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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ネイキッド・アンド・アフレイド〜「XL」とは?

2016-12-04 | アメリカ

さて、昨日に続きアメリカのサバイバル番組「ネイキッド&アフレイド」、
の新機軸?、「XL」をご紹介します。
「XL」とは従来の男女二人でなく、数名の男女のグループが
日数も40日と大幅に増えた期間、勿論全裸で密林をサバイバルするというものです。
 

これは面白かったですね。
グループになることで、ここに人間関係というのが複雑化し、
「社会」が生まれてくるからです。
まあ、「社会」が生まれる最小単位は二人からという説もありますが。

つまりギリギリのシチュエーションならばこそ、団体にはつきものの
不協和音なども生まれてくるので、番組にとっては「美味しいシーン」も
撮られやすくなってくるというものなのです。

これを考えた「ネイキッド」のスタッフえらい。

 

 最初から全員が同じところでスタートするのではなく、別々のところで2〜3人
という単位でサバイバルを始め、指示によってだんだん集まっていくという形。

 

ところでこの「商業漁師」のクリスさん、見たことがあるような・・。
ルークという人もです。
このバージョン、今まで男女のサバイバルに出演した、
経験者に再登場させているのかなと思ったんですが、
皆裸でヒゲをのばしているので、同じように見えるだけかもしれません。

 

クリスとルークが見つけたフルーツの木。

 

無農薬の自然栽培でございます。
けっこう美味しそうに見えますが、実際はどうなんでしょうか。

 

でもやっぱりこういうものも食べないといけないのよね。

『XL』のサバイバル期間は40日です。
人間は水を一滴も飲まないと4〜5日で脱水症状を起こして死にますが、
何も食べなくても2〜3週間は生きていられるそうですから、この番組の
オリジナルであるサバイバル期間3週間というのは、
”万が一何も食べられなくても死なずに済む”ぎりぎりの設定なのです。

しかしこの「XL」バージョンは、アリだろうがなんだろうが、
食べなくては文字通り生き残ることはできません。

まあ、本当に何も見つからずに死にかけるような事態になれば
スタッフが身柄回収に来てくれるわけですけど。

 

ありの佃煮なんてありそう、などと洒落を言っている場合ではありません。

 

 「アリ、苦(にげ)え〜〜〜〜!」

 

「・・・仕方ないじゃん・・?」

さて、次なるグループは女性二人、男性一人の三人。

 

アラナ、ダニエル、シェーンの三人。
アラナ姐さん、腕の刺青がすごいっす。



EMTはおそらく Emergency Medical Technician の略。
「wilderness」とつくので、こういう場所での専門家でしょうか。

いずれにしても頼もしい肩書きです。 


 

白一点のショーン。
何をしている人か忘れましたが、これが実は問題児だったりする。

そしてこちらはまた別のグループ。

 

プロフェッショナルの救助員であるというダニーさん。頼もしいっす。

 

この人も見覚えがあるなあ。気のせい?

 

見ていた限りでは、女性同士のパーティは皆うまくいっていました。

 

男女に限らず、怠け者は基本的にこういう番組には出てきません。
特に女性は超アクティブでチャレンジャーばかりですから、
女性同士でありがちな、仕事分担の場面での

「あの人全然働かないよね」「わたしたちばっかり仕事させて」

という事態にはなりにくいせいかなという気がします。
わたしのこれまでの数少ない経験からいえば、女性が何人かで寝泊まりすると、
必ず「働かない人」「それに不満を持つ人」がでてきて
互いの悪口を言いだすものなのです。
(働かない人が男性の前でだけはこまめになる傾向もなぜか共通している) 

 

サバイバルでは文字通り「働かざるもの食うべからず」。
このパーティもさくさくと服をつくり、テキパキと用具を作り、
とっとと食べ物探しに出かけました。

 

かたやこの二人、とりあえず果物とアリでお腹が膨れたので、
あまりカロリーを消費せず時間つぶしをしようということになりました。

 

左のルークの提案でヨガをすることに(笑)
クリスは娑婆でもヨガなどしたことなかったのに、とぼやきつつも、付き合います。

 

「インヘイル〜〜〜」「エクスヘイル〜〜〜」

全裸の男が二人、コロンビアのジャングルで逆立ちをしているの図。



ところで、この二人、ここに至る以前に女性の同行者がいたのです。
しかし、その人とクリスが衝突を繰り返してばかり。
女性が、こういう番組に出てくる人には珍しく、自分が女性であることで
特別に扱われるべき、という考えだったのが亀裂の原因でした。

「自分たちだけ果物食ったっていうけど最低の味だったんだぜ!」

クリスも激昂して女性相手に大きな声で罵ります。


やらせか本当かはわかりませんが、女性はわかりやすいヒール(悪役)
を演じているのではないかとすら思われました。



この女性は一人でいるときにトカゲを捕まえることに成功し、



自分で料理することもできたようなのですが、



もう一人のルークがそれを食べようとすると、「わたしのよ?」
穏やかだったルークも実は彼女の自分勝手には腹に据えかねていたようで、

「ちがうよ、チームのだよ」



ヒステリーを起こした彼女、たえきれなくなってここで脱落。
女性のスタッフが服を着せ、トラックの荷台(助手席には乗れない)
でドナドナされる画面に本人の声が。

「これがわたしの最初で最後のネイキッド体験だわ」

 

こちらの二人は、水を見つけた後、なんと野生のスイカを見つけました。 

さて、紅一点の女性が脱落し、ヨガで時間を潰したクリスとルーク、
合流地点でダニーたちのパーティと合流成功しました。
がっちり握手を交わします。

今までの成果を報告しあいながら、全員はまず親睦を深めるために

 

みんなで池につかって歓談。
火にあたりながら、という気候ではないし、車座になって、
というのも何か気まずい、ということでこの選択です。

 

さて、こちらの男性二人もサバイバルをしつつ合流地点に向かいます。

こちらのグループは火の周りで就寝。
女性二人、男性一人のパーティなんですが、この三人に不協和音が・・。

どうも男性のショーンの性格がこの二人には「うざい」ようです。
ショーンが一人だけどこかに行ってしまうと、途端に二人で
悪口を言ったりしております。

 

彼女らが彼を嫌うのは当然で、ちょっとしたことで気分を悪くして
グループを離れ、 自分だけの「ロッジ」をつくって立てこもり、
二人とは絶対に関わらないという態度でいるわけです。

女性二人に現場を見つかって呆れられても「何か悪いか」と開き直り、
それどころか、

「君らが俺を傷つけて、イライラさせるからだ」

などと言い返す始末。



短気なくせに粘着質、女性にとって一番苦手なタイプかもしれません。
ショーンの方も自分で

「I am not a Mysogynistic woman-hater.」

などとつぶやいております。
Mysogynisticというのは、辞書を引いても出てきませんが、
これそのものが「女嫌い」という意味なのです。

「 Mysogynistic woman-hater」というのは「頭痛が痛い」と同じ
意味を重ねた言葉ですが、わざわざこんなことを言うこと自体
もしかしたら本当に女嫌いである証拠なんじゃないか、と疑われます。

 

彼が「you」とカメラに向かって罵っているのは、なんと
女性二人のことではなく、自分自身なのです。
自分で思ったようにいかないことを自分のせいだとし、
その苛立ちから他人から遠ざかる。

中指を立てて、スタッフにいらない加工作業をさせております。 
中指を立てる仕草、というのは本場では放送禁止レベルなんですよ。

何処かの国では、大学のセンセや放送倫理を監視する役目である
BPOの委員や、仮にも精神科の医者を名乗るような、しかも女性が
公衆の面前中指を立てても公的に抹殺されずに済んでいるようですが、
欧米で公人がこんなことを写真に撮られたら、即社会的生命は終了です。 

ショーンさん、泣き出しました。おいおい。



この人実社会でもこんな人なんでしょうか。
それとも特殊な環境だから?



という不穏なチームに合流するためにやってきた男性二人。




そのうちのひとり、ジェフは「ビッグゲームハンター」
・・・・ってなんなんだよこの肩書きは・・。
「サスケ」とかの体力自慢サバイバルのことかな?



落ち込んでいたシェーンを二人が発見。



ジェフは屈託のない表情ですが、



こちら屈託ありまくり。
なんかこの人、精神的に、というか対人的に複雑な
トラウマからくる問題を抱えているんじゃないかという気がします。



「よくきたわね。向こうにスパがあるから一緒に入らない?」



「ほんと?やったー!」 




ショーンに手を焼いていた女性二人は、空気を変えてくれる
明るい男性が入ってきてくれたのでホッとしている様子。
もうここからはショーンなど無視していれば済む話です。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

さて、このあと「XL」がどうなったのか、残念ですが
この続きを放映する前にわたしはアメリカを発ってしまいました。
どうしても知りたいわけではありませんが、この混乱が
どのように収拾を見たか、少しだけ興味はあります。

おそらく来年の夏、アメリカに行ったらこのバージョンも
再々再放送くらいになっていると思うので、もし観たら
ぜひ続きをみなさまにご報告させていただこうと思います。


・・・・え? 別にそんなの知りたくもないって?(笑) 

 

おまけ*撮ったもののなんだったのか全くわからないまま終わった
巨大な「なにか」を見つけたシーン。
蛇でなければキュウリの漬物みたいですが。 

この正体もわかればぜひ調べて・・・え?別にいい、って?

 


 


ネイキッド・アンド・アフレイド再び

2016-12-02 | アメリカ

大自然の中、初対面の男女がいきなり一糸まとわぬ姿で出会い、
ともにサバイバルする、という番組「ネイキッド&アフレイド」。
日本でも有料チャンネルで放送が始まったことは確認しましたが、
日本ではそれほど話題にはなっていない様子ですね。(ですよね?)

まあ、出演するのが一般人といってもアメリカ人なので、我々からは
やはりどこか遠い世界でやっているような感が拭えず、
まあアメリカ人ならこれくらいやるだろうなあ、と違和感なく
見てしまうのが、逆にセンセーションを感じない理由でしょうか。

今年の夏アメリカでは、相変わらず毎日のようにナショジオで放映されていましたが、
さすがに同じパターンではいくら人が変わっても飽きてくるのか、
それまでにない企画を打ち出していました。

それをご紹介する前に、この番組のオリジナルのパターンを
一つご紹介しておきましょう。



今回出演の女性サバイバーはこの女性。
昔のことで詳細は忘れてしまったのですが(てへっ)、確か
看護師だったような気がします。



お相手はこの男性。こちらも忘れました。
アメリカ国内かブラジルか、サバイバルする部隊はその都度違います。
「服を着ない」というのがウリである関係上、季節は夏、水源地帯が多いですが、
アフリカなどだと夜間は寒さに耐えるというチャレンジもあります。

今回のチームは、船で合流地点にそれぞれが向かい、
船の上に着ているものを脱ぎ捨ててのち出会うという趣向。



パートナーがどんな人物か、出会うまではドキドキです。
3週間もの間全裸で一緒に過ごす相手ですし、なんといっても
サバイバルがうまくいくかどうかはほぼ相性で決まりますから。



腰の深さまでの穏やかな湿地(沼?)で握手を交わします。
ここでハグする二人もいますが、少数派です。
さすがのアメリカ人も最初はさすがにテレというか遠慮があるのでしょう。



早速二人は火を起こすという大事な仕事に取り掛かります。
今回は特に男性が用意万端、おそらく練習までしてきたので、
簡単に火を手に入れることができました。



お互い何か一つだけギアを持ってきてもいいことになっており、
男性は大抵の場合サバイバルナイフ持参です。
火おこし棒の回転を受け止める部分にビンのようなものを使っていますが、
これ、まさか現地で拾ったもの?

もしかして、ここ無人地帯でもなんでもないんじゃあ・・・。


当初から「やらせ」が疑われているこの番組ですが、どこからどこまでが

「本気」と書いてマジなのか、我々に知るすべはありません。
夜間、ハンディカムを持って自分語りをしている以外の映像は
角度的にも質的にもプロのカメラクルーによる撮影にしか見えず、厳密には
サバイバーの男女と少なくともカメラマン、ディレクターは一緒なのでは、
と思うのですが、番組の宣伝では「二人きり」とするものがほとんどです。



さて、火が起こせたので、次は食べ物の確保です。
以前ご紹介した「ファットガイ・イン・ザ・ウッド」では、
脂肪を蓄えたデブ三人が
サバイバリストの指南を受けながらサバイバルを学ぶ、
という趣向ですが、
こちらは凍え死ぬ可能性のない季節だけあって、
専門的知識は
ほとんど参加者に委ねられた状態。

サバイバルについてのスキルはプロ並みの人もいればほとんど皆無の人もいます。



あっという間にこの二人は何か食べ物を見つけてきました。
女性はすでに着るものを製作したようですね。
きっと事前に何かで練習してきたのに違いありません。


この番組、見えていけないところには終始ぼかしが入るのですが、
画像処理するスタッフも結構大変なのではないかと思われます。
番組側も当初、参加者はすぐにこのように着るものを調達するだろうから、

と甘く?見ていたらしいんですね。
ところが蓋を開けてみたら、ほとんどの出演者は「それどころではなくなり」、
番組は最初から最後までぼかしを入れるという手間を強いられるのだとか。

ですからこの二人のような人たちは番組にとって多分「ありがたい」のです。
(手間的な意味で) 




最初の食事は、何かの幼虫でした。
それにしてもよくこんなの見つけられたなあ。
これは結構クリーミーで美味しいんじゃないかしら。
もちろん食べたことはありませんが。



なぜか小指を立てて虫を食する女性。
覚悟はしてきたようですのでそう悲壮な感じではありません。



男性の方はどうやらサバイバルについてはかなり研鑽を積んでいるようで、
この二人はこのような罠を製作して川に仕掛けることまでしております。



現地に到着した時に、ここにはワニがいるらしい、
とこの死骸を見て確認しておいたのが役に立ったんですね。



おお!早速なんかかかってるよ!



この尻尾は紛れもなく、ピンポイントでワニそのものです。
ワニを狙ったらワニがかかるなんてやらせくさい、いやなんでもない。

女性は少し「ひいて」いるようです。



この男性が持ってきたのはサバイバルナイフでなく刀でした。
さっそく調理にかかります。
サバイバルナイフではこういう硬そうなものの首を落とすのは
難しかったかもしれないですね。



内臓の処理は丁寧にね。
寄生虫の危険がある内臓部分は食べないつもりかもしれません。
こちらも葉っぱの包み焼きにして食すようです。



尻尾にキャンデーのように棒を刺してあるのがシュールです。
火を通しやすいように串で穴を開けるという一手間を惜しまずに。



「虫に比べたら十分ご馳走よね」 

しかし、アメリカ人というのは表情に出ますなあ。
日本人が何を考えているのかわからないと彼らは言いますが、
こういうのを見るとそれも納得です。



この男性、甲斐性があるというのか(笑)せっせとこういうものを
捕まえては持ってきて調理してくれるのです。
この「スモークドスネーク」の調理台も男性考案のもの。

しかし、出来上がりを眺めている女性は浮かない表情。

ワニも蛇も焼けば「チキンみたい」だというものの、
やはりできれば食べずに一生過ごせたらそれにこしたことはありませんから。

日本国陸上自衛隊レンジャー「せやな」



男性、けっこうドヤってますか?
前にも書きましたが、食べ物の確保がうまくいったカップルは
最後までお互いうまくいく確率が高いように思えます。



男性がヘタレると、その反対より確実に空気は悪くなるのですが、
(そりゃそうですよね。女性の見下した目に男性がふてくされたりして)
今回はうまくいった例でもトップクラスではなかったでしょうか。

番組的には「事件」が起こらず制作者にとってはイマイチだったかもしれませんが。



帰りのトラックでもこんどは心を込めてハグし合います。
共通のサバイバル体験を乗り越えた二人は、たとえ全裸の男女でも
もはや「同志」という感覚しかないのでしょう。



経験値もかなり上がったようですし、良かったですね(適当)



ところで、サバイバルが終わって彼らが文明社会というか娑婆、
というかいつもの生活に戻ったところもこの番組ではときどき
後日譚のように見せてくれる時があります。

自宅に帰って感想を語る男性の左腕には包帯が巻かれています。



ただの怪我というより化膿してしまったのではないか?
と思われるような傷が・・・。
もちろん破傷風などの予防注射は万全に打っていくのでしょうが、
順調に見えた今回のチャレンジも結構実は大変だったようです。

いや、あまりにも順調だったので番組としては、オチのようにこのような

「サバイバルの証」みたいな疵をエピソードにいれてきたのかもしれません。



女性の傷も、普通ではありません。
欧米人はたとえそばかすだらけになっても日焼けしたがるので、

彼女の肌ももともときれいというわけではありませんが、
それでもこんな傷跡は嫌だろうなあ・・。

これ虫刺されだったら、もうわたしなら泣く自信ある。



ひえええ、これ、なんかやばいもの刺さってね?

