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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

モーガン大尉の6人の妻〜メンフィス・ベル アメリカ国立空軍博物館

2023-11-23 | 飛行家列伝

さて、国立博物館のメンフィス・ベル展示から、
25回ミッションを達成して帰国後ツァーを行ったメンバーについて
さらっとお話ししていくつもりだったのですが、
機長のロバート・モーガン大佐(最終)という人について
「メンフィス・ベル」のモデル、マーガレット嬢との関係を始め
色々とすごかったので、彼の功績とかメンフィスベルの戦歴とは
全く関係ないことですが、余談としてお話ししておくことにします。

【生涯に6度の結婚】

ベルのミッション25回終了後、帰国して戦債ツァーに参加した彼は、
その後も軍に残り、少佐に昇進して太平洋戦線に赴きました。

彼はサイパンから発進する
B-29スーパーフォートレス「ドーントレス・ドッティ」
の機長として日本本土への爆撃任務を行い、
その年の終戦を受けて現役を引退し予備役にとどまりました。



ちなみにこのB-29の愛称、「ドーントレス・ドッティ」は、
彼の4番目の妻
ドロシー・ジョンソン・モーガンにちなんでいました。

4番目!とわたしも最初は驚きましたが、よくよく読むと、
彼は生涯に結婚した相手だけで6人、お付き合いした人は数知れず。

「(自分の人生には)酒と女と歌が多すぎた」

と自ら豪語する、派手な女性遍歴の持ち主だったのです。


いわゆるMMK

■最初の結婚 ドリス

最初の結婚はなんと彼15歳のとき、公立高校の13歳の下級生、
ドリス・ニューマンと駆け落ちしたときにさかのぼります。

駆け落ちながら、正式に婚姻届を出したらしく(出せたんですね)、
結婚日は1931年6月6日、そして9日後の6月15日に離婚。
(見つかって連れ戻され、怒られて諦めたパターン)

このことは公式にはなかったことにされていたのですが、
彼がなまじ有名人になってしまったことでジャーナリストに掘られ、
ゴシップとしてすっぱ抜かれたという形です。

ですから、今でもこの結婚歴は媒体によってはなかったことになっています。


この頃から、彼の実家モーガン家には次々と不幸が連続しています。
まるで息子の15歳駆け落ち事件がきっかけだったかのように。

まず、回復不可能なガンにかかった妻が悲観して拳銃自殺。
まだ若い母を失ったボブは、これに打ちのめされます。
そしてほどなく大恐慌が起こり、父が経営していた家具製造会社は
ほとんど倒産に追い込まれ、父は家を売る羽目になり、
しばらくは自分の会社の倉庫で警備をしながら暮らしていたほどです。

しかし、よほどガッツのある実業家だったのか、モーガン父はその後
頑張って会社を立て直し、復帰どころかなんなら前より事業を拡大し、
息子をアイビーリーグに入れられるほどの生活水準に戻しました。

実業家の鑑(かがみ)、まさに尊敬すべき父親です。

ところが息子ときたら(学業の方はちゃんとやっていたようですが)
またもや、女性関係でやらかしてしまうのです。

■第二、第三の結婚 アリス、マーサ

やらかしというのは、大学在学中となる彼20歳の夏に
アリス・レーン・ラザフォードという女性とまたしてもノリで結婚。
本人の証言によると、

「結婚生活は秋まで続いたが、また離婚になってしまった」

ひと夏の恋ならぬ結婚だったわけですね。


そしてその次の結婚はこのときから3年後、23歳のときです。
少尉に任官したときに、ウィングマークを彼の制服の襟に留めた女性、
ペンシルバニア大学の同級生、マーサ・リリアン・ストーン嬢

3度目の結婚をしました。

彼がウィングマークを取得したのは真珠湾攻撃の6日後で、
結婚はその2週間後だったということなので、
1941年の12月年末に結婚式を行ったと考えられます。

しかしながら、その結婚は予想に違わず、彼が
第91爆撃隊に配置転換された翌年5月にはもう終わっていたようです。

つまり半年も保たなかったということです。
せめて半年くらい付き合っていれば、戸籍に傷をつけずに別れられたのに。

まあ、アメリカ人に「戸籍に傷」なんて概念ありませんかね。

そんな早く離婚するならなんで結婚する?と問いただしたくなりますが、
当時の男女は「お付き合いイコール結婚」でしたし、なによりこの頃、
ボブはとにかく仕事で怒られっぱなしで、かなりの心労が重なり、
与えられた任務をこなすだけでいっぱいいっぱいの状態でした。

その上、彼は仕事でもやらかしが多かったようです。

「マクディルに駐留している間、よく湾内の対潜哨戒に駆り出された。
潜水艦を見つけたことは一度もないけれど、ある日曜日、
きれいな芝生のある大きな家でパーティーをやっていたので、
僕は飛行機をパンチボウルに落とすくらい低空飛行させてみた。

後からパーティーをしていたのが司令官の家だったと知った。

翌朝、指揮官に呼び出され、散々叱られて、
"あの提督の指揮下にいる限り、昇進はないと思え"と言われた。」


その後、モーガンはワラワラに転勤しますが、そこでも彼は
軍の規則で義務付けられている制帽の着用を拒否し、
裸で飛び回っていたため、ウェストポイント出身で
予備航空士官を毛嫌いしていた士官に連日叱責され、
あらゆる汚れ仕事を押し付けられるという目に遭っています。

「訓練中の飛行機が山中に墜落し、搭乗員全員が死亡したとき、
彼は遺体を回収しに行く仕事を私に命じた。」


士官学校卒が「本チャン」ではない大学出の士官、
正規軍と対等に飛行できるようになったパイロットを虐める、
というのはアメリカでもあったことなんですね。

その頃、彼は「メンフィス・べル」マーガレット・ポークと出会いました。

彼女とは婚約指輪を贈るところまで行ったはずなのに
どういうわけか、結婚には至らなかったのはお伝えした通りです。

これまでの3回、ほとんど脊髄反射で付き合うと同時に結婚してきた彼が、
なぜマーガレットとはあれだけ騒がれていたのに結婚しなかったのでしょうか。

写真を見てもわかるように、モーガンはMMでした。

背が高く(おそらく185cmくらい)すらっとして端正な顔立ちにブルーの瞳、
育ちの良さそうな物腰にアイビーリーグ出身の学歴。
しかも今一番ホットな職業であるミリタリーパイロットです。

こんな優良物件、女の子が放っておくはずがありません。

彼自身が言うように、彼の周りには常に女の子が群がりよりどりみどり。
おそらくマーガレットは、そのうちの一人として
たまたまつきあっていただけの女性だったのではないでしょうか。



映画でも到着後機長がコクピットの写真を手に取るシーンがあります。
任務の間、彼がマーガレットを思っていたのは嘘ではなかったでしょう。

帰国したモーガンは迎えにきていたマーガレットにキスし、
その写真は翌日新聞の第一面を飾りました。


後ろの士官の無関心なこと(笑)

そして、その後、彼女は6月から始まった戦時公債ツァーに同行しましたが、
わずか2ヶ月後には彼らの恋愛は終わっていたといいます。

まあなんだ、勢いで結婚しなくてよかったね、としか・・・。

■第四の結婚 ドロシー

モーガンは、帰国後のツァー途中でボーイングの工場を見学し、
そこでB-29に魅せられてこの爆撃機に乗るキャリアを選択しました。

彼が4度目の結婚をしたのはB-29指揮官となる頃のことです。
相手は、彼のB-29の名前となったドロシー・ジョンソンでした。

ドロシーとは1979年に離婚していますが、彼女との間には
ロバート・ナイト・モーガンJr.という男児始め、
4人の二男二女を設けています。

ドロシー・ジョンソン・モーガン逝去のお知らせ

彼がB-29でサイパンから出撃した回数は26回で、
1944年の11月から1945年の3月にかけてのことです。

そして戦争が終わると、予備役に籍を置いたままかれは
一般人としての生活に戻りました。
飛行時間は2,355時間、引退の正式な日は1945年9月9日でした。

マーガレットとの再会

父の遺した家具会社を経営しながら民間パイロットを目指しました。
B-29についてきてくれた爆撃手のヴィンス・エバンスは
ウィリアム・ワイラーの伝手で映画の脚本家になっていたため、
彼の人脈からTWAのパイロットの仕事を紹介されたのですが、
どう言う理由か、就職にはつながらなかったようです。

そこで実家の家具会社を存続させつつ、VWビートルの販売をしていました。
ドイツの工場に爆撃を落として英雄になった男がドイツ車を売るというのは
なにやら皮肉に思えますが、本人的にはなんともなかったのでしょうか。


そしてドロシーとの結婚生活ですが、専業主婦の彼女とのあいだに子をなし
生活に追われるうちに、モーガンの悪い癖が頭をもたげてしまいました。

ドロシーはモーガンが初めて半年以上結婚生活を持続させた相手ですが、
それは彼女を特に愛していたからとかではなく、子供も生まれたこと、
そして彼がその頃すでに「制服マジック」が解けたただの男となり、
以前ほど女性が群がってこなくなったからだったんだろうと思います。

現に、50年代、彼らの夫婦仲は崩壊と修復の繰り返しだったそうですし。

そんなとき、かつてのパイロット時代の栄光の残渣というか、
残光が、彼の男心?に火をつけてしまうのです。

あるとき、出張でボブはメンフィスに行き、
モーガン・マニュファクチャリング社の関連工場を訪れました。

その際、下心満載でボブはマーガレットに電話をかけて連絡をとり、
独身だった彼女もそれに応じ、
二人は再会してしまいました。

それではご本人の自伝から、このときのことを語っていただきましょう。

『束の間の悲しい時間、

私たちのロマンスは再び燃え上がった。
私たちは何度か会った。
いろいろな場所で会う約束をした。
手紙を書き、愛し合い、議論した。
それはすぐに終わった』。


・・・まあそうなるでしょうな。

言うてこの頃はまだどちらも30代ってところですから、
焼け木杭に比較的火もつきやすかったんでしょうけど、
ボブ、これ不倫ですよ?

一つ言えることは、あのとき結婚しなかったことが
このときの焼け木杭に火をつけたということでしょうか。




■ 第五の結婚ーエリザベス

ドロシーと1979年5月24日に離婚したモーガンは、
6月には5番目の妻エリザベス・スラッシュと結婚していました。

これエリザベスと不倫してたってことだよね?

ときにボブ・モーガン60歳。
彼らのハネムーンは、航空アーティストのロバート・テイラーが描いた
メンフィス・ベルの版画にサインをしに行くことでした。

エリザベスとの結婚は、彼女が1991年肺がんで他界するまで続きました。

彼女の死のおよそ1年前、彼らは1990年公開の映画
「メンフィス・ベル」の撮影を見学に行き、宣伝活動もしました。

そのとき出席していた8人の元クルーとともに、モーガンは
映画スタッフに本物の台詞やディテールに関する提案をしたにもかかわらず、
監督のマイケル・ケイトン・ジョーンズは彼らの協力を断っています。

その結果、映画はボブ・モーガンが見事に控えめに言ったように、
『歴史的に不正確な』ものになってしまいました。

このことは元クルーたちにとっては苦い記憶となったことでしょう。

■ 第六の結婚ーリンダ

エリザベスが亡くなってわずか3ヶ月弱後の4月、モーガンは
航空講演会の広報担当だった47歳のリンダ・ディッカーソンと知り合い、
4ヶ月後には25歳の歳の差結婚式を挙げていました。

相変わらず切り替えと結婚に至るまでの時間が短か過ぎ。



このとき二人は、よりによってメンフィス・ベルの前で結婚式を挙げました。
エノラ・ゲイの機長だったポール・ティベッツ准将が司祭役となり、
副機長だったジム・ヴェリニスがベストマンを務めるという演出です。

しかし、この企画には批判も多くありました。

「有名な爆撃機の翼の下で開催されるこの結婚式は、
今は亡きマーガレット・ポークの記憶への侮辱であると強く感じる。
モーガン大佐の宣伝のための安価な策略であり、極めて悪趣味だ。
ましてやマーガレットがそのアイデアを喜ぶなどと誰が思うだろうか。」

彼らの結婚を報じるシカゴ・トリビューンの記者に、モーガン自身が

「ポークさんとは結婚しませんでしたが、
戦時中のロマンスを共有した間柄ですので、自分がモデルの
グラマー・ガールを描いた爆撃機の機首の下で行われる結婚式を
認めてくれるでしょうし、喜んでくれると思います」

ぬけぬけと?こう語ったのが反発を呼んだようです。
マーガレット・ポークは1990年に68歳でがんのため亡くなっていました。


■ マーガレット・ポークとメンフィス・ベルの銅像

冒頭の写真は、メンフィス、オーバートン・パークの退役軍人プラザにある
マーガレット・ポークと「メンフィス ベル」の乗組員の記念碑です。

ポークとモーガンは結局結婚することなく終わりましたが、
だからこそ?彼女が死ぬまで二人は良い友人だったそうです。

戦時ツァーの終了とともに別れた後、彼女は航空会社の客室乗務員になり、
28 歳で結婚して数年後離婚しています。

弁護士だった父親の財産を相続した彼女は、その後結婚せず、
さまざまな慈善団体、特にアルコール乱用に対処する団体を支援し、
「メンフィス・ベル」の存続のためにも寄付を惜しみませんでした。

退役軍人プラザの記念碑は、ベルというより彼女を称えるためのもので、
それはあたかも彼女の名を冠した爆撃機が飛ぶのを見上げているかのように、
頭を空に向けて傾け、右手で目を太陽から守っている彼女の姿です。



像の石灰岩の台座の裏側には、彼女の「愛の物語」を伝える銘板があります。


続く。

”デアデビル”オマー・ロックリアとジェニーJN−4〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-21 | 飛行家列伝

潜水艦内部ツァーまでの時間潰しとして観た、
シカゴ科学産業博物館、MSIの展示から、
今日は「飛ぶもの」=飛行体をお送りします。

■ カーチスJN-4D ”ジェニー”と
命知らずのバーンストーマー



このパートは「スモーラー・エアクラフト」と言って、
文字通り小さめの航空機がドームの天井を飛翔しているように
生き生きと展示されています。

この「ジェニー」も、よくよく見れば、ループを描いて
上下逆さまになった瞬間が再現されているのです。

1917年のカーチスJN-4D、通称「ジェニー」は、
軍事、レクリエーション、商業航空に大きな影響を与えた飛行機です。

何千人ものアメリカ人に初めて飛行機を見せることで、
航空の魅力を広く伝える働きをしました。


ジェニーのパイロットは、人々の目を引くために
飛行機をドラマチックな体勢に宙返りさせています。

まさに、バレルロールで逆さまになっている真っ最中。



よく見ると翼の上でスタントしている人がいます。


はい、これが実際の写真。
本当にこんなことやってたんですね。

写真に写っている人は
「デアデビル・オマー・ロックリア」
(命知らずのオマー・ロックリア)

という伝説のエアリアル・スタントマンで、
ジェニーの翼に脚だけでぶら下がって手を離すスタントを行なっています。


右上の筆記体は、

I'm all smashed up from doing stunts.
(わたしはスタントに完璧に打ちのめされた)

エアリアルスタンドのブームがきていたのでしょうか。
「フライング・デアデビルズ」というポピュラーソングの一節だそうです。

ちなみに「daredevils」というのは「向こう見ずな人」という意味です。

Free Stock Footage Flying Daredevil

どんな歌か調べましたがYouTubeにはありませんでした。

あと、この映像で翼にぶら下がっている人なんですが、
体重をもう10キロ減らした方が安全の面でいいのではないかと思います。


【スタントパイロットとバーンストーマーの登場】

 第一次世界大戦後、多くの元戦闘機パイロットが、
戦争が終わって使わなくなった余剰のジェニーを軍から購入し、
スタント・パイロットとして新たなキャリアをスタートさせました。



当ブログ的には繰り返しになりますが、
初めてアフリカ系アメリカ人女性としてプロのパイロットとなった
ベッシー・コールマンも、飛行技術をN-4ジェニーで習得しています。

彼女はテキサスに生まれ、フランスで飛行機の修行を積み、
シカゴに住んでいましたが、その場所は偶然
MSIからほんの1キロ離れたところだったそうです。



「バーンストーマー」
という存在について以前ここでも説明しましたが、
バーン=納屋という語源からおわかりのように、
スタントで人を集めつつ、農家の畑に飛行機を着陸させて、
集まった人々からお金を取り飛行機のライドを体験させる、
(基本的にどさ回り)というようなことを生業にしていた人です。

アメリア・イヤハートの最初の飛行体験も、
街にやってきたバーンストーマーに乗せてもらった飛行機でした。

ちなみにアメリカのディズニーワールドには、
「グーフィーのバーンストーマー」
なるジェットコースターライドがあるそうです。

Barnstorming

ジェニーを使ったバーンストームを紹介する番組です。

バーンストーマーは農家と契約して、
農家にも売上の一部を渡すことで場所を借り、
宣伝を行って人を集めるようです。
現代でもやっている人がいるんですね。

田舎では地域のちょっと刺激的な出し物として定着していて、
おそらくこれを楽しみにしている人も多いのでしょう。


【ジェニー・ストーリー】 

工場で大量生産されたアメリカ発の飛行機として、
カーチス JN-4D "ジェニー" は飛行を一般に公開しました。

なぜ愛称が「ジェニー」になったかというと、それは間違いなく、
JNという機体番号からと思われます。(調べてませんが)

ジェニーは、多くのアメリカ人にとって最初にその目で見た飛行機となり、
たくさんの飛行機の撮影現場で使われることになりました。

ジェニーは頑丈で機動性に優れていたので、
空中アクロバットが盛んに行われる一方、
初心者パイロットに最適の単純で信頼のおける操作性を保ちました。



1)後部のメインコクピットにはパイロットが搭乗

2)前部コクピットには乗客のための席

3)機体を牽引するプロペラ

4)ダブルデッカー(バイプレーン・複葉機)の翼は
一つの大きな翼を持つ飛行機より軽量でかつ強度に優れていた

5)フラップの補助翼(エルロン)のタイプにより、
飛行機は旋回、バンクをすることができた
このためバレルロールのようなスタントが可能となった




上の24セント切手は、アメリカ政府が
ジェニーを使用した航空便サービスを開始した記念に発行されました。

デザインで機体が逆さまになっているのは、
決してアクロバットをしているところを再現しているのではなく、
単に印刷した人が「間違えた」結果で、何枚かしか存在しないため、
これがレア切手になっているのだそうです。

まあ、郵便配達ではまず逆さまに飛行することはありませんから、
これを見たアメリカ人も「?」となっていたかもしれません。


当博物館に展示されているジェニーの現役時代の姿です。
今からフライトを行うところで、離陸の順番を待っているのだとか。

ジョン・L・ブラウンという人がかつてこのジェニーを購入し、
輸送パイロット兼バーンストーマーとして生計を立てていました。

彼のジェニーの尾翼には、価格表が記されています。



3分3ドル、5分5ドルで、宣伝をするためのバナーをつけたら
2航過飛行2ドル、3航過3ドル、5航過5ドルと明朗会計です。

1933年、彼はシカゴの A Century of Progress World's Fair で
このジェニーを使用した後、その飛行機を博物館に寄贈しました。


【命知らずのオマー・ロックリア】

MSIの模型でスタントをしている姿を再現された、
オマー・ロックリアについて最後にご紹介しておきます。



オマー・レスリー・"ロック"・ロックリア
Ormer Leslie "Lock" Locklear
(1891年10月28日 - 1920年8月2日)


は、アメリカのデアデビル・スタントパイロット、そして映画俳優でした。

彼のイケてる容姿と飛行サーカスはハリウッドの目に留まり、
航空郵便機が空中で悪者と戦うアクション映画、

『The Great Air Robbery』(1919年)

で主演を務めるまでに出世します。

20歳のころ、故郷フォートワースで有名なバーンストーマー、
カルブレイス・ペリー・ロジャース(当ブログでは紹介済み)
と出会った彼は、航空機に魅了されるようになりました。

そして1917年、アメリカ陸軍航空局に入隊し、
陸軍で訓練を受け、飛行教官として仕事をしていました。

第一次世界大戦末期、少尉だったロックリアは、
軍に人を集めるための広報部門に所属していましたが、
その頃実際に見たバーンストーミングショーより、
自分の普段の飛行活動の方がはるかに素晴らしい!と感じたことから、
陸軍の二人の同僚を誘って退役して、

「ロックリア・フライング・サーカス」

を結成し、活動を始めました。


でこういうことをやっていたと

彼のスタントグループは大成功で、マネージャーともども大金を稼ぎ、
そのお金で豪奢でモダンな生活ができていたといいます。

彼のトレードマークであるスタントは、
飛行機から別の飛行機に飛び移るという危険極まりないもので、
さらにその後、その技を発展させた「死の舞踏」という技は、
2機の飛行機に乗った2人のパイロットが空中で場所を入れ替わるという
文字通り命知らずのパフォーマンスでした。

彼のスタントが有名になると、ハリウッドでは
彼は映画のスタントマンとして引っ張りだこになります。

そして今や「世界一の航空スタントマン」と言われ、
自身が映画界に進出する道が開かれることになりました。



そしてロックリアは、パイロットたちが航空便を飛ばす様子を描いた映画
『The Great Air Robbery』の主演に契約することになりました。

撮影ではロックリアがカーチスJN-4「ジェニー」で、
飛行機から別の飛行機に乗り換え、地球上数千フィート(おそらく)で
飛行機の尾翼に立つ空中スタントを披露します。

映画はスタントパイロットの活躍を扱った戦後映画の第一弾として、
おおむね好意的に評価されました。

『The Great Air Robbery 』は商業的にかなりの成功を収め、
これに気をよくした彼はハリウッドでのキャリアを続けたいと思いました。

というか、航空ショーでのバーンストーマー生活は結構過酷なので、
もうこれから足を洗おうと考えたのかもしれません。

そして1920年4月、『スカイウェイ・マン』に出演する契約をしました。



しかし、この映画でのスタント飛行の場面は多くなく、
ロックリアの航空機が教会の尖塔を倒すとか、
航空機から電車に飛び移るという二つのスタントはいずれも問題が多く、
ほとんど失敗と酷評されることになりました。

パーソナルライフも、こういう人にありがちな不幸な結果となりました。

最初の結婚はあまりにも二人の性格が違いすぎて早々に別居となりましたが、
相手のルビー・グレイブスは離婚をあくまでも認めず、
二人はロックリアが亡くなるまで法的には夫婦のままでした。



グレイブスと別居中、ロックリアは未亡人のサイレント映画女優、
ヴィオラ・ダナと交際を始め、ロックリアが死ぬまで付き合っていました。

ゆえに彼女は目の前で恋人の死を目撃することになりました。

【事故死】

『スカイウェイマン』の撮影のころ、ロックリアは、
家庭生活が乱れていただけでなく、映画会社に契約の意思がないことを知って
大きなプレッシャーを感じていました。

撮影予定最後となるスタントは最初昼間に行われましたが、
彼は夜間飛行を許可するよう要求して、スタジオはこれを許可しました。

珍しい夜間飛行によるスタントということで、大々的に宣伝されたため、
現地には撮影を目撃するために大勢の人々が集まっていました。

フィールドにはカーチス「ジェニー」を照らすため、
大きなスタジオのアークライトが設置され、
機体が最後のスピンに入るとライトには水がかけられました。

飛行機が油井のそばで墜落したように見せるために、
油井の桟橋に向かって飛び込むというシナリオでした。

この撮影の前に、ロックリアは照明係に、

「ライトを消しても、僕は自分のいる場所がわかっているから大丈夫」

として、デリックに近づいたらライトを消すように言っていました。
一連の空中操縦を終えたロックリアは、降下の合図を出しました。

そして、観客や撮影クルーが見守る中、
彼と長年のフライトパートナー、エリオットの操縦するジェニーは、
スピンの初期状態から抜け出せないまま、油井のプールに墜落し、
大爆発と火災を引き起こして二人は死亡しました。

事故後の調査で、5つのアークライトが完全に点灯したままであったため、
パイロットはそれで目が眩んだのではないかとの憶測が流れました。

普通ならそこで映画はおじゃんになるところですが、
この頃の映画界のモラルはいい加減というか、商魂たくましく、
夜のシーンを除く全編がすでに完成していたため、
フォックスは『スカイウェイマン』の公開を急ぎました。

致命的な事故を利用することを決定したのです。

「ロックリアの壮絶(そして致命的)な
最後のフライトを映し出すフィルムの全貌」

センセーショナルな事故の報道と合わせて広告キャンペーンを打ち、
映画の内容は急遽、彼の以前の功績に焦点を当てるものに変わり、
模型展示と展示飛行を組み合わせたドキュメンタリー作品になったのです。

映画の公開時に、フォックス映画社は利益の10%を
ロックリアとエリオットの家族に寄付することを発表しました。

ロックリアの家族って・・・別居していた元妻ってこと?

