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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

跳開橋のある港町〜コネチカット州ミスティック

2016-07-23 | アメリカ

基本的にブログのコメントでいただいた読者の方々からのサジェスチョンは、
よほど無理なことでない限り(飛行機の免許取れとかな)、なんとかして
実現させようと思っている当ブログ主ですので、ちょうどニューイングランドに
滞在中の身としては、「ミスティック」という街に是非行ってみたいと思い、
そして実際に行ってみました。

ここにある、古い港町をそのまま明治村のように保存した、

「ミスティック・シーポート」

が目的だったのですが、その前に街を少し散策してみました。



この日、コネチカットは時々小雨のぱらつく曇りがちな1日でした。
ホテルのあるノーウォークから、潜水艦基地とコーストガードアカデミーのある
ニューイングランドを通り、更に少しボストンよりに進んだところに
Mysticという「神秘的な」名前の街があります。

ここに流れるミスティックリバーという河の名前が街の名前の由来ですが、
その「ミスティック」も、もともとは「ピクォート族」という先住民族の言葉で
風によって波の起こるような大きな河川を意味する、

 "missi-tuk"

から来ているのだそうです。

ちなみにミスティックでは「ミスティック大虐殺」と呼ばれる、
イギリスからの入植者によるピクォート族に対する、
女性子供さえもが意図的に抹殺された大
虐殺事件が1637年に起こっています。
 



街の中心を横切るミスティック・リバーを挟んで、レストランやテンポが
観光客向けにずらりと並んでいます。
実はここにくる前に訪問したのがコーストガードアカデミーでしたので、
まずはお昼ご飯を食べることにし、小規模のホテルが経営している
イタリア料理店に入ってみました。


 
日本で食べるイタリアンは日本人のシェフによるものですが、
アメリカのイタリアンはそのほとんどがイタリア人の手によるものです。
アメリカ人向けにアレンジしているところもあるのでしょうが、
こういうニョッキなどは、少し固めの茹で方といい、本場に近い気がします。

と言いながらイタリアには一度しか行ったことがありません。

余談ですがそのときイタリアから汽車で国境を越えてニースに行き、
先日トラックの暴走テロがあった道沿いのホテルに泊まりました。
家族で海を見た海岸のちょうど後ろが、犯人が射殺された場所でした。



さて、昼食を終え、少し街を歩いてみることにしました。
この時点でわたしたちはミスティックという街のことについて何も知りません。



道の脇にあった街の説明を見ると、この頃に建てられた、
つまり100年前の建築が今もちゃんと健在であることがわかります。
アメリカでは決して珍しいことではありません。 



これも少なくとも橋ができた頃にはあったものでしょう。



ミスティックリバーで観察できるウミガメとアザラシ。
河口で海が近いので普通にこういう生物も泳ぎ回っているようです。

さて、何も知らないわたしたちが「跳ね橋があるね」「今も動いているのかな」
などといった会話をしながら橋を渡り終えたとき、一帯にカンカンという
警報音が鳴りわたりました。



動いているも何も、全くこの跳開橋は日常的に稼働していたのでした。
橋を跳ね上げるための巨大な車輪には別に囲いもされていません。
ちなみに、このホイールには「 BULL(雄牛) WHEEL」とあだ名されています。

この横にあったプレートによると、建造されたのは1922年。
ミスティックのあるグロトンとストニングトンの合同での工事だったことがわかります。

しかし、それにしては妙にこういった部分がきれいだなと思ったら、
2000年に第一回、2013年に第二回目の改築工事が終わったばかり。



車道と歩道の踏切が降りると、巨大な二つのコンクリートの錘が
ゆっくりと地面に達するまで降りてきます。



改装したばかりなのでこの錘も大変きれいですね。
稼働前はこの錘はずっとアームに支えられて上空にあるわけなので、
万が一のことがあってこれが落ちてきたら大変なことになりますが、
100年近く一度も事故の類はないそうです。



wikiの「跳開橋」の項にあったミスティックリバー・ブリッジ。
錘の位置がお分かりいただけるでしょうか。



道が持ち上がってきました。
改装工事では、両端の歩道と車道を分ける柵をあらたにつくったようです。



というわけで5〜7分くらいかけて最大仰角に立ち上がったブリッジ。
コンクリの錘はほぼ地面と水平にまで降りています。



どんな船が通るんだろう、とわざわざ川面を見に行くと、
観光用のヨットが通り過ぎ、その後には小さな個人のセーリングヨットが過ぎました。

橋が上がるのに結構な時間がかかるわけですが、この船が定期船で
決まった時間に通行するので橋を上げるのか、それとも橋の前に来たら
船長が橋のオペレーションと連絡を取って開けてもらうのかはわかりません。



もう少し離れて立っている橋を取ってみました。
ゴッホの「アルルの跳ね橋」みたいな両側に上がるものではなく、
このように片方だけが跳ね上がる跳開橋も世界では結構ポピュラーなのだそうです。



というわけで、船が通過した後、もとに戻っていく橋。
対岸のところにぴったりと合うように降りていき、つながれば
車が通っても全く段差がない(実際に通ってみたが全くつなぎ目を感じず)
のは、すごい技術だと思います。



橋を渡ってお店をみながら歩いて行くと、わたしのセンサーがまたしても
高らかに鳴り響きました。

「ARMY NAVY STORE」

という大直球の名前がついてるミリタリーショップ。
もちろんTOと二人で大盛り上がりに盛り上がりながら入ってみることに。



「アーミー・ネービー・ショップ」と言いながら、店の前には
海兵隊のお兄さんのマネキンが立っております。
あ、「海兵隊グッズもありますよ」という宣伝のつもりかな?
これもその気になれば買えるんだろうなあ・・・。



本物の部隊章や階級章、バッジ、もちろん制服、軍靴も。
これはさすがに宣伝用だと思いますが。



一番気になったのはこれ、ギリースーツ!
いろんなミリタリー物販店を見てきましたが、
ギリースーツを実際に売っているのは
初めて見た気がします。
手にとってみたのも初めてのことなんですが、これ案外、もふもふが
取れないように、ちゃんとできているものであることが判明しました。

で、ギリースーツ、おいくらだと思います?
38ドルですよ38ドル。

今が旅行中で持って帰る荷物の心配をしなくてよく、家にこんなものを

しまっておけるスペースがいくらでもあるのならば、
何かの役に立つかもしれないし買って行きたいくらいでした。



結局ギリースーツは諦め、(絶対後悔するだろうし)その代わり
こんな本を記念に買って帰ることにしました。



特に皆さんが気になるに違いない、マリンコの「近接戦闘」の本の中身。
相手の態勢とかどんな風に襲ってきたとか、シチュエーション別に
こういうイラストが延々と描かれております。
これ、上のやつやられたらきっと痛いよね。

まあこういう知識も何かの役に立つかもしれないし・・・。



みなさんは「ミスティック・ピザ」(Mystyc Pizza )という映画、観たことありますか?
わたしはなんとなく題名だけを記憶していたのですが、実はこの映画、
ここミスティックの街にあるピザ屋が舞台だったんですね。

帰ってくるまでそのことを知らなかったのですが、実際にロケが行われたピザ屋には
映画を見た人が訪れたり外から覗き込んだりするのだそうです。



さて、わたしたちは町の中央の道を行って帰ってきただけですが、
もうそろそろ移動をしなければなりません。
なぜなら、今日ここに来た目的はこれだからです。



「ミスティック・シーポート」

昔から漁港であったこのミスティックという街のそのままを残し、
往年の姿のままに展示をしているテーマパーク。

明治村と先ほど言いましたが、明治村のように建物を全国から移築したものでなく、
港はほぼそのまま、幾つかの建物も昔からそこにあったものを保存しています。



あーこの巨大なコルク栓抜き、最近コンスティチューションがドック入りしているのを見たときに
同じようなものが使われているのを見たような気がするなあ。



ここに到着したときにはすでに3時くらいでした。
もう少し早くくればよかったのですが、いい加減に調べたため、わたしは
ここを「海事博物館みたいなものだから2時間もあればいいだろう」
と甘く見ていたのです。

実際は小さな街を歩き回るような感じなので、閉園となる7時ギリギリまで
みっちりと歩き回ることになりました。

港、街のいろいろ、漁港、造船所、実際に船を作った小屋・・・。


その話はまたこの次に。





 


MGH(マサチューセッツ総合病院)で診察を受ける

2016-07-20 | アメリカ

ここに着いてすぐ、わたしはいつもの公園に歩きに行きました。
ホプキントンにある州立公園(ステートパーク)です。




家に帰ってから着替えていつもの州立公園に散歩に行きました。
朝いくと係員がいないのでただですが、この時間に行くと、
マサチューセッツ住人は8ドル、それ以外は10ドル取られます。
わたしの車は残念ながらニューヨークナンバーです。



グースの艦隊が航行中。



この日はビーチ(池だけど)で泳いでいる人が結構いました。
砂に寝そべって肌を焼いているお嬢さんもいます。



池なので波がなく、サメもいないので、小さな子供が泳ぐのにはもってこいの公園です。



シーズン中はちゃんとライフガードも出動。
オフデューティのときにはボディボードの練習をするつもりかな。



娘二人にキャーキャーとしがみつかれているお父さん。



インド人らしい人たちが持ってきていた水タバコ発見。



この付近でよくみる鳥さんお食事中。



目の端に動くもの発見。



リスもお食事中。



このリスはわたしの視線を感じて固まっています。



夏休みの少年たち。



ここ何年も、同じ席でパソコンをしている人。
去年朝一度も見なかったのでどうしたのかと思ったら、
お昼に仕事時間を変えたようです。

著述業の人かな?


懐かしい公園はこのおじさんの仕事時間以外全く変わっていませんでした。





ところで、移動の日から息子は体の不調を訴えていました。

「頭が痛い。下痢が止まらない」

そこでTOがいきなり言いだしました。

「マサチューセッツ総合病院(MGH)で診てもらおう!」

MGHというのはハーバードメディカルスクールの関係医療機関で、
おそらくは東アメリカで一番権威のある病院ではないかと思われます。
これまで関係者から11人のノーベル医学賞受賞者を出しており、
ドラマ「ER」の作者であるマイケル・クライトンがハーバード大の学生だった頃
実習していた、つまりあのドラマのモデルになっていると言ってもいい病院。



「西ではスタンフォードの付属病院で診てもらったし、対して東のMGHの中診てみたいじゃない」

物見遊山かい。
そんなに重篤な症状ではないけれど、本人がなんと言っても診てほしいというので、
さっそくそのERに行ってみることにしました。

行ってみるっていうのも変だけど。



おおおお!と駐車場棟から出るなり写真を撮る両親に

「かっこ悪いからやめてよ」

と拗ねる息子。
そんなことを言いながら自分も出てきたときしっかり撮っていましたが。



受付にはもう電話で話がいっていたので、まず入り口で軽く状況説明と
横にあるガラスブースでナースによる簡単な問診が行われます。

わたしが椅子に座っていたら、手を布で抑えた男性が来て、

「 I sliced my hand.」

スライスしちまったのか!とぞわぞわしてしまいました。
このとき、ソファでバナナを食べている黒人のニイちゃんがいたのですが、
ここでの一連の手続きが終わった後、小児科棟まで連れて行ってくれたのが
なんとこの人でした。

患者を案内するためだけの係が、しかもこんなニイちゃんであると知って軽く驚きます。



小児科室には厳重にロックがかけられています。
外からはもちろん、中からはモニターの下のボタンを押して、
顔を撮影させてからでないとドアを開けることができません。
しかも、少し離れたところにいる「ドア開け係」みたいな人が、
それを見ていてその少し前に鍵を開けなくてはドアは開きません。

なんでこんな面倒なことをするかというと理由は一つ、
「連れ去り防止のため」です。

スタンフォードでは全員が金属探知機を通りましたが、ここにはそれはなく
棟ごとにセキリュティを別々に行っているようでした。
ここで散々待たされて(WiFiはあったのでiPadは見ることができた)、
部屋に通され、ナースのチェック、医師のプライマリーチェックがあります。



聴診器をあてたり喉を見たりするときにはベッドに寝ますが、靴は履いたまま。
ベッドは大きな紙で覆われていて、枕元にはその紙のロールがあり、
一人の患者ごとに紙を全部交換してしまうのです。

最初の医師は10年前に香港から来たという女医さんで、判断を下す偉い先生も
年配の女性医師でした。

「下痢は多分ウィルスだと思う。頭痛はサイナスのアレルギーでしょう」

結局こういう診断だったのですが、恥ずかしながら両親はときどき英語が聞き取れません。 
しょっちゅうドクターはでたり入ったりを繰り返すのですが、その隙にに息子に
今なんて言ったのか、と聞く始末。

TO「あっぺんでぃくてすじゃなかったっていってたけど何?」

息子は息子でそれをとっさに日本語で言い換えられません。

わたし「医者は盲腸のことアッペっていうよ」 

息子がiPhoneで調べ、「虫垂炎だって」

わたし「ほらー当たってた!盲腸だ」(勝ち誇って)

TO「そういえばブラックジャックでアッペって言ってたなー」


というわけで、それほどひどくもない病気だったため、気軽に、

ライトな感覚で()世界一と評判の病院の治療を経験することができました。 
スタンフォードでも思いましたが、こちらの診察システムというのはとても
システマティックで、はっきりしていて、わかりやすいのです。
医師もまるでコンピュータのようにきちんと二進法で説明に曖昧さを持たせず、
どうしたらいいかを患者に決めさせるというような場面はありません。

患者の訴えをいくつか聞いてろくに顔も見ず「検査しましょう」
とやる医師が多い日本の医療を思うと、ずいぶん診察のスキルが違うなと思います。

ちなみに、とても高額なのがアメリカの医療ですが、今回の治療費は
旅行デスクのあるカード会社の保険が適応になりました。



帰りにボストンのダウンタウンを運転していると、空になんと
5機の飛行機が文字を描いていました。
文字が点々となっているのは、飛行機が間欠的にスモークを出して作るからです。

車の窓から、建物や木々に遮られて何が書いてあるのか読めなかったのですが、 
"MEGAN" は女性の名前ですから、広告でなければ、空を使った
メッセンジャーではないかと思われます。

こんなのでプロポーズして相手を驚かすなんてのがアメリカ人は大好き。
別に大富豪でなくてもこんなサプライズをプレゼントできるのがアメリカです。






 


フロントガラスが割れて車を交換する〜ボストン雑感

2016-07-19 | アメリカ

例の警察官射殺事件が起きてから、どこにいっても国旗が半旗になっていました。
いつまで半旗にしておくのだろう、とおもっていたら、一週間がすぎたという
報道とともに示し合わせたように平常モードに戻っていました。



この事件以降すっかり有名になったダラス警察署長。
亡くなった5人の警官の追悼式で弔辞を述べています。



このころはまだ、黒人男性が殺されたことに対する抗議のデモが
警察とにらみ合うなどの緊張が続いていましたが、メディアは
あの手この手?で、宥和を促すような企画を意図して行っていたようです。

撃たれた警官を手術した病院の外科医、ご覧の通りアフリカ系なのですが、
この人が涙で言葉も詰まらせながら救えなかった命について語り、
このような対立はやめてほしい、ということを訴えたり。



現在では各警官がホームタウンで追悼式を行っている段階で、
必ず彼らの息子や娘が弔辞を述べるところが報じられます。

 

こういうミュージシャンが出現するのも911のときのような感じです。 
彼はテレビ局に呼んでもらいインタビューを受けていました。

・・・・とか言っている間に、今度はバトンルージュでまたしても警官が6人狙撃され、
3人が亡くなったというニュースを今やっています。

終わらない負の連鎖・・・。




話題は変わりますが、今アメリカで爆発的に流行っているのが「ポケモンゴー」。
アメリカでのポケモン人気は昔からで、息子が幼稚園に行っていたころは
アメリカ人の子供がみんなで「ピカー」と叫んでいたものです。

今回の人気は大人も巻き込んでの大ブーム。



なんと、イラクの前線でテロ組織ISISと向き合うある志願兵が、
機関銃の映り込んだポケモンゴーのキャプチャ画面をフェイスブックに投稿したり、
歩行中や運転中に行うので大けがをしたり事故を起こす事態に・・・・。



このたび米軍の複数の基地がフェイスブック公式アカウントを通じ、
兵士と近隣住民らに注意を喚起したそうです。

ワシントン州にあるルイス=マコード統合基地は、ユーザーに向けて、

「基地内の規制された区域、オフィスビル、住居に、
ポケモンを追いかけて侵入しないでください」
「駐車場や交差点では十分に注意して。
電話から顔を上げて、通りを渡る前に両側をしっかり見ましょう。
ポケモンは急にどこかに行ったりしませんから」

と呼びかけ、ノースカロライナ州のシーモア・ジョンソン空軍基地も、

「もし諸君がPokémon GOをプレイしているなら、以下のことに留意するように。
制服で歩いているときに機器を使用しない。周囲に気を配る。
ポケモンを捕まえるために規制区域に侵入しない!」

と兵士たちに勧告を行いました。
アメリカの方が先行しているそうで、日本でももうすぐ上陸するそうでですが、
そうなったときも自衛隊の皆さんだけは大丈夫ですよね? 



