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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

タウホレッター(潜水艦水中脱出ラング)〜シカゴ技術産業博物館 U-505展示

2023-05-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回に引き続き、アメリカ軍が収得した
捕獲潜水艦U-505の捕虜たちの持ち物シリーズです。


グッズの背景になっているのは捕虜になったU-505の乗員たちです。

彼らが捕虜になったとき、爆破沈没したはずの潜水艦が
確保されてしまったとはまだ知らされていなかったと思います。

とりあえずは死なずに済んだ、と言う気持ちと捕虜になっちまった、
という状況で全員(´・ω・`)としていますが、シャワーを浴びて髭を剃り、
もしかしたら散髪もしてもらったのか、こざっぱりしていますね。


こちらもU-505乗員たちで、たぶん散髪髭剃りしてもらう前

全員白いシャツにズボンという同じスタイルです。
これは駆逐艦の甲板上でしょうか。

それでは展示品の説明をしていきます。

■ エスケープ・ラング



アメリカ海軍の「モムセン・ラング」について説明したことがありますが、
さすがはドイツ海軍、ちゃんと潜水艦からの脱出用に、この

「タウホレッター Tauchretter」=水中脱出肺

を緊急呼吸装置兼救命具として開発し、搭載していました。
仕組みとしてはモムセン・ラングと同様、
ユーザーの呼気を濾過して再循環させる仕組みでした。


バッグの中にある小さな酸素ボトルは、
救命具のように肺を膨らませ、呼吸用の空気を供給しました。

水深やユーザーの呼吸の強さにもよりますが、
エスケープラングは5分から2時間(幅大きすぎ)使用できました。

U-505の乗組員が脱出するときに多くが装着していたということです。

「ダイビング」

というと、特に日本語では水中に潜る意味ですが、20世紀半ば頃までは、
「呼吸できない空間にいる」という意味もありました。

たとえば1900年頃、消防士用の空気供給装置付き水冷式防火ボンネットは
「ファイヤーダイバー」と呼ばれ、1940年代にも、
呼吸装置を装着した人は「ガスダイバー」と呼ばれていたのもこれが語源です。

このような呼吸器から発展したのが、潜水救助器具であり、
鉱山など、陸上でも使用されるようになりましたが、
それらは水中での空気供給という役割に絞られてきます。

その仕組みについてもう一度説明しておきます。

通常の呼吸をする空気には、21%の酸素が含まれています。
一回の呼吸で、吸った空気から約4%の酸素が抜け、
それに見合う量の二酸化炭素(CO2)が吐き出されます。

原理的には、一定量の空気を酸素がなくなるまで
何度も「呼吸」することができるということになりますが、
吐き出された二酸化炭素は空気中に蓄積されていきます。

健康な生体は、血液中のCO2含有量を「測定」して
呼吸をコントロールしているため、
呼吸した空気中のCO2含有量がすぐに増えると、
まず耐え難いほどの息苦しさを感じるようになります。

また、吸入した空気中の二酸化炭素が多すぎると、5%以上で意識障害、
8%以上で長期的な意識混濁に次ぐ死亡という生理的な危険性が生じます。

そのため、空気中の二酸化炭素を呼吸回路から除去する必要があります。

そこでどうするかというと、呼気をソーダ石灰に流し、
CO2を水酸化ナトリウムと結合させ、さらに水酸化カルシウムで再生します。


かつてダイビングのライフセーバーには、
他の水酸化物とともに生焼けの石灰(CaO)が使用されていました。

これはCO2と直接結合して炭酸カルシウム(CaCO3)を生成し、
多くの熱を発生させて水中の冷却を打ち消す役目をします。
しかし、これだと浸透した水が生石灰と非常に激しく反応し、
肺に重度の火傷を負う危険性もありました。

また、生石灰は気づかないうちに水分と結合し、消石灰となり、
それだけではCO2を素早く結合することができません。

そこでCO2結合で失われた空気量は、酸素の添加で補う方法が取られました。

また、呼吸する空気中のCO2を化学反応で結合させ、
同時にO2を放出する物質も潜水救助器具に採用されています。

器具使用時は、同じ空気を何度も吸ったり吐いたりしますが、
ソーダ石灰を入れたカートリッジと酸素供給により、
窒息することはありません。

口に咥えるマウスピースには、2本の短いチューブが取り付けられており、
1本のチューブは石灰のカートリッジに通じています。
ここで呼気中の空気からCO2が濾過されます。

残った空気は、さらに呼吸袋(対肺)に流れ込みます。
抽出されたCO2の量は、小型の高圧ボンベの酸素で置き換えられます。

ここで再び息を吸うと、空気は呼吸バッグから2番目のチューブを通って
マウスピースへと戻っていきます。

鼻呼吸を絶対にしてはいけないので、着用者はノーズクリップを装着します。


さて、この器具を潜水艦の救助に使用するときですが、どうするかというと、
もし緊急事態により、あなたが潜水艦から脱出する必要が生じた場合、
まず、可能であれば、船内の空気が水で圧縮され、
残った気泡の圧力が水深の圧力に対応するまで待たなければなりません。

したがって、潜水艦の出口シャフトの下端は、
ハッチを開けたときに空気が逃げないように、
「エア・トラップ」といって艦体の天井より低く設計されていました。

ちょっと待つと内圧と外圧が均一化されて
ハッチを開けられるので、乗組員は外に出ることができるのです。

ある作家が、この時の様子を下のように書き表しています。

事故が起きた直後、『潜水救助隊出動!』の号令で、
乗組員は救助器具を装備した・・・。

沈没艦からの脱出は、艦内の圧力差をなくすことで初めて可能となる。

そのためには艦内を満タンにする以外に方法はない。

クルーは深呼吸をして、「潜水救助」の呼吸器を口元に持っていき、
マウスピースのタップを開けて
ノーズクリップを装着する。

酸素ボンベのバルブを、呼吸袋が背中で膨らむまで開ける。
そして皇帝にまた『万歳!』を叫ぶ。

最後の救いの道が開く。
重い、怖いという人もいるが、こうするしかない。

バルブを緩めると、水がゴボゴボと音を立てながら部屋の中に上がってきて、
待っている人たちの足元を洗い、体を這い上がり、頭上で閉じていく。

その結果、どうなるのか?
救世主の酸素が彼らを支えているのだ。
しかし、光は消えてしまった。
手探りで、彼らの腕が触れ合う。


右手は酸素ボンベのバルブを握り、間隔をあけて栄養ガスを流入させる。
左手は圧縮空気ボンベのバルブを握り、装置内の圧力差を麻痺させる。

数分後、部屋は圧縮ガスの層を除いて水で一杯になる。
コンパニオンウェイが開かれ、ハッチから次々と人が出てくる......。

一人目の男はすぐに光に向かって上昇する。
「ダイビングセーバー」の中で膨張していた空気は、細かく組織され、
優れた実績を持つ圧力開放弁から泡を吹いて逃げ出す。

水深6mで5分間の休憩を挟み、光に照らされ、
救助の準備が整った仲間のもとへ昇ることができるのだ。

救助隊員は水面に浮き、垂直に泳ぐ姿勢になる。

安全に機能する脱着装置を使用することで、
泳いでいる人は呼吸装置から解放される。

.「潜水ライフセーバー」での救助は、
最高度の冷血さと規律が要求されることに疑いの余地はない.。


”ドイツ海軍の潜水救助器の歴史”

第一次世界大戦の少し前、軍事用の潜水艦が開発されると、
同時に事故が起きたときの救出方法も論じられるようになりました。

最初の試みでは単純な「呼吸袋」が使用されましたが、
この袋は浮力補助具としては有効でも、浮上する人が完全に上昇するのに
十分な酸素を賄うほどではありませんでした。

1903年からイギリスのSiebe Gorman社に勤務していた
Robert Henry DavisとHenry A. Fleussは、水中や鉱山で使用する
「ドージングバルブ」という再呼吸装置を開発しました。

1907年には高圧ボンベから酸素を供給し、
水酸化ナトリウムを含む中間カートリッジで二酸化炭素を同時に吸収する
という仕組みの潜水艦用救助装置が発明されています。

このドレーゲル・ダイブ・レスキューヤー
口腔呼吸器を通して浮上する人に約30分間酸素を供給しました。

ドレーゲル社(Dräger)の潜水救助器は、
キール湾での潜水艦SM U 3の沈没後、帝国海軍に救助装置として提供され、
1912年以降、ドイツの潜水艦で使用されることになります。

今現在も潜水器具を作り続けているドレーゲルHP

このときの救助具は、泳がずに浮上できるように浮力をつけられましたが、
その後発明された水中潜水用救助具はおもりを備えていたので、
潜って負傷者を捜索・救出することも可能でした。

時代は降って1939年以降、オーストリアの生物学者であり、
水中ダイビングの第一人者だったハンス・ハスは、
現在の標準的な浮力潜水具の前身となる潜水救助具を開発しました。



圧力容器には酸素や圧縮空気の代わりに入れられた適切な混合ガスが、
バルブで自動的に注入されることで、
より深い深度での潜水救助が可能になりました。

ハンス・ハス

その後、呼吸のたびに発生する二酸化炭素を吸収し、
消費された酸素を手動または自動で補給する酸素循環装置へと発展します。



第二次世界大戦時のドイツ製潜水救助器具の原型は、現在でも
レオパルド2戦車の河川潜水の緊急安全装置として使用されています。

■ エスケープ・ラング、その他



2)エスケープラング用ゴーグル

Uボートの乗員は、水中で潜水艦から脱出することを余儀なくされた場合、
脱出用のラングとゴーグルを着用しました。

この装置は、たとえば壊れた電気モーターのバッテリーから
有毒ガスが艦内に漏れたといった場合や、
潜水艦が浮上している間に海中で修理を行う場合に使われました。

U-505は、米軍に攻撃され捕獲されることになった最後の哨戒中、
魚雷発射管のドアが開いたまま動かなくなってしまったため、
このゴーグルを数回着用しています。

ゴーグルは小さ区折りたたんで脱出用のラングと共に
一緒に保管しておくのが決まりでした。

3)脱出用ラングマウスピースとノーズクリップ

ゴーグルの下の部品をご覧ください。
脱出ラングのノーズクリップは、鼻孔を挟んで閉じ、
マウスピースから息を吸ったり吐いたりしました。
我々が「常識として」よく知っていることですが、
アクアラングでは決して鼻呼吸は行いません。

バッグ内に仕込まれたアルカリカートリッジに接続された
マウスピースのホースを加えて呼吸を行います。

4)アルカリ・カートリッジ

蛇腹状のホースにつながっているのがアルカリカートリッジです。
炭素(C)を呼吸し、酸素(O2)をバッグに戻して再び吸入させることにより
呼気(CO2)をリサイクルしました。



5)エスケープラングエアボトル

一番上の瓶状のものです。

ゴムびきキャンバスバッグ内の圧縮酸素のボトルは、
必要に応じて使用者に追加の酸素を提供しました。

バッグから突き出た小さなハンドルにより、
使用者は空気の流れを調整することができました。

U-505が潜水しながら索敵活動を行なっている時、
乗組員は酸素を節約するために寝台に静かに横になり、
タウヒレッター(水中脱出ラング)を使用しながら
静かに器具で呼吸することを余儀なくされました。

6)クロージャー・スプリング

真ん中の金色のチューブです。

脱出用ラングのゴム張りのキャンバスバッグの底は、
バッグの端から滑り落ちる仕掛けの、
たいへん独創的なスプリングクリップで閉じられていました。

フィルターを交換したり、酸素ボンベを充電する時
取り外しができなければなりませんが、同時に、
機密性に十分な強度を備えている必要がありました。

このスプリングはその役目を果たす道具です。

7)アルカリ顆粒

シャーレの上の、葛粉のような白い粉はアルカリ顆粒です。

粒子は常に空気中の炭素を吸収するため、マウスピースのバルブを閉じて、
粒子がボートの大気にさらされるのを制限する必要がありました。

そうしないと、粒子がすぐに容量一杯になり、
使用者の呼気から炭素を引き出すことができなくなります。

■ 映画に登場した「タウホレッター」

Uボートの映画に登場した脱出ラング、タウホレッター出演シーンを
書き出してみました。

「Uボート(ダス・ブート)」

●艦内の火災を鎮火させた後換気をするために使う

●「幽霊ヨハン」がこれを使ってディーゼルエンジンの下への
水の侵入を食い止める

●チーフエンジニアが破壊されたバッテリーセルをバイパスした時
これを使っていた

●ジブラルタル沖280m深海で立ち往生した時、
寝台に横たわりながらダイビングレスキューを使い、
空気を節約して修理の時間を稼いだ

「Uボート最後の決断」

艦内で髄膜炎が蔓延したので残りの乗員が使用した

「U-47出撃せよ」

艦内での酸素節約のために使用
U-47は当時もっとも成功したUボートと評価されたが

1941年哨戒中に行方不明となり戦没認定された

「モルゲンロート」

沈没した潜水艦からの脱出に使われた

モルゲンロートは「朝」「赤」という意味で、
早朝に昇り始めた太陽の光に照らされて
山肌が赤く染まる現象をさす。登山用語。

日本未公開

「オオカミの呼び声-深海の決断」

沈没した潜水艦からの脱出に使われた

日本未公開

■ レザージャケットとショーツ



ウール&レザージャケット

ウール&レザーというよりこれはファッション用語的には
ムートンジャケットではないのか、と突っ込んでしまうわけですが、
このジャケット、このままのデザインでユニセックスに着用できますよね。

これが制服だったのかというと、それは微妙なところです。

映画「Uボート」も、アメリカ映画「Uボート最後の決断」でも、
ご覧になった方はご存知だと思いますが、
Uボート乗員に乗務中強制される服装規程はなく、
皆が好き勝手な格好をしていました。