それでは故人はおそらく納得しないと思うがどうか。



ロックリアの死亡診断書です。

配偶者はルビー・ロックリアのまま。

死亡日時1920年8月2日、
死亡原因、飛行機事故による全身粉砕と火傷、
埋葬地はテキサスとあります。

死亡時年齢27歳、職業飛行家。



続く。



マクリーディ&ケリー陸軍中尉の北米大陸初横断飛行〜スミソニアン航空博物館

2023-04-10 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の「ミリタリー・エア」のコーナーには、
古色騒然とした単葉機が展示されています。

胴体に

「ARMY SERVICE NON STOP
COAST TO COAST」

と書かれた飛行機は、実はオランダのフォッカー社製です。
フォッカーT-2は、北米大陸を初めて無着陸で横断した飛行機になりました。



フォッカーT-2の下には大陸横断を成し遂げた
二人のパイロットの姿がパネルとなって立っていて、
その前で写真を撮っている少年と老年がいました。

ちなみにこの二人は全く無関係の間柄です。

うっかりパネルの文字を写真に撮ることを忘れたのですが、この二人が

ジョン・マクリーディ大尉 Lt. John MacReady
オークリー・ケリー大尉 Lt.Oakley Kelly


であり、大陸横断を成し遂げたパイロットであることはわかります。


このパネルの中段左から三番目にケリー、
上段右端がマクリーディとなります。

これで下段の海兵隊パイロット、クリスチャン・シルト将軍(最終)
以外は全員紹介しましたが、シルトについては以前取り上げたので、
今回は書くことがなくなったらにします。

■ 北米大陸横断飛行

1923年5月2日。

オークリー・G・ケリー中尉とジョン・A・マクリーディ中尉は
ニューヨーク州ロングアイランドを離陸し、
26時間50分余り後の5月3日、カリフォルニア州サンディエゴの
ロックウェル・フィールドに着陸するという快挙を達成しました。

Lieutenants Oakley G. Kelley and John A. Macready land in San Diego, California (1923)


ガソリンを入れるところから始まって、二人が飛行服を着て乗り込み、
ニューヨークの上空を飛び、航路が示されたビデオです。

T-2の前に立つマクリーディとケリー

ケリーが離陸、マクリーディが着陸を担当し、
飛行中に5回ほど操縦を交代しています。

ケリーとマクリーディが操縦した初の大陸横断無着陸飛行のルート

■ フォッカーT-2



大陸横断飛行の成功は、航空局の準備と技術だけでなく、
機体の設計にも大いに関係がありました。

1922年、オランダのフォッカー社とその主任設計者、
ラインホルト・プラッツの手によって、オランダの現地で
大陸横断用の飛行機が製造されました。

この飛行機は、フォッカー社の商業輸送機シリーズの第4弾で、

「エア・サービス・トランスポート2」(T-2)

と名付けられ、簡単にT-2というのが名称となります。
生産されたT-2、2機は1922年6月にアメリカ陸軍航空局に売却され、
当初はF-IVと呼ばれていました。

それまでのフォッカー機の中で最大の機体であるT-2は、
全長25m近い片持ち式の木製単葉主翼と、15m弱の胴体が特徴です。

アメリカ製の420馬力のリバティV型12気筒エンジンを搭載し、
標準仕様はエンジンの左側にある前方開放型のコックピットに
パイロット一人が乗るようになっており、
機内には8~10人の乗客と手荷物を乗せることができました。

陸軍航空局によって早速初期の受け入れテストが始まり、
T-2は重量を搭載することができ、彼らの目標である、
東海岸から西海岸までの長距離飛行に適応できることがわかりました。

しかし、そのためには改造する必要がありました。

航続距離を伸ばすために搭載燃料タンクを大きくすると、
重量に耐えられるように主翼の中央部分を補強する必要があります。

主翼前縁にある標準的な492リットルの燃料タンクに加え、
主翼中央部に1552リットルのタンク、さらに胴体キャビン部には
700リットルのタンクがこれでもかと搭載されることになりました。

また、機内には、2人のクルーが操縦を交代する際、
機体を安定し易くするための第2コントロール・セットも設置されました。

1924年、陸軍航空局はT-2をスミソニアン博物館に寄贈し、
1962年から1964年にかけて完全修復が行われ、現在の姿は
1973年に改装をおこなった時のものとなります。


【2回の挑戦失敗】

最初の2回の出発地にサンディエゴが選ばれたのは、二つ理由があって、
一つは偏西風を利用するため、そして、西海岸からなら、
カリフォルニア産のオクタン価が高い精製燃料が使えるから
というものでした。


1回目の飛行では、サンディエゴの東80kmの峠に霧が発生し、
ケリーとマクリーディは引き返さざるを得なくなりました。

しかし、この時、彼らは可能な限りの時間上空に止まって、
機体の性能をあれこれと試すことで、次に備えました。

2度目もサンディエゴから出発しましたが、インディアナポリス近郊で、
冷却水タンクのひび割れが原因でエンジンが焼き付いたため、
この挑戦も失敗に終わりました。

この西東横断の準備と2回の失敗の間に、新しいエンジンが数台搭載され、
T-2にさらに多くの小さな改造が繰り返されることになります。

これらのこの作業はすべて、オハイオ州デイトンの
マクックフィールドにある陸軍航空局の施設で行われました。

【三度目の正直】

3度目の挑戦は、東から西への飛行と決まりました。

大陸横断飛行は、5月2日午後2時36分、
T-2がルーズベルト・フィールドを離陸した時に始まりました。

離陸時の機体総重量は4,932kgで、T-2の限界である4,990kgより
わずか68kg少ないだけ、つまり限界まで燃料を積んでいました。

飛行機が高度を上げるまで20分かかったくらいでした。

ケリー中尉が最初に操縦し、インディアナ州リッチモンドまで飛行。
その後ケリー中尉はマクリーディ中尉と交代し、深夜まで飛行。

パイロットは基本的に6時間交代です。
コックピットはオープンで、うるさいリバティエンジンのすぐ後ろ。
上空で二人はおそらく互いの声が聞こえなかったに違いありません。

夜間飛行では激しい嵐や雨に見舞われ、コクピットはほぼ吹き曝し。
アーカンソー川に差し掛かったところで飛行を終了しました。

「横断飛行」の定義としては、乗員が二人いても寝る時間は別で、
一応は着陸してもいいというルールになっていたようですね。
おそらく陸軍の「俺ルール」だったんだと思いますが。

(だからこそ、大西洋をたった一人で無着陸横断飛行したリンドバーグは
世紀の英雄とされたのだと思います。
ちなみにリンドバーグの大西洋無着陸横断はこの5年後でした。)

翌朝6時、ニューメキシコ州サンタローザで再び操縦を交代し、
さらに高度3,110kmで再び交代。

この結果、T-2は現地時間5月3日午後12時26分にサンディエゴに着陸し、
26時間50分38秒5という公式タイムで
(寝ている時間以外)ノンストップの大陸横断飛行を完了しました。

この時のT-2は3,950kmを平均地上速度147kphで飛行しています。



この時の飛行のことをマクリーディは、

「大陸無着陸断では、暗闇の中を13Vk時間飛行し、
非常に悪い天候を経験し、
一睡もせずに飛行した」


と述べています。

「限られた燃料の中で、コースを外れると西海岸にたどり着けなくなる。
鉄道はもちろん、航空路も郵便路も確立されていない。
嵐と暗闇から抜け出したとき、コンパスだけでコースを確認し、
サンディエゴに到着するのに十分な燃料があることを知った。
私たちは、この航法に大きな誇りを感じています」

と。


サンディエゴのロックウェルフィールドに着陸するT-2

T-2がサンディエゴ上空に到着すると、多くの航空機が
マクリーディとケリーという2人の勇敢な飛行士を出迎えるために
空へ飛び立ちました。(危なくないのかと思ったのはわたしだけ?)

5月3日12時26分、T-2がカリフォルニア州コロナドの
ロックウェル・フィールドに着陸すると、大勢の人が詰めかけました。

このフライトは、全米、全世界の注目を集め、
ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、一面の見出しを飾りました。




■ ジョン・マクリーディ中尉

マクリーディらはこの挑戦のために、何度かテスト的に
条件を加えた飛行を行なって機体を試しています。


1921年9月28日の高高度飛行に先立ち、ルペール複葉機の右翼の前で
ヘルメット、マスク、ゴーグル、パラシュートとフル装備の
高高度飛行服を着て立っているジョン・A・マクリーディ中尉。

当時の飛行機はオープンコクピットですから、
全身をこうやって皮で包み、さらには顔周り、
風を受ける手首周りに毛皮があしらわれています。



ジョン・アーサー・マクリーディ中尉
John Arthur Macready 1887-1979


は、第一次世界大戦後の数年間、陸軍最高のパイロットの一人であり、
マッケイ・トロフィーを3度受賞した唯一のパイロットです。

カリフォルニア州サンディエゴ生まれで、
スタンフォード大学を1912年(25歳で?)卒業しています。

1918年にアメリカ空軍に入隊し、サンディエゴの
ロックウェル・フィールドでパイロットのウィングマークを取得しました。

テキサス州ブルックス飛行場の陸軍飛行学校で教官をしていた時に書いた本は
米軍航空初期の飛行学生の基本マニュアルになりました。

戦後は、オハイオ州マクック飛行場の航空局実験試験センターに配属され、
チーフテストパイロットとして活躍しています。

大陸横断飛行の前年である1922年、マクリーディ中尉は
のちに横断飛行のパートナーになる同僚のオークリー・ケリー中尉とともに、
サンディエゴ上空で35時間18分半という世界飛行耐久記録を樹立。

この耐久飛行をきっかけに、初の空中給油装置の実験が行われました。

そして1923年5月、マクレーディ中尉とケリー中尉は
フォッカーT-2で米国初の無着陸大陸横断飛行を達成するのですが、
マクリーディは、高高度飛行でも、ルペールLUSAC-11複葉機
(オープン・コックピット)で40,800フィートの高度記録を達成しています。

そのほかにも、

初の夜間パラシュートジャンプ
初の飛行士用メガネの発明
世界初のクロップダスター(農薬散布機)実験
初の日食写真撮影
アメリカ初の航空写真測量
初の与圧式コックピット試験


などの実験的飛行を成功させており、
優れた航空功績に与えられるマッケイ・トロフィーを
最初で唯一3度も獲得したなどの偉業を成し遂げました。

これが世界初の農薬散布機だ




試験飛行で使用した高所作業用機器と共に

彼は、オハイオ州デイトンの航空殿堂と、
サンディエゴの国際航空宇宙殿堂にその名前が刻まれています。

■ オークリー・ケリー中尉


マクリーディ中尉があまりにも凄すぎるパイロットだったせいで、
一緒に記録達成をしたにもかかわらず、ほとんどその資料がない
ちょっと気の毒な同僚のケリー中尉です。

オークリー・ジョージ・ケリー中尉
Oakley George Kelly(1891-1966)


彼が凡庸というより、たまたまレジェンドと一緒に記録を立てたので
それで歴史に名前が残されることになったというべきかもしれません。

オークリー・ケリー中尉は、ペンシルベニア州で生まれ、
1916年から1919年まで、カリフォルニア州の
陸軍ロックウェル・フィールドで教官を務めていました。

この時同僚にいたのがマクリーディ中尉です。
そして二人は横断記録を打ち立てるわけですが、その後の彼の人生は、
記録を打ち立てたのと同じ飛行機(フォッカーT-2)を使って、
歴史的山林ルートの保全と保存のための支援を呼びかけをした他は、
観測飛行隊の飛行隊長を務めていたくらいしか記述がありません。

■ のちの評価

時の大統領、ウォーレン・ハーディング

「あなたたちのの記録破りのノンストップ飛行、
海岸から海岸への飛行の成功に心からの祝意を表します。
あなたがたはアメリカ航空界の勝利の新しい章を書きました。」


そしてアーノルド "ハップ "将軍は、

「不可能が可能になった」

フォッカー航空社長でT-2型機の開発者、アンソニー・フォッカーは、

「あなたの偉業に心からの祝福を。
あなたの飛行は、民間航空の発展における画期的な出来事です。
10年後には、あなたが征服し飛行したルートを
多くの旅客と貨物便がたどることでしょう」

そして飛行家マクリーディ自身は、

「栄誉はそれ自体で報われる。
この飛行には多くの栄光が約束されていた。
兵士としての義務を果たし、
多くの人が不可能と考える偉業を成し遂げることに大きな満足がある」

とそれぞれ語っています。

■ マクリーディとケリーの晩年

ケリーは1948年大佐として軍務を退き、
1966年にカリフォルニア州サンディエゴで74歳で死去しました。

マクリーディは第二次世界大戦で現役に戻り、
大佐として陸軍航空隊のグループを指揮したほか、
監察官として北アフリカに派遣されました。

1948年に現役を退いてからは活動の記録はなく、
1968年に全米航空殿堂、そして1976年には国債航空宇宙殿堂入りしました。

1979年、91歳で亡くなっています。


オーヴィル・ライト(中央)と歩くマクリーディ(左)とケリー
今では考えられない歩きタバコに注目

続く。


来日していた米陸軍航空・世界一周飛行隊〜スミソニアン航空博物館

2023-04-08 | 飛行家列伝

2回続けてスミソニアン博物館から、1920年〜30年代の
海軍航空の歩みに関する展示を中心に紹介してきました。

というところで、今日は陸軍航空の挑戦についてです。




「ミリタリー・エア」のコーナーには、ダグラスの航空機の下に
二人の陸軍パイロットのパネルがあり、このように書かれています。

ローウェル・スミス大尉とレスリー・アーノルド大尉と
ダグラス ワールド・クルーザー「シカゴ」

1924年、スミスとアーノルドの操縦する
アメリカ陸軍航空サービスの1機である「シカゴ」号は
世界初の「完全な世界一飛行」を175日で終えました。

スミスとアーノルドってどんな人?

●世界一周するために出発したアーミー・ワールド・クルーザー、
4機のうちの一つの乗組員

●スミスは37時間の耐久飛行記録を打ち立てました

●アーノルドは陸軍の追跡パイロットであり、
バーンストーマー(アクロバット飛行などもするパイロット)でした

●彼らは世界飛行という脅威的な偉業を達成するために、
広大なグローバルネットワークによるサポートに支えられました

ダグラス・ワールド・クルーザー「シカゴ」
The Douglas World Cruiser Chicago

「シカゴ」とその仲間である「ワールドクルーザー」は、
世界一周の挑戦の過酷で変化に富んだ状況に耐えるのに
十分なくらい頑丈で、かつ信頼できるものではなければなりませんでした。

彼らは航続距離を確保するために追加の燃料タンクを採用し、
ホイールとフロート、どちらも選択することができました。


胴体に書かれた地球に二羽の鷲のイラストは、
世界を巡る陸軍パイロット二人を象徴しています(たぶん)


1924年、アメリカ空軍の前身であるアメリカ陸軍航空局所属の飛行士が、
「世界初」=(着水なし)の空中周航を達成しました。

全行程175日間の旅は、航行距離42,398km以上。
その航路は、環太平洋を東から西に回り、
南アジア、ヨーロッパを経て米国に戻るというものでした。

冒頭で紹介されているのは、そのメンバー4人、

ローウェル・H・スミス  Lowell H. Smith

レスリー・P・アーノルド  Leslie P. Arnold

エリック・H・ネルソン Erik H. Nelson

ジョン・ハーディング・ジュニア John Harding Jr.

のうちの上二人です。

彼らは単発オープンコックピットで水上機仕様の
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)2機を挑戦に用いました。

実はこの2機の他にDWC2機、乗員合計4人が同じルートに挑み、
いずれも途中で脱落しましたが、飛行士は全員無事でした。

■ 世界一周への挑戦


1920年代初頭、当時の世界の航空界におけるトレンドは、
「飛行機による世界一周一番乗り」
だったかもしれません。

イギリスは1922年、真っ先に世界一周飛行にチャレンジし、失敗しました。

1923年春、アメリカ陸軍航空局は

「軍用機飛行隊による初の世界一周飛行」

を試みました。

この陸軍のハイレベルな試みは、最終的にパトリック将軍の指揮の下、
海軍、外交団、漁業局、沿岸警備隊の支援も受けることになります。

【使用機の選定】

まずは使用する飛行機の選定です。

陸軍省は、フォッカーT-2輸送機とデイヴィス・ダグラス・クラウドスター
どちらが適しているかを検討し、試験用の実機を入手するよう
航空省に指示しするところから始めました。

陸軍省はこのどちらにもそこそこ満足しましたが、
計画グループは、車輪と着水用のフロートを交換できる専用設計にしたい、
と考え、現役および生産中の他のアメリカ航空局軍用機を、
全て検討するように要請しました。

デイビス・ダグラス社が、デイビス・ダグラス・クラウドスターについて
ふたたび打診された時、創始者のドナルド・ダグラス
1921年と1922年にアメリカ海軍のために製造した
魚雷爆撃機DT-2の改造機のデータを代わりに提出しました。

DT-2は車輪式とポンツーン式の着陸装置を交換可能であり、
さらに頑丈な機体であることが証明されていたからです。

ダグラスは、この既存機をもとにして、
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)に改造し、
契約後45日以内に納入することになりました。

ダグラスはジャック・ノースロップの協力を得て、
DT-2を世界一周挑戦用に改造する作業に取り掛かりました。

主な改造部分は航続距離を確保するための容量を増やした燃料タンクでした。
内部の爆弾搭載構造をすべて取り除き、主翼に燃料タンクを追加。
機体の燃料タンクも拡大された結果、総燃料容量は
435リットルから2,438リットルへととんでもなく増えました。

ダグラス案はワシントンに持ち込まれ、航空局長、
メイソン・M・パトリック少将がこれを承認し、本格的に動き出します。

まず試作機が発注され、試験の結果さらに4機が納入されました。
予備部品には15基のリバティエンジン、14セットのポンツーン、
さらに2機分の機体交換部品が含まれていたました。

これらの予備部品は、航空機が辿る予定となっていた
世界一周ルート上の場所に先に送られました。

航空機は無線機もアビオニクスも一切備えておらず、
乗組員は冒険の間中、完全に推測航法技術に頼ることになりました。

大丈夫なのか。

そこで重要となってくるのが参加する乗員の人選です。

【選ばれたパイロット】



スミソニアンに展示してある飛行機は「シカゴ」ですが、
実は他の3機も、アメリカの都市名が付けられていました。

写真は、この世界一周に挑戦したエリートパイロットたちで、
各飛行機のメンバーは次の通りです。

シアトル(No.1)失敗

フレデリック・L・マーティン少佐(1882-1956) 機長兼飛行指揮官
アルヴァ・L・ハーヴェイ軍曹(1900-1992) 飛行整備士

シカゴ(No.2)


ローエル・H・スミス中尉(1892〜1945)機長、飛行隊長
レスリー・P・アーノルド少尉(1893〜1961)副操縦士

ボストン(No.3)/ボストンII(試作機)
失敗

リー・P・ウェイド少尉(1897~1991)機長
ヘンリー・H・オグデン2等軍曹(1900~1986)整備士

ニューオーリンズ(No.4)

エリック・H・ネルソン中尉(1888-1970)機長
ジョン・ハーディング・ジュニア中尉(1896-1968)副操縦士


写真には7人写っていますが、おそらくこれは、
士官パイロットだけで撮ったもので、真ん中の一人が
この作戦の総指揮を執った偉い人なのだと思われます。

参加パイロットは全軍から集められた腕利きの飛行家ばかりでした。
世界一周飛行を成功させた後、有名になった二人の経歴を記します。

【ローウェル・スミス中尉】




スミスは、大学在学中に、モハーヴェ砂漠のポンプ工場で働き、
その後自動車修理工場で整備士、 ネバダの鉱山で飛行機の操縦を習った、
という変わった経歴の持ち主です。

メキシコのパンチョ・ビラの革命軍に参加して、
飛行担当として偵察操縦をしていたこともあります。

第一次世界大戦をきっかけに陸軍航空隊に入隊したスミスは、
出征はしませんでしたが、飛行教官、技術官を務めた後、
太平洋岸で火災哨戒を行う飛行隊の指揮官を務めていました。

操縦の腕を買われ、彼は1919年、陸軍代表として、大陸横断速度、
耐久性コンテストに参加することになります。

ところが、コンテスト直前に整備士の灯火が翼に引火し、機体は焼失
スミスは現地を訪れていたあの『陸軍航空の父』の一人、
カール・スパッツ少佐の乗っていた飛行機を直々に譲り受け、
コンテストで史上初めてサンフランシスコからシカゴまで飛行を成功させ、
さらに往復によって記録を作ることになります。

その後、1923年、スミスはポール・リヒター中尉とともに、
デ・ハビランド・エアコDH.4Bのペアで史上初の空中給油を成功させます。

この飛行でスミスは飛行距離、速度、飛行時間の16の世界記録を更新し、
37時間15分の滞空記録と次々に挑戦を成功させてきました。

その時すでにスミスの飛行時間は2000時間以上。
世界一周飛行に挑戦するのに選ばれて当然のキャリアと実力でした。

ただし、中尉だった彼は最初から隊長に選ばれていたわけではなく、
当初予定されていたフレデリック・マーチン少佐の飛行機が
アラスカで墜落してしまったため、急遽指揮官を任されたのです。

【レスリー・アーノルド少尉】


イケメソ

「シカゴ」の副操縦士を務めたレスリー・P・アーノルド少尉は、
追跡パイロットとして訓練を受けた飛行士です。

第一次世界大戦の戦闘には間に合わず、軍のバーンストーマーとして
アメリカの田舎を旅し、人々に感銘を与えたパイロットの一人となりました。

アーノルドは、ウィリアム・"ビリー"・ミッチェル准将が率いる
陸軍の特別臨時航空旅団の一員となり、ここでもお話ししたことのある、
1921年のミッチェルの戦艦爆破実験に参加しています。

もともと世界一周飛行の企画段階では予備パイロットでしたが、
出発のわずか4日前にアーサー・ターナー軍曹が病気になったため、
「シカゴ」でスミスに合流しました。

追跡パイロット出身、さらに陸軍のバーンストーマーと、
こちらもその操縦技術と経験は十分だったといえるでしょう。

■ 世界一周

パイロットたちはバージニア州のラングレー飛行場で
気象学と航法の訓練を受け、試作機での練習、ついで
ダグラス社とサンディエゴで量産機での練習も行っています。


アメリカ・ワシントン州シアトル

「シアトル」「シカゴ」「ボストン」「ニューオーリンズ」の4機は、
1924年3月17日にカリフォルニア州サンタモニカを出発、
ワシントン州シアトルを発ってこの日が正式の出発日となりました。

各機はシアトル出発前に、それぞれの名前の由来となった都市から
わざわざ持ってきた水をボトルに入れて機体で割る儀式を経て
正式に命名され、車輪はポンツーンフロートに交換されました。

1924年4月6日、彼らはアラスカに向け出発しますが、
9日後に早速トラブルが見舞います。


カナダ・プリンスルバート

4月15日にプリンスルパート島を出発した直後、先頭機「シアトル」は
クランクケースに穴が空いて着水せざるを得なくなったため、
エンジンを交換して3機を追いかけますが、

アラスカ準州・シトカ、スワード、チグニク・ポートモラー
で濃霧の中、アラスカ半島の山腹に墜落して「シアトル」は損壊します。

しかし乗員二人は山腹を歩いて6日間を過酷な環境の中で生き延び、
缶詰工場にたどり着いて助かりました。



1番機が脱落したので、スミスとアーノルドの「シカゴ」が
1番機を務めながら北太平洋を横断しました。


ソ連・ニコルスコエ
ソ連とは国交がなかったので上空の航行は認められていませんでしたが、
「シカゴ」はなんとなくソ連領土にも着陸してしまっています。

この頃はのんびりしていたのね。

日本
そして5月25日、この時チームは東京にたどり着いています。


霞ヶ浦到着 旗を振る人々



一行は日本では千島列島はじめ6カ所に着陸しました。
6月2日には鹿児島に到着したとあります。

説明によると、陸軍航空隊の皆様は、特に日本の滞在には興奮したとのこと。


「日本で皇室の歓迎を受ける」

と見出しに書かれていますね。
日本は官民あげての大歓迎をしたようで、特に帝國陸海軍は
総出で彼らのアシストをおこなったと新聞記事にも書かれています。

「バンザイ!」

霞ヶ浦に到着した時には海軍士官が特に出迎え、
海軍施設で心温まる歓迎をしてくれたとか、
集まった人々は皆手に日米の国旗を打ち振っていたとか、
子供たちが400人も集まって歓迎してくれたとか、
到着した時人々の間から「バンザイ!」という声が上がったとか、
日本の航空機が歓迎のための航空デモをしてくれたとか、
最終日には上野公園で「帝国航空協会」?から花束をもらったとか、
陸軍高官に茶を振る舞われ、政府主催の公式晩餐会があったとか、
「ガールズ」が花束贈呈をしたとか(それがどうした)
乾燥した栗とsake、日本の酒が出され、これが美味かったとか。



海軍の施設でメインテナンスされている「シカゴ」を見る二人。
メダルは串本町?町長から贈呈されたものです。

ただし、

スミソニアンの説明は、

「日本は航空機の到着そのものには大歓迎をしていたが、
操縦者が軍人であることから軍の関与を疑っており、
軍事機密を保護するため、国内の移動には曲がりくねった航路を指示した」

と、まあ近代国家なら普通にするであろうことを
なんとなく意味ありげに書いています。

その後航空機は比較的順調に朝鮮半島(これも日本)を経由し、


中華民国 上海


中国沿岸を下って・・・・、


フランス領インドシナ(現ベトナム)
へと。

【『シカゴ』のトラブル】

トンキン湾を出発した後、「シカゴ」のエンジンの一部が破損し、
フエ近くのラグーンに着陸したところ、飛行機を珍しがった現地の人が
わらわらと飛行機に近づいてきて乗ろうとするので困ったそうです。

他の三機の救助ボートが、「シカゴ」の翼の上に座っている二人を見つけ
3台のパドル式サンパンで10時間、かけてフエまで牽引し、
そこでサイゴンから緊急輸送されたスペアエンジンと交換さました。

怪我の功名とでもいうのか、この時交換したエンジンは性能が良く、
もしかしたら「シカゴ」が成功したのはこのおかげだったかもしれません。

しかしながら、「シカゴ」のトラブルはまだ続きました。


タイ・バンコク


イギリス領インド・カルカッタ、カラチなど

6月29日の夜、カルカッタで足回りの整備を済ませた日、
夕食を食べ終わったスミスが暗闇で滑って肋骨を折ってしまいました。
しかしそれでも彼は作戦を遅らせることなく続行することを主張。

「ニューオリンズ」壊滅的なエンジン故障に見舞われ、
足を引きずるようにカラチにたどり着き、全機がエンジン交換を行いました。

その後、中東、そしてヨーロッパへと向かいました。

シリア・アレッポ

トルコ・コンスタンチノープル

ルーマニア王国・ブカレスト

ハンガリー王国・ブダペスト

オーストリア・ウィーン

フランス・パリ・ストラスブール
7月14日のバスティーユ・デイにパリに到着。


イギリス・ロンドン、ブラフ、スカパ・フロー
ロンドン、イギリス北部へと飛行し、
ポンツーンの再設置やエンジンの交換など、
大西洋横断の準備を行います。

【『ボストン』号脱落】


アイスランド・レイキャビク

1924年8月3日、アイスランドに向かう途中、「ボストン」は
オイルポンプの故障により、で無人の海に墜落しました。

「シカゴ」はフェロー諸島まで飛行し、支援のため待機していた
アメリカ海軍軽巡洋艦USS「リッチモンド」にメモを投函し、
乗員は無事救助されたのですが、曳航されていた「ボストン」は
フェロー諸島到着直前に転覆して海の藻屑と消えてしまいました。

残った「シカゴ」と「ニューオリンズ」は
アイスランドのレイキャビクに長期滞在し、そこで偶然にも
同じ周航を試みていたイタリアのアントニオ・ロカテッリ
その乗組員に出会っています。

その時世界一周に航空機で挑戦していたのは、
何カ国もありました。(ブームだったんですね)


グリーンランド・タラーシクなど
「シカゴ」と「ニューオーリンズ」は、今や
5隻の海軍艦艇とその船員2500人を伴って、
グリーンランドのフレドリクスダルに向け前進を続けていました。

これは、その5隻の船がルート上に連なる、
全旅程の中で最も長い行程となりました。
グリーンランドで2機はまたエンジンを取り替えています。


カナダ・ラブラドール
に到着。

最初に脱落していた「ボストン」の乗員二人ですが、
彼らはなんと、「ボストンII」というオリジナルの試作機に乗り換えて
ここからちゃっかりまた合流しています。


アメリカ・メイン州カスコ湾、マサチューセッツボストン
ニューヨークミッチェル空港、ワシントンD.C.など


首都での英雄的歓迎の後、3機のダグラス・ワールド・クルーザーは
西海岸へ飛び、複数の都市を巡り歓迎されました。

全行程363時間7分、175日以上、42,398 km。

同時期に挑戦したイギリス、ポルトガル、フランス、イタリア、
アルゼンチンは全チーム失敗しましたが、彼らだけが成功させています。

それもそのはず、全チームでアメリカだけが、

●複数の航空機を使用した

●燃料や予備部品などの支援機器を
ルート上に大量に事前配置していた

●海軍の駆逐艦数隻を応援に配備していた

●事前に手配された中継地点で
5回のエンジン交換、2回の翼の交換をした

のですから。
まーこれはチートってやつですよね。他の国から見たら。

その後ダグラス・エアクラフト社は、

「ファースト・アラウンド・ザ・ワールド
 - First the World Around」

というモットーを採用するようになりました。
めでたしめでたし。

続く。





アメリカ海軍の航空パイオニア〜スミソニアン航空博物館

2023-04-06 | 飛行家列伝

前回は、実は史上初の大西洋横断を成し遂げていたのが
アメリカ海軍だったという衝撃の史実についてお話ししました。

行く先々に海軍艦艇を首飾り状に配置したり、もしもに備えて
3機のチームで臨んだり、さらには途中の島で修理やら何やらで23日費やし、
というのが「横断」というにはチートすぎて記録として残されていない、
ということも、ついでにご理解いただけたかと思います。