さて今度はテレビ番組の話を。
部屋ではCNNかTNTを見ることが多いのですが、日本ではまだ途中までしか見られない

「ザ・ラストシップ」が、現在大変なことになっております。



なんと日本人たちが海賊になっていて、世界転覆を企む、その首領が真田広之
海賊がなんで日本人やねんマイケルベイ。



真田、愛する妻を救うためためという事情があるとはいえ、
捕まえた「ネイサン・ジェームス」の副長を部下に拷問させる極悪人。
このままでは近々乗員に殺されること間違いなし。



ところで、本題。

毎日ピアノを借りている楽器屋のあるモールまでは、車で16分くらいかかります。

特にこの辺は幹線道路になると信号が少ないので高速でなくても
100キロくらいは出したりするわけですが、この道路に入るために
大型トラックに続いていったところ、直後に「ぱしっ!」という嫌な音がしました。



ひええええ〜〜。

小石が高速で飛んできてフロントガラスが割れる、という事故を経験した人は
保険を使うほどでもない、しかし実費で修理すれば10万くらいは飛んでいくという
あの不条理さにきっと泣きたい気持ちになられたかと思います。

かくいうわたしは、運転人生において3度の石飛事故でフロントガラスを変えていますが、
3度目の事故はなんと2度目の修理から1ヶ月以内でした。

「修理が出来上がって乗って帰られる途中で石が当たったという人もいますよ」

という全く慰めにならない慰めをディーラーの人にされたものですが、
よもやアメリカで4度目を経験するとは思ってもみませんでした。

しかも、石がよほど大きかったらしく、ヒビはガラスの中央まで切れ込んでます。
もしもう少し中央寄りに当たっていれば、間違いなくガラスは粉砕していたでしょう。



とりあえず時間通りにピアノショップに行って、練習をしてから、
空港のハーツレンタカーまで持っていくことにしました。



ハーツのオフィスに行くと、白人女性が接客中、手が空いていたのが黒人男性。
わたしはその黒人のおっちゃんが、

「何かご用ですか」

と聞いてきたとき、自分の幸運に思わずニッコリしました。
というのは、2年前、何の因果かここで借りた車に異常な金額が課されており、
その無茶苦茶な処理をしたのがこのとき接客中の女性店員。
「これ間違ってね?」といって書類を見せたらたちどころにそれを理解して
訂正し、おまけに謝ってくれた稀有な店員が、黒人男性その人だったのに気づいたのです。

このときに無愛想で頭の悪い女性の方に当たっていたら、きっと別のトラブルで
嫌な思いをすることになった可能性もありますが、その黒人のおっちゃんは、
わたしが「わたしの車がストーンクラックを受けてしまったです」というと、まず

「誰も怪我はしなかったですか」

と聞いてきたのです。
お、やっぱりこの人は只者ではない(というかアメリカでは稀有だけど日本では普通)
とすっかり安心したわたしです。

「車はどこに停めていますか」

と聞かれたので一緒に傷を見に行きました。



「うーん。こりゃーひどい」(おっちゃん談)

少しペーパーワークをしてもらうことになりますが、といってもう一度事務所に入り、
事故証明書みたいなカーボン付きの紙を出されました。
瞬時にめんどくせーと心の中で思ったわたし、

「ぎぶみーあたいむ、ぷりーず」(時間かかるかもしれないけどごめんね)

とぶりぶりすると、おっちゃんは、この英語の発音ではきっと書類を読むのも
難しいのに違いない、と思ってくれて、

「じゃーわたしが代わりに書いてあげましょう」

と名前から何から、全部書いてくれました。

「どこで事故起こったかわかります?」

「ウェストボロの9号線上です」

見ていると、おっちゃんはウェストボロの綴りの最後に”t”をつけていたけど、
それを指摘するのも書いてもらっている関係上悪い気がして黙っていました。

事故申告関係の書類が終わって、代わりの車の書類をもらい、
あっさりと終わったのにラッキーと思いながら指定のロットに行くと、

なんと停まっていたのがKIAでした。

なんたることか、わたしは死んでも韓国車には乗らないと家訓により決めているのに、
と思ったとたん、車内に従業員ではないヒトがいるのに気がつきました。
ドライバー席でいろいろとチェックしている様子を見ると、客のようです。

なんとラッキーなことに?どこかのあわてんぼうさんが、わたしの手配された
車を自分の車と間違えて乗って行ってくれたのでした。

「やったーこれで取り替えてくれって言いやすくなったぞ」

わたしが喜び勇んで事務所に帰ろうとすると、そのロットに別の車が来ました。
見ればシェビー、しかし契約したより小さなクラスです。

事務所に行っておっちゃんに、

「シェビーが来たけど、あれじゃ家族3人にトランクたくさん乗らないです」

というと、

「シェビー?キアのはずだけど」

誰かが間違えて乗って行った、というのは面倒なのでそれは黙ったまま、

「ノーキア、ノーホンデー(ヒュンダイのこと)ぷりーず」

とお願いしてみたところ、ちょっと待ってて、とおっちゃん出ていき、
戻ってきたと思ったら事務所の横に来たばかりの

「ニュー・ニッサン」をこれならどうだ!と意気揚々と指差しました。



アルティマ(日本ではティアナ)は何度もこちらで乗りましたが、
カムリから乗り換えるとやっぱり安定感がかなり違うなと感じます。

とにかくおっちゃん、ありがとう〜!
わたしがアルティマを見たとたん狂喜乱舞(はしてないけど)で喜んで

「アイトゥルーリーアプリシエイトザット!センキュウー」

とお礼を言うと、おっちゃんまんざらでもない様子で、

「Have a great one!」

と送り出してくれました。



そのまま、ニューベリーストリートにいつものお店をチェックしに行きました。
去年怖いもの見たさでスシをたべた「スナッピー・スシ」、
今年はニューアイテムとしてラーメンを前面に打ち出しているようです。

外のテーブルの人が食べているのを見ましたが、なんか具のない中華冷麺の上に、
サラダをのっけたようなもので、ラーメンには見えませんでしたが。



向かいのコールハーンはバーゲン前で嵐の前の静けさ。



驚いたのが駐車場代がまた値上がりしていたことです。
路上に止められればいいのですが、預かってもらうパーキングは
3時間止めて42ドルという、ニューヨークより足元を見たお値段。




もう一つのお気に入りのお店があるウェルズリー周辺は1日停めても4ドルですが、
そのお店はオーナーに何かあったのか休業していました。



お店の横にある車の修理工場の軒下でちゅんちゅんと声がするので
見てみると、スズメがこんな豪邸をつくってもらってます。

声は藁で塞がれている小屋の中から聞こえていました。



オーナーらしい人がこの中でまさにお仕事中でしたが、
このマッチョなおじさんがこの小屋をスズメに作ってあげたのか、
と思うとなんか笑ってしまいました。



ウェルズリー大学の門の前を通って帰ります。
ウェルズリーも、もしかしたら自分の大学の卒業生からついにアメリカの
初の女性大統領が生まれるかもしれないということで、
今、学校をあげて応援をしているのかもしれません。




 


"I AM A COAST GUARDSMAN"〜コーストガード・アカデミー

2016-07-18 | アメリカ

さて、キュレーターのジェニファーさんに取り次いでもらうために
ホールの中を見当違いにうろうろしているわたしたちです。

階下が入学事務所だったので、もういちどホールの階に戻ってきました。 



そこはライブラリー。
ジェニファーに連絡をするにはどうしたらいいかを司書に聞いてみることにしました。


古書なども蔵書に充実していそうな明るい図書館。
ネイビーブルーの作業着を着たカデットもちらほらいます。


彼らの図書館にはどんな蔵書があるのだろう、と写真を撮ってみたのですが、
こういう学校だから、海事に関する本ばかりかと思ったら、そうでもないみたい。


「ニコラ・テスラの真実」「ファット・フード合衆国」
カーレド・ホッセイニの「千の輝く太陽」、「ダビデとゴリアテ」・・・。



図書館の人がわたしにはわからない、というので、もう一度ミュージアムの前に行ってみると、
そこには車椅子に乗った白人女性が待っていました。

この人がキュレーターのジェニファーさんでした。




メールで「この日の朝、わたしは病院に行ってから出勤するので、
少し遅く来てくれるとありがたいです」といわれていたのですが、
まさかこういう状態の人とは夢にも思いませんでした。

彼女は

「わたしはそれで少し喋るのも遅いのだけど、ごめんなさいね」

というのですが、我々にとっては謝られるどころか願ってもないことです(笑)
彼女は自分で車椅子を移動させながら、このあと展示品とコーストガードの歴史について
熱心に説明をしてくれました。 



入り口のホールには、そのマークの元にこのようなことが書かれています。

私はコーストガーズマンだ

私は合衆国国民に奉仕する

私は彼らを守る(protect )

私は彼らを守る  (defend)

私は彼らを守る  (save )

私は彼らの盾になる

彼らのためにわたしは常に備える(semper paratus)

私はコーストガードの真髄に生きる

私はコーストガーズマンであることを誇りにする

我々はアメリカ合衆国コーストガードである




て、このあと、ジェニファーさんに一度館内を説明してもらい、
終わってからもういちど二人で確認&写真撮影しながら廻り、
外に出てきたのはたっぷり2時間くらい経っていたでしょうか。

このときの内容については、また日を改めてお話ししようと思います。


ミュージアムのあるホールの下に慰霊碑のようなものが建っていました。
沿岸警備隊は国家の非常時、つまり合衆国議会における宣戦布告や
大統領の命令などの戦時には、アメリカ海軍の指揮下に入ることが決められています。

よって、1915年に沿岸警備隊の名前になって以降のアメリカの戦争、
第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争にも参加しています。



USS、とありますが、戦時中は沿岸警備隊は海軍の下に入ることになっているので、
「カッター」と言わずこのときだけは「シップ」になるということなのでしょうか。

各艦のシルエットには戦歴が箇条書きにされています。

USS「キャヴァリエ」 サイパン・台南・レイテ・リンガエン・スビック

東シナ海での戦闘にて魚雷を受け乗員1名死亡、58名重軽傷


USS「レオナード・ウッド」 北アフリカ・シシリー・ギルバート・マーシャル諸島
              サイパン・レイテ・リンガエン
敵機5機を撃墜



USS「キャラウェイ」 クァジャレイン・サイパン・アンガウル・レイテ
           リンガエン・硫黄島_

1945年1月8日神風特攻を受け、乗員31名戦死
敵機2機を撃墜


 USS「ベイフィールド」 D-デイ 南仏 硫黄島 沖縄

乗員1名戦死 5名重軽傷


乗員のことを「SHIPMATE」というのも、コーストガード独特のものでしょうか。




メダル・オブ・オナーを授与したダグラス・アルバート・マンロー
写真が彫り込まれた彼の顕彰碑。

マンローは、1942年、ガダルカナルで日本軍の捕虜になっていた海兵隊500人を
奪還する作戦に従事していた上等信号兵だったそうですが、自分が囮になって
日本軍の集中砲火を受け、その間に海兵隊の乗った5隻の船が脱出を果たしました。

マンローは、史上唯一の名誉勲章受章者たる沿岸警備隊員となりました。 



アレキサンダー・ハミルトン

なんかこの名前最近ここで書きましたよね。
そう、アメリカ建国の父で、税収カッターの発案者、つまり沿岸警備隊の
生みの父というべき人(かれは軍人でもあった)じゃないですかー。

その名をもらったというのにアレキサンダーハミルトン、1942年に
ドイツの潜水艦U-132に魚雷攻撃を受け、レイキャビク沖に沈没しています。

主に機関科の20名が船とともに沈み、怪我をした6名がのちに亡くなりました。
この顕彰碑は生存者によって建立されました。



日本人としてはなんとなくホッとしたのですが、これは対日戦のものではなく、
1940年から45年まで行われていた「グリーンランド・パトロール」の参加艇です。

当時グリーンランドには米軍の基地があったので、周辺を警戒する必要があったのですが、
過酷な状況の中で事故に遭いUSS「ムスケゲット」「エスカナバ」が喪失。 
USS「ナトセック」は行方不明になっています。

この顕彰碑の冒頭に書かれている言葉はこのようなものです。


「今では忘れ去られ、大した名誉も与えられていないかもしれない。
しかし、彼らが”男”であったことだけは疑うべくもないのだ。」 






顕彰碑コーナーの見学を終わってから、わたしたちは車に乗りました。
このとき、駐車場にもその周囲にも誰一人いなかったので、
その気になれば車を置いたまま周囲を歩いても良さそうな雰囲気でしたが、
やはり東洋人が構内をカメラを抱えてうろうろするのはまずかろうと思い、
おとなしく帰ることにしたのです。




せめてゆっくり運転しながら写真を撮ろうという考え(笑)



ここは予想したように、カデットの居住区が奥にあるホールです。
木々が生い茂っていますが、おそらく樹齢は100年越えているに違いありません。




渡り廊下の向こうは中庭になっています。
学生舎から教室まで、廊下で繋がれているようです。



博物館を見学しているのは、わたしたち以外に子供連れの家族が2〜3といった感じで、
ましてやアメリカ人以外の姿を見ることはありませんでした。

車に乗り、構内を走っているときにも人一人姿を見ませんでした。
なんだか不思議な空間の静寂です。

実は、この何日かあと、ロングアイランドからフェリーでニューロンドンに着き、
そこから今いるウェストボロというところに移動したのですが、
優秀なナビの指示をなぜかこのときだけ聞き間違えて、気が付いたら
このコーストガードアカデミーの正門前に来ていたということがありました。

異邦の見学者であるわたしたちが、センパーパラタスな人たちに
”歓迎”されたからかもしれない、とこの不思議な間違いを、わたしは勝手にこう解釈したのです。


 


 


SEMPER PARATUS(常に備えあり)〜コーストガード・アカデミー

2016-07-16 | アメリカ

沿岸警備隊の女性隊員のことを説明した時に、彼らのモットーが
「SEMPER PARATUS」、センパー・パラタスというラテン語で、
『ALWEYS READY」=「常に備えあり」という意味であることを書きました。

「センパー・パラタス」は海自の「軍艦」にあたるテーマソングでもあります。

Semper Paratus - United States Coast Guard Marching Song

2回も聞けば歌詞を見ながら歌えてしまうくらい単純な歌ですが、
特に最後のフレーズがツボを得ていて聞いていて気持ちいいです。

Semper Paratus is our guide    「センパー・パラタス」は我々の道標

Our fame, and groly too.       我らの名声、そして我らの誇り

To fight to save or fight and die,   命を救うために戦い、そして死ぬ

Aye! Coast Guard, we are for you! アイ!コーストガードは国民のためにある


この後半はそっくり、

「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もって国民の負託に応える」

という自衛官の服務の宣誓そのままであることにご注意ください。 



さて、博物館のあるホールに入っていったはいいのですが、キュレーターのジェニファーに
我々が着いたことを誰に取り次いで貰えばいいのかわかりません。

とりあえず、ホールにあるものの写真を撮りまくりました。

冒頭の絵画は

USCGC エスカナーバ(WPG-77)

であることが艦番号から推測されます。
エスカナーバといえば、前回構内にあった「グリーンランドパトロール」に参加し、
喪失したカッターではなかったでしょうか。

艦歴によると、民間船のSSドーチェスターがドイツのUボートによって撃沈されたとき、
その乗員の救助に当たったのがエスカナーバでした。

このとき、エスカナーバの乗員は水温1度の極寒の海にダイバースーツを着て飛びこみ、
救助者をカッターにすくい上げることができる海域に集めるという方法で
133名もの人命を救うことができました。(うち1名はその後死亡)

このとき、ドーチェスターに乗っていた四人の陸軍士官、いずれも従軍牧師でしたが、
彼らはライフジャケットが足りなくなったとき、他の乗員にそれを渡して、
静かに祈りの言葉を唱え、賛美歌を歌って船の底に降りて行ったそうです。



らは現在も「イモータル(不滅の)チャプレンズ」と呼ばれ、
その犠牲の精神を讃えられています。

彼らを顕彰するための彫刻や碑、ステンドグラスなどは全国に多くあり、
国防総省のステンドグラスには彼らの姿が刻まれています。

さて、そしてエスカナバの最後は1943年の6月、船団護衛任務の航路中、
原因不明の爆発によって四散し、ニューファンドランド島付近に爆発から5分で姿を消しました。
生存者はわずか2名で、遺体も一人のものしかみつけることはできませんでした。

