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偵察機のパイロットたち〜スミソニアン航空博物館

2022-02-27 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館の展示のコーナーから、
航空軍事偵察・写真の歴史を取り上げてきました。

今日は少し視点を変えて、やはり現地で紹介されていた
航空偵察機のフライヤー(パイロットではない)たちについてです。

戦闘機のパイロットや爆撃機のチームとは違い、
直接敵を攻撃することがないだけに、軍事航空の世界では
ほとんど取り上げられることのない彼らですが、
さすがはスミソニアン、そんな角度からもちゃんと光を当てています。


偵察パイロットやその他の飛行要員は、多くの場合、非武装で単独で行動し、
多くの戦闘やキャンペーンを陰で支える縁の下の力持ち、
そしてアメリカ人の好きな言い方で言うところの「知られざるヒーロー」でした。

彼らが収集する相手の位置、動き、兵力、そしてその意図に関する貴重な情報は、
我が方が十分な情報に基づいて意思決定を行うのに必要な知識、
条約遵守の保証、そして来るべき危険に対する警告そのものとなります。

彼ら「フライヤー」が歴史的にも注目されず、認識されなかったかというと、
その理由は全て、彼らの仕事が機密事項であるからに他なりません。

ここに数人のアメリカ人が紹介されています。

彼らは敵地の空に勇敢に立ち向かい、
決定的な一枚の写真を集めようとした無名のヒーローたちです。

■ カール・ポリフカ中佐(Karl L.Polifka 1910-1951)


「キル・イン・アクション」任務中戦死という言葉が没年に加えられていたのは、
ミリタリー・ウィキのページであり、普通のウィキには名前すらありません。

しかし、アメリカで最も有名な偵察パイロットと言われています。

その名前からおそらく東欧系アメリカ人と思われる彼は、
第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の中佐でした。

陸軍航空隊のカール・L・ポリフカ中佐は、第二次世界大戦中の1943年、
イタリアの山岳地帯上空での空中偵察任務中に、F-4偵察機のパイロットとして
敵軍と空中戦を行い、これに対し殊勲十字章を授与された人物です。

朝鮮戦争の頃になると、すでに彼の年齢は三十代半ばになっており、
危険な偵察任務に就くには歳を取りすぎていると思われていましたが、
彼は出撃名簿を「ジョーンズ中尉」と偽名を記して飛んでいました。

責任感が強いというのか、いつまでも飛んでいたいという人だったのでしょう。

ある日武装したF-51機で目視偵察のために低空まで降下した際、
敵の激しい地上砲火に遭遇し、機体に大きな損傷を受けました。

損傷した機体で味方陣地へ帰投を試みるも、それ以上の操縦は不可能と判断し、
ポリフカ大佐は機体からパラシュートで降下しようと試みたのですが、
パラシュートが尾翼に引っかかり、脱出に失敗して死亡しました。

■ エリオット・ルーズベルト
(Elliott Roosevelt 1910-1990)



偵察で有名だったゴダード准将の天敵を失脚させるためにどうしたこうした、
という話をした時、このルーズベルトの息子が登場したわけですが、
5回の結婚歴やらその「黒さ」にちょっと驚いてしまいました。

そして、大統領の息子だからといって多目に見られていただけで、
どうせろくなもんじゃないだろうぐらいのことを思っていたのですが、
偵察の世界では、それなりに名前を残しているということがわかりました。

謹んでここにお詫び申し上げます。

写真は、1942年、北アフリカでドワイト・アイゼンハワーに偵察報告をする
エリオット・ルーズベルト(もちろん左)。

この年、ルーズベルトは第12空軍の写真部隊の司令官となっています。
その間、カメラマン、オブザーバー、ナビゲーター、ラジオオペレーターなど、
任務を帯びて、多くの偵察飛行に自発的に同行していたということです。


仕事してまっせ

北アフリカの写真偵察隊の指揮官として、エースパイロットの一人、
フランク・L・ダン中佐(左)と地図を確認するルーズベルト大佐。

なにしろ現大統領のご子息なんで、危険な偵察任務の類は、
周りも忖度したかもしれませんし、本人が望むなら、
後方でお飾りの任務をしてやり過ごすこともできたかもしれませんが、
彼はノブレスオブリージュという概念を理解していたようです。