また、映画では、それが各々のキャラクターを表す手段となっていました。

規定がなかった理由は、潜水艦の環境は基本劣悪で、
狭い艦内に男たちが詰め込まれるといったものだった関係で、
何を着るかなどということは、全く優先されなかったからと言われます。

一応海軍支給の制服はありましたが、乗員たちはそれに
セーターやジャケット、帽子などのアイテムを好きに着ていました。

このおしゃれなムートンジャケットですが、
こんな感じのアイテムは、大変持込み衣類として人気がありました。

基本ムートンは裏地付きですし、軽いし、水に強くておまけに暖かさは抜群。
おまけにこのデザインも現代に通用する優れものです。

このジャケットは、U-505の軍医、
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ローゼンマイヤー医師
潜水艦から脱出したときに着ていたものです。

ローゼンマイヤー医師はその後USS「シャトレーン」に救出され、
バミューダに他の乗員と共に移送されたわけですが、



バミューダでU-505の皆さんはこんな格好だったそうなので、
ムートンのジャケットはもう必要がなくなったのでしょう。

「シャトレーン」の乗組員、ロバート・ロルフグレン
おそらく何かと引き換えにお土産として手にいれ、持ち帰りました。

ショーツ(錨マーク入り)

Uボート勤務というと寒いイメージばかりを持ちがちですが、
西アフリカ沖で哨戒していたときは大変気温が高くて
Uボートの乗員艦上での日々の作業は不快指数マックスだったそうです。

作業中の乗組員の基本スタイルは、Tシャツ、短パン、デッキシューズ。

不快な暑さの中耐えられるようにできる限りの工夫をしていました。

先ほどの軍医は海に脱出するとき、温度差を考えて
一応ムートンのジャケットをわざわざ羽織ったのだと思いますが、
ほとんどの乗組員は、タスクグループに捕捉された時、
作業中であったことから、この格好をしていたということです。

紺色の短パンの裾に金色でアンカーのマーク入り。

これはおそらく海軍支給のものだと思いますが、
もともとはスポーツ用だったのではないかと思われます。


続く。



レコードと煙草、U-505の「戦利品」〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-28 | 博物館・資料館・テーマパーク
MSIのU-505関連展示より、前回に続き、
艦内から見つかったいわゆる「戦利品」についてです。

■ 徽章など


階級章

無線室や管制室で働く下士官が付けていた記章です。
錨のマークに「無線」を表す矢印があしらわれたデザイン。



16)名誉の負傷バッジ


Verwundeten -Abzeichen

アメリカ軍の「パープルハート」に相当する名誉バッジです。
ドイツ軍では傷の重症度に応じて、黒、銀、金がありました。
このバッジは赤ですが、黒を上から塗ってあります。
本人が塗ったのか、渡す側が物資不足のおり、急拵えしたのかは謎です。

また、これを持っているということは、海軍に入る前、
持ち主がヒットラーユーゲントにいた、ということを意味しているそうです。

17)無線オペレーターのパッチ

二つ重ねたVと「電気」を表す雷状矢印。

これはU-505の乗員が着用していたものですが、
彼はアメリカ軍のA.スピロフに、
タバコ一箱と引き換えにこれを渡したということです。

捕虜と接触したアメリカ人が戦利品を本人にねだる、という図は
相手が日本軍であった場合にも多々見られました。

18)認識票


小さな楕円形のIDディスク(認識票)は、大きなドッグタグ状。

給料明細書の裏表紙に取り付けられていたそうです。
給与を管理するために会計の方で預かっていたのでしょうか。

このタグの持ち主は、Ewald Thorwestenという人で、
タグそのものは半分で二つに折れる仕様であることがわかります。


19)ベルトバックル(左下)


裏側のフックを艦上で修理した跡があるそうです。
なぜ艦上でやったかわかるのかは謎ですが。

ドイツ第三帝国のワシのマークの周りに書かれている文字とその意味は、

「GOTT MIT UNS」=神は我々と共におられる

20)肩章


ナビゲーターのアルフレート・ライニッヒが着用していた肩章。

21)階級章

U-505コントロールルーム勤務の下士官が付けていた階級章。

■ バッジ



22, 23, 24)  銅製Uボートバッジ

Uボート乗員は、戦闘哨戒を一回完了すると、この

U-Bootskriegsabzeichen

Uボート哨戒バッジを受け取ることができました。


22と23のバッジは、銅でできており、
初期の高品質バージョンだということですが、
同じようにみえる24番の方は、板金から打ち抜かれたもので
鋳造されたものではありません。

戦争終盤にはドイツも物資不足に陥っていましたから、
特定の金属の希少性と、資源を節約していた懐事情が反映されています。

25)ドイツ軍掃海メダル

Kriegsabzeichen Fur Minesuch-
U-Bootsjagd und Sicherungsverbande

=掃海艇、対潜&補助護衛章



これらの護衛艦に乗務経験のあるものは、
Uボートに配置されるということになっていました。

26,27)Uボート乗員章(ブロンズ)

階級の上から順にゴールド、シルバー、ブロンズがありました。

モンブラン製万年筆


技術工業国ドイツは、万年筆のブランドを多く生み出しています。

このモンブランを筆頭に、ペリカン、ステッドラー、ファーバーカステル、
ロットリング、シュナイダー、ポルシェデザイン

これらすべてがドイツのブランドです。
(わたしはモンブランはスイスのメーカーだと思っていました)

この万年筆は、U-505の艦長だった、
ハラルト・ランゲ大佐のデスクから直々に略奪?されたということです。


【レコード】


映画「Uボート」でも、その他のアメリカ映画におけるUボートでも、
Uボート乗員というのは、レコードを聴いていたイメージがあります。

なぜなら実際潜水艦における大切なエンターテイメントは音楽でしたし、
アメリカ海軍でも、ある潜水艦87枚にはレコードが搭載されていた、
なんて話もあります(よっぽど音楽好きな艦長だったんでしょうか)

U-505で見つかったレコードのうち6枚が行進曲で、
残りはポピュラー音楽と軽クラシックでした。

上から:

A面)Schön ist die Nacht(美しきは夜)

Schön ist die Nacht - Rupert Glawitsch mit Schuricke Terzett - 1938

B面)Ganz leise die Nacht(静かに夜が近づく)

A面)Spanisher March(スペイン行進曲)

B面)Der Student geht vorbei(学生が通る)

A面)Tapfere,Kleine Soldatenfrau(勇敢な小さい兵士の妻)
Wilhelm Strienz - Tapfere, kleine Soldatenfrau

B面)Wenn im Tal ale Rosen Bluhn(谷間のバラ)

しかし、戦争中にUボートの乗員が聞いていた音楽を、
日本で、家にいながらクリック一つですぐに聞ける今の状況って。

あらためてすごい時代に生きてるなあと感じる今日この頃です。

■煙草

U-505からは大量のタバコが発見されました。

潜水艦でタバコを吸うときは、必ずブリッジで火をつける前に
上に許可を求めなくてはならない決まりがありました。

そのとき誰がブリッジでタバコを吸っているかは、
かならずチョークで黒板に名前を書いておくことになっていました。



33)ゴールドダラー煙草


ゴールドダラー。英語です。


タバコのパッケージには「最高のアメリカンスタイル」とあります。
アメリカのタバコは戦時中のドイツでさえ人気があったようですね。

アメリカスタイルを謳ったこの製品は、ハンブルグのタバコ会社、
アゼット・シガレット製造会社の商品です。

34)ヤン・マート煙草

「最高のオリエンタル風とヨーロピアンバージニアをブレンドした
最高のバージニア風味」


とありますがバージニアってもしかしてこれもアメリカの?

「ヤン・マートJan Maat」はドイツにおける船乗りを表す言葉です。

下)カモメ印煙草

Möveとは「カモメ」を意味します。
Uボート乗員の間で一般的だった銘柄です。
ドイツ占領下であったポーランドのクラクフで製造されています。



リームツマ(Reemtsma)R-6煙草

R-6というこのタバコは、大変「強い」ことで知られていました。

湿気の多いUボート艦内では、煙草を乾いた状態で保つのが困難だったため、
乗員たちはバラバラにしたタバコをブリキ缶に詰めて、
ハンダ付けして封をし、吸う直前に缶を切る努力を惜しみませんでした。



ニル煙草

ミュンヘンにあった「オーストリアタバコ工場」の製品です。
他のパッケージよりちょっと高級な感じがします。


オーバル4 ペンニッヒ煙草

パッケージにある「Pst!Feind hort mit」という警告は、
吸いすぎはあなたの健康を害する・・・ではなくて、

「静かにしてください。敵は常に聞いています」

防諜メッセージでした。



マッチ

左)セキュリティストームマッチ
風が強いなどの困難な状況でもつけられます、というのがまんま商品名。



右側の「モーレンルシファース」マッチは、
捕獲後のU-505の中で発見されたものです。

■ お金とお菓子



このフランス、ドイツコインは、
ダニエル・ギャラリー大佐が記念品として持ち帰ったものだそうです。
ドイツ統治下のフランス、ロリエントにはUボートの基地がありました。

紙幣は、所属パッチと引き換えにタバコをもらった通信士が、
やはりタバコ一箱と引き換えにスピロフに渡したものです。

よっぽどタバコが欲しかったんだねえ・・。

「グリコレード」チョコレート

グリコって、あのグリコと同じ意味ですかね。

チョコレートバーには0.2%のカフェインが含まれており、
長時間の見張り中のエネルギー補充にたいへん重宝されました。

ベルリン・テンペルホーフのサロッティ社製。


■ 救命艇の一部



このイラストに見覚えがあるでしょう?
Uボート乗員が脱出した一人用救命ボートの部分です。

なぜこんな状態で残っているかというと、
大物をゲットできなかったタスクグループのメンバーたちが
自分達もちょっとでも何か「お土産」が欲しいので、皆で話し合って、
救命艇を小さく小さく切り刻んで、そのパーツを持ち帰ったのです。

アメリカ兵の戦場での「記念品好き」は有名ですが、ここまでするか・・・。

しかしここでつい考えずにいられないのは、
切り刻まれた布切れのほんの一部は、たまたま持ち主が名乗りを上げて
ここに展示され、人々の目に留まることになったわけですが、
ほとんどの「切れ端」(特になんのマークもないような部分)は
おじいちゃんが大切に保管していなければ、どこかに紛れ込み、
本人が亡くなったあとは散逸してしまったに違いないということです。



続く。

戦利品人気ナンバーワン、ツァイス双眼鏡〜シカゴ技術産業博物館U-505展示

2023-04-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

捕獲したU-505からアメリカ軍の軍人たちが
無差別に「スーべニール」としてゲットした品シリーズ、続きです。

ここに展示されているのは、ケースの背景になっている写真のように、
U-505にあっためずらしい「ドイツ軍グッズ」を、
その場に居合わせたタスクグループのメンバーが、
ワイワイと楽しげに分け合った結果、個々に持ち帰られて、
大概はその家の倉庫とかに放置されていたものなのですが、
シカゴ科学産業博物館がU-505を展示することになったとき、
本人や家族が申し出て、博物館に寄付したものです。

■ 双眼鏡

浮上した時、U-505は常時5名の水兵が水平線と空を見張り、
敵の存在を探知していました。

第二次世界大戦中、ドイツの双眼鏡は、「任務グラス」を意味する、
『Dienstglas』ディエンストグラス
と言い表されていました。

彼らはこの重要な任務のために、ドイツ製の
高品質双眼鏡を使用していました。
ドイツの双眼鏡の高性能高品質は内外にも評価されており、
なかでもカール・ツァイス製は日本海軍でも垂涎の的でしたね。

日本海海戦で、自腹を切ってツァイスの双眼鏡を買っていた中尉が
一番先にロシア艦隊を見つけた、なんて話もありましたっけ。

ドイツ軍の使用グラスもそのほとんどはツァイス製でしたが、
さすがはドイツ、そのほかにも多くの製造業者があり、
エルンスト・ライツ、ヴォイトランダーなどが特に有名でした。

今ではクリスタルグラスで有名なスワロフスキーも、戦時中は

「cag」=Swarovski, Tyrol

というコードをつけた双眼鏡を製造していたこともあるそうです。

連合軍兵士たちが戦利品で双眼鏡を見つけると色めき立った理由は、
まず実際に性能が良かったこと、アクセサリーとしてカッコよかったこと、
戦後になると、ツァイス製の双眼鏡は高く売れたからです。

たとえば1946年に、ニューヨークのカメラストアで、
10×50が97ドル、6×30が38ドルで売られたという記録があります。

当時の100ドルは現在の日本円で大体40万円くらいなので、
双眼鏡が90万円とか40万円とかのお金になったというわけですね。

現代日本におけるカメラ愛好家、特に「レンズ沼どっぷり」の人たちにとっては
これくらいなら法外な値段ではありませんが、
そのころのアメリカ人にとっては信じられない価格だったでしょう。

単なる双眼鏡としては、破格の値段がついていたことになります。

ドイツの双眼鏡は、倍率とフロントレンズの大きさによって
番号がつけられており、最初の数字は画像の倍率を、
そして2番目の数字はレンズの直径(ミリ)を表しました。

軍が支給していた双眼鏡は、6×30、7×50、10×50の3種類ですが、
これだと、6倍×30ミリ、7倍×50ミリ、10倍×50ミリとなります。

レンズの数値が大きいほど光を捉えやすく画像がよくなるのですが、
実際は一番小さな6×30が下士官・将校に支給されることが多かったようです。


左:ツァイス双眼鏡 7×50

ハンターキラータスクグループの司令官、ダニエル・ギャラリー大佐
Uボートの浸水を食い止める功績をあげた
アール・トロシーノ中佐に「記念品」(ご褒美的な)として贈ったもの。