今日は、その頃の海軍航空のパイオニアを何名かご紹介しますが、
まずその前に、前回ご紹介するのを忘れていたスミソニアンの展示、
海軍大西洋横断チームの私物を挙げておきます。

■海軍大西洋横断チームの私物


●メダル・オブ・コングレス



ウッドロウ・ウィルソン大統領が議会を代表して、
大西洋横断初飛行のNC-4の乗組員と計画者に贈ったメダルです。

●コース&ポジションプロッター



直径7.3/8インチ、1/4インチセルロイド製グラフ、2本の目盛付きアーム。

「このコース&方位インディケーターは、最初に大西洋横断の際
通信オペレーターのロッド少尉がNC-4で使ったものである」

とこの裏には鉛筆の手書きで書き込まれています。


「TEC.」「Made in Germany」と書かれたステンレス製のプロッター。
1919年5月、A.C.リード中佐がNC-4の大西洋横断飛行で使用したもの。

司令官だったリード中佐から、NC-4の整備士であった
チャールズ・J・ボイドに作戦終了後プレゼントされたそうです。

●スイス製8日時計



「8日時計」とは日本の「8日巻き時計」のことだと思われます。

大西洋横断を水上機で行うというこのチャレンジにおいて、
正確な時間を知るための時計はナビゲーションのためにも必須でした。

やはりスイス製の時計はブランドとして信頼されていたんですね。

●『ウォブル』Wobble



「ウォブル」が何かはわかりませんでしたが、(ぐらつきとか揺らぎの意味)
わかっていることは、これは船のポンプとハンドルであり、
横断に失敗したNC-3が搭載していたものだということです。

NC-3のクルーは機関が不調になったとき、水分を排出するために
このポンプを使用しました。

●航空用眼鏡



グラス部分の劣化が凄まじいですが、本当にガラスなんでしょうか。
NC-4の司令官、アルフレッド・リード中佐が着用していたゴーグルです。

アルミフレーム、綿のアイカップ、フリースパッド、ガラスレンズ、
変色したキシロナイト飛散防止コーティング、ゴム紐も破損。

● 海上用フレア


八角形、蝋のようなもので満たされ、端に重りが付いています。
灰色で、上部に溝があるこの物体は、
海上に不時着を余儀なくされたNC-3の乗員が、
救助者に自分の位置を知らせるために焚いたものです。

●ケネス・ホワイティング提督の士官用儀礼刀


このコーナーには、NC-4とは関係ない海軍グッズも展示してあります。
この士官用儀礼刀は、ケネス・ホワイティングが所有していたもので、
真鍮製ハンドガード、キヨン(鍔の片側)にドルフィンが描かれ、
革製ハンドル、真鍮製ポメル(柄頭)には
星に囲まれた鷲のレリーフが施されています。

ケネス・ホワイティング中佐は海軍兵学校卒業時にこの剣を受け取り、
1922年3月の空母ラングレー(CV-1)の就役式で使用しました。



ホワイティングは1914年にオーヴィル・ライトに操縦を習い、
第一次世界大戦では初の海軍航空隊を率いました。

米海軍の初代空母「ラングレー」の建造にも携わったほか、
甲板からのカタパルト発進を初めて成功させたパイロットでもあります。

その後、空母「サラトガ」を指揮し、1940年に退役するまで
海軍航空部門の指揮官や指導的立場にありました。


再掲ですが

当ブログでも何度か「空母の父」としてご紹介してきましたが、
ゲイリー・クーパーが演じた映画「機動部隊」の主人公は
この人をモデルにしています。(確かにちょっとクーパーに似てますよね)

● 航空ヘルメット


頭のてっぺんの二重丸は何の意味が?
という不思議なデザインの航空ヘルメット。
こんなものをつけたところで事故にはあまり効果はなさそうですが。

茶色の革製飛行用ヘルメット、フットボールスタイル、耳あて付き、
裏地は茶色のフリース、上部に白い雄牛の目(bull eye)が描かれています。

このヘルメットは、やはり「ラングレー」のパイロットだった
アルフレッド.M.プライド提督が着用していたものです。

なんかこんな人自衛隊にいそう

アルフレッド・プライドについては、以前も当ブログで取り上げました。
海軍兵学校を出ずに提督になった人でもあります。

この人ですね

■ 「空母の父」ジョセフ”ブル”リーブス提督



「軍人飛行家」ばかり(コールマン以外)集めたこのパネルのうち、
海軍軍人は中段のリーブスとその右側のロジャースだけです。

ジョセフ・メイソン『ブル』リーブス提督
Joseph Mason ”Bull” Reeves(1872−1948)


もまた、初期の航空母艦の発展に寄与した海軍軍人の一人です。
前にも書いたことがありますが、彼の実体験から得た教訓は、
1930年代を通して海軍のドクトリンに大いに影響を与えました。

彼が艦長を務めたこともある海軍初の電気推進船であるコリアー船、
USS「ジュピター」(AC-3)が、1922年に
航空母艦USS「ラングレー」(CV-1)として再就役したことから
彼のキャリアは大きく変わることになります。

「ラングレー」はご存知のようにアメリカ海軍はつの航空母艦ですが、
既存の甲板の上に二階建てのように設置されており、
海軍軍人たちはこれを「幌馬車」と呼んでいました。

第一次世界大戦が済んでから海軍航空隊で教育を受け、大尉の時に
戦艦航空隊司令に就任し、「ラングレー」を旗艦として乗り組んだ彼は、
司令部在任中、空母航空戦術の発展に努め、
出撃率の向上と急降下爆撃の利用を模索し続けました。

彼はこれらのコンセプトを、海軍の年次艦隊演習(通称「艦隊問題」)
でのパイロットと航空機乗組員の成功によって証明することになります。

ちなみに「空母の父」多すぎかよ、と思われるかもしれませんが、
空母発展期に司令官だったのがこの人だったので、
この人が「空母の父の父」みたいな位置づけとされているようです。

雄牛というより山羊系男子だよね

あだ名の「ブル」に違和感を感じた人はわたしだけではないと思いますが、
こう見えて兵学校時代からフットボールで鳴らしており、
コーチとしてもアーミーネイビーゲームで6勝している凄腕なので、
それで付いたあだ名だったんじゃないかと思います。想像ですが。

■ ハワイ「無着陸」到達飛行?
ジョン・ロジャース中佐


リーブス提督の右側の写真の海軍軍人は、

ジョン・ロジャース中佐
 Commander John Rodgers (1881 – 1926) 

時代が遡りますが、最後にご紹介しておきます。
有名なジョン・ロジャース提督と黒船来航のマシュー・ペリー提督の曾孫で、
つまり「海軍一家の海軍軍人」ですが、ならばなぜ航空に?

それは中尉であった1911年、発足したばかりのアメリカ海軍航空計画で
たまたま人力凧を使った実験に参加させられたのがきっかけでした。

上官の命令でUSS「ペンシルバニア」(ACR-4)の甲板から
凧で400フィートの高さまで釣り上げられ、ケーブルに吊られた状態で
航行する船に引っ張られ、15分間、観測と写真撮影を行うという実験です。

「仮面の忍者赤影」状態と考えればいいのか。


参考画像

そしてなし崩し的にその後ライト兄弟から航空訓練を受け、
(ちなみにライト兄弟が訓練をした最初の人物となる)
海軍飛行士第2号となりました。

この頃彼は、ライト兄弟飛行場にあったライトフライヤー号を無断で借りて
こっそり飛んでいたところ、着陸の際に翼を壊してしまい、
ライト兄弟にめちゃくちゃ怒られたという逸話が残されています。

しかしその後、海軍が受け入れたライトフライヤーを、
アナポリスからワシントンD.C.のホワイトハウスまで飛ばし、
海軍としては最も長時間飛行をおこなったパイロットの称号を得ました。

ロジャースはこの成功に気を良くして、飛行機で両親を訪ねることを思い付き
連絡せずにいきなり自宅近くの野原に着陸して、

「アメリカで初めて飛行機で両親を訪ねた男」🎉

というタイトルも手に入れました。

でっていう。

第一次世界大戦が始まると、飛行機で遊んでいるわけにもいかないので、
潜水艦部隊の指揮官となり、コネチカットの潜水基地から出撃し、
北海での掃海作戦で功績を挙げて勲章を授与されました。

【ハワイへの初の無着陸飛行挑戦】

「ラングレー」で戦闘艦隊の航空機飛行隊を指揮していた1925年、
彼はカリフォルニアからハワイへの無着陸飛行の挑戦を指揮しました。

当時の技術を考えると、これは航空機の航続距離と航空航法の精度、
両方の限界を試すものでした。

海軍は同じ理由で大西洋横断飛行の挑戦もしていますが、
この遠征でもその時と同じ3機の航空機が参加することになっていました。

結局1基が間に合わず、2機での挑戦となり、
ロジャースは飛行艇PN-9 1号機を指揮することになりました。

そしてまたしても海軍は、(NC-4大西洋無着陸飛行編参照)
カリフォルニアとハワイの間に200マイル間隔で10隻の護衛艦を配置し、
給油や回収などを行う過保護体制でこれを支援しました。


2機のPN-9はサンフランシスコ近郊からを出港しましたが、
2号機は早々にエンジントラブルとなり、脱落。

ロジャースの1号機は機嫌よく飛行していましたが、予想以上の燃料消費、
予想以上の追い風のため、洋上給油が必要となります。

しかし、航法技術の限界と船員の誤った航法情報により、
給油船と会うことができず、飛行船は海で浮いているしかなくなります。

空中にいる間は機体の位置が分からず、
水上に浮いているときは機体の無線が送信できない。

こんな状態なので、海軍が総力を上げて数日間大規模な捜索を行うも、
ロジャース機は発見されず時間だけが過ぎていきました。
海は広いな大きいな。月が上るし日が沈む。

そしてロジャース一行は夜が明けると生還のために行動開始。
翼の布を使って帆を作り、数百マイル離れたハワイに向けて漕ぎ出しました。

うーんさすが船乗り。って感心してる場合じゃないか。

さらに彼らは、金属製の床材を使ってリーボード
(揚力翼、船が風下に向かないようにする装備)を作り、
航行中の飛行艇の操縦能力を向上させたりしています。

いや、冗談抜きでさすがは船乗りである。

そして9日後。

カウアイ島まで後15マイルというところで、ロジャースの1号飛行艇は
潜水艦 USS R-4に発見され、曳航されて島まで無事辿り着きました。


潜水艦に発見されるまでに、ロジャースと彼の乗組員は、
9日もの間、食料もなく、限られた水で生き延びていました。


でも、あれ・・皆なんかツヤツヤしてないか?

ロジャースは、9日間の漂流生活を経ても乗員の健康には問題がなく、
しかも『完全に自分たちの面倒を見ることができた』と言っていますが、
飛行艇が海軍組織で、命令系統が日頃の訓練から非常に潤滑だったこと、
おそらく指揮官の采配が良かったのと、全員が若い軍人で鍛えており、
また海軍だったので海に強く、体力があったことが功を奏したのでしょう。

これがもし民間あるいは陸軍の飛行機だったら、
おそらく飛行艇の操舵を改造するなどということも不可能だったし、
生きて帰ることはできなかったかもしれません。

帰還後、ロジャースと彼の乗組員はちょっとした英雄となりました。


全米が泣いたため映画化決定・・・映画「ハワイ・コールズ」

そして、ここからはちょっと、と思うのですが、
彼らのこの度の飛行は、空路でハワイに到着しなかったにもかかわらず、

「3206km水上飛行機の無着陸飛行距離新記録」

として正式にカウントされることになりました。

いやいやいや、それはない。
これ、飛行・・・してませんよね?
確かに着「陸」はしてない=無着陸だけど。


その後ロジャース中佐は、航空局の次長として勤務していましたが、
1926年、任務中の飛行機がデラウェア川に墜落して死亡しました。

享年45でした。

飛行機が不調に見舞われたとき、彼はもしかしたら一か八か、
かつて水上機でやった方法で、川への着水を試みたのかもしれません。

そして、やっぱりうまくいかなかったと・・・(-人-)



続く。


アメリカ海軍の大西洋発横断飛行(史上初)〜スミソニアン航空博物館

2023-03-04 | 飛行家列伝

「大西洋横断飛行」

大西洋とは縁もゆかりもない我々日本人にはピンときませんが、
欧米の国々にとって大西洋は「横断すべきもの」でした。

少なくとも、航空機というものが発明されて以降、欧米の人々は
ヨーロッパ、アフリカ、南アジア、中東から北米、中米、南米へ、
またはその逆方向へ大西洋を横断することに夢中になりました。

大西洋を横断する=トランスアトランティックという「造語」ができ、
達成のためのコンテストが行われ、実業家は賞金を出し、
野心のある飛行家たちが名を挙げようと次々とこの課題に挑戦しました。

太平洋横断飛行には、固定翼機、飛行船、気球などが用いられたわけですが、
初期の航空機のエンジンは信頼性に乏しく、無給油で何千キロも続く
特徴のない海域を航行するのは困難を極めました。
特に北大西洋の天候は予測不可能で危険でもありましたが、
科学技術の発展と何人かの勇気あるパイオニアたちのおかげで、
20世紀中頃から、商業、軍事、外交などの目的で
大西洋横断飛行が日常的に行われるようになりました。


さて、スミソニアン博物館の、ミリタリーエアのコーナーを飾る
黎明期の軍パイロットたちの写真を今一度見てみましょう。

ベッシー・コールマンを除く全員が軍人であるわけですが、
(というかなぜここにコールマンがいるのか謎)
上の段の真ん中の6人のパイロットたちは陸軍航空隊メンバーで、
彼らは1923年に大西洋横断を成し遂げたということで有名です。

が、軍で言うと、大西洋横断を先に達成したのは海軍なのです。

なのになぜ、世界初の太平洋横断飛行を行った海軍ではなく、
陸軍の写真なのかはよくわかりませんが、
このパネルに収める軍人の陸海の数のバランスの関係でしょうか。



■ 大西洋初横断

リンドバーグが大西洋単独無着陸横断に成功する8年前に、
海軍は水上機による大西洋横断飛行を史上初めて成功させていました。

その二週間後、イギリスのジョン・アルコックとアーサー・ブラウンが、
今度は航空機による史上初大西洋ノンストップ横断に成功しました。


アルコックとブラウンの像

ちなみにアルコックはこの年1919年の12月に参加した航空ショーで
飛行機が墜落し、若くして死去しています。

命の危険を重々承知で飛んでいたとはいえ、
世界記録を出した直後に死ぬというのは何とも気の毒です。

ともかく史上初めて航空機と名のつくもの、水上機で大西洋横断したのは、
アルバート・クッシング・リード中佐率いる3機のNC-4海軍チームで、
ニューヨークからプリマスまで23日で到達しているのですが、
かかった時間と横断に複数の飛行機を使用したということで、
「大西洋横断」と言う公式記録にはカウントされませんでした。

しかし、このときの海軍は、記録を作ると言うよりは、
大洋横断兵器としての飛行機の性能と技術を証明するため、
軍を挙げて大西洋横断に挑戦したのだといわれています。


という意気込みの割に驚くほどのんびりとした出撃風景なんですが・・・。

1919年5月8日、ロングアイランドのロッカウェイビーチ。
(どこから撮った写真なんでしょうか)

この挑戦は6名の乗員を乗せたカーチス飛行艇3機で行われました。
使用されたのはNC-1、NC-3、NC-4でと番号が振られた
カーティスNCと言う最新式の水上飛行機でした。




大西洋横断メンバー

当時の海軍の軍服が全く陸軍風なのに驚かされます。
長靴に乗馬のジョッパーパンツなんて海軍要素ゼロですよね。

NC-4艇のメンバー、左から右に向かって:

操縦士;エルマー・ストーン中尉Lt. Elmer F. Stone, 沿岸警備隊

機関士;ユージーン・ローズ上等兵曹Eugene S. Rhodes


機関長;ウォルター・ヒントン大尉Lt. Walter Hinton

副操縦士;ハーバート・ロッド少尉 Ensign Herbert C. Rodd

通信&機関長;ジェイムズ・ブレッセ大尉 Lt. James L. Breese,

司令官;アルバート・リード 中佐Lt. Cmdr. Albert C. Read

アゾレス諸島海軍司令官;リチャード・ジャクソン少佐
Capt. Richard E. Jackson, Commander U.S. Naval Forces Azores

アゾレス諸島は、彼らが大西洋横断の際に中継点として離陸した
大西洋の島であり、ジャクソン少佐は現地司令官です。

先にフライトエンジニアとしてE・H・ハワードというメンバーがいましたが、
5月2日、ハワードは回転するプロペラとの距離を見誤り、
手を失ったため、ローズ上等兵曹が代理で乗り込むことになりました。

超余談ですが、この中の唯一の沿岸警備隊からの参加者、
ストーン中尉(左端)は、のちに海軍の飛行船「アクロン」の沈没事件の時、
沿岸警備隊の飛行艇のベテランとして、嵐の中、外洋に着水し、
果敢にも救助活動を行ない、賞賛されることになります。

この時の「アクロン」の生存者は76名の乗員のうちたった3人でした。



このときのリード隊のコースが図になっています。

ニューヨーク・ロングアイランド
マサチューセッツ・チャタム(アメリカ)
ハリファックス、セントジョンズ・ニューファンドランド(カナダ)
ホータ、
ポンタ・デルガーダ(アゾレス諸島)
リスボン、フィゲイラ(ポルトガル)
フェロル(スペイン)
プリマス(イングランド)


(赤字は予定外の緊急着陸地)

水上艇での横断というのが記録として公認されなかったのは、
固定翼機と違い、墜落による命の危険がない乗り物だったからでしょう。

おまけにこのとき、海軍は作戦成功のためにルート上に駆逐艦を配備して、
逐一カーチス飛行艇を誘導していたと言いますから、
のちのリンドバーグやイヤハートと違い、言うては何ですが
比較的イージーモードな挑戦だったから、と言えるかもしれません。


1919年5月8日、アメリカ海軍の大西洋横断飛行探検が始まりました。

参加したカーチスはNC-4はNC-1とNC-3と言いましたが、
なぜ2がないかというと、この出発前、NC-2は、NC-1を修理するため
重要なスペアパーツを取られて飛べなくなったからです。

3機はロッカウェイ海軍航空基地から出発し、一週間後となる
5月15日には、ニューファンドランドのトレパシーに到着しました。

カーチスNCの航行支援と万が一の際の乗員救出のため、
アメリカ海軍の軍艦8隻がアメリカ東海岸北部と大西洋カナダに配備され、
全軍挙げて成功させる気満々です。

USS「アルーストック」

支援のための全艦艇の旗艦である「ベース・シップ」は、
カーチスNCの飛行直前に海軍が水上機テンダー(補給船)に改造した
旧機雷掃海艦USS「アルーストック」でした。

「アルーストック」は排水量3,000トン強で、
大西洋横断飛行支援に配備された海軍のどの駆逐艦よりも大型です。

「アルーストック」は、カーチスNCがニューヨークを離陸するより前に、
ニューファンドランドのトレパシーに待機していました。

NC-1、NC-3、NC-4が到着すると、給油、再潤滑、整備作業を行い、
のみならずその後、大西洋を横断してカーチス隊を追いかけ、
イギリスに到着した一行と合流して至れり尽くせりの援護を行いました。

海軍全面支援ならではのゴーヂャスなバックアップ体制です。


5月16日、3隻のカーチスNCは、ニューファンドランドを出発しました。
大西洋中部のアゾレス諸島までは今回最も長い距離飛ばなくてはなりません。

しかし、ご安心ください。

先ほども言いましたように、この航路には、主に駆逐艦からなる
22隻の海軍艦艇が約50マイル(80km)間隔で配備されていました。

この過保護っぷりよ

この駆逐艦配置をして「真珠の首飾りのよう」と評されたと言います。

配置されたすべての駆逐艦は「ステーションシップ」として機能するべく、
夜間には煌々と光を放って、迷える飛行艇を導きました。

乗員はサーチライトを空に向けて照らし、また、
飛行士が予定した飛行経路を外れないように、星空弾を発射しました。


NC-4の乗員

が、

ここまでやったのに、やはりアクシデントは起こり、
三機全部、というわけにはいかなかったのです。

NC-4は、翌日の午後にアゾレス諸島のファイアル島のオルタに到着し、
約1,200マイル(1,900km)の飛行を無事に終えることができましたが、
この、15時間18分の夜間飛行の間、一行は濃い霧に遭遇し、
水平線を見失う状態に見舞われたため、危険回避のために
NC-1とNC-3は大西洋に着陸せざるを得なくなりました。

飛行艇だからよかったものの、飛行機なら墜落ですね。

しかもNC-1は荒波にもまれ、再飛行が不可能となり、
NC-3はメカニカルトラブル(操縦線断裂)で棄権を余儀なくされます。

このNC-1には、後に提督となるマーク『ピート』ミッチャーが乗っており、
ミッチャーら乗員6名は、配備された駆逐艦ではなく、
通りすがりのギリシャの貨物船SS「イオニア」号によって救助されました。

NC-1には「ナンシー」と言う愛称がつけられていましたが、
「イオニア」に発見されるまで、ミッチャーらは波に揺られる
「ナンシー」の翼の上にずっと座っていたということです。


当ブログではおなじみ、ミッチャー

若き日、イケイケの飛行機野郎だった頃のミッチャー

「イオニア」号は、乗員を「アルーストック」に移乗させた後、
NC-1を曳航していたらしいのですが、気の毒に、3日後に沈没し、
深海で行方不明となってしまいました。

もし飛行艇の曳航などしなければ、というか、たまたま
駆逐艦より先に遭難した飛行艇を見つけていなければ、
「イオニア」もきっとこんな目に遭わずに済んだと思われます。
(-人-)

さて、もう1機の遭難艇NC-3には、やはりのちに提督となる
ジャック・タワーズが乗っていました。

グレーの矢印(見にくくてごめん)というか
一人だけズボンに皺のないのがタワーズ

さて、タワーズを乗せたNC-3は、約200海里(370km)を航行して、
(つまり飛ばずに船のように海路を進んで)アゾレス諸島に到着し、
そこからアメリカ海軍の艦船に本国までドナドナされていきました。


NC-4はアゾレス諸島に到着して3日後の5月20日、
リスボンに向けて再び離陸しましたが、機械的な問題が発生し、
わずか240km飛んだところで、アゾレス諸島のサン・ミゲル島、
ポンタ・デルガダに着陸を余儀なくされました。

スペアパーツと修理のために数日滞在後、(これってセーフ?)
NC-4は5月27日に再び離陸しました。

そして、またしても海軍は、特に夜間の航行を助けるために
艦艇をみっちりと配備して備えました。
アゾレス諸島-リスボンのルート上には13隻の軍艦が配置されています。

当時は戦間期で、海軍も暇っちゃ暇だったのでしょう。


その後は大きなトラブルもなく、9時間43分でリスボン港に着岸成功!