ジャングルで何も身を守らずに過ごすということの恐ろしさは
実はこれなんですよね。
生きていかなくてはいけないから食べることがまず優先されるけど、
元の世界に戻って来れば、これが一番堪えるという・・。

まあ、自らが志願してやっているのだし、おそらくは山ほど
誓約書にサインさせられているので、何があっても
文句は言えないなずですが、それでも何かあれば訴えるのがアメリカ人(笑)



ところでわたしが個人的にすごくウケたのが、このとき画面に
見えてはいけないものと同じぼかし加工をされて、ちらっと映った彼女の旦那。

全裸サバイバルにチャレンジするアクティブな妻にしてこの夫ですよ。

なんというか、人生いろいろってかんじ(笑)
 

続く。


 

 


「明日のリーダー」〜戦時中のボーイ&ガールスカウト

2016-11-29 | アメリカ




戦艦「マサチューセッツ」見学です。
前回は艦内に貼られていたポスターを中心に、どれも機会があれば
一度見てみたい映画ばかり(ネタとして)を紹介してきました。


その後艦内を歩いていくと、こんな展示がいきなりあらわれました。
ボーイ&ガールスカウトコーナーです。
なぜ戦時博物館でもある「マサチューセッツ」にこのような展示が?



よく考えればボースカウトの「スカウト」とは「斥候」の意。
創始したのはイギリス人の元陸軍中将(ロバート・ベーデン=パウエル卿)
であり、もともとは
下士官兵向けの斥候の手引き書を、青少年向けに
わかりやすく書き直したことが
スカウト創設のきっかけとなっています。

したがって戦時中には
スカウトが、

「少国民としての心構えを培う訓練」

という意味合いを
帯びてきても、ある意味当然の成り行きであったかと思われます。
少なくともアメリカではそうだったようですね。

ちなみに、創始者のベーデン=パウエル卿、通称BPは、二度までも
ノーベル平和賞の候補に挙がっていますが、1度目は逃し、
二度目は戦争中で平和賞の選定そのものが取りやめになっています。

こういう人物にこそ平和賞を授与するべきだと思うのですが、
対戦中は政治情勢の影響を受けやすいこの賞はそもそも発表が行われず、
しかもBPは1941年に83歳で亡くなったので、

「生存している個人」

という条件を満たさず、ついに彼の受賞はないままでした。

まあ、この平和賞、

国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催、推進のために
最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すべし

というのが設立の目的ですが、近年では「平和」の概念を広く解釈しており、

受賞対象者は国際平和、軍備縮減、平和交渉だけでなく、人権擁護、
非暴力的手法による民主化や民族独立運動、保健衛生、慈善事業、
環境保全などの分野にも及び、また政治的情勢や受賞後の影響を期待した
メッセージを発信するために贈られる場合もある。(ウィキ)

最後はそれなんてオバマ、という受賞ですね。

超余談ですが、平和賞といえば、劉暁波氏のノーベル平和賞に対抗して中国が

「孔子平和賞」

というのを作っておりますね。
いやこれ、皆さんwikiご覧になったことあります?

今まで海外の受賞者が誰一人(プーチン含む)賞を受け取りに
行っていない(つまり全員辞退)というのも、村山富市が候補に上がり
「健康上の理由で」辞退したのも(言い訳だと思うけど)さることながら、
2015年の候補者の名前を見ただけで思わずめまいが・・・。

福田康夫、村山富市、潘基文、朴槿恵、ビル・ゲイツ、ロバート・ムガベなど

福田さんもビル・ゲイツも辞退したと思うけど、もし潘基文、それから
パククネだったら、彼らは受賞・・・・しただろうなあ。
どっちも中国の軍事パレードにいそいそ参加してるし。

そして2014年、我が日本からの候補者に、もし受賞していたら、誰よりも
いそいそと中国に賞を受け取りに行ったに違いないあの人の名前が・・・。


 

閑話休題。

ユニフォームの左側には1940年から42年までのスカウトの制服の
写真がありますが、まるで軍服のようです。

 



1910年にアメリカでスカウトを創始したウィリアム・ボイスの写真をはじめに、
トレイルを読んでいくとアメリカのスカウトの歴史がわかる仕組みです。
やはり戦争中は国債を買おうという運動をしていたようですね。



1940年代のボーイスカウトとカブスカウト(左)の制服。
どちらも今とあまり変わらないように見えますがどうでしょうか。



ここからはボーイスカウトのポスターです。

子供達は昼間の疲れでぐっすり寝ている中、
寝ずに火の番をするリーダー。



「マイティ・プラウド」という題名の絵は、カブスカウトから
ボーイスカウトに進み、新しい制服を着付けてもらっている
少年の誇らしそうな様子と、それを暖かく見守る家族を描いています。

右側は「正しい道」。
上から下へと正しい道を伝えていく、それがスカウト運動であると・・・。



スカウトの少年たちの後ろに海軍の水兵がいますね。



これらはほとんどがノーマンロックウェルの作品です。
マサチューセッツ出身の画家で、わたしは一度
ノーマンロックウェル美術館に行ったことがあります。

題名は「我々が受け継ぐもの」

馬から降りて手を合わせている人物は、独立戦争の指導者でしょうか。



「スカウトのトレイル(ハイキングなどの道)」

ボーイスカウトの思い出を持つかつての少年たちなら、
どれも「こんなことあったなあ」という懐かしさを感じるのでしょう。

夜の闇の向こうに見えるのは、どこかに向かって歩く古の人々のシルエットです。



信号セット、ボーイスカウトの本、規則に「宣誓の言葉」。
スカウトの進級式のことを「上進式」といい、丸めた旗に手を置いて、
右手を上げ、宣誓の言葉を述べます。



戦争が始まって日系人たちは強制収容所に入れられました。
そこでもボーイ&ガールスカウトの活動は行われていました。
野球をしたり新しく入った収容者の面倒を見たり、そして
誰かが戦地で亡くなったときにはセレモニーを行いました。

写真は、収容所でガールスカウトの受付をするキム・オバタ。



ワイオミングにあったハートマウンテン収容所。
列車から降りる新収容者の荷物を受け取るために
ガールスカウトの一団が出迎えています。



同じくハートマウンテン収容所。
同収容所出身の兵士が7名戦死したので、
そのメモリアルサービスを執り行うガールスカウト。



「明日のリーダー」

国債の購入のように、世論一帯が戦時調になると、
スカウトのポスターもそれを意識した勇ましいものになっていったようです。 

戦時中におけるスカウト運動というのは、おのずと
国の姿勢を反映し、その目的も「国の誇り」「国の守り」ということに
フォーカスするとともにその存在そのものが小さな軍隊のようになるのは
ある意味当然のことなのかもしれないと思いました。

もちろんわたしはそれに対し、否定的な意見を持つものではありません。

なお、並べられている名誉メダル、メリットバッジのなかに

「マッカーサーメダル」(1940)

を発見。
このマッカーサーってあのマッカーサー?と思ったのですが、
どうもジョン・マッカーサー教会というのがあって、これが
スカウト運動となんらかの関係があるようなのです。
ただ、マッカーサーつながりでお話ししておきます。


我が日本では世界的にスカウトが普及した創設2年後の1913年には
ボーイ&ガールスカウトは輸入されており、10年後の大正11年には
あの「お髭の総長さん」、後藤新平が総裁となり連盟が発足しています。

翌年起こった関東大震災では、スカウトは各種奉仕活動を行いました。
大戦中も「大日本少年/青年団」として存続していたのですが、
終戦と同時にGHQによって活動を停止させられています。


これはおそらく、GHQが、「大日本少年団」という名称から、スカウトを
ドイツのヒトラーユーゲントと同様に認識していたからではないでしょうか。

さらにいうと、日本でのスカウト運動を禁じた、ということはとりもなおさず、
アメリカ国内におけるスカウトに、ナショナリズムによる国威発揚の傾向が
特に戦時中にはあったということを自ら認めていた、ということでもあります。

終戦後、中断していたボーイスカウトは1947年に復活のための委員会ができ、
そのさらに2年後に再開されることになりました。

この時に旧伯爵三島通陽および、元朝日新聞記者の村山有らが中心となって
活動再開を請願し、これに許可したのが、当時の日本における最高権力者である
GHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥だったことはあまり知られていません。






オーパス・ワン・ワイナリー〜ナパバレー・カリフォルニア

2016-11-24 | アメリカ

カリフォルニアのナパバレーは今や世界でも有名なワインの産地です。
同地域には600ものワイナリーがひしめいており、中には
ブランドとしてその地位を確立したワイナリーもあります。

その筆頭がオーパスワンだと思うのですが、わたし自身はお酒が飲めず、
従ってこのワインの価値も味も全くわかりません。

にもかかわらず、パロアルトから車を飛ばして2時間弱、
わざわざオーパスワンのワイナリーに行くことになりました。
なんでも日本から休暇で来ていたTOが(ちなみにこの人も下戸)
お遣い物&職場のお祝い事のためにまとまった数必要だということで、
観光かたがた買い物をして美味しいランチでも食べようということになったのです。



ナパに行くには、サンマテオブリッジを渡ってオークランドを北上するか、
ベイブリッジを渡って行くか(GGブリッジはさすがに遠回り)です。
ベイブリッジは乗るまでが混むのですが、一度くらいは走ろうと思い
あえて混んだ道を選択していきました。

架け替えが終わり、橋上のライトなどの構造物も整っています。
まっすぐな蛸の足みたいなのは照明です。



ベイブリッジはサンフランシスコから出るときには無料ですが、
入るときに料金を支払う仕組みです。
昔は全て手動だったので、週末の夕方など大変な渋滞になりましたが、
改装後は自動支払いのゲートも増え、合流地点に渋滞時だけ信号をつけて
車の流れを制限することで少しでも緩和しているようです。 



オークランドからひたすら北上すると、ソノマ・ナパといった
ワイン地帯があたりに広がってきます。

ここでのワイン作りは1500年代にスペイン人によって始まり、
決して歴史が浅いというわけではありません。
ここで初めてワインのためのブドウ畑を作ったのはやっぱりというか、
聖職者で、スペイン系の神父でした。

1800年代半ばにゴールドラッシュが起こり、人々が流入しますが、
このときにフランスから入植した者が苗木を持ち込んだりして、
ブドウの種類も豊富になってきます。

1906年の地震と禁酒法はこの地域のワイン業者に打撃を与えました。
地震ではほとんどのワイナリーが壊滅状態になりましたし、禁酒法時代は
ブドウジュースを売ったり、例外だった聖礼典用の酒を作ったりして
なんとか生き延びた業者もあったということです。



オーパス・ワンは1978年に誕生したと言いますから、まだ若いブランドです。
しかも二つのワイナリー(シャトー・ムートン・ロートシルトのロッチルト男爵 と
ロバート・モンダヴィ)の間でボルドー風のブレンドをつくる合弁事業として立ち上げられました。



幹線である一本道に門が面していますが、そこからは
まっすぐワイン畑の中を建物まで長い一本道が通っています。

この神々しい?というか権威ありげな敷居の高さこそが、オーパス・ワンです。



正面に掲げられたフランス国旗とアメリカ国旗。
これはロバート・モンダヴィと、フィリップ・ド・ロチルト(ロートシルト)
男爵の国をあらわすものです。

ド・ロチルト男爵がアメリカのワインに「ロートシルト」の血を入れたことで、
ナパワインは急激に格が上がったということだそうです。



こういうところは意図的に敷居の高さを演出するものですが、
敷居ではなくて天井が高い分ドアが高い。



ドアを入るとここが受付。
今時アメリカにこんな人が生息しているのか、と思うくらい、
小洒落た髭を生やした紳士(絵に描いたような執事風)と、
髪をポンパドール風に綺麗に結い上げた上品な老婦人がいて、
購入窓口となる別の部屋に行くようにと指示をしてくれます。



その部屋がこちらでございます。
ここではワインを紙コップではありますがテイスティングすることができます。
年代ものなどもあるわけですから、やっぱりね。




飲まないわたしにはオーパス・ワンの価値など猫に小判ですが、
いわゆる普通の「オーバーチュア」(序曲)というものであれば
1本が115ドル。
我が家は何年か前にも、日本からワイン通の人を案内してきているのですが、
その時には1本が80ドルといった値段だったそうです。

ここでこんな値段でも、日本のレストランでは5万円くらいになるとか。
アメリカでもワインリストをチェックしてみたら500ドルといった感じでした。

ワイン購入は転売を防ぐためか、一人あたり6本しか買えません。
1本410ドルの2005年は一人1本、360ドルの2010年は3本まで。



TOは木箱入で6本を日本に送ったようです。
ここのカウンターで働いているのは、これもどこから
こんな人たちを集めてくるんだろうというような美男美女ばかり。

やっぱりイメージって大切ですね。

ここを訪れてできることというのは「ワインの試飲と購入」だけで
ミュージアムやお土産屋や、レストランなど全くありません。
しかし、屋上のスペースは眺めもいいので、ぜひ立ち寄ってください、
とお店の人に勧められます。




米仏両国旗のすぐ裏側がテラスになっています。



建物の威容をこうやって眺められるのもここからだけ。
というわけで、立ち寄った客は必ず一度はここにやってきます。
試飲でもらった紙コップを手に、続きと洒落込む人もいます。



広がるワイン畑にはこのようなものが立っていましたが、
これはスプリンクラーでしょうか。



10年前に初めて来た時から通算3〜4回ここに来ていますが、
いつ来ても隅々まで磨き上げられたように美しいのがこのテラス。



格子のラティスが、日の光を幾何学的に遮って、影を作ります。
ナパ地方の太陽は強烈で、日向だとテラスなどに出られたものではありませんが、
これなら少しはましです。(もちろん長居は不可能ですが)



国旗の下からラティス越しに広がる前庭と道。



畑の向こう側に道沿いに走るワイントレインが見えました。
ワイントレインは、ナパ・バレーをランチやディナーをいただきながら
時速30キロの速さでのんびり巡る人気の列車です。

1915~1917年製の車両を完全復元したレトロ調の車両に乗って、
ナパ市とセントヘレナを3時間かけて往復するのです。
車内ではダイニングで料理を食べ、もちろんワインを楽しむこともできます。

WINE TRAIN

景色を眺めるだけのわたしたちは、写真を撮るとすぐ車に向かいました。
車を停めるスペースのすぐ横がもうすでに畑です。



ブドウがいたるところたわわに実っていました。
格の高いワイナリーのオーセンティックで高貴な佇まいを
堪能したわたしたちがそこで見たのは・・・。



おい(笑)

もう、どこにいってもゲンナリさせられるのが中国人。
どこにいっても中国人がいないことはないのですが、せっかくの
ワイナリーの雰囲気をその佇まいですでにぶち壊してくれるのです。

この一団は、ギャーギャー騒ぐ子供たち連れで、しかも全員が
バックパックにジーンズと運動靴、という歩きやすい(笑)格好。

いや、バックパックでもジーンズでもいいんですよ。それなりなら。
でもなんかはっきり言ってむちゃくちゃ違和感があるわけ。
似合ってないわけ。もっというと雰囲気だいなしなわけ。

写真を撮っているのか何をしているのかわからないけど、
あぜ道に入り込んでしかも座り込むか・・・・。


わたしたち以上にアメリカ人、こういうところに来る白人系アメリカ人は
そう思っているらしく、屋上のテラスでテーブルについて試飲のワインを
飲みながら話をしていたカップルは、彼らがやってくると、
露骨に嫌な顔をして反対側に移動していました。

ここは転売屋が爆買いできないので、それでもましなはずなんですけどね。



さて、用事が済んでこの地域のおすすめをカード会社に予約してもらい、
ランチを食べに行くことにしました。
道路沿いにある「ブリックス」というカリフォルニア料理の店です。