右:レイツ双眼鏡 7×50

エルンスト・レイツ Ernst Leitz、Watzlar コードbeh
も、数あるドイツ軍御用達双眼鏡製造業者の一つです。

USS「ピルズベリー」から乗り込み隊を率いたアルバート・デイビッド大尉
U-505で取得した戦利品が、これでした。
おそらくU-505の乗員がブリッジで使用していたものと思われます。

ちなみにこの双眼鏡は、デイビッド氏の姪によって寄付されました。
おそらくこの時、ご本人はもう他界されていたと思われます。



双眼鏡(ノーブランド?)7×50

捕獲したU-505のハッチを、デイビッド中尉に続いて降りた、
スタンリー・W・ウドウィアク三等通信兵が拾ったもの。

早く行動したものはいいものを手に入れることができるってことです。

これもウドウィアク氏の妻による寄贈品です。



カール・ツァイス双眼鏡と革製アイピースキャップ 7×50

型番の左には、ナチスドイツのワシのマークが刻まれています。
カール・ツァイスの記名の下にJENAという文字が見えますが、
Jenaイエーナチューリンゲンにあるツァイス所在地です。

革製のアイピースキャップ、左には

Benuyzer「ユーザー」

右には

Okulare festgestelit 「接眼レンズ」
Nicht verdrehen「ねじらないでください」

とあります。

ユーザーは真ん中の皮の部分に名前を書くようになっていて、
持ち主のCAJというイニシャルが残されています。

この双眼鏡を取得したのは「ピルズベリー」から乗り込み隊として派遣された
ジョージ・ジェイコブセン機関兵曹でした。

もともとはU−505の第一当直士官であった「Leutnant zur see」少尉
クルト・ブレイKurt Breyの所有物だったものです。
(刻まれたイニシャルではない)



カール・ツァイス双眼鏡 6×30


カール・ツァイス 6×30革製ケース

ドイツ製のすごいところは、革製のケースも堅牢なことです。
このケース、磨けば今でも普通に使えそうじゃないですか。

この双眼鏡モデルは左レンズに測距マークが付いていて、
直接「射撃」するのに大変有効な仕組みとなっているそうです。

6×30倍率の双眼鏡は、航空機上や砲座などからの射撃時、
移動するターゲットを追跡するのに理想的なバージョンでした。


アタック・ペリスコープ・レンズ

レンズはレンズでもこれは潜望鏡のレンズです。

U-505に搭載されていたもので、この潜水艦が「戦争の記憶」として
展示されることが決まった時、
海洋サルベージ会社メリット・チャップマン&スコットから
1954年9月25日、博物館に寄贈されました。

■ 信号銃と鍵



シグナルピストル、フレアピストルともいいます。

信号銃は撃つと色付きのフレアを空中に発して他のボートや
航空機とコミニュケーションするためのものです。

7と番号が打たれた5つの鍵の束は、正確にはわかっていませんが、
スペアパーツや機密書類、あるいは私物の箱のものだった可能性があります。

5本全部同じ形をしているように見えますよね。
機密書類とかではなかったんじゃないかなあ。

8のアルミの鍵は、乗員の個人用ロッカーのものであろうと言われています。

・・・って、捕虜に実際に聞いて確かめたら?
と思うんですが、そんな瑣末なことは聞く状況になかったのかな。

■ ステーショナリー


インクスタンプ

左)Uボートから発信されたすべてのメールには、
U-505のFeldpost(郵送コード)である、
M 46074
をこのスタンプで押すことになっていました。

右)Bootsmannsmaat u.(ボーツマンスマート)
=Boatswain's Mate and Master at Arms

は下士官であり、二等兵曹のランク、航海士です。

このスタンプは、このランクの下士官が日報などの文書に使用し、
命令が通達され実行されたことを確認していました。



研石とケース

U-505のワークショップ(機械などで部品を作ったりするコーナー)
で発見されたケース入りの砥石。
ナイフや切削工具を研ぐための道具です。

これらの道具はどれもアメリカ軍のベテランから寄贈されたものです。

最初の方に突入したクルーは、危険とはいえ、
ツァイスの双眼鏡など「上物」をゲットできるわけですが、
その他のメンバーは、このようなものまで分け合って
「記念品」として持ち帰ったということですね。

■ プレート



上)サインタグ

司令塔にかかっていたのを取り外したようです。

「潜望鏡用グリースフィッティング#5」

と書かれていますが、誰も意味はわからないようです。

下)メインエンジンデータプレート



MANというのは
「Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg AG」

という会社のロゴで、U-505右舷手ディーゼルエンジンの
データが記されています。

同社は現在でもヨーロッパ最大級の車両・機械エンジニアリング会社で、
第一次世界大戦中から砲弾、信管、戦車砲、対空砲、
航空機エンジン、潜水艦ディーゼルエンジンを製造し始めました。

戦時中は捕虜を強制労働していたということはありましたが、戦後
連合国軍による戦犯指定のアンバンドリング(会社の解体)は行われず、
合併をしながらも現在に至っています。


【缶入りパンとドライイースト缶】



どこの国でも潜水艦乗員はその国の海軍の中で最高の食事を楽しんでいました。

Uボートの乗員もしかり。

哨戒に出る時には、豊富な生鮮食品をたっぷり満載しましたが、
それがなくなったりダメになったりすると、
乗員は缶詰を食べることになりました。

パンも缶詰になっていたようですね。

下の缶は、U505が捕獲された時に艦内でたくさん見つかったものの一つで、
潜水艦の料理人はこの酵母を使ってパンを作っていました。

【スープ皿】


Uボートでは水兵も陶器の皿でスープなどを食べていました。


■祈りの本



「健康と病気のための小さな祈り」

という本は、USS「ガダルカナル」の乗員が艦内で取得しました。
月ごとの宗教的な祈りと、病気など、特定の状況の時の祈り、
その方法と唱える言葉などが書かれています。


こういう本まで「戦利品」として持って帰ったとしても、
おそらく人にちょっとみせたら、あとは物置にしまいこんで、
本人も死ぬまで忘れていたりしたんだろうなあ。

「おじいちゃんの遺品」の中に何やら意味ありそうなものがあったけど、
捨てるのもなんだし、と寄付されたものがほとんどではないでしょうか。


続く。


「総員退艦!」U-505を捨てた乗組員〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

南アフリカ沖でアメリカ海軍のハンターキラータスクグループにマークされ、
最初から潜水艦の捕獲を目的に攻撃されたU-505の乗員は、
こう言ってはなんですが、アメリカ海軍と戦った他のUボート乗員より
生命の危険という点から遥かに幸運だったかもしれません。

艦体をできるだけ完全な状態で持ち帰るため、
その攻撃は相手を沈めるほどのダメージを与えませんでしたし、
なんならこちらには空母を含めた艦艇が束になって控えており、
総員退艦をして海に漂流していたドイツ軍乗員たちを
一人残らず捕虜として確保するだけの余裕があったからです。

艦体の確保は第一目的でしたが、アメリカ海軍にとっては
情報の裏付けと証言をさせるために、乗員はそっくりそのまま
無事に捕らえてアメリカに連れて帰るのがベストでした。

■6月4日、早朝6時の攻撃

まずは、Uボート側の証言からです。
Uボート乗員の一人、ヴォルフガング・ゲルハルト・シラーは、
攻撃が始まった瞬間のことをこう述べています。

早朝六時に「魚雷員は戦闘配置に!」と命令が飛びました。
艦長が潜水艦を浮上させ、潜望鏡を上げようとした瞬間、
航空機の射撃を受けたので、彼はすぐ潜望鏡を下ろし、

進路を反転させ、

「駆逐艦!」「潜航!」

と何度も叫びました。
5、6m潜航したところで爆雷がきました。
その後、艦尾から

「舵が取れた!浸水!」

と連絡が来たのを受けて、艦長は浮上と総員退艦を命じたのです。



次に、U−505艦長だったヘラルト・ランゲ(Herald Lange)大尉の証言を。

6月4日12時ごろ、通常コースで潜航中、ノイズが報告されたので、
潜望鏡で様子を見るために海面に浮上しようとした。
海はやや荒れていて潜望鏡深度を保つのは難しかった。

1隻の駆逐艦が西に、もう1隻が南西に、3隻目が160度に、
140度方向の遠方に空母のものと思われるかたまりが見えた。

駆逐艦#1は約2分の1マイルで我々に最も近く、
さらに遠くには航空機が見えたが、潜望鏡を見られたくなかったので、
これ以降海面を見る機会はなかった。

ボートを潜望鏡深度に安全に保つことができなかったので、
私は音を立てたが再び素早く潜航した。
大きなボートが水面下を進むとどうしても航跡ができるので、
おそらく航空機には見られたに違いないと思った。

まだ安全深度に到達していないときに
離れた場所に爆弾を2発落とされ、
続いて
重い爆発音が2回、おそらく深度爆雷のものだろう。

水が侵入し、ライトと全ての電源が喪失し、舵が動かなくなった。

被害の全体像も、爆撃が続けられている理由もわからないまま、
私は圧縮空気でボートを浮上させるように命じた。

ボートが浮上した時、ブリッジから今や4隻の駆逐艦が
我々を取り囲み、.50口径と対空砲で攻撃してきているのを見た。
最も近い駆逐艦は110度方向から司令塔に向けて榴散弾を発射していた。

私は数発の銃弾と榴散弾で両膝と足を負傷して転倒し、
私の後を追ってブリッジに出た一等航海士は、
右舷に横たわり、顔に血が流れているのが見えた。

私はすぐに
総員退艦と、ボートを爆破することを命じた。

駆逐艦からの攻撃を避けて司令塔の後部から脱出するよう指示したが、
ここで意識を失い、次に目を覚ますと、まだ甲板には多くの部下がいた。

私は体を起こしてなんとか艦尾に体を運んだが、
そのとき砲弾が爆発し、最初にいた対空甲板から主甲板に吹き飛ばされた。
爆発は右舷機関銃の近くで起こった。

このとき多くの乗員がメインデッキを走り回り、
個人用の展開筏を海に落とそうとしているのを見た。
意識のある間に、私はチーフにメインデッキに残ることを告げた。

どのようになっていたか正確な記憶はないが、また爆発が起こり、
私は怪我をしていて、グループのメンバーがパイプボートを持ってきて
それに引き上げてくれて、どうにか生き延びることができたのである。

私の救命胴衣は受けた破片で破けていて、役に立たなかったし、
戦闘が起きて最初の数秒の攻撃で、甲板から吹き飛ばされた
木片が
顔と目を直撃(右まぶたに棘が刺さっていた)
したため、
この一部始終を、私はほとんど見ることもできなかった。

パイプボートに引き揚げられて座った時、
最後に私はUボートを何とか見ることができた。
部下の何人かはまだ艦上にいて、仲間のために筏を水に投げ入れていた。

私は周りの男たちに、沈みゆく我がU-505にむかって
3度声を上げるよう命令した。



この後、私は駆逐艦に揚収されて応急処置を受け、
空母に乗り換えてから病院に移送されることになった。

病院で、私は(ギャラリー)大佐から、
彼らが私のボートを捕獲し、沈没を防いだことを知らされたのである。



冒頭写真は、U-505の乗員59名で、出撃前に撮られたものです。
Uボート捕獲後、タスクグループが海上から救出した乗員は58名でした。

ところで、これを読んでくださっている方は、
USS「ピルズベリー」から派出された乗り込み隊が、
ボロボロになったUボート艦上で、ドイツ兵一人の遺体を発見した、
と書いたのを覚えておられるでしょうか。

これが戦闘で死亡した唯一の乗組員、ゴッドフリート・フィッシャーでした。
U-505の他の乗員の証言です。

「僕は勤務を終えたばかりで、司令官室の隣にある
バッテリーのメインスイッチがあるバトルステーションにいましたが、
そのとき司令官が叫ぶのが聞こえました。

『総員退艦!!』

次の瞬間、ファンに何かがヒットしました。

司令塔ハッチのすぐ近くにいたので、かなり早くに外に出ました。
艦長が最初に、それから二等通信士が続きましたが、
パイプがほとんど破壊されていたので、すごいプレッシャーを感じました。

司令塔ハッチから外に出たら「ゴギー」が甲板に倒れていました。
僕はゴギーことゴットフリートに声をかけました。

『ゴギー、行くぞ!』

しかし次の瞬間、彼が撃たれて死んでいるのに気がつきました。
僕は甲板に降りて大きな展開式筏が収納されている司令塔の前に出て、
いかだに乗ろうとしたとき、敵は射撃を中止しました。

ああ、助かった!

