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A BIRD'S EYE VIEW 軍事偵察の航空史〜スミソニアン航空博物館

2022-02-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、「フライング・レザーネック航空博物館」シリーズも終わったので、
次シリーズとして、今度はスミソニアン博物館の展示から、
軍事航空偵察に関するテーマでお話ししようと思います。

「歴史を通じて、我々は世界を上空から見ることによって
自ら住む世界をよりよく理解しようという欲求を持ち続けてきました。

最初に木や丘、要塞の塔に登り、高みから土地を観察します。
今日、航空機と宇宙船は地球を見下ろして、天気を予測し、地形を調査し、
作物を、森を監視し、都市を計画し、資源を見つけ、情報を収集しています。

気球から航空機、そして宇宙船と進化していく過程で、
我々は自らをさまざまな目標や課題に沿って高みへと押し上げているようです。

それでも、これらのスリリングな冒険に参加した多くの人は、
最後には「我が家」を振り返ることを忘れませんでした。」

こういう文章で始まるこのコーナーのスポンサーは、
聞いて納得、イーストマン・コダック社です。

■ バーズ・アイ・ビュー(鳥瞰)

人類の歴史に写真が登場すると、それはすぐに空に飛ばされ、
スパイの成果を残す手段として使われ始めました。

それまでは高いところから地形をスケッチするしかなかったわけですが、
この新技術使えばそれ以上の高いところから偵察できるんでね?
と言うことに世界中の人々が気づくのに時間はかかりませんでした。

【フォトカイト(カメラ凧)】



1895年にアメリカ陸軍の一中尉が行なった凧写真の実験風景。
この凧の糸の先にカメラを取り付けました。



糸の先につけられていたカメラがこれ。
結局180mの高さからの撮影に成功したそうです。


そのときの写真。
当時のカメラで遠隔操作してこのピントの合い方はすごいと思ってしまった。

【フォトロケット】



この頃、「ロケットカメラ」なるものが設計されていました。
1888年にフランス人のアメデ・ドニース(Amédée  Denisse)が考案したもので、
この種のものとしては史上初めてのデザインとされています。

ロケットのノーズコーンの下に12枚のレンズを持つカメラが装着されており、
フィルムを露光した後、カメラとロケットはパラシュートで地上に帰還する仕組み。

このドニースという人はイラストレーターで写真家、発明家だったそうですが、
このロケットが実際に作られたかどうかまでわかっていません。



また、ノーベル賞に名を残す、アルフレッド・ノーベル
1897年に「フォトロケット」を発明しています。


アルフレッド・ノーベルが発明したフォトロケットで撮られた
1897年のある日のスェーデンの村の鳥瞰写真。
ノーベルは当時、気球を使ったカメラの実験もしていたそうですが、
これはロケットの方で、高度は100メートルだったそうです。

なんか現在のトイカメラみたいな画像になっていますね。


アルフレッド・ノーベルのフォトロケット設計図。
当時にしてはすごい発明(だと思う)。


それから10年経過して、フォトロケット系の発明では
パイオニアと言われているドイツの
アルフレッド・マウル(Alfred Maul 1870–1942)
が1904年に撮った空中写真がこちら。
ノーベルのとは段違いに画質が良くなっています。

マウルはドイツの技術者であり、航空偵察の父ともいえる人物です。
実験はともかく、実用化した人がほとんどいなかったロケットに
カメラを取り付けて大地を撮影するというアイデアを思いつき、
実行に移した実業家で、自身の工場を持っていました。

1903年、彼は「マウル・カメラ・ロケット」の特許を取得しています。
カメラは黒色火薬のロケットで空中に打ち上げられ、
ロケットが高度600~800mに達した数秒後に、上部が開き、
カメラはパラシュートで降下する仕組みになっていました。
撮影はタイマーで行われる仕組みでした。


右側のがロケット発射台。

これを軍事利用する動きになったのは当然の成り行きでしょう。
1906年、軍人たちの前で極秘のデモンストレーションが行われ、
マウルは軍事偵察のためにさらに発展型のカメラロケットを披露しています。

1912年、マウルのロケットカメラは、20×25センチの写真プレートと、
安定した飛行と鮮明な画像を確保するため、
ジャイロスコープによる操縦を採用したものへと進化していました。
ロケットの重量は41キロと大変重いものでした。

このころには運用はドイツ軍が行なっていたようで、
写真に写っているのも軍人です。

まさかとは思うが右の人の持っているのがロケット?