奥にあるシカのツノみたいなのはブドウの木です。



予約してもらって現地に行くと、前に来たことがある店なのに気付きました。



このドアもきっとワインと関係あるんだろうな。



大変暑い日だったのですが、外のテーブルにしてもらいました。
レストランの庭はそのものがブドウ畑の中にあります。



金髪の愛想のいいハンサムなウェイターのおすすめを頂いてみました。
スープはそこそこでしたが、えびの乗ったピザは絶品でした。



気候が乾燥して日差しが強いので、カリフォルニアでもこのあたりは
日本のガーデナー垂涎の植物がやすやすと育ちます。

なかでもラベンダーは産地でもあります。



食事をしながら庭を眺めていると、遠くにあるバードバスに
赤い頭の鳥さんがいることに気付きました。



House Finch、日本名メキシコマシコです。




ぷるぷると可愛らしい仕草で水浴びをしていると、
他の鳥(ヒタキの類)が二羽やってきました。

暑いのを我慢して外で食べた甲斐がありました。



デザートは味そのものよりも見た目重視。
添えてあるバラなどの花びらも食べられました。
あたりまですが、バラの花はバラの味がします。
そこで一句。

「薔薇の花が薔薇の味する何事の不思議なけれど」(by白秋)



デザートの頃、驚くほど近くをワイントレインがゆっくり通過しました。
おそらく汽車のダイニングでも、乗客がデザートを楽しんでいる頃です。

ワインを一滴も飲まずに、ワイナリーを満喫した1日でした。







海の騎士道〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

2016-10-15 | アメリカ

帆船「コンスティチューション」については、中に入っていかないまま
総火演シリーズに突入し、
随分昔に話をしたような気がします。
一つのテーマについて書いているときにはそれなりに知識がつき、
資料を読むのも数字を調べるのも当社比で随分楽なのですが、
いったん中断してしまうと
記憶からさっぱり細部が消えてしまい、
もう一度調べるのが二度手間ですね。
(単なる愚痴)



二度目に家族と一緒に来たとき、前回は立ち入りを禁止されていた
甲板下に降りられることに気づきました。
見学客用に手すりが付いて滑り止めが施されたラッタルで下へ。



これがラッタルを降りた下の階部分。
ここから下に行く階段も同じところにあります。



今いるのが上甲板の一階下ですから、ここより下にまだ船底まで3階ありますが、
一般に公開されているのはここまででした。




ついにやってきたコンスティチューションの第2甲板。
この時代の船もそういうのかどうかはわかりませんが。

天井は大変低く、日本なら3m置きに「頭上注意」の指導が入るところですが、
コンスティチューションは海軍の記念鑑でまた現役鑑ですから、
この鑑内で起こることすべては見学者の自己責任となっています。

2mおきに立っている柱は結構新しいものに見えました。
当時このようなものは多分ですがなかったと思います。
左側の窓から砲口を出し、相手を攻撃する場所だというのに
こんな邪魔なものを作ったりするわけがありませんね。



こちらは左舷側の砲門というか砲眼。
大砲の砲口を出すところです。

コンスティチューションは「フリゲート」という艦種で、
このフリゲートには

小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された船

という定義があります。
バトルシップ=戦艦、クルーザー=巡洋艦、デストロイヤー=駆逐艦、
と翻訳した日本ですが、どういうわけかフリゲートは訳さなかったので、
未だに「フリゲート」とそのまま呼んでいます。

フリゲートの語源は「フレガータ」(fregata )という小型のガレー船
(人力で櫂を漕いで進む軍艦)で、イギリスで発祥しました。
帆船時代の海戦においては、索敵などを行うのがフリゲートの役目です。
艦隊戦では主に戦闘を行う戦列鑑 (ship of the line )の外側に就きました。
ちなみに中国海軍ではフリゲートを「護衛艦」と翻訳しているそうです。

 
この戦列鑑というのもまた、同じように砲で戦闘を行う軍艦ですが、
帆船時代の砲が甲板ではなく艦内の「砲列甲板」(ガンデッキ)にあるのは
甲板は帆船の帆を張るための舫だけでいっぱいだからじゃないでしょうか。


帆船時代の軍艦による海戦はすなわち船腹の撃ち合いでした。

大変脆弱な弱点だった船首と船尾を敵の攻撃から守り、
船腹に沢山並んだ砲口を相手に向けるのです。

舷側には重い砲が並んでおり、砲門の穴が開いているので
ただでさえ強度は落ちますし、さらには発砲の衝撃が凄まじいため、
「オールド・アイアンサイズ」(鉄の船腹)ならずとも、一般に
軍艦の船腹はもっとも強度が考慮されていました。




コンスティチューション・ミュージアムにあったカロネード砲と
砲門を模したもの、そして拳を固めなにやら言っている人。


この写真で砲につながっている索を「タックリング」と称します。 

右側に赤い柄のモップみたいのがありますが、これは「スポンジ」で、
大砲の筒の中を掃除することは、砲員たちを危険にさらさないためにも
大事な作業の一つでした。
大砲は、撃つ都度、新鮮な火薬を詰め変えなくてはならないのですが、
古い火薬が残っていると、火花から暴発する危険性がありました。

ちなみにこの乗組員のフキダシには

「鍛錬は完璧を生む(Practice makes perfect)」

毎日俺たちは、我らが「ビッグウィル」で弾込め、照準、発砲の
正確さ、速さなどのスキルを磨いてきた。
砲の周りには9人のメンバーがいて各々の任務を行う。
お互いにエキスパートとして協力し合うことで
俺たちは(戦いのあと)生き残ることができるのだ。


事故の危険性以上に、相手を殺らなければ全員一緒に死ぬわけですからね。



この人の言っている「ビッグウィル」とは、9人の砲員が自分たちの
使っている砲につけていた愛称です。
各砲門は専用になっていたらしく、この「ブリムストーン」のように
名札が付けられていました。

 

こちらはバンカー・ヒル。
もちろん独立戦争以降の命名だと思われます。



10インチの弾丸実物がミュージアムに飾ってありました。
19世紀に用いられた砲丸には穴が空いていてボウリングの玉みたいです。

まず底に火薬、続いて砲丸を入れて、ヒューズに火をつけて爆発させます。
当時の大砲というのは、物理的に弾丸を飛ばしてぶつける、という仕組みで、
当時の技術では筒と砲丸の間に隙間ができてしまうため、発射効率が悪く、
そんなに遠くにまで弾丸を飛ばせたわけではありません。

したがって、戦闘とは常に至近距離で行われました。

 

大砲周りのグッズいろいろ。
手前のものはわかりにくいですがグレープショット=ぶどう弾といいます。

白いものは帆布製の袋で、ここに子弾を9発詰めてあります。
帆船における近接戦闘で索具類破壊と人員殺傷を目的に考案されました。
名称は小弾が詰まっている様がブドウに似ていることに由来しています。

向こうの筒状のものは「キャニスター爆弾」



手前右の丸いのは「ラウンドショット」。
これがいわゆる普通の弾丸ですね。
その上の鉄アレイみたいなのは「ダブルヘッデッドショット」。

棒が繋がったみたいなのが「バーショット」(ショットバーではない)
あと、熱くして使う「ホットショット」なんてのもあったようです。

木製の金魚すくいの枠みたいなのが、丸い弾丸を載せるもの。
これを持って走り、一番早い人が勝ち・・ってそれは玉すくい競争だ。

手前の「match stick 」はその通り火をつける棒だと思います。



ところでこの博物館には、いたるところに当時衣装をつけた人のパネルがあり、
それぞれのフキダシによるセリフから色んなことを知る仕組み。
漫画的ですが、こういう展示は外国人や子供にもわかりやすくていいですね。

例えば手前の人は

「”ブリッツ”に勝ったからバケツにいっぱいお金をもらったぞ!」

と言いながら政府から発行された褒賞の証明書を掲げており、
奥のカップルの女性の方は

「もし船乗りに志願したら、この人酒場でクダ巻く時間もなくなるわね」

飲んだくれダンナを水兵にして長期間外に放り出す(もちろんお金も稼いでくる)
ことを考えております。




ここには敵であったイギリス海軍についての展示もあります。
その場合はパネルの人に当時の英国国旗をつけてくれているのでわかりやすい。


銃の手入れをしているこのシーマンは、
これまで長い長い時間沈黙に耐えて待った結果、やっと敵が見えた、
さあ戦いの準備だ、と言っております。 



こちらもイギリスの場合。

当時、同じ船乗りになるとしても、セイラーとマリーン(海軍士官)が

待遇面でどう違っていたかを表にしてあります。

面白いのは、セイラーには身長制限がありませんが、マリーンは
身長170cm以上ないとダメだったということ。(音楽隊は別)
セイラーが要実務経験に対し、マリーンの方は「経歴不問」。

制服もセイラーが「自分で調達」に対し、マリーンは

「たいへん目を引く(アイ・キャッチング)デザインの軍服が支給される」

うむ。 



こちらコンスティチューションの乗員。
なにやらシリアスです。


戦争の恐怖

初めての出撃で僕が見て感じたことを想像できるか?
ぞっとするようなうめき声と傷つき死んでいく人の姿・・。

イギリス船と戦ったあとの甲板の上には、血と脳みそ、
歯や骨のかけら、指、そして肉片で覆われていたんだよ。

これは、実際にコンスティチューション乗員だった人の回顧です。

彼の後ろにいる白衣の人物は医師。

「人間性が非人間性の後を付いていく」

として、戦闘後、倒れている人々から敵味方を問わず
生きているものを見つけて手当てをした、と言っております。



かし、手当てといっても船の上でできることは限られていました。
当時、命に関わるような大怪我の場合、傷を負った手足は
腐敗しないように切り落とすしかなかったのです。


ここに展示されているのはそれを行ったといわれる大型のナイフ。
医師はさらにのこぎりで骨を切ったわけですね。


左上は、コンスティチューションの艦長であった
アイザック・ハル(Captain Isaac Hull)の述懐です。

「 戦いの日々にあってもわたしは冷静で、むしろそれに心沸き立ったが、
何より恐ろしいのは、日が経っていくことだった。
それにつれて傷つき苦しむわたしの部下が増えていくのを見ることになった」

右下は命と引き換えに脚を切られてしまった乗員のリチャードさん。

「あんたらまるで肉屋みたいだな」(意訳)

ためらいもなく怪我した手足を事務的に切り落としていく医者に、
ついついこのように言ってしまった模様。 


まあ、さっきの医者などは、切り落とした手足の骨で椅子を作った、
なんてことも言ってたみたいですから・・・。gkbr(AA略)




こちら旗を見てお分かりのようにロイヤルネイビーのキャプテン・ダクレス。

降伏

わたしは、ハル艦長の指揮とその乗組員たちの勇気について
言及する義務があると感じる。

わたしの部下たちは最も少ない犠牲で最大限の敬意と手当てを受けることができた。

おお、ここにも海の武士道ならぬ「海の騎士道」が存在したと。

しかも騎士道といえば、ハル艦長は、ロイヤルネイビーの士官に

捕虜になった後も帯刀することを許したという話がここに書いてあります。

降参するにあたって自分のサーベルをその印として
ハル艦長に渡そうとしたHMSゲリエール艦長。
それに対して、ハルはこう言いました。

「貴官は降参されるとおっしゃる。
そしてご自分の刀を本官に渡そうと・・・・。
いやいや、いけません。
本官はその使い方をわたしよりよく知っている人間から
それを取り上げるつもりはありませんよ」


いや、どちらもイングリッシュスピーカーで話が早くて良かったです。



しかし、勝てば官軍、負ければプリズナー。
勝ったコンスティチューションの乗員たちには栄誉が与えられます。

ハル艦長は敵を敬意を持って扱いましたが、ただしそれはマリーン(士官)のみ。
ゲリエールの水兵たちはその後、
ボストンに帰るまでずっと甲板に繋がれたままですごし、
アメリカでもまるで罪人のような処遇を受けたのでした。

ただ戦闘に負けただけなのに。




ゲリエールの乗員。

「負けた・・・・」


海の男同士響き合うものがあったとしても、戦争は過酷で勝負は現実。
当博物館の展示はそんな戦士たちの悲哀にも光を当てております。(適当)


続く。




 


コヨーテポイントのアシカ〜カリフォルニア・サンマテオ

2016-10-14 | アメリカ

先日、サンマテオのコヨーテポイントで偶然見つけた
商船アカデミー跡のことを調べ、ここに戦争中だけ
カデットを育成する教育機関があったことを知ったわけですが、
その時に思ったのは、あの戦争はアメリカも本気だったんだなということです。

ベトナム戦争は知りませんが、911のときにボストンにいた者として、
あの事件直後の異様なアメリカ全体を覆い尽くしたショック、
それに次いでパトリオティックな空気が醸成され、音を立ててそれが
国民全体を包み込んでいく様子を見ていました。

ですから、ブッシュ大統領がその後「不朽のなんたら作戦」と称して
アフガニスタンに侵攻したときに、アメリカ国民がその攻撃を
パパブッシュの湾岸戦争のときほど支持していなかったのを、
外国人なりに少し不思議なことに思ったわけです。

今にして思えば、アメリカ国民もブッシュのこのときの性急さから
なにか胡散臭いものを感じていたのかもしれません。

少なくともこの戦争がアメリカ社会を大きく変えることはなかったし、
ましてや国民が一丸となって、なんて気配は全くありませんでした。


しかし日本との戦争で本気になったアメリカは、太平洋の戦場に必要な船に
乗せる船員(戦闘行為も有り)を、民間から徴用するのではなく、 
教育機関をパッと作ってしまったりしたわけです。

その気になったらこれくらい簡単にやってのけるアメリカという国は
やはり底力があったし、変な自負かもしれませんが、そのアメリカに
ここまでさせた日本もまた大したものだった、などと思ってみたりもします。



さて、そんな話はともかく、今年の夏もここに行ってみました。
今回は日本から休暇で来ていたTOと一緒です。



アメリカのいいところは、公園として解放しながら、
変に整備したりしないこと。
道沿いに柵くらいはつけますが、あとは放置。



商船アカデミー跡のシンボル、ソルティー・ザ・イーグルの像。
ここにアカデミーがあった証に、永遠にここに残されます。

ここでひとしきり調べたことをTOにレクチャーするわたしでした。



アカデミーがあった時代に作られたらしい人口の洲がありました。
左のほうの、かつてのアカデミーの港は、今ヨットハーバーです。



岩を積み上げただけの洲。



これまで歩いてきたところを振り返る。
右のほうにサンフランシスコ空港があります。





さて、このときわたしは望遠レンズとカメラを持ってきていました。
このコヨーテポイントからは、サンフランシスコ空港に着陸する寸前の
ギアを出した飛行機が間近に見えるのです。

この機体はアメリカン航空。



こちらもアメリカン。
こちらは3年前に導入された新デザインのボーイング 737-800らしい。
フライトアテンダントの制服もこのときに一新したそうですね。
全く乗らないのでどう新しくなったのかも知りませんけど。

あ、昔ここのエコノミーに乗ったとき、消灯後に、ものを落として
拾うためにかがんでいたら、体重1トンのプロレスラーみたいな
がさつなFA(男)に頭を思い切り蹴飛ばされたことがあったなあ・・。
よく脳震盪にならなかったもんだ。

「アーユーオーケー?」

とか聞いてたけど全然オーケーじゃなかったわい。 



いつもお世話になっております。
ユナイテッド。



去年乗ってなぜ皆が「デルタ、サックス!」というのか
わかった気がするデルタ航空。

そういえば、我が家はクリスマスにボストンからフロリダに行くのに
やる気のないカウンター職員がでれでれやっているためなかなか列が進まず、
予約したフライトに乗り遅れて最終便まで待たされたことがありました。



アメリカ国内だけを飛んでいる格安航空、ジェットブルー。
日本のエアドゥとかソラシドエアみたいなもんですね。
日本のは機内サービスの簡略化で節約?しているようですが、
アメリカの格安航空もまあ似たような感じです。

というか、どんなエアラインも大したサービスはしないので、
同じなら安い方がええやろ、と考えるむきもあるようです。

ジェットブルーは格安航空の中でお値段比較的高めですが、
レガシーキャリアと変わらないサービス、そして何と言っても
大容量の衛星通信導入によって国内他社の8倍の通信速度で
インターネットができるというのが売り。



イギリスのバージン・アトランティック・エアーが設立した、
これも格安航空のバージンエアー。
バーリンゲームといいますから、このコヨーテポイントの隣に本社があります。



ノーズ部分に”#nerd bird" と書かれているのを発見。

ナードバード、オタク鳥・・・・?