そして僕らは筏を展開し、海上に逃れたのです。」


この時彼らが展開し脱出した筏がこれです。

さすがはドイツ製というのか、今現在でもこれを浮かべたら
十分救命ボートとして役にたちそうなくらいちゃんとしています。



ボートの縁には、図で緊急信号の送り方が描いてあります。

「両手を何度かあげる
”負傷者あり 救助緊急要請”」

「腕を頭上で旋回する
”食料と水を要求”」

Einmannschlauchboot(一人乗り救命ボート)

素直に「アインマン シュラーフ ブート」でいいんですかね読み方は。

とにかくこのラフトは主に海に墜落する危険のある
ドイツ空軍のパイロット向けに設計されています。
(それで説明のイラストがパイロット風味なんですね)

航空機のコクピットに収めるためにサイズを極限まで小さくしてあるので、
潜水艦に搭載するのも最適だったというわけです。

一人乗りのインフレータブル救命艇は、緊急脱出時に使用するため、
Uボートの各メンバーに一つづつ支給されていました。

救命艇内部には、シーアンカーやロープなど、
サバイバルに必要な極小サイズのコレクションが装備されていました。

救命ボートは圧縮空気ボトルで膨らませるものですが、
乗員は黒いゴムチューブのところから口で息を吹き込むこともできます。


このときのU-505乗員による実際の筏使用例。

自分のラフトを展開できてちゃんと収まっている人と、
それどころではなかったので、縁に掴まらせてもらっている人、
そして展開したものの、乗ることができなくて
掴まった状態のままアメリカ軍に発見された人(右上)。

彼らの、アメリカ兵を見る表情には、不安と恐怖が隠せません。


■ 押収されたUボート乗員の私物



Uボート展示の手前には、U-505を捕獲したアメリカ軍が、
艦内から戦利品として引き上げられたグッズが展示されています。

戦時中のアメリカ軍における一般的な慣行として、
このような戦利品はすべて個人の記念品としてお土産に持ち出されました。

Uボートの捕獲は極秘事項で、たとえ親兄弟や軍人であっても、
そのことは決して話題にしてはならない、もしそれを破ったら
死刑もあるぞと厳しく戒められていたのに、これは・・・・。

自分で密かに持っていても、誰にも由来を喋らなければいいですが、
これ、なんの問題視もされなかったんでしょうか。

ともかく、ここにあるUボートグッズは、
タスクグループ22.3の退役軍人、あるいはその家族が、
博物館オープンの際に寄付したものであり、
あるいはボートの修復中に博物館のスタッフが艦内から集めたものです。

【ドイツ海軍Uボート専用レザーユニフォーム】



寒い天候や悪天候下、潜水艦の甲板で作業をする時に、
Uボート乗員は上下皮でできたこのユニフォームを着用しました。



色褪せてしまっていますが、本来の色はブルーです。



これは第一次世界大戦中、U39の甲板にいるカール・デーニッツ中尉ですが、
この写真で見る限り、比較的濃いめの色であることがわかります。


カフ-ストラップというのは特にこんな皮素材の場合、
実用的な意味は全くないのですが、飾りのついたボタンといい、
このカフ-ストラップといい、細部にこだわりあり。

【レンチとディーゼルエンジンスペアパーツの箱】



どんだけ大きなレンチだよ!と驚くわけですが、
このレンチはおそらくディーゼルエンジンに使われたものです。

アメリカ海軍が沈みかけているUボートをなんとか立て直していた時、
少しでもボートを軽くして浮力を維持するために
ボートからはめぼしいアイテムが取り除かれましたが、
このレンチだけは重すぎて動かせなかったということです。

ますますUボートではどうやって使われていたのか謎・・・。

その下の箱には、ディーゼルエンジンのための工具、スペアパーツ、
機器の修理キットが収められていました。

もちろんこれも重いのですが、このような箱は、Uボートでは
重量に応じて艦内の保管場所が割り当てられました。
これにより、ボートのバランスを適切に保っていたのです。


【観察ノートと鉛筆、エアキャニスター】



左側の日誌は未使用だったそうです。
潜水艦での日常の活動を記すために技術クルーが使用するもののようです。

この赤い缶が、前半で散々出てきた「個人支給の筏」を展開し、
膨らませるための空気ボトルだそうです。

Uボート乗員が総員退艦した直後の甲板には、
この赤いキャニスターがいくつも転がっていたに違いありません。


続く。


「腸は空けても口閉じよ」守秘義務の宣誓〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-04-22 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、アメリカ軍の攻撃によって総員退艦を余儀なくされたU-505。

自爆スイッチがオンにされ、沈む寸前のボートに乗り込んだ
ハンターキラー22.3のボーディング隊が、爆破装置を解除し、
誰も乗っていない潜水艦を狙い通り捕獲することに成功しました。



アメリカ軍が爆破を食いとめたとき、Uボートは
甲板の高さまで浸水しており、艦橋だけが見えている状態でした。

艦内に突入したボーティング隊は、ハッチを降り、
すでに海水が侵入していた艦内からの排水作業に全力を上げます。

■ 1944年6月4−19日 サルベージ隊の死闘



この写真で艦橋の上に見えている人影は、
9名のボーティング隊のものであり、
甲板の先に乗り込んでいるのは、排水を食い止めるために
右側のボートから乗り込んだ別働隊です。



沈みかけのUボートはこのような態勢で浮いていました。
艦橋にいたボーティング隊は艦内に降りたらしく、一人しか見えません。

艦首先でカメラに向かって両手を振っているように人がいますが、
これはおそらく手旗信号で通信をする信号員だと思われます。

それにしても、こんな状態でいつ爆発するかわからない敵潜水艦に、
任務とはいえよく乗り込んで行ったものだと、
あらためてボーティング隊の勇気に感嘆します。

甲板にいる20名ほどのメンバーも、この不安定な状態で
よくぞ任務を完遂できたものです。


U-505を捕獲することに成功したとはいえ、それは
戦いのほんの一部が始まったに過ぎなかったのです。

このとき、ダニエル・ギャラリー大佐には、
Uボートの軍事機密を研究するための資料として、
なんとしてでも捕獲したボートをバミューダまで曳航してくるように、
というアメリカ海軍トップからの命令が下されていました。

しかし、ギャラリー大佐の直面した課題は、この困難で長大な航海以前に
潜水艦が沈没の危機に瀕していたことでした。


まず、写真を見てもわかるように、海水が流入したため
コニングタワーが水面からほとんど顔を出していない状態です。

後から乗り組んだ20名は、「サルベージ・パーティ」、
つまり「Uボートの沈没食いとめ隊」でした。

さらに点検の結果、潜水艦の操舵が右に動かなくなっており、
牽引中にまっすぐ進まない状態であったため、
この状態で曳航は不可能であることが判明したのです。

しかもこの段階で艦内にはかなりの海水が浸水しており、
舵が壊れていたことと相まって、牽引のための引き綱に
多大な負荷がかかり続け、数時間後には綱は切れてしまいました。

ここで日が暮れてしまい、時間切れとなったので、
U-505は一晩を海中に沈んだまま過ごしました。

朝になってメンバーは、より強いラインを接続し、
サルベージクルーが舵を修理してまっすぐ進むようにし、
さらに海水を取り除く作業を再開しました。


舵が右に向いていた理由は、アメリカの航空機&駆逐艦からの攻撃のうち、
爆雷が舵の電気制御をまず破壊したことに起因します。

そして、これ以上の操舵が不可能と判断したUボート艦長は、
緊急手動制御を大きく右に切った状態で退艦しました。

ダニエル・ギャラリー大佐とアール・トロシーノ司令は、
手動制御にアクセスするために、潜水艦の後部魚雷室への潜入をを決定。

その後、メンバーは区画のハッチを開け、コントロールを使用して
なんとか舵をまっすぐするのに成功しました。

これは言うなれば「危険すぎるブービートラップ」でしたが、
彼らは勇敢にも立ち向かい、任務を果たしたのです。

”何トンもの海水を汲み出す”


甲板乗り込み組の足元に、艦内から海水を出すためのホースなど、
さまざまな道具があるのが確認できます。

乗り込み隊の努力で、舵はなんとか真っ直ぐになりましたが、
ここからU-505の艦内から海水を除去する困難な仕事が待っていました。

まず電源が切れていたため、艦内の排水ポンプを操作することはできません。

通常、潜水艦というものは、ディーゼルエンジンで作動させることによって
同時にバッテリーを充電する仕組みになっているのですが、
ギャラリー大佐はエンジンは動かさずに対処する選択をしました。

それによって潜水艦が沈没する可能性もあったからです。

潜水艦がそもそも浮くか沈むか、全く予想もつかないこの間、
アール・トロシーノ中佐は何時間もビルジに潜り、
エンジンの下の油まみれの水の中を這い回り、パイプラインをたどり、
バルブを閉めてボートを水密状態に持っていくことに時間を費やしました。

万一その瞬間沈没したら何があっても逃げられないような
床板の下の、手の届かない隅までもぐりこんで、
司令官自ら命懸けの作業を続けたのです。


参考までに:アール・トロシーノ司令

トロシーノ中佐の驚異的な直感と、自らの安全を省みない勇気と使命感は、
彼に正しいバルブを見つけ出させ、U-505を沈没から救うことになります。

彼のその後の作戦は、実に独創的な解決案に基づくものでした。

まず、潜水艦のディーゼルを完全にオフににして、
牽引されている間、スクリューがモーターシャフトを回せるようにします。

それから、フリートタグのUSS「アブナキ」Abnaki(ATF-96)
(軽空母であるUSS『ガダルカナル』を牽引するためのタグ)
に、高速で潜水艦の艦体を引っ張らせました。


赤い矢印がUー505黒がタスクグループ22.3
そして、ちょっと見にくいですが、カナリー諸島から牽引に駆けつけた、
USS「アブナキ」の導線が、グレーで表されています。



トロシーノ中佐の読み通り、プロペラが素早く回転することで、
電気モーターが回転し、バッテリーがリチャージされました。

そうしてのち、サルベージクルーは、
潜水艦搭載のポンプを用いて、艦内の海水を排出することができたのでした。



ここから展示を最下層階に移します。

捕らえたU-505が、なんとか沈まないように排水を行いました。
さて、そのあと、バミューダまで曳航していったわけですが、
そのくだりがこの階の展示で説明されているのです。



エンドレスで上映される、Uボート乗り込みの際の映像を
接収時の艦内の写真をパネルにした前で見ている人。

ちょうどハッチを乗り込みパーティのクルーが入っていくところです。

■ 1944年6月4-19日
サルベージ隊 任務完遂



一口でUボートを捕獲したアフリカ沖からバミューダまでといっても、
それはほとんど大西洋を横断する距離であるのがこれでわかりますね。

U-505を牽引していたUSS「アブナキ」ATF-96は、三日経過したとき、
彼女の「荷」を、旗艦「ガダルカナル」に積み替えました。

彼女はそれから駆逐艦「デュリック」Durik(DE-666)と、
タンカー、USS「ケネベック」Kennebec(AO-36)に付き添われて、
タスクグループの大西洋横断に必要な燃料を補給しに戻りました。

そうやって、1944年6月19日、捕獲されて15日目に、
U-505はバミューダのポートロイヤルベイに到着したのでした。


バミューダでは、待ち構えていた米海軍のアナリストが、
早速U-505に乗り込んで、大西洋のグリッドマップ、
T-5音響誘導魚雷のマニュアル、レーダー、レーダー探知機、
コードブック、および二つのエニグマ暗号機を含む、
1,200を超えるドイツ海軍の機密アイテムをカタログ化しました。

このときU-505から収集された情報により、連合軍は、
対Uボートマニュアルを開発および改善することに成功しました。

これが対ドイツ戦勝利への大きな貢献となったのは間違いありません。


■ 守秘義務 Secrecy A  Must

アメリカ合衆国にとって、アメリカ海軍がUボートを無傷で拿捕したことは
絶対にドイツ側に知られてはならないことでした。

万が一ドイツ軍がこのことを知ったら、すぐさま
対潜傍聴活動と暗号解読阻止のためにシステムを変えるでしょう。


(それでここに来るまでの通路に、防諜ポスターが
嫌というほど展示されていたのか・・納得)


そのため、ダニエル・ギャラリー艦長は、海軍から
タスクグループの内部からUボート捕獲の噂が広まることのないよう、
それはそれは厳しい命令を受けることになりました。



これが海軍上層部からギャラリー大佐に送られてきた命令です。

敵にU-505の捕獲を知られないようにするため

(A)もしU-505の状態が変化した場合、
タスクグループ22.3の護衛の下バミューダに向かうこと

(B)捕獲については絶対的な秘密厳守が必要であることを
全ての関係者に強調すること


ギャラリーはメンバー全員に秘密保持声明に署名させました。
守秘義務違反の罰は「アンダーペナルティ・オブ・デス」=死刑


ギャラリー艦長は、このメモをタスクグループ全員に渡し、
Uボート捕獲が極秘事項であることを強調しました。

「オース・オブ・シークレシー」(秘密の宣誓)

という真面目で公式的な口調のタイトルで発されたこの文書からは、
ダニエル・ギャラリーという海軍司令のリーダーシップ、
歴史的瞬間の証人としてこの状況に立ち会っていることの高揚感、
そして、なぜかユーモアのセンスに対する才能が遺憾無く発揮されています。

この厳密な箝口令が敷かれた結果、この秘密は戦後まで漏れることなく、
ドイツ側がUボートを捕獲されていたことを知ったのは
戦後連合国に降伏した後のことだったといいます。

OVE                           USS「ガダルカナル」    1944年6月14日

極秘
From: タスクグループ22.3司令
To:タスクグループ22.3

全ての者に公開する

6月4日1100以来、我々が行ってきた業務は最高機密に分類された。

U-505の捕獲は、我々がそれについて口を閉ざすことで
第二次世界大戦における大きなターニングポイントの一つとなりうる。

敵がこの捕獲を知ることがあってはならない。

今回のことについて、我々の友人にこれをしゃべりたくなる気持ちは
本官も十分理解するものであるが、これから印刷される歴史の本で、
彼らもいずれはそのことを全て読むことになるであろう。

そしてそうなるかどうかは諸君次第なのである。

次の命令に従えば、あなた自身の健康も、
国防に不可欠な情報も守られることを肝に銘じてほしい。

「腸は空けても 口閉じよ」
’ KEEP YOUR BOWELS OPEN AND 
YOUR MOUTH SHUT’

「あなた自身の健康」って、ソフトに脅迫してないかこれ。
それから、最後の「腸」ですが、語呂だけであまり意味はありません。

「さんま焼いても家焼くな」的な?