U-ボートの攻撃もなかったと言われ、機雷に触雷した可能性も考えられています。



こちらはおそらくD-デイ、ノルマンジー上陸作戦の光景ではないかと思われます。



写真のようですが巨大な絵画です。

"The Cold War, Bering Sea Patrol"

と題されたこの絵は、沿岸警備隊のアラスカでの任務を描いています。
沿岸警備隊のアラスカでの任務は1800年代半ばから始まっていました。
沿岸警備隊の前身である例の「税収カッターサービス」が、灯台を敷設しており、
それが「救助部隊」と合併して今の形になってからはコンスタントに
ベーリング海での警備を行ってきたのです。

ここで何を警備するかというと、当初は毛皮のためにアザラシを乱獲する船だったそうです。

描かれている砕氷船USCGC ノースウィンド(WAG / WAGB-282)
は、先日ここでお話ししたリチャード・バード少将の「ハイジャンプ作戦」にも参加しています。

乗員は、史上初めて、北極の氷の上で野球の試合をダブルヘッダーで行い、
ゴルフもやってしまったという記録を残しました。

これ絶対記録のためにやっただけだろっていう。

絵は文字通り冷戦の頃のできごとで、黒い船はソ連の砕氷船「モスクワ」
この海域はソ連が自国領だと主張したところで、バッティングしてしまいました。
ソ連は9隻からなる船団で現れたということで、潜水艦まで同行していたようです。

このとき、ノースウィンドの艦長(船長?)は、手旗信号で

「何か援助は必要か」

と聞き、その答えは

「ネガティブ」

だったそうです。
船団が通り過ぎた後、すぐさまノースウィンドのヘリが飛び立ち、偵察の写真を撮ったところ、
「モスクワ」からもヘリコプターが発進して発進して後を追いかけてきました。
ヘリが去った後、キャプテンはもう一度モスクワに向かってこう信号を打ちました。

「God's speed and safe passage」(御安航を祈る)



この絵を描いたのは、サインによると「ルテナン・コマンダー」。
なんと軍人さんが自分が見たものを描いたってことですか。

夕闇の空にまるで蛍のように海戦の高射砲が散らばっています。
おそらくは太平洋での戦闘ではないでしょうか。



沿岸警備隊はベトナム戦争にも参加しています。
また博物館の展示について触れながらお話ししようと思いますが、
展示にはこの写真をもとにして描かれたらしい絵画もありました。



沿岸警備隊の航空機って、何を使っているんだろう、と思いますが、
まあなんのことはない、P-3とかシーホークとか(ジェイホークというらしい)
ハーキュリーズとかを名前を変えて装備しており、
偵察機にはフランスのダッソー「ファルコン」を持っている模様。

これは、上の飛行機が下のヘリに給油してもらってるんですよね?
TOがこれを見てよくローターが当たらないなあ、ていうか、パイプみたいなのは
なんでローターに当たらないの?と不思議そうにしていました。

もちろんわたしもそんなことまで知りません。




沿岸警備隊初の提督(vice admiral)、ラッセル・ランドルフ・ウェッシュ
沿岸警備隊が「税収カッターサービス」だった頃に「税収カッター学校」を出て、
1904年に士官候補生となります。
つまり、この年の卒業生が、41年後の1945年、提督になったということなんですね。

しかし彼は提督拝命半年後、白血病のため60歳で亡くなりました。
USCGC  Waesche は彼の名前を記念しています。



コーストガードアカデミーの銘がはいった銛。



ジェニファーを呼んでもらおうにも、人がいないので、わたしたちは
階段を降りて行きました。
今にして思うと、この階下には入学事務所があったようです。

で、ドアの上に

「このドアを通り抜ければコーストガードのリーダーシップの将来がある」

この時には何も考えずに見ていたわけですが、ここが入試事務所であれば
宣伝文句としては大変適切なものですね。




つまり、この学校に入学しよう、という人がここを歩くわけですから、これでもか!
とかっちょいい写真をかざってアピールしているわけです。

サーベルを着剣する女性士官たち・・・うーん、かっこいいぞ。



女性といえば現在の学長は女性士官であるという話をしましたが、
そういえば沿岸警備隊の救助ヘリパイロットに、初めてアフリカ系女性が合格した、
という話をここでしたこともありましたね。

ぜそれが特別なニュースになるかというと、救難ヘリパイロットを志願する学生は
大変多く、人気の志望先で、任期2回目からでないと配属希望すら受け付けてもらえない、
ということがまことしやかに言われているほどだからです。


ところでこの写真の1980年クラスということは、彼女らは卒業して
すでに36年経っているわけですが、そろそろ全員が退役したころでしょうか。
それともこの中から女性の将官は誕生したのでしょうか。 



軍学校ですから、理数系には力を入れます。
学業レベルも国のトップ大学のレベルにランクされているそうです。

学部はエンジニアリング、人文科学、マネジメント、科学、数学など。
専門的には戦略インテリジェンス、プロフェッショナル海事のコースもあります。




2011年の卒業式にはオバマ大統領の出席を仰ぎました。
一緒に写真を撮ってパネルになっているからには、彼女はクラスヘッド、
首席卒業だったりするのかもしれません。
将来はコーストガード・アカデミーの女性学長かもしれませんね。

ところで、彼らがしている、親指と小指を立てるポーズですが、


ハワイで昔から使われている挨拶のポーズ

なんだそうです。
彼女はおそらくハワイ州出身のカデットなんでしょうね。
バラク・オバマはハワイのホノルルの病院で生まれています。



続く。 

 


THE CHAIN〜コーストガード・アカデミー

2016-07-14 | アメリカ


コーストガードアカデミーのミュージアムに見学の予約を取り、
ついに内部への進入を果たしたわたしたちです。
案外簡単に軍学校に入れてしまうのはわたしたちが日本人だから?
それとも学校組織だからかしら。
例えばアナポリスの見学をしたいとして、観光客は入れてもらえるのか?

ふと思って調べてみたところ、なんと

予約なしで9ドル払えば定期的なツァーに参加できる

ということが判明しました。
うーん・・・今年は無理だけど、いつか行ってみたいねえ。

こちらコーストガードアカデミーはそもそも学校が小規模ですし、
アナポリスと違ってそもそも観光客がわざわざ来るような場所でもないし、
そもそも博物館を見に来る人が果たしてそういるかどうか、という感じです。



博物館の併設されていると思われる建物の前に、大きな鐘が置いてありました。

U.S.L.H.E  1906

あります。
調べても確かなことはわからなかったのですが、
L.H が「ライトハウス」のことだとすれば、灯台の付属品だということになります。
(じゃあ"E"はなんですか、とは聞かないでやってくれたまえ)

その横にあった、巨大な錆びたチェーン。(冒頭写真)
前に停まっている車の大きさと比較してみてください。

歴史的に意味のあるものなのだろうと思ったら、横に説明がありました。

1776年、独立戦争が起こった次の年、英国海軍艦隊をハドソン川への
侵入を防ぐため、ニューヨークのウェストポイントから
「コンスティチューション・アイランド」すなわち憲法島と言われるところまで
この鎖を延伸しして張ったということがありました。

この鎖はその一部であるそうです。


偶然先ほどアナポリスの海軍兵学校の話が出ましたが、この話の「ウェストポイント」
とはまさしくのちのアメリカ合衆国陸軍士官学校のことですね。

コンスティチューション・アイランドとウェストポイントは、
地図を見ていただければ分かりますが、ハドソンリバーをはさんで対岸に位置します。 




お分りいただけただろうか。

ここはいつぞやお話ししたイントレピッドの係留されている、そして自由の女神のある

ハドソンリバーをずっと上流にさかのぼっていったところにあります。
つまり、ここを鎖で塞いでしまったっていうんですね。

しかし、憲法島の歴史を見ると、この部分は1777年には一度英国に取られており
そのあともういちど1778年にアメリカが取り返し、以前「マーテラーズ・ロック」
と呼ばれていた今の憲法島の部分を要塞化した、となっています。

もしかしたらこの鎖はイギリス艦隊に破られた、ってことだったんじゃあ・・。

ともかく、この時に要塞化したのがきっかけで、その後ここに
その名も「ウェストポイント」たる陸軍士官学校ができることになります。



建物は丘陵地の一番高い部分にありました。
どれどれ、ここから先はどうなっているのかな、と見てみると、
なんとびっくり、テムズ川までの丘陵地一帯がすべてコーストガードの敷地です。
いったいどれだけの施設があるのでしょうか。

先日見学した我が防衛大学校も、実は超広大であることが地図を見て分かりましたが、
ここは「食堂のおばちゃんが毎日全員にクッキーを焼けるくらいの生徒数」なのに、
この広さとは・・・・。 



ここに「税収カッター乗員幹部養成学校」として士官学校が移転するにあたっては
学校の目的とその存在意義を大変慎重に考慮したといわれています。

士官候補生たちの訓練にはカッター(税収カッターの方ではなく日本でいうカッター)
を漕いだり実際に乗船実習が欠かせませんが、
彼らはキャンパスに面したテムズ川でそれを行うことができます。

なんと「バークル・イーグル号」という帆船まで所持しているのです。



この建物、地図で調べてみたところによると食堂のようです。
食堂の名前は「ドライドック・レストラン」。

食堂だけにしては広すぎないか?と思ったら、それだけでなく、
オーディトリウム、つまりコンサートもできるようなホールと

ボウリングのレーン

があるんだそうです。
いくら広いからってなんでもかんでも作ってんじゃねー。



さて、いよいよ建物の中に入っていくことにしましょう。
「Whaeshe hall」といい、アメリカの大学らしく、卒業生が
建築費を寄付して自分の名前を冠したものだとわかるのですが、ここには
アドミッションつまり入学事務局と図書室、そして博物館があります。

ホールには大変気合の入った模型がこれでもかと飾られております。
まずこれは

U.S.C.G.C.ダラス(WHEC-716)


USCGC 、というのは
「U. S. Coast Guard Cutter」の意。
昔、「税収カッター艦隊」であったころの名残で、いまでも沿岸警備隊では
船のことをシップと言わずカッターとかたくなに?称しているのです。

これも、最初にコーストガードの発祥について
博物館で説明を聞いていなければわからなかったことです。




さて、ところでわたしは自衛隊と旧海軍の艦艇には少しだけ詳しく、

米海軍の艦艇についてもその関係でさらに少しだけ知っているのですが、
沿岸警備隊となると「ハミルトンクラス」とか言われても、大きさすらわかりません。

そこで、「ダラス」の3000トンというのを基準に調べてみました。
ちなみに3000トンクラスだと、全長は115mといったところです。

「たかなみ」型4,560トン、「あきづき」型5,050トン。

(「あきづき」型って、こんなに大きな駆逐艦だったんだ)

「はつゆき」型、「たかつき」型は3,050トンですが、全長は130m以上もあります。
あの「わかば」は全長100mだけど1350トンしかなかったというし・・・。

そこでふと、

「海上保安庁の巡視艇なら用途が同じなのだから同じようなクラスがあるのでは」

と思い、検索をかけてみましたら、

こじま(JCG Kojima, PL-21)

という、現在海保大学の練習船になっている船が、ほとんど同じ大きさでした。


沿岸警備隊のカッターの存在意義は基本的にパトロールと援護、災害派遣ですが、
「ダラス」の武装はオトーメララ、76mm銃、 25mmマシンガンなどで、
護衛艦なみの装備を持っており、ベトナム戦争の際には161回もの砲火支援によって
ベトコンの供給ルート、拠点、キャンプなどを破壊する任務を行っています。

キューバ難民、そしてハイチ難民の輸送、そしてスペースシャトル「チャレンジャー」の事故後、
捜索活動を行うなどの活動によって多くの叙勲をされ、2012年に退役しました。



U.S.C.G.C.「ビジラント」(WPC-154)

こちらはまさに海保の巡視船のような仕様。
1964年から69年にかけて作られた16隻のカッターの一つで、
乗組員は士官12名、乗員63名という規模です。

海上自衛隊でいうと、掃海艦(艇ではなく)より少しだけ乗員が多く、
船体もだいたい同じ大きさでしょうか。

このカッターは沿岸警備隊のカッターとして画期的なモデルで、
エンジンはアメリカの史上初めて導入されたディーゼルとタービンの混合(CODAG)。
荒天に強く、初めてヘリコプターのドックを搭載しました。

この巡視船にまつわる話といえば「クディルカ事件」があります。

1970年11月23日、アキンナーの西の大西洋上でリトアニア国籍の船員
シマス・クディルカが、ソビエト船からアメリカ沿岸警備隊のカッター、
つまりこの「ビジラント」に飛び込んで合衆国への亡命を図ったという事件です。

このとき、沿岸警備隊の第一管区司令ウィリアム・エリス少将は、
「ビジラント」にKGBエージェントを乗船させクディルカの逮捕をさせ、
アメリカ側から統一軍事法典違反として処分されてしまっています。

ビジラントというのは用心深い、という意味がありますが、
エリス少将はもうすこしソ連に対し用心深くなくてはいけなかったということです。 

最後の模型は

U.S.C.G.C.スペンサー(WMEC-905)

1986年に引き渡され、現在も現役のカッターです。

排水量1,800トン、全長82 m、海保に「くにがみ」型巡視艇というのがありますが、
ちょうどこれと同じくらいのサイズかもしれません。


アメリカの沿岸警備隊の重要な任務には、不法入国者の送還というのがあります。

この「スペンサー」もキューバから流れ込んだハイチ人を大量に送り返したことがあります。
その200人余りのハイチ人たちがボートで漂流していたのを発見し、
保護したのも、ほかでもない、沿岸警備隊のカッターでした。

そして、もう一つの重要な任務が、麻薬船の摘発です。

「スペンサー」は一度は大量のマリファナ、一度は大量のコカインを積んだ船を拿捕し
これを押収するという戦功?をあげています。



続きます。


 


コーストガード・アカデミー(米国沿岸警備隊士官学校)

2016-07-13 | アメリカ

原子力潜水艦「ノーチラス」に行く道をグーグルマップで見ていて、
ふとニューロンドンのテムズ川沿い、潜水艦基地のほぼ対岸に
コーストガード・アカデミーがあるのに気付きました。

コーストガード、すなわち沿岸警備隊の士官養成学校です。

沿岸警備隊はアメリカにおける「第五の軍」という位置付けであり、
ちゃんと軍組織としての系統によって成り立っています。
ただし、この「第五」という意味は「準軍事組織」を意味するものでもあります。

アメリカという国が「うまい」と思うのは、沿岸警備隊だからと言って
何処かの国のように別の階級を作ったりせず、陸海空海兵隊と全く同じように
士官の階級もアドミラルから始まって准士官以上は大統領名で任命されることです。
第五の軍でも軍組織と同様に国が扱うことは、その団体の士気と誇りにつながります。

まあ、国のために命をかけることが存在意義である自国の軍組織に向かって、


「うちが政権とったら憲法違反のおめーらは廃止するけど災害の時には当分利用する」

と言い放つ党首がいるような何処かの国だけがきっと異常なのでしょうけど。

恣意さん(仮名)は、こんなことまで政治家から言われる自衛官、自衛隊員たちの
士気とかプライドについて、一度でも思いを巡らせたことがあるのでしょうか。
 



さて、さらにコーストガードアカデミーのところに「コーストガードアカデミーミュージアム」

という表示を目ざとく見つけたわたしは、さっそくHPを探してみました。 

すると、学校の中にあるその博物館は、一般に公開されているけれど、外国人は

前もって見学を電話でキュレーターに申し込んでください、とあります。

電話をするとジェニファーというキュレーターの女性は、メールで連絡を取るようにいい、
そこで翌日の見学を申し込むと、

「 明日は”ニュー・カデット”が午前中見学に来て忙しいので、
明後日の方がいいかもしれない」

ニュー・カデット、つまり新士官候補生のことですね。
今はまだ入学時期ではないはずなので、9月に入学してくる
未来の士官候補生たちがオリエーテーションでも行うのだろうか、と思ったら、
あとでHPを見ると、よりによってこの日は、2020年クラス、
つまり今年入学の学生だけでなく、彼らの友人や家族が学校を見に来る、
オープンキャンパスのような特別な日だったみたいです。

そこでわたしたちは、先に潜水艦博物館を見学したというわけです。

開けて次の日、わたしたちは昨日と同じ道を通ってニューロンドンに向かい、
テムズ川の川向かいにあるコーストガードアカデミーに到着しました。
対応してくれたジェニファーさんとの待ち合わせは10時半。
コーストガードでも海軍5分前というのがあるのかどうかは知りませんが、
ナーバル関係であれば時間厳守は基本、待ち合わせているのに遅刻は絶対になりません。