ただし、彼の発明が脚光を浴びたのは航空機の発達まででした。
第一次世界大戦では、従来の飛行機が空中偵察の役割を果たしたため、
マウルのロケットは軍事的な意義を持たなくなり、
彼の発明品はその名前とともに忘れられていきます。


しかし腐ってもパイオニア、メダル受賞各種

■ 鳩カメラ(Miniature Pigeon Camera)


1903年、ユリウス・ノイブロンナー博士( Dr. Julius Neubronner )は、
タイミング機構で作動するハトのミニチュアカメラの研究を始めました。

これが本当の「バーズアイ・ビュー」写真です。

凧はカメラを搭載できますが、欠点は動きや速度に大きな制限があったので、
より速く、より活発な空中偵察が必要となったのです。

薬屋であり、ハト愛好家でもあったユリウス・G・ノイブロンナー博士は、
1907年、ドイツの特許庁に「ハトカメラ」を提出しました。


鳩とおじさま

彼はそれまでも、フランクフルト近郊の自宅から数キロ離れた療養所との間で、
ハトを使って処方箋や緊急の薬の交換を行っていました。
鳩の帰巣本能はかなり確実なもので、あるときノイブロンナー鳩が
1ヶ月も行方不明になったあと無事に厩舎に帰還するという事件があり、
この出来事をきっかけにノイブロンナー博士が思いついたのが、
宅配便の飛行を記録するために、鳩が身につけられる軽量のカメラです。


ハトグラファーたち(誰うま)

ノイブロンナーは、一定の間隔でシャッターを切るための空気式タイミング機構、
革製のハーネス、アルミニウム製の胸当てなどを備えたモデルを試作しました。


鳩グラファー用装備設計図

60マイル離れたところから鳩を放すと、鳩は最も近道を通って帰宅します。
重荷なので寄り道もしないというわけですね。
博士は機動性を高めるために、暗室を備えた鳩舎を作り、
鳩が持ち帰ったフィルムを即座に現像できるような工夫も加えました。


しかし、この申請に対しドイツの特許庁は、当初、
「家鳩では75gの荷物は運べない」という理由で出願を却下しました。

ノイブロンナーは論より証拠の写真を並べて反論します。


羽が・・・・写ってます。

この写真で写っているのはクロンベルグのシュロス・ホテルだそうですが、
勇敢な作者の翼端を偶然にも撮影したことで特に有名な一枚です。






こっちを見ている人が写ってます


Google マップ並み



もしかしたら屋根の上で休憩中?

そんな努力の甲斐あって、特許庁は1908年にようやく申請を許可しました。
この発明は、1909年から11年にかけてドレスデン、フランクフルト、
そしてパリで開催された博覧会で発表され、世界的な注目を集めることになります。

ドレスデンでは、カメラを搭載した伝書鳩の到着を観客が見守ることができ、
撮影された写真はすぐに現像されて絵葉書として販売され好評を博しました。

当時としては全く画期的な「鳩写真」。
特に、ドイツ軍はこの映像を十分に評価し、
西部戦線の戦場で鳩カムのテストを行うところまででした。

しかし、ロケットと同じく、飛行機による偵察が急速に進歩したため、
ノイブロンナーの鳩はメッセージを伝えるという伝統的な役割に終始しました。

■ 気球(Baloons)



タデウス・ロウ(Thaddeus Lowe)
なぜかこの名前にものすごく聞き覚えのあるわたしです。

しかし残念ながらそれ以上の記憶がなかったので、自分のブログ内検索で
この名前をかけてみたところ、南北戦争時代に
気球部隊を陸軍に作るため、携帯用の水素ガス発生器を開発させた人でした。

ロウは気球偵察のパイオニアという称号を持っています。



ロウは南北戦争中、戦場の上空を飛んで部隊の動きを観察していました。
この写真では、北軍の将校が味方しかいないと予想していた地域に、
南軍の連隊が接近したことを報告しているところだそうです。


1860年、気球カメラで撮られたボストンの街。
ジェームズ・ウォレス・ブラック(James Wallace Black)
高さ1,200フィートの気球から撮影したものです。


なまじ知らない街でもないので、どの部分を撮ったか調べてみました。
この楕円を左上空から見たのが気球の写真です。
当時の建物でこの写真に残っているのは、左の
パークストリート教会の白い塔でしょう。
空撮写真の左の方に見えています。
高さ660mなので当時はその辺で一番高い建物でした。


ボストンの革新的な写真家・肖像画家であったブラック(1825-1896)は、
ボストンコモンに繋がれていたサミュエル・アーチャー・キングの熱気球、
「Queen of the Air」号に乗り込み、ガラス板ネガを露光しました。

撮られた写真は
「Boston, as the Eagle and the Wild Goose See It」
(ボストン、鷲あるいはワイルドグースの見たまま)
と題され、アメリカで初めての航空写真となったのでした。


気球を開発したキングは、何度も墜落するなどの実験の失敗を重ねながら、
「クィーン・オブ・ジ・エアー」を飛ばしました。

そのうち気球は人々の関心を集め、博覧会や巡回ショーなど、
大きな行事の目玉となっていきます。
アメリカが建国100年を迎えた1876年には、キングは
記念博覧会が開催されていたフィラデルフィアからたくさんの気球を飛ばしました。

彼はアメリカ東部のほぼ全ての都市から気球をあげるという
実績を積んでおり(合計450回以上といわれている)、
その旅に毎回のように写真家を同行させていますが、
ボストン上空を撮影した写真家、ブラックはその最初の一人として、
歴史に名前を残すことになったのです。

冒頭の写真はスミソニアンの展示で、説明が見当たらなかったのですが、
おそらくこのときのカメラマン、ブラックだったのではないでしょうか。



1907年、気球のカメラから撮られた最初の空撮写真。
ワシントンD.Cです。

その後も人類は、空から見た風景を記録に残すべく、より高く、
さらなる高みへと、技術と経験を積み重ねていくことになります。


続く。