なので、ギャラリー司令の命令にも「肝に銘じる」と
誰うま的な意訳をしておきました。

上司にしたい男:ギャラリー司令


こちらは真面目な?方の、というか公式の守秘義務宣誓書です。


U-505が拿捕されてから数時間以内に、連合軍の諜報機関上層部は
ボートと乗組員について計画を立てなければなりませんでした。

アメリカ海軍大将アーネスト・キング
イギリス海軍第一海軍卿アンドリュー・カニンガムは、
捕獲を秘匿しておく必要性について、無線でメッセージを交換していました。

発見した情報についてドイツに知られないことを第一義としたのです。

捕獲に関与した全ての関係者は「守秘義務の宣誓」に署名させられました。
沈黙を守ることについて、厳しい罰則が設けられており、
万が一これを破った場合には、死刑に処せられる可能性がありました。

この宣言は1944年6月8日に署名されました。

ドイツが降伏してから初めて海軍はU-505の鹵獲を発表し、
乗員の宣誓を解除するプレスリリースを発行しました。
宣誓書の内容は以下の通り。

トップシークレット

USS「フラハティ」
C/O フリートポストオフィス ニューヨーク NY

わたし、ロジャー・W・コーゼンス(サイン)は、
ドイツの潜水艦U-505の捕獲に関して絶対的な秘密を維持するための
十分な説明を受けたので、戦争が終了するまで、
少なくとも海軍省が早急に一般に公開しない限り、
何人にもこの情報を漏らさないことを、ここに誓います。

(この『誰にも』no oneには、わたしの最も近い親戚、
友人、軍人、または海軍軍人も含まれています。
わたしの司令官からそのように指示された場合を除き、
たとえ相手が提督であっても、それは例外ではありません)

ドイツが、U-505の拿捕の何らかの情報源から何かを察知した場合、
その捕獲によって得た多大なこちらの利益が即座に無効になり、
結果としてそれがアメリカ合衆国に多大な損失をもたらすことを
わたしは知る必要があり、またそれを十分に認識しています。

わたしはまた、もしわたしがこの誓いを破った場合、
わたしは重大な軍事犯罪を犯し、それによって
わたし自身を軍法会議にかけられることになるのを認識しています。

ロジャー・W・コーゼンス(サイン)

8日、わたしの前で朗読し誓約しました

M.L.ローリー LT (JG)USNR(サイン)



続く。




ハンターキラー、U-505捕獲に成功す〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

はっきりと目標をUボートの捕獲と定め、情報機関を駆使して
南アフリカに乗り込んだギャラリー大佐のハンターキラー22.3。

捜索を続けるも諦めて引き上げようとした途端、
駆逐艦「シャトレーン」のソナーマンがUボートの存在を突き止めた、
というところまでお話ししてきました。

ここまで歩いてくると、ようやく実物のU-505を
甲板の高さから見ることができる展示室にたどり着きます。



アメリカ海軍が知力の限りを尽くして捕獲したU-505。
ここに展示されるまでにはそれこそ本になるほどのストーリーがあり、
この展示では、それが熱く語られます。



潜水艦のフロア全部を使って、資料が展示されています。
皆様には、このわたしが順にこれをお見せしていくつもりです。



潜水艦は内部を何回かに分けてツァーで紹介しています。
1階フロアに見える人々は、ツァーを予約し、時間が来るのを待っています。


そこにたどり着くまでに、パネル展示が続くわけですが、
まずはU-505を捕獲した時のシーンが現れました。

潜水艦の右舷に横付けされたボート、見覚えがありますね。



やはりこれは、Uボート乗員を確保しにいくボートだったんですね。



パネルの前に並んだ九人の海軍軍人たち。
彼らが直接Uボートに向かったボートのクルーなのかな?



やはりそのようです。
一人一人の顔写真がボートに乗って登場しました。

彼らはUSS「ピルズベリー」から派出された
「ボーディング・パーティ」=乗り込みチームです。

航空機からのマーキングの後、駆逐艦から発射された魚雷で
U-505は損傷し、総員退艦を始めました。

彼らがボートを放棄することが明らかになった時、
タスクグループ22.3は、ホエールボート(っていうんですね)を投下し、
ボーディング(敵船乗組)と救助の訓練を受けたクルーを派遣しました。

そして、USS「シャトレーン」とU「ジェンクス」が生存者を拾い上げる間、
USS「ピルズベリー」はホエールボートをU-505に送り、
アルバート・L・デビッド中尉が9人の搭乗隊を率いて乗り込みました。

その、USS「ピルズベリー」のホエールボートが、
損傷した潜水艦の横に停泊した瞬間が絵になっているわけです。

彼らのここでの任務はUボートを強襲し、
残存しているドイツ海軍の乗組員を圧して潜水艦を制御することです。

このクルー全員が大々的に顔写真と共に紹介されていますが、
この任務は誰にでもできることではなくとてつもなく危険でした。

まず、このときU−505の状態は海上で沈没寸前となり、
渦に巻き込まれるように自転していました。

当然ですが、鹵獲されることを防ぐため、
艦隊には爆薬が装備されていた可能性は大でした。


このとき乗り込みメンバーとなった九人の名前が
「極秘」として記された文書。

■ U-505に搭乗





”シーストレーナー・カバー”

Uボートにはドイツが連合軍の手に渡ることを望まない
最高機密の情報と技術が満載されていました。

だからこそ今回ギャラリー大佐とアメリカ海軍は
総力を挙げてUボートの捕獲作戦に乗り出したわけですが、
Uボートの艦長は、万が一自艦が捕獲の危険に晒された場合、
自沈または沈没させよという厳格な命令を受けていました。

タスクグループの攻撃が艦体を損傷させたとき、
U-505の乗員はボートを浸水させ自沈させようとしました。

その時彼らが開けたのはこのシーストレーナーというパイプです。

次の瞬間水はボートに流れ込みました。
「ピルズベリー」の乗り込みチームがU-505に到着するまでに、
潜水艦の艦尾はすでに水没しており、
海水麺は司令塔の最上部分にほぼ到達していました。

モーターマシニストのゼノン・ルコシウス一等水兵が乗艦し、
このストレーナーから海水が流れ込んでいるのを発見し、
すぐさまストレーナーのカバーを探して再び固定しました。

それが冒頭写真の”ストレーナーカバー”です。

”スカットル・チャージ”

U-505を総員退艦する前に、ドイツ軍乗員は、
潜水艦全体に装備された多数のスカットル・チャージ、
=時限爆弾のタイマーをセットするように訓練されていました。

アメリカ軍の乗り込み隊と救助隊は、
起爆スイッチとなっている針金のワイヤーをすぐさま引っ張り、
時限爆弾のスイッチを解除することに成功しました。


左上、艦橋だけ海上に出た状態
下、アメリカの旗をUボートの司令塔に立てる


もちろん一つでも爆発していたら、Uボートはもちろん、
乗り込んだアメリカ海軍のクルーが海底に沈むことになったでしょう。

■USS「ピルズベリー」の乗り込み隊9名

潜水艦はいつ沈没するか爆発するかわからないし、
どんな抵抗を受けるかもわかりませんでしたが、乗り込み隊である
デイビッド中尉たちはハッチから内部に降りていったのです。

急いで調べたところ、甲板に横たわっていたドイツ人水兵の死体以外は、
U-505は無人であることが確認されました。

これが今回の拿捕を決めた決定的な瞬間となったのです。

そしてその後、まずスカットルチャージの取り外しが行われ、
ついで沈没を防ぐためにバルブの閉鎖を済ませてから、
海図や暗号帳、書類の整理に取りかかりました。


危険を承知でUボートに乗り込んで行った9名については、
一人一人紹介されていましたので、ここに挙げておきます。


アルバート・L・デイヴィッド 米海軍中尉
(左はギャラリー中佐、『ガダルカナル』艦上にて)


チェスター・A・モカースキー 一等砲手兵曹 U.S.N.


ウェイン・M・ピケルス 二等航海士 U.S.N.所属

アーサー・W・ニスペル 魚雷手 三等兵 U.S.N.R.
写真なし


ジョージ・ジェイコブソン U.S.N.チーフ・モーター・マシニスト・メイト


ゼノン B. ルコシウス U.S.N.一等機関士補
起爆スイッチを最初に切った殊勲者。


ウィリアム・R・リアンドゥ U.S.N.三等電気技師補


スタンリー E. ウドウィアック U.S.N.R.三等兵曹(ラジオマン)


ゴードン・F・ホーネ 米海軍三等軍曹

「ピルズベリー」の信号員でU-505に乗艦した後は
タスクグループと通信業務を行う。
シグナルマンはタスクグループから見分けやすいように
一人白いユニフォームを着せられていた。
シルバースターメダル受賞



フィリップ・トゥルシェイム操舵手

操舵手として「ピルズベリー」から出されたホエールボートを操縦した。
乗り込みパーティには加わっていないが、
Uボートとボートを並べ位置を維持する重要な役目を果たした。



アール・トロシーノ(引揚隊司令官)

トロシーノは-505の沈没を阻止する救助隊を指揮した。
彼が考案した巧妙な計画に従って、引揚隊は、
牽引中に潜水艦のバッテリーを再充電することに成功。

これにより、クルーは潜水艦の搭載ポンプを使用して
攻撃中に浸水した海水を排水することができた。

1954年、U-505がシカゴに牽引されることになった時、
トロシーノはその指揮も勤めることになった。

海軍は彼にコンバット「V」メダルを授与した。



D.E.ハンプトン大尉

ハンプトンはUSS「ガダルカナル」からの2次サルベージ隊を率いた。
彼は、捕獲後、U-505を奪取する命令を与えられていた。
潜水艦の状態により、救助と牽引も任されていた。

ハンプトンはボートからの排水作業を組織し、
トロシーノ中佐の引揚作業を援助した。

海軍からは厚労勲章メダルが与えられている。


さて、ミッションの最初の部分が完了しました。

アメリカ海軍ハンターキラータスクグループ22.3は、
ダニエル・V・ギャラリー大佐の指揮下においてU-505を捕獲したのです。

これは、1815年(1812年の戦争の最終年)以来、
アメリカ海軍にとって敵船を戦時に捕獲した最初の例となりました。


拿捕後、タスクグループはU-505をバミューダに曳し、
Uボートの解析を行うことにしました。

バミューダに到着する前夜、ギャラリー大佐は
お手柄だった乗り込みメンバー9名を
USS「ガダルカナル」に招待しています。

ギャラリー大佐は翌朝、捕獲した潜水艦にアメリカ軍人を乗せて
港に入るという演出のために、彼らをU-505に移そうと考えたのです。

■ 余談:乗り込みメンバーの間違いを加工?
アメリカ海軍の写真加工技術

ここでちょっとしたミスが起こりました。

USS「ガダルカナル」に乗艦したグループの最先任、
デビッド中尉は、まずギャラリー大佐に面会に行きました。

このとき、カメラマンはデビッド中尉のいないパーティを撮影し、
これをプレスリリース用の写真にしてしまったのです。



九人いたのでこれが乗り込みクルー全員だろうと思ったんですね。

実際は、そこにいなかったデビッド中尉の代わりに、
物資の手配を担当するために「ピルズベリー」から乗り込んでいた
チーフのコミサリー・リスクが一緒に写っていたのです。

写真を撮られた人たちはプレスリリースとか全く考えていないので、
誰一人このことを疑問に思わず、リスク曹長も一緒に写真に収まりましたが、
公式の写真に作戦と関係ない人がうつっているのはいかがなものか、
となったので、直前で海軍は写真を加工しました。



これがもう全く苦し紛れで、今なら雑コラ認定間違いなし。

リスク曹長を消して右側の三人を中央に寄せ、
肩にかけた手を加工していますが、このコラ、どうやら文字通り
写真を切り貼りしたらしく、アスペクト比まで弄っていないので、
右から3番目の人の右腕の長さがとんでもないことになってます。

どうも加工チームは、移動させた三人の写真を
リスク曹長の身長に合わせて床から「持ち上げた」らしいのです。

そして右側の三人が実物より大きくなってしまいました。




そこでもう一度博物館で大パネルにされた写真をご覧ください。

当時の海軍写真班は、さすがにいない人物を継ぎ合わせて
そこにいるように加工することができなかったため
プレスリリースの写真にデビッド中尉はいないままでしたが、
当博物館では、ちゃんとこの写真にデビッド中尉を参加させています。

しかも、アス比もちゃんと加工しているので、
本来あまり背の高さが違わない水兵さんたちが元の身長差に戻りました。

ただ、この加工にも決定的におかしな点があります。

確かにパネルはぱっと見不自然というわけではありませんが、
海軍という組織に絶対にあり得ない写真であることは
おそらくこのブログ読者ならどなたもご存知ですね。

そう、デビッド中尉の立ち位置です。

もし本当に中尉がいたら、海軍の慣習としてかならず士官は中央前列に立ち、
こんな風に水兵の後ろから顔を出すことなどありえません。

パネルの加工がいつ行われたかは不明ですが、
おそらく少なくともここ数年ではなかったとわたしは断言します。

もし現在のフォトショップを使えば、誰でも
デビッド中尉の全身像を真ん中に配置した、
自然な写真をいくらでも合成できるからです。



さて、こうやってU-505を捕獲するという、
最初の目的を果たしたハンターキラータスクグループ22.3。

次にギャラリー大佐に与えられたミッションは、
潜水艦を沈まないように曳航するということでした。

続く。




「Uボートを求めて」ハンターキラー機動隊22.3〜シカゴ科学産業博物館U-505 

2023-04-18 | 博物館・資料館・テーマパーク

シカゴの科学産業博物館に展示されているドイツ海軍のU-505。
それは色々なストーリーを経て現在ここにあるわけですが、
その本体の設置されたところにたどり着くまでに、
博物館では開戦にはじまり、Uボートの脅威、
それに対抗すべく編み出されたハンターキラータスクグループ、
そしてUボート捕獲のために後方で活躍した暗号解読艦隊、
そこで男性軍人の代わりに任務を務めたWAVESについて、
順を追って理解を深めていくことができる仕組みとなっています。

さて、次なる展示は??

