航〜大正13年帝国海軍練習艦隊

2018-01-27 | 海軍

 

大正13年から90年後の海上自衛隊においても、練習艦隊遠洋航海は
代わりなく行われています。

実習対象が「少尉候補生」から「新任幹部」と変わっても、
江田島での卒業式の後、表門から出航していった練習艦隊が
まず国内巡航を行ったのち、世界一周に向けて船出し、世界の各地で
文化交流や現地の海軍との「グッドウィル・エクササイズ」と呼ばれる演習、
そして「リース・レイイング」なる現地での戦績などでの慰霊式などを行って、
海軍軍人としてのスキルと見識、見聞を深めるという意義に変わりありません。

当時は国内巡航で当時国内であった大連や旅順、そして鎮海(チンフェ)に
まず寄港したのち、本土を廻るというのが慣例となっていたようです。

さて、というところで今日は国内巡航についてです。


■ 杵築(出雲大社)

縁結びの神様が鎮座まします。
誠心込めて詣でたる若人等には嘸ぞや霊験いやちこであろう。

一生懸命「きづき」で変換していたのですが、杵築は『きつき』でした。
朝鮮半島の鎮海からまず九州に戻ってきた練習艦隊は、まず
出雲大社に参拝するために島根県杵築に立ち寄りました。

この鳥居は現在はコンクリート製のものに変わっているようです。

出雲大社が縁結びの神というのは冒頭にも書かれており、
練習艦隊乗員も、「誠心込めて」お参りをしているわけです。
若い独身男性が多いので当然かと思いますが、それにしても
海軍兵学校の練習艦隊なのに

「縁結びの神様なので、一生懸命お願いすれば、
きっと君にも素敵な彼女ができちゃうかもよ?」

みたいなノリなのがほっこりしますね。

「霊験いやちこ」という言葉を見てはて?と思い調べると、

「いやちこ」=灼然

で、「あらたか」の別の言い方なんだそうです。
そういえばあらたかは「灼か」と書きますね。

今口で「霊験いやちこな神様だから」などと言っても、
十中八、九「は?」と聞き返されるのがオチでしょう。

あーこれで一つ日本語の読みに詳しくなった。

稲佐の浜には弁天島といって、現在は豊玉毘賣の命を祀っている岩があります。

現在の弁天島。
左の亀裂が深くなり、明らかにこの90年で岩の形が激変していますね。

■ 舞鶴

舞鶴は飛んで三景の一天橋立に遊ぶ
白砂青松十数町の間涼風を浴びつつ散歩する
爽快なる気分は忘れ難い

島根県から日本海を時計回りで舞鶴に寄港しました。
今でも練習艦隊の国内巡航は時計回りと決まっているようです。

天橋立の海岸沿いに全く建築物が見えません。
今は両岸にぎっしりと住宅が立ち並び町ができています。

天橋立といえば股覗きですが、この慣習には仕掛け人がいて、明治後期に
吉田皆三という人が環境事業の活性化の一端として(つまり町おこし)
喧伝され、観光客を通して広まったものです。

まあ、寿司業界が初めた「恵方巻き」古くはチョコレート会社が仕掛けた
バレンタインデー、それに続くホワイトデーみたいなもんですね。

天橋立は『丹後国風土記』でイザナギが天へ通うために作ったものとされ、
股のぞきを行うことで、天地が逆転し、細長く延びた松林が一瞬
天にかかるような情景を愉しむことができることから考えついたようです。

練習艦隊のみなさんも、皆で股覗きを真面目に行ったことでしょう。

■ 新潟

何処となく古の江戸情調の偲ばれる新潟の市は
新来の我等には一汐なつかしい味を興へる

信濃川と万代橋、米と石油、雪と美人がここ新潟の名物とか。

候補生は石油工業見学の為、新津油田に赴いた。

 