1943年には地中海の広い範囲で連合軍の偵察活動の指揮をとった彼は、
1945年には准将となり、殊勲飛行十字章をはじめ多くの勲章を受けています。


■ウィリアム・B・エッカー海軍少佐
William Ecker (1924 –2009)


彼がなぜ偵察飛行家として有名かというと、それは
1962年のキューバ・ミサイル危機で活躍したということからです。

1962年10月23日、写真偵察隊62(VFP-62)の司令官であった
ウィリアム・エッカー中佐(当時)は、キューバ・ミサイル危機の最中に、
キューバ上空で初の低空偵察飛行を行い、
ソ連のミサイル基地を初めてクローズアップして撮影することに成功しました。

この任務では、RF-8クルセイダーを使用していました。


偵察士官って頭良さそうに見えませんか

キューバ危機終了後、エッカーはその功績により殊勲飛行十字章を受章。
彼が指揮したVFP-62部隊は海軍部隊表彰を受けることになりました。
1962年11月26日の式典でジョン・F・ケネディ大統領から直接表彰を受けました。

余談ですが、軍退役後、エッカー大佐は
スミソニアン国立航空宇宙博物館の施設で案内係を務め、
一般向けのツアーを行っていたということです。

やっぱり自分の展示の前では力が入ってしまったりしたんでしょうか。

2000年、ケビン・コスナーがプロデュースした映画『サーティーン・デイズ』で、
JFKの甥であるクリストファー・ローフォードがエッカー大佐を演じています。

キューバ危機についてはもう一度別の項でお話しします。

■ルドルフ・アンダーソンJr.少佐
Rudolf Anderson, Jr




ルドルフ・アンダーソンJr.はアメリカ空軍の少佐でありパイロットであり、
アメリカ軍および空軍の2番目に高い勲章である空軍十字章の最初の受賞者です。

アンダーソンは、キューバ・ミサイル危機において、
乗っていたU-2偵察機がキューバ上空で撃墜され、
敵の攻撃によって死亡した唯一の米国人パイロットとなりました。

彼は朝鮮戦争にもパイロットとして参戦しており、
その頃は日本の小牧基地から偵察任務に出撃していたということです。

戦後アメリカでロッキードU-2の資格を取得、キューバ危機において
U-2Fドラゴン・レディで6回目となるキューバ上空でのミッションに出発。 

二歩、キューバのバネス上空で発射された2発のソ連の
S-75ドビナ(NATO呼称SA-2ガイドライン)地対空ミサイルのうち、
1発に撃墜されたとされています。

爆発した近接弾頭の破片が彼の圧力服に穴を開け、高高度で減圧されたのが
直接の死亡の原因だったと結論づけられました。



事故直後の機体。
アンダーソン少佐の遺体は危機終了後の11月4日にキューバから返還され、
2日後、グリーンビルのウッドロー記念公園に埋葬されました。


メモリアルではなく、これそのものがお墓のようですね。
アンダーソンの乗っていた機体は現在もそのまま遺されています。


エンジン


エアインテイク

フロントランディングギア

1964年、ケネディ大統領の命令により、アンダーソンは空軍十字章のほか、
空軍特別功労章、パープルハート、チェイニー賞を授与されました。

キューバ危機の際に実際にキューバ上空を飛行したU-2パイロットは
全部で11名いましたが、アンダーソン少佐はその中で唯一の戦死者となります。


■ ジェームズ・R・ブリッケル中佐の写真


1967年ベトナム戦争中に撮られたタイ・ニュエン製鉄所



これを撮影したのはベトナム戦争のトップ偵察パイロットの一人、
ジェームズ・R・ブリッケル中佐
Lt. Col. James R. Brickel

この写真は、飛行中に85mm砲弾を受け、左エンジンとエルロンが損傷した
ブリッケル中佐の乗っていた偵察機(どうなっているのかわからない)。

ご本人、コーヒーを手に渋い笑いを浮かべて余裕です。


【DICING(ダイシング)】



ノルマンディー海岸のダイシングショット

「ダイシング」とは?
偵察目標を斜め方向から接近して撮影するための低空飛行のことです。
この写真はその代シングショットで撮られたノルマンディ海岸です。

この言葉は、"dicing with death "に由来します。
ダイシングはご想像の通り「ダイス」サイコロのことで、
この低空飛行にいかに命の危険があるかを表しています。


