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「ラッキーリンディー」〜スミソニアン博物館のチャールズ・リンドバーグ

2022-07-06 | 飛行家列伝

前回に続き、スミソニアン航空博物館プレゼンツ、
チャールズ・リンドバーグ特集です。

冒頭イラストは、スミソニアン博物館おなじみの飛行家紹介コーナーのもの。
「The Lone Eagle」というキャッチフレーズは、
彼が成し遂げた大西洋横断飛行の際、
機体を改造したこともあって一人しか乗れず、
バックアップのパイロットなしで飛行したことを指しているかもしれません。

【”ラッキーリンディ”ブーム】



大西洋単独飛行ののち、彼は一躍ヒーローになりました。
まさに、バイロンの言うところの「目覚めてみたら有名になっていた」です。


リンドバーグの大西洋横断を報じるニューヨークタイムズ。
ヘッドラインは

リンドバーグがやった!
33時間30分でパリへ;

雪とみぞれの中1000マイル飛行ののち;
彼を讃えるフランスの人々がフィールドから彼を運ぶ」

そのほか、めぼしい文章を書き出してみますと、

「聴衆の歓迎の声は雷鳴の如く鳴り響いた」

「兵士と警察のラインを突破してコックピットから
疲労し切った飛行士をコクピットから飛行機の上に押し上げた」

「彼が食べたのはサンドイッチ一つと半分だけ」

「大使館で行われたインタビューで彼は冒険を語った」

セントルイスのパイロット仲間やビジネス界の後援者の間で
「スリム・リンドバーグ」と呼ばれていた彼は、見るからに内向的で
有名になってからもどこか陰気さが拭えない目立たぬ青年でしたが、
英雄となってから世間に巻き起こった「リンディ・ブーム」で、
名前に便乗して儲けようと、あらゆる商人が彼を利用しました。

彼の飛行機にちなんだ「スピリット・オブ・セントルイス」レターオープナー、
「ラッキーリンディ・リッド」と呼ばれる婦人用帽子。

いくら流行りでも、これは後で被ってたのが黒歴史になるレベル


彼の写真が上部に挿入されたパテントレザーの靴、少年用半ズボン
そして「ラッキーリンディ・ブレッド」までもを生み出しました。

「太陽🌞ビタミンD増量」と謎の謳い文句のあるパンの包み紙

ひ、日の丸?

当然、そのものズバリ「ラッキー・リンディ」という歌もありました。


「西海岸から東海岸まで、その名を響かせた人に乾杯しよう」
(1番)

「子供のように微笑むこのヤンキー野郎のせいで世界は大騒ぎ」
(2番)

一応読める方のために楽譜を載せておきます。

Lucky Lindy


なんと手巻きの蓄音機で音源をアップしている人が・・・。
(わたしが発見した段階で再生回数26回)
我慢して聞いていると、国歌と「ヤンキードゥードル」、
続いて飛行機のプロペラの音が聴こえてくるという凝った?構成。

曲が終わったと思ったらエンジン音が去っていく、という具合です。



リンドバーグは、塗り絵からゲーム、おもちゃなどの子供向け商品でも
一種のマーケティング現象を起こしたため、
全米で彼の名を知らない子供はいないというくらいになりました。


なぜか飛行機が描かれたトラックまで


そして航空業界で空前の「リンドバーグ・ブーム」が巻き起こりました。
彼の快挙で航空機業界の株が跳ね上がり、飛行への関心は高まりました。

この子供たちの中からは、のちに何人もの有名な飛行家が出ました。
それだけでも大した影響力だったと言えます。

そして、彼がその後行ったアメリカ全土への飛行行脚は、
飛行機がいかに安全で信頼できる輸送手段であるかの可能性を
国民に宣伝するのに大いに役立ったのです。

そしてリンドバーグは自分の名声を、惜しみなく
商用航空の拡大を促進させようとする航空業界に提供しました。


【ザ・リンドバーグ・ライン】

トランスコンチネンタル・エア・トランスポート、
(大陸横断航空輸送)TAT
社幹部とリンドバーグ

TATは現在トランスワールド航空(TWA)となっていますが、
この頃は「エアライン」という会社名は存在しませんでした。
民衆の移動手段として航空という概念がなかったからです。



