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スミソニアンの選ぶ第二次大戦のエース(西沢広義編)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-11 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の「第二次世界大戦のエース」シリーズ、
紆余曲折を経てついに最終回です。

スミソニアンに限らず、これまでアメリカの軍事博物館で
航空についての展示を見てきた経験から言うと、アメリカ人、そして
世界にとっての認識は、西沢広義をトップエースとしており、
岩本徹三はそうではないらしいと言う話を前回しました。

いずれにしても、日本軍が個人撃墜記録を公式に残さなかったことが、
岩本がトップエースと認められない原因であり、いまだに
世界のエースの残した記録という歴史的資料の上に、日本の記録が
正式に刻まれない理由でもあります。

部隊全体での戦果を重要視した結果、個人成績を記録しない、
というのは、その「精神」としては非常に日本的ですが、
どんなことでも書類に残す「記録魔」の日本人らしくなくもあります。

 

今日は前回に続いて日本のトップエース、西沢広義についてですが、
本稿で扱う情報は、あくまで英語サイトの翻訳ですので、
日本語での資料とはかなり違う点があるかと思います。

どうかそれを踏まえた上でお読みください。

 

【死の舞踏〜敵地上空宙返り事件】

さて、ここで、以前も当ブログで扱った、
実話かどうかわからない「あの」逸話についてです。
ぜひ眉に唾をつけながらご覧ください。

5月16日の夜。
西沢、坂井、太田が娯楽室でオーストラリアのラジオ番組を聴いていると、
フランスの作曲家、ピアニスト、オルガン奏者である
カミーユ・サン=サーンスの「ダンス・マカーブル」(死の舞踏)が流れた。
この不思議な骸骨の踊りのことを考えていた西沢は、

「いいことを思いついたぞ!」

と興奮気味に言った。

「明日のミッションはモレスビーへの空爆だよね?
俺たちも『死の舞踏』をやってみようじゃないか」

太田は西沢の提案をくだらないと一笑に附したが、西沢は粘った。

「帰投後、3人でモレスビーに戻り、敵さんの飛行場の真上で
宙返り(デモンストレーション・ループ)をするんだ。
地上の敵に一泡吹かせてやろうじゃないか」

太田は言った。

「面白いかもしれないけど、上はどうするんだ。
絶対に許してくれないよ」

西沢はニヤリと笑った。


決行日と決めた5月17日の任務終了後、坂井は一旦着陸したが、
中島司令に敵機を追うと合図して再び離陸した。

そして西沢、太田と上空で落ち合うと、ポートモレスビーに飛び、
緊密な編隊で3回の宙返りをやってのけたのだった。

西沢は大喜びで「もう一度やりたい」と言った。

零戦は高度6,000フィートまで降下し、さらに3回ループしたが、
地上からの攻撃を受けることはなかった。
その後、彼らは他の部隊から20分遅れて基地到着した。

午後9時頃、酒井、太田、西沢の3人は笹井中尉の部屋に呼ばれた。
彼らが到着すると、笹井中尉は一枚の手紙を差し出した。

「これをどこで手に入れたと思う?」

と彼は叫んだ。

「わからん?馬鹿者どもが!教えてやろう。
数分前に、敵の航空機がこの基地に落としていった」

英語で書かれた手紙には「ラエ司令官へ」とあった。

「本日基地上空に来訪した3人のパイロットに、
我々はとても感銘を受けております。

基地一同、我が上空で行ってくれたあの宙返りを大変気に入りました。
また同じ皆様が、今度はそれぞれ首に緑色のマフラーをつけて、
もう一度訪問してくれればこれに勝る喜びはありません。

前回はまったくお構いもできず大変申し訳ありませんでしたが、
次回は全力で歓迎することを約束いたします」

3人は固まって笑いをこらえていたが、笹井は彼らの馬鹿げた行動を叱責し、
今後敵地での曲芸飛行を禁止したのである。
しかし、台南空の3人のエースは、西沢の「ダンス・マカブル」の
空中デモンストレーションには価値があったと密かに納得していた。