この瞬間、NC-4は、「初めて大西洋を横断した航空機」
また、「初めて『海洋上』を横断飛行した航空機」となったのです。

また、マサチューセッツやハリファックスからリスボンまで飛んだことで、
NC-4は「北米やヨーロッパの本土から本土まで飛んだ初めての飛行機」
というタイトルを得ることにもなりました。

かかった日付のわりに、実際の飛行時間は26時間46分でした。

ついでに言えば、リスボンからスペインのフェロール、
そしてフェロールからプリマスという最後の飛行区間には、
さらに10隻のアメリカ海軍の軍艦が航路上に配置されていました。

結局、ニューヨークからプリマスまでのルートのために、
合計53隻のアメリカ海軍の艦船が配備されていたことになります。

やっぱり暇(略)

ヨーロッパ(のどこか)を意気揚々と滑走するNC-4


NC-4の乗員ははプリマスでNC-1、NC-3の乗組員と再会し、
成功組失敗組、一緒に列車でロンドンに向かい、そこで歓迎を受け、
次にフランスのパリを訪れ、そこでも熱烈に喝采を浴びました。



しかし、そのわずか二週間後、最初にも書いたように、
ジョン・アルコックとアーサー・ウィッテン・ブラウンが
ニューファンドランドからアイルランドまで
ヴィッカーズ・ヴィミー複葉機による初の大西洋無着陸横断飛行に成功。

所要時間も16時間27分と海軍の飛行艇の時間を大幅に上回り、
この壮挙にはちょっと曇りが生じることになります。

せめてこの何ヶ月か後ならもう少し勝利感に浸れたと思うのですが。


この成功によって、アルコックとブラウンは、
『デイリー・メール』紙がスポンサーとなって出した条件、

「アメリカ、カナダ、ニューファンドランドのいずれかの地点から、
イギリスまたはアイルランドのいずれかの地点まで、
飛行中の飛行機で72時間連続して初めて大西洋横断を行った飛行士。
各試行に1機のみを使用できる」

をクリアし、1万ポンドの賞金を獲得しましたが、そもそも海軍は
このコンペに参加して賞金を得ることには全く無関心でしたから、
時間制限とか、1機使用などというルールを守ろうなどとは
ハナから思っていませんでしたし、また守る必要もなかったのです。


アメリカに輸送するためプリマスで解体されるNC-4
この後機体は「アルーストック」に積み込まれた

しかしこの壮挙は賞金には変えられない栄光を海軍にもたらしました。
1929年2月9日、議会は公法を可決し、

「最初の大西洋横断飛行を考案し、組織し、指揮した」

ジョン・H・タワーズ中佐と、

「1919年5月にアメリカ海軍飛行艇NC-4に乗り、
最初の大西洋横断飛行に成功したという驚くべき業績」


を挙げた搭乗員の6名に連邦政府金メダルを授与し、
海軍は新たにNC-4勲章という軍事勲章を創設することになったのです。

これはミニチュア版の議会ゴールドメダルでしたが、
海軍や軍服への着用が許可されるメダルは非常に稀なものでした。


本作戦指揮官を務めたリード中佐は搭乗員番号25、
つまり海軍始まって以来25番目に資格を得たパイロットです。

1919年、挑戦を終え、アメリカに帰国したリードは、こう予言しました。

「まもなく人類は、高度6万フィート、時速1,000マイルの飛行機で
世界を一周することが可能になるだろう」


現代の我々には、そりゃそうなるよね、くらいにしか思えない発言ですが、
翌日のニューヨークタイムズ紙は、社説で真っ向から反発しています。

「飛行士の資格と預言者の資格は全く別物だ。
中佐の予測を裏付けるものは、今となっては何もない。
6万フィートの高さにある飛行機は、
真空の中でプロペラを回しているようなもので、
星間空間の凍てつくような寒さの中では、
どんな飛行家も長くは生きられないだろう 」

と。

NYT紙といえば、預言者となったロケット工学の父、
ロバート・ハッチングス・ゴダードに対する当時の暴言を
人類の月着陸の翌日誌面で大々的に謝罪したことで有名ですが、
この暴言に対しては誰をも責任をとっておらず、
少なくとも誰もリードに謝っていないように思われます。

アルフレッド・リードは1967年まで生きていましたから、ジェット機の登場も
音速超えの飛行機も、人類が宇宙に行ったことも当然知っていたわけです。

彼は自分の預言というより、実体験からの「予測」を貶したNYTに対し、
後年そらみたことかと思っていたに違いありません。

History of Naval Aviation - NC-4, Aircraft Carrier 21720 

前半はつまらないので8:00くらいからご覧になるとよろしいかと思います。
この時代の水蒸気カタパルトが結構すごいのに驚かされます。



NC-4は、帰還後に海軍からスミソニアン博物館に寄贈されたため、
スミソニアン博物館の所有物ということになっています。

しかし、この機体は大きすぎて、ワシントンD.C.にある
ここ旧スミソニアン芸術産業館にも、その後継で1976年に完成した
国立航空宇宙博物館本館にも収容することができません。

というわけでNC-4の小型模型は、
国立航空宇宙博物館のマイルストーン・ギャラリーに
1903年の初代ライトフライヤー、
1927年のチャールズ・リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス」
1947年のチャック・イエーガーのグラマラス・グレニスX-1ロケット機、
X-15ロケット機とともに、名誉ある機体として展示されています。

模型ですが。



1974年現在、組み立てられた本物のNC-4はスミソニアンから
フロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館へ貸し出されています。

このままスミソニアンに帰ってくることはなさそうです。


続く。



ジミー・ドーリトルとスマイリング・ジャック〜スミソニアン航空博物館

2023-02-23 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館のミリタリーエア、陸軍航空のコーナーには、
歴史的なカーティスの水上機R3 C-2が展示されています。

これは、かつてあのジェームズ”ジミー”・ドーリトル大尉が乗ったものです。



機体の下には当時のジミー・ドーリトルの飛行服姿が
パネルになってお出迎えしてくれます。

東京空襲=ドーリトル空襲で有名な彼ですが、若い時は
エアレース常連の航空パイロットとして名前を挙げました。

今日は、スミソニアン航空博物館の展示から、
若きドーリトル飛行士についてお話しします。

1925年、アメリカ陸軍航空隊のパイロット、ジミー・ドーリトルは、
このカーティスR 3C-2で、シュナイダー・トロフィー水上機レースに出場、
見事一位を獲得し、翌日には世界記録を打ち立てました。

パネルには、「ジミー・ドーリトルとは?」として、

1920年代、1930年代のアメリカ最高のレースパイロット

航空エンジニア

初めて「ブラインド」フライトを行った恐れ知らずのパイロット

第二次世界大戦の国際的英雄

とそのキャッチフレーズが書かれています。

■ シュナイダー・トロフィー・レース


ノーズがハシブトガラスそっくりな(笑)カーティスR -2C3。

1925年10月26日、アメリカ陸軍中尉ジェームス・H・ドーリトルが
このカーチスR3C-2で参加したシュナイダートロフィーレースの記録は、
平均時速374kmというものでした。

翌日に樹立した世界記録は、直線コースで時速395kmというものです。

R 3Cは純粋にスピードを追求するために設計されており、
水上飛行機から地上用に転換することが可能でした。

そのため、ドーリトルはのちに陸上機としてもレースで結果を出しています。

多くの革新的な機能を持った機体でしたが、
中でも翼に組み込まれたエンジン冷却のためのラジエーター、
そしてフロートに燃料タンクを組み込んだ点が特に先進でした。


これがコクピット。
まあよくぞこれで新幹線並みの速さに人体が耐えたなと。

ちなみにレースには他にも2機同じカーティスの機体が参加しましたが、
そのどちらもゴールラインに到達することもできなかったそうです。



レースの時のカーティスR 3C-2とドーリトル。
レースはメリーランド州のチェサピーク湾で行われました。

メリーランドの天候については詳しくありませんが、
11月のレースは気候的に上空は厳しかったのではないでしょうか。


大恐慌時代のアメリカ航空界のポピュリズムは、1930年代、
エアレースという目に見える形に集結されることになります。

資金さえあれば、容易に入手できる技術を利用し、エアレーサーを投入して、
それだけで名声と富を手に入れることができた時代でした。

国際レースはコンスタントにクリーブランドで行われましたが、
他の主要なアメリカの都市もこぞってレースをホストしています。




シュナイダー・トロフィーレースというのは、1913年から1931年まで
欧米各地を持ち回りで開催された水上機のスピードレースです。

主催者のフランスの富豪、シュナイダーの名前を取ったレースで、
彼自身が水上機の将来性を見込んで、航空技術を発達させるため
私費を投じてレースを始めることにしたようです。

第1回大会、第2会大会は1913年14年と連続して行われましたが、
第一次大戦が始まってしまい、その次は1919年と間が空いてしまいました。

この後の経過が、なんというか第一次世界大戦後の世界の航空界を
ある意味描写している部分もあると思うので書いておきます。

1919 開催地イギリス 優勝:イタリア
1920 開催地イタリア 優勝:イタリア
1921 開催地イタリア 優勝:イタリア

3回連続優勝すればトロフィーを永久獲得できるというルールだったが、
他の国の準備体制が不十分であったという事情を鑑み、
イタリアは紳士的にトロフィー永久保持の権利を放棄

1923 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

アメリカ、陸軍の総力を挙げて参戦したため、他国から批判される
1924 開催地アメリカ(中止) 優勝:なし

アメリカの圧倒的な技術力に対抗出来ず、フランス、イタリアは欠場、
イギリス機も予選でクラッシュしてしまったため、
アメリカはスポーツマンシップに則って開催の延期を申し出る
1925 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

イタリア、イギリス両国、満を持して臨むも、
ジミー・ドーリトルのカーチス R3C-2が圧勝
アメリカのトロフィーの永久保持の権利3勝まであと1勝と迫る

1926 開催地アメリカ 優勝:イタリア

アメリカは軍が手を引いたところ、イタリアが国民の盛り上がりと
ファシスト党のムッソリーニ自らがこれを国家プロジェクトとして
「いかなる困難にも打ち勝ってトロフィーを獲得せよ」

と大号令をかけたのが後押しをして、その結果、

空軍少佐のマリオ・デ・ベルナルディの操縦するマッキ M.39が優勝

この大会を最後にアメリカは不貞腐れて参加を取りやめ
以降はイギリスとイタリアの一騎討ちとなる

1927 開催地イタリア 優勝国イギリス

イギリスがレジナルド・ミッチェルの設計によるスーパーマリン S.5で優勝
これ以降
イタリアはイギリスに勝てなくなる

この間主催者であったシュナイダーは、戦争で資産を失い、
1928年、貧困のうちに死去していた


1929 開催国イギリス 優勝国:イギリス

1931 開催国イギリス 優勝国:イギリス

イギリスに勝てなくなったイタリア、
やる気をなくして
これ以降のシュナイダートロフィーは行われなくなる

っていうか、もうこの頃は水上機の時代は終わっていたのかもしれません。


1925年のシュナイダートロフィーレースで
カーチスR3C-2レーサーに乗るドーリトル



■ 戦間期


第一次世界大戦中、ドリトルは飛行教官として米国に留まり、
その後飛行隊に所属しましたが、大学で本格的に航空工学を学び始め、
1922年、カリフォルニア大学バークレー校で学士号を取得します。

翌年、テストパイロットと航空技師を務めた後、
ドーリトルはMITに入学して航空機の加速試験で修士論文を書き、
MITから航空学の修士号を、続いて博士号を取得しました。

彼はこれでアメリカで初めて航空工学の博士号を取りました。

卒業後、ドーリトルはワシントンD.C.の海軍航空基地
アナコスティアで高速水上機の特別訓練を受け、また、
ニューヨーク州ロングアイランドの海軍試験委員会に所属し、
ニューヨーク地区の航空速度記録挑戦でおなじみの存在でした。

また、1922年、初期のナビ計器を搭載したデ・ハビランドDH-4で、
フロリダからカリフォルニア州サンディエゴまで一度の給油で
21時間19分という初めての横断飛行を成功
させました。

この功績によりアメリカ陸軍は彼に殊勲十字章を授与しています。

当時の国際レースで最も注目度の高かったのは、
トンプソン・トロフィー(クローズコースのレース)と、
彼の出場した大陸横断レース、ベンデックストロフィーでした。


トンプソン・トロフィーは2つのシリーズに分かれていて、この写真は
国際陸上機フリー・フォー・オール」(無制限クラス)の様子です。
スピードを競うレースですが、

ドーリトルは1931年に、

Granville Gee Bee Model R Super Sportster

という飛行機で優勝しています。


犬は飼い主に似るというけれど、この飛行機も
なんとなくドーリトルに雰囲気がそっくりな気がします。



「ベンデックス・トロフィー」は実業家、
ヴィンセント・ベンデックスの名前を冠したレースで、
その第一回大会となる1931年のバーバンクークリーブランド間を、
少佐だったドーリトルはスーパーソリューションに乗って出場し、
優勝して賞金7500ドルを獲得しています。



ちなみにベンデックス・トロフィーは、その後、
何人かの有名な飛行家が出場しています。

それがここでも何度となく扱ったお馴染みのメンバー、
ルイーズ・セイデン、ジャクリーン・コクラン、
そしてアメリア・イヤハート

女性も男性と肩を並べて出場し、優勝できるレースだったんですね。


この後の1925年に行われたシュナイダーカップレース
ドーリトルは優勝することになります。


1926年、ドーリトルは陸軍から休暇をもらったので、
カーチス航空機のデモフライトを行うために南米に行ったところ、
チリでアクロバット飛行の実演中に両足首を骨折し、このことは
「ピスコ・サワーの夜」と呼ばれる事件にもなりました。

彼は両足首にギブスをつけてカーチスP-1ホークで空中飛行を披露し、
周りを驚かせましたが、帰国するなり入院を余儀なくされました。

アクロバットパイロットとしての彼の探究心は止まず、
その後1927年には、オハイオのライト・パターソン基地で
それまで不可能とされていたアウトサイドループを初めて成功させました。



この時の彼は、カーチス戦闘機を操縦し、高度1万フィートから
時速280マイルで急降下、逆さまに降下した後、上昇し、
ループを完成させています。

しかし、怖いもの知らずの無鉄砲ゆえ、

こんなこともありました。
ってかよく生きてたな。不死身か。

クリーブランドのナショナル・エアレースのデモで見事墜落。

パイロットとしての彼は、幾つものトロフィーを獲得し、
そして契機飛行を最初に行った「パスファインダー」というべき存在でした。

前列左から三番目、ドーリトル

1934年、ドーリトルはオハイオ州デイトンのマコックフィールドにあった
陸軍航空部のエンジニアリング部門に、テストパイロットとして加わります。

この写真は当時のテストパイロット仲間と撮った記念写真です。

彼らは実験用航空機で高高度、高速飛行を行い、
エンジンターボスーパーチャージャーや可変ピッチプロペラなど、
新しく生まれてくる技術を次々と評価しました。

彼らの前にあるアヒル🦢の正体は謎です。


■ スマイリング・ジャック



ドーリトルコーナーにあった、当時人気のカートゥーン、
「スマイリング・ジャックの冒険」をご覧ください。

「やあ、カート、レースで会えるとは嬉しいね」

「スマイリン・ジャック!ははは、君うちに帰れば?」

「僕の素晴らしい飛行テクとラッキーラビットにかかっちゃ
君のチャンスはないぜ?」

「それはどうかな?」

「最後のラップとダーツはリードしている・・
彼のラビットの足が役に立ってるな」

「彼は確実に勝つ・・いや、何か変だぞ。
彼は着陸しようとしている!」

Dart`s Dart号墜落「おおおっと」

「コントロールができなくなって・・・何が何だかわからない」

「なんだ?何かがポケットから滑り落ちて
コントロールジョイントを吹き飛ばしたぞ」

「君の『ウサギの足』だよ!」

「????」

はっきり言って何が面白いのかさっぱりわからんのですが、
40年間掲載され、最も長く続いた航空漫画と言われています。

この流れから、スマイリン・ジャックのモデルはドーリトルなのか?
と誰でも思うわけですが、そうではなく、モデルは
エアレースの有名スターだったロスコー・ターナーという人だそうです。


似てるかも

流石にドーリトルはバリバリの陸軍軍人だったので、
漫画のモデルにはしにくかった、に1ドーリトル。



なぜかこんな写真も残っています。
どれがドーリトルかわかりませんが。
左上の一番楽そうな人かな?



そして、若い頃はこんなにシュッとしていたドーリトル。
この後、第二次世界大戦初期に東京空襲を指揮し、


こんな貫禄たっぷりに・・・。

戦後彼はアメリカが宇宙開発時代に突入すると、
NACA (国家航空諮問委員会)の中の人というか委員長に就任し、
米国の宇宙計画への貢献の可能性と、NACAの人への教育を期待して、
陸軍弾道ミサイル局のヴェルナー・フォン・ブラウン博士、
ロケットダインのサム・ホフマン、海軍研究所のエイブラハット、
アメリカ空軍ミサイルプログラムのノーマン・アポルド大佐
など、
委員会メンバーの人選に携わっています。

そしてアメリカ軍の人種撤廃を提唱しました。
この時彼は、

「この状況の解決策は、彼らが有色人種であることを
忘れる
ことだと確信している 。
産業界は統合の過程にあり、それが軍にも押し寄せようとしているのだ。
あなた方は必然を先延ばしにしているだけに過ぎないのだから、
潔くそれを受け入れた方がいい」

と語っています。
ちなみに彼はフリーメイソンのメンバーでもありました。

彼の二人の息子はどちらも空軍パイロットになりましたが、
第524戦闘爆撃機飛行隊の司令官として、F-101ブードゥーを操縦していた
長男のジェームズJr.(少佐)は、わずか38歳で拳銃自殺しています。

調べてみましたが遺書などは見つかっておらず、
理由は明らかにされていません。


ジェームズ・H・"ジミー"・ドーリトルは1993年9月27日、
カリフォルニア州ペブルビーチで96歳で死去し、
アーリントン国立墓地に妻と共に眠っています。

ドーリトル将軍の葬儀では、彼の栄誉を讃え、
1機のB-25ミッチェルと、空軍の爆撃機がフライオーバーし、
墓前で死者に捧げる言葉が述べられると、ドーリトルの曾孫である
ポール・ディーン・クレーンJr.がタップスを演奏したそうです。


続く。



エクスプローラーIIの挑戦、グレイ大尉の悲劇〜スミソニアン航空博物館

2023-02-15 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の「気球で高度の限界に挑戦コーナー」から
前回、高度の限界に挑戦した一般、海軍、陸軍代表の
三組のアメリカ人バルーマー(気球飛行士)を紹介したわけですが、
そのコーナーの近くの窓際には、こんなものがございます。



スミソニアンを訪問してすぐご紹介したことがありますが、
この気球のレプリカの元ネタ?が見つかりました。

1783年、ジャン・フランソワ・ピラトル・ド・ロジエと
アルランド侯爵
の操縦によって人類史上初の有人気球飛行を行なった、

熱気球「ラ・フレッセル」( La Flesselles)

です。


気球は、航空黎明期にはモンゴルフィエと呼ばれていました。
「ラ・フレッセル」と名付けた熱気球を開発した
ジョセフ・モンゴルフィエという人の名前です、

モンゴルフィエは1784年、リヨンで「ラ・フレッセル」を打ち上げます。
幅22フィートの籐製のかごに7人を乗せて
3,000フィート以上上昇させ、乗客は皆、大喜びだったとか。

しかし初期の熱気球は、空気が温かいうちしか飛ばせませんでした。
空気を再加熱するための火が気球の布に引火し、危険だったのです。

熱気球用のプロパンバーナーが発明されるのは、
なんと第二次世界大戦以降のことになります。

モンゴルフィエが熱気球を開発したほとんど同じ時期に、
「シャルルの法則」(覚えてますか?気体を熱した時の膨張の法則です)
で有名なフランスの物理学者、
ジャック・アレクサンドル・セザール・シャルルが、
無人の水素気球を打ち上げています。

この時、ちょっとした面白い事件が起こっています。
当事者は決して面白くなかったと思いますが。

シャルルが4日間かけて十分な水素を作り、打ち上げた気球は
高度3000フィートまで上昇し、1時間以上浮遊していましたが、
やがて風に流されてパリから24kmの地点に落下。

空からいきなり降ってきた「恐怖の大王」に恐れ慄いた農民たちが、
一斉に手に手に武器を持って襲い掛かり、気球は切り刻まれました。


犬も巻き込んで気球をやっつける人々(笑)

これを嘆いた国王ルイ16世は、風船とは何か、どのようなものかを啓蒙させ、
二度と襲撃しないように、と民衆におふれを出したということです。

おふれ出すの遅すぎ。


ところで、基本的なところに立ち返りますが、なぜ人々は
飛行機が発明されていた頃になっても、高度を目指す、
つまり宇宙の端を探索するための手段に気球を選んだのでしょうか。

■ 放射線研究と気球の関係

まず、なぜ人類が近代になって宇宙を目指したかを考えてみます。
その意図は、まず放射線にありました。


福島第一原発の事故の後、ベクレルという言葉は
我々日本人の誰もが知ることとなりましたが、
皆さんは放射線を発見し、放射能の単位にその名を残している
フランスの物理学者、アンリ・ベクレルをご存知でしょうか。
(マリ・キュリーは放射線元素の発見、X線の発見者はレントゲンです)


アンリ・ベクレルが1896年遭遇した偶然。

それは、さっくりというと、
数十年後に人類が月面に降り立つ
という出来事にまで帰結するという、人類史上における大事件でした。

長年放射線の存在を突き止めるための研究を重ねていた彼は、
ウラン塩が太陽光に照らされるとX線に似た放射線を出す
という仮定を立てており、その説を学会でも発表しようとしていました。

1896年2月の終わりのその週、パリは陽が射さない曇天が続いたため、
この天候では十分な実験結果が得られないと思い、ベクレルは
実験を中止して、ウランと写真板を引き出しの中にしまい込みました。

そして運命の1896年3月1日、翌日に会議を控えていたベクレルは、
サンプルに光は当たっていないが何となく見てみよう、と思い(多分)、
引き出しから写真乾板を取り出し、これもなんとなく現像してみると、
なんと、プレート上にはウランベースの結晶画像が確認されたのです。

翌日の会議でベクレルはX線とは違うこの放射線の存在を発表し、
ウランが放射線を出したと結論づけ、その2年後、
マリ・キュリー夫人が "放射能 "という造語を作り、名づけました。

そこから、世界の科学者の間で放射線の解明競争が始まったのです。

今日の話と関係なくね?って?
ここからなんですよ。
これこそが、高みを目指した理由です。

1920年代になると、アメリカの科学者たちは、
宇宙線を研究し、原子の秘密を解き明かすためには、
宇宙の境界を突き破ればいい
と考えたのでした。

気球はそのための理想的な道具と考えられるようになったのです。

1920年代には無人の気球が5万フィートの高さまで飛ばされ、
1931年にはスイスのオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)
によって、有人飛行で高度9.81マイルの高度まで到達しました。

その数ヵ月後、初めて密閉式ゴンドラで飛行し、10マイルの壁を破り、
より高い飛行が可能であることを証明したという流れです。

その方法がなぜ飛行機ではなく気球だったか。

それはよく考えると当たり前のことのようですが、熱気球、
または空気より軽いガスが満たされた気球は、空気よりも軽いため、
飛行機よりも純粋に高く飛ぶことが可能と考えられたためです。

現に、本日トップの写真、エクスプローラーIIは、1930年代当時、
飛行機で達することができる高さをはるかに凌ぐ上昇が可能でした。

その高さまで人間が乗っていくわけですから、
当然ながら、特別なゴンドラというか、キャビンが必要となるのですが、
それすらも知識の及ばなかった初期には殉職者も出ました。


■グレイ少佐の悲劇

エクスプローラーIIについて話す前に、第一次世界大戦後の
気球乗り、ホーソーン・グレイ陸軍少佐の事故についてお話しします。

創設されたばかりの陸軍航空局で気球飛行士になったグレイは、
1927年に3回気球で高度記録に挑戦しています。

これは、高度4万フィート(12km)以上で飛行隊が生存し、
各種機器が機能するための条件を探る実験として行われました。


この研究実験に抜擢されたグレイ少佐は、第一回目、
高度8.69kmの非公式高度記録を達成しましたが、
すでにこの時空気が薄く低酸素症で気を失っています。

このときは、自然落下していく気球の速度を
バラストで落とすことのできるギリギリに意識を取り戻し、
なんとか生還することができました。

二ヶ月後の第二回目飛行では、さらに12.94kmの記録を出しますが、
この時も気球が急降下してパラシュートで脱出しています。

2回ともこんな状況だったのに、
なぜか陸軍は同じグレイ少佐を使って3回目の実験を行います。

3回目実験の実行日は、11月4日でした。



スミソニアンには、グレイ少佐が乗ったゴンドラ実物が残されています。

アメリカ北部の11月、高度12キロに上昇しようという気球に、
よくまあ生身の人間をこんなバスケットに乗せただけで打ち上げたものだ、
とその無謀さに、心胆震撼とせしむるを禁じ得ません。

その日グレイ少佐は、午後2時23分、イリノイ州のスコット基地を離陸して
彼の生涯最後の飛行に飛び立ちました。

午後3時13分、気球はどんよりとした曇天の中を上昇し、視界から消え、
翌日、テネシー州付近の木の上に引っ掛かっているのが発見されましたが、
グレイ少佐はバスケットの中ですでに死亡していました。


発見されたときのグレイ少佐(カゴの右側下向き)

グレイ少佐に何が起こったのでしょうか。

高度4万フィートで、グレイ少佐は報告書に
”shaky”「震えている」と書きこみましたが(でしょうね)
不思議なことに、記録用気圧計によると、
書き込みを行ってから気球はさらに上昇を続け、
前回のフライトと同じ42,740フィートの高さにまで到達し、
それから降下を始めていたことがわかりました。

彼は混乱したのでしょうか。
それともさらに記録を伸ばそうとしたのでしょうか。

有力な説は、彼は公式記録を作ろうとして、高度9kmから10.4kmの間で、
バラスト用の空の酸素ボンベを空中に廃棄した際、
ボンベ缶が無線アンテナを折ってしまったというものです。

さらに、高度が高く気温が低すぎて彼は凍え、疲労困憊して、
酸素タンクのバルブを開けなくなったところで地上との通信が断たれ、
非常事態を全く通信できないまま意識を失ったともされます。

「凍えている」の直前のレポートには、

「空は深く青く、太陽は非常に明るく、砂(バラスト)はすべてなくなった」

と書かれていました。

解剖による科学的な原因追求がなぜ行われなかったのかも不思議ですが、
グレイの死を調査した委員会は、彼の死因は時計が停止してしまい、
酸素摂取時間が分からなくなって、供給量を使い切ってしまったことによる、
窒息死と状況証拠から結論づけています。


この悲劇的なフライト以降、剥き出しのバスケットによる
気球の高高度飛行は行われることは2度とありませんでした。

ってか当たり前だろ!(激怒)

グレイは少佐に昇進し、死後に授与された殊勲十字章には、
このように記されているそうです。

「彼の勇気は酸素の供給量よりも大きかった」

うーん・・・・・・微妙。


スミソニアンの「ミリタリーエア」のコーナーには、
航空界に貢献したレジェンドがパネルにされて並んでいますが、
ここにグレイ少佐(下段左から二番目)の写真もあります。


■ エクスプローラーII


前回、陸軍のアルバート・スティーブンス大尉と、ケプナー少佐、
アンダーソン大尉
が命からがら帰還した「エクスプローラー」の後、
陸軍とナショジオは早速次の気球打ち上げを計画し始めたけど、
今度は一体誰を乗せるつもりなの?というところで終わりました。

ここからは、翌年となる1935年打ち上げられた気球、
「エクスプローラーII」についてです。

エクスプローラーIIは、1935年11月11日に打ち上げられた
米国の有人高高度気球で、高度22,066mの記録を達成しました。

サウスダコタ州のストラトボウルから打ち上げられたこのヘリウム気球には、
アメリカ陸軍航空隊のアルバート・W・スティーブンス大尉と、
オーヴィル・A・アンダーソン
の2名(最初のコンビですね)が、
密閉した球形のキャビンに搭乗していました。

乗員は午後4時13分にサウスダコタ州ホワイトレイク付近に無事着陸し、
2人は国家的英雄として賞賛されることになります。

そして、ゴンドラに搭載された科学機器からは、
成層圏に関する有益な情報がもたらされることになりました。

【ソ連の気球事故】

1934年に打ち上げられたエクスプローラー(1号)は、
ほぼ記録的な高度18,475kmを達成しましたが、
ほぼ墜落状態で、乗員は命からがら脱出したことは前回お話ししました。

カプセルは衝撃でほぼ完全に破壊されてしまったわけですが、
スティーブンスはこれで恐れ慄くどころか、リベンジを誓いました。

この墜落事故は国家的な恥として語られたので、乗員としても
このままで終わるわけにはいかん!とファイトを燃やしたわけです。

そして改良型気球での再挑戦を働きかけたのですが、その時ちょうど、
1934年にロシアが成層圏飛行に挑戦し、事故で死者が出ました。

このニュースを受け、関係者はその危険性に身構えて、
事故原因の究明をまず待つことにしました。

事故の検証では、上昇中に気球が対称に開かなかったため、
応力(外力を受けた部材内部に発生する内力)
で布が裂けたことが明らかにされました。

つまり打ち上げが予定より1カ月遅れたため、ゴム引きの綿がくっつき、
気球の膨らみが不均等になってしまい、
袋の中のガスが大気中の酸素と混ざり合い、水素の爆発が起こったのです。

【準備】

しかし、1935年、陸軍航空隊は再挑戦することを決定します。

ソ連の事故に鑑み、水素の危険性を排除するため、
米国が独占しているヘリウムを使用することになったのですが、
ヘリウムガスは揚力が弱いため、より大きな気球が必要となりました。

そこで、グッドイヤー・ツェッペリン社は気球の容積を増やし、
ダウ・ケミカル社は、マグネシウムとアルミニウムの合金である
「ダウメタル」でできたより大きくて軽いゴンドラを組み立て、
科学機器の量を減らし、2人の乗組員を乗せることにしました。


キャビンは直径2.7m、質量290kgで、680kgのペイロードを輸送できます。
球体は一枚の大きな金属板を裁断して、溶接して成形されました。

キャビンはこれで密閉されることになりましたが、
非常時の乗員の脱出を容易にするため、
舷窓はエクスプローラーIよりも広く、大きく設計されました。

カプセル内部の雰囲気は、火災の危険を減らすため、
液体酸素の代わりに液体空気から供給されることにします。

改造気球は1935年の春までに準備が整い、1935年7月10日に、
最初の打ち上げが行われたのですが、残念ながら、
これも打ち上げ時に気球が破裂してしまい、失敗に終わりました。



その後、NBSの調査結果を受けて、グッドイヤーが気球の材質を強化し、
再挑戦するべく準備が整いました。

ここでようやく重視され始めたのが、実験を行う季節です。

過去15年間に収集されたストラトボール付近の気象データを調べたところ、
10月は例年、気球を飛ばすのに最適な好天が続くということがわかりました。

そこで9月上旬に気象学者チームがストラトボールに集められ、
臨時の気象観測所の設置から準備が始まりました。

もうアメリカの科学技術陣総力戦の様相を呈しています。
しかし、この実験は、結果としてそれだけの労力に値する結果を
アメリカという科学技術後進国(当時)にもたらすことになります。


打ち上げに必要な気象条件は、飛行期間中、降水量のない晴天が続くことと、
地表風速が23km/h(14mph)を超えないこと、とされます。

寒冷前線の接近に伴い、1935年11月10日の夜、
気球はいよいよ打ち上げの準備に入ります。
一晩で-14℃まで気温が下がったため、気球の布地をストーブを使って暖め、
しなやかな状態が保たれたままにしておく注意が払われます。

ヘリウムは1,685本のスチール製シリンダーから注入されましたが、
それが完了するまで8時間かかってしまい、しかもその間、
布地に5.2mの破れができてそれを修復するなど、次々と問題が起こります。

膨らんだ後の気球の高さは96m。
ゴンドラは、100人以上の陸軍兵士で構成されたチームが
ケーブルを抑え、まず地表に固定しました。

翌朝7時1分に準備が完了、打ち上げに適した状態に漕ぎ着けました。

準備完了!