■ ハンターキラー・タスクグループ 22.3



ダン・ギャラリー米海軍大佐率いる対潜機動隊、22.3
Uボートの捕獲を目的にいよいよ始動した、という話を
これまでの流れでご理解いただいていたかと思います。

ここからは、そのハンターキラー22.3に焦点を当てます。


”激化するUボートハンティング〜西アフリカ沖”

1944年5月15日、第22.3任務群は、
カーボベルデ諸島付近の対潜哨戒のために
バージニア州ノーフォークを出港しました。

ダン・ギャラリー艦長とタスクグループの6隻の艦艇は
ワシントンDCのF-21潜水艦追跡室から毎日送信される位置情報をもとに、
数週間にわたってUボートの捜索を行いました。

タスク・グループは、あらゆる技術駆使し、
Uボートを探し出すという決意をもって、目標の位置を捜索。



USS「ガダルカナル」艦載のワイルドキャット戦闘機が上空から、
海中をソナーやハイドロフォンのオペレーターが捜索するも、
このときまでUボートを見つけることはできませんでした。



このコーナーは、USS「ガダルカナル」艦橋を再現しています。
大きなスクリーンには、その時の映像が上映されています。

この実物大の「ガダルカナル」ジオラマの指揮官席に座っているのは、
もちろんのことダン・ギャラリー大佐その人です。

彼の人形は、写真を使ってこれでもかと本物そっくりに作られました。



Uボート捕獲作戦はこの人のアイデアだったわけですからね。

さて、いつまでたっても見つからないUボート。
業を煮やしたギャラリーは捜索を中止し、
燃料を補給するためにカサブランカへ向かうことに決めました。



すると数分後、タスクグループUSS「シャトレーン」から報告が入りました。
ソナーオペレーターが、Uボートを「探知した」可能性があると。



ボートが出されていますが、これはもしかしたら
ソノブイの回収・・いや、もしかしたら、Uボート攻撃の後か?

そう、これはまさにこれから、
Uボートに乗り込んで捕獲するために結成された「決死隊」を
ボートに横付けするために出発するホエールボートの姿なのです。


■ ボーダーズ・アウェイ
アメリカ海軍搭乗員装備



さて、ここで一旦関連展示をご覧ください。
第二次世界大戦時のアメリカ海軍パイロット用、夏季フライトスーツです。

海軍パイロットはこのワンピース型のフライトスーツを常用しました。
スリムなフィット感により、狭いコクピットの中でも
パイロットの衣服がコントローラーなどに引っかかることがありません。

スーツの胸、腕、ズボンにも複数のポケットがあり、
鉛筆や小さなギアなどの重要なツールを簡単に取り出せます。


U-505を攻撃した時、「ガダルカナル」乗り組みの
ワイルド・キャット戦闘機パイロット、ウォルフ・ロバーツ中尉
まさにこのフライトスーツを着用していました。

彼は水没したUボートの場所を特定するのに助力し、
その功績により、殊勲飛行十字賞を授与されています。

「特定する」というのは一般に言われるのと少し違っていて、
沈んだUボートの位置をタスクグループの駆逐艦に知らせるため、
「ピン留め」の意味で目印を投下するということを指す業界用語です。

ここにあるフライトスーツ一式は本人の寄贈によるものです。


ウォルフ・ロバーツ中尉はU-505に空爆したとき、
着用していたのと同じタイプのゴーグルとフライトヘルメット

ヘルメットは母艦や他の航空機と無線で通信するための
ヘッドフォンが装着されています。

ヘッドフォンは水中のUボートの音を聞くために、
水中に投下したソノブイが生成した音もキャプチャできました。



”米海軍B-4タイプ救命胴衣”

B-4救命胴衣は、浮揚装置およびサバイバルキットとして機能しました。
小さな空気キャニスターでベストを膨らませるもので、
ゴムチューブから口で空気を追加することもできました。

ベストには、航空機に信号を送るための鏡、
そして救難信号を送るための二つの発煙弾、サメの忌避剤、
染料マーカーのパケットが入ったショルダーポーチが付いていました。

パラシュート タイプAN-6510

背中に背負っているのは米海軍の標準的なシートパラシュートで、
U-505の捕獲の時にもパイロットが装着していたものです。

パラシュートコンテナはパイロットがコックピットにすわるとき、
シートクッションとして役に立っていました。

通常ナイロン製のこんにちのパラシュートとは異なり、
ほとんどの第二次世界大戦時のパラシュートは絹でできていました。

「hitting the silk」
そのままの意味だとシルクを打つ、ですが、実は

パラシュートで飛び降りる”
”ぶっ飛ばす”

主にパラシュートでジャンプを行うことを表すスラングになりました。



”アメリカ海軍 サバイバル・フラッシュライト”

防水ライトはサバイバル・ライフジャケットに固定されていました。
これで夜間に救助航空機に信号を送るための微弱なビーコンを発します。

バッテリーは数時間持続しました。



”アメリカ海軍レザー製パイロット用手袋”

ウォルフ・ロバーツ中尉が実際にU-505攻撃時に着用していたもの。



”ニーボード(膝板)”

これもロバーツ中尉が攻撃時使用していたニーボードです。
ニーボードとはストラップでパイロットの腿に留め、
コクピットで座ったままメモをとるときライティングデスクとなるものです。

フリップオープン式のトップには小さな地図と、
飛行中にメモを取るための紙が挟まれていました。

パイロットは後でコンパイルで使用するために、
コースの変更について大まかなメモを取りました。



”WWII アメリカ海軍フライトシューズ”

空母から飛行するアメリカ海軍のパイロットは、
通常海兵隊の「ラフアウト・レザーブーツ」というのを履いていました。

見たところ普通の黒皮のビジネスシューズなのですが、さにあらず、
見た目よりも重い皮で作られており、毎日の過酷な飛行に耐えられるだけの
耐久性を備えたやたら丈夫な靴だったそうです。

■ 激化するハンティング〜U-505を攻撃



先ほどのゲートに大きく記されていた「1944年6月10日」とは
機動部隊がUボート確保に向けて行動を開始したその日付です。

この日、午前11時10分、USS「シャトレーン」はソナーコンタクトを報告し、機動部隊は一斉に次の行動に移りました。

旗艦、USS「ガダルカナル」は、軽空母であることもあって、
自らを全く傷つけることなく攻撃することができないため、
ギャラリー艦長は、艦を迅速に危険な場所から移動させました。

「シャトレーン」は僚艦「ピルズベリー」と「ジェンクス」の支援を受け、
迅速に駆逐艦による攻撃を開始しました。

潜航中のU-505を、ソナーで確認しながら、
USS「シャトレーン」はまずヘッジホッグで攻撃。



しかし、これはターゲットから外れました。

「シャトレーン」が回頭して再攻撃するために射程距離を開けている間、
「ガダルカナル」艦載の戦闘機2機が水中に機銃を発射して、
潜航中のU-505の位置を明らかにします。(先ほどの”ピン留め”です)


連合国が水中に潜むUボートを攻撃するために使用した重要な兵器が、
デプスチャージ・深度爆薬と、このヘッジホッグでした。

左がヘッジホッグの「針」、右がデプスチャージ投下装置

先日「シルバーサイズ」博物館シリーズの展示でも説明しましたが、
ヘッジホッグは、狙った潜水艦に直接接触したとき、
もし外れた場合には、海底に落ちたときにのみ起爆します。



このとき「シャトレーン」が搭載していたヘッジホッグはマーク4で、
35ポンドのトーペックスで満たされており、
ハリネズミのような外観のスパイク付き発射装置から、一度に24個、
一斉発射されましたが、Uボート艦体には接触しなかったということです。

「シャトレーン」はその後、戦闘機のマーキングに向けて
深度爆雷を発射し、U-505を水面に浮上させることに成功しました。


深度爆薬(デプスチャージ)は、あらかじめ設定された深度で
爆発するように水中に投下される強力な爆薬です。

艦長が深度を決定し、号令を出すシーンは
潜水艦が出てくる戦争映画ではおなじみですね。

こちらの爆雷は潜水艦に当たらなくても、近くで爆発させることで
敵艦内の機器を破壊し、艦体を損傷させることができました。

1943年、米海軍は深度爆薬とヘッジホッグに、
それまで使われていたトリニトロトルエン(TNT)より50%強力な
「トーペックス」という新しい爆薬を詰めるようになりました。

ここに展示されているのは、マーク9のMods3という深度爆雷です。

U-505 に対する攻撃で使われたのと同じタイプで、
マーク9は圧力で作動する信管を持ち、200ポンドのトーペックスを
地表から30~600フィートの所定の深さで爆発させるものでした。



深度爆雷の搭載、そして投下した瞬間です。
猛烈な煙が立ち昇る中に、宙を飛んでいく金槌状の爆雷が見えます。

さて、ここまで進んできた観覧者は、パネル展示より
否が応でも、そこに見えるU-505実物に目を見張ることになります。



やっとここまできて艦体の上のデッキにたどり着いたことになりますが、
これからデッキ最上段から降りていきながらU-505のあらゆる部分を見つつ、
捕獲したときの情報などを展示で得ることができる、というわけです。


さて、それでは通路に沿って歩いていくことにしましょう。

続く。



「黒い5月」 Uボートvsハンターキラー任務群〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

シカゴの科学産業博物館に展示されている
U-505の展示を紹介するシリーズですが、
まだここまでは潜水艦のあるところにすらたどりついていません。

前説というか、Uボートについての歴史的な説明、
アメリカに与えた脅威、ひいてはその性能について、
見学者に基礎知識を与えるための展示を見ながら進みます。

■ Uボートの脅威(Menace)
”ウルフパックによる連合国船団への攻撃”



何百もの無防備な連合国の商船が、Uボートの攻撃で無慈悲に沈みました。

これに対して連合国は最大200隻の商船からなる護送船団を編成し、
護衛空母と駆逐艦によって大西洋全域を護衛しようとしました。

Uボートが護送船団を攻撃すると、これに対し駆逐艦は
爆雷(デプスチャージ)やヘッジホッグで対抗しました。



ヒットラーは(というかデーニッツなんですがこう書いてあるので一応)
ウルフパックと呼ばれるUボートのグループを編成し、
船団に大混乱をもたらす攻撃法を取りました。

1943年3月には、この戦争で最大級のウルフパック(Uボート40隻以上)が
100隻の連合軍艦艇から成る二つの護送船団に対する攻撃を行い、
この結果うち21隻が沈没させられるということが起こっています。

”連合軍の典型的な船団編成”



まず、黄色で記されたのが船団護衛駆逐艦です。
四角く並んだ船団の四隅を縁を描くように4隻、そして
そのさらに両外側を行きつ戻りつしてガードしています。

左上の旗🚩を立てた駆逐艦が護衛隊司令官の船です。

船団の外側を取り囲む灰色の船は資源を積む貨物船
その内側の紺色が石油タンカー
タンカーに挟まれているオレンジの船が戦車や航空機などの貨物
赤は弾薬輸送船です。

白い二隻の船はトループシップ、兵員輸送船です。

船団の最前列真ん中に🚩コンボイ、船団旗艦が位置します。

1942年までに、典型的な誤送船団は長方形のパターンで編成され、
その周りを護衛艦が囲むという形になっており、弾薬船、石油タンカー、
兵員輸送船は比較的安全な編隊内部に配置されました。

しかし、このフォーメーションはあくまでも「理想」「平穏時」であり、
荒天時、ましてやUボートが攻撃してきた時に
正確な間隔を維持することはほとんど不可能でした。

■ 1942−43 Uボートの脅威
”商船攻撃”



Uボートはほとんどの時間を水上で過ごすように設計されており、
基本的に見張りが水平線を偵察して
商船の煙突から立ち昇る煙を探していました。

船が発見されると、その時に初めて艦長はUボートを潜水させ、
潜望鏡を使って波の上を監視しながら獲物を追跡します。

次に艦長が

「フォイアー・アイン!(ファイアー・ワン)」

と叫ぶとき、それがUボートの乗組員が
運命の船に向かって魚雷を発射する瞬間でした。



数秒後、魚雷は商船に向かい、ヒットして激しい爆発を起こし、
船体にギザギザの形の穴を開けます。



そうすると火災が起き、船を揺るがす二次爆発が始まると、
海水が容赦なく船に浸水し雪崩れ込んできます。

乗組員は船体と共に大西洋の氷の海の底に引き摺り込まれる前に、
船を放棄しようとして、命懸けで脱出を図りますが、
そのほとんどは生き残ることはできず、共に海中に沈んでいきました。

■ハンターキラー・タスクグループ

戦争が進行するにつれて、連合軍の補給線は
ハンターキラー・タスクグループが開発されるその時まで
常に攻撃を受け続けることになりました。

しかし、一度これが投入されるようになると、
これらの任務群の有能さは目を見張るばかりで、
そのノウハウを全力投入し、威嚇するUボートを追い詰めると、
逆にそれがUボートにとっての大変な脅威となって立場が逆転し、
目に見えて護送船団の被害は激減していきました。

戦争の終わりまでに、ハンターキラー・タスクグループの投入の結果、
連合国の商船隊は、脅威に脅かされることもなく
大西洋を航行することができるようになっていきます。

その目覚ましい結果は数字に現れています。

下のグラフは、大西洋で沈没した連合国の船の数と、
撃沈されたUボートの数を年代ごとに示したものですが、これをご覧下さい。



いかがでしょうか。

最盛期の1942年まで圧倒的(1150隻)だった連合国側の船舶被害数が、
1943年に377隻とほぼ三分の一に激減し、1944年には、
民間船被害とタスクグループの撃沈したUボートの数が逆転、
終戦の頃には、完全にUボートの被害が優っています。

ハンターキラーグループは、「コンボイ・サポートグループ」とも呼ばれ、
第二次世界大戦中に積極的に投入された対潜水艦の集団です。

高周波方向探知などの信号情報、「ウルトラ」などの暗号情報、
レーダーやソナー・ASDICなどの探知技術を進歩させていった結果、
連合国海軍は敵潜水艦を積極的に追い詰め、
撃沈するための任務群を編成することが可能となりました。