「国旗が見えてきた」

「いよいよですなあ」

一応交通事情で遅れるかもしれない、とは言っておきましたが、
実際にはこの門の前に着いたのは10時20分でした。



おおここが間違いなくコーストガードアカデミー。
1876年、マサチューセッツのベッドフォード設立されたときには

Revenue Cutter Service School of Instruction 

という名前でした。
Revenueというのは” 税収”という意味がありますが、どういうことかというと、
もともと沿岸警備隊が税務省の傘下にあった、

United States Revenue Cutter Service」(税関『艇』局)

という組織であったからです。

で、この"revenue"、「税収」がなんでコーストガードの最初の名前についていたかです。


アメリカは独立戦争後、大変脆弱な状態でした。

独立の燃えるような興奮は、いきなり冷たい現実に直面します。
建国の父も空っぽの歳費で政府を創建せねばなりませんでした。
それどころか戦争で70万ドルの借金が残っています。

政治的独立を確保するためには財政的な独立をせねばなりませんが、
駆け出しのアメリカ経済は途方もないプレッシャー下にありました。
頼みの綱の植民地経済も、
商船が弱体化してしまっているので動きません。
さらには生産業もまだ未熟で、国内には輸入品ばかりが溢れている状態でした。


ここで登場するのがアレキサンダー・ハミルトンという財務省の長官。
日本人には馴染みがありませんが、アメリカ人なら誰でも知っているの建国の父の一人で、
この時期の経済を立て直し、憲法を実際に起草した人です。

この人の考えた大胆な経済政策とは、外国とアメリカの商品、
そして船舶に関税とトン数による税金を掛けて税収にすることでした。
つまりこれによって税収と国内産業の保護を一気に推し進めようとしたのです。

そこでハミルトンは議会に10のカッターを購入することを要求し、その乗員である、
80人の成人男性と20人の子供(!)からなる艦隊に関税と税金をかけました。

このカッター艦隊には名前がなく、

「The cutters」「revenue cutters」
「system of cutters」「revenue marine」

などと呼ばれていましたが、
1863年に正式に

「Revenue Cutter Service」

という名称になったというわけです。


その3年後には専門の乗員を養成する学校が生まれたのですが、それが

「Revenue Cutter Service School of Instruction」


という名前になった、ということなんですね。


つまり「税の徴収が目的で作られた船」という意味だったということになります。


さて、そしてゲートに到着したわたしの運転する車。
ジェニファーからは、


「正門を入るときにミュージアムに来た、と言わないと入れてくれないから」

と言われていたので、ドキドキしながらチェックを受けます。
前もって言われていたので、パスポート持参で来たわけですが、
免許証を見せてください、と言われてわたしが国際免許を見せると、

こんなんじゃなくて、あなたの国の免許証」

と言われました。

・・・・・デジャブかな?

最近全く同じやり取りを、川の向こうで24時間以内にした覚えがあるなあ。
それなら懲りもせず役立たずの国際免許をなぜ見せたし、という説もありますが。

二人の警衛がいましたが、国際免許の代わりに国内免許を渡すと、
受け取った方がもう一人に

「チャイニーズキャラクターで書かれてあっても読めんわw」

と小さな声でぼやいていました。
ごめんよ役立たずの免許証で。

二人ともパスポートを見せ、同盟国から来た観光客であることを無事証明すると、
通路に沿って突き当たりまで車で行くように指示されました。

「案外緩い感じだね」

「まあ、学校組織だし

言いながら、ゆっくりと校内を車で進んでいきます。



なんて優雅な渡り廊下なんでしょうか。
風格があってエレガント。

まるで古い大学か図書館のようですが、軍関係の教育機関なので
ところどころに古い銃が飾ってあったりします。



中庭を通して向こうには学生舎らしい窓のたくさんある建物が。
幾つかの窓は開いているので、どうも中に誰かいるようです。


ちなみに今の学校名ですが、1914年に、「Revenue Cutter Service School of Instruction」
から「Revenue Cutter academy」となり、翌年に、「救命部隊」と合併して
「コーストガード・アカデミー」になり現在に至ります。

 ようやくここで「Revenue Cutter」の名前から逃れられた?というわけですね。



進んでいくと、なんと、カデットたちが訓練中だ!

、訓練してるよ〜!写真!写真撮りたい〜!」

あせっておろおろするわたし。
たった今車を止めてデジカメを望遠レンズつけたNikon1に持ち替えたい、
そしてアップにしてカデットを撮りまくりたい、とこの瞬間どれだけ切望したことか。

しかし、一応軍学校の訓練を車を停めて見たり、望遠レンズで写真を撮っていたら、
しかもそれが怪しい東洋人だったりしたら、どこからともなく怖い人がやってきて、


ちょっとこちらへ・・・」

と別室に連れて行かれてあれこれ尋問されるのではないか、
という懸念がふりはらえず、結局はのろのろと車を動かしながら
デジカメで一枚写真を撮るのが限界でした。

後で考えたら、別に車を止めるくらいは良かったんだろうなあ。



20人くらいが小隊となって、順番に訓練を行っている模様。



アップしてみる。
ネイビー一色の作業服、これはいいものですねえ。

遠目に見ても女性が混じっているのがわかります。

ちなみに、現在のコーストガードアカデミーの校長は
メリッサ・リベラ大佐というヒスパニック系の女性です。

もともと5人から10人が1クラスであったという士官学校ですから、
いまでもそんなにたくさんの学生がいるわけではないようです。
食堂のおばちゃんが毎日全員にクッキーを焼けるくらいしかいない、
と何処かで読んだ気がしますが、学生7人に対して教師は一人、
1クラスが14人というのがいまの平均値だということです。

防衛大学校のように、ここでも隊の制度が取られていて、
アルファ、ブラボー、チャーリー、デルタ、フォックストロット、
ゴルフ、ホテルという「カンパニー」に分けられるということです。

わたしなら「ゴルフ」とか「ホテル」に配属されたら少しがっかりするかもしれない。



こちら銃を持ったまま「休め」の人たち。
二人の「教官」が彼らの姿勢をチェックしています。



突き当たりまで行け、と言われても、広すぎてどこが突き当たりかわからないんですが。
とにかく駐車場らしきところに来たので車を停めて降りてみました。

浮灯台みたいなのが飾ってあります。
鐘らしきものに「 USL」と「1936」という文字が刻印してあります。



日本で何処かを訪問するという話になると、必ず駐車場の確保を申請したり、
車のナンバーや車種を申告したりという面倒な話になるものですが、
アメリカのありがたいところは都市部以外基本車の駐車にお金がいらないことです。

まあ、どこにいっても土地が余るほどあるからですね。

これなら、士官候補生も自分の車を置いておけるのではないかと思われます。



これもわからないけどきっと船に関係ある灯に違いない。


 
米国沿岸警備隊士官学校、と書かれた建物。
ここに博物館があるにちがいない!と見当をつけ、入っていくことにしました。 

時に時間10時25分。
きっかり海軍5分前に現場に到着したわたしたちです。

さて、ここではどんな体験が待っているのでしょうか。


続く。




 


ボストン雑感〜トランプとテスラと金太郎飴パン

2016-07-12 | アメリカ

ボストンについてからテレビなどで見たものを中心に雑談します。
今アメリカは例の警察官が黒人男性を射殺した事件と、ヒラリー対トランプの
大統領選一色(二色か)で、空港の爆破事件やバングラデシュの人質事件も
もちろん報じますが、特にCNNなどは朝から晩までこの問題だけを報じている感があります。

先日のトランプの演説ですが、相変わらずのトランプ節でした。

Mosquito Interrupts Donald Trump Rally! Funny


散々「蚊がいるよ、いやだねえ」と言ったあと、

"Okay, speaking of mosquitoes. Hello, Hillary, how are you doing?” 

何が面白いのかと日本人は思ってしまうわけですが、これが大受け。

ヒラリーはずっと独走状態でキワモノのトランプ相手にならず、という感じでしたが
メール問題(国務長官時代、公務に私的なアカウントを使っていた)が

すでに失速のきっかけになっているという説もあるし、ファーストレディ時代の
「ホワイトウォーター疑惑」が尾を引いているといいますし、どうなるんでしょうね。


もちろん日本にとって誰がアメリカの大統領になるかは大きな問題ですが、とはいえ、
自分の国じゃないので、所詮他人事感でわくわくしている自分がいます。



グレード8、というのは日本の中学校2年にあたりますが、
大小がトランプの喋り方を真似ている様子をご覧ください。

 Donald Trump and Little Donald (8th Grade Impressionist)

悲しいのは、彼らのどちらよりも本物の髪の毛の方がずっと前衛的なことでしょう。



さて、ボストンでいつも行くモールに行ってみたら、
去年はなかったテスラのショールームができていました。
こじはボストン郊外のリッチな層に向けて、唯一モールの中に
ヴィトンやボッテガ、グッチなどの店があり、ニーマンマーカスがあり、
アップルもついでにウィンドウズもあるという、ハイエンド仕様ですが、
やはりテスラはそういう層にアピールしているのですね。



西海岸では日本のメルセデス並みに増えてきたテスラ。
東海岸では去年一台も見ませんでしたが、今年は2台に遭遇しました。
一台はモールの駐車場で、ガルウィングのドアを開けて家族が乗り込んでいるところでしたが、
あまり人のことをジロジロ見ないアメリカ人も、この光景には興味深そうに見いっていました。



テスラは(テス、と書いている)自動運転システムを採用しているのが売りです。
この5月、アメリカではその自動運転システムが原因かと言われる事故が発生しています。



事故車は前方で交差点を左折しようとしていた大型トレーラーに突っ込んだそうです。
後方の空が明るく光っていて、白い色をしたトレーラーの側面を自動運転機能が認識せず、
ドライバーもそのとき前方を注意していなかったため、ノーブレーキのまま

トレーラーの車体の下に滑り込む形でクラッシュしたそうです。



オーナーはテスラの自動運転をする様子をYouTubeにあげていました。
彼は車を「テッシー」と呼び、子供が玩具を自慢するように無邪気にテスラを賞賛しています。
彼はテクノロジーコンサルタント会社の社長で、決して技術に無知な層ではありませんでした。



手をあげてもほら、大丈夫、とやったり、横から入ってきた他の車を感知して
車の自動ブレーキが作動する様子などが助手席から撮影されています。




テスラモータースは、13億マイルの実績で初めての死亡事故だとして、

「自動運転だからといって、ドライバーはよそ見をしながら運転していいわけではない」

割り込んできたトレーラーに責任があるのはもちろんのこと、
それを機能が感知できなかったとしても、ドライバーが安全監視をしていれば
事故は起こらなかった、(つまり当社には責任はない)という立場を取っているようです。

ちなみにわたしの愛車は、オートクルーズ機能作動中、前方に車がいる時には
一定の車間距離を取りながら走ってくれ、前方が急停止すれば
急ブレーキを踏んで制御してくれるというものなのですが、わたしは必ず
これを高速走行で使用している時にも、前方を必ず注視してブレーキに足を置いています。

ここでも一度書きましたが、機械任せの機能には、今回の死亡事故のように
人間には読めない状況でのアクシデントが起こる可能性があると思っているからです。



テスラのオートドライブ機能も、車に乗ったら寝ていればいいというものではなく、
むしろ安全監視を人間が行うことが大前提なのだとわたしは思います。

現場の状況によると、死亡したオーナーはDVDを見ていたという話もあります。



日本でこの事故が報じられたとき、インターネットではテスラの声明を
言い訳だとか責任逃れだとか非難する声もあったようですが、今日のニュースによると、
事故車はに搭載されていたのは「高度運転支援システム(ADAS)」という機能にすぎず、
走行中のハンドルや速度の調整は自動で行うが、安全確認を継続することが必要だった、
ということなので、やはり事故原因はドライバーにあるということになりそうです。

NHTSAの区分では、運転中の主要な動作を行うレベルが設けられていますが、
事故を起こしたテスラは下から2番目の「レベル2」に区分されます、
前の車への衝突を回避する
「クルーズ・コントロール」と、車線の外に出ていかないようにする
「レーン・センタリング」機能が付いていただけ、ということなのです。



ちなみにこの区分でいうと、わたしの車は「レベル1」ということになります。
渋滞の時など本当に助かっていますし、走行中取る車間距離が広いのも安心。
高速で後ろから「前を空けるな」という意味不明のクラクションを鳴らされたことが
一度あったり(−_−#)時々前に割り込まれたりされますが、有用な機能だと思っています。



「バトルシップコーブ」に戦艦「マサチューセッツ」を見に行ったとき、
ナビの指示を無視して乗ってしまったら()高速沿いにこんなものが!

おおお!なんだなんだ、マサチューセッツにはこんなところに原子炉があるのか?
と思って調べてみたら、これはサマセットのブレイトンポイントに
わずか3年前にできたばかりの石炭火力発電所だったことがわかりました。



戦艦「マサチューセッツ」に乗ったとき、甲板から撮ってみたプラント。
この糸巻きみたいなのは正確には冷却塔らしいですね。
ニューイングランドにはいくつかの(10くらい?)火力発電所がありますが、
ここのは最大級で、マサチューセッツ州の電気の5分の1をここでまかなえるそうです。

この部分をグーグルマップでみると、写真には稼働前の蓋をした状態が映っていますが、
地図に戻すと、まだ埋め立て前の海のままです。
グーグル、仕事しろ。 

 

さて、突然ですが、テスラのショールームがあるモールには、
なんとアメリカには珍しく、スタインウェイも扱っているピアノ屋さんがあります。

3年くらい前にできたのですが、今年ボストン入りした時に店に入って行って、

レッスンなどが入っていないときの練習室を借りられないか聞いてみました。
日本なら絶対に無理ですが、アメリカは責任者がいいといえば
貸してくれることが多く、ここでもボストンピアノ(地元のピアノメーカー)
の入っている練習室を滞在中毎日朝に借りられることになりました。

昔は楽譜の入ったCDを持っていったものですが、今はiPadにいくらでも
練習したい曲をダウンロードして持ち歩くことができます。



音符やピアノの鍵盤がモチーフのグッズも扱っているので、
記念に鍵盤模様のブレスレットを買いました。



さて、このモールには、アニメや映画のキャラクターグッズ専門店があります。
冷やかしで一度行ってみたのですが、そのときにTOがこんな本を勝手に買いました。

「Men & Cats」という誰得企画本です。



「猫好き」「いい男好き」「ネタ好き」の全てに媚びを売る企画。



すごい筋肉ともふもふの競演。

 

いったい誰をターゲットにしてるのか・・・・。
と言いながらまんまと買ってしまった(わたしじゃないけど)わけだが。



次にほのぼのニュースを。

日本人が見たら「なんだ、珍しくもない金太郎飴パンじゃん」ということ間違いなし。

なんとアメリカではこれしきのことがニュースになっているのです。

金太郎飴の原型である元禄飴はその名の通り元禄時代からあり、
しかも、このしょぼいパンくらいで驚いているアメリカ人には悪いけど、
画像検索すれば、クックパッドですらもっとできのいいパンを
素人の奥さんたちが作ってしまってるんですわ。

金太郎飴パン 画像検索

アメリカの「インチキジャパニーズ」レストランのシェフは、インターネットで
クックパッドとかのレシピを自動翻訳して盗んでいるときいたことがありますが、
このパン屋さんもクックパッドからこのレシピを盗ったのではないだろうか(確信)



えーと、もしかしてハローキティのつもりかな?

