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呉海軍墓地~海軍防空隊『魔のサラワケット越え』

2015-04-06 | 海軍

呉長迫公園にある「呉海軍墓地」には、陸上部隊の碑もいくつかあります。

「第531海軍航空隊慰霊碑」「第634・第934航空隊慰霊碑」

など航空隊慰霊碑が全部で4基、

「第33警備隊戦没者慰霊碑」

「昭和15年徴募主計科戦没者慰霊碑」

「看護婦合葬碑」 

など陸上勤務の部隊 、
(以前なんと読むのかわからなかった「山・一・王」の漢字は、”徴”であることが資料で判明)

「ショートランド島慰霊碑」「レンドバ島派遣隊戦没者慰霊碑」

のように、派遣された島の名前で建てられた碑が4基。
あとは設営隊、工作部、そして防空隊の碑が2基ありました。



冒頭の海軍マークはこの墓石の焼香台に付けられた実に立派な造りのものです。
海軍墓地ですので、大抵の碑にはどこかに海軍の印が入っているのですが、
このプレートがなかでも一番凝ったものに思われました。


ところでいきなり質問ですが、聯合艦隊って、何艦隊まであったかご存知ですか?

第4艦隊までは何かと話題になるのすが、それ以降は映画でも語られないため、
いくつあったなどということは考えもしない方が大方だと思いますが、(わたし含む)
正解をいうと第8艦隊までなんですね。

聯合艦隊は大戦開始時には第6までの艦隊と航空隊、そして南遺艦隊で構成されており、
その後南東方面・ソロモン諸島の戦いが始まるにあたり、第8艦隊が編制。
その後第9艦隊編制へと続き、第7艦隊などは昭和20年4月まで欠番となっていました。

つまり開戦後で考えると、8、9、7の順番にできたことになります。

最初に編成された第8艦隊は南東方面に進出し、米豪分断作戦を実施するに当たり、
ソロモン諸島・ビスマーク諸島を含む外南洋担当として新編成された艦隊でした。
司令官は三河軍一中将です。

この慰霊碑にある「第12防空隊」は、その中の第8特別陸戦隊の隷下で、
昭和17年12月20日から昭和19年1月まで存在していた327名の部隊です。

編成後ラバウルに向かった部隊は、ラバウル、ブイン、レカタ各地の防空戦闘に参加、
多大なる戦果をあげつつも、食料、衣料品などの欠乏により、戦闘での死者より多い
202名がこの地に斃れ草生す屍となったのでした。

編制後、ソロモン諸島・ガダルカナル島をめぐる死闘を連合国軍と演じた第8艦隊ですが、
連合国軍の進攻(飛び石作戦)により、後方に取り残される形となると、
以後遊兵と化し、補給も途絶したまま自給自足態勢に移行して、終戦を迎えています。




この地では戦闘よりも補給線の断絶による餓死者が多かったので有名ですが、
この

「善本野戦高射砲中隊」

もまた同じ辛苦を嘗め多くの犠牲者を出した部隊です。
隊長は善本官一特務中尉

艦隊において特務中尉はまず指揮官になることはあり得ませんでしたが、
陸戦、ことに高射砲隊の中隊くらいになるとこのような人事もあったようです。

パラオで開戦を迎えた当部隊は、先日お話しした「花の二水戦」こと、
第二水雷戦隊(旗艦神通)、妙高、羽黒、那智、龍驤に支援されてダバオに上陸。

以後、セブ島、ホロ島に進出し、ラバウル、ラエ、サラモアと転戦しますが、
ここに至って(昭和18年)制海制空権を失い、弾薬・食料が不足してきます。
加えてマラリア等の風土病に犯される兵員が後を絶たず、戦力は弱まる一方でした。