こういう時の英米の科学技術に注入する民間の力は凄まじく、
短期間にこの逆転を可能にしたのは、科学・産業界の底力に他なりません。

ハンターキラー群は通常、航空偵察と航空援護を行う護衛空母を中心に、
コルベット、駆逐艦、護衛駆逐艦、フリゲート、
アメリカ合衆国沿岸警備隊カッターなどで構成され、
駆逐艦群は深爆雷とヘッジホッグ対潜迫撃砲で武装されていました。


ハンターキラーの構想が提案されたのは1942年、発祥はイギリスです。

Uボートの脅威にさらされていた大西洋横断輸送船団の護衛のため
強化された軍艦群を組織する構想が、まずイギリス海軍から生まれました。

1943年初頭に行われた連合国大西洋輸送船団会議では、
それぞれ護衛空母1隻を含む対潜戦艦10群を編成することが決定し、
そのうち5つの英・カナダグループが北大西洋の輸送船団ルートを、
5つの米グループが大西洋中部の輸送船団をカバーすることになりました。


そして1943年の5月、
大西洋でUボートの死傷率が初めて連合国軍のそれを上回りました。

これがハンターキラー導入後のエポックメイキングな出来事として
「ブラックメイ」(黒い5月)と名付けられました。

Uボートの立場に立ったネーミングですがそれはいいのか。

実はその直前の3月まで、Uボートの攻勢はピークに達しており、
大規模な輸送船団船でドイツは勝利を続けていたのです。

前の月の4月にもU-515による輸送船団TS37への衝撃的な攻撃で、
連合国は3分間に4隻、ついで3隻のタンカーを失ってもいます。

しかし、歴史を後から振り返ったとき、1943年5月、
それはUボートの戦力はピークに達し、後は落ちる運命でした。

240隻のUボートのうち118隻が出動している状態でしたが、
そこから連合軍艦船の撃沈は減少し続けたのです。

それでは「ブラック・メイ」といわれたこの5月、
何があったかというと、それまでで最もUボートの損失が大きく、
41隻(稼働中のUボートの25%)が破壊されていました。

この月は双方で大きな損失を出した激戦があったものの、
護衛艦の戦術的な改良が効果を発揮し始め、
次に攻撃された3つの輸送船団は、わずか7隻の沈没に対し、
撃沈したUボートはついに同数となっていました。

そこにいる人々には誰にも見えていなかったかもしれませんが、
明らかに後から考えれば、分水嶺というべき瞬間だったことがわかります、

この月に撃沈されたU-954には、
デーニッツ提督の息子ペーター・デーニッツも搭乗していました。

つまりデーニッツは自らの作戦で息子をなくす結果になったわけです。
翌年5月に、もう一人の息子、Sボート乗員だったクラウスも失っています。


クラウス・デーニッツ

デーニッツにとってもこの月は文字通りの「黒い5月」となったわけです。


この5月、大西洋で失われた連合軍の船はわずか34隻に止まりました。

5月24日、Uボートの敗北にショックを受けたデーニッツは、
Uボート作戦の一時停止を命じ、大半を作戦行動から撤退させています。

そしてその後、Uボートが優位を取り戻すことはありませんでした。

さて、ここからは、タスクグループ結成までの流れを、もう一度、
この博物館のパネルをもとに順番に説明していくことにします。


■ 米海軍”ハンターキラーを解き放つ”


1943年までに、連合国の対戦情報、電子追跡、攻撃機の進歩により、
流れはドイツ海軍のUボートにとって不利になりつつありました。

米海軍はUボートを1隻ずつ追い詰める時期がきたと判断しました。

しかし、Uボートは依然捉えどころのないものであり、
単一の船でその仕事をすることはできません。

そのため、米海軍は特別な対潜護衛艦を編成し、
ハンターキラー・タスクグループと呼ばれる部隊を作ったのです。


1944年5月、ハンターキラー・タスクグループ22.3が結成されました。
その機動部隊は、USS「ガダルカナル」と名付けられた小型空母護衛艦と
5隻の軽護衛駆逐艦で構成されていました。

22.3のようなタスクグループは、技術をプールして攻撃を続けることで
Uボート戦における形勢をじわじわと逆転させていきました。

いまやかつてのハンターは、「狩られる」側になろうとしていました。


ハンターキラータスクグループ旗艦「ガダルカナル」艦上の壮行式

■ タスクグループ始動



タスクグループ22.3の旗艦
対潜護衛空母USS「ガダルカナル」CVE-60



写真右下のグラフは、士官、下士官兵、パイロットの搭乗員の数を表します。
パイロットの割合の多さが注目すべき点です。

艦載された戦闘機と雷撃機は、連合軍の陸上機の射程外に扇状に展開し、
Uボートを捜索する役割を果たしていました。

当然のことですが、速度と高度により、戦闘機群は、
艦船が単独で行うより遥かに多くの海域を探索できます。

パイロットは日中は肉眼で海上のUボートを探し、
夜間は艦載レーダーによって捜索が行われました。
また、水中のUボートの音を聞くためにソノブイが投下されました。

航空機に発見されると、Uボートは本能的にそれを察知して潜航しますが、
パイロットはその位置をマークするために、水上に発砲を行います。

するとそののち駆けつけてきたタスクグループの駆逐艦は、
マーキングされた付近に爆雷を雨霰と投下するのです。
  
■ 1944年アメリカ海軍
”ダン・ギャラリー大佐”


ハンターキラータスクグループの、23.3の指揮官に選出されたのは
ダニエル・V・ギャラリーJr.大佐でした。

シカゴ出身のギャラリーは、海軍兵学校卒業後パイロットとなり、
飛行教官としても腕を振るいました。
彼の飛行技術は独創的で、インスピレーションに富み、
そして何より勇敢で優れた戦闘機乗りでした。

戦争の前半、彼はスコットランドとアイスランドの水上機基地を指揮し、
北大西洋の船団レーンのパトロールを担当していました。
彼の船団グループは合計6隻のUボートを撃沈しています。

1943年9月、ギャラリーはアメリカに戻り、
USS「ガダルカナル」の艦長に任命され、その後、タスクグループ21.12で
U-544、U-515、U-68、3隻のUボートを撃沈しました。


■ ”我々にUボート捕獲の勝算あり”



機動部隊31.1aでの最後の対潜哨戒中、
ギャラリー大佐はUボートの捕獲が可能かもしれないと考えました。

もし捕獲できれば、Uボートの持つ魚雷誘導システム、通信コード、
Uボートが使用する攻撃戦術に至るまで、
ドイツの秘匿された軍事技術を連合国で共有することが可能となり、
戦況に大いに有益となるばかりか、その後の展開によっては
歴史的にも記念碑的な偉業になるに違いありません。

1944年4月に、ギャラリーはアメリカ本国に戻ると、
タスクグループの全ての艦船に、Uボートの捕獲、その後の接収、
そして牽引の計画を作成するように命じました。

部隊はすぐにそのための訓練を開始しましたが、
これまでになかったことの準備ゆえ、多くの未知数があったのも確かです。

しかし、1944年5月、ギャラリーが指揮するハンターキラー機動隊22.3は
可能であればUボートを捕獲すべしという命を受けて大西洋に出撃しました。


ハンターキラータスクグループ21.12がU-515を捕獲した地点
「沈没」と書いてあるが、結局沈没はアメリカの手で食い止めた


■ 護衛駆逐艦



ハンターキラータスクグループ22.3で
ギャラリー艦長率いるUSS「ガダルカナル」を支援したのは、
以下5隻の護衛駆逐艦でした。

USS「シャトレイン」Chatelain DE-149

USS「フラハティ」Flaherty DE-135

USS「ジェンクス」Jenks DE-665

USS「ピルズベリー」Pillsbury DE-133

USS「ポープ」Pope DE-134

護衛駆逐艦は、通常の重装甲の駆逐艦よりも軽量、小型、高速で
機動性に優れていたため、とらえどころのないUボートを追跡、
そして攻撃するのに最適だったと言えます。

アメリカ海軍の水兵たちが親しみをこめて呼んだところの
「ブリキ缶(ティン・カン)」には、
浮上したUボートの位置を特定するためのレーダーが装備されていました。

加えて、水没したUボートを検出するソナーと水中聴音機で、
命中すると爆発する小さなヘッジホッグ、
そして特定の深度で爆発するよう設定できる強力な爆雷を持っていました。

Uボートの艦長たちは、護衛駆逐艦を避けるために全力を尽くしました。
見つかったが最後、自ら終焉を覚悟するほどの打撃は免れなかったからです。




続く。



USS「フライアー」とサバイバル個人衛生携行品〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-31 | 博物館・資料館・テーマパーク

USS「シルバーサイズ」潜水艦博物館シリーズの最初の頃、
「シルバーサイズ」と同期で災難に遭ったアメリカ潜水艦について、
入り口に展示されていたいくつかの写真や物から紹介したのですが、
全ての展示を紹介し終わったと思ったら、そのうちまだ
USS「フライアー」の遭難に関する展示物が残っていたのに気がつきました。

今日は前回のおさらいをしつつそれを紹介します。



まずこのパネルを思い出してください。

1944年8月13日日曜日の午後10時近く、曇天の暗い空。
西に稲妻が点滅しました。

USS「フライアー」は、フィリピンのバラバク海峡に向かって
南南西に17ノットの速度で航行しています。

潜水艦は目立たないように静かに航走を行います。
暖かく、穏やかなうねりがデッキ全体を洗い流していきます。

9人の乗員がスピードを上げる潜水艦のブリッジと見張り台に立っています。

彼らが目標とするのは、南シナ海における日本の護送船団です。
海面を航走しながら「フライアー」は「絶好調」でした。
(makes good time.)

夜間でも発見されるリスクはあるので、さらなる見張りが
敵の哨戒に備えて海と空をどちらも警戒するのです。

このあと、「フライアー」はバラバク海峡を浮上して航行中、
日本軍の機雷に触雷して2〜30秒ほどで沈没しました。



ここで、「エターナル・パトロール」(永遠に哨戒中)
という、戦没潜水艦を記録するHPから、
「フライア」の記述を書き出してみます。

ジョン・D・クロウリー(CDR John D. Crowley)率いる「フライア」は、
1944年8月2日に西オーストラリア州フリーマントルを出発し、
第2次哨戒活動を行った。

ロンボク海峡、マカッサル海峡、セレベス海、シブツ航路、
スールー海を経由して、フランス領インドシナ、
サイゴンの東に位置する地点に向かう予定であった。

8月13日の夕方までにスールー海を抜け、
パラワン島の南にあるバラルバック海峡を通過していた
2200、災難が襲った。

突然、右舷前方で起こったと思われる大爆発がボートを揺るがしたのだ。

ブリッジにいた数人が負傷し、司令官はブリッジの後部に投げ出されたが、
しばらくして正気を取り戻した。

油と水と瓦礫がブリッジに溢れかえっている。
燃料の強烈な臭いがし、コニングタワーのハッチから
ものすごい勢いで空気が抜け、下からは浸水音と男たちの悲鳴が聞こえた。

副長のリデル中尉は、CDRクロウリーと話すためにハッチの下に降りたが、
ハッチから逆流する水に吹き飛ばされた。
そして彼の後ろからは男たちが流れ出してきた。

20秒か30秒の間に、フライアはまだ15ノットで航行しながら沈没した。
司令官は、爆発は機雷との接触によるものと判断した。

生存者の証言によると、沈没後、以下の人物が水中で目撃された。

Crowley, J. D., CDR;
Liddell, J. W., Jr., LT;
Jacobson, A. E., ENS;
Howell, A. G., CRT;
Tremaine, D. P., FCR2c;
Miller, W. B., MoMM3c;
Russo, J. D, QM3c;
Baumgart, E. R., MoMM3c;
Knapp, P., LT;
Casey, J. E., LT;
Reynolds, W. L., LT(jg);
Mayer, P. S., ENS;
Hudson, E. W., CMoMM;
Pope, C. D., CGM;
Madeo, G. F., F2c;

レイノルズ中尉はハドソンと同様に負傷し、
生存者全員が集まるようにとの指示があったとき、
彼らとポープは再び姿を現さなかった。

マイヤー少尉はハウエルに助けられたが、
20分ほどで意識を失い、放棄せざるを得なかった。

燃料油の臭いが立ち込める暗闇の海で立ち泳ぎをしながら、
艦長は点呼を取り生存者を集めました。
その結果、艦橋にいたクローリー艦長以下14名が生き残り、
その他72名の士官と兵員は、艦と運命を共にしたことがわかりました。

沈没地点は陸地からわずか3マイルでしたが、空が暗く曇っていたため、
艦長は明るくなるまでその場で立ち泳ぎをすることを命令しました。



「この間、ケイシー中尉は油で目をやられ、何も見えなくなっていた。
4時頃、彼は疲れ果て、他の隊員は彼を置いて去らざるを得なくなった。

クローリー中佐は、最速で泳ぐことが唯一の希望であることを悟り、
全員に対して、見えてきた陸地に向かって最善を尽くすように指示した。
マデオは遅れをとり始め、5時過ぎには見えなくなった。」

その後何人かが脱落していき、海岸にたどり着いたのは艦長以下8名でした。

その後、生存者たちは、たどり着いた島での壮絶なサバイバルの末、
現地にいたフィリピン人ゲリラと接触し、なんとか生還を果たしました。

その「何とか生還」するまでの過程を記した展示が今回見つかりましたので、
その壮絶なサバイバルを書き残しておきます。



パラワン島の地図に記された矢印は、「フライア」の生存者の辿った
生還までの道筋の様です。



8月13日(日)
USS「フライアー」、バラバク海峡近くに仕掛けられた
日本の機雷に触雷し、午後10時過ぎ沈没。

8月14日(月)
8名の生存者、マンタングル島まで15マイルを17時間半で泳ぐ。

8月15日(火)
生存者は再編成し、島を偵察したが、食べ物も水も見つからず、
しかたなく東側にある未知の島に向かうことを決定。

8月16日(水)
全員で筏を作り、ビヤン島に向かう。
まだこの時点で食糧は全く見つかっていない。

8月17日(木)
飢えと渇きに苛まれた男たちはビヤン島でも何も得ず、
隣のガブン島に移動、ここも無人島であった。
そこでガブン隣のバグスク島に建物があるのを認める。

