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島は完全に無毒化されたか〜広島県 大久野島

2018-12-09 | 日本のこと

週末、阪神基地隊で行われた恒例餅つき大会をちょっと覗いてきました。

その時、たまたま基地隊司令ご夫妻との話題が大久野島になったのですが、
司令夫人が幼い時、何かのきっかけで大久野島に遊びに行こうとしたら、
お祖母様から

『あんなまだ毒ガスの残っているところに行くものではない!』

と断固として止められたということを聞きました。

また、その日ご紹介頂いたあの『J-Navy World』のHARUNAさんも、
その時同席しておられて、広島在住経験者としておっしゃるには

「あそこが観光地になってるなんて信じられません」

うーん、特に最近のうさぎの島というイメージ戦略を、
近隣の人々、昔から大久野島を知っている人はかなり奇異なことに思っている?

やはり大久野島=毒ガス島のイメージがあまりに強く、
特に司令夫人が小さい頃にはまだ汚染が明らかに残っていて危険、
ということになっていたのだと思われます。

「なっていた」じゃなくて実際そうだったんですけどね。

 

ところで大久野島について書いてすぐに、いつものKさんから、
大叔父に当たる方が彼の地に勤務していたことについて以下のメールを頂きました。

実は大叔父が戦時中配属されていました。
階級は曹長(私は遺品から軍曹だったのではないかと疑問を持っていますが・・)。
多くの戦友と同じぐ喉頭癌&肺癌で亡くなりました。
鼻のなかに穴が開いてこそ一人前と言われた化学班でした。
戦後の闘病だ大変だったようですが、
島内での待遇は良かったと聞いています。
直に聴く機会もあったのですが、此の頃は私もガキっちょでしたからね。

 

Kさんの大叔父さんとその戦友がそうであったように、
毒ガス製造工場で働いていた者の多くが同じ運命を辿りました。
疾病の90パーセント以上が気管支炎などの呼吸器疾患だったそうです。

 

戦後進駐軍は(その後武器庫として使うのが目的で)島内の
防空壕を密閉し、海水とさらし粉を注入、
毒ガスの腐食を促進して無毒化するという処理をしました。

wiki

この写真に写っているのはウィリアムソン少佐。
チューブでさらし粉を注入しているところです。

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これは埋設前のあか箱(くしゃみ剤)の箱ですが、写真には
指揮をとったらしいオーストラリア軍人の姿が見えます。
前回、ウィリアムソン少佐は

「連邦軍には危険な薬剤の処理を任せられない」(`・ω・´)

といってガス剤被災の病気から回復するや現場に復帰した、
という話をしましたが、どうやら連邦軍はウィリアムソンのいない間、
他のものに比べると比較的被害の軽微な嘔吐剤については
埋めてはいおしまい、という結構いい加減な処理をしていたらしいんですね。

資料を見ると、休暇村オープン計画に際し行われた1961年の
自衛隊調査以来、2009年まで8回に渡って島内や近隣海域で
このあか筒が継続的に発見されていますし、1995年の調査では
環境基準を大きく超えるヒ素による土壌汚染が確認されているのです。

そしてそれは防空壕に埋設処理されたくしゃみ剤あか筒の化学物質が
腐食により土壌に流出したものではないかと言われています。

そりゃ埋めただけなら何十年も経てば土壌に流れ出しますわ。
司令夫人の「おばあちゃんの知恵袋」正しすぎ。

ちょ、ちょっと待って?
これもしかしたら中になんか埋まってたりする?
防空壕跡を掘り起こして処理したという話はないようだけど((((;゚Д゚)))))))

だいたい、今宿泊施設の土壌と水は本当に安心なの?

と、泊まってから心配になってしまった訳ですが(笑)
ご安心ください。
土壌の対策工事は1997年には終了し、周辺海水のモニタリングによると
ヒ素の存在は検出されていない上、休暇村で使われている水は全て、
船で島外から運んできたものを使っているそうです。
(ところで、あの『温泉』っていうのは一体なんだったのか)

 

実は、パイプで島まで水を送る事業を環境省が計画したこともあったそうですが、
2009年にあか筒が23本も島の北側に投棄されているのがわかり、
工事はこのために中止になってしまいました。

ここは1969年に海上自衛隊が近海を掃海した時の対象外区域だったそうです。

大久野島の西北端は地図で見てもお分かりのように、飛び出した
ツノ状の半島があり、その部分は立ち入り禁止になっています。

グーグルアースで確認すると砂浜には護岸後、テラスのように
階段まで作って整備された痕跡があります。
これも想像ですが、あか筒が見つかったため遊泳禁止とし、
この部分を資材置き場にしているのではないでしょうか。

島の西岸部分を「長浦地区」と言います。
ここには巨大な毒ガス貯蔵庫跡が残されています。

ご覧の通り、左右に3部屋ずつ、合計6つの縦長の区画がありました。

wiki

稼動時の同じ長浦貯蔵庫。
6つの区画にはそれぞれ縦に長い100トンタンクが収納されていました。

この「堅型毒物貯蔵槽」は直径4m、高さ11m、容量85トン。

写真は貯蔵槽を焼却する準備をしているところで、中の毒物を
抜き取った後、横に倒して天板を四角くくり抜いた様子です。

横倒しになっていて縦長の頭頂が見えているというわけです。

貯蔵庫のあったコンパートメントの壁はいまだに真っ黒です。
これはタンクと貯蔵庫そのものを火炎放射器で焼却処理した痕です。

wiki

ガスマスク着用の作業員が火炎放射器で建物を「滅菌」しているところ。
どうやらこれは発電所の建物ですね。

なるほど、それで発電所のガラスが一枚も残っていなかった訳がわかりました。
米軍はその後発電所をそのまま手を加えず武器貯蔵庫にしたのでしょう。

 