ところで、そのニュースの下にさりげなく、

「高校生が学校の外で銃に撃たれて死んだ」

というニュースが・・・。
もう珍しくもなくて日本ではあまりこの事件が報じられなかった気がしますが、
これは今世間を騒がしている警官の黒人銃殺事件、そのリベンジである
警官の銃撃事件が起こる前の話です。



ときを同じくして、車の運転席で検問を受けて、免許書を出そうとしたら
問答無用で4発も胸を撃たれて死亡した黒人男性の事件が起き、
ダラスで抗議する人々が警察と対峙しているときのニュース映像です。
このとき、字幕にもあるように、警官が狙撃されて5名死亡しています。

現在もCNNはこの件について次々と著名人のコメントを求め、
(ビヨンセがいたのには笑った)それをニュースにしています。

「お互いが憎み合う連鎖はやめよう」

といった感じでみんなわりと当たり前のことしかいってないみたいですが。

オバマ大統領は外遊を注視して急遽帰国し、対応に当たっていますが、
こういうときに大統領がアフリカ系なのは良かったかもしれない、と
わたしは子供が考えるようなことをつい思ってしまいました。
  


 


紐育の一日

2016-07-11 | アメリカ

今年ノーウォークに滞在したのは5日だけだったので、
ニューヨークに行けたのは一日だけでした。
やはり来たからにはミュージカルを観たいと思い、カードデスクに調べてもらって
次の日のマチネー(昼公演)で見られる演目を挙げてもらった中から、
今年選んだのは「レ・ミゼラブル」。

去年「シカゴ」を観てやはり英語の台詞の多いのはダメ、ということになり(笑)
曲が有名で筋を知っているものにしました。
調べていて知ったのですが、ブロードウェイで9月から「フローズン」(アナと雪の女王)
が始まるということです、やっぱりミュージカルでも「レリゴー」やるのかしら。



15号線を走っていると、まるでトースターのような
キャンピングカーを引っ張っている車発見。



ハドソンリバーに浮かぶ空母「イントレピッド」が見えたらそれが目印。
左に曲がってブリードウェイに向かってまっすぐ進んでいきます。

 The International Union of Operating Engineers (IUOE) 

のビルが横に見えてきました。



IUOEは全米の主に土木関係の技術者相互協会のようなもののようです。
技術者の派遣をしてトレーニングを行うということもやっています。

 

911で亡くなった関係者が4名おられたようですね。
「わたしたちは決して忘れない」と書かれています。
ニューヨークを歩いていると、ときどきこんな「911の痕跡」を目にします。 



車を運転しながら写真を撮っているのではなく、車が動かんのです(笑)
なぜかというと、それはニューヨークの通行人のせい。

信号が青になると横断歩道を渡る、それはよろしい。

黄色になる。渡るのをやめない。赤になる。まだ渡り始める。
車は進むと人を轢いてしまうので進めない。するとまた次が渡る。
って具合に、車は青になっても一向に動くことができません。

ニューヨーカーが信号を守らないのは世界的に有名ですが、
明らかに赤で車が来ているのに直前に飛び出してくる人もいて、
命知らずなのか車をなめているのか・・・。

歩くより遅い速度で進みやっとジャズライブハウス「バードランド」まで来ました。
手前に「牛角」があるのは知りませんでした。

で、次の問題が駐車場。
街中で車を止めることができるなんて最初から期待していないので、
最初から預かり式のパーキングに入れるのですが、これがもう、

「ニューヨークに行くのが嫌なのはあのパーキング」

という意見が二人で一致するくらい、全体的に従業員が荒々しくて荒んでいて態度が悪い。
チップはもらうのが当たり前、みたいな感じで感謝すらしないし、
最低レートが38ドルからなので、東京の都心より、つまり世界一高い。



去年「オペラ座の怪人」を見た「マジェスティック」まで来ました。
この先のパーキングに皆が入れようとするので待っている車が道にあふれ、
断られたので、もう少し先まで行ったら今度はガラガラでした。



車を降りて劇場まで歩きだしました。
「ライオンキング」がかかっているのは「ミンスコフ」という劇場で、
ここはセブンスアベニューと44thの交わるところです。



ニューヨークに来て道路工事を見なかったことがありません。
いつもどこかで地面を掘り返したり張り替えたりしています。
交通の邪魔にならないように夜中にやる、という考えは全くなさそうです。
 
 

世界の大都市の中でも、混沌としていることではナンバーワンのニューヨーク。
本当にニューヨークだけはアメリカのどこにもにていません。 

そして、ニューヨークに比べると、東京は良くも悪くも清潔だなと思います。




2時からのマチネーのために、とにかくお昼を食べようということになり、
考えている時間もなかったので、去年と同じフードコートで同じものを食べました。
このフードコートには、周辺の劇場の昼公演を観ようとする人が、
みんな同じように腹ごしらえしにくるので激混みで、
座るところを確保するのがとにかく大変でした。
サンドウィッチくらいなら立って食べてもいいんですが、ラーメンはねえ・・。

 

そして劇場に到着し席に着きました。
前日にお願いしたチケットですが、トラベルデスクのあるカード会社が
「専用席」を確保しているので、ぎりぎりでもいい席が取れるのです。
前から5列目の真ん中席でした。



袖の上に「桟敷席」がありますが、ここは実際は観にくいかもしれません。



去年の「オペラ座の怪人」では、冷房が効きすぎていて
冷え性のわたしはサンダルで行って大変つらい思いをしたため、
今年は靴下をバッグに忍ばせていました。

それほど冷房を効かせていなかったらしく寒いとは思いませんでしたが、
靴下のおかげで快適でした。(これから行かれる予定の方、ご参考に)

それから、前にどんな人が座るかも大きな問題です。

去年は、わたしたちの前に巨漢のお父さんお母さんと子供一人、
という家族が座り、わたしはお父さんの後ろだったのでTOと代わってもらったら、
前の子供はすぐに寝てしまったため広々と見ることができたのですが、
TOの前のお父さんは動かざること山の如しだったので結構辛いものがあったそうです。



上映前のスクリーンには「ビクトル・ユーゴー」のサイン入り絵が。



どこの劇場でも結構キャラの立ったジュース売りがいたりするものですが、
ここの人も、ジュースを高々と差し上げ、態度がやたらでかかったです。



待っている間iPadを開けてみたら、WiFiがフリーだったので
繋いでみると、「こんにちは ELLIS(仮名)」と出てきました。



「ああ無情」は、昔読んで知っているつもりでしたが、直前にwikiで(笑)
ストーリーを検索してみたら、随分覚えているのと違いました。
もしかしたら、児童用に簡単にしたものだったのかもしれません。

実はわたし、映画もみていないのですが、これを調べていて、
あの映画で本当にヒュー・ジャックマン、アン・ハサウェイ、 ラッセル・クロウが
吹き替えなしで歌っていたということを知ってショックを受けています。
みんなうますぎないかー?

Oscar 2013 -Les Miserables Live Performance- Entire cast


最後、拍手しているスティーブマーチンとトミーリージョーンズが映ってます。


このときのミュージカルですが、小さいときに話を読んで思った疑問を
もう一度思い出しました。

「脱走した囚人がなんで市長にまでなれたんだろう」

皆さんも不思議じゃありません?
このころの社会というのは今みたいに素性を明らかにされないので、
こういう成り上がりも可能だったってことなんでしょうかね。

それから、配役なんですが、コゼットと結ばれるマリウスに思いを寄せる
テナルディエの娘、エポニーヌがアフリカ系なんですよ。

いや、別にアフリカ系でもいいんです。すこしイメージは違いますが。
でも、テナルディエ夫妻が白人ですよ?
で、子役のときのエポニーヌは白人の女の子なんですよ?

どうして大きくなったら黒人になってるの?

ミュージカルにも一定数黒人を使わなければいけないみたいな掟があるのか
そこのところはよくわかりませんが、これはやめてほしかったなあ。
彼女はうまかったんですけど、とにかく「見た目が違う」という感じ。

さきほどの「ライオンキング」は、ここぞという感じでほぼ全員が
アフリカ系のミュージカル俳優を使っているらしいですし、「シカゴ」も
まあすこし不自然ではあるけど主人公が黒人(うまかった)でした。
黒人キャストでもおかしくない舞台が他にいくらでもあるのだから、少なくとも
1800年代、王政復古時代のフランスが舞台の話にねじ込まなくても・・。

なんか、「海外からの招聘歌手」としてチビデブの韓国人歌手を
よりにもよって「椿姫」のアルフレードにねじ込んだ「金返せオペラ」思い出しました。

新国立劇場の2011年2月17日公演、おめーのことだ!



演劇が終わると、今まで壁だと思っていた部分も全部外につながっていて、
迅速な客の追い出しにかかる劇場でした。

で、外に出てみると、車道にまではみ出す人垣ができています。
たった今演出していたミュージカルスターが、もう着替えて外に出、
ファンサービスのサイン会を行っていたのでした。



で、この野球帽を後ろ前にかぶったにいちゃんが誰かというと、
コゼットの恋人役のマリウスを演じた人。
昔読んだ小説でも印象的だったのは、地下道を延々とジャン・バルジャンが
「娘が愛している憎い男」であるマリウスを背負って歩くシーンでした。

上手い人ぞろいの配役中ジャン・バルジャンを演じた人の歌唱力は素晴らしく、
ファルセットの美しさに思わず涙が滲んでくるほどでしたが、
マリウス役のこの人の声は若干金属的で深みがなかったかな。
テクニックはあるのだし、若いから頑張ってください、っていう感じ。

しかし、ミュージカルの衣装ってあっという間に着替えられるうえ、
男の人はお化粧とかしないみたいですね。



さて、いつも、ミュージカルが終わって車に乗ると、大変な渋滞で
そもそもニューヨーク市内を出ることもままならないので、今年は
ブルックリンで買い物をして時間を潰し、渋滞が無くなってから帰ることにしました。



バットマンとか、いわゆるアメコミヒーローたちがいました。
ニューヨークはこんな人たちがいてもあまり皆立ち止まったりしません。
さっき、グーグルマップを見ていたら、横断歩道をサンタクロースとシカのカップルが
歩いていましたが、周りは全く気にしている様子はないので笑いました。



車を(また嫌な思いをしつつ)取りに行って、チャイナタウンを抜け、
マンハッタン橋を渡ります。



ブルックリンに渡るのには有名なブルックリン・ブリッジとこの橋がありますが、
車のナビはこちらを案内しました。
この時間ブルックリン橋は混むのかもしれません。



ブルックリンのスターバックスで飲み物を買いました。
ここに、ニーマン・マーカスの「ラストコール」というアウトレットがあるので、
一度来てみたかったのですが、わたしは収穫なし。

ラックにBrunello Cucinelliのカシミヤカーディガンがあったのでいいなあ、
と思って着てみるとやたら大きくて、ボタンが逆についているので、

「これ男物だから着てみたら」

とTOに着せてみたらぴったりで気に入ったのでお買い上げしました。
なんと、最終値段は元の値段の4分の1以下になっていました。

ところで、ブルックリンのスターバックスはスタッフも客もほとんどがアフリカ系。
外を歩いている人もほとんどがアフリカ系。
ニーマンマーカスで一生懸命はたらいていた男性もアフリカ系で、
やる気なさそうに働いていた太った若い女性もアフリカ系でした。

 

晩御飯を食べて帰ることにし、「メゾンカイザー」のカフェに入りました。 

金夜だというのにわたしたちしかいないのは、このあたりの黒人の皆さんには
晩御飯にフレンチカフェに行こうという人がいないからでしょうか。



朝食用のバケットを買ったら、おまけにパンをつけてくれました。



カフェを出て駐車場(こちらは預かり式ではない公営のパーキング)に
戻るとき、近辺の建物の中でも取り分け立派なこの建築物に目を止めました。
金曜の夜だというのにまだ二階にも電気が付いています。



歴史的建築物として保存されている「ブルックリン・バーローホール」で、
キューポラに天秤と剣を持っている「正義の女神」が立っています。
今はガバメント・センターとして使用されているそうです。



ブルックリンを離れる橋もう一度渡りながら夕焼けに沈むマンハッタンを撮ってみました。

さようなら、ニューヨーク。

次は来年の夏かな。




 


ボストン到着(ヒューストンの悲劇)

2016-06-28 | アメリカ

今年もまたアメリカにやってきました。
というわけで恒例、ボストン到着とその次の日の話をします。



今回のフライトはヒューストン経由ボストン行き。
あれだけトランジットで何度もトラブルに見舞われ、ここしばらく直行便で
心安らかな旅をしていたというのに、今回乗り継ぎ便での渡米となったのは
いろいろ時間とかお財布の事情があったようです。

(わたしが決めたのではないので)

搭乗口に向かう途中で、ANAのスターウォーズペイント機を目撃。
これは新しいスターウォーズですっかり人気者のBB-8(丸いやつ)仕様。

国際線では成田ーロスアンジェルスを手始めに、国内線では羽田ー伊丹にも就航。
スターウォーズペイントの機体がロスアンジェルスに初めて飛んだとき、
ハリソンフォードと一緒に写真を撮っていたのをご存知の方もいるでしょうか。



反対側にはウズベキスタン航空の飛行機。
レアな気がして写真を撮ってみました。



座席はJALがコクーンだとしたらこちらは「仕切り」式。
一つのコンパートメントはあくまでも四角です。
左側のスペースは全て物置きに使え、椅子だけのスペースで
置き場所に困った色々なものがここに置けました。



スクリーンの下に引き出し式のテーブルが収納されており、
USBのジャックがあって電源を取ることも可。
15分までは無料で、時間に応じて有料ですがWiFiサービスもあります。

テーブルの下には、足を入れるようになっていて、シートを動かして
この部分と合わせてベッドになります。
これのもう少し原始的?な仕組みがシンガポールエアの座席でした。



隣の人の顔は覗きこまなければ見えません。
完璧に「個室」といった感じで、狭いところの好きな人にはたまらんタイプ(笑)

大変居心地はいいのですが、ただ、ベッド幅がコンパートメントの割に細く、
まっすぐ寝たときに両手が外に落ちるのです。マジで。
別に手を広げたいわけではありませんが、わたしでこれなのだから、
大柄な人は結構窮屈な思いをするんだろうなと思いました。

シートがフルフラットにならないので、ここまでやっておいてそれがないとは、
と思いながら我慢して寝たのですが(でも寝られなかった)
後から聞いたら、リクライニングとは全く別にフルフラットのスイッチがあったそうです。

ANAのフライトアテンダントは、JALほど慇懃丁寧すぎるということはなく、
そうするように言われているのか、どこに行くのか、目的は何か、
などととにこやかに話しかけてきましたが、移動には皆いろんな事情があるので、
こういうのをサービスのつもりでやっているなら考えものだと思いました。



ところが食事、これが意外なくらい美味しかったです。
記憶に残る去年の鶴丸航空の食事は、レンコンを食べたら
なぜかビリビリと舌がしびれて舌痛症か?と思ったくらいで、
その他も全体的になんだかなあな感じだったのですが、今年は
メインのローストビーフが硬かった以外はほぼ大満足でした。



特にこの枝豆入りご飯の炊き加減はよろしかったです。



さて、飛行機はあっという間にヒューストン上空に。
郊外は信じられないくらい広い農地の所々に所有者の家が見えています。
飛行機で農薬を撒き、隣の家が何キロ先にある、というレベル。



この辺りの一般的な?農家。
道から家にたどり着くドライブウェイだけでも1キロくらいありそうです。
そして家の大きいこと!



