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空母フランクリン「我が艦は死なず」

2015-04-26 | 軍艦

空母「ホーネット」博物館の展示から、今日は空母「フランクリン」についてです。

空母「フランクリン」(USS Franklin, CV/CVA/CVS-13, AVT-8)

はエセックス型空母の5番艦で、アメリカ建国の父であるベンジャミン・フランクリンの
名を取った艦としても5番目にあたります。
バージニア州ニューポートで、1942年12月7日、つまり「真珠湾攻撃一周年記念」に
起工し、翌年命名、1944年、就役しました。



空母「ホーネット」の内部は、このように区画ごとにテーマを決めて、

軍艦をトリビュートするメモリアルルームという形で展示があります。
フランクリンのネームの下に

「フランクリンは死なず」(意訳)

とあるのは、この空母が日本軍の攻撃に傷つきながらも、
何とかかんとか無事に本国にたどり着いて命長らえたことを表します。 
このドラマチックな帰還は、ゲイリークーパー主演で映画にもなりました。 




また皆さんは一度くらいどこかで、従軍神父が瀕死の乗組員に最後の告解を受け、
祈りを与えているこの映像を見たことはないでしょうか。 
これがまさしく、日本軍の爆撃によって大破したときのフランクリン甲板上なのです。


さて、就役したフランクリンに話を戻しましょう。

時あたかも戦争真っ最中だったため、彼女はは早速戦線に投入され、

まずは小笠原諸島攻略部隊として、昭和19年7月4日、硫黄島、父島、母島の攻撃を行いました。
艦載機は大型輸送艦を撃沈、三隻の小型船舶を破壊しています。
硫黄島の日本軍は3月終わりに行われた万歳突撃で、組織的戦闘は終結しましたが、

残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続いていました。
終戦後も地下陣地に潜伏したまま終戦4年後に発見された日本兵もいます。


その後7月6日にグアムとロタ、
8月4日以降は再び小笠原諸島、
9月にはペリリュー島攻略作戦に参加。

10月12日夕方、この地にあった「フランクリン」は4機の日本軍爆撃機の攻撃を受けました。
「台湾沖航空戦」と呼ばれている戦闘で、このとき「フランクリン」は2本の魚雷を
辛うじて回避したものの、日本軍爆撃機が後部デッキに衝突し、
艦橋と飛行甲板を横切り、船体右舷の海上に落下しています。
しかしこれはこれに続く損傷とさらに半年後の大破を思えば軽微な、擦り傷のようなものでした。


ところで最近戦艦「武蔵」が発見されたというニュースが大変な話題となっていましたね。
これは、米マイクロソフトの共同創業者であるポール・アレン氏が、「武蔵」の艦体を
フィリピン中部シブヤン海での潜水調査で発見したと、ツィッターで明らかにしたものです。

「武蔵」は昭和19年10月24日の午前におけるシブヤン海の戦いで戦没しましたが、
このとき「フランクリン」は栗田中将率いる第一遊撃部隊を迎え撃つ第4群攻撃部隊として、
ルソン南方で「武蔵」の撃沈に加わっています。
戦闘開始から約5時間後の14時15分、「フランクリン」から発進した第4次攻撃隊65機は
まず「大和」に爆弾1発が命中させ、一連の攻撃で、攻撃隊長のジョー・キービー中佐は
「武蔵」に爆弾4発、魚雷を1~3本命中させたと主張しました。

ちなみに「エンタープライズ」の攻撃隊も自分の攻撃が致命傷だった!と主張していますが、
あれだけの巨艦に一攻撃隊が「致命傷」の主張をするのは少し無理があるかなと・・。

キーピー中佐はまた軽巡洋艦1隻撃沈を主張しており、これは
「扶桑」「山城」いずれかのことであったと考えられます。

「フランクリン」はまた同日「初春」型駆逐艦「若葉」を撃沈していますが、
「若葉」は戦闘に参加していたわけではなく少し離れたスールー海を航行しており、
運悪く攻撃隊に発見されてしまったということのようです。

しかし今回、あらためてシブヤン海を地図で確認しましたが、
海というよりフィリピンの島に周りを囲まれたところで、
「こんな狭そうなところで『大和』『武蔵』が戦ったのか」と不思議な気がしました。



