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海軍兵学校同期会ふたたび~石坂浩二氏と「長門」の関係

2015-04-25 | 海軍

水交会で行われた海軍兵学校同期会にまたもや関係者でもないのに
お誘いを受けてほいほいと出席してきたエリス中尉でございます。


当日の会は参加者90名と盛会でした。
配られた名簿を見たところほとんどが神奈川と東京からですが、遠くは鹿児島県、
また兵庫、長野、新潟、広島と、遠隔地からしかも付き添いなしでやってきた生徒もあり。

舞鶴分校、つまり機関学校からの参加は11名、「兵学校外」と書かれている方が一人。

「兵学校外ってなんですか」

「海軍経理学校卒です」

「ああ、あれは一系化されなかったんですね」

井上成美大将は兵学校で一系化問題をやればいい、と説得されて校長になったそうですよ、
などと例によって聞き齧りを披露してしまうわたし。

「経理学校は兵学校に行きたいけど視力が悪い者が行くことが多かった」

そうそう、兵学校は眼鏡不可だったんですね。
今は視力の矯正さえすれば空自のパイロットにすらなれるという時代ですが、
眼鏡をしていては、たとえば武道や棒倒しなどとても無理なイベントも多く、
視力がいいことは絶対だったようです。

「経理学校は築地にあったんですね」

「僕は兵学校の試験は築地に行って受けたな」

「合格が決まって初めて江田島に行ったわけですか」

「そう、その時には身体測定をして軍服のサイズを測りました。
入校の日、帽子のサイズまできっちりと測ってつくられたのが用意されてるんです」

Sさんの学年は4千人弱の大量採用の学年だったわけですが、その頃でさえ、
未来の海軍士官にいい加減なものは着せない、という海軍の矜持みたいなのを感じます。

それにしても、兵学校というのは、学力のみならず身体条件も厳しくチェックされたわけで、
ペーパーテストさえクリアできれば大学に入学できる、戦後の「エリート」とは
エリート度が高いというか、少しレベルが違っているように思われます。


当時は陸軍も、そして今でもアナポリスやウェストポイントはそうだと思うのですが、
軍の指揮官に求められるものは能力だけでなく、それを遂行する上で人心掌握する人間力。
となると、とりあえずわかりやすくそれをふるいに分けるとすれば判断基準の一つとして
「容姿」も考慮されるとなってくるわけです。


本当にどうだったかはもちろんわかりませんが、あまりにも容姿が異形である場合、
その受験生はどんなに優秀でも不合格となったということです。

そして身長も最低ラインがありました。

ただし、調べてみるとそれは152㎝ということなので、17~8の中学生であれば
ほとんどがクリアしていたとは思われます。

Sさんは会場にいるあの元生徒がどんな知り合いだったとか、兵学校時代どうだったか、
戦後何をしていたか、などという思い出話をしてくださっていたのですが、あるとき

「さっき遅れて入ってきた奴いたでしょう、あれは入学試験の時身長が足りなくて、
最初の年に試験官に”来年また来い”と言われてね」

と言いました。
ということは152㎝に足りなかったということですね。
一年間で伸びるかもしれない、と試験官は判断したということだったんでしょうか。

ちなみに現在、自衛隊の入隊資格は身長155㎝以上、となっています。
この3センチの差は、時代の差と考えていいでしょうかね。

その受験生はこの日そこにいたわけですから、とにかく1年で身長をクリアしたことになります。

「伸びたのかもしれないし、もしかしたら頭にコブでも作っていったかもしれない」



ロビーで待機していた一同に開場が告げられ、皆部屋に入りました。
受付のテーブルを通る時、わたしは去年江田島で撮った写真が、B5サイズの
艶紙に印刷されて積まれているのに気がつき、自分の分を一枚取ってから、Sさんに

「江田島の写真できてるみたいですよ」

と告げたのですが、Sさん、手に取ろうともしません。

「僕、いらない」

Sさんの、こういったことには徹底的に関知しないといった、
”もしかしたら中二病ですか?”ともう少し親しかったら思わず聞いてしまいそうな
斜に構えた反応は、何度かお会いするうちわたしにとって意外なものではなくなっていましたが、
「中二」とまでは言えないまでも、最近は相当軽口を叩けるようになっているので、

「そうでしょうね~(写真赤矢印)。
もしかしたら、Sさん、ちゃんと写ろうって気まったくないでしょう」

「あなたは写ってるの」

「はい、Sさんの近くに」


今でも長身の背中はまったく曲がっていないし、お腹も出てないし、
米寿を迎えていながらわたしが「イケメンツートップの1」と評したくらいで、
そのお歳の男性の理想を絵に描いたようなSさんなのですが、やはり本人的には
どこかに「老い」を引け目に思う忸怩とした気分がそうさせるのかもしれません。