こちら家の前に噴水などあって少し豪華な一軒家。
バックヤードにある倉庫だけでも体育館くらいありそうです。



ヒューストン空港の周辺には「ヒューストン湖」というのがありますが、
これがなんと驚いたことに水の供給を目的に川をせき止めて作った人工湖なんですね。
地形を生かして巨大な湖を作ってしまう、さすがはアメリカです。

で、この湖がそのせいなのか上空から見ると土色。
まだできてから65年というものなので、そんなものなのでしょうか。



この地域は敷地はともかくとんでもない豪邸だらけです。
ベッドルームが10とか普通にありそう。



無事着陸、空港に到着。
この日のテキサス州ヒューストンはむちゃくちゃ暑かったそうです。

この空港が「ジョージ・ブッシュ・インターナショナル」ということを
初めて知りました。

それにしてもトランジットを、こんな田舎の(つまりやたら広い)空港で、
というと、わたしは何年か前の「ダラスの熱い日」を思い出してしまいます。

1時間しかトランジットの時間がないのに、同時に東欧のややこしそうな国の
飛行機とイミグレが一緒になって、おまけに英語ができない日本人の
入国審査に一瞬とはいえ立ち会わされて遅れそうになったこともありましたし、
ある時は無作為抽出の
トランク検査によりによって捕まってしまって、
今度は本当に乗り遅れたという悲しい思ひ出。


今回はわたしは予約に全く関わらなかったのですが、もしヒューストンという
田舎の空港で、乗り換えに1時間半しかないと知ったら、絶対、

「それ間に合わないって」

と言っていたと思います。
(せめて出発前になぜチェックしなかったのかという話もありますが)


しかし、手配を任せたカード会社のトラベルデスクのいいわけによると、
彼らは空港の「ミニマム・トランジットタイム」が1時間というのを真に受けて、
1時間半しか乗り継ぎ時間のない便をアサインしていたことがわかりました。

飛行機を降りてイミグレに並ぶと、幸い到着便は我々の飛行機だけでしたが、
なんとESTA持ちの日本人に対して3つしか係員がお仕事してないのよ。

「なんか嫌な予感がする・・・」

と並びだしてつぶやいたのですが、案の定、どれだけ人が待っていようが
俺たちは俺たちのペースでやらせてもらうZE!
な入国審査官たちのまったりした仕事のおかげで、列は遅々として進まず。
で、結果としてはまたもやだだっぴろい空港を搭乗口までダッシュすることになり、
(MBTの靴を履いてきていて良かったと心から思った瞬間)
たどり着いてみれば、飛行機はなぜか20分前に出発していました。

直前にフライト時間が早くなったって、そんなのってあり?
窓口の、これは仕事のできそうな、迫力のある黒人のおばちゃんは

「これからは搭乗前にHPをチェックしとくことね」

なんていうんですが、これ、直前に時間変更されてしまったら、
トランジットできないことがわかっても飛行機変えられないよね?
というか、搭乗時間を勝手に1時間も早くするなっての(−_−#)



というわけで、次の便にファーストの空きがなく、
コーチ(エコノミー)でボストンに行く羽目になったわたしたちです。

全く後ろに倒れないのはもちろん、座高が低いわたしには、
ネックレストが
ちょうど頭の上に来る硬いシート、
しかも非常口が横にあり、搭乗前に、白髪をバサバサのおかっぱにした
怖いFAのおばちゃんに

「何かあったら非常口を開けて皆を脱出させる作業をしますか?」

と一人ずつ聞かれて「イエス」と言わされるという罰ゲーム付き。
座っているだけでお尻が痛くなるし、前に座ったヒスパニック系の女性は



時々自分の髪の毛をかきあげ跳ね上げ、こんな風に背もたれにかけるんだよ。



怖い(笑)

ボーイフレンドと一緒だったので、これが彼女の考えるところの
「彼もドッキリなセクシーな仕草」ってやつだったんだと思います。

さて、こんな状態でお尻の痛いのと戦いつつボストン到着。




以前からボストンでは必ず後半に止まっていたホテルが、
今回はリノベーションされてとてもきれいになっていました。



西海岸の同じホテルチェーンと同じ、大きなパソコンデスクを入れたので、
三人までなら同時にPCの作業ができます。



この日は買い物をして、夜普通の時間に寝ました。
次の朝はちゃんと7時前に起き、これですっかり時差ぼけ解消!と思いましたが、
きっちり全員夕方に眠気に勝てず沈没してしまい、夜中に目が覚めたので、
結局時差ぼけが解消したのは、数日後のことだったと言われています。








リチャード・バード少将と「ハイジャンプ作戦」

2016-06-10 | アメリカ

空母「ホーネット」博物館にあった「フィリピン・シー」コーナーに
展示してあった「BABYSAN」というカートゥーンについて調べたら
それに一項を費やしてしまい、またしても今回、「フィリピン・シー」を
描こうとして、「フィリピン・シー」が参加した「ハイジャンプ作戦」
の司令官リチャード・バード少将のドレスジャケット姿を見つけてしまったので、
すべての予定を変更してバード少将の少佐時代の絵を描いてしまいました。
右上の星二つは、最終的にリア・アドミラルであったことを表します。

Richard Byrdで画像検索すると、エスキモーのようなフードを被った
バード少将の写真が出てくるかと思います。


バードが少佐の時に指揮した「ハイジャンプ作戦」とは、終戦後、

海軍によって行われた南極探検作戦です。
なぜ海軍がこんなことをしたのか、もしかしたら日本との戦争が終わって、
することがなく、次なる敵のソ連が台頭してくるまで「自分探し」でもしていたのか、
と穿ったことをつい考えてしまうのですが、それはともかく、
この作戦、調べれば調べるほど結構大変なものだったことがわかりました。 

アムンゼンと南極到達を争ったスコットがイギリス海軍中尉であり、
我が日本の白瀬矗が陸軍輜重中尉だったように、極地探検には多くの
陸海軍人が名前を残しており、だからこそこの頃アメリカ海軍は、
このような作戦を行うことにしたのでしょうか。

しかも、このときのアメリカ海軍は、不確かな情報ながら
とんでもないことをやらかしていたという噂さえありましたよ。



wiki的にいうと、ハイジャンプ作戦は、アメリカ海軍が1946年から
1年にわたって行った南極観測「作戦」でした。
目的は、

恒久基地建設の調査

合衆国のプレゼンスの提示

寒冷地における人員・機材の動作状況の確認・技術研究

ということになっています。

参加艦艇は13隻の艦船と多数の航空機。
バード少佐は、このうち空母「フィリピン・シー」に座乗して

その全体指揮を執りました。
「フィリピン・シー」は単艦行動を行い、航空機輸送が任務です。

ここで(本来本題の)「フィリピン・シー」について少し。



空母「ホーネット」の「フィリピン・シー」コーナーにあった巨大な模型。


 
ふざけたセイラーもいますが、これはご愛嬌。
ってかアス比が全く違うっつの。



94飛行隊(戦闘機)は、ヴォートF4U-4コルセアの部隊で、1952年まで
「フィリピン・シー」の艦載戦闘部隊でしたが、
この後戦闘機を「パンサー」に変えられています。

しかしこの白い軍服を着ていると皆男前に見えるねえ。

ところでこの写真を見て気付くのは、アメリカ海軍の「正しい椅子の座り方」

というのは自衛隊とは全く違うということです。
皆一様に脚を足首でクロスし、手は揃えて膝の真ん中(というか股間?)
に、左手を上にして置く。

偶然でなければ、これは米海軍で公式に決まっているポーズらしいのです。

海上自衛隊は(陸空もね)脚は少し開いて爪先は真っ直ぐ前方に向け、
両手は拳にして各々の膝の上に軽く乗せるというのが正しい姿勢です。
(今まで観察してきたところによると)
日本人的にはこの写真のような座り方ってなんだかお行儀悪く見えますね。



機体の穴からこんにちは。



とふざけられるような事故ならいいんですが、こりゃやばい。
その「パンサー」、F9Fで、派手にネットを突き破った事故例。
スペックでは劣っていたこのパンサーを、腕利きのパイロットが
MiGを撃墜するくらい使いこなしていたというのはたいへんご立派ですが、
やはり着艦にはこのようなことも多々あったようです。

アメリカ海軍は、空母の離着艦で今日のように事故がなくなるまで、
それこそ数知れない犠牲の上にその技術を積み重ねてきました。

今日の事故率になるまで、米軍はそれこそ40年以上を費やし、

文字通り搭乗員の亡骸を超えてここまでやってきたわけです。
そのことひとつ取っても、昨日今日そういうことをやりだしたばかりの中国海軍には
これだけの技術の昇華の前には後塵を拝すどころか後ろ姿を見ることもできまい、
先日ある元海幕長がおっしゃっていましたが、まったくもってその通りだと思います。

この写真の状況は、ネットを越してしまっているので、
アレスティングワイヤーが利かない状態のままネットを張るも失敗したようです。
パイロットが無傷だったのはなによりです。


 
フライトデッキの一部が、製造板と一緒に飾ってありました。

さて、「ハイジャンプ作戦」の話に戻りましょう。

この作戦に際し、アメリカ海軍は東海岸(ノーフォーク)と

西海岸 (サンディエゴ)から、別々に部隊が出動しています。
南極における調査箇所も、それぞれ西南と東南、というように別を担当しました。
それだけでなく、「中央隊」というのまであって、また別の箇所を調査しています。

このうち、事故による殉職者を出したのは東部グループでした。

作戦中、USS「パイン・アイランド」から海上に降ろされたPBM飛行艇は、
航空写真を撮るために飛び立ちましたが、そのうちクルー8名を乗せた
「ジョージ・ワン」が雪上にクラッシュしてしまいます。

「ジョージ・ツー」が捜索に向かったとき、「ジョージ・ワン」の翼には、


「LOPEZ HENDERSIN WILLIAMS DEAD」

と三人のクルーがすでに死亡していることを知らせるメッセージがペイントされていました。
そのうち二人は墜落によって死亡したのではなく、凍死だったそうです。


このような殉職者を出したこの作戦でしたが、全体としては多数の航空機投入による
航空写真を一挙に撮ることによって、成功を見たとされています。

このときのバードが出した提言というのは、

「米国が南極からの敵対国の侵入の可能性に対する保護の措置をとるべきである。
現実として、次の戦争の場合には、南極や北極経由で攻撃される可能性がある。」

というものでした。
このミッションにおける観察と発見の最も重要な結果は、極地が、
米国の安全保障における潜在的な効果を持っているということです。

世界は驚異的なスピードで縮小しており、その距離によって
海洋、および両極は安全性を保証されていた時代は終わった、
という海軍軍人としての彼の警告だったのでしょうか。



バード少将は、海軍軍人でしたが、実際探検家としての活動の方が有名でした。

兵学校を出てから艦隊勤務をしていたバードは、第1次世界大戦までに
飛行機の操縦資格を取り、それだけでなく、ナビゲートシステムを
発明して、のち極地探検にそれを生かしています。

1926年には、北極上空をフォッカーで飛行するという試みにより
名誉勲章を得るとともに、国民的英雄にもなっています。
わたしが描いたのは、おそらくこのころのバード少佐でしょう。

このようにスマートでハンサムなネイビーパイロットが、前人未到の
冒険飛行を成功させたのですから、さぞかし国民は熱狂したと思われます。


もっとも、このときバードは北極点に到達していなかった(したと思ったが間違い)
という噂はその直後からあったようです。
同乗した飛行士が、この冒険からわずか数カ月後「実は北極点には達していない」

と告白し、後日それを翻すなど、その真実は闇に包まれたまま論争だけが残っています。

1927年、大西洋横断飛行に二回目の支援を行った後、彼は最初の南極探検を行います。
「ハイジャンプ作戦」のときが彼にとって最初の南極ではなかったってことですね。
このときと7年後の1934年には、彼は5ヶ月を南極でたった一人、越冬しています。
先ほどの「アローン」という自叙伝は、このときのことを回顧したものです。

このとき、バードは狭いところでストーブに当たり続けたため、
一酸化中毒を起こして混迷状態に陥るという事故に遭っています。

彼の無線の異常さに異変を察知したベースキャンプの隊員たちが、
心配してアドバンスキャンプに飛行機で迎えに行くという騒ぎになりました。
その救助隊の出動も第一次は失敗して、第二次救助隊がたどり着いたとき、
そこにはぐったりとしたバード少将が倒れていたということです。




ちなみにバードは史上最年少の41歳で少将となっています。


第二次世界大戦中はヨーロッパ戦線に赴いていたそうですが、
どういうわけか1945年9月2日の降伏調印のときは東京にいて、
ミズーリ艦上で行われた降伏調印式に立ち会ったりしています。


そして、もうひとつ不思議なことがあります。

「ハイジャンプ作戦」の10年後、すなわち、1955年に海軍は「ディープフリーズ作戦」
という南極観測隊を送り、その隊長にアメリカ海軍はバード少将を指名しているのです。


しかし、よく考えていただきたいのですが、これって少将の亡くなる直前ですよね。


いくらエキスパートでも、67歳の老人を南極探検の隊長にするか?


というのがまずわたしの疑問。
なぜこの作戦の隊長がバード少将でないといけなかったのでしょうか。

このときバードは1週間だけ南極で過ごすというミッションをこなしたそうですが、
そんな短期間の「作戦」でアメリカ海軍はいったい何をしようとしたのか?

ちなみに「ディープフリーズ作戦」の1年後、バード少将は亡くなりました。
南極に行かなければもう少し長生きできたのでは、とおもうのはわたしだけ?



さてさらに、ここで皆さんには眉に唾をつけて読んでいただきたいことがあります。

南極上空を飛行中に、原野や森林・河川が見られる地域に
マンモスのような動物が歩いているのをバード少将は目撃した」

さらには


「バード少将は作戦終了後海軍病院に入れられ、目撃した事実を
一切口外しない事を軍から誓約させられ、真実を一切語らずに没した」

などという、それなんてムー?
みたいな噂まで「ハイジャンプ作戦」にはまつわっているのです。

(それがもっともらしく書いてあるサイトは、ハイジャンプ作戦を
”北極点に行った”などと言っている時点でもう信憑性アウトだと思いますが)


そこであらためて、なんでこの時期アメリカは

南極に行かなければならなかったのか、という疑問がわいてきます。

米海軍は1958年頃(バード少将の死んだ年)、南極点に向けて
弾頭装備のICBMを海軍艦船から撃った、という噂もあり、南極探検は
実はこれをするための調査だった(だから1週間ですんだ)のでは、とか、
終戦直後に南極を偵察したのは、ナチスの秘密基地があるという情報もあり、
そのために、送り込むのが軍隊でなければならなかったともいわれています。

 いずれにしてもその理由は現在も明らかになっていませんし、表向きには
「ハイジャンプ作戦」は観測と対ソに備えた訓練ということになっています。




亡くなったとき、彼は多分自分でも覚えていないくらいの叙勲をされており、
メダルにその肖像が描かれる米海軍の4提督(サンプソン、デューイ、パーシング)
の一人であり、海軍軍人として彼に与えられた栄誉はそれは輝かしいものでした。

それにしては「アドミラル」なのにどうして死ぬまで少将だったのか、
史上最年少の41歳で少将になってから、なぜ一度も進級することがなかったのか、
死んでも階級がそれ以上上がらなかったのはなぜか。

これも不思議といえば不思議です。
(サンプソンも少将なのでは海軍的にはそういうこともあるのかもしれませんが) 


もしかしたらですが、この男前の少将が、「アメリカの闇」を
南極点の上に見てしまったという噂に関係しているのでしょうか。





 


ニューヘイブンの街角

2016-05-05 | アメリカ

去年の夏と随分前のことになりましたが、サマーキャンプで訪れた
アメリカ東部の大学街について、息抜きがてらお話しします。

 

キャンプはアメリカ東部名門大学、イエールのキャンパスで行われました。
アメリカの大学、特に名門と呼ばれる古い大学は広大なキャンパスを持ち、
大学の敷地がほとんど街3つ分くらいだったりするのですが、イエールも例外でなく、
この辺りには数百年を経た石積みの建築物が延々と続いています。

もちろん近代的設備を備えた最新式のビルも常に建築されており、
大学全体が新旧取り混ぜて渾然一体となっているのです。



何度か展示物についてお話しした、イエール大学の美術館。
建物そのものは「最後の巨匠」ルイス・カーンの最後の作品(1974)で、
細部も新しい設備ですが、古くからの部分も建物の一部としてちゃんと残されています。

これがロビーで、モダンな休憩用の椅子を配しているのですが、



同じ建物の窓はこの通り。
西半球で最も古い大学美術館で、こちらの建築は1832年です。



ガラスがかなり昔のものであることがお分かりいただけるでしょうか。
屈折率が高くて外が何も見えません。



創立当初からある螺旋階段の手すりが優美で美しい。



古代ヘレニズム文明の展示のある部分も当時のままなのですが、なんとここに
「この下にこの人が眠ってますよ」のプレートが。
フランスやイギリスの教会や聖堂などでは、建物の床やら壁やらに
棺を埋め込んでしまって「ここに誰々眠る」という碑を残したりします。
建物の中にご遺体をねえ、と日本人としては妙な気分なのですが、もっと微妙なのが、
皆が歩く床の下に棺を埋めてしまう風習。

ロンドンのセントポール大聖堂に行ったことのある方はご存知かもしれませんが、
あそこは観光客が歩く通路のそこここに棺が収められているのです。
なるほどなあ、と思ったのは、教会のオルガンの床に

「ここのオルガニストだった誰それ、ここで眠る」

とあったことで、このオルガン弾きは、自分が死んだ後も
自分の職場でずっと眠りたいという願いが聞き入れられたものでしょう。

いずれにせよ、われわれの感覚では棺の埋まっている上を土足で歩くのに
失礼というか申し訳ない気がするのですが。



で、ここでお眠りになっているのはどなたかというと、

ジョン・トランブル

説明には、この美術館を作った人物で、パトリオットでありアーティストとあります。 
レバノンに生まれニューヨークに死す、とありますが、このレバノンは
あのレバノンではなく、コネチカットのレバノンです。

バンカーヒルの戦いアメリカ独立宣言、 サラトガ、ヨークタウンなど、
独立戦争にまつわる絵を多く残しています。
ここにはご本人だけでなく、なんと!奥さんも一緒に眠っているとか。



キャンパスは、建物で四方を囲み、内側に公園のような庭があるのが定番。
ハーバードなどもそうですが、アメリカの大学は独自の警察組織を持っていて、
大学警察の名前でパトロールが行われています。



建物のところどころに記念のプレートが填め込んであります。
大抵は誰か有名人の記念だったりするのですが、これは・・・



ノア・ウェブスターの家が建っていた場所。
誰かと思えばウェブスター大辞典のあのウェブスターさんでしたか。
1778年卒業のクラスだったとあります。



学生街には必須の自転車屋さん。
お店の看板に実際の自転車が・・・。



自転車やバイクを放置したら、鍵をかけていてもおそらく1時間以内に盗られるのがアメリカ。
というわけで、歩道にはいろんなタイプの自転車&バイク係留バーが設置されています。
右端の緑のは自転車用で、まるでオブジェのようなのがバイク用。