この頃すでに「秋田美人」というのは全国でも有名だったのですね。
なぜここに美人が多く、京都、博多と並ぶ美人の産地となっているかについては
いろんな説があるのですが、日照が少なく色白の肌の人が多い、
という理由以外で面白いのは

「関ヶ原の戦い以降、常陸国(現在の茨城県)の大名佐竹義宣が江戸幕府から
秋田への転封を命じられた腹いせに、旧領内の美人全員を秋田に連れて行ってしまった。
その後水戸に入府した徳川頼房が佐竹氏へ抗議したところ、
秋田藩領内の美しくない女性全員を水戸に送りつけてきた為、
秋田の女性は美人で水戸はブスの3大産地の1つ(他の2つは仙台と名古屋)になった」

という説ですが、これって・・・・どうなの。

ってか誰がその送りつける女性の人選を行ったんですか。

候補生は新津油田の見学をしたとありますが、江戸時代から平成にかけて
ここでは採掘が行われていたそうです。

この頃には12万klを達成し、名実ともに産油量日本一の油田でしたが、
1996年に最後の井戸の採掘が終了し、油田としての役目を終わりました。

万代橋は現在でも国の重要文化財に指定されているということですが、
明治年間に信濃川に初めて掛かった橋でした。

重要文化財となっているのは1929年(昭和4年)完成と言いますから、
練習艦隊の写真のおそらく直後に取り壊しが始まり、架け替えられています。

白黒写真でわかりにくいですが、橋脚は木で組んでいるもののようですね。

新潟市街。

右に見えているのが信濃川だとすると、現在の新潟駅と川の間の地域でしょうか。
(新潟に詳しくないので適当に言ってます)

それにしてもこの写真・・・随分高いところからですが、何処から撮ったんでしょう。

■ 函館 

聞いてさえ血湧き肉躍るボートレース!!!
海の男の兒にふさわしいボートレース!!!

その火の出るような競漕が波静かな「ウスケシ」の海で行われた

鴎群れ飛ぶ「ウスケシ」の港
楡の若葉に日は溢れ
谷間の鈴蘭の香も揺らぐ

練習艦隊、なんと函館に来てまでカッター競技を行ったようです。

右下はまさに二艘のカッターが「波の火花」を散らして
雌雄を決しているところです。

そして左下、賞品が授与されたところ。
防衛大学校でもカッター競技には皆大変なファイトを燃やし、
全力で勝負に挑むそうですね。(参考:あおざくら)

もちろん幹部学校でも。

■ 大湊

緩やかな傾斜をなす鉢伏山の裾野に大湊が横たわる
淋びたりと雖も我が北海の重鎮!!!

冬季は「スキー」に「スケート」に高適の地である。

 

この頃の習慣として外来語をかっこでくくって書いてあります。
大正13年当時にスキー、スケートって一般的だったんでしょうか。

そういえば昔、ある海軍士官がスキーをしている写真を見せてくれた人が、

「この時代にスキーをやるなんてどんだけ特別階級だったんでしょうね」

とおっしゃっていたのですが、雪や氷があれば手作りの道具でもできるため、
案外庶民的な遊びでもあったのかなと思えてきました。

大湊要港部、現在の海上自衛隊大湊地方隊です。
掲揚台には少将旗が上がっているのが確認されますが、
これは大湊要港部の司令官が少将配置であるからです。

ちなみにわたしが存じ上げている海軍軍人の父上は、
この写真の撮られた10年ほど後に司令官を拝命しています。

宇曽利湖は恐山付近のカルデラ湖です。
グーグルマップで見ると、現在でも湖岸には建物一つもありません。

(しかしそんな土地で営業している”恐山アイス”って一体)

大湊というところにわたしは行ったことがないのですが、恐山が近い、
というだけで北海の要所ながら淋しいところなんだろうなあ、と
冒頭の紹介文を読むまでもなく想像しておりました。

艦隊陸戦隊の上陸とあります。
練習艦隊のことだろうと思うのですが、陸戦隊を臨時結成したとか?