アメリカ・オーストラリアの連合軍はこの頃ラエに揚陸してきます。
対して日本軍は陸軍の挺進部隊を投入し、死闘を繰り広げますが、形勢は悪くなる一方。
オーストラリア軍三個師団についに包囲されて師団長は玉砕を覚悟します。
しかしついに第18軍司令官はそれを許さず、


「ラエ防衛陣地を放棄しニューギニア北岸に転進すべし」

という命令を下しました。

ここに、第51師団の「魔のサラワケット越え」が幕を切って落とされたのです。



ラエから北岸のキアリに到達するには、直線距離で行こうとすれば
地図にもあるサラワケット山を越えていかねばなりませんでした。

善本中隊含む第51師団は、

標高4000メートルの

サラワケット山を1個師団で越えようとしたのです。
海沿い、川沿いは敵がいるからダメ、ジャングルの道なき道では時間がかかりすぎる、
ということで背水の陣ならぬ山越えを覚悟したのですが、これには伏線がありました。

その半年前、日本軍にはサラワケットを越える同じルートを走破した小隊があったのです。
「栄光マラソン部隊」とも言われた北本工作隊でした。

ラバウルから救援を頼むためにサラワケットを越える部隊の隊長に選ばれたのは
予備士官の北本正路少尉


慶応義塾大学競争部出身

の健脚を買われて工作隊50名の隊長を任されました。
昭和7年のロスアンゼルス・オリンピックでは、1万メートル走に出場、
箱根駅伝では慶応を勝利に導くほどの名選手だったそうです。

北本少尉は陸軍でしたが、海軍でも、中国戦線で武器を帯びたオリンピックの水泳選手に
泳いで敵陣に切り込みをさせようとしたくらいで、いずれにしても日本軍において
オリンピック選手という肩書きなどを持っていてはロクなことにならないという気もします。
同じロス五輪で優勝した西竹一も、騎兵師団無き後はあっさり戦車隊に行かされて最後は硫黄島でしたし。

ただ、この度の北本少尉の功績は計り知れないもので、もしこの後も戦争が継続していたら

おそらく金鵄勲章くらいは出ていたのではないかと思われます。

この北本隊長についてはAmazonで「栄光マラソン部隊」の古本をとりよせ、
後日詳しく特集してお話しすることにしたいと思います。

彼らは行く道すがらの村で50名の現地人のポーターに協力を求め、
一体となって山越えに挑みました。
零下20度の山頂では腰蓑一つで震え上がる原住民とくっつきあって体を温めて耐え、
山頂に到達した時には
旗を立てて万歳三唱。
ポーターたちも原住民に伝わる踊りを踊って成功を祝ったそうです\(^o^)/\(^o^)/

そういういわば特殊な例、しかも現地在住のドイツ人から登山用具を借りるなどといった
幸運の末になんとか成功したサラワケット越えを、しかも大人数の一個師団でやろうというのです。

しかも 同行する部隊は、第51師団が3900名、他部隊2100名、海軍2500名、総勢8500名。
北本隊でも22日だったこの行程を、この人数で16日で踏破するつもりです。
その理由は一人が持てる食料が10日分だから、節約して・・、ということなのですが、

これ、絶対無理だから!

とみなさんもお思いになったでしょう?
わたしもそう思いましたが、もう彼らにはこの手しかなかったのです。
玉砕するくらいならと出された司令官命令は、後世の目から見ても英断だったというべきでしょう。


しかし、それはまさに「死の行軍」と「魔の山越え」となりました。
この慰霊碑を建てた第12防空隊の生存者は、この行軍について


夕刻4000メートルのサラワケット山頂南面に到着し野営す
寒気強く一睡も得ず酸素希薄にして呼吸苦しくせっかく登頂したるも倒れる兵多し

と記しています。
斜面が急なところでは、岩角や草を掴みよじ登らなくてはなりませんでしたが、
兵たちは次々と滑落し、後から来る者はその無残な屍体を見ながら登ることになりました。