バージン・アトランティックエアは、機体に
ティンカーベル、マドモアゼル・ルージュ、ドリームガール、アップタウンガール、
ホットリップス、ピンナップガール、クィーンビー、ダンシング・クィーン、
などと「女の子」の名前をつけていることで有名ですが、こちらも
本家に倣って、鳥シリーズで名前をつけているのかもと思いました。

サンフランシスコとオースティンを往復する便の名前のようです。




鳥といえば、ここにはアジサシ鳥が頑張って漁をしていました。
飛んでいたかと思うと果敢に垂直降下して獲物を狙うやりかたで、
見ていて飽きません。

「アジサシ母さん頑張れ」

「あーだめだった」

などとわたしたちもつい応援してしまいます。



ブラックバードのメス。
メスとオスで色が違います。 



これは珍しい。
デンバーの格安航空会社、フロンティアの機体です。
アメリカの民事再生法に当たる倒産法を申請しましたが、営業してます。
アロハ航空とかは経営破綻してなくなってしまったのですけどね・・・。

 


飛行機を撮る合間に水鳥を撮ろうと思いまして、
ふと海面に目をやれば、遠目になにか黒い丸いもの発見。



肉眼ではわたしもTOも全く確認できなかったのですが、
優秀な望遠レンズで撮って、拡大してみて初めてそれが
息継ぎに出てきたこんなものであることを知りました。

「アシカ?」

「アザラシ?」

「オットセイ?」

言われてみれば、その違いなどを深く考えたこともありませんでした。
調べてみると、アシカにもオットセイにも「耳がある」そうですから、
穴が空いただけの耳のこれは消去法でアザラシということになります。

ちなみにカリフォルニアには「カリフォルニアアシカ」というのがいて、
モントレーなどでは海沿いを歩くと岩場にごろごろしています。



ぷはー、と目を閉じてるアザラシ。
ちなみにアシカは「シーライオン」、アザラシは「シール」、
(イアーレス・シールが正式)オットセイが 「ファーシール」です。

アザラシとオットセイが同じ「シールズ」とは知りませんでした。



空気を吸い込んでいるところなので思いっきり鼻の穴を広げております。
潜水のとき、この鼻の穴は自然にぴったりと閉じてしまいます。

ちなみにアザラシの目は色を見分けることができないそうで、
白黒の世界を見ているんだそうです。
アザラシに聞いたわけでもなかろうに、なんでわかるのだろう、と思ったら、
網膜に色を識別する錐体がなく、桿体だけしか持っていないため、
明るさは感じるけど色の概念がないということらしいです。

犬や猫も錐体が少なく、青と黄色しか見分けられないとか。

ほんの少しの間、こうやって空気をすーはーすーはーしてから、
アザラシは潜ってしまい、それっきり姿を見ることはありませんでした。







釣りに来ている人もいました。
楽しみでやっているのかもしれませんが、ちょっと真剣な感じです。



そんなあなたのために、「フィッシュ・スマート」。
いや、この場合スマートかどうかを問われるのは人間でしょう。

食べてもいいのはカレイにカニ(レッドロッククラブ)、
メバル(煮付けにすると美味しい)、ジャックスメルトという名前の
イワシ系の魚、そしてアトランティックサーモン・・・
ってこんなところで獲れるのか。

だめな魚はストライプバス、サメ、白チョウザメ、ヒラマサ、
そしてウミタナゴ。

ヒラマサがなんでだめなのかわかりませんでした。
日本じゃ刺身で食べますよね?

なお、左の看板の2番目は中国語で書かれている模様。



帰りにやっと全日空が来ました。
アメリカで機体の日の丸を見ると無条件でうれしくなります。



子供が二人で一つのスマホを見ながら歩いていました。
まだこのときには発売されて間もないポケモンゴーをしていたようです。
わたしがアメリカにいたときにはこのブーム、すごかったですが、
今では少し落ち着いているのでしょうか。






 


リッツ・カールトンホテル ラグナニゲール

2016-09-18 | アメリカ

新婚旅行で泊まって以来のリッツカールトンのファンです。

アメリカではハーフムーンベイ、フロリダのキー・ビスケーン、
そしてロスアンジェルス近郊のラグナ・ニゲールのリッツが好きで、
機会があると食事や宿泊に訪れたものですが、この夏、
たまたまアーバイン在住の知人家族に会うことになったので、
そのついでにラグナニゲールリッツに一泊しました。

いつもなら1日いくらでホテルに泊まっているので、
外泊はもったいないという気になってしまうのですが、
今年は月単位でアパートを借りているのでその点気が楽です。

たまたまマリオットホテルのリワード(会員ポイント)が
もうすぐ期限切れというメールが来ていたので、
リッツの宿泊費に充てることを思いつきました。

少し金額を追加するだけで憧れのリッツ、しかもベイビューの部屋に一泊です。



友人と遅い昼をアーバインで食べ、さらには海水客でごった返す
海岸沿いの道路をナビが選択したため、ホテルに着いたのは日没前でした。



部屋は4階のベイサイド。
なんと、ポイントで部屋を予約したというのに、リワード会員だったので
ホテル側がアップグレードしてくれたらしく、クラブフロアでした。

部屋のベランダからは素晴らしい眺め。



ホテルの部屋は大きなベッドが一つだけだったので、予備ベッドを頼みました。
ただ、この日は忙しかったらしく、なかなか届けに来ませんでしたし、
スリッパも常備しておらず、これも注文して届いたのは翌朝。

「あの」リッツのちょっとした凋落を感じてしまったできごとでした。



と、いきなりネガティブ入ってしまいましたが、それは些細なこと。
夕日を見ながら部屋を楽しみます。



アメニティのブランドがアスプレイに変わっていたのも嬉しい。
アパート用にと、シャンプーと石鹸は皆持って帰りました。(貧乏性)

相変わらずゴージャスな洗面所ですが、大理石のシンクや床は、
どうも日本人には「冷たすぎる」と(特に床)感じます。
しかもそんなところで使ううがい用のコップがうっすーいガラス。
案の定、手が滑ってシンクに落とし、割ってしまいましたorz

お詫びのつもりでチップは多めに置きました。



一人部屋になりそうな広いクローゼット。



最初にラグナニゲールのリッツを知ったのは、この椅子の後ろから
広がる海を撮ったホームページの
美しい写真でした。

念願叶って1階の、この椅子の後ろ側の部屋に泊まった時には、
はしゃいでその写真と同じ構図の椅子を撮ったりしたものです。



今日は結婚式がここで行われたようです。

パーティは一応終了したようですが、招待客がまだ語らっています。
やはりリッツで結婚式をあげる家とその知人ですので、
見た目もみなさんゴージャスでいらっしゃる。

アメリカ人は普段超がつくほどカジュアルですが、
いざパーティとなると男女ともにビシッと決めます。



両親がガゼボの下で写真を撮っているので、子供達は
横ではしゃいでいます。



男の子はネクタイにスーツ(ポケットチーフまで!)
女の子はお姫様のような裾の広がったドレス。

こうやって幼い時から「ふだん」とちがった「よそいき」の装いの基本を学ぶんですね。



子供たちが親に呼ばれて走って行くと、すぐにホテルの人が来て
あっという間にガゼボは片付けられてしまいました。



7時過ぎでも陽が沈まないのでサーフィンをしています。



望遠レンズで撮ると彼らの表情まで手に取るように写っていました。

「おらおら、そっちいくぜー!」

「おい、マジでこっちくんじゃねー!」



そしてその後日没を部屋から楽しみました。



開けて翌日。
クラブフロアは朝、昼、夕、夜と食べ物が出されるのでレストランいらずです。



早朝はパロアルト付近のように曇っていました。
しかしカリフォルニアはこのまま1日が終わることは決してありません。
早いと7時には太陽が雲を吹き払い、1日強烈な暑さとなります。

サーフィンをする人たちは夜明けとともにもう海に出るようでした。



またしても望遠レンズの威力を試すわたし。
このサーファーは肉眼では女性であることはわかりませんでした。



昨日結婚式会場になっていたところには椅子が戻され、
1階の部屋の人が朝の新聞を楽しんでいます。



わたしたちはクラブの隣の部屋だったので、せっせと朝食を運び、
テラスで海を見ながら食べることにしました。

アメリカ人は朝ごはんに決して葉っぱを食べないらしく、
どんなホテルでもビュッフェにサラダが出ていたことがありません。



わたしたちがテーブルに着くと、すぐにギャラリーが現れました。



食べ物を残したまま席を立つのを鳥視眈々と待ってます。

 

なんとなく望遠レンズで写真を撮って、あとから確認したら
目玉がしっかりこちらを凝視していました。



怖い。



向かいの椰子の木にもカラスが止まってこちらを見ています。
こちらは黒い目なのでそんなに怖くありませんが。



下の庭(結婚式をやっていたところ)に野うさぎ発見。



ホテルの4階から地面を撮ってこのズーム。
Nikon1の望遠レンズ、優秀です。



植え込みのところからおずおずといった感じででてきました。



なんかここの芝が食べてみたかった、みたいな?
うさぎの白目部分までちゃんと写っているのにびっくり



のうさぎを真剣にiPhoneで撮ってるおじさん(笑)
この写真、一応目にマスクをかけているのですが、あまり効果ありませんね。



野うさぎは白兎よりふたまわりくらい小さいのが普通です。
おそらくこれで体長20cm少しといったところでしょうか。

アメリカではうさぎはどちらかというと「食べるもの」「害獣」で、
日本人みたいにペットにするという感覚は全くないそうです。



見ていたらもう1羽出てきました。
捕まってリッツのディナーテーブルに乗らないようにねー。



チェックアウトを1時に延ばしてもらい、午前中を思い切り楽しむために
わたしたちはホテルから海岸に降りることにしました。



ホテルの周りには「塀」というものがなく、砂浜と行き来できます。



半円形のガラスのあるところはホテルのジムです。



一番端のコーナーまで来てみたところ、ここでヨガ教室をしていました。
驚いたのは、ヨガの先生がものすごく太っていたことです(推定体重1t)

「あんなに太っていてヨガの先生ってなんか説得力なくない?」

「っていうか、あれでいろんなポーズ取れるんだろうか」

実はかなりその点興味津々だったのですが、ジロジロ見るわけにも
さらには写真を撮るわけにもいかず、わたしたちはその場を去りました。



この脇の階段から海岸に降りていくことにしました。



ここにもサーフィンを楽しむ人々がたくさん。
みていると、プロ並みの人もいるのではないかと思われました。



どう見ても中学生。いや、小学生かな。



パンツが脱げそうで見ていてハラハラした人。



年齢も様々です。



男性と女性サーファー。



この人はプロ(確信)



サーフィンは激しいスポーツらしく、太った人はまずいません。



TOは砂浜を歩きに行き、わたしとMKはジムに行くことにしました。
運良く真ん中のマシンが空いていたのでここで海を見ながら運動。

わたしに言わせるとここは「世界で一番いい眺めのジム」です。



たっぷり汗をかいて部屋に戻り、シャワーを浴びて一休みです。
日曜日なので浜辺には海水浴客がこんなに。



サーファーもイモ洗い状態。(アメリカにしては)



水上バイクで競争している人たち。



クルーズかドルフィンウォッチ?ジェットボートで運ばれる人たち。



もう一度部屋からサーファーウォッチングを楽しみました。







チェックアウトしてからメインダイニングに昼食を食べに行きました。
十分昼ですが「ブランチコース」だそうです。



アイスティー(日本のよりあっさりしている)を頼むと
サトウキビのスティックが刺してありました。
飲み物が甘くなるほどではありませんが、噛むとほんのり甘みがあります。



ペット用のメニュー(どこで食べるの?)があったのには驚き。

挽いたサーロインをソテーしニンジン、セロリ、ポテト、ブロッコリ、
カリフラワーと混ぜて焼いた「ドッグボーンミートローフ」18ドル。

鶏胸肉と米とヨーグルトをミックスした「パピーラブ」18ドル。

生、あるいはグリルした鮭「キティーズ・サーモンシュプリーム」20ドル。

うーん・・・・・(絶句)。



デザートですか?いえ違います。
サンデー『ブランチ』なので最初にヨーグルトが出てきました。



幾つかのメニューから選べるので怖いもの見たさでスシを取りました。
ちゃんと海苔巻きのスシがでてきたのには感動しました。
(アメリカ人はノリの黒が嫌いなので外に巻かないことがある)



TOが頼んだホタテとマグロ。



わたしのはポーチドエッグの下にカニだったかな。



さらにデザートが一人一つ出てきたりするのだった。
家族で外食するとき、デザートはたいてい三人でシェアしますが、
ここではもう覚悟を決めるしかありません。
息子はチュロスは喜んで食べてしまいましたが・・・、



さすがにチーズケーキ(しかも大きい)は多すぎました。



なんでもリッツがここオレンジカウンティの「海以外何もない土地」にホテルを建て、
観光地にしてしまったというのがこのラグナニゲール・リッツ。

またこの大好きな場所で海を見ることができて幸せなひとときでした。






PTボート艇長JFKと「天霧」艦長の手紙

2016-09-15 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」艦内には、コンパートメントを利用して
博物館のようにテーマを決め関連する展示を行っています。
これはカリフォルニアの「ホーネット」と同じ方式です。

今思い出せるだけでも、慰霊のための「メモリアル・ルーム」の他は
「ウーマン・プロテクティング・ US」(女性がアメリカを守る)という
「アメリカ軍と女性」に焦点を当てた企画、Dデイ、真珠湾攻撃コーナー、
それからPTボートと呼ばれる高速魚雷艇のコーナーなどがありました。



Patrol Torpedo boat、哨戒魚雷艇。
全長20m、排水量50t程度の木製の船体に航空機用エンジンをデチューンして搭載し、

40ノット(約70km/h)以上の高速で航行することができました。

「魚雷艇」ですので、中央部分にはMk13魚雷を積んでいます。
初期は魚雷落射器とのセットを4組搭載することが多かったようですが、
この艇は後期のものらしく、2組だけです。





魚雷や機銃や機関砲、さらには対戦車砲をも搭載する型もありました。
排水量あたりではかなりの重武装といえます。
これは40mm機関銃。




乗員のネズミがかわいいぞー。てかなぜネズミ?
艇首の茶色いネズミが撃っているのは、アス比が正確でないので
確かなことはわかりませんが、エリコン20mmのような気がします。



艇長(白ネズミ)と副長(茶ネズミ)はちゃんと軍帽着用。
テッパチにカポックの乗員もおります。



なぜかセーラー帽に青いシャツの水兵もいますが。
右側のテッパチ白ネズミさんの武器はブローニングM2機銃のつもりかと思われます。



なにやら記録しているエンジニアらしきネズミ。



戦争中には768隻(アメリカ向け511隻、ソ連向け166隻、イギリス向け91隻)と
量産され、1隻ずつが「スコードロン」だったので、いちいちこうやって
各艇のメモリアルコーナーをブースごとに並べているわけです。

一つ一つ見て歩きたいのは山々でしたが、いかんせん限られた時間、
写真を撮るにもあまりにもブースが多すぎて断念しました




代表して一つだけ、スコードロン20のPTボートのコーナーの写真を撮りました。
正式な艇名は、「U.S.S. PT-252」というふうに呼称されていたものです。


中央のプレートが全艇員の名なのだとしたら、42名分あるわけですが、
定員は2〜3名の士官を含む11〜7名だったといいますから、
この勤務もせいぜい1〜2年で移動となったのかもしれません。

スコードロンマーク。

ついでに?となりのスコードロンマーク。


PTボートは予備役士官と応召兵で運用が行われました。
一般の大学に設置された予備役将校訓練課程( ROTC)を経た士官を
予備役将校といったわけですが、若き日のJFKもハーバードでこの課程を受け、
PT-109の艇長をやっていたことがあります。



右端がケネディ中尉だそうですが、なんというか同じ目線というか、
すっかりナカーマという感じのフレンドリーな雰囲気ですね。
写真を撮っている人を入れて11名が乗り組んでいたようです。