ところで、英語の西沢のWikiには、この写真に写る手前が西沢とその零戦で、
後は彼の僚機であるという説明があります。

この情報も不確かですが、敵基地宙返りに関しては
そもそも台南空の行動調書にも、肝心の連合軍基地の記録にも、
そのようなことは全く残されていません。
(少なくとも台南空の行動調書はわたしも確認済み)

わたしに言わせれば、「死の舞踏」というサンサーンスの曲を
西沢広義が知っていたという可能性はもっと低く、さらにこの曲から
三回宙返りを思いつくということ自体日本人のメンタルに思えません。

これは後世の、日本人ではない作家の「創作」と考えるのが妥当でしょう。

 

【特攻掩護と西沢の死の予感】

この頃絶好調だった台南空ですが、勿論そのまますむわけはありません。
次第に疲弊を強め、薄皮を剥ぐように戦力は落ちていきます。

15勝のエースだった吉野俐(さとし)飛曹長を空戦で失い、
西沢は僚機である本吉義男1等飛兵を撃墜され失います。

「このとき着陸した西沢は、地上スタッフの彼のに対する歓声を無視し、
飛行機に燃料を補給し、銃を装填しろと命令して、
たった一人で行方不明のウィングマンを探しに行った。
2時間後に戻ってきた彼の顔には悲壮感が漂っていた」

 

この頃、西沢と対戦したVF-5のハーバート・S・ブラウン中尉は、
自分の機体に銃撃で損傷を負わせ、その後近づいてきた零戦の操縦席から、
搭乗員が彼に向かってニヤリと笑って手を振って去った、と証言しています。

なぜこの証言が残されたかというと、ブラウン中尉はその後、
F4Fを空母「サラトガ 」に帰還させ生きて帰ることに成功したからです。

西沢は相手に致命傷を負わせたわけではないことを知りながら、
あえてとどめを刺さず去ったということになります。

 

その後、坂井三郎はドーントレスの銃撃で負傷して帰国。

笹井醇一中尉は海兵隊戦闘機隊VMF-223の
マリオン・E・カール大尉に撃墜され戦死。
PO3C羽藤 一志(19勝)、WOC高塚寅一(16勝)、
PO2C松木進(9勝)が戦死。

太田敏雄34回目の勝利を収めた直後に
フランク・C・ドーリー大尉に撃墜され戦死。

1943年2月7日、ガダルカナルから最後の日本軍が退去し、
西沢は帰国して教官職を経たのち、第251空隊に編入され、
再びラバウルに戻ることになりました。

西沢は6月中旬までに6機の連合軍機を撃墜しましたが、その後、
日本の海軍航空隊は個人の勝利を記録することを完全に放棄したため、
西沢の正確な記録を把握することはこの時点で不可能になっています。

しかし、この頃、西沢の功績を称え、第11航空艦隊司令官から
 Buko Batsugun (=For Conspicuous Military Valor)
(武功抜群=卓越した軍事的勇気を称えて)と書かれた軍刀が贈られました。

西沢は9月に第253空に転属し、その後准尉に昇格しました。

アメリカのフィリピン侵攻の脅威が高まり、日本は
特攻という最後の手段を取らなくてはならなくなります。

関行男中尉ら爆弾を搭載した零戦を操縦する志願者たちは、
遭遇したアメリカの軍艦、特に空母に意図的に機体を衝突させるという、
「神風」と呼ばれる自殺行為の最初の公式任務を遂行することになっていた。


特攻機が突入した「セント・ロー」

西沢はこの護衛に付き、20機のグラマンF6Fヘルキャットと交戦、
彼の個人撃墜はは87に達した。
この時5機の神風のうち4機が目標に命中し、護衛艦セント・ローを沈めた。


1944年10月25日、護衛艦USS「ホワイトプレーンズ」に激突する直前の
関行男中尉の三菱A6M2

 