最後は、女性戦場カメラマンについてです。

■ 戦場写真家 マーガレット・バーク-ホワイト



冒頭写真は、何を隠そうHMS「ザ・クィーン・エリザベス」です。
ハドソン川でタグボートが巨大な船の入港作業を行っている様子ですが、
このブログをご覧の方の多くは、この後船がどうタグボートによって
方向を変えていくか想像がつくことでしょう。



撮影は女性写真家であり戦場カメラマンの草分け、
マーガレット・バーク-ホワイト(Margaret Bourke-White 1904 –1971)で、
1952年発行のライフマガジンのフォトエッセイ、
「アメリカを見る新しい方法」のために撮られました。

マーガレット・バーク-ホワイトは常に世界をその目を通して見る時
常にユニークな角度を模索していた写真家でした。

飛行機やヘリコプターのドアからぶら下がって、
空中から見た地上をフレームに収めるという極端なことさえしています。



どうやって撮ったんだろう、と首を傾げる写真が
一枚ならずあるので、ぜひお時間のある方はご覧になってみてください。

バーク=ホワイトは、コロンビア大学では爬虫類学を学んだそうですが、
興味を持っていた写真を仕事に選びました。

結婚は2回して二回とも短期間(2年と3年)で離婚しています。
パーキンソン病を発症し、後半生はその症状と戦いつつ
治癒することなく亡くなりました。

経済的には大変困窮した生活の中での孤独な死だったそうです。

若い頃、彼女のクライアントの一つ、製鉄業のオーティス・スチール社
セキュリティ担当者が彼女の撮影に難色を示しました。

製鉄会社が防衛産業であるからだというのですが、
国防の観点からなぜ女性であることが懸念されたのかはわかりませんね。

もう一つの理由は、製鉄所内の猛烈な暑さや危険で汚い環境に、はたして
女性とデリケートなカメラが耐えられるかどうか疑問視されたのです。

しかしなんとか懇願し、撮影の許可が出た後、彼女をトラブルが襲います。

当時のモノクロフィルムが、高温の鉄の赤やオレンジではなく、
青い光に反応したため、写真は露出不足で真っ黒になってしまいました。

そこで彼女は白い光を出す新しいタイプのマグネシウムフレアを持参し、
アシスタントにフレアを持たせて撮影を敢行しました。
その結果、当時としては最高の製鉄所の写真が撮れ、
この写真が有名になって彼女は全国的にも注目されるようになったのです。

1930年、彼女は西側の写真家として初めてソ連への入国を許可され、
またナチス政権下のドイツ、オーストリア、チェコスロバキアの撮影のため
ヨーロッパにも渡っています。

ソ連では5カ年計画を記録し、スターリンとその家族を撮影しました。



彼女は第二次世界大戦が始まると、1941年、
戦闘地域で働くことを許された最初の女性となってソ連に渡りました。

ドイツ軍が侵攻してきたとき、彼女はモスクワにいた唯一の外国人写真家でした。
彼女はアメリカ大使館に避難し、大火災の様子をカメラに収めました。

戦争が進むと彼女は北アフリカのアメリカ陸軍航空隊を始め、
ヨーロッパに進出した陸軍に配属されるようになりました。



1943年1月22日、飛行隊指揮官のルドルフ・エミール・フラック少佐は、
バーク-ホワイトを乗せたまま、第414爆撃隊B-17F
「リトル・ビル」
でチュニジアの敵飛行場を爆撃しています。

行動中、地中海で魚雷を受け、ドイツ空軍の空爆を受け、北極圏の島で立ち往生し、
モスクワで爆撃を受け、ヘリが墜落してチェサピーク号から引き上げられた彼女は、
『不滅のマギー』 'Maggie the Indestructible'
と呼ばれました。

こんな彼女を嫌う人たちはたくさんいたようですが、
ドワイト・D・アイゼンハワー将軍もその一人だったようです。

ここで紹介したことがあるベトナム戦争の女流カメラマン、
ディッキー・シャペルも、軍関係者にはえらく嫌われていたそうですが。

1945年の春、彼女はジョージ・S・パットン将軍とともに行動し、
悪名高い強制収容所、ブッヘンヴァルトで撮影を行いました。

このときも、のちの朝鮮戦争でも、パキスタンでも、彼女は
散乱した死体うや虚ろな目をした人々を記録しましたが、彼女自身は
対象物と自分の間にカメラがあったことはまだしも「救いだった」と述べています。



また、1948年、ガンジーが暗殺される数時間前に、
彼にインタビューして、あの有名な写真を残したのでした。


続く。