【エクスプローラーIIの打ち上げと飛行】

指揮官、アルバート・W・スティーブンス大尉と最初にバディを組んだ
オーヴィル・アンダーソン大尉が、いよいよ気球に乗り込みました。
(オーヴィルって名前、絶対ライト兄弟から取ったよね)

午前8時ちょうど、34kgの細かい鉛の弾丸でできたバラストが放出され、
離陸が始まりました。

離陸後しばらくして、風の影響で気球は渓谷に突き刺さり、
見ている者をヒヤッとさせますが、その後は正常に上昇していきました。

エクスプローラーIIは午後12時30分に
高度22,066mに達し80分間もの間そこに留まっていました。

これは人類が達成した高高度では世界新記録であり、
この記録はその後20年近く破られることはありませんでした。

この快挙によって、スティーブンスとアンダーソン大尉は、
地球の湾曲を目撃した最初の人類となります。

ゴンドラは自転するためにファンを搭載していたのですが、
その高度では全く意味がないことも、初めてそこに達してわかりました。

しかしこのため乗員はゴンドラを回転させることができず、
直射日光をまともに受けることになってしまい、そのため、
カプセルの片側からの観測はほとんど不可能となってしまったのです。
これは予想外でした。

それでもスティーブンス大尉は、上空から、
数百マイルに及ぶ地表の細部を見ることができたと報告しています。

彼らの到達した高度は地上で起こっていることを見るには高すぎましたが、
撮影した写真は、その後の高高度偵察気球の可能性を予感させました。


エクスプローラーIIには通信機器が搭載されており、
飛行中交信された無線信号は、米全土とヨーロッパで放送されました。

また、気球に搭載された機器で、宇宙線、
異なる高度でのオゾン分布と大気の電気伝導率、成層圏の大気組成、
太陽・月・地球の光度に関するデータを収集することができました。

また、成層圏での微生物の採取や、宇宙線被曝の影響を調べるため、
カビのサンプルを携行するなどもしています。

また、スティーブンスは映画用カメラも持っていって、
成層圏から撮影した初の動画も公開しています。

そして、彼らが収集したデータによって、高層大気のオゾンが
太陽からの紫外線の大部分を遮断する効果がある
ことが突き止められました。

また、最高高度での酸素の割合が海面とほぼ同じであることも、
この時取得したデータからわかってきたことです。


さて、いよいよ降下が開始され、正常に気球は高度を下げていきます。

高度300mに達したとき、クルーは科学機器を梱包し、
パラシュートをつけて投下する作業を始めました。
これは、たとえゴンドラが不時着してもデータを保護するための準備です。

しかし、気球は午後4時13分、サウスダコタ州の野原に静かに着陸したため、
これらの予防措置は必要なかったことがわかりました。

【ミッション成功!】

このミッションの成功はマスコミで大きく取り上げられ、
飛行士たちはフランクリン・D・ルーズベルト大統領の謁見を受けました。

「国家の恥」とまで自嘲していた前回の失敗から捲土重来、汚名返上すべく、
チーム一丸となって目標に邁進して得られた栄光です。

二人の気球飛行士は、その年の最も功績のあった飛行に対して与えられる
マッケイ・トロフィーを授与されました。

また、軍人として、エクスプローラーII、そして失敗したエクスプローラーの
各飛行に対する殊勲十字章を授与されました。

IIが成功しなかったら、失敗した1号への功労章も当然なかったでしょう。

エクスプローラー号での科学観測は大成功を収め、
多くのデータを収集し、その成果は科学雑誌に掲載されました。

データと乗組員の経験は、この後起こる第二次世界大戦で、
高高度戦闘作戦の飛行隊員の装備や方法に用いられることになります。

エクスプローラー号に用いた気球は、100万ものピースに切り刻まれ、
記念の栞としてミッションを支援したNGS会員に配られました。

100万人もが所持していたのなら、もしかしたら今日も
ebayあたりで売買されているのかもしれません。

そして、その時のゴンドラは、ここ、
スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館に展示されています。

勇敢な挑戦者だった悲劇のヒーロー、
ホーソーン・グレイ少佐の籐のバスケットと共に。


続く。



成層圏への挑戦〜スミソニアン航空博物館

2023-02-13 | 飛行家列伝

スミソニアンの一角に、
「The Race to the Stratosphere」(成層圏へのレース)

というコーナーがあります。
今日は、この展示をご紹介していこうと思います。

■高みを目指すレース

高みだけを目指した場合、その方法は「気球」一択です。

1931年から1939年まで、ベルギー、ソ連、ポーランド、スペイン、
そしてアメリカは、当時の技術で絶対高度記録を獲得し、
保持するため、熾烈な戦いを繰り広げていました。

「熾烈な」というのは決して大袈裟でも盛ってもいません。

この戦いによって、二つの高高度気球に挑戦したソ連の飛行士が、
なんと7名もその命を失っているのです。

アメリカでは3人のアメリカ人がこれに挑戦しました。

【ジャネット・ピカール夫妻】



そのうちの一人がジャネット・R・ピカール(Jeanette Ridlon Piccard)

ちなみに自衛隊で磨きに使われるピカールという商品名は、
このフランス名から来て・・・おりません。
あれは「ピカっと光る」から来ているそうです。

彼女はアメリカ初の女性気球パイロットとして、1934年、
夫のジャンと共に高度57,500フィート、
つまり成層圏に達した最初の女性にもなりました。

そのタイトルは、1963年にソ連の宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワ
宇宙飛行する瞬間まで破られることはありませんでした。

大学時代に知り合った夫と共にスポンサーを募って気球を作り、
その「センチュリー・オブ・プログレス号」で高高度挑戦を公言し、
彼らは4万5千人の観客に見送られてミシガン州を出発。

彼らはペットの亀「フルール・ド・リ」(百合の花)も載せたそうです。

小さなバンドの演奏するアメリカ国歌の後、飛び立った彼らは、
エリー湖を横断しながら高度を上げていきました。

なんでも、新聞連合は、彼らが無事高高度記録を達成したら、
1000ドルの賞金を出すと約束したので、
家財を売り払ってでも?ひたすら高度を目指したのです。

ゴンドラは17.5kmまで上昇し、最終的にオハイオ州に着地しましたが、
楡の林の中だったので、気球はゴンドラから離れ、裂けてしまい、
ジャンは肋骨と左足首を軽く骨折してしまいました。

彼女はこのことについてこうインタビューに答えたと言います。

「なんてことなの!ホワイトハウスの芝生に降りたかったのに」


ところで「宇宙飛行士」と呼ばれる人になるのには、
定義があるというのをご存知でしょうか。

0−12km Troposphere 対流圏
12-50km  Stratosphere 成層圏
50-80km Mesosphere 中間圏
80+km Thermosphere 熱圏


この図の、80km、サーモスフィア、熱圏より上に行けた場合、
その人は「宇宙飛行士」アストロノーまたはコスモノーとなるわけです。

ジャネットたちはその時代人類最高となる
成層圏まで達することができましたが、そこから上は
気球というようなものでは限界でした。

【トーマス”テックス”セトル海軍中将】


三番目の気球チーム、セトルとフォードニー

トーマス・グリーンハウ・ウィリアムズ・セトル中将
Vice Admiral Thomas Greenhow Williams "Tex" Settle

は、1920年代から30年代にかけての飛行黄金時代に、
気球、飛行船、グライダー、飛行機を操縦し、
飛行船を指揮した最初の人物として世界的に有名になった海軍軍人です。

セトル中将は、多くの航空レースで優勝し、
耐久性と高度に関する数々の航空記録を持ち、
成層圏に与圧キャビンで飛び立った、最初のアメリカ人でした。

海軍兵学校を次席で卒業後、駆逐艦で海軍軍人のキャリアを積み、
「あの」飛行船USS「シェナンドー」に通信士として配置されました。

「シェナンドー」についてはここでも説明しましたね。
墜落し、海軍乗員13名全員が犠牲になるという事故を起こしています。

しかし、「シェナンドー」がオハイオに墜落したとき、セトルは
捕獲用のカイトバルーンで単独訓練を行なっており、
たまたま勤務から外されていて命拾いをしたのでした。

「シェナンドー」の悲劇を知っても彼は怯むことなく、
飛行船の操縦訓練を志願し、操縦士のウィングマークを獲得しました。

当時の飛行船がいかに危険な装備であったかは後世の知るところですが、
彼は軍人としてそれに立ち向かおうとしたのです。

しかし、そんな彼に運命は過酷でした。
USS「ロスアンゼルス」に乗り組んだ彼は、
この飛行船でも事故を経験するのです。

これですよ

この時、セトルは最先任として「ロスアンゼルス」に乗っていました。

突然の寒冷前線が襲い、その結果、日光によって温められた飛行船の
浮力が増加し、機体は上方に押し上げられてしまいます。

セトルはその時地上にいた船長に「総員退船」許可を求めますが、
船長、これを却下。
いくら自分が乗っていないからって、これあまりに酷すぎないか。

退去を禁止された彼は、浮き上がる船尾の錘にするため、
部下を後方に移動させようとしますが、時すでに遅し。

このとき船体はほぼ直立しようという勢いでした。

セトルは船尾から部下を呼び戻し、ゆっくりと船体を回転させながら
尾部が地面に激突することのないよう、地上に下ろしていきました。

彼の冷静な判断と操作が功を奏し、後尾はゆっくりと高度を下げ、
最終的には一人の怪我人も出すことなく事態は収集しました。

この後1932年まで彼は飛行船の乗務を続けますが、
この事故を含め、彼はその任務で一度も事故も死者も出さず、
331回にわたる飛行任務を全て成功させています。

その後、USS「アクロン」USS「メイコン」の建造に携わり、
テストパイロットとして飛行教官も行いました。
なんでも、生徒には心底恐れられるほど厳しい指導だったそうです。


気球で名を上げた彼は、その後、軍に所属した状態で
気球の高度挑戦レースなどに次々と挑戦していきます。

ナビはその都度軍から目ぼしい人材が選ばれ、タッグを組みました。
セトルが参加した気球レースの結果は。

【気球レース】

1927年、セトルはジョージ・N・スティーブンスとともに
初めて気球レースに出場し、この時は天候不良で着陸し、敗退


これ以来、セトルは海軍の気象機関に協力を求めるようになりました。

1928年のピッツバーグでの国内レースでは落雷により3機の気球が落下し、
パイロット2名が死亡、4名が負傷したため、セトル早々に棄権

1929年、ウィルフレッド・ブシュネル少尉と国際レースに出場し、
1532kmの記録で優勝し、3つの気球カテゴリーで世界記録を樹立、
世界大会への出場権を獲得

1931年、セトルとブッシュネル中尉2度目の国際大会優勝

1932年、1,550kmの記録で国際大会に優勝、ハーモントロフィーを獲得

1933年、セトル-ブッシュネル、耐久レースで世界耐久記録を達成

フォードニー(左)セトル(左から二番目)

海兵隊のチェスター・フォードニー少佐をナビに指名、
オハイオのレースに出場するも沼地に軟着陸


この着陸地点は、恐るべき偶然で、ジャネット・ピカールの家から
ほんの数キロのところだったということです。

世界記録18,665km、
エクスプローラーIIが1935年に飛行するまで公式記録の保持者であった

海軍人生のほとんどを気球に捧げたセトルですが、
こんな写真が残されています。


巡洋艦「ポートランド」上でのセトル艦長(双眼鏡を持つ人物)

ちなみにセトルはその後海上勤務へと戻りました。

その理由は簡単、海軍が気球を運用するのをやめたからですが、
海軍士官として海の上に戻った彼は、
USS「パロス」「ポートランド」の指揮を執ります。

第二次世界大戦では「ポートランド」でコレヒドールの空挺部隊を支援し、
その後沖縄攻略の支援を行なっています。

沖縄では潜水艦からの魚雷を11回回避することに成功しましたが、
攻撃には失敗したという記録が残されています。



■ 陸軍トリオ
スティーブンス少佐、ケプナー少佐、アンダーソン少尉

さて、次なる気球挑戦者は、陸軍軍人三人のチームです。

1934年、ナショナルジオグラフィック協会と陸軍航空隊の共催で、
成層圏を調査するための気球飛行が行われました。

水素を充填した巨大な気球の下には「エクスプローラー1号」と名付けられた
3人乗りの密閉型ゴンドラが吊り下げられていました。


1933年、アメリカ陸軍航空隊のスティーブンス大尉は、
気球による成層圏探検を上層部に働きかけました。

陸軍はこの計画に賛成したものの、
「人員と施設は協力するが、資金の提供まではちょっと」
という態度だったので、スティーブンス、
このような事業を支援する意思と手段を兼ね備えた組織、
ナショナルジオグラフィック協会に目をつけたのです。

スティーブンスは、この飛行を、高高度撮影技術、高層大気の特性、
宇宙線などを研究する機会として提案し、また、
75,000フィートという高度の新記録に挑戦するという目標を立てました。

ナショジオの他、ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社、
(現在のユナイテッド)イーストマン・コダック研究所、
フェアチャイルド・アビエーション社、スペリー・ジャイロスコープ社
など
スポンサーが集まり、(スティーブンス、凄腕?)
また、スティーブンス自身も私財を数千ドル投じています。

そこで動き出した陸軍航空隊は、3人の乗組員を任命しました。

パイロットはウィリアム・E・ケプナー少佐、
代理パイロットはオーヴィル・A・アンダーソン少尉

そして科学観察官としてスティーブンス大尉の3人です。


気球とゴンドラを作り、3人の人間と実物大の実験室相当の機器を
宇宙の果てに送り込むための作業がすぐに始められました。

ゴンドラはダウ・ケミカル社「ダウメタル」を使って作り、
気球はグッドイヤー・ツェッペリン社が綿布で制作する手筈も整えました。

彼らの搭乗した気球ゴンドラの正式名称は

「The National Geographic -
 Army Air Corps Stratosphere Expedition」

ですが、長いので一般には「Explorer」の名で知られており、
さらにのちにエクスプローラー2が登場することになったので、
こちらを遡及的にエクスプローラー1と呼ぶこともあります。


スティーブンス(左)とアンダーソン大尉

機材の組み立てと同時に、打ち上げに適した場所を確保する必要があります。

気球を保護するためのシェルターと、戻ってきて着陸が可能な
比較的平坦で見通しの良い場所でなくてはいけません。

そこで選ばれたのがブラックヒルズという国有林でした。

近隣住民の、土地の賃貸、道路の整備、整備の敷設などへの
資金協力も漕ぎ着け、準備は着々と進んで行きました。

ケプナー少佐とスティーブンス大佐、気球研究中

1934年7月27日、ようやくエクスプローラーI打ち上げの準備が整います。

第4騎兵隊の部隊がマンモス気球を梱包箱から取り出し、
気球を保護するために地面に敷かれたおがくずの上に並べました。

夕暮れが近づくと、夜から早朝にかけて作業が行われるため、
発射場の周囲にスポットライトの輪が点灯されました。

6時間かけて1,500本の水素ボンベを気球に充填し、
午前2時頃に完全に膨らませた後、ゴンドラを車輪で運び出し、
3時間かけて気球に取り付けていきます。



午前5時45分、いよいよ「エクスプローラー号」が打ち上げられました。

パイロットのケプナー少佐、副パイロットのアンダーソン大尉、
科学観測員のアルバート・W・スティーブンス大尉の3人のクルーは、
最終高度11.5マイルまで上昇を開始する予定でした。

午後1時頃、約7時間の飛行の後、気球は60,613フィートに到達。
それまで活発にデータを収集し、地上に送信していましたが、
しかし、それもピタリと止んでしまいます。

ゴンドラの上でカタカタという音がして、3人が外を見ると、
気球の底に裂け目ができていたのです。

それでもスティーブンスとアンダーソンは計測を続け、
ケプナーは、緊急パラシュートのレバーに手をかけて待機していました。

エクスプローラー気球はいったん下降を始めると、
あっという間に下降を始め、45分で2万フィートまで落ちました。

ゴンドラの中にいても気球の生地が破れ続ける音が聞こえ、
さらに30分後、さらに2万フィート降下。

さすがの彼らも、そろそろパラシュートを装着しようと考え、
ゴンドラのハッチを開けると、バッグの底が全部抜け落ちました。

なんのことはない、気球がパラシュート代わりになり、
地上への落下速度がわずかに遅くなっていただけだったのです。

しかし、転んでもただでは起きないというのか、この間も、
クルーは地上と無線で連絡を取り合い、
世界中の観客とドラマを共有し続けました。

自分の危険も顧みず実況をやめないユーチューバーみたいなもんですかね。

高度5,000フィート付近で、3人のクルーはゴンドラから脱出を開始。
最初に飛び降りたのはアンダーソンでしたが、
飛び降りた瞬間に気球が爆発し、ゴンドラは地上に落下しました。

次にスティーブンスが脱出を試みますが、しかし、
2度も強風にあおられ、ゴンドラの中に戻ってしまいます。

そこでケプナーがスティーブンスを押し出し、その後に続こうとしますが、
ケプナーは、パラシュートを開くのがやっとでした。
その時ゴンドラがゴツンと音を立てて地面に突き刺さりました。

もし外に飛び出していたら、ケプナーは高度が足りずに
地面に激突していたと思われます。

というわけで、奇跡的に3人とも無事着陸することができたのですが、
すぐに気球の後を車で追ってきた人たちが、3人に群がってきました。

当初は全損かと心配されるほどの事故でしたが、
データこそ失われたものの、救出できるものがたくさんあり、
幸運なことに、気球とゴンドラ、そして観測機器に
多額の保険がかけられていたのです。

このため、陸軍とナショナルジオグラフィック協会は、
すぐに再飛行の計画を立て始めたということですが・・。

うーん・・・・次に誰を乗せようというのか。




続く。




「勝利のコカコーラ」タスキギー・エアメン〜スミソニアン航空博物館

2023-01-14 | 飛行家列伝

「我々を飛ばせてください!」

アフリカ系アメリカ人搭乗員が訴えているのは
War Bond、つまり戦時国債を買おうという呼びかけ。

「ヴィクトリー・ボンド」とも呼ばれていた戦時国債とは、
政府が発行する負債証券で、つまり国民に買わせて
戦争に必要なお金を集めるための方法です。

いうならばアメリカ国民が戦費のために
政府に資金を貸し付けて、政府がそれを運用するわけです。

プロパガンダとして行われる戦時国債の購入の呼びかけには、
必ず愛国心や良心へのアピールが伴いました。

アメリカで戦時国債を推し進めたのは、ヘンリー・モーゲンソーです。
1940年の秋、プロパガンダを専門とする政治学者に協力を求め、
財務省は以前成功した「赤ちゃん国債」「防衛債」に替えて販売しました。

1941年12月7日に日本軍が真珠湾を攻撃し、米国が参戦すると、
債券の名称は最終的に戦時国債に変更されることになります。

宣伝のために、あらゆるアート関係が動員されました。

Warner Brothers | Any Bonds Today | 1942

「国際を買おう」と踊るバックス・バニー。


以前当ブログでも詳しく説明したことがある、
ノーマン・ロックウェルの「四つの自由」とか。

面白い?のは、アメリカは国債を買わせるために、例えば宗教の教義で
戦争を遂行することに協力することを禁じられている
クェーカーやメノナイト、ブレザレン教徒のための代替として、
「War」と書かれていない国債を販売していたことです。

冒頭のアフリカ系パイロットを使ったポスターも、
ある意味そういった役割を担っていたかもしれません。

アフリカ系が航空分野に進出し、剰え士官になることに反発していた
当時のKKK寄りの白人はこれを見て面白くないかもしれませんが、
流石にこれを見て国債を買わないというくらいの黒人嫌いより、
これを見て国債を買おうと思う黒人の方が多いに違いないからです。

国債はその辺うまくできていて、例えば「戦時国債」と書かれた
10セントの切手もあって、これは何枚か集めて
財務省公認のアルバムにコレクションするなどということもできました。

子供でもお小遣いで買うことができるのがミソです。

国債を集めるための宣伝活動として、
軍楽隊がコンサートに回ったり、あるいは地元の野球チームと
タスキギー飛行隊のメンバーとの親善試合、なんてのもあったようです。

ちなみにこのポスターの飛行士にはモデルがいて、
タスキギー・エアメンのウィリアム・ディアスWilliam Diezだそうです。

実物の方が明らかにイケメン

■ 防衛隊(On The Home Front)

さて、アラバマ州タスキギー航空基地は、お話ししてきた通り、
アフリカ系アメリカ人の戦闘機ならびに爆撃機パイロット養成のための
Vital Center、中心となりました。


タスキギー航空基地で、主任飛行教官の
C・アルフレッド「チーフ」アンダーソンの操縦する飛行機に乗る
エレノア・ルーズベルト大統領夫人の図。

またこれか、と言わず、今日は別の話ですので我慢してください。

エレノア・ルーズベルトのこの時の「気まぐれ飛行」が
本当に気まぐれだったのか、実はそうではなかったのかはともかく、
大統領夫人が飛行機に乗るのが好きだったことは間違いありません。

そして、アメリカ軍の中の人種平等を公然と推進していたのも事実でした。

無邪気な天性のリベラルであったらしい彼女は、
「他民族に対する愚かな偏見」を嫌い、真珠湾攻撃直後には
わざわざカリフォルニアの日系アメリカ人たちと一緒に写真を撮ったりして、
多くの「保守派」アメリカ人の怒りを買ったりしています。

「本当に忠実なアメリカ市民のために」

という信念のもと、日系アメリカ人の権利も守られるべきだとし、
政府によって凍結された日系人の資産から生活費を引き出せるように、
ワシントンの政府高官に直々に掛け合ったりもしています。

日系人たちとは手紙をやりとりし、収容所を訪問し、資材を寄付、
奨学金の設立と、彼女は考えられる限りの方法で支援を行いました。

そのせいで、彼女は有形無形の脅迫も受けていたらしく、
いつの間にかピストルを携帯するようになっていたと言われます。

あるとき「最も恐れていることは何か」と問われた彼女は、

「恐れること・・・それは、

肉体的、精神的、道徳的な恐れの結果、
自分の正直な信念からではなく、

恐怖によって及ぼされる影響に甘んじること」

と答えました。



「ホームフロント」とタイトルされたコーナーの写真より。

アフリカ系アメリカ人の男女が航空機の組み立て工場で作業しています。

パイロットやエンジニアだけでなく、当時アフリカ系は
あらゆる防衛産業に労働力を提供していました。

INTO COMBAT〜 実戦への投入



リンクウッド・ウィリアムズ Linkwood Williams

練習機の横に立つウィリアムズ。
タスキギー飛行士の中でもインストラクターを務めるほど、
才能のある黒人飛行士の一人でした。

そうして創立され、訓練を受けたタスキギー航空隊のメンバーが
いよいよ実戦に投入される時がやってきました。



戦闘に投入されたタスキギー・エアメンの紹介です。


コカコーラの瓶を持って
チャールズ・B・ホール 
Charles Blakesly "Buster" Hall 1920-1971


「バスター」というあだ名をつけられたホールは、第二次世界大戦中、
アフリカ系メディアによって最も評価されたパイロットでした。

彼はまた、敵機撃墜した戦闘機パイロットとしての、
初めてのアフリカ系アメリカ人という称号を持っています。

インディアナ州の窯焼き職人の家に生まれた彼は、
学業、フットボール、陸上競技で優秀な成績を収め、
イースタン・イリノイ大学では、医学部予科を専攻しました。

大学在学中は学費を稼ぐため、勉強しながらボーイをしていたそうです。

1941年、航空士官候補生としてアメリカ陸軍航空隊に入隊し、
タスキギー軍飛行場で上級飛行士候補生の訓練をうけ、
ウィングマーク取得と同時に、士官任官を果たしたホールは、
その後第332戦闘航空群第99戦闘航空隊に配属されました。

「バスター」(やっつける人みたいな意味)というあだ名は
彼が戦闘機パイロットとして実績を上げてからつけられたものです。

第99戦闘機隊のメンバーとして北アフリカ、イタリア、地中海、
ヨーロッパで通算198のミッションをこなしました。

初撃墜は1943年7月、シチリアのカステルベトラノ飛行場を爆撃する
B-25中型爆撃機の護衛任務に就いた彼は、
P-40でドイツのフォッケウルフFw190 Würgerを初撃墜し、同時に
敵機を撃墜した最初のアフリカ系戦闘機パイロットとなったのです。

その日の帰投後、初勝利を祝って、第99戦闘飛行隊は、
シャンパンの代わりに、最後に冷えたコカ・コーラのボトルを
「バスター」ホールに与えました。

この写真で、ホールが持っているのはその時の「勝利のコカコーラ」です。

しかもこの撃墜は、1943年に99戦闘飛行隊が唯一獲得したものでした。

彼はこの功績により、殊勲十字章を獲得しましたが、
もちろんこれもアフリカ系アメリカ人で初めての快挙でした。

彼はすぐにアフリカ系マスコミのスターになり、
いくつものアフリカ系新聞がホールの勝利を大々的に報じました。

例えばピッツバーグ・クーリエ紙には、

「99戦闘機隊のパイロットがナチの飛行機を落とす」

という文字が大見出しに踊り、彼の似顔が早速描かれました。

また、連合国最高司令官ドワイト・アイゼンハワー将軍は、
ジミー・ドーリトル将軍カール・スパッツ将軍などの将官とともに
北アフリカの部隊を訪問した際、第99戦闘飛行隊の基地を訪れて
バスター・ホールを個人的に祝福しています。

彼の活躍に牽引された黒人飛行隊第99部隊はさらに快進撃を行いました。

1944年、イタリアのアンツィオではFW190の大編隊を迎撃した際、
11機のドイツ軍機を撃墜し、国内を驚かせます。

すでに大尉となっていたホールは、この空戦で2機のFW190を撃墜し、
空中戦での勝利を3に伸ばし、またしても殊勲十字章を獲得しました。

第二次世界大戦中、第332戦闘機隊パイロットのうち、
9人が、3機撃墜を記録していますが、ホールはその一人となります。



アンドリュー・D・ミッチェル中尉 Andrew D. Mitchell

写真は、ギリシャ上空で撃墜されたあと、無事に基地に帰還をして、
メディアのインタビューを受けるミッチェル大尉です。

彼が撃墜されたのは、第51兵員輸送航空団の護衛任務でのことでした。
敵地に降りた彼を、現地のパルチザンが匿ってくれ、
連合国に逃げ延びる手伝いをしてくれたことなどを語っています。