1929年に始まったTATの「大陸横断旅行」では、汽車と飛行機を乗り継いで
48時間で大陸を横断ができるというのがキャッチフレーズでした。

TATはリンドバーグをアドバイザーに雇い、
彼のアドバイスでこの大陸横断プランを開発し発売します。



ちなみにこの時売り出された移動方法は、
ポスターの地図に示されていますが、具体的には以下の通り。

🚃夜行列車でニューヨークからオハイオ(中西部)まで行く

🛫翌日日中、オハイオ州コロンバスからオクラホマ(南中部)まで飛行機移動

🚃その夜サンタフェ鉄道でニューメキシコ(南西部)まで寝台車で移動

🛫次の朝飛行機に乗ってロスアンゼルスに到着

ニューヨークからロスまで48時間、338ドルで行けるのがウリでした。

今のおいくら万円かと言いますと、当時の最新モデル新車、
シェボレー・コーチが525ドルだったことから、現在の日本円では
片道300万円強くらいだったのではないかと考えられます。

上のポスターは、ニューヨークからオハイオまでの陸路を担当?する
ペンシルバニア鉄道の宣伝です。


この方法だと、エアラインという割に汽車移動が多いので、
TAT社は「Take the A Train」社などと揶揄されていたと言いますが、
それでも、この乗り継ぎ方式は画期的な新基軸でした。

それから100年後の今では、NYからロスまで6時間半で移動できます。
まさに文字通りの隔世ですが、その最初の一歩のきっかけとなったのが
他でもないリンドバーグの成功だったことは言うまでもありません。



TAT社はその後TWA社と名前を変えました。
この頃にはリンドバーグの開発した路線は「リンドバーグ・ライン」として
普通に有名になっていたということです。

この企業への協力でリンドバーグが成し遂げたのは、
空路の開拓と、全米に数多くの空港を設立したことでした。

もっと端的にいうと、「リンドバーグ以前」には、
世界のどこにも商業航空という概念は存在していなかったのです。


リンドバーグがたった一人で小さな飛行機に乗って海を渡ったとき、
人類は安全に空を飛び、予定通りに正確に目的地に行くことができる、
という現在ではごく当たり前のことが可能であることを
当時の人々は初めて知ることになったのでした。

この瞬間から航空はビッグビジネスとなっていくのです。

【アン・スペンサー・モロー】


リンドバーグを語って彼の妻、アン・モローを語らないわけにはいきません。



大西洋横断を成功させた後、彼が凱旋飛行としてメキシコを訪れたとき、
アテンドした当時のメキシコ大使、銀行家のドワイト・モローとその娘、
アン・スペンサー・モロー嬢。

恥ずかしくなるほどわかりやすい経緯を経て、リンドバーグは
モロー大使の令嬢に引き合わせられ、そして結婚しました。

「わかりやすい経緯」と書きましたが、そのいきさつは実はわかりません。
わかりませんが、安易に想像がつくではありませんか。

モロー大使はその後JPモルガン商会のパートナーとして
リンドバーグのファイナンシャルアドバイザーを務めた人物です。

まあいわばリンディの後援者でありタニマチという位置付けですね。

メキシコへの訪問の際、彼は21歳の名門スミス大学在学中のアンと出逢い、
そしてアンはその時のことをこう書いています。

「彼は他の誰よりも背が高かった。
群衆の中でも頭一つ高く、目立つ彼の視線は誰よりも鋭く、
しかし澄んでいて明るく、より強い炎で照らされているようで、
それがどこを向いているのかすぐに気づくのだ。

わたしはこの青年に対して何を言えただろう?
何を言ってもそれは凡庸で表面的な言葉にしかならない。
まるでピンクのフロスティングシュガーをまぶした花のように。

わたしはそれ以前の世界を、軽薄で、表面的で、刹那的なものと感じた」

この文章を見てお気づきの方もおられると思いますが、
アン・スペンサー・モローは大変文学的な女性でした。

彼女の父親は大使、そして母親は詩人で教師。

彼女は毎晩母親の読み聞かせを1時間聴いて育ち、詩を書き、
大学で文学士号を取得し、のちにはエッセイや小説を残しています。

ところで、夫となったチャールズ・リンドバーグですが、前にも書いたように
大西洋横断成功後に、出版業者の大物パットナムとの契約にのっとり、
グッゲンハイムの豪邸に缶詰になって、3週間で書き上げた自伝は
実に単純な、悪くいえば稚拙なものだったとされていましたね。