しかしバーにチェーンで繋いでも、タイヤだけ外して盗まれるのはしょっちゅうです。
日本っていい国なんだと思いますよ。



あるときお昼ゴハンを食べに入ったレストラン。
この建物も相当古いです。
カーテンがありませんが、日差しはどうしているのかな。



メキシコ料理で、石の鉢でウワカモーレ(アボカドとサルサ)を練り練りして潰し、
トルティーヤにつけて食しました。



大学構内にはキャンプを行っている子供達の姿がそこここに。



片方だけジーンズをきっちりと折って裾上げしていた人。
わかりませんが、何か彼なりのこだわりのある着こなしなのでしょう。



この辺にはトウブハイイロリスが多く生息しています。
木の上から降りてきてこちらを気にしながら見つけたものに接近。



木の実だったようです。
リス愛好家としては、可愛さにおいてはトウブハイイロリスより
カリフォルニアジリスやシマリスの方が上だと思っていますが、
それでもリスを見ると目の色変えて写真を撮ってしまいます。



何も手を入れられていない芝生だけの広場、という贅沢なものが
ふんだんにあってしかも立ち入り自由なのがアメリカ。
この写真も日陰をズームすればたくさん人がいますが、日向で寝ているのは一人。



靴がでかい(笑)
居眠りしながらついでに日焼けもしてしまおうという考え。



さて、「オールドキャンパス」というところにやってきました。
息子はここでキャンプに参加していたのですが、キャンプ半ば頃、
様子を見るために連絡を取って自由時間に会うことにしたのでした。



このゲートの内壁にも記念のプレートがいくつか。
1895年卒業クラスによって作られた「ベンジャミン某」の思い出のための碑。
亀の甲文字でほとんど解読できません(笑)

卒業20年後くらいの皆がまだ壮年のとき、若くして先立った級友のために
クラスの皆が集まったのだと思われます。
そのときこの前に立った彼らのうち誰一人として、もうこの世にはいません。



ロバート・ヒクソンという卒業生は、調べたところ「ロバート・ヒクソン基金」
という奨学金のファンドに名前を残しています。
基金設立は亡くなった夫の思い出のために未亡人が行ったとか。

アメリカ人は、イエールやハーバードに限らず、自分の卒業大学に卒業後も
寄付を続けたり、財を成せば多額の基金を自分の名前で設立したり、
自分の名前の学舎を持つことに大変熱心です。



オールドキャンパスの中庭では、息子のキャンプの一団が野外のゲームに興じていました。



しかし息子は「洗濯機がなかなか空かなくて大変だった」
とトホホなことを言いながらドミトリーから出てきました。



待ち合わせしたのは

NATHEN HALE

の銅像の近く。
ネイサン・ヘイルはイエールの卒業生で、アメリカ独立戦争のとき
アメリカ初のスパイとしてイギリス軍に絞首刑になった「コネチカットの英雄」だそうですが、

彼が何をしたからではなく、彼が何故それをしたかのために、
アメリカの英雄に含まれている。
ネイサン・ヘイルは将軍のテントがヘイルの学校校舎の直ぐ隣にあったので
イギリス軍をスパイした」

という説もあるようです。




ABRAHAM PIERSON(アブラハム・ピアソン)の像。

ピューリタン派の牧師で、彼自身はハーバード大学を卒業しており、
のちにイエール大学になる学校の創始者です。
1702年、日本では元禄年間にこの大学の歴史は始まりました。



イエール大学の学生もスターバックスがないと生きていけないようです。
いつ行っても、勉強している学生でテーブルが占領されています。

となりのパネーラなどとは明らかに学生占有率が違うのですが、
コーヒーが飲める「公共の場所」のような雰囲気が好まれるのかもしれません。





 


ピーボディ自然博物館~”ルーシーはダイヤを持って土の中”

2016-04-13 | アメリカ



昨年の夏、の滞米時、テレビで「ナイトミュージアム」を観ました。
ご存知とは思いますが、夜になると博物館の全てのものが命を持ち、
気ままに動き回るというのがお話のキモになっています。

この映画でセオドア・ルーズベルトのマネキンを演じたのが、ちょうど
その1年前自殺したロビン・ウィリアムスで、わたしはたまたま、
死ぬ直前にファンの女性と撮った、その生気のない幽鬼のような表情を見て
死相というのは本当に表れるものなのだと衝撃を受けたばっかりだったので、

思わず画面をまじまじと見てしまいました。

ルーズベルト(の人形)を演じたこのとき、彼は自分にそんな未来が来ることを

予想だにしていなかったのではないでしょうか。

それはともかく、この夜になったら動き出す展示物には、一体の恐竜の化石もありました。
骨のままぎゃっしゃんがっしゃんと縦横無尽に動き回る化石(笑)


ここピーボディ博物館の生きたときの姿のままに展示された恐竜の化石、
とくにこのブロントザウルスを見たとき思い出したのが、このシーンです。



ここの圧巻はなんといっても中央にあるブロントザウルスの骨。
もしこれに肉付けをしたらとんでもなく首が太いらしいことがわかります。

これは1877年に、 イエール大学の教授である考古学者のO.C.マーシュ
コロラド州で発見したものだそうです。

ところでわたしは知らなかったのですが、いつのころからか、

「ブロントザウルス」というのは「アパトザウルス」のことである

ということに世間ではなっていて、うっかり「ブロントザウルス」と言おうものなら
小学生の子供(自称きょうりゅうはかせ)に

「プロントザウルス?アパトザウルスっていうんだよそれは」

指摘されてしまったりしていたそうですね。

確かにウィキペディアの日本語版はいまだにその様な表記がされているのですが、
実はイエールのHPによると、2015年5月、つまりつい最近になってから、
少なくとも両者の間には7つ以上の相違点が明らかになったことで、
ブロントザウルスは存在するということがわかったと書かれています。

というか、わたしが知らない間にブロントザウルスは存在を否定され、
知らないうちにまた復活していたのでした。こりゃめでたい。

このホールは1926年にオープンし、ステゴザウルスと カンプトザウルスの骨が

ドラマチックに展示されていて圧倒されます。

 

本当に海を泳いでいたらどんなに怖かっただろうと普通に思ってしまう巨大な亀。
アーケロンといって、現存した最大の亀の骨だそうです。

 wiki

こうしてみると普通の亀なんですけど、問題は大きさ。
幅5mはゆうにあったと言いますが、産卵なんかは
やはり砂浜で行ったのだろうかなどと考えてしまいますね。
海に帰る子亀たちの大きさだけでも普通のウミガメくらいだったりして。

重さは2tだったそうですが、 革状の皮膚や角質の板で覆われているだけで、
これでもずいぶん軽量化されていたそうです。

残念なことにその甲に手足を引き込む事が出来なかったため、
捕食者に襲われやすく、脚鰭が一つ欠けている化石も珍しくないのだとか。
進化の段階で必要に応じて「やっぱり手足は収納式」となっていったんですね。 

しかし、こんな亀の足とかを食べちゃう他の動物って一体・・・。 



亀といえばこんな骨もありました。
レザーバックタートルと説明に書いてありますが、今でも
普通にこの名前の亀の種類はある様ですね。 



これも亀の甲羅?・・・・トライポフォビア的には辛いものがあります。

Gyptodon 、グリプトドンという名前で知られている亀的生物の甲羅ですが、
こんな生物だったと考えられています。



きもい。 




podocnemis、つまり「ヨコクビガメ属」の骨。
今でもこの種類の亀は卵も含めて食用にもされ、日本では
ペットにもなっているとのことです。

しかし、亀の甲羅って、こんな風にぱかっと外せるものなんですね。



中身ごとお骨におなりになった例。
亀の背骨って細いものなんですね。
こんなのでよく重い甲羅を背負って歩けるものです。



ジャイアントモアの化石。
モアはニュージーランドに生息していたダチョウの仲間で、世界で一番背が高い鳥です。



絶滅した原因は繁殖力の低さに加え、自然環境の温暖化や繁殖力の低さ、

マオリ族による乱獲(砂嚢に小石を溜める習性を利用し、焼け石を呑ませて殺す)など。

「モア」の呼称の由来については、ヨーロッパ人が原住民にモアの骨を集めさせ、
「もっと骨をよこせ」(More bones!)と言ったのを、
原住民が鳥の名前と勘違いしたのだと言う説があるそうです。

なんのために骨を集めたのか謎ですが、いずれにしてもろくなことをしませんね。 



世界最古の鳥、つまり「始祖鳥」でいいんですかね?
ただ、昨年(2015年)の5月、中国の研究者が、

「今まで一番古いとされた鳥よりもさらに500万年昔の化石」

を発見したという話があったようなので、それが本当であればこの展示は
書き換えられなければならなくなりますが・・。



トリケラトプス的な頭蓋の並べられたコーナー。
手前の骨はどこがどうなっているのかもわかりませんが、
左奥のはトロザウルスといい、トロはスペイン語の「突き刺す」と言う意味。



こんなツノを持った動物は獰猛なのではないかという印象がありますが、
実はトリケラは草食動物であり、Tレックス、ティラノザウルスに捕食される方で、
ツノは求愛用だったという説もあります。

先ほどのトロサウルスも草食です。



edophosaurs、エダフォザウルスの化石です。
エダフォサウルスは約3億2,300万 - 約2億5,600万年前に生息していた爬虫類。



小さければペットショップで人気者になりそうですが、
いかんせん体長3mではなあ・・・。 



写真を撮りそこなったので何かわかりません。



uintatheres日本語ではウィンタテリウムと言う聞いたことない名前の、
サイ的生物ではないかと思われます。


 
骨にはツノがないので、トリケラのように頭蓋と一体化していなかった模様。 



これはわかる。ムースの先祖ですね。



馬の原型らしき生物。



こちらも馬っぽいですが、先ほどのと違って蹄がありません。
Chalicotheresとありますが、日本でなんと呼ばれているのかはわかりませんでした。



TITANOTHERESとありますが、ブロントテリウム科の生物です。



背中にある扇のような飾り?が骨でできています。



出土された頭蓋骨に復元作業を施す過程を表した展示。



バラバラに出土した頭蓋も元どおりに。フランスで発見されたネアンデルタール人。



左の二つはparanthoropus、パラントロプスの化石。
パラントロプスとは「人のそばに」と言う意味があるそうで、
200~120万年前にかけて生息し100万年前に絶滅しました。

1959年に発見されたこの化石には「ルイス・リーキー」
(発見した考古学者のメアリー・リーキーから)と名前が付いています。



160万年前の地層から出土した若い男性の骨格。
ほぼ完璧に近い形で発見された貴重なものです。

ケニアのトゥルカナ湖の辺で1984年に発見されたもので、
骨格には「トゥルカナ・ボーイ」という名前が付けられています。
当時の人類は今の算定法で類推した数字より8歳は若いらしいこともわかりました。 


またここには、人類の起源の発見に大きな発展をもたらした、
エチオピア出土のアファール猿人の骨のレプリカもありますが、
この名前「ルーシー」は、発見当時流行っていたビートルズの曲、
「Lucy In The Sky WithThe Diamond 」から付けられたそうです。



考古学発掘作業の現場を再現した展示。
右上にあるのはトイレットペーパーですか?
知り合いが奈良で発掘のアルバイトをしたことがあって、その話を聞くところによると

「気が遠くなるほど根気のいる地味な作業」

「毎日毎日歯ブラシで土を払い続けるだけ」

で、きっとあの人たち(学者)の脳みそは土色になっているにちがいない、
と、作業以外の彼らの「世間擦れ」に呆れていたのを思い出しました。


「ルーシー」を発見した時、当時の考古学者たちが発見に沸き立ち、
彼女のもたらす人類の起源を解くカギを「ダイヤモンド」に喩えたとしても無理ありません。
土色の脳みそが「サイケデリックカラー」に輝いたからこその命名だったんでしょうか。



儀式のために首狩りされて、縄でゆわえられただけでなく、
頭蓋骨に飾り彫りまでされてしまった方々。

こういう骨もかつては生きていた「誰か」だったんだなあなどと、
考古学者でもないわたしとしては、しょうもないことを考えてしまいました。





 



彼女が"HASHMARK"をつけるとき~女性軍人と男たち

2016-03-29 | アメリカ

先日、我が海上自衛隊の史上初戦闘艦の艦長になった、
大谷美穂2等海佐のことを少しだけ取り上げました。
去年早くも1佐に就任し、女性初の海将補候補として注目される
東良子氏のいわゆるエリートコースとは違う「艦長コース」にもついに女性が、
と各方面から注目されたのはまだ記憶に新しいところです。


ところで話は全く変わるようですが、 最近の国連、特に女性人権委員会って

一体なんなんですか?(怒)

日本の司法は人権においては中世並み、という批判に
「シャラップ!」と委員会で叫んでしまい、問題にされてしまった大使は
確かに公職にある人物としてお粗末だったかもしれませんが、
それにしても最近の国連界隈の「日本いじめ」は目に余ります。

70年前の職業慰安婦の人権問題を取り上げ、日本に「改善」を迫る。
(日本政府に”犯人を探して処罰せよ”とのお達しです。2016年現在で)
ちなみに問題提起しているのは中国と韓国出身の人権委員。
オブザーバーとして日本を非難したのは朝鮮民主主義人民共和国ってなんの冗談?

そもそも現在形で他民族を弾圧している中国に人権問題を問う資格があるのか?
今この時も現在進行形で売春婦を多数海外に輸出している韓国は、
彼女らの「人権」についていったいどう考えるのか?
北朝鮮は・・・・まあいうまでもありませんよね。

なぜ国連の拠出金が実質世界1位(アメリカが今払っていないため)の国に
これだけ不当な「勧告」が行われ続けているかってことですよ。

しかし、これだけなら、敵は朝日新聞始め国内にも多数いることだし、
国連総長はあの国出身だもんね、でうんざりしながらも我慢していた日本人が

上から下まで等しく怒りまくったのは、

「女系天皇を実質禁止している日本は女性差別である」

として、女性人権委員会が日本の天皇制について是正を求めてきたときでした。
さすがのことなかれ外務省もこれに対しては異常なくらい迅速に対応し、
駐ジュネーブ代表部を通じてこの件に強く抗議し、勧告を削除させました。



世界には、女性の人権が全く認められず、婚外交渉で女性だけが処刑になったり、
女性の運転も禁じられており、被り物で目以外を外に出してはいけない国、
8歳から15歳までに強制的に結婚させられる国などがいくらでもあるわけです。

そういう国に対してでなく、何を言っても「安全で怒らない」日本に対して
文化にも歴史にも敬意を払わない無礼な勧告をしてくるのが最近の国連。
女性の法王がいないのは差別だとなぜバチカンには言わないのかってんですよ。


そこで、日本が「女性差別国」だとするこの女性人権委員会とやらに、

「女性が軍隊の司令官になれる国は、現在世界にどれくらいあるか」 

を聞いてみたいですね。

先日、防衛省は、安倍内閣が掲げる「女性の活躍推進」の方針を踏まえ、
女性自衛官を増やす取り組みを本格化させました。

大谷2佐の艦長就任は、(当人が優秀でなくてはもちろん実現しませんが)
わたしが先日当ブログで推測したように、政権の掲げる方針に添ったものだった、
ということが報道によって裏付けられたようで少しだけ嬉しいです(少しだけな)
この件を報じる読売記事からの抜粋です。 
 

自衛隊では「母性の保護」や「男女間のプライバシー確保」などを理由に、
潜水艦や戦闘機、戦車中隊などへの女性の配置を制限している。
制度上の制限がなくても、女性の幹部登用が少ない職域もあるとされ、
こうした点の見直しについても研究する見通しだ。

これに先立ち、防衛省は今月28日、女性自衛官らの活躍と
ワークライフバランスの推進を狙いとした取り組み計画も策定した。
計画では、駐屯地などの庁内託児施設の増設や、出産・子育て前後に
研修の機会を与えるなどの柔軟な人事管理を行うこととしている。


これに対し、さっそく赤旗新聞が

●少子高齢化に伴い、男性のみでは担いきれなくなってきた自衛隊の任務を、
女性にも負担させようとする思惑である

●イラクやアフガン戦争に派兵された米軍女性兵のうち約4割が
軍隊内で性的被害に遭っているという研究もあり、自衛隊でも必ずそうなる

●兵站活動は敵からの攻撃対象となりやすい

●女性兵士が戦闘支援や応戦しなければならなくなったとき
『自分が殺した』と精神的に自身を追いつめて
帰還後に自分の子を愛せなくなり、育児放棄など虐待してしまう


と噛みついています。

最後のなんか、まるで「風が吹いたら桶屋が儲かる」みたいですね。
女性に限らず、戦闘トラウマは男性にも普通に起こりますよ?
攻撃対象となりやすい兵站活動も何も、戦争ってそういうものですよ?