西沢はこの飛行中に自分の死を幻視した。
それは予感となった。

西沢は帰投後、中島中佐に出撃の成功を報告し、
翌日の神風特攻隊への参加を志願した。

中島は後に坂井三郎に「不思議なことだ」と言っている。
このとき西沢が抱いた予感とは、
自分はあと数日しか生きられないという確信めいた思いである。

中島は、しかし彼を手放さなかった。

「あれほど優秀なパイロットは、空母に飛び込むよりも、
戦闘機の操縦桿を握っている方が、国のために貢献できるからだ」

西沢の零戦には250キロの爆弾が搭載されたが、それに乗ってスリガオ沖で
護衛空母「スワンニー」に飛び込んだのは経験の浅い勝俣富作少尉だった。

「スワンニー」

沈没はしなかったものの、数時間にわたって炎上し、
乗組員85名が死亡、58名が行方不明、102名が負傷した。


【最後の瞬間】

自分の零戦が勝俣の特攻によって破壊された翌日、
西沢をはじめとする第201航空隊の搭乗員5名は、
中島キ49呑龍(「ヘレン」)輸送機に乗り込みました。

セブ島の飛行場で代替の零戦を受け取るため、
マバラカットのクラーク飛行場に向けて出発したのでした。

ミンドロ島のカラパン上空で、キ49輸送機は、空母USS「ワスプ」の
VF-14飛行隊のF6Fヘルキャット2機から攻撃を受けて撃墜され、
西沢は操縦者ではなく乗員の一人として死亡しました。

空中戦では絶対に撃墜されないと公言していた西沢は、ヘルキャットの
ハロルド・P・ニューウェル中尉の攻撃の犠牲になったのです。

最後の瞬間、彼が何を思ったか、その気持ちは容易に想像がつきます。

 

西沢の死に対し、連合艦隊司令官の豊田副武は、全軍布告で
その戦死を広報し、死後二階級特進となる中尉に昇進をさせました。

その頃の終戦時の混乱のため、
日本最高の戦闘機パイロットの葬儀が行われたのは
戦争の終結した2年後となる1947年12月2日のことでした。


英語の資料だと、西沢の戒名はこうなっています。

Bukai-in Kohan Giko Kyoshi

「武海院」

は間違いないと思うのですが、あとは力及ばず見つけられませんでした。
Gikoは「技巧」Kyoshiは「教士」かな。

最後に、あるアメリカ人ジャーナリストの、
彼についてのエッセイの最後の言葉を引用します。

Nishizawa was also given the posthumous name 
Bukai-in Kohan Giko Kyoshi, 
a Zen Buddhist phrase that translates: 
‘In the ocean of the military, reflective of all distinguished pilots, 
an honored Buddhist person.’

It was not a bad epitaph for a man once known as the Devil.

 

また、西沢にはBukai-in Kohan Giko Kyoshiという戒名が与えられた。
これは禅宗の言葉である。

「海洋の軍隊におけるすべての優れたパイロットの反映であり、
かつ名誉ある仏教徒であった男」

かつて "悪魔 "と呼ばれた男の墓碑銘としては悪くない。

 

続く。

 



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2 Comments

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改めて (Unknown)
2021-10-12 07:50:43
先日、戦後初めて海上自衛隊の艦艇から戦闘機が発艦しましたが、今回のブログを拝読して、やっぱり戦闘機乗りは航空自衛隊所属でいいなぁと改めて思いました。価値観にかなりの差があります(笑)
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零戦編隊写真 (お節介船屋)
2021-10-12 09:48:04
この写真は海軍報道班員吉田一撮影の傑作スナップで、前線における最高の零戦写真だそうです。
台南空が昭和17年11月戦力回復のため内地に帰還、名称も251空と改称し、18年5月再びソロモン戦線に復帰、間もない頃、おそらく5月14日751空と共同してラバウルから長躯ニューギニア島東岸のオロ湾攻撃時、1式陸攻に同乗した吉田一カメラマンに撮影された数種類のスナップの1枚で零戦二二型です。

ただ搭乗員は吉田一氏も覚えていないようで、分からないとのことです。

この写真と同時に撮影された写真で105号と編隊を組んでいるのは109号機でした。この後方にも3機編隊が写っていますがこの編隊は2機編成でした。
まだこの時代3機編成でしたのでラバウル離陸時脚が引き込まなくて引き返した1機があり、この2機編成ではと推測され西澤が組んだ鷲渕中尉小隊ではなく、林中尉小隊の2機ではと推定され105号機は林中尉と言われています。
なお参照本では搭乗員等の説明はありません。

参照光人社佐貫亦男監修「日本軍用機」
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