書くものは時代を経るごとに良くなっていったそうですが、彼は
その自伝の中で、バーンストーマー時代の同僚の「女好き」を揶揄し、
陸軍で見た士官候補生たちの「安易な」恋愛観を批判したりしています。

国民的英雄に、その著書中、ほとんど名指しで書かれた当事者たちが
どう思い、また彼らが周りからどう言われるか、
その辺をちょっとでも考えたことはなかったのでしょうか。

そして彼の理想的な恋愛とは、

「鋭い知性、健康、強い遺伝子を持つ女性との安定した長期的なもの」

であり、

「農場で動物を飼育した経験から、優良な遺伝子の重要性を学んだ」

とも述べています。

彼は有名になるとほとんど同時にアンと知り合い、結婚しましたから、
これらの考えは、彼女との関係性の中で生まれてきたものと思われます。

が、それにしても、アン・モローの文学的内省的表現に対し、
リンドバーグのこの考えは、いかにも即物的で、

それは恋愛観ではなく生殖観だろうが!

と思わず突っ込んでしまいたくなるほど愛がありません。
何やら違和感とこの二人の性質の齟齬すら感じてしまいますね。

もし彼女が夫の影響で自らも飛行家に転身しなければ、
おそらく二人の破局は避けられなかったのではないかという気がします。



アン・モロー・リンドバーグは、スミソニアン博物館において
リンドバーグの妻ではなく、一人の女流飛行家として紹介されています。

恥ずかしがり屋で学究肌の銀行家の娘、アン・スペンサー・モローは
1906年、ニュージャージー州イングルウッドで育ちました。

彼女はスミス大学を優等で卒業し、執筆で賞を受賞しました。

アンは、父親が在メキシコアメリカ大使を務めていたメキシコシティで
有名な飛行士、チャールズ・リンドバーグに出逢いました。

リンドバーグがアンに操縦のレッスンを行うと同時に二人は恋に落ち、
1929年5月27日(リンディが大西洋横断を成功させたちょうど2年後)、
結婚しました。

1933年に彼女はナショナル・ジオグラフィック協会の
ハバード金メダルを受賞した最初の女性になり、
1934年には飛行家に与えられるハーモントロフィーを受賞しました。

1934年まで、アンは「航空のファーストレディ」(First Lady of Aviation)
と呼ばれており、それから作家としても評価されるようになりました。

また、彼女は3000マイルの長距離無線通信記録を樹立し、
ベテラン無線事業者協会の金メダルを受賞した最初の女性となりました。


1931年、彼女は夫リンドバーグと一緒にパンアメリカン航空から依頼されて
北太平洋航路調査のため、ニューヨークからカナダ・アラスカを経て
日本と中華民国まで水上機「ティンミサトーク」で飛行しています。


これは先日の帰国時のアラスカ

この飛行でアラスカを超え、着地する瞬間について、
彼女が自著で書いている言葉がこの写真に添えられています。


”四方に高い雪が縞模様に積もった山がある。
わたしたちはついに氷山の間に着陸するのだ。”


アン・モロー・リンドバーグ 1933年8月6日


リンドバーグ夫妻が日本に到着するシーンが見られる
一連のニュースフィルムが残っています。

ジングル?というかニュースの始まりには、先ほどの
「ラッキー・リンディ」のイントロがそのまま使われていて、
この曲が彼のテーマソングとして扱われていたのがよくわかります。

霞ヶ浦に着水するのは3:40から。
リンディの飛行機を海中で抑えて?いるのは、その事業服から見て
霞ヶ浦航空隊の兵隊さんたちであろうと思われます。

到着に対し、全員で万歳していることも、アナウンサーは報じています。

Lindbergh With His Wife Aka Lindburgh With His Wife (1931)

飛行機から降りてきたリンドバーグがスーツにネクタイというのがすごい。

次回はリンドバーグ夫妻についてのスミソニアンの記述をご紹介します。

続く。