(米国時間)10月30日、「フランクリン」はレイテ島に上陸した米軍支援作戦任務遂行中、
ルソン島の海軍航空基地から出撃した第一特別攻撃隊「葉桜隊」の攻撃を受けました。
「葉桜隊」は6名からなる特攻隊で、この時の直掩には、戦後「修羅の翼」の著者となった
角田和男氏がいました。
彼らの出撃前夜の様子がここではこう述べられています。

特攻隊員の真情~海軍中尉角田和男氏の回想


「葉桜隊」は太陽を背にして「フランクリン」に襲いかかりました。
1機目、2機目はレーダー管制射撃で撃墜され、3機目は被弾し右舷至近海面に激突。
そして続く4機目が空母甲板に突入しました。
さらに5機目は艦首至近海面に激突してフランクリンは大火災を発生させて大破しました。
戦死者は56名、艦載機33機が破壊されて戦場を離脱する結果となりました。



ちなみに6機目は護衛空母「べロー・ウッド」の後部飛行甲板に激突。
二つ上の写真の左が「べロー・ウッド」、右が「フランクリン」です。

また、「フランクリン」攻撃隊は25日のエンガノ岬沖海戦で、
「千代田」「瑞鳳」(甲板で総員が万歳している写真がある)の沈没にも寄与した、
と主張しているそうです。
そのように、この一連のアクトで大変な戦果を挙げたとされる「フランクリン」攻撃隊ですが、



搭乗員の戦闘時間がこのように表にされていました。
搭乗した時間をなぜ事細かく表に表さなければならないのかわかりませんが、
もしかしたら給料の関係・・・・・とか?
左に名前、日付ごとに時間が書かれ、一番右に合計時間があります。
所々に×が続くので、何かと思ったら




大きすぎてすみません。
×の人は、その日から搭乗できなくなったということで、その理由が

CRUSHED AT SEA(海に突入)
SHOT DOWN OVER MANILA(マニラ上空で撃墜)

など。
海に落ちた人のうち一人はRESCUEDと書かれていますので救助されたようですが、
飛行機がなくなればもう母艦にいるわけにいかないので、帰還するようです。
まあ、五体満足で無事だったかどうかはわかりませんし・・。

こういうのを見ると、アメリカといえども決して楽な戦争をしていたわけではないし、

飛行隊のメンバーも皆がいつ死んでもおかしくないと思いながら毎日出撃していたのは
日本と全く同じであったのだろうと思わされます。
もちろん、角田氏の手記にもあったように、死ぬことを確実に決められた特攻隊とは
その死の捉え方においても随分と違いがあったものと思われますが。

そして3月19日がやってきました。


夜が明ける前、高知県沖、日本本土から80キロの地点にに到着していました。

他の空母より近接していたのは、本州の攻撃、特に神戸湾に停泊している貨物船を攻撃するためでした。
「フランクリン」の搭乗員たちは6時間ほどの間に12回出撃体制を取らされており、
警戒警報レベルもステイタス3に引き下げられていたため、皆が自由に睡眠をとったり食事をしたりし、
それだけでなく銃撃手や砲員もその多くがステーションにいました。

その隙を見透かしたように突然、一機の「彗星」(ジュディ)が(銀河・ヴァルとする説も)、
雲を切って降下し、低空飛行して二発の徹甲爆弾を投下したのです。
映画「真珠湾攻撃」のセリフを借りるならば、

「地獄が始まった。日本製の(Made In Japan.)」



投下された爆弾のうち一つはフライトデッキの中心線にあるハンガーデッキから内部を突き破り、
そこから第2、第3デッキに火災を誘発し、戦闘司令所及び飛行司令所にダメージを与えました。
2発目の爆弾は飛行甲板後部を貫通し格納庫で炸裂し、階下で弾薬・火薬の引火を誘発しました。

「フランクリン」にとってさらに運の悪いことに、飛行甲板上には爆弾やロケット弾、
機銃弾や燃料を満載した多数の艦上機が並んで出撃待機していたため、これらが次々と誘爆しました。


のちの損傷解析によると、投下された爆弾は250kgのもので、これらの爆弾が

二基搭載でき、水平爆撃ができる搭載ポイントを備えた日本機は他に存在しないため、
「彗星」か「銀河」であるとアメリカ側が推定したのですが、
攻撃した日本機はその後「フランクリン」の対空砲で撃墜され、(ヘルキャットの迎撃説もあり)
機体の残骸が「フランクリン」 甲板上に四散するのみでこれ以上の特定はできなかったようです。