ケネディ艇長指揮のPT-109は、1943年8月2日、ニュージョージア島西方で
輸送任務に就いていた日本海軍の駆逐艦「天霧」に衝突され炎上・沈没しました。


これは戦闘行為ではなく、「天霧」の操艦ミスでした。
「天霧」に座乗していた司令官(艦長ではない)が、PTボートの接近を見て
魚雷艇に衝突してしまうと魚雷の誘爆に巻き込まれるかもしれないと判断し、
回避のために「取舵」をまず指令しました。
ところが艦長が次の瞬間「面舵」と号令してしまったのです。

なんでやねん。

と思うわけですが、実はこれは艦長に理がありました。
緊急回避の際は面舵いっぱいというのが艦船の通例であり常識だったので、
艦長はおそらく自分の「常識」から脊髄反射で「面舵」を口に出し、
次の瞬間司令の号令とは逆であることに気がついたのでしょう。

先日どこかに書いたように、海軍の慣例では、座乗している司令官が
たとえ階級的に上位であったとしても、艦の操艦権限は艦長にあります。
この場合、最初に司令が回避命令を出したのは越権行為というべきものでした。

しかし、そこで性格によるものか、空気を読んでしまったのか、それとも
出世とかあとあとの気まずさとかを日本人らしく考えてしまったのか、
次の瞬間艦長は「艦長絶対」と「操艦のセオリー」より、上官命令を優先し、
とっさに命令の言い直しをしてしまったのです。


つまりいったん出した「面舵」を「取舵」と修正して号令し、
その結果駆逐艦はPTボートに激突してしまったというわけです。

艦長が自分の出した命令を言い直しさえしなければ、衝突は回避できたかもしれません。
つまり、この衝突の最大の責任は、分をわきまえずに最初に命令を出した司令ではなく
艦長にあったことになります。




PTボートが木でできていたということを示すための展示。
このパーツはPT-139の「サイドセクション」だそうです。

普通のPTボートはマホガニーの2層のレイヤーでできていました。
レイヤーには水漏れを防ぐため、防水を施した航空機用のキャラコ布を挟んであり、
まさに板切れを鋼鉄のパーツでつなぎ合わせたという感じの代物です。



この下の木片は船底部分だそうです。
とにかくスピードを確保するために、軽い船体に航空機用のエンジンを
デチューンして搭載しているというのが売りだったのです。

さらに艇体の軟弱さは、航空機エンジン搭載のスピードでカバーできる、
という思想で、このケースでも本来なら衝突を避けるためにPTボートの方も
全速で逃げればよかったのですが、不運なことにこのとき、

日本軍の航空機による攻撃を避けるため、騒音および航跡を残さないように、
三基の内二基を使用しない、減軸運転を行っていた。
ゆえに速度が遅いまま航行していたので魚雷艇側も舵の効きが鈍く、
回避が困難であった。(wiki)


というわけで駆逐艦「天霧」とぶつかったPT-109はひとたまりもなく、
胴体が真っ二つに割れ、海の藻屑になってしまいました。 


ケネディ艇長とその乗組員は近くの小島に漂着し、
数日後に救助されたのですが、このときのことが映画になってます。



1963年作品。監督レスリー・マーティンソン。(誰?)
きっと「天霧」の艦長が極悪人みたいに描かれてるんだろうなー(鬱)
見たいような見たくないような。

それにしてもこんな題材で2時間20分の超大作って。
まあ、おそらくこんな光景が展開されたのでありましょう。

この映画はケネディ暗殺の5ヶ月前に日本でも封切られているそうです。



ケネディのボートは、もともと日本軍と対峙していたツラギに配属され、
日本軍の輸送業務を妨害する任務でソロモン諸島に向かったのでした。
会敵できず帰投する航行中、不意に「天霧」に遭遇、いきなり衝突、
このときにすでに2名が戦死しました。

ケネディと残りの乗員たちは海の中で「天霧」が去るまでじっと待ち、
その後大破した船体の木にしがみついて、近くの島まで泳ぐことにしました。


このときケネディは負傷した部下の命綱を咥えて6キロ泳ぎ、さらには
島に着いた後、救助を求めて5キロ以上を泳いだということです。
ケネディはハーバード時代、水泳部だったのでした。
これを見る限り背泳はあまり上手ではありませんが。

7 Photos of JFK's Harvard Swim Team Days

ハーバードのプールは、タイタニック沈没でハーバード卒業生だった
息子を亡くした
富豪ワイドナー未亡人の寄付でできた(ワイドナー図書館も)
といいますが、ということは、
ケネディがこのとき命存えたのも、
間接的にワイドナーの寄付のおかげだったといえないこともありません。


しかしそれでなくても、鱶がうようよしている海でよくまあ無事だったものです。


彼らがたどり着いた島には水も食料もなかったため、ヤシの実がある島へ移り、
ココナッツにメッセージを刻んで、そこの島民に連合軍に届けるよう託しました。
それはうまくオーストラリア軍の手に渡り、6日後にケネディたちは救出されました。

ちなみにこのメッセージ入りのココナツは、その後彼が大統領になったとき、
執務室にずっと飾ってあったそうです。


艇沈没後の行動はともかく、海軍的には、このときのケネディ艇長の資質を
疑問視する声もあったと言いますが、ケネディの父ジョセフは、
海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手をまわして息子をヒーローに仕立てました。
彼は政治家になる前にすでにこの件で十分に有名人だったのです。
後に下院に立候補した際には、宣伝材料としてこれを報じた記事が配られました。
(もちろん配ったのは父親) 

さて、ここで注目したいのが元「天霧」の艦長始め乗員たちです。

彼が上院議員に立候補したときそのニュースは日本に伝わりました。
「天霧」乗員一同は、自分たちが沈めたボートの艇長が
生きていて政治家になったことに驚き感銘を受けたのでしょう。
1952年の上院選と1960年の大統領選の際には元乗員一同の名で
ケネディに激励の色紙を贈ったりしたそうです。

天霧乗員たち(海自隊員の姿あり)

そして、そのケネディが訪日したとき、「天霧」の艦長は
こんな手紙を送りました。


1952年9月15日 


親愛なるミスターケネディ、

わたしはホソノグンジ医師から、1943年ソロモン海域での戦闘で
日本海軍の駆逐艦に沈められた戦闘艦があなたの指揮下にあったのを聞きました。

その駆逐艦の艦長であったわたしにはそれは大いなる衝撃でした。
1952年8月18日付のタイムマガジンにそのことが書かれており、
読んだ途端にわたしの記憶は新たに蘇り、まざまざとあのときのことが浮かびました。

(中略)

今こそわたしにあのときのことをお話しさせてください。
わたしは1940年10月以来「天霧」艦長を務めていました。

日米両国の最終的な外交努力の成功に最後の望みをかけつつも、
当時日本が置かれた経済状況を鑑みて、日本海軍は最悪の準備を行いました。

わたしたち若い士官にも、海軍力で劣るアメリカと英国を相手にすることが
いかに無謀なことかはわかっていましたが、極秘のうちに計画された
真珠湾攻撃を知ったときにはまさに動揺を禁じ得ませんでした。

ほとんどの海軍軍人はこの戦争の成り行きに普通に悲観しておりましたが、
東条大将の内閣の巧みな開戦時の宣伝によって
勝利への希望的観測を
持たされていたといえましょう。

ミッドウェイ海戦以降、状況は変わり、日本とは違って
米国は政治的にも、国民の戦意も、全てが有利になっていきました。

わたしはソロモン諸島での戦いに従事しておりましたが、
ガダルカナルでの連続した敗北に対し、憂慮を感じていました。

1942年から3年5月までの間、わたしはトラック諸島での海上勤務で、
その後駆逐艦「天霧」の艦長を拝命しラバウルに移ったのは6月です。
その頃からアメリカ軍の反撃はますます激しくなりました。

制空権も取られ、昼間動けなくなった我々は、駆逐艦で夜になると
アメリカの人員と弾薬を輸送する任務を妨害しなければなりませんでした。

我々の旗艦はあなたがたの艦隊にいとも簡単に沈められました。
我々は知る由もありませんでしたが、レーダーの力です。
この後の連続的な敗北の後、我々はラバウルに後退しました。


1943年8月初頭、わたしは、駆逐艦としては大型のわたしの艦に

向かってくる小さな敵の艇を見ました。
銃に装填する間もなく両者は接近し、我が駆逐艦は
ボートにまず激突し、
これを真っ二つにしました。

このPTボートがあなたの指揮する艇であったことは衝撃でした。

わたしは、あなたがこの戦いで見せた大胆かつ勇気ある行動に
心から敬意を表するとともに、また、あなたがこのような状況下から
奇跡の生還を遂げられたことを祝福するものです。

タイム誌の記事によるとあなたは次の選挙で上院議員に立候補されるとか。
あなたのようにかつての敵にも寛容である方が高位についてくださったら、
間違いなく日米両国の真の友好が、のみならず世界平和の秩序もまた
促進されていくものとわたしは固く信じています。


あまり丁寧に訳していませんがおおまかな意図は間違っていないと思います。

正直、とくに前半の部分は、読んでなんだかなあ、と思いました。

戦争の経緯ををことさら解説せずともケネディには周知のことだっただろうし、
全体的にも、なんだか自分たちを卑下しすぎやしないか、と感じたのも事実です。


ケネディもそのときは日本の輸送船を沈めるために出撃していた訳で、
お互い自国のために戦う軍人として相見えたというだけなのですからね。

ただ、衝突事件についてどっちが悪いとか、沈めてごめんなさいとかではなく、
健闘と勇気を讃えて、さらに政治家としての成功を祈るという、
非常に清々しい、ネイビーらしい手紙であるとも思いました。


あるケネディ研究者によると、この事件は、
ケネディのその後の人格形成に大きく影響しているそうです。

なかんずくそれは、大義のために死んでいくことへの疑問や
全面戦争とか総力戦といった言葉への嫌悪となって表れました。

”政治が我が子を戦場に送り出すことに留意するとき、
その目的には明確な信念と理由ががなければならない”としている。
そして大統領に就任後は、大国同士の誤算を懸念し、
意図せずして戦争に巻き込まれていく危険を常に意識していた。
(wiki・一部変更)


ケネディが手紙をどのように読んだのか、もはや想像するしかありません。

実際に彼がこの衝突事件で生死の境をさまよったことが

彼のリベラルな思想を形成した、という分析はほぼ間違っていないでしょう。

ゆえに未来の大統領は、かつての敵から送られてきた手紙の、とりわけ

「東條内閣の宣伝によって我々は勝てる気がしていた」

というところに、
あくまでも「他山の石」的な意味で
小さく共感を覚えたのではなかったか、
と想像してみます。

+おまけ+
 


ケネディのメッセージ入りココナツをオーストラリア兵に届けた
島の住民、ビウク・ガサおじいちゃん。

「J.F.K. はわしが助けた」のTシャツを着ています(笑)

 

 

 


アメリカ合衆国商船アカデミー跡〜サンマテオ・コヨーテポイント

2016-09-13 | アメリカ

1年前の滞在の写真になりますが、サンフランシスコ空港近くの
サンマテオに「コヨーテポイント」というレクリエーションエリアがあり、
息子をキャンプに送り届けたあと、カメラを持って歩きにいきました。 



公園は対岸にサンフランシスコ空港を望む海沿いにあり、長い砂浜を持ちます。
夏なのでビーチで遊ぶ人はいるかもしれませんが、立て札には
ライフガードはいないのであとはわかるな?と書いてあります。 



砂浜を散歩する人。



海沿いにトレイル(小道)が整備されているので歩いて行くことにしました。



向かいに見えているのはオークランドです。 




サンフランシスコは朝方厚い霧で覆われているのが普通ですが、
空港近くになると途端に霧が晴れてきます。
昔国際空港をどこに作るかが協議されたとき、人々が
霧のかからない都心から最も近い場所としてサンマテオを選んだのだろう、
と空港に向かう高速で急に霧が晴れるのをいつも見て思います。

この日朝、サンマテオは薄曇りでしたが、この天気が1日続くことはまずありません。



ここはちょうど空港滑走路の対岸にあたり、国際便が
最終着陸態勢を取って次々と着陸していくのが見えるポイントです。
今年は三脚持参で望遠レンズ投入して撮ってみようかな。



早速散歩開始。
アメリカでこういうところを歩くと、時々誰もいなくて怖いときがあります。
ここは州立公園なので、入り口で料金を支払う仕組み。
決して浮浪者などが入り込んでくることはないのですが、それでも
心のどこかで軽く緊張しながら歩いています。



まあここにはこんなものもあるので犯罪の発生する率は低いでしょう。
もし変な人がいても、大きな声で叫べば飛んできて、
訓練を兼ねてみんなで寄ってたかって犯人をやっつけてくれそうです。




文字通り根こそぎ倒れてしまった木もそのまま。



トレイルに沿って歩いて行ったとき、わたしの「ネイビーセンサー」が
いきなり激しく鳴り渡りました。
なぜこんなところに船の錨がっ・・・・?!



黒曜石でできているらしいベンチに書かれた文句をドキドキしながら読むと、
1775年に創立された「U.S Marchant Marine」とそのマリナーに捧ぐ、とあります。
寄付した人々の名前には「キャプテン」の冠を持つ人も。



マーチャント・マリーンというのは直訳すると「商船」。
商業船として米国内の海域・水域で運輸に携わっているものの総称ですが、
商船のほかタグボート、曳船、フェリー、遊覧船、ボートなど全てを指します。

しかし、アメリカ合衆国がいったん戦争となった場合、軍事に
その機動力始め要員を提供する、という任務を帯びる組織です。



モニュメントがあるここには、かつてその乗組員を養成する
「マーチャントマリーン・アカデミー」がありました。
この石碑には「カデットーミシップマン」(cadet-midshipman)とあり、
当校に学ぶ学生をそう称していたらしいことがわかるのですが、
「カデット」は普通陸軍、「ミシップマン」は海軍における士官候補生を指します。
ちなみに先日行ったコーストガード・アカデミーでは「カデット」でした。

この理由は、第1次世界大戦を経て1936年、議会が商船法(多分戦時法を踏まえたもの)
を承認した時、付随して創立され教育組織が

「Marchant marine cade corps」

という名称だったことからだと思われます。
商船アカデミーというのは日本だと「商船大学」となってしまいますが、
日本の商船大学に相当するのは、アメリカでは強いて言えば
「海事大学」(Maritime Academy)
ではないかと思われます。
その海事大学も、卒業すれば海軍や海兵隊に少尉として入隊することが可能ですが。

商船アカデミーは航海士か機関士の免許を取って卒業後、
マーチャントマリーン(米国保有商船隊)に任官する学校です。




錨を足元に置いたワシは「Salty the sea eagle」というマスコット。
この場合「ソルティ」が愛称となります。
学校のモットーは

「 DEEDS NOT WORDS」(言葉より行動を=不言実行)
 



卒業生によって作られたメモリアルゾーンのプレートの最後には

「HEAVE HO!」

フネ関係の方なら、もしかしたらこれが錨を巻くときの海の男の掛け声だとご存知でしょうか。
この碑は全ての戦争で失われたアカデミーの卒業生の魂を悼んでいます。



Bearingsというのは、おそらく「方位法」をもじっているのでしょう。


現在商船アカデミーはニューヨークのキングスポイントにあり、
通常キングスポイントというと、この学校を指します。
戦争が始まって、戦地への軍艦以外の多数投入が急がれることになった時、
アメリカ政府は、船員を大量に養成する必要にかられ、西海岸にも
学校を作ることにし、1942年、サンマテオ商船アカデミーが創立されました。

日本では民間船を船員ごと徴用し、商船学校出身の学徒士官を
船長にしたのですが、さすがにアメリカはやることが違います。
彼らを「ミシップマン」と呼び、かっこいい制服も制定しました。

若者の士気が服装に影響されるということをよく知っていますね。



アカデミーの訓練風景。
海事トレーニングだけでなく、自分たちの駐在する施設を自分たちで作ったそうです。



夜、真っ暗な海にボートで漕ぎ出すのもトレーニングの一環でした。
短い歴史のあいだにはこの海域に出没するサメを捕まえたこともあり、いまなら
夏の恒例番組、
ディスカバリーチャンネルの「シャーク・ウィーク」で放映されて
大いに住民に感謝されるところですが、地元民の感謝を彼らが知ることはありませんでした。