額の包帯はそのときの怪我がまだ癒えていなかったということでしょう。


アーウィン・B・ローレンス大尉 Erwin B. Lawrence

ローレンス大尉は1944年ギリシャのドイツ空軍基地への爆撃任務中、
戦死したタスキギー航空隊員です。

タスキギーの最初の卒業生であったローレンスは、この時
第99戦闘機隊を率い、北アフリカ、次いでイタリアで任務を行いました。

1月27日、ドイツ軍のアンツィオを急襲の際、少尉だったローレンスは
FW-190と交戦して、これを撃墜し初勝利を挙げました。

3ヵ月後、ローレンスは大尉に昇進し(スピード昇進がすごい)
第99戦闘飛行隊の指揮官として、いくつかの護衛任務を指揮しました。

ローレンス大尉は、P-40とP-51に乗って、
1年半の間に100回近い任務を遂行し、戦死しました。

イタリアのフィレンツェにあるアメリカ人墓地に埋葬されています。



リー・A・アーチャー大尉 Lee A. Archer

第二次世界大戦中の第332航空隊の中で、
彼もまた最も優れた戦闘機パイロットの一人と称賛されます。

第二次世界大戦中、アーチャーは爆撃機の護衛、偵察、地上攻撃など、
169の戦闘任務をこなし、4機の敵戦闘機を撃墜したと主張していましたが、
彼の死後、この主張には論争が起こっているそうです。
(撃墜数に疑義が起こるのは当時のあるあるですが)

しかし、彼が1日の戦闘で3回の空戦勝利を収めたのは確かです。

ちなみに、タスキギーエアメンには、アーチャーと同じく、
一回の出撃で3機を撃墜したパイロットが4名もおり、
他の3人は、ジョセフ・エルスベリー、クラレンス・レスター、
ハリー・T・スチュワート・ジュニア
であることもわかっていますが、
残念ながら他戦闘機パイロットほど彼らは有名ではありません。



■ スコードロンマーク


第99戦闘機隊 第100戦闘機隊(レッドテイルズ)
第302戦闘機隊  第301戦闘機隊


左から時計回りに、全てアフリカ系航空隊のマークです。
どれもキャラが心なしか「黒人ぽい」気がします。

左下のにゃんこ?は画力が微妙すぎてなんとも言えませんが。

人種差別撤廃と共に黒人だけの部隊は無くなりました。

第100戦闘機隊は冷戦後縮小された結果、不活性化されましたが、
「レッドテイルズ」の遺産を尊重するという意志から、
アラバマ州立空軍の戦闘機部隊としてイラクにも遠征をしています。
ファイティングファルコンを使用していましたが、
2023年以降はF-35ライトニングIIを装備することになっています。

第301、302戦闘機隊は現存し、いずれもF-22を装備する空軍部隊です。



そしてその上に立つ第332戦闘機群、「スピットファイア」のマーク。

戦地から手紙を書くエアメン

■ フリーマン・フィールドの反乱

最後に、本日紹介したバスター・ホール中尉も関わっていたという、
黒人将校のある反乱についてご紹介して、この章を終わります。


1945年、インディアナ州のフリーマン陸軍飛行場で事件は起こりました。

それは、黒人に使用を許されない将校クラブを、
黒人爆撃隊のメンバーが解放しようとして起こった事件でした。


第二次世界大戦は終わり、戦争への貢献を認められた黒人航空部隊でしたが、
そもそも人身から差別が撤廃されたわけではないので、
相変わらず軍には白人と黒人の分離を厳格に行う基地司令が存在し、
全ての人種に解放されるべきとされていた将校クラブも、
そんな司令の下では黒人将校のしようを禁じるといった状態のままでした。

反乱の起こったフリーマン基地の司令セルウェイ大佐は、「分離派」。
まあ平たくいうとバリバリの「差別派」で、移転先のこの基地に
将校クラブを最初から二つ、白人黒人専用と分けて作りました。

そこで黒人将校グループはこの隔離に異議を唱える行動計画を決定しました。

抗議方法は強行突破あるのみ。

まず、二組の黒人将校がクラブに入り、サービスを拒否されますが、
彼らはあえて、何回もクラブへの着席を試みました。

そのうち白人の将校が銃をむけて退席を求めるも、彼らは拒否。

ついには逮捕命令が出されても、何人かは抗議行動を続けました。
騒ぎは二日間つづき、合計61名の黒人将校が逮捕される騒ぎになりました。


基地司令セルウェイ大佐は、一旦彼らを釈放してみせ、
分離規則を受け入れるサインをすれば逮捕はしないよー、と迫りましたが、
1001人の黒人将校は、誰一人としてサインをしなかったため、
結論として162人が逮捕(そのうちの何人かは2度逮捕)されました。

逮捕された黒人将校たち

軍法会議の結果、3人は比較的軽い罪でしたが1人は有罪になりました。



ロジャー・テリー中尉(Rodger”Bill"Terry)の罪状は、
白人中尉を「もみくちゃにした」というもので、150ドルの罰金、階級剥奪、
さらには不名誉除隊という厳しい判決を受けました。

驚くべきことですが、この騒動が起こったのは1945年6月。
いくらもう勝ちが見えていたとはいえ、一応日本との戦争中です。

戦争中の軍隊が、こんなことでいいのか。いやよくない。

しかし、当時はまだ公民権運動も起こる前のアメリカ、
結局この判決は覆ることなく、そのまま騒動は収められてしまいました。

その後、1995年、空軍は公式にこの時のアフリカ系将校の行動について
有罪となったテリー中尉のの軍法会議の判決を無効とし、
15人の将校を免責としました。

ちなみにたった一人有罪とされてしまったロジャー中尉ですが、
元々カリフォルニア大学で法律の学位を取っていたため、
除隊後は、ロスアンゼルスの地方検事となることができました。

そして映画「レッドテイルズ」が制作されたときには、
当事者としてアドバイザーを務め、2009年に87歳で亡くなりました。

後世の公民権評論家は、この反乱について、

「軍隊の完全統合に向けた重要な一歩であり、市民的不服従を通じて
公共施設を統合しようとする、後の努力の模範である」

と評価しています。


続く。




戦う『黒い翼』ベンジャミン・O・デイヴィスJr.〜スミソニアン航空博物館

2023-01-12 | 飛行家列伝

いろいろと間に挟まって中断されていましたが、
スミソニアン博物館展示の航空シリーズの続きをやります。

これも途中までになっていた黒人ばかりの航空隊、
タスキギー・エアメン展示から、黒人で初めて将軍までなった
ベンジャミン・O・デイヴィスJr.についてもう一度お話しします。

「Into Combat」(戦闘への投入)としてまず、

「デイビスは、第二次世界大戦中、北アフリカ、
そしてイタリアにおける空中戦において
ナチスドイツから味方の長距離爆撃機を援護する任務で
タスキギー・エアメンを率いました」


とあります。

■ ベンジャミン・O・デイヴィスJr.


タスキギー・エアメンの物語は、ベンジャミン・O・デイヴィスJr.の生涯と
そのキャリアなしで語ることはできません。

ベンジャミン・オリバー・デイヴィス・ジュニアは、
1912年ワシントンDCで、ベンジャミン・O・デイヴィス・シニア
エルノーラ・ディッカーソンの3人の子供の2番目に生まれました。

父のデイヴィス・シニアはアメリカ陸軍で最初に黒人将校になった人物です。



なぜこの時代、デイヴィス・シニアが将官になれたのか、
不思議に思われる方もおられるでしょうか。

それには、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策時代当時、
つまり1940年ごろは、黒人ばかりの航空隊を結成するのに
ルーズベルト妻が一役買ったことでもわかるように、
アフリカ系アメリカ人に対して寛容であった時期があったからでした。

戦争前夜ということもあって、政府はアフリカ系の役割拡大を画策しており、
分離された黒人部隊の司令官に黒人を任命することも行われました。

そんな中、バッファロー・ソルジャー(黒人陸軍部隊)出身で、
優秀だったため、戦術学の教授まで務めた経験のあるデイヴィス・シニアは、
ごく限定的な責任を負う権限しかなかったとはいえ、
黒人で初めて准将にまでなることができた人物でした。

ちなみにデイヴィス・シニアの最初の妻(デイヴィス・ジュニアの母)は、
3人目の子供が産まれてすぐ合併症で世を去り、シニアは再婚しています。

デイヴィスJr.がパイロットになったきっかけは、
彼が13歳の1926年夏、ワシントンD.C.で開かれた航空ショーで、
バーンストーミング(航空ショー)パイロットの操縦する飛行機に
搭乗したという経験でした。

当時、多くのアフリカ系アメリカ人の若者が、航空の世界を知った時、
まだそこには伝統的な階層階級が存在せず、
自分たちも自由に羽ばたけるかもれしれないと希望を持ちましたが、
彼もまた、この世界に可能性を見出したのかもしれません。


【ウェストポイント入学】



普通大学を卒業した後、彼は陸軍士官学校、ウェストポイントに入学します。

士官学校を受験するには、国会議員の推薦が必要となるので、
彼は当時唯一の黒人議員であったシカゴ選出の
オスカー・デプリースト下院議員(イリノイ州選出)の後援を受けました。


公民権運動を行い、反リンチ法などを提出した人

4年間の在学中、デイヴィスはクラスメートから完全に孤立しており、
必要なこと以外で声をかける者は、ほとんどいなかったといいます。

ウェストポイントのドミトリー(宿舎)は二人一部屋が普通ですが、
デイヴィスだけは一人部屋で、食事も一人で取らされていました。

黒人が同じ士官候補生であることを疎ましく思う同級生たちは、
当初彼が士官学校から追い出されることを期待していたかもしれません。

しかし、彼はその重圧の中、より課題に懸命に取り組みました。

そして4年後、1936年の年鑑「ハウザー」(榴弾砲の意)掲載の
彼の写真の下には、このように記されていました。

「プリーブ(1年生)の年とは比べものにならないほど
難しい課程を克服した勇気、粘り強さ、知性は、
クラスメートの心からの賞賛を得た。

そして、自分の選んだキャリアを諦めないその一途な決意は、
彼が将来どんな道を選ぼうとも、尊敬を集めないわけがないだろう」


1936年6月、彼は級友から心からの尊敬を集める存在として、
276名のクラスの35番という成績で卒業します。

しかしながら、3年生になり、航空隊の配属を志願した彼は、
アフリカ系アメリカ人であることから不合格を言い渡されています。

彼が少尉に任官した当時、陸軍に存在したチャプレン以外の黒人将校は、
ベンジャミン・O・デイヴィスSr.とベンジャミン・O・デイヴィスJr.、
この二人のデイヴィスだけ、そう、つまりデイヴィス父子だけでした。

彼父の配属は分離された黒人歩兵連隊、バッファローソルジャー部隊であり、
当然のように将校クラブに入ることはできませんでした。



デイヴィスJr.は卒業後、ウェストポイントでの士官候補生時代に出会った
アガタ・スコットと結婚しました。

【タスキギー航空隊へ】

1937年、デイヴィスはアラバマ州タスキギーの黒人大学である
タスキギー・インスティテュートで軍事戦術を教えることになりました。

彼の父デイヴィスsr.も数年前に全く同じコースをたどっています。
これは決して偶然ではなく将校になってしまった黒人の「行き場」として
陸軍が考えた、最も無難な配置というべき措置でした。

白人兵を黒人が指揮するということは人種的にあってはならないので、
黒人将校は、黒人の訓練機関で指導をさせるしか使い道がなかったのです。


1941年初頭、ルーズベルト政権は、戦争が近づくにつれ、
黒人の軍への参加拡大を求める国民の圧力に応え、
ついに陸軍省に黒人の飛行部隊を創設するよう命じました。

そして、その頃大尉となっていたデイヴィス大尉は、
タスキーギ陸軍飛行場での最初の訓練クラスに配属されることになります。
(これがタスキーギ・エアメンという名前の由来)


タスキーギで最初にウィングマークを獲得したクラスは、
新しく創設された第99戦闘飛行隊の中核をなすことになりました。
AT-6訓練機の前に立つ、

(左より)
チャールズ・S・ロバーツ大尉 Charles Roberts
ベンジャミン・O・デイヴィスJr.大尉 Benjamin Davis
チャールズ・デボーJr.中尉 Charles Debow
マック・ロス中尉、Mac Ross
レミュエル・R・カスティス中尉 Lemuel Custis


1942年3月、ともに航空士官学校の訓練を修了したメンバーです。

デイヴィスJr.と4人の同級生は、アメリカ軍創設以来初めての
アフリカ系アメリカ人戦闘機パイロットとなったのでした。

のみならず彼らは陸軍航空隊の航空機を操縦した
最初のアフリカ系アメリカ人将校でした。

【第99戦闘航空隊司令】

その後中佐に昇進した彼は、初の黒人だけの航空部隊である
第99追跡飛行隊の司令官に任命されました。

第99戦闘機隊のエアメンの前で司令官として話をしているデイヴィスJr.

カーチスP-40戦闘機を装備したこの飛行隊は、
1943年春に北アフリカのチュニジアに派遣されました。

そして、コークスクリュー作戦の一環として、ドイツが支配する
パンテレリア島に対する急降下爆撃の任務で、初めて戦闘を行います。

コークスクリュー作戦は、第二次世界大戦中、シチリア島侵攻に先立ち、
イタリアのパンテレリア島(シチリア島とチュニジアの間)侵攻作戦です。

島を防衛するイタリア軍守備隊に対しイギリス海軍の機動部隊と共に
アメリカも戦闘機、中型機、重爆撃機による5,285回の爆撃が行われ、
タスキギー航空隊もこれに参加したということになります。


爆撃された燃料倉庫の横を走るイタリア軍兵士

ただし、この時、イタリア軍の守備隊長は前夜、
ローマに降伏の許可を求め、その日の朝に許可を受けており、
イギリス軍の最初の上陸のときには、既に降伏したあとでした。

つまり戦闘する必要はなかったということです。
ヘタリア伝説かな。

ただしこの時の空爆で直撃された砲台は2門だけで、17門がニアミス、
34門が破片や破片で損傷。
攻撃側の重爆撃機の精度は 3.3%、中爆撃機は 6.4%、
軽戦闘機は 2.6% ということで決して高い練度ではありません。


【第332戦闘機群〜”レッド・テイルズ”】

1943年9月、デイヴィスはアメリカに帰国し、海外進出を準備していた
より大規模な黒人部隊、第332戦闘機群の指揮を執ることになります。

この時、デイヴィスは黒人飛行部隊に対する人種偏見と
真っ向から戦うことになったのです。


アメリカに到着後すぐに、黒人パイロットを航空戦闘に参加させるのを
やめさせようという動きが、どこからともなく起こってきました。

陸軍航空部隊の某上官が、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル将軍に、
第99飛行隊の成績が悪いとして作戦から外すことを勧告したのです。

確かに先ほどの数字によるとイタリアでの攻撃精度は高くありません。
それはデイヴィスの部隊に限らず全体的な傾向に過ぎなかったのですが。

もちろんデイヴィスJr.はこれに激怒しました。
これまで部隊に欠陥があるなどとは言われたこともなかったからです。

デイヴィスは早速ペンタゴンで記者会見を開いて部隊を擁護し、
陸軍省の黒人軍人の活用を検討する委員会に弁明を行いました。

これを受けてマーシャル将軍はあらたに調査を命じましたが、
その間第99師団の戦闘行為を中止させることはしていません。

そんな1944年1月、アンツィオ防衛を行なっていた第99飛行隊が
2日間で12機(11機という説も)の敵機を撃墜するという成績を挙げます。

この時彼らが乗っていたP-40Lは、フォッケウルフFW−190より
80マイルも速度が遅かったにもかかわらず。

このことは国内に向けて、この部隊、ひいては
黒人パイロットの適性についての証明となりました。

この時金星を上げたメンバー。
左から、

ハーバート・クラーク少佐(のちに被撃墜、地上でパルチザン活動を行う)
レオン・ロバーツ中尉1機撃墜(のちに墜落、戦死)
ウィリー・フラー中尉
ウィリアム・キャンベル中尉(戦後空軍で活躍)
アーウィン・ローレンス中尉(煙幕ケーブルに激突、戦死)

デイヴィス大佐の率いる第332戦闘機隊は、イタリアに到着します。



イタリアのアドリア海沿岸に位置するラミテッリ空軍基地は、
1944年から5年にかけて、デイヴィスの指揮する
第332戦闘機グループの本拠地となりました。

パイロットは第15空軍の戦略爆撃作戦を支援するために
P-51マスタング戦闘機をドイツの上空奥深くまで飛行させました。

時には彼らはベルリンへの長距離護衛任務で、
1600マイルの往復飛行を完遂していました。

映画「レッド・テイルズ」では、黒人に護衛されることを嫌悪する
白人爆撃機パイロットが、自分の身の危険を顧みず
爆撃機を守って撃墜されていくのに感動して泣くシーンがあります。

そして、映画のラストに現れる字幕には、確か、

「護衛した爆撃機を一機も失わなかった」

とあった記憶があります。


P-51マスタングのコクピットに座って
ウィリアム・トンプソン(中央)らと話しているデイヴィスJr.。


4個飛行隊からなるこのグループは、機体の特徴的なマーキングから
「レッドテイルズ」と呼ばれました。


これは映画のポスター

1944年夏には、マスタングからP-47サンダーボルトに移行しました。


「200」と書かれた紙の前で、エスコートミッション、
掩護任務が200回を超えたということを
第332ファイターグループのエアメンに告知しているデイヴィス。
1945年イタリアのラミテッリ航空基地にて。


下の可愛らしい絵は、第332戦闘機隊のメンバーの描いたもので、
基地のあったラミテッリの風景だそうです。

1945年夏、デイヴィスはケンタッキーにあった
黒人だけの第477爆撃隊を引き継いで指揮を執りました。



戦争中、デイヴィスJr.の指揮する飛行隊は、
ドイツ空軍との戦闘で素晴らしい記録を残しました。

出撃回数 15,000回以上
撃墜 12機
地上での撃破 273機

損失、戦闘機66機爆撃機 25機。

デイヴィス自身はP-47とP-51マスタングで67回のミッションを指揮。

彼はオーストリアへのストラフリングランで銀星章を、
ミュンヘンへの爆撃機護衛任務で殊勲飛行十字章を受章しました。


■ 軍隊の人種差別撤廃

1948年7月、ハリー・トルーマン大統領は、
軍隊の人種統合を命じる大統領令9981号に署名しました。

このときデイヴィス大佐は大統領令を実施するための
空軍計画の起草に直接携わっています。

アメリカ陸海空軍の中で空軍は、最初に完全統合されることになりました。



1949年、デイヴィスは空軍大学に入学し、
その後20年にわたり国防総省や海外赴任先で勤務を行いました。

1953年、朝鮮戦争が開始されると、デイヴィスは
第51戦闘機迎撃飛行隊(51FIW)の指揮官として再び戦闘に参加し、
朝鮮半島の戦闘ではF-86セイバーに搭乗しています。

1953年、朝鮮戦争期に小隊を率いて飛ぶデイヴィスJr.少佐機(手前)

デイヴィスはこの時期、日本に赴任しています。

1954年から1955年まで東京の極東空軍本部で作戦・訓練部長を務め、
東京滞在中に一時的に第13空軍副司令官として准将に昇格したのです。

その後米国に戻り、米国空軍本部での勤務を経て少将に昇進を、
そして4年後の1965年中将に昇進し、1967年、
フィリピンのクラーク空軍基地で第13空軍の司令官に就任しました。

もちろんこの頃には、軍における人種分離策は撤廃されており、
デイヴィス司令官の部隊には普通に白人がいたことも付け加えておきます。


デイヴィスJr.の現役での最終配置は、アメリカ打撃司令部副司令官。
さらに中東・南アジア・アフリカの司令官としての任務も担い、
1970年に現役を退きました。

■四つ星

1998年12月9日、デイヴィスJr.はビル・クリントン大統領政権下、
アメリカ空軍大将(退役)に昇進し、四つ星記章を獲得しました。



クリーブランドのO・A・チルドレス博士(自由人権委員会委員長)から
フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領への書簡で、
ベンジャミン・O・デイヴィスを准将に任命することを賞賛しています。

アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト閣下

拝啓

我々は、最近閣下が決定されたベンジャミン・O・デイヴィスの
アメリカ陸軍准将への任命に感謝の意を表します。

これはあなたがニグロアメリカンのために行なってきた
多くのことの中でも、特筆すべきことであります。

実際、我々はそれがその中でも最高のものであり
彼の優秀さと功績に対するあなたの認識を非常に光栄に思っております。


2002年、デイヴィスJr.の妻アガサが3月10日、94歳で死去すると、
その4ヶ月後の7月17日、デイヴィスも後を追うように亡くなりました。

デイヴィスは一足先にアーリントン国立墓地に眠っていた妻と並んで葬られ、
葬儀の際には、彼が第二次世界大戦の時乗っていたのと同じ、
レッドテイル仕様のP-51マスタングが上空を飛行したということです。


続く。



タスキギー・エアメンの父 ノエル・パリッシュ准将〜スミソニアン航空博物館

2022-10-29 | 飛行家列伝

今まで何度か黒人ばかりの航空部隊、タスキギー・エアメンについて
彼らを描いた映画を取り上げつつお話ししてきましたが、
今回はスミソニアン航空博物館展示からになります。

ちなみに、日本語では「タスキーギ」と書かれることが多く、
わたしも今まで「タスキーギ」と書いてきたのですが、
アメリカ人の発音とスペルを見て、「タスキギー」が正確かなと思い、
今後はそのように表記することをお断りして始めたいと思います。



航空の黎明期に人種偏見を跳ね返し、空を飛ぶ夢を叶えてきた
アフリカ系飛行家の先駆となった人々を紹介する
「ブラック・ウィングス」のコーナーの最後は、なんと言っても
タスキギー・エアメンを持ってこなくてはいけません。

このパネルには、タスキギー出身でのちに将軍にまでなったデイビスと、
タスキギー創設の立役者となったパリッシュをバックに、
モニターではタスキギー航空隊の動画がエンドレスで流れています。

「多くの若いアフリカ系アメリカ人が軍航空に参入することを熱望しましたが
ことごとく人種的な理由で拒否されることになりました。

アメリカ陸軍航空隊はついに1941年、アラバマ州タスキギーで
黒人のための訓練プログラムを開始し、
その中でずば抜けて才能のあった
ノエル・F・パリッシュ
基地司令になりました。
戦争中、パリッシュは訓練課程に対し、
創造的なリーダーシップを提供することになります。

ベンジャミン・O・デイビスJr.は、陸軍士官学校卒。
黒人ばかりの第99戦闘飛行隊の指揮官となります。
デイビスはその後ヨーロッパの戦場でタスキギーエアメンを率いました」

■ 国土防衛〜ノエル・F・パリッシュ



ノエル・フランシス・パリッシュ
Noel Francis Parrish 1909-1987


なぜこの白人さんがアフリカ系パイロットの指揮官に?
と誰しも思うわけですが、当時の飛行隊は黒人の部隊でも
指揮官まで黒人が務めるわけではなかったということです。

パリッシュはタスキギー航空隊の白人指揮官として、
プログラムをうまく運営し、成功させたという功績を持ちます。

映画「レッドテイルズ」の白人指揮官は、記憶に残る限り
それほど黒人たちの側に立っていなかったような印象ですが、
おそらく映画より実物の方が、黒人航空隊の司令官として
彼らにシンパシーを持っていたのではないかという気がします。

というのは、彼は以前紹介した黒人パイロット&教官、
コーネリアス・コフィーと個人的に親しく、
シカゴで開催されたチャレンジャーズ・エアパイロット協会のプログラムを
非常に評価していた人物の一人と言われているからです。

【なぜ”タスキギー”だったのか】

陸軍に生活のために入隊後は騎兵隊から出発して
下士官として航空パイロットの資格を取ったパリッシュは、
飛行教官、飛行学校監査官、訓練部長と順調に飛行畑で出世しました。

そして、1941年、アラバマ州のタスキギー基地に黒人だけの飛行部隊、
タスキギー陸軍飛行学校のが爆誕したとき、
大尉であったパリッシュは、指揮官に就任することが決まりました。

黒人部隊創設を後押ししたのは、公民権団体や黒人記者たちの圧力であり、
ここが「タスキギー実験」の実験場として軍に選ばれたのは、
タスキギー研究所が元々航空訓練に力を入れていたためでした。

施設、技術者、教官、そして年間を通じて飛行できる気候、と、
実験を行うための好条件が揃っていたこともあります。


スミソニアンに残された1941年の陸軍航空隊のプレスリリースですが、
こちらを全文翻訳しておきます。

「ニグロからアメリカ航空隊へ」

歴史上初めて、来週空軍は飛行士官候補生として黒人を募集します。
(最終的な計画はまだ未定、正確な日付は月曜に確認)

有色隊員は白人と全く同じ条件で採用されます。
身体テスト、適正テストも同じに実施されます。
黒人隊員の選択は空軍が現在白人に使用しているシステムと同じ条件で行われ
募集は軍団管区、特にその管区の飛行場で行われます(場所は未定)

優先される入隊者は
CAAトレーニングを受けたことのある者です。
これまでのCAAは
Komingニグロパイロットを訓練してきました。

彼らはタスキギー研究所近くの飛行場で訓練を受けます。

陸軍省はフィールドの建設をまだ開始していないので、
おそらく来年の秋まで実施はできないでしょう。

入隊者は現場で基本から高度なトレーニングを受けます。

予備訓練は承認された契約校で行われ、
地上要員はシャヌート飛行場で訓練を受ける予定です。
パイロットの最初の受け入れ人数は33名。
訓練を行うのは白人教官です。

卒業した者は少尉に任官することになります。

カラード・トレーニングプログラムを継続する場合は、
有色人種の士官としてインストラクターを務めることになります。

黒人の士官候補生は、毎年40人から50人になる予定で、
彼らの先頭中隊は、白人部隊から分離されます。

航空隊の関係者はその考えにうんざりしているようで、
皆あまり良い感触を持っていないようです。
なぜなら彼らは
ニグロの飛行能力に疑問を持っているからで、
特に軍の航空は民間とは違う、という指摘もあるようです。

黒人たちはもちろんこれを歓迎しています。

最後に何やら不穏な報告がされています。
後述しますが、黒人飛行隊については、各方面から
反対意見があらゆる時点で巻き起こることになります。



1941年、エレノア・ルーズベルトがタスキギーの視察中、思いつきで
チャールズ・"チーフ"・アンダーソンが操縦する飛行機に乗り、
基地周辺を40分間遊覧飛行したときの写真です。

ルーズベルト夫人がこの「古代から飛行機に乗っていた人」
とあだ名される超ベテランチーフの飛行機に乗ったことは、
後世の人が思うように偶然や気まぐれの産物ではなかった、と、
わたしは今回確信しましたので、その理由を説明します。

まず、戦争の激化に伴い、飛行要員に有色人種を採用するという案は、
おそらく国家単位の組織から生まれてきたものだと思うのです。

飛行要員の訓練は、長期間を要し、人員の確保が難しく、
しかも本格的に戦争に投入されるとなると、当然予想される、
激しい消耗をどう補うかという問題が起きてきます。

「ブラック・ライブズ・マター」は黒人の人権問題ですが、
本音で言うと、当時二流市民であった黒人の命ならば、
多少の権利を付与したとしても、戦争に投入させるのは
十分見返りがあると考えた結果ではないでしょうか。