 
この状態から生還したのですから、キャッチフレーズが

「The Ship That Woldn't die 」

であるのも当然でした。
被害は甚大で、この火災によって爆撃で死傷しなかった乗員の多くが死亡しています。
艦体は浸水し、右舷に13°傾斜し、さらに消火活動の放水により艦尾が沈下しました。
無線通信が不能となり、火災によって高熱が発生し、艦首を除く上部構造物はほぼ全損状態となります。

しかし、「フランクリン」がその後讃えられたのは、爆発や火災で船外に多くが逃れざるを得ない
この甲板上で(この煙を見ればそれも当然かと)数百名もの士官や下士官兵が艦を捨てず、
「フランクリン」を救うために必死の努力を続けたためでした。
1945年時点での海軍の公式発表によると死者は724人、負傷者は265名でしたが、
その後も数字は書き換えられ、フランクリン研究家によると(いるんですねそういう人が)
もっとも最近の統計はは死者807名、負傷者487名となっています。
一連の航海で戦没した「フランクリン」乗員の数は924名となり、この数字は
米海軍史上、もっとも犠牲者の多かった戦艦「アリゾナ」に次ぐものとなっています。

先に従軍神父のオカラハン大佐の写真をあげましたが、あの最後の祈りのシーンは、
オカラハン大佐が業火の渦巻く甲板上で消防及び救助作業を指揮し、
誘爆の危険があった弾薬を処理するなど、従軍神父の役職を超えて獅子奮迅し、
「一仕事終わった」後に本来の職務に立ち返ったときのものだったのです。

オカラハン神父、いや大佐には、この時の功績に対して後に名誉勲章が与えられています。

ドナルド・ゲイリー中尉もまたこのときのヒーローとなりました。
火災で真っ黒になった区画に300名が閉じ込められているのを発見したゲイリー中尉は、
出口を見つけ、彼らを誘導して何度も通路を往復したうえ、消火隊を組織して、
ハンガーデッキの火災を消し止めるために彼らを誘導しています。
さらに、艦の出力を復帰させるためにボイラー室に自ら入り危険な作業を行いました。



丸で囲まれた部分に取り残された生存者。
彼らが最終的に救助されたかどうかは不明だそうです。

その後「フランクリン」は重巡「ピッツバーグ」に牽引されて時速26キロの速さで
なんとかウルシー環礁にたどり着き、生還しました。

しかし、危険な「フランクリン」にとどまって危険を顧みず作業に当たった者がいた一方で、

普通に艦を捨てて避難した乗員もいたことが、長く続くことになる論議を引き起こしました。
「フランクリン」艦長ゲーレス中佐はとどまって艦を救った乗員が当時704名とされていたことから

「ビッグベン704クラブ」(ビッグベンは「ベンジャミン」から来たフランクリンのニックネーム)

のメンバーであると称える一方で、火災の時に海に飛び込んで火を逃れた乗員を
激しく非難したのでした。
そうしなければ死は確実であったとされる者に対しても、そして
”abandon ship"の命令が出されたと信じ、そのように行動しただけの者に対しても・・。


 しかもこの704というのがどこから来た数字かは判然としておらず、実際には
それよりもっと少ない400名であったというのがのちの研究で明らかになっています。
当初、艦を捨てたものに対し告訴するという話すらあがったのですが、
実態が明らかになりその話はすぐに沙汰止みになりました。
 
これほどに深刻な損傷であったにもかかわらず、米海軍の意地とでも言うのか、
「フランクリン」は最終的に良好な状態にまで回復しました。
当時、西海岸の修理造船所の全てが、日本軍によって損壊された艦船で手いっぱいで、
彼女はわざわざ東海岸まで曳航されそこで修理するしかなかったということです。

修理が必要な艦船のほとんど全ての損壊理由が、日本軍の特攻隊の攻撃によるものだとは、
特に戦後日本の戦史ではあまり語られてきたことはありませんが、これが現実だったのです。 
 




このときの「フランクリン」甲板上でなんとカメラを回し続けた乗員が居ました。
オカラハン神父もゲイリー中尉も英雄だったかもしれませんが、
映像を見ると、この状況で映写機を持ってレンズを覗き続けたこのカメラマンには
わたしとしてはぜひ勲章を上げていただきたかったと思わずにいられません。