若い時にあまりにもイケているというのも、自己イメージのハードルが上がりすぎることになり、
良し悪しなのかもしれないなどとふと考えてしまいました。 



ところで、このSさんとの会話で、わたしはちょっとした天の配剤とでも言うのか、

わたし自身のことではありませんが「縁」を感じたことがありました。

行きの車中でSさんが、昨日はゴルフでどこそこ(名門カントリークラブ)に行ってね、
と話し出しました。

「一緒に回った人が、どこかで見た覚えがあるんだけど思い出せないんですよ。
名前は”武藤です”というんだが、どこで会ったのか聞くのも失礼で、
一緒に回っているうちに、慶応大学の関係であることがわかり、もう少ししてから
石坂浩二だったことがわかった」

「あー、たしか武藤兵衛さんとか兵吉さんとかいう本名なんですよね」

俳優の石坂浩二氏のあだなは「兵ちゃん」だそうです。

「それにしても石坂浩二を見てわかりませんでしたか」

「 名前が出てこないんだよ。武藤なんて言うから」

「あー、固有名詞でてきませんよねー。
わたしも最近ハリソンフォードを思い出せなかったことが」


88歳とボケのタメを張るなエリス中尉。

とにかくその場はそこで話を終わり、家に帰ってSさんにお礼のメールをしようとして

ふと石坂浩二、という名詞と「長門」が結びつきました。

案の定すっかりそのときは忘れていたのですが、ここでお話ししたこともあるように、

戦艦「長門」の軍艦旗、代将旗、少将旗の三種類の旗が石坂氏が司会をしている
「なんでも鑑定団」に出されたとき、氏はこれを1000万円で購入して、
呉の大和ミュージアムに寄付しているのです。

このことを是非「長門」艦長の息子であるSさんに言っておくべきだろうと
メールに「長門」のユーチューブ画像を添付してその旨書いて送りました。

すると、

「一応PCも携帯電話もあるがメールは見るだけ、絶対に返事はしない」

と豪語していたSさんから、なんと数時間以内にメールの返信が来たのです。
なんだー、メール打てないとかじゃなくって、単に面倒だっただけなんじゃん。

というか、そんなSさんが苦手なメールを打たずにはいられないほど、
このことはSさんにとっても奇縁を感じさせる出来事だったということなのでしょう。



石坂氏がなぜ自分の司会する番組で遭遇したからとはいえ「長門」の軍艦旗を買ったかですが、

この理由は、石坂氏が筋金入りの「モデラー」であることと大いに関係ありとわたしは見ます。

17歳の時から始めた趣味で、今でも1日かならず1時間半は作っているのだとか。
「日本プラモデル工業協同組合」の特別顧問も務めているとのことなので、もしかしたら
このあいだの模型ショーにも行かれたかもしれません。


ホビーに首ったけ 石坂浩二さんがプラモデル同好会「ろうがんず」結成

このページでは、石坂さんがフォッケウルフを作った、みたいなことも書かれています。
「ろうがんず」では横浜周辺の模型愛好家をメンバー募集しているようですが、
当ブログ読者にも何人かおられる模型小僧(ただし老眼世代)さんたちは、
もしご興味がおありでしたら覗いてみてください。


石坂氏のモデラー歴を類推するに、何度となく軍艦の模型も当然手がけているはずで、
「長門」の軍艦旗を寄付するためだけにポンと購入したという情熱は、
きっとその辺とつながっているのではないかと思う次第です。




ところで、みんなと写真に写りたくないとかいうのはおそらく自意識からくる「偏屈」ですが、
Sさんが近代機器を億劫がるのには、やはり人生のほとんどがアナログ時代だった人ならではの、
「手仕事礼賛主義」からくる反発であるらしいことがわかってきました。

「たとえばナビゲーションなどに頼ると、地図が見られなくなり人間は馬鹿になる」

などというのがSさんの口癖のようで、わたしがタブレットは便利だという話をしていて

「たとえばお店の電話番号なんかも、こうやって調べると電話番号だけでなく地図も出てきて、
これがiPhoneならタッチするだけで相手につながるんですよ」

というと、案の定「そんなものに頼ると人間は馬鹿になる」と来たので、ここぞとわたしは

「いえっ!違います」

と声を励まし、88歳の元兵学校生徒で建築家だった人物
にこう反論しました。


「昔の人が電話帳をひいて、電話をし、住所を聞いてメモしてそれを見て地図を探している間に、
今はもっと先の、いろんなことができるようになったと考えられませんか?
昔の人が一つのことをやっている間に、今はこういうもののおかげで3つのことができるんです。
馬鹿になんかなりませんよ。時間の節約ができるだけです」


このときのSさんの表情にちょっと優勢を確信したわたしは、さらに自分のiPadを出し、

「いいですか、たとえばここにS中将(Sさんの父上)の名前を入れますよ?
すると・・・ほら、これがウィキペディアで軍歴と、Sさんのお母様とお兄さんの名前まで出てきます。
さらに、画像検索すると、S中将と関連のあった人たちの写真も・・・」


それがどの程度説得力を持ったのか、その時にはわかりませんでしたが、
Sさんが送ってきた短いメールには、こう書かれていました。

「メールありがとう。
石坂氏のこと、びっくりし、長門のこともパソコンで調べました」

パソコンで・・・・調べた・・・だと?(笑)




続きます。