しかし、その「多少の権利」というのが問題でした。

それまでの彼らに対する社会的な扱いの低さが酷すぎたため、
この計画は、まず入り口に立ちはだかる人種差別の印象を
なんとか跳ね除ける必要があったわけです。

そこで、大統領夫人が突如気まぐれを起こし、
黒人パイロットの操縦する飛行機にのってフライトを行い、
大統領夫人は大変ご満悦であった、というカバーストーリーを
誰かが描いたのではないか、というのがわたしの想像です。

この事件が、世間の印象を変え(たように報じられ)、
その後、タスキギーのプログラムは拡大され、
第二次世界大戦中のアフリカ系アメリカ人の航空の中心となり、
部隊のメンバーはタスキギー・エアメンとして知られるようになりました。

黒人部隊を創設したい上層部にとっては、
その道筋をつけたこの事件は(もし仕組んだものであったら)成功でした。

だからこそわたしはエレノアの事件が「やらせ」だと信じるわけです。
おそらくこの事件がなければ、創設に漕ぎ着けるのは不可能だったでしょう。

しかしながら、創設の道筋がついた後も、
黒人ばかりの飛行隊に対する反発は凄まじく、
我々が思う以上に問題が山積していました。
まず、当初から起こってきた問題を見ていきましょう。

【初期の問題】

タスキギーに黒人航空要員養成学校ができるというニュースが広がると、
案の定、この地域の白人たちは、猛烈な反対を唱えました。

黒人の憲兵が白人を取り締まったり、軍用武器を振りかざして(と見える)
町をパトロールしていたことも、彼らの「癪の種」だったようです。

これに対し、初代指揮官ジェームス・エリソン少佐は(勿論白人)、
黒人憲兵を保護する立場でしたが、そのせいですぐに指揮を解かれます。

その後に来た大佐は完璧な分離主義者で、早速分離政策を取りました。

黒人系のメディアがこれに抗議すると、上層部は大佐を昇進・異動させ、
ノエル・パリッシュが「訓練部長」として指揮を執ることになったのでした。

タスキギー基地はこの間のゴタゴタで配属が滞り、そのせいで、
任務を持たない黒人士官が過剰になる事態となっていました。

着任したパリッシュは、結果として大規模な人種差別撤廃を断行します。
しかしそれは「逆差別」的な甘やかしではありませんでした。

人事はプロ意識と個人の能力、技術、判断力を基準としたもので、
黒人の訓練生に白人と全く同じように高い水準のパフォーマンスを求め、
その基準に達しない者は遠慮なくプログラムから外されるというものでした。

また、これまでレクリエーションが顧みられない状態だったので
パリッシュは有名人の訪問や公演を手配するなどということもしています。


ジャズシンガー・レナ・ホーンとパリッシュ(右)
左も多分有名な人

タスキギーに慰安のため招聘されたアーティストは、アフリカ系が中心で、

レナ・ホーン、ジョー・ルイス、エラ・フィッツジェラルド、
レイ・ロビンソン、ルイ・アームストロング、ラングストン・ヒューズ


などジャズに詳しい人が見たらレジェンド級の眩い顔ぶれでした。


【タスキギー陸軍飛行場司令官 パリッシュ】

左から2番目:パリッシュ
右へ:飛行教官ルーク・ウェザーズ大尉、
ベンジャミン・O・デービスJr.少佐
タスキギーインスティチュートプレジデント フレデリック・パターソン博士


陸軍航空隊は、1941年、アラバマ州タスキーギ研究所近くに
ついにタスキーギ陸軍飛行場を設立しました。

タスキギー陸軍飛行場(TAAF)の開発と建設などにも
黒人系の建設・施工・土木業者が選ばれたということです。
(これはもしかしたら白人系が引き受けなかった可能性もありますが)

1941年1月にはついに黒人航空部隊の編成が発表され、
すぐに部隊は活動を開始しました。

1942年末にタスキーギ陸軍飛行場司令官に昇進したパリッシュは、
プログラムの成功に重要な役割を果たすことになります。

まず、最初のクラスから5人の生徒が1942年3月に卒業しました。
彼らのうち最初に将校飛行士候補者となった12人は、黒人記者によって

「この国の有色人種の若者の頂点」

と称されるなど、このプログラム自体が黒人の身分にとって画期的でした。


おいっちにーさーんしー

ほとんどの訓練は白人教官が指導することになりましたが、
この体育の授業らしきものは、黒人教官がおこなっているようです。

250名を越える入営者は、訓練を受ける最初の黒人のグループとなり、
2年後には地中海作戦地域に戦闘配置されることになりました。

「タスキギーエアメン実験」を構成したのは黒人パイロット、教官、
整備・支援スタッフ、そしてそれを統率する指揮官でした。


【タスキギー飛行士実験の成果】

「タスキギー飛行士実験」は、黒人が、指導者としても戦闘員としても、
優れた能力を発揮できることが最終的に証明されることになりましたが、
この成果を得ることができたのは、パリッシュの功績でもあります。

この計画が軌道に乗るまで、黒人飛行士官の育成には
人種偏見からくる大きな抵抗があったことは先ほど書きましたが、
司令官として、パリッシュがこれに苦しまなかったわけがありません。

人は人種ではなく、能力によって判断されるべきだと考えていた彼は、
しばしばワシントンDCから落ち込んで帰ってくることがありました。

彼がタスキギーエアメンの直接の指揮を執ったのは、
実は1945年の第二次世界大戦の終わりから1946年8月まで、
わずか1年間にすぎません。

この間、戦争は終わり、その代わり、今度は
アメリカ軍の人種統合の闘いが加熱していました。

そして、事実上すべてのアメリカ軍の部隊司令官が、

「黒人は白人に比べて訓練に時間がかかり、成績が悪い」

とする報告書を提出していたことはあまり知られていません。

これは公民権運動が勃興する何年も前でもあり、白人ばかりの軍上層部は
相変わらず拭いがたい分離の壁をほとんどが築いていました。

しかし、ノエル・パリッシュはそうではありませんでした。

彼は、繰り返しますが、黒人の能力を黒人というだけで切り捨てず、
公平な報告書を提出した数少ない司令官のうちの一人でした。

例えば、パリッシュの報告書には、次のように記されています。

「ヨーロッパで爆撃機のパイロットが不足したとき、
戦闘機の操縦には、爆撃機の操縦とは全く違う技術が必要なのに、
十分に訓練された黒人の爆撃機のパイロットがいるにもかかわらず、
代わりに白人の戦闘機のパイロットが送り込まれた
ことがあった」

「陸軍航空隊の将校は、その科学的な解決力も卓越しているとされる。
工学的人事問題についての知見はなんら問題はないとされるのに、
彼らは得てして
人種や少数派の問題に対して、最も非科学的な独断と
偏見を持った態度でアプローチする
のにはがっかりさせられる事実だ」

「我々が黒人を好きであろうと嫌いであろうと、
彼らは他の市民と同じ権利と特権を持つアメリカ合衆国の市民である」



戦争が終わり、公民権運動の嵐も過ぎ去った数十年後のある日のことです。
タスキギーでタスキギー飛行隊の同窓会が行われました。

会場でノエル・パリッシュ准将の名前が呼ばれると、
そこにいた全員がスタンディングオベーションで彼を迎えました。

黒人である彼ら自身が、この司令官の公平性をよく知っていたのです。


戦後、第二次世界大戦中はあくまでも実験的だった
AAF(アフリカ系航空隊、アフリカンエアフォース)
ですが、軍はその経験から、運用方針を見直す必要があると考えました。

AAFの指導者たちは、黒人と白人の両方のグループを共存させ、
討論し調整することで、積極的な取り組み、リーダーシップ、機会の平等、
より費用対効果の高い軍隊を生み出すという結論に至ったのです。

つまり、タスキギー飛行隊実験は成功しました。

それを受けて、1948年、ハリー・トルーマン大統領は、
軍隊における待遇と機会の平等に関する大統領令に署名します。



【ノエル・パリッシュ准将】

The Rice University alum who became part of history with the Tuskegee Airmen 

パリッシュが卒業し、PhDを取ったライス大学が製作した
「パリッシュなくしてタスキギーエアメンなし」のビデオです。
ちなみにこのビデオでは「タスキーギ」と発音されていました。

だからどっちやねん。


パリッシュは2度結婚しており、2度目の妻は
フローレンス・タッカー・パリッシュ=セント・ジョン博士。
詳しいことは分かりませんが、どうも医師だったようです。

パリッシュはペンネームで雑誌記事を書き、音楽と絵にも関心を持ち、
40歳にして大学で博士号を取るなど向学心にもあふれた知的な人物でした。
外見も魅力的で機知に富み、好感の持てる男性で、
年齢よりも若く見え、女性に大いにモテてもいたようです。


彼はタスキギーに赴任するまでは、黒人の運動などに関わっていません。
が、彼の生まれは全くその問題とは無縁な土地ではなく、少年時代、
3マイル歩いて黒人がリンチされた場所を見に行ったりしています。

後年、黒人のパイロットや整備士を訓練するプロジェクトについて
彼が関わることになった時、その話を聞いた白人たちが、
しばしば「奇妙で心配そうなある種の笑い」を浮かべるのを目にしたり、
ヨーロッパでは、イギリスの飛行エースが、

"Messerschmitt on his tail than to try to teach a Negro to fly".
「黒人に飛行を教えるくらいならメッサーシュミットに追われる方がマシだ」


とまで言い放ったのを実際に耳にしたと告白しています。


ノエル・パリッシュは1964年10月1日に空軍を退役し、准将となりました。

博士号を取得した母校ライス大学の歴史学教授として教壇に立っていましたが
1987年4月7日、心停止によりメリーランド州で死去しています。

彼の葬儀で、黒人将官、デイヴィス・ジュニア中将はこう述べました。

「パリッシュ准将は、黒人が飛行機の操縦を学べると信じていた
当時唯一の白人だったかもしれない」




1948年、ハリー・トルーマン大統領政権下、
アメリカ軍の差別撤廃が決定しました。



タスキギー・エアメンの最高賞は、その名を冠して、
「ノエル・F・パリッシュ准将賞」と名付けられています。


ノエル・パリッシュが、その賢明なリーダーシップと、
黒人士官候補生に対する厳正で公平な扱いによって変えたものは、
軍隊における人種的分離状態だけではありませんでした。

それは、黒人飛行士たちの士気、彼らの生活条件、軍内の黒人と白人の関係、
および黒人と軍隊との関係全てにとどまらず、
タスキギーの町における黒人と白人の関係さえも改善したといわれます。



続く。



ブラック・ウィングス フライング・イン・シカゴ〜スミソニアン航空博物館

2022-10-19 | 飛行家列伝

アメリカに大恐慌が起こったのは1929年から1933年です。
この間、航空界はリンドバーグの大西洋横断の余波もあって
この恐慌とは関係なく安定して盛り上がっていました。

特にシカゴは、アフリカ系アメリカ人の航空の本拠のようになり、
それは西のロスアンジェルスの隆盛に匹敵しました。

そのシカゴでのブラックウィングスを中心となって率いたのは、

コーネリアス・コフィー
(Cornelius Coffey)1902−1994

とう伝説の黒人アビエイターでした。

■コーネリアス・コフィーのパイロット養成学校



コーネリアス・コフィーは元々熟練の自動車整備士でした。
航空の時代がまさに訪れているのを目の当たりにした彼が
パイロットを夢見たのも当然の成り行きだったといえましょう。

1931年、彼は同じ航空を目指すアフリカ系の同士を集め、
カーチス・ライト航空学校で航空を学ぶために始動を行います。

そして自身が航空技術を身につけた後は、地元シカゴで
アフリカ系が飛行する機会をさらに拡大するため、
「チャレンジャーズ・航空パイロット協会」を組織しましたが、
地元ではなかなかうまくいかず、結局彼らはイリノイ州に出て

「コフィー・スクール・オブ・エアロノーティクス」

という航空養成学校を開設します。

そこが軌道に乗ると、シカゴでも訓練クラスを設立し、
民間パイロット訓練プログラムからフランチャイズを得ました。

彼とその仲間のこの働きによって、黒人飛行家が排出されます。
その中には、後述するショーンシー・スペンサーとデールホワイト、
そしてタスキーギ・エアメンとなる多くのアフリカ系パイロットがいました。

彼の飛行スクールは黒人のみならず白人も排出しており、
航空における人種分離政策の終焉を目指す目的を持っていました。
  
コーネリウスと女性パイロット訓練生。

連邦政府が資金提供し、コーネリウスがフランチャイズ契約した
シビリアン(民間)パイロット・トレーニングプログラム(CPTP)は、
基本セグレゲートつまり人種分離されたものではありましたが、
それでも黒人に前例のない飛行訓練の機会を提供しました。

コフィーがシカゴのCPTPのフランチャイズを取得したのは
第二次大戦の前夜となる1939年のことです。

政府が、当時の世界情勢から「いざ鎌倉」(って言っていいのかな)のために
航空分野の裾野を広げようとしていたらしいことが窺い知れます。

■ ウィラ・B・ブラウン


ウィラ・ベアトリス・ブラウン(Willa Beatrice Brown 1906 - 1992)

は、 パイロット免許を取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性です。

彼女の先駆だったベッシー・コールマンは、人種差別の壁ゆえ、
免許をフランスまで行って取らざるを得ませんでしたが、彼女は
アメリカで免許を取得し、これが黒人女性初となったのです。

のちに彼女はアフリカ系アメリカ人女性として初めて連邦議会に立候補し、
民間航空パトロール隊の最初のアフリカ人幹部となり、
パイロット免許と航空機整備士免許を同時に持った最初の女性となります。

ウィラ・ベアトリス・ブラウンはケンタッキー生まれ。
インディアナ州立教員学校を卒業しました。
10年後、名門ノースウェスタン大学からMBAを取得しています。

卒業後、秘書、ソーシャルワーク、教師など様々な仕事をするうち
コーネリウスが創設したアフリカ系アメリカ人のパイロットグループ、
「チャレンジャーズ航空パイロット会」に入会することになりました。

【航空界でのキャリア】

1934年、ブラウンはコーネリアス・コフィーのもとで学び始めました。
1938年に自家用操縦士免許[10]、1939年に事業用操縦士免許を取得し、
米国で両免許も取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性となりました。

ウィラ・ブラウンはコーネリアス・コフィーらと共同で
のちに全米飛行士協会となる全米黒人飛行士協会を設立します。

彼らの主な使命は、航空への関心を高め、航空分野への理解を深め、
両分野へのアフリカ系アメリカ人の参加を増やすことでした。

ブラウンは同協会のシカゴ支部長兼全国幹事を務め、広報を担当し、
アフリカ系アメリカ人に飛行機に興味を持ってもらうために、
大学を訪問したり、ラジオに出演して語ったりしました。



彼女は、当時隔離されていた陸軍航空隊と民間パイロット養成プログラム
(CPTP)に黒人パイロットを統合するため政府に働きかけました。

1925年、アメリカ陸軍士官学校の研究はこう結論づけました。

「アフリカ系アメリカ人は飛行に適さない」

どういう研究の結果こう結論が出されたのかはわかりませんが、
彼女らはこの結果に反証せんと務め、そして
アフリカ系アメリカ人のパイロットを養成する
CPTPの契約を結ぶよう連邦政府に働きかけました。

その努力が実り、1940年、彼女はまずCPTPのシカゴユニットの
コーディネーターに任命されます。

彼女が知的で優秀だったことはもちろんですが、この結果には
その美貌も手伝ったのではと思うのはわたしだけでしょうか。

穿ったようなことを言いますが、彼女の顔貌は黒人といっても、
鼻筋が通り、唇が薄く、いわゆる現代のハリウッド映画に
ポリコレ配慮で出てくる主役級黒人女性と同系統のものに見えます。

彼女が自分の美貌を十分に認識し、それを十二分に活用していたのだろう、
と思われるこんな記述があります。

「スタイル抜群の若くて褐色の肌をしたウィラ・ブラウン
(Willa Brown)、白い手袋、体にぴったりした白い上着を着て、
白いブーツを履いた、そんな彼女が1936年、
私たちのニュースルームに足を踏み入れたとき、全員が息を呑み、
すべてのタイプライターが突然静かになったほどだった。

他の訪問者とは違い、彼女にまったく怖気付く様子がなかった。
自信に満ちた態度で、そのハスキーな声には決意が感じられ・・・」


彼女がこれほどの、つまり白人にも通用する基準の美人でなければ、
ウェストポイントの研究結果を一夜にしてひっくり返したり、
ここまで話をうまく運べただろうか、とふと考えてしまいます。

まあ、いつの時代も圧倒的な美は時として歴史を変えるってことでしょうか。
当時の黒人航空界が彼女を得たことは、一つのチャンスでもあったのです。

この記述をしたのは、シカゴ・ディフェンダー紙の編集者かもしれません。

彼女は宣伝のため、アフリカ系アメリカ人パイロットの航空ショーに
編集者を招待し、実際に彼をフライトに乗せたことがあるからです。

この時のフライトと彼女の魅力が、この編集者によって忘れ難いもので、
その筆によって大いに宣伝されたのはいうまでもありません。


さて、彼女のおかげかどうかはわかりませんが、その後
コフィー・スクールはアメリカ陸軍航空隊のパイロット養成プログラムに
黒人学生を提供するための供給校として選ばれました。

この結果、同校から約200人の学生がタスキーギ飛行隊に送り込まれ、
「レッドテイルズ」として活躍し、黒人の将官を生むまでになります。

彼女自身ももちろんその後、黒人女性として栄光を手にします。


コカコーラを飲むブラウン中尉(マニキュアもしてます)

1942年、彼女は民間航空パトロール隊613-6で中尉の階級に達し、
民間航空パトロール隊で最初のアフリカ系アメリカ人将校となり、
その後、民間航空局の戦争訓練任務コーディネーターに任命されました。


彼女は生涯、航空分野と軍における男女平等と人種平等の擁護者でした。

1945年にコフィー・スクールが閉鎖された後も、
ブラウンはシカゴで政治的、社会的な活動を続けました。

1946年と1950年には連邦議会予備選挙に出馬し、
2回とも白人男性に敗れましたが、出馬自体がアフリカ系女性初となります。

その後は1971年に65歳で引退するまでシカゴ公立学校で教鞭をと理、
退職後、1974年まで連邦航空局の女性諮問委員会の委員を務めました。


上から;

航空での彼女の多くの業績は認められ、
ケンタッキー州ルイビルにゲストとして招待されました

注意、市民航空パトロール副官、全国空軍協会事務局長、
市民航空管理のための戦争任務コーディネーター。
ブラウンはまるで今でも飛行機に乗り空中回転をしているようです

彼女の飛行学校は空軍への黒人の試験的受け入れを実地するため、
陸軍と市民航空局によって選定されました



このムーブメントに、多くの黒人パイロットが参集してきましたが、
その中には女性もいました。

ジャネット・W・ブラッグ(Janet Bragg)1907-1991

は、シカゴで看護士をしていたとき、航空に魅せられ、
コフィーの航空プロモートに加わりました。

彼女の財政的支援は、シカゴの飛行クラブが
最初の飛行機を購入することができるほどでした。

彼女が資金提供できたのは、看護師として働きながらさらに大学院に進み、
キャリアアップしていくつかの病院で正看護師として働き、
十分なお金を貯めていたからでした。

苦労して商業免許を取得し女性航空隊WASPsに入隊しようとするも、
肌の色を理由にあっさり断られています。

戦後も彼女は飛ぶことを諦めず、自費で飛行機を購入し、
クロスカントリー飛行で多くの記録を打ち立てました。



ここに、「チャレンジャーズエアパイロット協会」の集合写真があります。
ここに写っているのが当時のシカゴ黒人航空界の主流メンバーです。

右上の写真はおそらくベッシー・コールマンでしょう。
真ん中にいるのがブラッグ、その左か右がブラウンでしょうか。

黒人によるエアショーの開催


「エア&グラウンドショー」

第二回有色人種空中&地上ショー
9月24日日曜日午後2時より

出演 ドロシー・ダービー嬢(クリーブランド)
アメリカ唯一の女性パラシュートジャンパー

ジョージ・フィッシャー少佐
シカゴ、デアデビルのベテラン
1万フィート上空巨大飛行機からのセンセーショナルなパラシュート降下
アクロバット飛行

ピーター・コンスドルフ
燃えるような木製の火の壁をオートバイで通り抜ける決死の挑戦

レイ・ブリッチャーズ(チャタヌガ)
トンプソンブラザーズ・バルーンアンドパラシュートカンパニー

場所:(省略)
ご来場はお早めに 軽食付き

演奏:キャプテンカリーズ・コンサートバンド
入場料:大人35セント 小人10セント




「マンモス・エアショー」

特別出演;ウィリー’自殺’ジョーンズ
世界記録に挑む 飛行機からのパラシュート降下


どちらも、バイクによるスタントを加えて飽きさせないよう
イベントを色々見せようとしている感じです。

最初にも書いたようにこの頃アメリカは大恐慌に見舞われていましたが、
ロスアンジェルスとシカゴの黒人飛行クラブは
観客を動員するエアショーを後援し開催させることができていたのです。

シカゴの名パラシューター、
ショーンシー・スペンサー


シカゴの黒人エアショーでパラシュートジャンプを決めた
ショーンシー・スペンサー(Shauncey Spencer)の勇姿。

スペンサーはシカゴで最も有名なバーンストーミングパイロットでした。



1939年、フロイド・ベネットフィールドで
シカゴからニューヨーク、ワシントンD.C.と飛ぶデモ飛行中のスペンサー。

スペンサーはこの時ワシントンD.C.で、当時
ミズーリ州の上院議員だったハリー・S・トルーマンや、
その他の政治指導者と会っています。

このことも、航空における人種差別に終止符を打つためでした。


スミソニアンにはスペンサーの飛行スーツとメガネ、
航空帽が展示されて今でも見ることができます。

これらの装備は、当時オープンコックピットの飛行機で飛行するために
必要不可欠なものでした。

ショーンシー・スペンサー(1906-2002)
バージニア州リンチバーグに生まれたアフリカ系アメリカ人の飛行家です。

母親はハーレムルネッサンスの詩人アン・スペンサーでした。

スペンサーは11歳の時に初めて飛行機の飛行を見ました。

家族の友人で、再建後初の黒人下院議員であるオスカー・デ・プリーストは、
スペンサーにシカゴの彼の選挙区に移動して飛行訓練を受けることを提案し、
彼はアフリカ系の飛行士たちと全米飛行士協会(NAAA)を組織しました。

彼はシカゴのレストランの厨房で働きながら、
週給のほとんどを飛行訓練に充てていました。

その後、数人の仲間とともに旧式の飛行機を購入し、フライトを行います。

スペンサーとホワイトの飛行が黒人新聞に掲載されたことは、
第二次世界大戦前の民間人パイロット養成プログラムに
黒人を加えるよう議会を説得するための布石となったのです。


1939年、スペンサーが行った飛行は
民間と軍の航空界における人種平等を推進する一つのきっかけでした。



スミソニアンはなぜかデール・ホワイトとスペンサーが
鳥になって木に止まっているクリスマスカードを保存しています。

枝に止まっている本物の小鳥が『?』となっているのが可愛い。



そしてそのカードの中身です。
シカゴ-ワシントンD.C.フライトが書かれています。

1939
シカゴーオハイオークリーブランドーピッツバーグーニューヨーク
フィラデルフィアーボルチモアーワシントンD.C.ーバーモント
コロンバスーフォルテウェインーシカゴ


「つがいの『鳥』が飛び回っています・・
地上で多くの時間を過ごしていますが、
風が変わり、陽気な季節がやってくると、私たちは囀ります

『メリークリスマス、そしてハッピーニューイヤー』

スペンサー ホワイト

・・・・・1940?