貯蔵庫跡から数分南に歩くと、毒ガス工場があった時代のトイレ跡があります。

ニーハオトイレじゃないので(日本ですから)昔はちゃんとした
個室になっていたと思われますが、一つの区切りがとても小さい。

中には入っていけなかったのでこれが限界でしたが、
便器の部分をアップにしておきます。
さすが陶器製の便器、完璧に原型をとどめているのに驚き。

通路反対側には男性用便器が並んでいた痕跡が。
左端に手洗い場がありましたが、どうしても写真が取れませんでした。

島内サイクルラリーという企画のために立てられた「クエスト」。

この大久野島は「毒ガス工場」ができるまでどんな島だったでしょう。

1、七戸の農家があった静かな島

2、700件の(原文ママ)民家があったにぎやかな島

3、海賊たちの秘密の隠れ場所

太古に遡れば、「3」も間違いではなかった時期があったようですが。

半分だけ埋められた状態の毒ガス貯蔵庫。
下の通路からはこんな角度でしか見ることができません。

かつての同じ場所、貯蔵庫内のタンクには、最も危険なイペリット、ルイサイトといった
毒ガス液が一つにつき10トン、貯蔵庫全体で80トン貯蔵されていました。

この写真は、タンクが横倒しにされて焼却された後に撮られたものでしょう。

危険なため、ウィリアムソン少佐が「連邦軍には任せられない」として
自ら指揮を執った作業がこれだったと思われます。

ただし、最前線で焼却処分を行ったのは日本人作業員でした。

西側の海岸沿い一帯にはテニスコートがなんと14面も作られていますが、
そのうち稼働しているのはどう見ても2〜4面といったところでした。
人工芝を敷き詰めたコートなど見るも無残に腐食しています。

「Kさんの大叔父さんの話にも「待遇は良かった」とありましたが、
島内には日本庭園も作られていました。

石橋などの痕跡が山中に転がっています。

今現在、休暇村で働く人たちは基本的に船で本土や別の島から通っているようですが、
毒ガス工場当時、労働者たちは中で生活をしていたのでしょう。

余暇の時間を過ごす場所、せめてもの潤いは与えられていたのだと思います。

おそらく昔は鯉などがいたに違いない池も。

5月には藤の花が咲き誇るであろう藤棚、そしてこの右側には
当時からあったに違いない桜の大きな木が枝葉を延ばしています。

この前面には広大な空き地が広がっていますが、もちろんここにも
かつては工場がありました。

日本庭園跡近くを歩いていると、走り寄ってくるうさぎがいました。
足下で立って手をかけてくる様子は実にいじらしいものです。

最初からうさぎにやるつもりで新鮮なキャペツなどを
持ってくる観光客も結構います。

フェリー着き場で売っているうさ餌ではどうも水分が足りないので
彼らにはありがたいことに違いありません。

このへんにいたうさぎの一族は皆薄茶に白の柄でした。

休暇村の建物のすぐ脇に、三軒家毒ガス貯蔵庫跡があります。

柵は一応ありますが、簡単に乗り越えられるもので、中に入り込んで落書きする人多数。

これは貯蔵タンクが乗せられていたクレイドルです。
いくら無効化されているとはいえ、猛毒のびらん性ガスイペリットが貯蔵されていた
貯蔵庫内に長居したいとはわたしにはとても思えないのですが・・。

当時の地図にも、この真横に「仏式黄」工場があった、と記されています。

クレイドルには10トンタンクが設置されていました。
横の工場で生産された「きい剤」は、腐食を防ぐため内部を銅で保護した
パイプを通ってここにあるタンクに直接送り込まれていたのです。

休暇村の前方にあたる部分にはプールがありました。
写真を検索する限り、夏場は観光客で賑わっているようです。

プール脇の機械室にカメラを入れて撮らせてもらいました。
プールの水まで本土から船で運ばれているということは考えにくいので、
海水を浄化して使っているのではないかと思われます。

昔を知る人たちは眉をしかめるかもしれませんが、周りの海からは
汚染はすでに確認されていないということですので、こちらも安心して良さそうです。

安心していいんですよね?

1960年代にできたという休暇村の部屋は、よくある和室に籐椅子をおいた
廊下、風呂なしトイレ有りという典型的な温泉宿の作り。
今時の客に合わせて延長コードを設置してあり、wi-fiも完備でした。

朝夕二食付きで一人12800円、これは安いと言わざるを得ません。

眼下にはうさぎを追いかけて遊ぶ子供達の姿がありました。



彼らが遊んでいるその場所は、この写真でいうと真ん中の通路に当たります。
広場はかつて「くしゃみ剤=赤」の工場があったところでした。

 

続く。