大湊要港部のスキー陸戦訓練、とあります。
雪中訓練というと昔は陸軍、今は陸自の専売特許のようなイメージですが、
何がいつ起こってもいいように海軍の皆さんはこうやってスキーで
陸戦訓練を行なっていたということのようです。

やはり日露戦争を経ての経験から得た教訓でしょうね。


現在の海上自衛隊大湊地方隊は、かつての非鎮守府基地から「昇格」したことになります。
冷戦時代にはもっとも緊張していた基地であり、現在もなお、
日本の北端部の守りを行っている「我が北端の重鎮」であることに変わりありません。

■鳥羽

鳥羽から汽車で一時間宇治山田に着く。
国の鎮めの伊勢神宮に参拝す。

 何事のおわしますかは知らねども
     かたじけなさに涙こぼるる

 

最後のは有名な西行のもので、家族を捨てて修行の旅にでた西行が
伊勢神宮にたどり着き、その神々しさに打たれて詠んだ句です。

陸奥からいきなり三重県に回航、伊勢参拝を行いました。

山田駅前の集合、とキャプションがありましたが、これは伊勢神宮に近い
「宇治山田駅」のことで、当時は単なる「山田駅」らしかったことがわかります。

船ではなく各地に宿を取り、参拝の朝駅集合になったようですね。 

ところで、参拝をするために行進しているこの写真の先頭、
おそらく練習艦隊司令官だと思うのですが、これはおそらく
国内巡航の時のみ艦隊司令を務めた(と判断しているところの)
古川中将には見えません。

この姿形、どう見ても百武中将ではないでしょうか。

 

百武中将はこの時まだ舞鶴要港部司令の職にあったはずですが、
国内巡航で「ここぞ」という寄港地の時には舞鶴から馳せ参じ、
その時だけ練習艦隊司令官を交代して素知らぬ顔で?務めたようです。

 

続く。

 

 

 



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3 Comments

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踏襲しているんですね (Unknown)
2018-01-27 10:07:41
自衛隊は海軍のやり方を踏襲しているんですね。寄港地や行事は概ね同じです。ただ、大湊の後、横須賀を飛ばして鳥羽にはちょっとビックリです。今は総監部所在地にはすべて入って、北海道にも入ります。

やまぐも型までの護衛艦はカッターを積んでいたので、艦隊ではカッター競技があり、若手幹部は艇指揮(訓練係)になるので力を入れていました。はつゆき型からはなくなってしまい、候補生学校や教育隊以外の部隊ではカッターはやらなくなってしまいました。

某大では、二年生に上がる登竜門?的な位置付けで全員がカッター競技を経験します。たとえその前に二十歳以上であっても、カッター競技を済ますまでは飲酒も長髪も禁止。4月は部活も止めて、中隊の海上要員の三、四年生が訓練係になり、新二年生はカッター競技一色です。本番の競技会が終われば連休で、新二年生は初めて外泊許可になります。

海上要員はカッター競技の後にもよく乗っていました。レジャー?が少なかったこともあり、週末にはカッターを借りて、横須賀沖にある猿島まで遠漕。名目上は「生存?訓練」ということで、天幕や食料を積み込んでキャンプしました。

猿島は渡し船での上陸は出来ますが、住民がおらず、最終便が出てしまうと無人になります。元々、東京湾防備のための砲台があった陣地の島で、砲台を撤去した後は観光資源として今も当時の姿を残しているので、夜はバーベキューの後、肝試し。仮面ライダーのショッカーの基地としてロケにも使われているくらいで、無人でもあり、かなりムードあります。

大湊で勤務する人は今でもよくスキー訓練をします。陸上部隊だけでなく、艦艇乗組みの人もやります。写真だとアルペンスキーではなく、踵が上がるノルディックなので滑るというより行軍ですよね(汗)