1940年にはまた別のフライトを予定していたのでしょうか。
詩的な言葉が、やはりなんというか、詩人を母に持つ息子っぽいですね。


続く。




大統領夫人を乗せて飛んだ黒人パイロット〜スミソニアン航空博物館

2022-10-17 | 飛行家列伝

飛行の黎明期、アメリカ大陸を航空機で横断することは、
航空の世界の一つの金字塔となりました。

初めて飛行機による大陸横断を成功させたのは、1911年、

カルブレイス・ロジャースCalbraith Perry Rodgers、
1879-1912

ライトフライヤーEX型を使用し、
ニューヨークからカリフォルニアまで総所要時間84日間、
実際の飛行時間は3日と10時間14分でした。

カルブレイス。この直後エアショーでバードストライクによる墜落死

アメリア・イヤハートは無着陸でアメリカ大陸を横断した最初の女性となり、
ジョン・グレンは初めて超音速機で大陸を横断したパイロットとなりました。

しかし、なぜかジェイムズ・ハーマン・バニングの名前は、
大陸横断を成し遂げた飛行士として大きく記されることはありません。

それはなぜか。

彼の記録が、「アフリカ系アメリカ人として初めて」
という特殊な注釈なしでは語れないからです。

■ ジェイムズ・H・バニング



1932年、黒人飛行士による初の大陸横断飛行を成功させたのは、
優秀なバーンストーマー(アクロバットパイロット)であった
ジェイムズ・ハーマン・バニングと、彼のメカニック、
トーマス・アレンで、飛行時間は41時間27分でした。

ロサンゼルスからニューヨークまで飛行したバニングは、
黒人パイロットとして初めての記録を樹立し、
後に続く他の黒人航空記録達成者への道を開いた飛行家と称されています。


バニングとメカニックのアレン

バニングは1932年、アレクサンダー・イーグルロック複葉機で、
メカニックのトーマス・C・アレンと最初の大陸横断飛行を行いました。

この歴史的な挑戦は、黒人飛行士によって行われる
一連の長距離飛行につながっていくことになります。

長距離飛行は、アフリカ系アメリカ人パイロットが
その飛行技術を披露するための劇的な方法となりました。

当時何人かのアフリカ系パイロットが長距離飛行を行いました。
バニングらはその飛行実績をもとに、アフリカ系アメリカ人の社会において
航空への進出を盛り上げるための道作りをしたといえるかもしれません。

彼ら黒人パイロットがこうやって飛行に成功するたびに、
その技量が白人に全く引けを取らないことが証明されることになります。

そして、航空は人種に関係なく、すべての人に対して
平等に開かれたものであるべきだという考えが広まっていきました。


飛行機はアレンと共に余剰部品(スクラップ)を集めて作ったものです。

横断飛行の時に財政的支援を募らなくてはいけなかったので、
彼らは「フライング・ホーボーズ」(空飛ぶ浮浪者)
と屈辱的なあだ名で呼ばれていました。

ものもらい、という意味だったのでしょうか。
彼ら的にはオッケー・・・じゃなかっただろうなきっと。

実際、彼らは一つのフライトが終わって、次のフライトを計画しても、
その度に資金の調達に走り回らなければならなかったため、
フライトとフライトの間には最低でも21日間が必要だったといいます。


バニングは、いわゆる「航空の黄金時代」に多感な時期を過ごし、
空に憧れた「フライボーイ」の一人でした。

■バニングはなぜ墜落死したのか



「ミス・エイムズ」というのがバニングの愛機の名前です。
機体には「バニングと共に飛ぶ」と、飛行機が擬人化された文句が。
この写真は1929年、アイオワで撮られたものです。

バニングは史上最初の黒人飛行士としてライセンスを取ったうちの一人でした。

アイオワ州立大学でエンジニアリングを学んだ後、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」創設者の
(前項でお話しした)ウィリアム・パウエルとロスアンジェルスで会い、
一緒に活動を始めました。

しかしながら、歴史的な飛行からわずか4か月後の1933年2月5日、
サンディエゴのキャンプ・カーニー軍事基地で行われた航空ショー中、
ジェイムズ・バニングは飛行機事故で死亡しました。

その事故には、微妙に人種問題がまつわっていて、
実に後味の悪いものになっています。


バニングは、そのショーで、二人乗りの複葉機を使用する予定でしたが、
エアテック飛行学校の教官が、彼の飛行機の使用を拒否したため、
仕方なく、バニングは海軍機械工兵二等航海士、
アルバート・バーガート(もちろん白人)
が操縦を行い、
自分は横に乗ることしか許されませんでした。

この「拒否」の理由は少なくとも見当たりませんでしたが、
どこにも説明がないということは、白人の教官の拒否の理由はただ一つ、
彼がアフリカ系であったことしかないでしょう。

当時はそれが許されるというか、もしそうしたとしても
何ら咎め立てされるような社会ではなかったのです。

彼が操縦しないなら、何のための航空ショーかという気がするのですが、
操縦席に座れないのならば、助手席に乗って飛ぶしかありません。

おそらく航空ショーには金銭がからむので、
そんなら俺は飛ばねえ!と拒否することもできなかったのかもしれません。

おそらく、彼は助手席から主操縦席のバーガード二等兵に
自分がやっているマニューバに従い飛行指示を出したのでしょう。

ショーが始まり、飛行機は離陸して400フィート上昇した後、
失速して回復不可能なテールスピンを起こし、墜落していきました。

この惨劇を目の当たりにした何百人もの観客が
恐怖のどん底に陥ったことは言うまでもありません。
バニングは残骸から回収され、1時間後に地元の病院で死亡しました。

人種偏見から、黒人が操縦することを禁止した教官によって、
無理やり操縦桿を握らせられた(であろう)バーガードも亡くなりました。

この人にとってもとんだとばっちりですが、
この事故の責任は果たして誰が取ったのでしょうか。
誰もとらなかったんだろうな。

直接事故を起こしたのも白人だし、
事故の原因を作ったのも白人でしたから。



■ アルフレッド・アンダーソン


ローレンス・フィッシュバーンが主人公を演じた、
黒人ばかりの戦闘機部隊「タスキーギ・エアメン」を描いた映画、
「レッドテイルズ」で、フィッシュバーンの飛行機に
視察にきたルーズベルト大統領夫人エレノアが無理やり乗り込んで
操縦させてご満悦、と言うシーンがあったのを覚えていますか。

その実際の逸話で飛行機を操縦したのが、
タスキーギ・エアメンのC・アルフレッド・アンダーソンでした。


アンダーソン(左)とフォーサイス

フィラデルフィア出身のC・アルフレッド・アンダーソンは、
1930年代でおそらくは最も才能のある黒人飛行士の一人でした。

彼は、ニュージャージー州アトランティックシティの医師であった
アルバート・E・フォーサイスとチームを組みました。

パイロットとしての技術はアンダーソン、財政的支援はフォーサイスの担当。

このタッグによって、彼らはバニング-アダムスのように
「フライング・ホーボー」とならずに済んだと言うわけです。

そして彼らは長距離飛行記録の樹立によって名前を上げました。

この頃の黒人飛行士たちは、先駆者として
アフリカ系アメリカ人コミュニティで航空の関心と、
裾野を広げるなどの動きを促進するために意識して
こういった「派手な」フライトにあえて挑戦していました。

■ ザ・グッドウィル・フライト

「飛行の黄金時代」であった1920年代、30年代のキーワードの一つは
「ロング・ディスタンス・フライト」でした。

そして、大陸や海を横断する長距離飛行など、多くの挑戦が生まれます。



たとえばこの航路ですが、フロリダのマイアミからカリブの島伝いに
キューバ、ジャマイカ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、
そしてスペイン領トリニダードからブラジルへと飛ぶコース。

誰も行ったことがないコースを飛び、成功させ、名を挙げることが
当時の飛行家たちの夢となったのです。

アンダーソンとフォーサイスは、1933年、まず大陸横断飛行を成功させ、
次いで、1934年に、上のカリブ海航路を飛ぶことに挑戦しました。


バハマ到着後、現地知事の歓迎を受ける二人

このときの飛行は「The Goodwill Flight」と呼ばれました。


ここにすでに「南アメリカグッドウィルフライト」の文字が見えますが、
グッドウィルの意味を図りかねていたわたしも、これを見て気づきました。

「グッドウィル」は、フライトのスポンサーとなった

「インターレイシャル・グッドウィル航空」

のことだったんですね。納得。

さて、グッドウィル・フライトの目標は、
黒人飛行士のスキルを世界に示すこと。
そして人種への理解を深めることでした。

グッドウィル・フライトは最初ということもあってスリル満ちていました。
その頃バハマには陸上飛行機用の空港がなく、夜間到着した彼らは
自動車のヘッドライトに照らされた未舗装の道路に着陸を行いました。

しかし、彼らは冷静かつ大胆な操縦でそれを成功させたため、
地元にはセンセーションを巻き起こし、大きく報道されました。

彼らの目的は十二分に達成されたと言っていいでしょう。


黒人として初めて民間航空局で航空運送事業の免許を取得した彼は、
その後結婚して家庭を築きながら飛行の仕事をしていましたが、
黒人医師であるパイロットのアルバート・フォーサイス博士と出会い、
一緒に黒人による航空の世界への進出を切り拓く夢を共有します。

この免許は、彼がタスキーギ・エアメンに入隊する前、
ハワード大学の民間操縦プログラムで飛行教官をしていた時のものです。


大陸横断飛行に挑戦中、カンサス州ウィチタで飛行機を降り、
地図を見ているフォーサイス医師とアンダーソン。

遠くから見ても、どちらがフォーサイスかよくわかりますね。
というか、飛行機に乗るのにスーツにネクタイって。

右下の封筒は、彼らのクロスカントリー飛行の記念です。
ニューアークから故郷に宛てて出したもののようです。


ロスアンジェルスに到着し、アトランティックシティに戻るため
飛行機に乗り込むスーツ姿のアンダーソンとフォーサイス。

飛行機の状態は、白黒写真でも大変手入れが行き届いていており、
彼らの飛行が資金の調達を潤滑に行っていたことが見て取れます。

彼らの使用したランバート・モノクープは、洗練された、
かつ信頼性の大変高い民間航空機で、彼らはさらにそれを証明しました。

アンダーソンとフォーサイスは、ナッソーに飛んで、そこで
先ほどのような空港のない島に着陸することに成功しています。

■アンダーソンとフォーサイスのその後

アンダーソンはその後黒人ばかりを集めた陸軍の航空プログラムに採用され、
飛行教官のチーフを担当することになります。
彼のニックネーム「チーフ」はこの頃の呼び名が定着したものです。


大統領夫人エレノア・ルーズベルトを乗せたのもこの頃です。
せっかくですので、繰り返しになりますが、経緯を書いておきます。

1941年4月11日、その日エレノア・ルーズベルト大統領夫人は
アラバマ州のタスキーギ研究所にあった小児科病院を視察していました。

何気なく窓の外を見た彼女はそこに飛行機が飛んでいるのに気づき、
チーフ・インストラクターに会いたいといきなり言い出しました。

そのインストラクターこそがアンダーソンだったわけですが、おばちゃん、
失礼にもアンダーソンに向かって、

「有色人種は飛行機の操縦なんてできないと聞いていたけれど、
この人は飛べそうじゃないの」

と言い出し、慌てる周囲を尻目に

「あなたと一緒に飛んでみたいわ 」

とさらにとんでもないことを言い出すではありませんか。

アテンドの陸軍軍人たちも警護も畏れながらと異議を申し立てましたが、
言い出したおばちゃんはもちろんのこと、
アンダーソンもファーストレディの申し出を断ろうとはしませんでした。

40分後、空から戻ってきた乗客は、

「Well I see you can fly, all right!」
(なんだ、飛べるじゃないのあんた)

と軽〜く言い放ったと伝えられます。

この時の事件は「歴史を変えたフライト」として知られています。

なぜなら、黒人はまだその時点で陸軍航空隊で飛行したことがありません。
ルーズベルト政権は、黒人のパイロットを養成できるかどうかを
タスキーギ飛行士を使っていわば実験を始めたばかりだったからです。

この時の彼女のおばちゃん的行動とその結果が、たまたまだったのか、
それとも実は仕組まれたもので、彼女は最初からそうするつもりだったのか。

もっと深読みすれば、もしかしたらアンダーソンもその整備士も、
薄々それを何処かから聞かされていたという可能性もありますが、
まあ、今はそこまで勘繰るのはよしにしましょう。

いずれにせよ、タスキーギ・エアメンの実戦投入への過程において、
大統領夫人の気まぐれ体験が追い風になったのは間違いありません。

アンダーソンはその後、教官として、のちに黒人で将軍にまでなる
ベンジャミン・O・デイビスJr.ダニエル・"チャッピー"・ジェームズsr.
といった有名な軍用航空のパイオニアたちを訓練することになります。

アンダーソンは戦後もタスキギーで教官を行い、
多くの黒人のみならず白人の航空要員を育て上げました。

1967年には、世界で最も古いアフリカ系パイロット組織である非営利団体
「Negro Airmen International(NAI)」を共同設立し、
後進の育成に尽力しています。

アンダーソンは1996年タスキギーで静かに息を引き取りました。

生前、自分の業績に対して何の名声、評価、富をも求めず、
民間・軍人を問わず何千人ものパイロットの人生に影響を与え続けました。

フォーサイス博士はアンダーソンとのグッドウィルフライトの後、
本業に専念したのか、航空業界の一線からは姿を消しましたが、
妻となった看護師のフランシス・T・チュウは、彼の歴史的偉業を
後世に残すべく、1989年の彼の死後も尽力しました。



セントルイスのランバート国際空港には、歴代の黒人飛行家を描いた
「Black Americans in Flight」があります。



この一番左端には、バニングとベッシー・コールマン、
そして肩を組むアンダーソンとフォーサイス博士の姿が描かれています。



続く。


ブラック・ウィングス「パス・ファインダー」〜スミソニアン航空博物館

2022-10-15 | 飛行家列伝

スミソニアンの「ミリタリー・ウィングス」のコーナーにある
とても印象的な版画です。



「ラウンデル」と呼ばれる、イギリス空軍のマークを翼にあしらった
航空機のパイロットが愛機のプロペラの向こうに見る美しい女性。

彼女は果たして彼の空戦を勝利に導く女神なのか、それとも
彼の運命そのものを見守る死の天使なのか・・・。



と言うわけで、今回取り上げるのは、まだ人種差別が行われていたアメリカで
パイロットとなったアフリカ系アメリカ人の記録です。

「ブラック・ウィングス」と言う言葉はこれまでにも何度か
アメリカの航空博物館の展示をご紹介する過程でこのブログでも使いました。

内容も、取り上げる人物も重複することは避けられないのですが、
そこは「スミソニアンでの展示」という違う視点をお楽しみください。




飛行機の発明は、現代の技術に革命を引き起こしました。
大衆の心の中で、新しい航空時代は冒険とヒロイズムに結びついていきます。

アフリカ系アメリカ人は飛行に対する熱意を幅広く共有しましたが、
当時のアメリカではパイロットや整備士としての訓練を行うにも
その導入の段階で拒否されると言うのが通常でした。

1920年代以降、少数の固い決意を持った空を愛する黒人たちが
人種差別に異議を唱えました。

白人でも簡単なことではなかった当時の航空界。

その並ならぬ困難と障害にもかかわらず、彼らは空を飛ぶと言う夢を
決して諦めず、それを実現させていったのです。


モニターにちょうど映し出されている航空機は、
イタリア戦線に出撃した第332戦闘機群のP-51マスタング。
当時最新鋭とされた戦闘機です。

第332戦闘機群は、通称「タスキーギ・エアメン」と呼ばれた
黒人パイロットで構成されていました。

このパネルでは、ここからブラックウィングスの展示が始まることを
予告しており、6名の名前が記されています。

ベッシー・コールマン

ウィリアム・J・パウエルJr.

ジェイムズ・ハーマン・バニング

コルネリウス・コフェイ

ノエル・F・パリッシュ

ベンジャミン・O・デイビスJr.



ここの説明によると、「初期のパイオニア」は
アフリカ系女性として初めてパイロットになったベッシー・コールマン

彼女以降、同族の航空愛好家が増えていくことになります。
ウィリアム・パウエルJr.は「ブラック・ウィングス」の著者です。

彼は飛行家としてロスアンゼルスで飛行クラブを組織しました。

またジェームズ・ハーマン・バンニング
C・アルフレッド・アンダーソンとアルバート・E・フォーサイス
長距離飛行で記録を樹立する飛行家になりました。

コルネリウス・コフェイは、シカゴに黒人飛行士のための
新しいセンターを設立するという働きをしています。

それでは最初に、このパネルの横に立っている
革コート、革ブーツに皮のヘルメットといういでたちの女性、
ベッシー・コールマンからでご紹介しましょう。

■ベッシー・コールマン
「初のアフリカ系女性パイロット」


「The Pathfinder」パスファインダーは「道を切り拓く人」、
または開拓者という意味があります。
彼女のタイトルには敬意を込めてこの言葉が掲げられています。

コールマンは1920年代の航空ショーで、
バーンストーミング(barnstorming)パイロットとして活躍し、
人種偏見の逆風に逆らって飛び続けました。

バーンストーミングとは、チャールズ・リンドバーグの時に説明しましたが、
つまりエアショーなどで技を披露するアクロバット飛行パイロットです。

1920年代という、彼女の人種と性別に最も不利だった時代に、
彼女は誰よりも早く地位をベンチマークすることに成功しました。

バーンストーマーとして認められた彼女は国内をツァーで周り、
全米の航空ショーで曲技飛行を行いました。

しかし、彼女の飛行キャリアは短命でした。

1926年、彼女は飛行機事故によって34歳で亡くなりましたが、
その事故の様子は次のとおりです。

「1926年4月30日、フロリダ州ジャクソンビル。
彼女はカーチスJN-4(ジェニー)をダラスで購入したばかりで、
彼女の整備士ウィルズはダラスから飛行機を飛ばしたが、
整備不良のため、途中で3回強制着陸をしなければならなかった。

関係者は彼女にこの飛行機に乗ることを危険だと忠告したが、
彼女は拒否し、整備士の操縦する機のコクピットに乗り、離陸した。

彼女は翌日にパラシュートジャンプを計画しており、
コックピットから見える地形を調べようと思っていたのである。

離陸から約10分後、飛行機は地上1000mで不意に急降下し、その後スピン。
コールマンは610mの高さで機体から投げ出され、地面に激突して即死。

ウィルズは機体の制御を取り戻すことができず、地面に落下し死亡。
飛行機は爆発し、炎に包まれた。

後にエンジンの整備に使ったレンチが操縦桿を詰まらせたことが判明した。
葬儀はフロリダで行われた後、彼女の遺体はシカゴに送られた。」

彼女が死亡したのは、チャールズ・リンドバーグ
「スピリット・オブ・セントルイス」で歴史的な大西洋横断を行う
わずか一年前のことでした。

活動期間はわずか5年だけだったにもかかわらず、
彼女は最初のアフリカ系アメリカ人女性の才能ある飛行家として、
同じアフリカ系のコミュニティにとっては、航空界でのキャリアを模索する
ロールモデルとなり、永続的な一つのシンボルとなったのです。


フランスで取得したベッシーコールマンの航空ライセンス

彼女がフランスのコードロン・ブラザーズ航空スクール
国際的に認可されたパイロット免許を取得したのは1921年6月15日です。

免許には航空帽に航空眼鏡をつけ、パイロット姿の彼女の写真の下に
彼女自身のサインがされています。

彼女がフランスにわざわざ行かねばならなかった意味がお分かりでしょうか。

それはもちろん、彼女の人種と性別にその理由がありました。
当時のアメリカではアフリカ系の女性を受け入れる
航空の訓練施設はまずあり得なかったのです。

そこで彼女はまずフランス語の読み書きを勉強することから始め、
フランスに渡ってパイロットの国際免許を取得して、
それでアメリカ国内を飛行する手段を得ることを選んだのです。


説明はありませんが、おそらくこれは
フランスの航空学校の学生証というものではないかと思われます。
まだ学校に入る前なので、航空とは無縁の服装で写っていますが、
その表情も気のせいかかなり不安そうで自信なげに見えます。

学校に入って翌年、彼女は見事ライセンスを取得しました。
結果、彼女は男女問わず、史上初めて認可された
アフリカ系アメリカ人パイロット
になりました。



しかしいくら彼女自身にガッツがあっても、フランスへの旅費や
学校の授業代、生活費など、アフリカ系の若い女性が
どうやって用意することができたのでしょうか。

ネイリストだった彼女は、第一次世界大戦から帰還した航空兵から
戦時中の飛行の話を聞き、すっかり空に魅惑されました。
そこでパイロットになることを決意した彼女は、レストランで働き、
マネージャーにまでなって必死でお金を貯めたのです。

彼女を支援したのは、まずアフリカ系の弁護士で、
「シカゴ・ディフェンダー」紙(現在もオンライン配信で継続中)の創立者、
ロバート・S・アボットで、彼女に留学を勧めたのもこの人です。

そしてやはりアフリカ系の銀行家、ジェシー・ビンガ(多分写真の人)
とディフェンダー紙などが金銭的な支援を行いました。

いわば彼女はアフリカ系の希望の星として、フランスに発ったのです。
自分を応援するコミュニティのためにも、猛烈に勉強したのでしょう。


1922年9月4日、ロングアイランドのカ=ティス・フィールドで、
エアショー終了後、彼女にブーケを渡すのは、
エディソン・C・マクヴェイ(Edison C. McVey)
というアフリカ系のスタントパイロットだった人です。



シカゴに当時あった「エリートサークル」(なんて名前だ)と、
「ガールズ・デルーズ・クラブ」が、コールマンに敬意を表して
「エアリアル・フロリック」(空中散歩)の出資を行いました。

彼女はこんな風に航空を目指したその動機を語っています。

「空は偏見のない唯一の場所です。

アフリカ系の男性にも女性にも飛行士がいないのを知っていたので
この最も重要な分野で人種を代表する必要があると思いました。

だから、命をかけて航空を学ぶことが、私の義務だと考えました」


■「ザ・ビジョナリー」〜ウィリアム・J・パウエルJr.



The visionaryとは、「先見の明」とでも言いましょうか。
先を見通す目、またそれを持つ人という感じです。

ウィリアム・J・パウエルJr.(William J. Powell Jr.)

は、初めて「ブラック・ウィングス」という言葉を世に生んだ人です。
彼はアフリカ系がパイロットや整備士としてこの航空の時代に
あるべき場所を見つけることができる世界を夢見ていました。

それこそが、彼のブラック・ウィングスというビジョンそのものでした。



これはいわゆる販促用リーフレットとでもいうもので、
「Black Wings」の発行を宣伝しています。

パウエルJr.は黒人が飛行を行う能力を欠いているという決めつけを
永遠に終わらせるため、若いアフリカ系アメリカ人の若者を
航空業界に採用させることを目標にしました。

「黒人のための100万の仕事」

ブラックウィングスを読む

黒人は南部で分離されて鉄道やバスに乗ることを止めるつもりか?

ブラックウィングスを読む

黒人は飛ぶことを恐れているか?

ブラックウィングスを読む

なぜごく少数の黒人しか産業やビジネス界に携われないのか?

ブラックウィングスを読む

こんな感じの宣伝です。



これがその「ブラックウィングス」実物。
扉裏にはベッシー・コールマンの写真が。


パウエルJr.は、1920年代、ロスアンゼルスにおいて
黒人ばかりの航空愛好家の小さなコミュニティを設立し、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」
と名付けます。

そして最初の黒人によるエアショーを後援しました。

彼はアフリカ系がパイロット、メカニック、あるいはビジネスリーダーとして
航空の世界に参加していくことを目標に、運動を行います。

その一つが、「ブラック・ウィングス」と題された本を出版することであり、
ドキュメンタリー映画を制作するなどの広報活動を通じて
アフリカ系アメリカ人の若者を航空の世界で羽ばたかせるために
弛まぬ努力を続けました。

当時は大恐慌で経済的に困難な時期だったのにもかかわらず、
パウエルは航空を志す者のための奨学金の基金を作り上げました。



パウエルがアフリカ系コミュニティ内の航空への進出を促進するために
1930年代後半に発行した「クラフツメン・エアロニュース」

この雑誌では、黒人航空愛好家を対象に、パイロットや整備士を育成する
訓練の機会についての最新のニュース、メカニックに関する記事、
そしてさまざまな通知や情報などを提供しました。



空の世界を夢見る黒人少年の図。

多くのアフリカ系アメリカ人の若者はパイロットや整備士を志し、
航空に対して憧れと熱意を持っていました。

これはクラフツマン・エアロニュースに掲載された挿絵です。

■ 黒人ばかりの航空映画「フライングエース」


1927年には大変希少な、全てアフリカ系キャストによる航空映画、

「The Flying Ace」

は、陸軍航空部隊を背景にしたメロドラマです。
ポスターには「オールカラードキャスト」
(全て有色人種による出演)
となっているのが異様な感じです。



本作は、リチャード・E・ノーマン監督がアフリカ系キャストだけで製作した
1926年の白黒サイレントドラマです。

本作のように、アフリカ系観客のために黒人キャストだけで撮った映画を
「人種映画」(race films)と呼びます。
ノーマン・スタジオはこの時代多数の人種映画を制作しています。

黒人映画の市場は未開拓な上、本流で仕事がもらえない
才能ある黒人パフォーマーが多数いたことで需要と供給が成り立ちました。

ストーリーは、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
主人公のストークス大尉(ローレンス・クライナー)が帰国し、
故郷で鉄道警察という戦前の仕事に戻って、活躍する中で、
駅長の娘ルース(キャサリン・ボイド)が飛行機で攫われたり、
ストークスがそれを助けたりして、最後は恋を打ち明けるというものです。

ちなみにヒロインのルースという役柄は、女性パイロットで、
ベッシー・コールマンをゆるーくモデルにしています。

自分をモデルにした映画が撮られることを知っていたコールマンは、
ぜひ映画に出演したいと制作元に希望を表明していたのですが、前述の通り、
1926年4月30日に航空機から落ちて命を落としてしまいました。

この頃の「レース・フィルム」で現存するのは本作ただ一つであるため、
現在でも無声映画祭や映画館でも上映が繰り返されており、
さらについ最近となる2021年には、

「文化的、歴史的、また美学的に価値がある」

として、アメリカ議会図書館によって国立映画レジストリに保存されるよう
選定されたばかりだそうです。

The Flying Ace (Norman, 1926) — High Quality 1080p


高画質の本作フィルムがYouTubeで見られることがわかりました。
全部は無理でも、一部雰囲気だけでもぜひご覧になってください。

攫われたルースの救出方法が、別の飛行機から縄梯をおろし、
それを登らせて脱出させるというのも非現実的ですが、
これは実際に飛行機を飛ばして撮影していないのでできることです。

また女性のヘアスタイルが、当時最新流行の「フラッパーヘア」なのに注目。
黒人女性もフラッパーにしてたんですね。




映画といえば、パウエルJr.は1935年、ドキュメンタリーフィルム
「ベッシ・コールマン・フライングクラブ」の制作もおこなっています。

映像には、フライングクラブに所属した黒人フライヤーたちが総出演。


アメリカ人であればおそらく誰でも知っている(と思う)、
「褐色の爆撃機」(The Brown Bomber)こと、
史上二人目の黒人ヘビー級ボクシングチャンピオン、
ジョー・ルイス(左)夫妻が、
1938年パウエルJr.の航空教室を訪れた時の写真です。

パウェルJr.は大変宣伝上手で、飛行クラブを有名にするために
こうやって他にもデューク・エリントンなどを招待し、宣伝を行いました。

■ パウェルJr.という人

アフリカ系アメリカ人のパイロット、エンジニア、企業家である
ウィリアム・パウエルが若かった1934年当時、米国では
パイロット18,041人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか12人、
整備士8,651人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか2人だったそうです。

しかも航空会社はアフリカ系を乗客として認めませんでした。

パウエルはこの状況を変えようと、飛行の黄金時代(1920年代と1930年代)
高い意志を抱いて活動しましたが、早世し、
航空業界のパイオニアとしてのキャリアを閉じることになります。

パウエルは1897年シカゴの中流アフリカ系アメリカ人居住区で育ち、
イリノイ大学で電気工学の学位取得を目指す優秀な学生でしたが、
第一次世界大戦が勃発します。
彼はアメリカ陸軍に入隊し、人種隔離された第317工兵連隊、
そして第365歩兵連隊に中尉として従軍しました。

戦地で毒ガスを浴び帰国し、工学の学位を取得しています。

第一次世界大戦中、アメリカ陸軍の軍服とロングコートを着用した
ウィリアム・J・パウエル。

卒業後、彼はシカゴでガソリンスタンドや自動車部品店を持ち、
成功する傍ら、やはりリンドバーグに夢中になり、
空を飛ぶことを夢見てパイロットになることを目指します。

しかし、それは簡単なことではありませんでした。

飛行学校では、人種を理由に断られ、陸軍航空隊にも断られ、
ようやくロサンゼルスの多国籍学生のための飛行学校で
パイロット免許を取得することに成功します。

しかし彼の夢はパイロットになることだけではなく、
アフリカ系アメリカ人のために航空業界の機会を作ること。

彼は飛行機事故で亡くなったベッシー・コールマンに敬意を表して、
「ベッシー・コールマン・エアロクラブ」を創設し、1931年に初めて
アフリカ系パイロットによる初航空ショーを開催し成功させました。


パウエルの『ブラック・ウィングス』は、パウエル自身が、
また他のアフリカ系アメリカ人がパイロットになるまでの苦闘を、
ビル・ブラウンという架空の人物の目を通して描いた自伝です。

彼は、アフリカ系アメリカ人の若者たちに、

「空中を黒い翼で埋め尽くそう」

と呼びかけ、パイロットだけでなく、飛行機の整備士、航空技術者、
航空機設計者、そして産業界のビジネスマンになるよう奨励しました。

パウエルは、空はアフリカ系アメリカ人の若者にとって
新しいチャンスに満ちていると確信していたのです。

その理由は、航空はちょうど成長期を迎えており、
まだあまり人がいない今のうちに参入すれば、航空の成長とともに
黒人たちも成長することができるからというものでした。

しかし、彼は1942年、わずか45歳で早世しました。
第一次世界大戦で毒ガスを浴びた後遺症
のためとも言われています。

しかし彼は、何百人ものアフリカ系アメリカ人が
航空界に参入する道を最初に切り開いたのです。

彼の死後も黒人差別は全くなくなりはしませんでしたが、
タスキーギ・エアメンと呼ばれる黒人飛行士が
第二次世界大戦で活躍するのを、彼は死ぬ前に目撃したことでしょう。

続く。