こういうことに警鐘を鳴らすまえに、日本がどこの戦争に参加して、
自衛隊の女性自衛官がどこの国の人を殺さなければいけなくなるのか、
もう少し具体的に可能性のあるところを詰めてから言っていただきたい。


この際共産党には女性人権委員会とやらに

「女性を登用して司令官として採用し、人を殺す命令を出させる、
こんな日本政府は女性の人権侵害国だ!」

と思うところをそのまま訴えていただきたいものです。
現在の国連なら取り上げてくれるかもしれませんよ。あの事務総長だし(笑)



さて、前置きというか余談が長くなってしまいましたが、
「ホーネット」博物館には女性軍人、WAVESのコーナーがあって、
一度ここでも取り上げたことがあります。



女性下士官と兵の帽子、そして手袋と公式のバッグ。
このバッグ素敵ですね。
かっちりしたシェイプ、なんの模様もないクリーム色、
ハンドルの形が現在のブランドでも採用しそうなかんじです。

アメリカでは、陸軍に付随する看護部隊として女性が初めて
軍隊に参加することになりました。
しかし軍人としてではなく、男性と同様の賃金や手当はありませんでした。

女性が完全な一員として軍隊に加わるようになったのは1944年ですが、
1942年に「補助部隊」として輸送などを担当する女性パイロットの部隊が
誕生していました。

女性を軍隊に参入させるにあたっては激しい反対が軍の中にもありましたが、
海軍の女性部隊であるWAC誕生に鶴の一声を発したのは、なんと
我らが(笑)チェスター・ニミッツ提督だったといわれています。

女性が「コマンドを行わない」「戦闘機、軍艦に乗らない」ことを前提に
WAVESという軍組織に投入されることになったのは1942年8月。
WAVESの初代司令官はミルドレッド・マカフィー少佐でした。



ここでは初の女性提督になったミッシェル・ハワード大将を取り上げましたが、
つい先日も、統合軍に初の女性司令官が誕生するというニュースがありました。
北方軍の司令官に指名されたローリー・ロビンソン大将です。



なかなかのハンサムウーマンぶり。
ちょっとだけメグ・ライアン入ってますか?



提督も統合本部司令も誕生する現在のアメリカですがWAF、WAC、
そしてWAVES、が最初に誕生した当時は、世間の話題をさらいました。
話題に便乗してこんなパッケージの商品を売り出したm&m。
(しつこいようだけどエメネムと読んでね)

同じ画面に写っているのは

Moter Was A Gunner's Mate(お母さんは銃撃手の仲間だった)

という本ですが、この著者は

JOSETTE DERMODY WINGO

という女性で、このページを見ていただくとわかりますが、
トレーニング・ガナーを務めた女性軍人です。

WAVEに入隊後、銃撃主としての訓練課程を修了した彼女は、
サンフランシスコとオークランドをつなぐブリッジの途中にある
トレジャーアイランドという小さな島(住むことを少し検討したこともあり)
に当時あった海軍の砲術専門学校で、教官として勤務していたといいます。



「ガダルカナルではそんなやり方はしなかった」

彼ら(生徒)が言ったとしたら、

「だ・か・ら・ガダルカナルは取られそうになってるの。いいから座んなさい」

というようなユーモアが必要、というのが彼女のお言葉です。
深いなあ(笑) 



メディアも女性の軍人を持ち上げたので、こんな「問題児」も出てきます。
1944年にはついに白人以外、アフリカ系や少数民族の女性にも
軍隊への道が開けました。

しかし、そもそも女性部隊設立の時に最も反対が大きかったのが
男性だったことからもうかがえるように、女性軍人をもっとも疎んだのは
同じ男性の軍人だったのでした。



冒頭の女性下士官の腕には「年功章」がピカーッと輝いています。
英語で「HASH MARK」というこのマークは、下士官兵の「在籍期間」を表し、
1本が3年だったと思います。
彼女のランクはPO1、グレードでいうとE-9までの下士官のE-6、

CPOのすぐ下ということになります。 

おまけにこの女性、お酒のはいった携帯ボトルまで持ってませんか?
米海軍は艦艇内の飲酒が厳しく禁じられていましたから、これも
どういう状況で飲むつもりなのかはわかりませんが・・・。 


さあ、ただでさえ女性が軍人になるのすら快く思っていない男ども、
彼女がもしこんな「年功章」持ちになってしまったら・・・?

・・って、女性下士官が3年勤務すればそれは確実にそうなるわけですが、
なんと彼らは、この後に及んでそれを認めたくないらしい。

”これが男というものさ!WAVEが年功章をつけるとき”

と題されたこの漫画は、気の毒なくらいそんな男たちの狭量を描写しています。



隅から見ていきましょうか。
彼女の部下になってしまう水兵さんたちは、ただひたすら

"NO NO NO!" "YEOOOOO!"

と怯え・・・・・、 



「俺は見た!俺は見たんだあああ!」

と錯乱状態の水兵。

「え?何がおかしんだよコノヤロウ」

という水兵もいれば、

おいおい坊や、いい加減にしろよ。
あーあ、(CHEEZ 、GEEZをわざと間違えて言っている)、
こいつってもしかしておかしくね?」

彼の言っている「ASIATIC」というのはアメリカ海軍内だけで使われた俗語で
CRAZYと同義と思っていただければいいかと思います。

我々には失礼な感じがするんですけど、多分失礼なんでしょう。 

「なんだってこんなことに・・・とほほ」

とすすり泣いているセンシティブな水兵さんもいます。 




こちら、左腕が洗濯板のベテラン下士官たち。飲みで愚痴。

「まだ彼女いるの?」

「(げぷっ)おお、おるでー」

「もう一杯行くか・・・」

いまいち状況が読めませんが、なんかもう自暴自棄って感じです。



もっと深刻な先任下士官たち。
ハッシュマーク6本、つまり勤続18年のおじさんたちにとってはもう、
世を儚んでピストルをぶち込んで(自分に)しまいかねないショック。

すでに遺書を用意している先任に、

「先任・・・大丈夫ですよ、これなんかの間違いですよ」

と必死で止める水兵さん。
しかし、(光ってしまって見えませんが)向こうの方ではすでに
絶望のあまり引き金を引いてしまった人がいるようです。

もちろん漫画ですが、これほどまでに女性の軍隊進出は
男性の反感を買い、邪魔者(足手まとい)が入ってくることへの嫌悪感や、
もしかしたら自分たちの場所を取られるという懸念を呼び起こしていたのは
まず間違いなかったのだろうと思います。


1948年、アメリカ軍で女性軍隊統合法が可決されました。
戦時中は戦時だったゆえ女性が軍隊にいることが「許されて」いましたが、
戦争が終わってしまえばもう女性は必要ない、とされていた法律が変わったのです。

つまり、これによって平時における看護活動以外の女性の軍隊参加が認められ、
同時に女性が士官になる道を開かれたということになりますが、この漫画は
終戦直後、その法律可決に向けて議論が行われていた頃に描かれたものです。

その後も女性軍人の権利の拡大は続きました。
軍隊における女性の割合は2%が上限と定められていましたが、
1962年に撤廃され、現在、軍隊における女性の数は、1972年当時の8倍。
女性士官の数は3倍に増え、優秀な人材なら司令官も夢ではありません。

1999年の調査によると、陸軍15%、海軍13%、海兵隊5%、空軍18%が女性で、
現在はもっと増え、新規入隊者の20%近くが女性だそうです。
今後はもっと増えるでしょう。

女性がハッシュマークをつけるくらいで怯えていた男性の下士官兵の姿は

今日の目から見ると実に滑稽にみえますが、このとき高みの見物をしていた
男性士官たちは、1976年にアナポリスが女子の入学を認めて以降、
彼らと全く同じ心配をしなければならなくなりました。

そして、今では、男性の将官たちにも起こりうる(というか実際に起こった)
事態となっているのです。
ハワード提督が誕生した時に、悔し紛れに

「彼女は女性でアフリカ系だから提督になれた」

というやっかみの言葉が同じ将官から出てきたのは記憶に新しいですね。

優秀な女性とポストを争うことになるのを良しとしない男性の嘆き節は、
おそらく今も、そしてこれからもこの漫画の男たちと同じく続くのでしょう。

 

 


「その後」のファットガイ〜FAT GUYS IN THE WOODS

2016-03-19 | アメリカ



YouTubeから「FAT GUYS IN THE WOODS」の宣伝を探してきました。
どうも彼らが仕掛けた罠にはウサギがかかっていたようですね。

無邪気に喜んでいますが、この後殺したウサギの皮を剥ぎ、
捌くという、日常ではためらわれる作業が待っているのです。
しかし、この極限(っても1週間ですが)状態では、ウサギが獲れるなんて獲れるなんて
それだけでも彼らにとってはご馳走の期待で唾さえ出てくる体験だったでしょう。

サバイバル体験が価値観を変えるとすれば、それはきっと食べ物です。

前回、かつて番組で登場したサバイバルメニューによると、
普通にアメリカで暮らしていたら一生食べなくてもいいもの(皮を剥いだ蛇とか幼虫)
をも、口にせざるを得なかった三デブがいたということになります。

それを思えば、本日の三デブはとりあえずいい出だしと言えましょう。
クリークが提案したのは、周りにサトウカエデの木がたくさんあることから、
幹から樹液を採って、それを火で煮詰め、メープルシロップを飲むことでした。 



うーん、これなら是非やってみたい。

カナダで「メープルまつり」というのに行ったことがあります。
敷地一帯で伝統的な手法でメープルを採取して、それを雪の上で固めたのを食べたり、
食堂ではメープルシロップを使った料理を食べたり、という
アメリカではしたことのない楽しい体験でしたが、このメープルシロップ、
その時も見たように、木に穴を開けておくとそこから樹液が出てくるので
それを木に入れ物を縛り付けて受け止めて集めるのです。


ここでデブたちが驚いたのが、採れる樹液の少なさです。
一般にメープルシロップを作るためにはその40倍の量の樹液が必要といわれ、
ここでも散々時間をかけて貯めた樹液も、ほんの一口にしかなりませんでした。




とても4人の男が満足するほどのシロップが採れるはずもなく、
少しの樹液を煮詰めて、周りにこれはふんだんにある雪を溶かして
薄めた甘いお湯を飲むという感じです。


それでも、デブたちが一口飲んで感慨深げにいうには

「甘い!」「甘いよ!」

もっともっとドギツイ甘さのケーキやドーナツを食べてきた(に違いない)
デブたち、今までの生活なら「味がしない」と言い捨てたであろう
自然の甘みの付いたお湯を、まるで甘露のように味わっております。




「regurgitate」というのは「一度口に入れたものを戻す」と言う意味ですが、
一度に飲み込んでしまうのがもったいないので、口の中から出して
反芻しつつ味わっているというかんじでしょうか。

それほどまでにこのメープルシロップ(の混じったお湯)は
彼らにとって貴重でありがたいものであったのでしょう。



「メープルシロップがこんなに美味しいとは」

と感激しております。

今までスーパーマーケットで買ってきて、パンケーキにガバガバ掛けていた
メープルシロップは、大変な過程と苦労を経て製品になっていたことを知り、
またひとつ、感謝する気持ちを学んだのです。

それだけでも、参加した甲斐があったというものですよね。(適当)



一行は行きに通ってきた洞窟をもう一度抜けることにしました。
肘と左足を傷めてしまって辛い思いをしたようです。



そのとき、洞窟のどこか、あるいはこの上の方でものすごい音がしました。
どうも近くでクマが冬眠しているようだ、とクリーク。
大慌てでその場から脱出を図ります。



サバイバリストであり彼らの指導役のクリーク・スチュアート。
前回にも言ったように、彼はプロのサバイバリスト(サバイバーではない)で、
自然に身を置いたときにいかに生き抜くかを熟知しています。

ここでは、「もしこの火が消えたら、わたしたちも死ぬよ」と
割と当たり前のことを言っております。
そして、そのためには、乾いた木を見つけることが重要だ、と。




メープルシロップはよかったのですが、ろくな獲物が捕れないうちに
不幸にしてクリークが虫を見つけてしまいました(笑)

死んだ気でそれを食べる(この写真じゃなかったかも)デブ1。
もう、世界の終わりのような顔をして、

”Oh, that was gross! "

とか言っております。
この「gross 」は、日本語で言うと「キモい」という感じです。

ちなみに「醜いほど極端に太っていること」もgrossといいますが、
少なくともカウチを抜け出してここでサバイバルしている程度であれば、
この呼び名で彼らが呼ばれることはまずないでしょう。(アメリカ基準では)



おそらくですが、このサバイバルに参加した動機を語っています。
もちろん番組の性質から言って、自ら参加を申し込んだわけではないと思いますが、
それならどういう経緯で番組に出ることになったのか、そのわけを是非わたしも知りたい。

「自分自身を試してみる気で」

とかいう、そんな後付けの理由じゃなくってね。



死ぬよと言われつつ、火が消えてしまった模様。
テイクオフはこの場合プロジェクトの成功みたいな意味で、

「どうしてダメだったのかを考えるんだ」

と叱咤されているようですね。
その何をするにも寝転ばずにはいられない態度に問題があるのではないか。



火を起こすもう一つのやり方を試してみることにしました。

実はわたしはここまで見たときに眠くなってしまい、この続きを脱落したのですが(笑)
もう一度起きたときにまだ別の三デブが挑戦していました。



真ん中の人が火おこし棒を土台に押し付け、両側からロープを引き合って
棒の回転で火を起こそうという試み。

この三人、やっとのことで火を起こすことができたのですが・・・、



夜寝る場所を作っているうちに火が消えてしまいました。



覆水盆に返らず。ではなく、消えた火を悔やんでももう元に戻りません。
さあ、今晩どうするの?



こういうときのための脂肪とちゃうんかい!

三人でがっぷり6つに組めば、相当暖かいのではないかとも思うのですが。
火無しで一晩過ごすことを余儀なくされた三デブ、それでも
できるだけくっついて寒さをしのぎました。



長い長い夜が明け、ほっとしてシェルターから出てくる三人。

「俺たち三人みたいに仲良しだったことを神様に感謝しないとな」

とか言っています。
この言い方だと、夜の間は体をぴったりくっつけあっていたようですね。



そこにやってくる悪魔のサバイバリスト。
火のないところで男同士抱き合うようにしてしのぎ、寒さに耐えた
三デブに次なる試練を運んできたのでした。

ん?ところでなんだってこの人、左手を吊っているのかな?



そう、今日のお題は、

「右手だけでサバイバルしましょう」

左手が使えなくなったという設定で作業を行えと非情なお言葉。
同じように左腕を吊られた三デブ、全く嬉しくなさそうです。



そして、今まで以上に苦労して火を起こしたりするわけですが、
この試練はいわば「オプション」。

規定の期間を無事終えた三人に、

「ここで終わってもいいけど、もう1日だけ耐えれば、
この番組特製のサバイバルナイフを差し上げます」

という番組のいわばお約束チャレンジなのです。
これを断る三デブは不思議なことにまずいません。
デブというのは案外環境に順応したら打たれ強いものなのか。



そして、無事に訓練が終わり、晴れやかに感想を述べるのでした。



三人に、サバイバルナイフがプレゼントされました。
一つしかないような気がするのですが、これ、どうするんだろう。

ちなみに、クリークが理想のサバイバルナイフについて語るの巻。

Top 6 Survival Knife Features





にこやかに、そして晴れやかにクリークと握手を交わし、
厳しかったサバイバル生活を終えた自信を胸に帰っていきます。



家に向かう男たちの顔は、一つのチャレンジを成し遂げた成功に
光り輝くようです。


んが(笑)、彼らが家に着くなりまたカウチでポテトを抱え込んで、
今度は他の三デブの物語をあれこれうんちくを垂れながら楽しみ、
番組言うところの

「自然には発生しない飽和脂肪酸(ラードやバターに含まれる)やハイフラクトース
ぶどう糖果糖液糖:果糖42%に果糖を加え甘味を調整した甘味料)のコーンシロップ、
こういった最も健康的でない、しかし最も美味しく感じて便利で安い食べ物」

を、当たり前のように吸収する毎日に戻る姿がはっきり見えるのは、
おそらくわたしだけではありますまい。

しかも、なまじ「おれはあれだけのサバイバルに耐えた」という結果があると、
いつでもあんな生活に耐えられるという自信から、かえって厄介な
デブの道を歩んでいきそうな気がするのですが、番組はおそらく
そこまで責任取る気はないだろうなあ。