そして一晩中ボートを漕ぎ続けるという訓練も・・・。



マーチャントアカデミー通常兵装。
例えば、特殊潜航艇「回天」が撃沈した油槽艦「ミシシネワ」などのように、
彼らが乗り組んだ輸送艦もまた、南洋にその多くが戦没していきました。
ここに写っている彼らのうち、サインのない候補生の多くは船と運命をともにしています。



アカデミーがここに発足したことを封じる当時のニュース。
いまモニュメントがあるところにはこんな地球儀があったようです。



バーリンゲームというのはコヨーテポイントのある隣町です。
船を買ための資金調達のために、ここで彼らがかっこよく行進を行い、
国民に国債を買ってもらうというデモンストレーションのお知らせ。



かつての学校の配置図。
港としてこの時整備されていた部分は、いまヨットハーバーです。
警察学校以外には自然科学館があり、子供たちの夏のキャンプ場となっています。



学校ができるまでは放置されていたコヨーテポイントは、学校ができて以来
整備されて美しいポイントに変わったということを自慢しております。 



自艦が撃沈された時に海に飛び込む訓練(たぶん)。
みなさん鼻を押さえております。



どこの団体にも一人はいる、絵の上手い人による漫画。
いくら「微笑みを絶やさず」といわれても、こういう場合は嫌だよね。
(交換してもらう方は)



無事トレーニングを終了して、サンマテオを去る候補生。
マーチャントマリーンに任官することも、海軍や海兵隊に任官することも、

もちろん民間に就職することも彼らには可能です。



かつて彼が海へと続く未来に向かって歩いていった道は、今ではわたしのように
自然を楽しみにやってくる
来園者や、バイカーのためのトレイルとなっています。

コヨーテポイントのアメリカ合衆国マーチャント・マリーン・アカデミーが
終戦を受けて
ここでの役割を永遠に終えたのは、1946年のことでした。




 


彼女が「アイアンサイド」だったわけ〜USS「コンスティチューション」

2016-08-11 | アメリカ

さて、帆走フリゲート艦「コンスティチューション」見学1日目。
いよいよ内部を見学です。



前もって聞いていましたが、「コンスティチューション」は海軍の現役艦なので、
たとえ艦内を通り抜けるだけであっても手荷物検査とIDチェックを受けます。
金属探査機まであったのでそのものものしさにびっくりしました。

わたしはパスポートを持ち歩かないので、列の途中でIDをチェックしている
「コンスティチューション」の乗組員に、

「自分の国の免許書しかないんだけどこれでいいですか」

と聞くと、

「写真がついていればなんでもいいですよ」

皆並んでIDを見せ、カバンの中を全部見せてこの小屋の中を通りました。



こ、これはたしか帆船の横っ腹から突き出している大砲?
今補修中なので全部ここにおいているのでしょうか。
この手前の比較的短い砲は

カロネード砲

といい、1860年ごろまで軍艦に装備されていました。
「コンスティチューション」にはこれが20門搭載されています。

向こう側の砲はこちらより長いですが、こちらは長砲で、
こちらの方が多く30門ありました。
砲弾の重さはカロネード砲が15キロ、長砲が11キロです。

そして11kgの船首砲が2門。
これが「コンスティチューション」の武装です。



中に入ってまず船首側から一枚。
船首から突き出している白いマスト状のものは何なんだろう、
まさかこれが船首砲・・・・のわけないよね?
と思って画像を検索してみました。



う、うつくしい・・・・。

これは1997年、大改修後、40分の帆走を行った「コンスティチューション」ですが、
艦首の部分を見ていただくと、この白い部分の先に木造マストを指して
そのマストにも帆を張っているというのがわかりますね。



さて、ところで「コンスティチューション」が繋留してあるチャールズタウン、
ネイビーシップヤードの第1ドックですが、建設されたのは1800年。
この版画に描かれているころには、もう出来てから50年も経っていました。

ドックの前を海軍軍人らしい3人が歩く姿が見えますが、
バッスルスタイル(ドレスのスカートの後ろを膨らませる当時の流行)の
女性が日傘を持って優雅に散歩しているのでとてもここが海軍工廠に見えません。



こうして比べてみると、昔とは陸の部分の形が全く変わってしまっているのがわかります。
「コンスティチューション」は、1812年の米英戦争における英国艦との戦いで、
その堅牢なライブ・オーク製の船腹が砲弾を跳ね返したため、それ以降

「OLD IRONSIDES」(鉄の船腹)

の敬称を奉られることになりました。
(オールドは古いというより親しみを込めた呼び方のそれだと思う)

そう呼ばれるに至るまで、1933年以来、彼女はまさにこの第1ドックにおいて
幾たびかの修復を受け、それによって船体を強固にしていったのです。



彼女が「鉄」と呼ばれたのにはこんな仕掛けがありました。
リペアの際、彼女を手がけた船大工たちは、樹の特性を踏まえ、使う木材を
慎重に選定して「コンスティチューション」に使いました。

例えばデッキにはダイオウマツ、張り板にはホワイトオークといった風に。
木挽が用意した木材のチップで船大工が各部を作り上げ、さらに銅加工職人は
船底を銅板で全て覆い、「アイアンサイズ」に彼女を加工したのです。

超余談ですが、昔アメリカのテレビ番組に


「鬼警部 アイアンサイド」(原題”IRONSIDES")


という日本題のドラマがあったのをご存知でしょうか。

日本人にはピンと来ませんが、アメリカ人であればこのタイトルから
「コンスティチューション」のあだ名をすぐさま思い浮かべ、
主人公のイメージ(苗字がアイアンサイドというみたいですが)に
「打たれ強い」「パトリオット」などのイメージを重ねたのでしょう。



ところで、上の図ですが、黒い部品を”Ship's knee"といいます。
この部分は、さらに上の図に見られる樹の部分を選定してカットされました。
1800年代のライブオークは、今日のものより堅牢な樹質であったそうです。




ここがボストン海軍工廠の第1ドライドック。
1800年にチャールズタウン海軍工廠(その後ボストン海軍工廠に名前を変更)
が出来てから、最初の戦列艦「インディペンデンス」を建造して以来、
その後「コンスティチューション」を生んだドックです。

ちなみに、横須賀にフランスから招聘されたヴェルニー技師の設計による
日本初のドライドックが出来たのは、84年後の1884年のことです。



アメリカ人観光客は覗きもしないドックの細部を、
熱心に写真に撮る怪しい日本人(笑)

ドックの底には「1500」「1200」などの番号の書かれた木材がならべられています。

さらには「コンスティチューション」の船首の先に「あれ」がある!
これ、「ミスティック・シーポート」で飾ってあったのと同じですよね?
錨の形をしているんだけど、大きな横木が付いている・・。

二つを組み合わせて倒れないように置いてあります。




レンズを望遠に変えて後ろに戻って撮ってみました。
これがこの「正しい使い方」のような気がしますが、してその用途目的は。



ドックの底の木材は、縦横に組み木のように置かれています。



このドライドックの仕組みについてわかりやすく説明しています。

1、ドライドックの入り口には海水が少し入っており、
入り口は浮き扉で閉じられて海水の流入を防いでいる状態です。

このドックの「浮き扉」のことを「ケーソン」といいます。
海水はケーソンを通っているパイプを通じてドック内部に満たされます。

2、ケーソンを「浮き扉」というのは、それ自体が浮くからです。
ケーソン内部の海水を汲みだすと、ケーソンは浮き上がって入り口を離れます。

3、船が曳航されてキールブロックの上に浮かべられます。

4、水を満たされたケーソンがドライドックの入り口にもう一度置かれ、
ドライドック内部の海水はポンプで吸い出され、あとは
クレイドル(設置場)の上に船が乗った状態でドック内が「ドライ」になるのです。



ということは、これが「ケーソン」、つまり浮き扉ってことなんでしょうか。
この内部の海水が抜かれて船のように浮き、離れたところに曳航されて、
さらに船が設置されてから元の場所に戻されて「水密扉」の役目を果たすと。

どうやったらこの巨大なものをここにぴったりとはめるのか、
わたしはむしろその操作を是非見てみたい。




これは船尾からドックのハッチをみたところ。
ケーソンとその周辺の壁など、排水のための機構は最新式のものです。

「コンスティチューション」には一度解体の危機がありましたが、
大衆の支持によって保存が決まり、1931年、最就航しました。
1940年、議会で彼女の「永久就役」の身分が決まり、このときから
「コンスティチューション」は「国と海軍の象徴」となったのです。

ベトナム戦争の後、閉鎖されていたこのドックですが、再利用の案が流れ、
結局は歴史保存のためそのままここでは歴史的艦艇の修復のみが行われることになりました。

この第1ドックのハッチがいつできたのかは、海軍工廠のHPが閉鎖中で
見ることができなかったのでわかりませんが、かなり近年のことに思われます。





これは排水ポンプに違いありません。
左側に4本、右側に2本の、直径40センチくらいのポンプが、
ドック内の海水を汲み出すためにドック底につけて設置してあります。

船体を導入するときにパイプを傷つけないように、その手前の
船形のコンクリートの壁がパイプを守る形になっています。


なかなか内部に入っていくことができませんが(笑)、次回、
さんざんドックの写真を撮りまくってから見た「コンスティチューション 」の
甲板についてお話しします。


続く。 


「Don't Give Up The Ship!」〜帆走フリゲート艦「コンスティチュート」

2016-08-10 | アメリカ

それは、ニューロンドンの潜水艦基地にある原潜「ノーチラス」の艦内で見た、
野球大会の記念ボールに書かれていた文字がきっかけでした。

「ノーチラス対コンスティチューション」

どちらが勝ったのかはわかりませんが、「ノーチラス」のこのときの対戦相手が
ぱぱっと調べただけではただ帆船ということしかわからず、
例によって当ブログ上で丸投げしたところ、お節介船屋さんの情報により
これがなんと海軍の現役帆船であるということを知ったのです。

それにしても、アメリカから帰国以来13年間、毎年この地に来ていながら、
帆船「コンスティチューション」がボストンどころかアメリカ海軍の象徴であり、
観光の目玉であることを
全く知らなかったわたし・・・・。orz


ノーウォークからウェストボロに移動してすぐ、TOが日本に帰国し、
一人になった途端、わたしはバトルシップコーブを始めこのコンスティチューション、
そして戦艦「セーラム」と海軍オタクの聖地のようなボストンの港港を渡り歩き、
そしてその全てを満喫したのですが、この帆船見学だけはいつもと少し趣が違いました。


というのも、この「コンスティチューション」の繋留展示してあるチャールズタウンは
ボストンの中でも歴史の古い(1628年に設置、翌年より入植開始)街で、
あの「バンカーヒルの戦い」の舞台となった土地でもあります。

そしてなんといってもチャールズタウンにあったボストン海軍工廠は
アメリカの海軍工廠で最も早い時期に(1600年)開設されたものです。
同工廠で最初に建造されたのは戦列艦「インディペンデンス」ですが、
33年後には、アメリカ副大統領、陸海軍長官を含む多くの高官および
マサチューセッツ州の職員たちが臨席し、ニューイングランドにおける
最初の海軍乾ドックにおいて、「コンスティチューション」 が就役しました。

これは未だに「アメリカ海軍史上における素晴らしい出来事」の1つとされています。

展示されているのが最古の現役艦であること、そしてその繋留港そのものが

歴史的に重要な、しかも現在も海軍の用地であること。

見学者が少なくて週末にしか公開しておらず、艦内見学しているのは
終始わたしだけ、というような船があれば、こちらはボストンの超有名観光地。
(わたしは知らなかったけど)
趣が違ってあたりまえというものです。



なにしろボストン随一の観光地であるネイビーシップヤードなので、
駐車場がどうなのかを大変心配していたのですが、
なんのことはない、周辺の路上に2時間までメーター制で停められました。

最近はクレジットカードが使えるパーキングメーターが増えたので、
小銭をいつも持ち歩かなくてもよくなったのは喜ばしいことです。



ネイビーシップヤードの方向に向かって歩いて行くと、まずこんな

いかにもドックでした、みたいな光景が現れました。




当時のネイビーシップヤードの地図を見ると、『1』が第1ドライドック、
『2』が第2ドライドックですから、位置的にこの部分は
昔第2ドライドックとして使われていた部分であると思われます。



今はドックとしては機能しておらず、まるで運河のような景色。
ドックだった名残りとして、周囲を線路が取り囲むように走っています。


ドックとミスティックリバーを望む左奥の立派な建物は複合ビルで、
上階がアパートになっているようですが、こんなところに住んでみたい・・。



チャールズタウンは古い建物が未だに多く残る地域ですが、
海軍工廠の建築物もほとんどがこのような当時のままのものです。

レストランなども中身だけ改装して営業しています。
条例による規則もあるのかもしれませんが、アメリカ人、ことにボストンでは
人々は古い建物を決して立て替えたりせず、使い続けるのが基本です。



ところで上の青空の写真はボストンを離れる前日、空港ホテルにチェックインする前に
家族と来た時のもの、そしてこの写真が一人で来た時のです。
空の色がまったく違うでしょう?

実はこの両日、同じ場所とは思えないくらい天候が違いました。
後者は蒸し暑く強烈な日差し、この日はどんよりと曇って風が強く、
震え上がるくらいの寒さだったのです。

顔が真っ赤になって家族に大丈夫かと聞かれるくらいの暑さと
寒いのとどちらがマシかと言われれば、断然後者ですが。



「コンスティチューション」の繋留してあるのは第1ドックです。
海軍工廠の敷地には誰でも無料で入ることができます。

工廠内にくまなく走っている線路に沿って「スケールハウス」と書かれた
小さなオフィスがありました。
何を「計る」のでしょうか。



スケールハウスの道の反対側の建物は造船所内にあったもので、
復元されて、さらには右側に見える新しく作った通路で別の建物と連結させ、
『U.S.S.コンスティチューション博物館』となっています。
ここも見学しましたが、素晴らしい充実度でした。
「コンスティチューション」の誕生からその歴史までを学ぶことができます。



こちら「コンスティチューション博物館」正面。
この旗の立っている部分の右側が「コンスティチューション」のいる
第1ドックがあります。



これが最古の現役海軍艦艇である「コンスティチューション」!
今までその存在すら知らなかったくせに、現物が見えると胸が高鳴ります。
この時にはまだ警官銃撃事件の余波が収まらなかった頃で、そのため
すべてのフラッグが半旗に揚げられているのでした。

一番右にはアメリカ国旗が揚がっていますが、あと4つはなんでしょうか。



ちゃんと現地には説明のボードが出されていました。

まずアメリカ国旗に見えたのは、

●「スター・スパングルド・バナー」(Star Spangled banner)

といって、15の星、15のストライプでした。
「コンスティチューション」が1812年の戦闘で揚げていたのがこれです。

上から二番目の赤字にイギリス国旗は、

●「ブリティッシュ・レッド・ナーバル・エンスン」(英国赤海軍旗)

「コンスティチューション」が1812年に戦った英国海軍の船、
HMS「ジャバ」、HMS 「レヴァント」が揚げていた旗です。

黄色と赤のストライプの旗は、

●「トリポリタン旗」

「コンスティチューション」が参加したバーバリー戦争で
 トマス・ジェファーソン率いるアメリカ艦隊が戦った
カラマンリー朝トリポリタニアの旗です。

その手前の青い旗には白字で

● 「Don't give up the ship」(船を諦めるな)

と書かれていますが、これ、確か「ノーチラス」のダメコン10則の
一番最後に書かれてましたよね?
この言葉はUSS「チェサピーク」がボストン湾でイギリスの戦艦HMS「シャノン」に
捕捉され、砲撃を受けて瀕死の状態に陥った艦長、ジェームズ・ローレンスの
最後の言葉だったということです。

ちなみに、最後の言葉はふた通り伝えられており

「船を諦めるな。沈むまで戦え」(Fight her till she sinks.)
「早く砲撃をしろと伝えろ。船を諦めるな」(Tell them to fire faster.) 