このような行程も北本少尉が「なんとか行けると思う」と判断したからこそ実行されたのですが、
その経験から、各自の食料を持つだけで精一杯ということは事前に分かっていました。
というわけで海軍高射砲隊は最初から装備を置いていったようです。


陸軍の砲兵部隊だけは山砲(産地での戦闘用の大砲)一門だけでもなんとか搬送したいと、
90キロの砲を数人で代わる代わる担いでいましたが、あまりにそれは過酷でした。
途中、兵の苦痛を見ていられなくなった隊長が運搬を失念し、山砲は山中に放棄されました。

登り最後の地点では断崖絶壁が連なっていて対岸に渡るのに丸一日かかり、ここでも
脚を滑らせたり、腕の力が抜けて落ちていく者が続出します。
しかし皆自分の体を支えるのが精一杯で、他人にかまっていられる者など誰もいません。
おりしも出発から2週間が経ち、食料も底をつきかけていました。
滑落しなかったものも、マラリアを発病したり栄養失調でバタバタと倒れていきます。

頂上は熱帯高地独特の湿地帯気候で、霧と足元のぬかるみと戦い、夜になると気温は下がり、
5人10人と固まったまま眠っているうちに凍死する一団も相次ぎました。
そして下りは登りよりさら過酷で、階段状の断崖ではまたしても転落者が続出。
餓死者もで始めるに至って、部隊は救援隊を結成し、先に下山して救援を呼んでくることを決めます。

この救援隊に指名されたのは・・・、そう、我らが北本正路少尉と前回の工作隊のメンバーでした。


キアリから薬と食料を持って引き返した北本隊は瀕死の部隊に食料をわたし、
さらにもう一度頂上まで戻って落伍していた将兵の生存者を救出し、
彼らを背負って、山から連れ戻すことに成功しました

それにしても北本少尉凄すぎ。

2013年の東京マラソンで二人の陸上自衛官が18キロ、27キロの砂袋を背負い、

4時間39分で走破して(一緒にゴール?)ギネス記録を更新しましたが、
現代の日本とは違って、この場合は自分も二週間の行軍と飢餓に耐えた後ですからね。

思うに北本少尉、自分がやらねば!という使命感でアドレナリンが出まくった状態だったのでは・・。 


そんなこんなでとにかくも一行はキアリに到達しましたが、
出発した時の人数は到着時に比べ1,100人減っていました。 

たどり着いたものの直後に体力を消耗し尽くして動けなくなった者もおり、
さらにはキアリも敵に囲まれたため、部隊が再び転進を始めたあたりで終戦を迎えます。

最終的に終戦時には編成時の総員15,996名が2,754名に減っていたということです。


このような長距離行軍は日本軍の歴史においては初めてのものでしたが、
さらに標高4000mでの高山戦となると、ナポレオンのアルプス越えくらいしか他に例がないのだそうです。
最後の兵が現地住民に背負われてキアリに到着、野戦病院に収容されたのは11月15日、
出発してからちょうど2ヶ月後でした。




第51師団の一人の下士官が、「サラワケット越え」と題するこのような歌を作っています。


 「サラワケット越え」
一、
任務(つとめ)はすでに果たせども
再び降る大命に
サラワケットを越えゆけば
ラエ、サラモアは雲低し
二、
底なき谷を這いすべり
道なき峰をよじ登り
今日も続くぞ明日もまた
峰の頂程遠し
三、
傷める戦友(とも)の手をとりて
頼む命のつたかずら
しばしたじろぐ岩角に
名もなき花の乱れ咲く
四、
すでに乏しきわが糧(かて)に
木の芽草の根補いつ
友にすすむる一夜さは
サラワケットの月寒し
五、
遥けき御空(みそら)宮城を
伏し拝みつつ勇士等が
誓えることの真心に
応うるがごと山崩る


善本高射砲中隊はキアリで終戦を迎えました。
その墓碑には、212名の隊員のうち何人が生還したかは書かれていません。