冷戦時代はソ連封じ込めの最前線、三海峡のうち、二つ(宗谷海峡と津軽海峡)を抑える拠点でした。今も釜臥山の山頂には、弾道ミサイルを睨む航空自衛隊のガメラ(警戒管制)レーダーがあるので重要な防衛拠点です。
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伊勢参拝服装 (お節介船屋)
2018-01-27 11:04:58
第2種軍装に長剣。靴は編上靴に黒色の皮脚絆のように見えます。皮脚絆を持っていない者は黒い巻きゲートルでもよかったようです。陸戦隊服装。兵は弾帯にライフルで武装してます。
大正3年略綬が制定され、大正7年「海軍服装令」で軍装の場合、本物の勲章・記章を佩用せず、略綬で代用できるとなりましたので武装した陸戦隊における略綬佩用はあらたまった行事となっているようです。
左肩から掛けている吊帯は陸戦隊服装では拳銃吊ですが参拝なので雑嚢に弁当か何かを入れているものと思われます。

海軍には各軍艦で編成された陸戦隊と陸上部隊として編制されていた特別陸戦隊がありました。
各艦で陸戦隊部署があり、訓練も実施しており、上海等で実戦にも投入されました。
昭和2年の上海派遣の特別陸戦隊は白い夏服の第2種軍装でしたが茶褐色服の必要性を訴えて、昭和2年から6年まで茶褐色の陸戦服が制定されました。昭和8年から褐青色の陸戦服が出てきました

日本のスキーは明治44年1911年高田の歩兵連隊がオーストリア式を伝授されたのが最初ですが海軍も大正9年のシベリア出兵で防寒被服を制定し、スキー訓練も実施し、使用したようですが陸軍が進んでおり、防寒具等陸軍から購入した物もあるようです。
大湊要港部のスキー訓練ですが、スキー用具で大正8年購入した記録があり、オーストリア式スキー用具の単価が9円96銭とあり、大変高価な品であったようです。
参照並木書房柳生悦子著「日本海軍軍装図鑑」
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みなさま (エリス中尉)
2018-01-29 20:43:54
unknownさん
自衛隊では大湊の後横須賀なのですか。
海軍では鳥羽で伊勢神宮参拝してから横須賀出向という順番だったようです。
この当時は期間が長かった割に北海道には全く足を向けませんでしたね。
海軍の要港もなかったので行っても受け入れ先がなかったのかもしれません。

防大で「一人前と認められるための儀式」がカッター競技だったとは知りませんでした。
わたしが知っていたのは、カッターが終わったら「お風呂の椅子が使えるようになる」
(それまでは床に座って洗う)ということだけです(笑)
これも本当なのかどうか・・・。

写真のスキー訓練の人たちはまさにノルディック競技ですね。
きっととんでもない速さで雪上を駆け抜けていたのでしょう。
しかしなぜ海軍がスキー訓練?という気もします。

陸戦隊が各艦ごとに組織されていたとは初めて知りました。

お節介船屋さん

長距離を歩くときは海軍も陸軍のようにゲートルを着用したそうですが、
ネイビーブルーのセーラー服に白いゲートルをキリリと巻いた水兵さんのスタイルは
かっこいいので女学生の憧れだったと言いますね。
神宮で陸海合同のパレードを行ったとき、女子の声援が皆海軍に集中し、
陸軍部隊は大いにクサったという話を読んだことがあります。

大湊要港部のスキー部隊は高価な装備を用いて渾身の訓練を行なっていたんですね。
大正8年というと、この頃はまだ数年しか経っていません。

内地巡航で別にスキーでの陸戦訓練を見たわけでもないのになぜ写真があるのか、
実は少し不思議だったのですが、その訳がやっとわかりました。
最新の高級な輸入道具を用いた新鋭部隊、大湊要港部の「自慢」だったのでしょう。
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