いずれにしても「船を諦めるな」が海軍のモットーとして今日旗となっています。



ちなみにこれがその現場写真。

最後の白い旗は

●「自由貿易と船員の権利」(Free Trade And Sailors Right)

 USS「チェサピーク」が1813年に揚げていた旗です。
アメリカがイギリスに対して海上での自由貿易を求めた、というのが
そもそも1812年の米英戦争の大きな原因だったわけですが、
改めて米英戦争について書かれたものを読んでみると、アメリカ人の
ネイティブ・アメリカンに対する残虐な描写ばかりが目についてですね・・・。
この戦争ではインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐため、
イギリスと手を組んだことから、

司令官ジョージ・ワシントン(米初代大統領・米英戦争以前に病没)は
この地を領土とするイロコイ族の皆殺しを指揮し、彼らの集落を徹底破壊して、
イロコイ族から「町の破壊者」と恐れられた。
イロコイ族が英軍と同盟を組んで米植民政府側に刃向かったからである。
ワシントンは軍隊に殺したイロコイ族の皮を剥がせて、軍装の飾りにさせていた。

とか、

ジャクソンは殺したインディアンの鼻をそがせて戦利品とし、
死体から皮をはがせて軍馬の手綱にさせた。
また「女を生き残らせるとインディアンがまた増える」として、
赤ん坊でも幼女でも、かまわず女を虐殺させた。

とかね。
アメリカ人はこういうの、学校でどんな風に教わってるんでしょうね。 
まさか、教わってない・・・? 




「コンスティチューション」は2016年夏現在ドライドック入りしており、

ここ第1ドックにおいて補修中となっています。

1992〜5年に彼女は大改装によって稼働可能な船として生まれ変わり、
1997年、この年は彼女の200歳の誕生年であったわけですが、彼女は
実に116年ぶりに海に帆を張って航海に出ました。

その40分の航海の間、ミサイル駆逐艦とミサイルフリゲート艦が2隻、
彼女の護衛を行い、また空にはブルー・エンジェルスが飛来して
彼女の復活に敬意を表したということです。

1797年に就役してから219年の時を経ても未だ現役の最古艦。
海軍における象徴であり、アメリカ海軍史上最も有名な海軍艦であり、
そして現在の彼女の使命は、海軍の歴史とともに海軍そのものを
人々に広く知らしめる広報大使としてその姿を見てもらうことにあります。




「コンスティチューション」がドライドックに入っているの図。
ほぼ同じ角度からたまたま写真を撮っていました。
周りの建物の様子こそ今と変わっていますが、「コンスティチューション」と
彼女が鎮座しているドックだけはこの絵と寸分変わることはありません。


次回、この第1ドックのこともお話ししていこうと思います。


続く。


 


EAST TO WEST〜淡々と写真を貼るシリーズ

2016-08-07 | アメリカ

東海岸で見たものについての話が全く終わらないうちに
いつの間にか東海岸から西に移動していたのでした。

今回たまたま窓際を息子から取り返したので、外を見ていたら
珍しく全行程全く雲がなく、移り行く地形を写真に撮ることができました。

これがなかなか面白かったので淡々と貼っていきたいと思います。
ちなみにカメラはソニーのデジカメです。



出発便が朝8時台だったため、ローガン空港近くのホテルに一泊しました。
窓から眺める夕焼けが綺麗です。



いくら国内線とはいえ、いつ行っても混んでいるローガン空港なので、
大事をとって2時間前に空港に到着しました。
無事離陸してすぐに撮った写真。
グーグルマップでチェックしたところ、これは「サフォーク・ダウンズ」といって
競馬場なんだそうです。



去年も確かこんな、なんというか思わず背筋がざわざわしてしまうような
上空から見たヨットの群れの写真をあげたかと思います。

この正体は、ここがボストンでも有名なヨットクラブのある「コーブ」で、
半島と砂州で繋がった小さな島との間の海には、それこそ何千も係留してある
個人のヨットなのです。



まだ朝なので帆を張っているヨットは全くいません。
自分のヨットの場所まではおそらくボートで行くのだと思いますが、
よくまあこんなところをよく間違えずにたどり着けるものだと思います。
専門のタクシーのようなボートがいるんでしょうか。

ちなみに、この左側の「マーブルヘッド」を昔ドライブしたことがありますが、
ここにあるすべての家がとんでもない豪邸ばかりで、驚き呆れたものです。 



その先に、小さな島がありましたが、なんとプールが見えます。
もしかして大金持ちが私有している島?と思って調べてみたところ、
これは「チルドレンズ・アイランド」といって、ノースショアのYMCAが
子供のためのデイキャンプを運営しているそうです。

元々はキャットアイランドといい、1700年代には天然痘患者の隔離病院が
ありましたが、本土の住民の放火によって全焼しました。
その後独立戦争時には軍艦の停泊地となり、その後は業者に買収されて
リゾート島になったものの、経営が苦しくなったので売却されて、
次は子供のための療養所となりました。

療養所といっても、病気の子供はともかく肢体不自由児までが収容されていたようで、
要はていのいい「いらない子供捨て場」ではなかったのかと思われます。

いずれにしても昔の技術では水の確保に苦労したため、療養所も
1946年には廃止になっていたということだそうです。



今回は前もってHPをチェックしてリコンファームもしておいたので、
ちゃんと食事の出るクラスに乗ることができました。
リコンファームなんて大昔の慣習だと思ってたぜ。

ユナイテッドは、アメリカンやデルタよりはマシなものが出ます。



全行程不思議なくらい雲の見えないフライトでしたが、
こんな可愛らしい雲がなぜか一つだけポツンと浮いていました。
よく見たら何か乗っていそうです。



しばらく行くと・・・、そう、カンザス州あたりでしょうか。
緑が比較的少ない南部の州にかかったころ、こんなものが頻繁に見えだしました。



たくさんある地域があれば、こんな風にたった一つポツンとあるものも。

これは

センターピボット (Center pivot irrigation)

というもので、乾燥地域において行われている灌漑農法なんだそうです。

乾燥地域でも大規模に作物を栽培できるよう、地下水をくみ上げ、肥料を混入した後、
自走式の散水管がまるで時計の針のように回って円形の地域に水をまくのです。

散水器は、一日1~12回程度同じところを通ります。
飛行機からこんなに見えるくらいですから、平均は半径400m、
大きいものは半径1kmにもなるそうで、なるほど、その部分だけに
作物が育っているので「緑の円形」が砂地に出現するわけですね。



まだ設置されたばかりの円形では、まだ緑が薄かったり、全くなかったり。
中には4分の1しか作物が育っていない円形もありますね。

しかしこの灌漑農法、等高線耕作を無視して土壌流出が起こったり、
塩害が発生したりと、問題も大変多いのだそうです。
また、地下水の枯渇や、化学肥料による地下水(飲料水)の汚染が問題となっているとか。

まあ、こういう「砂漠に花を咲かせる」ことも可能にするのも、
その後の「資本家の倫理」で後に引けなくなって突っ走るのも、
さすがにアメリカではスケールがでかいというか(嫌味です)



ほんの小さな砂だまりに見えますが、ピボットが直径800mとしたら
横の長さは6〜7kmはあることになります。



いかにも水の少なそうな平地をしばらく行くと、山脈が横たわる一帯が。
ここはおそらくコロラド州に入るあたりだとおもわれます。



砂地の中にポツンと緑の部分が!



ここも人口の灌漑地で、おそらく右上に民家があります。
こんなところに住むって、どんなんだろう・・・。

自家用機の飛行場もあるみたいですが、これでは「隣」が何百キロも先。



砂漠の中にくっきりと浮かび上がる車道。
おそらく、1日走っても他の車と全く出会わないに違いありません。
昔ボストンからサンフランシスコに引っ越すとき、荷物を別送にして
車で大陸横断を計画したことがありますが、改めてこういうのを見ると、
運転する人間が一人で、しかも2歳の子供連れ、車はトヨタカムリでは
とうてい無理ゲーだったとしか思えません。

もちろんモノの本にはコロラド山脈などを避けたルートが紹介されてましたが。
そのとき読んだ本に

「ガソリンは半分まで減ったら必ずすぐに給油すること」

「夕方以降は絶対に走らないこと」

と書いてあって、軽く戦慄したのを思い出しました。



舗装してある道は上空から見るとわかります。
砂漠の真ん中の道ながら、何台かの車が走っているのが見えました。

まあでも、こんなところで夕方ガス欠になったらもう終わりですよね。
きっと日が落ちたら気温は零下になるとおもいます。



なんかすごく無理して水のないところに水を引っ張ってる感じ。
これもきっと地下水をくみ上げているのだと思われ。
そこまでしてどうしてここに農場を、と問い詰めてみたい。



家もないのに飛行場。



これは自然湖。
コロラド州に入って、だんだん緑が増えてきました。



この頃、アメリカの南部は猛烈な暑さに見舞われ、それがニュースになっていましたが、
この辺りでは雪が山脈に残っています。

スキー場で有名なアスペンもコロラド州にあり、冬季オリンピックの行われた
ソルトレークは隣のユタ州のおなじ山脈一帯に位置します。

アメリカのドラマを見ていると、「アスペンでスキー」というのを
決め台詞のようにつかっていることがよくあり、どうやらここは
リッチな冬のレジャーをする場所としてアメリカ人がイメージしていることがわかります。



とっても気持ちの悪い?沿岸線なのですが、これはグランドキャニオンの少し北、
ユタとアリゾナ州の州境にあるパウエル湖から出ている河の支線だと思われます。

グランドキャニオンのような赤いメサなどがあるこの地域に溜まった水は
このようなくにゃくにゃした湖の形を作り上げるのです。



山の麓の湖から流れてくる河が、山の裾野に緑の地帯を作ります。
ヨセミテ国立公園の上空を越え、カリフォルニア州にはいったところ。

手前にあるマクルーア湖から流れるマーセド河に沿って街ができています。
緑の地帯はマーセド、モデスト、ターロックなどの街。

サンフランシスコまであともう一息です。



大変目立つこの真ん中の貯水池ですが、周りにゴミ処理場があるとだけ・・。
地図を見ても名前がなにも付いていません。



サンフランシスコの手前に「メンデンホール・スプリングス」という名前の山脈が横たわります。
この上空を飛んでいて、まるでリボンのような直線が稜線と無関係にあるのに気付きました。

よくよく目を凝らして見ると、それは電線で、つまりこの直線にそって、
峻険な山の中に鉄塔が延々と連なって立っているということなのです。

あらためて人間ってすごいことをするなあと感心する眺めでした。



そして山脈を越えるとお馴染みのこの光景。
この地域には「スラウ(slough)」と呼ばれる場所が多く沼地を意味するのですが、
ちょうどサンフランシスコの東側というのはとことん入り込んだ
深い湾なので、このあたりは海といっても「流れ」というものが全くないのです。



この辺りを走っていると、真っ赤な苔があるのでこれなのかなと思っていたのですが、
今回調べてみると、ここには塩田があるのだそうです。
地図を見るとこういうカラフルな部分に「ソルトポンド」(塩の池)と書いてあります。

このあたりは雨が少ない(夏場は)ので、長年この古来からの方法で塩を作っていますが、
蒸発の過程で、海水の塩分の濃度がだんだんと高くなってくると、
この手前のように緑からだんだん赤くなってくるのだそうです。

藻が発生したりエビが発生するから、という説もあるようですが、
実際はどうなのかわかりません。(というかそれ以上調べませんでした)



いまいるパロアルト、レッドウッドシティの向こうは太平洋に面した海岸がありますが、
その手前に山脈が横たわっており、そこにはいつもいつもいつも(笑)
まるでクリームのような濃い雲がかかっているのです。
この雲こそが、サンフランシスコの海岸沿いを「世界一寒い夏」にしている原因です。



ふと気づくと、向こうに同じ速度で空港に向かって飛ぶ飛行機が。
超混雑空港であるサンフランシスコ空港では、滑走路が平行に三本、
しかもほんの少しの時間差で2機が着陸することはしょっちゅうなのです。



そのことを、わたしはこの空港の対岸?にある、このコヨーテポイント
「飛行機観測場所」から見ていて知りました。
このコヨーテポイントには、大戦中のごく短い間、商船アカデミーがあって
戦争に駆りだすための民間船に乗り込む船員(でも士官待遇)を養成していました。

このことについて去年の見学を元にまた書きますのでお読みください。(宣伝)



着陸5秒前、滑走路の端。



着陸後、タキシングしている時に撮った「さっき横を飛んでいた飛行機」。(たぶん)



空港のハーツで車をピックアップ。
ロットにはプリウスが停まっていましたが、GPSがなかったので
取り替えてもらったら、マツダのインフィニティでした。
ただし1日のレンタル料は少し高くなりました><



今日からここに1ヶ月滞在します。
例年キッチン付きのホテルに泊まっていましたが、近年パロアルトの物価が高く、
ホテルの宿泊費がとんでもなく高騰してしまったので、
去年、魔が差して安くあげようと変なインド人経営のホテルに泊まったところ、
2日目に火事が起こり、まさに安物買いのなんとかになってしまいました。

今年こそ安心して1ヶ月住まえるリーズナブルな場所を、と探していたところ、
商店街に近く、学校まで10分の住宅街に月貸しのアパートを見つけました。

いまこれを作成しているのは写真の右上の窓の部屋です。



家主は今度もインド人でした(笑)
でも今度のインド人はちゃんとしていると思います。
というかそうであってほしい。そうであるべきだ。そうであればいいな。
まあ、いまのところアパートのファシリティは完璧です。

この夏はここで一ヶ月を過ごすことになります。


 

 



 


(自称)ハンバーガー発祥の店 ルイーズ・ランチ@ニューヘイブン 後半

2016-08-05 | アメリカ

さて、ホームページを見てもその歴史と秘伝のスパイスとレシピ、
味とやり方に誇りを持ちまくっていることが痛いほどわかる、
ニューヘイブンのオリジナルサンドイッチハンバーガー屋、ルイーズ・ランチ。

30分経ってドアが開き、皆は店内に吸い込まれていきました。

しかし、それは先頭からわずか10人ほど。
それもそのはず、店に入って最初にカウンターでオーダーしなくてはいけないからです。





てっきりレストランでテーブルに着いてオーダーをするものだと思っていたら、
まさに「ファストフード方式」で、カウンターで注文したバーガーを、
中のほんのすこしのテーブルと椅子で食べるか、テイクアウトするか。

お支払いは現金のみ、お皿は紙皿。
スタッフの着ているTシャツの背中にはケチャップにバツじるしが(笑)

ケチャップがなくては生きていけないアメリカ人に、ケチャップなしのハンバーガだと?



この店が有名になったのは「ハンバーガー発祥の店」と自称しているからです。
昔々、1900年のこと。
ルイーズ・ラッセンというオーナーがその5年前にオープンし、
切り盛りしていた小さなこのレストランに一人の紳士が駆け込んできて、

「兄さん悪いけどな、わて今ごっつう急いでまんねん。
せやからすぐにささっとできてぱぱっと食べられるもんだしてんか」

みたいなことをいって急かすので、店主は、ステーキをパンに挟んで供し、それが
アメリカで最初に「ハンバーガーサンドイッチ」の生まれた瞬間となりました。



お店の歴史を表す、あちこちにガンガン刻まれた客の名前。
落書きどころか皆掘り込んでるわけですが、これも勲章。

実はこの店のあったところは元々はここではなく、1970年に、
高層ビルの建築計画が起こり、立ち退きと解体を余儀なくされました。
しかし、世界中の熱心なファンの働きかけで建物を保存することが決まり、
ルイーズ・ランチのこの小さなレンガの家は、30分離れたところに
引っ越すことになり、現在に至ります。


予想ですが、そのような形でこの建物が保存されることになったのも、
その熱心なファンの中には、かつてはイエールに学び、
今では社会的に力を持つようになったという人がいたからではないでしょうか。

現在の店主ジェフ・ラッセンはルイーズの曾孫だということです。



イートインスペースはほんのわずかですが、それと同じくらいの
従業員の控え室が隣にあります。
ルイーズがやっていたころは、ここにも客用テーブルがあったと思いますが、
今はカウンターが中心なので、ここで悠々と従業員がお昼を食べたりしています。

貼紙によると、ATMもあるそうですが、とてもそう見えません。



店の中に入れる人は並んでる中のごく一部。
しかし、メニューはシンプルなので(チーズ入りかなしかだけ)
列は案外早く進んでいきます。



客が注文したものを食べるのはこの四角いテーブルの周りか・・、



わたしたちが座った壁際の椅子。
椅子にもテーブルにもいたるところ落書き?が。



そして、カウンターが販売カウンターの横にあるのみです。
たちまち店内の椅子は全てふさがりました。



中国でこれを上下逆さまにして「倒福」でタオフー、
「多福」と同じ発音なのでそうすると聞いたことがありますが、
もちろんアメリカ人はそんなことしません。

それより掛けてある二丁の銃は果たして本物かしら。



さすがにお手洗いはあります。
なにが「261」かと思ってしまうわけですが。



なんとトイレの鏡にも客は文字を彫り込んでいるのだった。



意外と時間がかかるのでカウンターを覗いてみました。
この狭いスペースで三人が同時に作業しています。



こちらからはどんな風に焼いているのか全くわかりません><



待っている間に先に出てきたデザート。
三人で一つ頼んだブルーベリーパイは、パイ生地が粉っぽく、
ブルーベリーはひたすら甘かったです。



業を煮やして?キッチンの前に回ってみました。
うおおお、なんかみたことない不思議なコンロが3台稼働している!



これはルイーズランチオリジナルのグリル。

手前の魚焼き網みたいなのにパテが挟まれ、それをどうやら
縦に押し込んで焼き上げるようですね。
時間がかかっているのは、注文を聞いて焼くからです。



焼き上げる前のパテが並んでいます。
肉だけでも数種類、調味料も、全てのレシピは門外不出の秘伝なんだそうです。



ハンバーガーというからあの丸い「バンズ」を想像していましたが、
思いっきり大きなパテをサンドイッチパンで挟むものでした。



なんてこった。
” Annual inventory of spoons” が何の意味かわからないのですが、
とにかく109周年のイベントのために8月は休業すると。
ますます殿様商売ですが、これで十分やっていけるということなのでしょう。



やっと来た息子のチーズサンドイッチ的バーガー。
ミディアムレアというよりもうこれは「レア」という感じですが、
ここは焼き加減など一切客の好みを聞いてはくれません。


「うちが出すのはこれ、嫌なら食うな」

というきっぱりした態度で、頑なにこの焼き加減を守っています。



どれ、それではそのありがたいバーガー的サンドイッチを賞味。
パンはあくまでも「肉を挟んで食べるための道具」という感じで、
主役はやはり肉、これでもかとその存在を主張していましたが、
だからといってこれをパン無しで食べることは考えられない、みたいな。

ハンバーガー文化で育っていないわたしたちには、正直なところ
これがそれほど美味しいバーガーだと言明することはできませんでしたが、
何年かしてここを訪れた時、ふとまたあれを並んで食べてもいいかもしれない、
と懐かしさ半分で思いつくにちがいないと思わせる”何か”がありました。



ここは”バーガーキング”ではありません

ここではあなたの食べたいように食べることはできません

我々の食べてもらいたいものを食べていただきます

それが嫌なら食べなくてよろしい


うーん、なんたる王様、じゃなくて殿様商売。
ある意味自分こそが「バーガー王」だと言い切ってるわけね。 




食べ終わって外に出ると、不思議なことにあれだけ並んでいた人々が
ほとんど捌けて、あと3人だけという状態になっていました。

いつの間に・・・。

お店の前につながれていた犬は、肉の焼けるいい匂いに落ち着かない様子。
飼い主が満足して出てくるのはまだまだ先に違いありません。

 




(自称)ハンバーガー発祥の店 ルイーズ・ランチ@ニューヘイブン(前半)

2016-08-04 | アメリカ

さて、カリフォルニアに来ている現在では遥か昔のことのようですが、
順番にお話ししていくとやっとニューヘイブンでの出来事まできました。



ニューヘイブンの商店街?に、バッフェ形式で好きな野菜やおかずをとり、
テイクアウトをしたり上のスペースで食べたりすることができるデリがあります。
そこで買い物をしたとき、レジにこのチョコレートがあったので、ネタで買いました。
(ちなみに持ち歩いているうちに溶けてしまい、今どうなっているのか知りません)

トランプが「ビリオン」でヒラリーが3ドル。
先日の都知事選では、とんでもない勘違いさんが約一名、
野党連合にそそのかされて出馬するということがあったため、
他人事なら手を叩いて笑って見ていられるような面白い展開になりましたが、
ここアメリカでも大統領選挙というのはアメリカ国民の「お祭り」です。

テレビをつければ必ず毎日、両陣営の応援演説が中継されており、
便乗してこんな商品も出てきてしまうわけだ。
二人の似顔マスクなんてのもどこかで見たことありますし。


ちなみにレジのおっちゃんに、美味しいのか聞いてみたところ、

「味は知らんが、どちらが大統領になっても最低だ」

と言っていました。
いやそんなこと聞いてません。




ノーウォークからニューヨークに行こうとしたら、高速の降り口で事故発生。
一旦停止しなければならないランプの出口で、女性の車に後ろの赤い車が追突。

もー何やってんのよ、みたいな感じで出てきた女の人です。
このあと、驚いたことに二人は名前を自己紹介しあって(と思う)
お互い握手しておりました。

事故処理は淡々と感情を交えずに行われるのが普通なのかもしれません。
わたしは幸いアメリカで事故を起こしたことがないので知りませんが。



高速走行中に見た不思議な飛行機雲。
ほぼ鋭角に曲がっているのですが・・・。



息子を迎えにきて泊まったニューヘイブンのホテル、ラ・クィンタの窓からの眺め。
目の前はルート95で大変な帰宅渋滞です。



そんなに高くないホテルをさらにホテルズ.comで取ったので
全く期待していませんでしたが、少なくとも広かったです。





次の朝起きてみたら、向かいのコンビナート港に大型の船が停まっていました。



パナマ船籍のオーシャン・オネスティ(海洋正直)という船。
「バルクキャリアー」だということです。
たった今(8月1日・アメリカ西部時間)調べたら、メキシコ湾にいました。



手前の洲?では腰まで海に浸かって釣りをする人が・・・。



これは、キャンプに送りこまれる寸前の息子。
早く現地に着いたので、昼ごはんを食べることにしました。 



イエール大学近辺はこのような昔からのレンガ造りの建物の間に
人が通れるだけの細道が迷路のようになっているところがあります。



教えていただいた「ハンバーガー発祥の店」とやらに是非行ってみよう、
とわたしは家族を誘い、「ルイーズ・ランチ」の前に来てみました。
(というか横が駐車場なので)

ところがお店休業。
12時から2時まで、しかもウィークデイしか営業しないそうです。



老舗の店にありがちな殿様商売ですな。
建物の横からは駐車場に入っていくことができますが、そのゲートには
「ルイーズ」の『L』があしらわれていました。



裏から見た建物全景。
それにしても小さな店です。

「こんな小さな店で1日2時間しか営業しないって、いったい・・・」

しかし、こういう店だとちょっと期待してしまいますよね。
どんなに美味しいのかと。



仕方がないので(?)代わりに前にも行ったメキシカンに変更。
石のボウルですりつぶしたアボカドのウワカモーレを頼みました。



パイ皮で決壊をせき止めてある、スープのようなグラタンのようなもの。



パエリア。
日本人の思っているパエリアとは何やら随分雰囲気が違います。
まあパエリアの味はしていました。



イェール大卒業の誰やらを記念するプレートの下で、
気持ちがいいのかぺたりと座り込んで動かない犬と飼い主。
7月のニューヘイブンは蒸し暑く、夕立が降ることもあります。

息子がキャンプに使う校舎には冷房などというものはなく、
扇風機を持ち込むキャンパーもいたということでした。
息子は「我慢した」とのことです。

夏休みで本物の学生がいなくなるから、クーラーなど必要ないわけだ。



というわけで、ドロップオフの時間となりました。
学校警察の(アメリカの大きな大学は警察組織を持っている)
お巡りさんが交通整理をして、車を誘導してくれます。



校舎の前が半円のロータリーになっていて、そこを通り抜けながら
キャンプに参加する生徒と荷物を落としていく仕組み。



イエール大学の歴史的な建築物の中で生活できるなんて、と親は羨ましく思いますが、
実際にはクーラーなどの問題があって、決して「快適な環境」ではなさそうです。
 




そして、キャンプ期間が終わり、ピックアップの日がやってきました。
同じところで息子と待ち合わせて車に本人と荷物を載せます。



息子が乗り込むとき、今回選択したサブジェクトの講座の先生が来て、
あなたのワークは本当に良かったからそちらに進むといい、
みたいなことを言ってくれています。

「なんでわざわざあんなこと言いに来たんだろう」

本人はまんざらでもなさそうですが、「その道」に進むかどうかはわからないそうです。



さて、このピックアップの後、今度こそは、と「ルイーズ・ランチ」に挑戦しました。
日本ではラーメン屋の行列は普通にできますが、アメリカ人が食べ物のために
1時間も待つ、という例は見たことがなかった気がします。

開店30分前にわたしたちが店の前に行ってみると、すでに何人かが並んでいます。

「アメリカ人でもことこういう食べ物には並ぶんだね」

と感心していると、あっという間にわたしたちの後ろに長蛇の列が・・・。



アメリカ人的によほど美味いハンバーガーなのに違いない。
とわたしたちは勝手に期待しまくりです。


続く。


 


”19世紀の港町”を歩く〜ミスティック・シーポート

2016-07-24 | アメリカ

「ミスティック・シーポート」を、海事博物館だと直前まで思い、
そのため2時間もあれば十分だろうとタカをくくって入ったわたしです。
さすがに現地に着いてみると、外から見ただけでもこれは室内に展示してある
パネルや現物をみるのではなく、まるでハウステンボスのようなテーマパークらしい、
と気づいたため、受付の人に

「あと30分まてば料金が半額になりますが、どうしますか」

と聞かれましたが、一日料金を払ってすぐに入園しました。



古い時代の船が、すべて現役で繋留されています。
メンテナンスを開園時(1949年)から繰り返し、帆船なども
未だにすべてが航行をすることが可能です。




入園してすぐ目につくこの船、「ローアン」(浪人と読んじゃった)。
1947年に建造され、カレイやタラの漁を行っていました。
1970年に廃業したため、ミスティックシーポートが引き取り、
2009年に完璧に改装されました。




皆さんはディズニーシーに行ったことがおありでしょうか。
あの、SSコロンビアの周りとか、ケープコッドと言われるエリア、
あの街が「つくりもの」であると我々は知っているわけですが、
雰囲気はあのままで実際にアメリカの古い時代(19世紀)に建てられ、
実際にここミスティックという港町で人々が生活していた街並みが
そのまま再現されているのが「ミスティック・シーポート」です。

ここは食料品と鍋釜の類を扱っていた店。
店頭にネイティブアメリカンの女性の木彫りがありますが、
これはここミスティックに先住していた、「ピクォート族」だと思われます。



入ってすぐ、広大なレストランがあるのですが、我々が入園してすぐ
店じまいをしてしまいました。

道に沿って歩きながら、そこに立ち並ぶ建物を一軒一軒覗いていきます。



映画でしか見たことがない、19世紀の学校。
日本の寺子屋のように、たった一つの教室しかなく、ここに
全学年が勉強していたと言うことなのでしょうか。

昔読んだ古いアメリカの小説で、「友達の石板を割った」とかなんとかいう逸話が
出てきた記憶がありますが、このころはノートではなく石板で勉強していたかもしれません。



黒板は長年の使用の果てにチョークが染み込むように
ザラザラの凹凸のある表面に付着しています。
ここで学んだ子供達は、すでに人生を終え、誰一人この世にいません。

この学校はさすがに小さすぎて古いと現場からリフォームの依頼が出されました。
1882年の日付で残っているその請願書によると、

「小屋は粗末で、黒板は小さく、使いすぎてもう使用に耐えない」

これに対するコネチカット州の役所のコメントは、

「他の学校も大抵はこんな哀れな(ミゼラブル)状態で、設備はもっと悪く、
快適とは程遠いのです。屋外トイレのないところもあるのです」

学校の改装計画はまず安い建物を手に入れて学年ごとに生徒を分けること、
運動場をつくること(子供達の健康のために木陰と水が飲めることが必須だった)
から始めなければなりませんでした。

教育の重要さを説く人によって議会に学校の敷設をすることを承認させ、
マサチューセッツに高校(ハイスクール)ができたのは1830年のことです。



ニューイングランド全体で教科書というものが制定され、教師という職業ができたのは
1850年で、しかししばらくは学校とはこのような狭く暗い教室しか持たないのが実情でした。

この教室はコネチカットのグリムズワードというところにあったものですが、
ミスティック・シーポートができた1949年にここに移転されました。



柵には十字があしらわれています。



と思ったらやっぱり教会です。
墓石の下にはさすがに誰もいないと思いますが・・・。
アメリカのお墓は、古いものはこのように傾いてしまっていたりします。



礼拝堂もヨーロッパや、ボストンに残る壮麗なものでなく、
本当に簡素なつくりで、オルガンだけが立派です。

ここにはエンドレスで牧師の説教が流れていました。
全部で8分間のもので、1843年の7月31日、ミスティックのこの教会で
実際に牧師が行った説教を再現したものだと言うことでした。



写真の男女はどちらもブラウン夫妻で、この「フィッシュタウン教会」のために
土地を寄付した資産家であったようです。

右下の牛を追っている男の写真には、

「怠け心は悪魔の遊び場」

という、実に耳の痛いタイトルとともに信心をもって働くことの
尊さみたいなのがざっと書かれています。



1835年、時の大統領ジャクソンは、ホワイトハウスの「グリーンハウス」に
レモンの木と南国の花を植えたとされます。
これがきっかけで、普通のアメリカ人の間に「パーラーガーデン」と呼ばれる
小さな、しかし色とりどりに咲く花をあしらった庭をもつことが流行りました。

ガーデニングがアメリカで始まったきっかけだったわけですね。



1760年からコネチカット州にあった「農家の家」。
こういう古い家の宿屋に昔泊まったことがありますが、なんというか、
昔のアメリカ人も低い天井の狭い部屋にすんでいたんだなあという感じです。



天蓋のあるベッドや家具などはおそらく集めてきたものだと思われます。
室内はなんとも言えない「古い匂い」がしました。



アンティーク家具の好きな人には垂涎の眺めですが、実際に
この家に住んでみたいか、というと、とても快適そうには見えません。
アメリカ人がソファーでくつろぐようになったのは近年のことではないでしょうか。



別の部屋に行ったら男性が二人作業中でした。
しょっちゅうこのように展示には手を入れて保持しているようです。



港を歩いてみましょう。(シーポートですから)

この船は「エマ・C・ベリー」というなまえの「ウェルスマック」船です。
ウェルスマック船というのは漁船で、船体の中央部に生簀を持ち、
生簀の海水は外と循環させる仕組みになっているものでした。

イギリスでは1700年代からこのタイプの船があったのですが、
この船ができたのは1866年のことです。



船着場には帆船が繋留してあります。
この船は「チャールズ・W・モーガン」
1841年に建造された捕鯨船です。





この帆船のマストが最初からこのように見えていたのですが、
よくよく見ると、人が登っているではないですか。



まさか、見物客にマスト登りを体験させてくれるのか?とこのときにはびっくりしたのですが・・。



あとでこの帆船に乗ってみたら、この人たちが楽器を演奏していました。
曲はなんとも言えない昔の、19世紀の船乗りの歌、と言う感じでした。
なりきりスタッフなのか、実際の船員なのかはわかりません。



帆船の内部。改装されて間もない感じがします。



ジャック・スパロウがこんなところで寝起きしていたと言う感じ。
鳥かごがあるのは「片目片足の船長と鸚鵡」のイメージからでしょうか。



ヘンドン・チャブという「生涯海を愛した男」を偲んで、
この港には「チャブズ・ワーフ」という名前が付けられているそうです。

誰だろうと思って検索してみたら、今年1月に亡くなった

夫、父、祖父、兄弟、芸術家、作家、心理学者、愛犬家、エール大学卒業生、
ラグデザイナー、500の会社のディレクター兼CFO、名誉ガールスカウト、
庭師、アメリカソテツ協会の役員、ワイン醸造業者、元軍人、
市民権の選挙監視人、
早期のプログラマ、フランスの恋人、平和を愛し正義を愛す人、詩人。

だったそうです。なんじゃこりゃ。




ミスティックリバーの向こう岸の家。
おそらく一階は「ボートハウス」なのではないかと思われます。
海を愛する男なら、こんな家がドリームハウスだったりするんでしょう。


 
「ジョセフ・コンラッド」はデンマークで1882年に建造されました。
1934年からプライベートヨットとして世界を回った船です。
その後は練習船となり、1945年に退役、現在は改装されて訓練船として現役です。




続く。