8月18日(金)
バグスク島に筏で漕ぎ着ける。
ここで廃村になっている集落に滞在した。

8月19日(土)
バグスク島の見張りが午前8時「フライアー」生存者グループを発見。
彼はジャングルの隠れ家に一向を案内し、
生存者たちは数日ぶりに食べ物にありつく。

8月20日(日曜日)
今日で遭難してからちょうど一週間め。
ゲリラたちは生存者たちにバグスク川まで案内し、
ボートを用意してくれると言うSula La Hudという人物に会わせてくれる。

その日の4時、メンバーはボートで出発する。

8月21日(月)
スーラ・ラ・ハッド、ニックネーム「セイラー」という男は、
彼らに同行し、パラワン島にあるケープ・ブリルヤンという
ゲリラ前哨基地に向けて暗礁の海を航行してくれた。

午前3時30分到着し、その日の午後遅く、ブルックのPtに向かう。


8月22日(火)
リオ・チューバに一晩滞在。



8月23日(水)
男たちはブルックのPtに午前8時ごろ到着。
ゲリラたちは安全のために「フライアー」乗員を山の隠れ家に移動させる。


おそらくゲリラの基地

アーサー・ハウエル(電気技師?)が沿岸警備の無線機を修理した。
その夜、軍曹はマッカーサー元帥の米陸軍司令部に、
フライヤーの沈没と生存者について無線で報告する。

8月24日(木)
ブリスベーンにいたマッカーサーの米陸軍司令部が無線に答える。
陸軍司令部はこれを海軍の第7艦隊に転送する。

8月26日(土)
マッカーサーの米陸軍司令部、ブルックスのPtに返信し、
海軍第7艦隊司令部から届けられた救助計画を指示。
内容は、生存者は米海軍潜水艦の救助に答える通信を待てとのこと。

8月27日(日)
「フライアー」グループ、アメリカ潜水艦とのランデブーをアレンジ。
沈没してから今日で二週間め。

8月28日(月)
夕刻、「フライアー」の艦長クロウリーが無線で
協議した救済計画についてマッカーサーの陸軍司令部に打電。
それは第7艦隊司令部に送信される。

8月29日(火)
深夜1時、司令官クロウリーはレスキュープランを受け取る。
USS「レッドフィン」が翌日夜ピックアップに来るとのこと。

8月30日(水)
夕刻、「レッドフィン」と生存者たちは、近海にいる
小さな日本の船舶の周りを避けながら慎重に連絡をとった。


8月31日(木)
「フライアー」の生存者はUSS「レッドフィン」に移乗成功。
オーストラリアへの出発を準備する。



USS「レッドフィン」(SS-272)に収容された生存者8名のうち7名

前列左より

ジェームズ・ルッソ
ウェズリー・ミラー
アール・バウムガート
アーサー・ハウエル


後列左より

ジム・リデル大尉
ジョン・クロウリー艦長
アル・ジェイコブソン少尉


撮影者 ドン・トレメイン


1994年の生存者同窓会

左より
アル・ジェイコブソン少尉
ジム・リデル大尉
ジョン・クロウリー艦長
ウェズリー・ミラー
ジム・ルッソ


後のメンバーは会に参加できなかっただけで、
当時は全員まだご存命だったそうです。

さすが強運の生存者。



ここでアメリカ軍の戦闘食が展示されていました。

「パーシャルディナーユニット メニューNo.4」には、

缶入りミート か、チーズ
缶入りデザート
が、カートンに混入されている缶のなかに見つかるでしょう


という、直訳すればなんだかふざけてるような説明付きです。

もちろん「フライアー」の乗員はこんなものを持ち出す間も無く
ボートは沈んでしまったので、苦労したんですけどね。

これもカートンに「混入」していたのかな?

ネスカフェのインスタントコーヒー、
グラニュー糖
ブイヨンパウダー(お湯に溶かすとスープの出来上がり)
クラッカー
スペアミントガム1枚
チャームス(キャンディ)
キャメル(タバコ多分5本くらい)
V.D(タバコ用マッチ)

コンビーフ・ハッシュの缶




ポークランチョンミート、「スパム」です。

ホーメル・フーズ・コーポレーションが製造する調理済み豚肉缶詰で、
1937年に発売され、第二次世界大戦中の使用により人気になりました。

もともと、あまり売れなかった豚肩ロースを売るために開発されたもので、
「SPAM」の意味は、社外秘となっており、
世間では「スパイスの効いたハム」の縮約形とか、
「Shoulder of Pork And Ham」の頭字語と推測されています。

第二次世界大戦中、前線に新鮮な肉を届けることが困難であったため、
スパムはアメリカ兵の食事の一部として流通するようになります。

あくまでも代用食という位置付けだったせいで、兵士からは

「健康診断に合格しなかったハム」
「基礎訓練のないミートローフ」
「特別軍の肉」


などと呼ばれていたようです。

スパムが世界に広がったのも戦争がきっかけでした。
戦争とそれに続く占領下で、グアム、ハワイ、沖縄、フィリピン、
および太平洋の他の島々に導入され、すぐに先住民の食生活に吸収され、
ある意味アメリカの影響力の歴史と影響を示す存在ともなったのでした。

イギリスでは第二次世界大戦の配給とレンドリース法の結果として、
これが国民の口に入ることになり、マーガレット・サッチャーは
後にそれを「戦時中の珍味」と呼んだとか。

また、スパムは第二次世界大戦中の連合国であった
ソビエト連邦への援助の一環として送られていました。

ニキータ・フルシチョフは回想録『フルシチョフの記憶』の中で、
「スパムがなければ、我々の軍隊を養うことはできなかっただろう」
と述べています。

戦争中、紛争で荒廃し、厳しい食糧配給に直面した国々は、
スパムを高く評価するようになりました。

かつてはアメリカ領であった沖縄では、卵と一緒におにぎりに入れたり、
沖縄の伝統料理であるチャンプルーに主食として使われたり、
現在でも地元のファーストフードチェーンのジェフでは
スパム・バーガーが販売されているのだとか。

ただまあ・・・あくまでも「非常食」「代用食」的商品なので、
日本で特に最近これを食べる人はあまり多くない気がします。

話が長くなりましたが、スパムの近くにあるのはキャラメルです。



「Personal Hygiene Items」

ウォルドルフ・トイレットペーパー・パケット
包装には、
「MADE FOR THE U.S. ARMY
BY THE MAKER OF The Waldorf A Scott Tissue」
「REG. U.S. PAT OFF」
「SCOTT PAPER CO, CHESTER, PA」

”U.S. PAT OFF."、"SCOTT PAPER CO., CHESTER, PA. "


と印刷されています。

このトイレットペーパーは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、
兵士に毎日配られたものです。

パーソナル・ハイジーンとは、文字通り「個人衛生」で、
兵士個人の健康を維持することを目的とした一連の習慣のことです。

効果的な個人衛生を維持するために、各兵士は、
現場や配備で使用する個人衛生用品を備蓄しておかなければなりません。

トイレットペーパーはもちろんですが、現代のアメリカ陸軍の規則では、

除菌ワイプ
シャンプー
シェービングキット
石鹸
日焼け止めローション
トイレットペーパー
歯ブラシ
歯磨き粉
タオル
ウォッシュクロス
吸水性ボディパウダー
アルコール系ハンドサニタイザー
制汗剤/デオドラント
くし
デンタルフロス
DepartmentofDefense-approvedinsectrepellent
(国防総省認可の防虫剤)
点眼薬
女性用衛生用品
フットパウダー
ヘアブラシ
リップバーム
処方薬(例:避妊薬、血圧計、その他)


などの携帯用品は軍から支給されます。
ちなみに写真の後ろに見えている煉瓦の様なものは
当時アメリカ陸軍から支給されていた石けんなのだそうです。

ところで、個人衛生の中でも、特に重要なのが排泄。
アメリカ陸軍では、

「衛生とは、下水や排水などの固形廃棄物や
不健康な人間の排泄物を適切かつ衛生的に処分・処理することである」

と定義しています。

そして、
「現場で発生する廃棄物を適切に管理することは、
兵士の健康や環境を守るために非常に重要である。
これらの物質を不適切に扱うと、危険な作業環境を作り出し、
重要な天然資源を損傷し、任務達成を妨げ、
訓練地に取り返しのつかない損害を与えることになる。

また、
不適切な廃棄物管理は、刑事罰や民事罰、多額の清掃費用につながり、

地域社会やホスト国との軍の関係も損ねることになる。

として、現場での廃棄物管理について、
厳しく収集と処理を奨励しています。

そのため、アメリカ陸軍では 携帯用トイレシステムを配布していますが、
一般に、米国内では即席便所(猫穴やスリット溝など)の使用は、
生態系や法令上の制限により、あまり一般的ではなくなってきています。

あと、アメリカらしいのが口腔衛生についてで、

「口腔衛生の問題は、即戦力の問題である。
精力的に口腔衛生を維持できない兵士は、すぐに非配備になりかねない。

と激しく言い切っています。

口腔内の細菌を放置すると、でんぷんや砂糖を使って酸を作り出し、
すぐに歯肉炎や虫歯になる可能性がある。
数日間ブラッシングを怠ると、歯茎に炎症が起こり、
歯茎から出血することもある。
すでに歯周病がある場合は、すぐに悪化してしまうので、
虫歯と歯周病を予防するために、
兵士は常に良い口腔衛生習慣を維持しなければならない。

として歯磨きを1日2回、フロスを必ず1日一回するようにとしています。
たとえ水道水が使えない状態でも、
陸軍ではそれ専用の歯磨きをすることが厳しく決められているのです。


海底に眠るUSS「フライアー」


続く。





「ロシアに愛を込めて」空挺隊員 戦地からの帰還〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

ミシガン州マスキーゴンのUSSシルバーサイズ潜水艦博物館は、
地元の戦時中の資料なども展示して、当時の住民たちの
戦時協力について知ることができ、地元戦争博物館の役目を果たしています。


2階の通路も展示スペースに利用。
(ただしこの展示、写真が撮れません)

FDRのキメ写真や戦時ポスターの展示の上に、

「我々の誰も、第二次大戦中の陸軍看護部隊がしたようなことはしていない」
”We didn't do anything the army nurse corp
in World War II did."


とあります。
これ、惜しいところで最後の「did」が見えませんが、これだと

「私たち第二次大戦中の陸軍看護部隊は何もしていない

となってしまいます。

それから、一番左にコーストガードのボートらしい写真があります。

「アメリカが戦争に参戦すると、沿岸警備隊の主な国内の焦点は
防衛施設と、鉱石、石炭穀物およびその他の必要な戦争物資の大規模な輸送を
破壊工作から保護することになっていきました。

しかし、1942年初頭までに、何百人もの五大湖沿岸警備隊員が、
海軍任務のために東海岸に移送されることになりました。

民間人ばかりで構成された沿岸警備隊補助隊は、
港湾警備及び捜索救助作業において沿岸警備隊要員を増員、
または交代させる任務の要請に応えました。

彼らの多くは自前のプレジャーボートを哨戒艇として使用し、
戦闘任務に派遣された沿岸警備隊の船舶の代わりを務めました」


とあります。

五大湖付近で沿岸警備隊にいた民間人も、
東海岸で戦争のため補助的任務に注力されたということですね。

写真の何人かは背広にネクタイの姿ですが、
もしかしたらこれから東海岸に移送される警備隊員かもしれません。



近くからは撮れないので、反対側通路から撮ったこの写真。

こうして並んでいるとアート写真ぽいですが、
全て潜水艦「シルバーサイズ」を、プロのカメラマンが撮影したものです。

二つのドアの上には、もはや芸術的にも見えるパイプの列や並んだ計器、
そして、夕日をバックにした姿、照準器を通してみた潜水艦とか、
全体的に一つの作品のように展示されています。

これらの作品は左上に名前の記されている

Great Lakes Photo Group

という写真家の集団が制作したものだそうです。

同じグループかどうかは分かりませんが、調べたら、
Great Lakes Photo Adventures (@GLPA)
という、五大湖とその周辺での写真撮影を通じて、
フォトウォーク、ワークショップセミナーを開催している
写真愛好家グループがありました。

ホームページを覗いてみたところ、参加はプロの写真家でなくてもよし。
一眼レフでなくとも、携帯、ミラーレス一眼でもいいとゆるゆる。
ゴリゴリ一眼レフ教条主義とかでない、敷居の低い会で、
和気藹々と五大湖の撮影を楽しみましょうということのようです。


■ 戦地からの帰還

さて、今日冒頭に挙げた写真。

「モスクワからマスキーゴンへ」

というタイトルの下では、陸軍の軍曹に身を包んだ男性、
彼に瓜二つってくらい似た父親、そして彼にしがみつく母親の様子から、
もうこれは生死を諦めていた息子が帰還したんだなとわかるシーンです。

キャプションを読んでみます。

「ロシアの病院で回復している間、ジョーはあの有名なロシア軍元帥、
ゲオルギー・ジューコフ将軍の見舞いを受けました。
元帥は、
自分の軍隊と共に戦ってくれた米軍兵士と会うことを望んだのです。

元帥はジョーに自署入りの手紙を発行し、
彼がモスクワのアメリカ大使館に行く助けをするよう関係者に命じました」


これだけだと色々と謎ですが、この事情を解き明かしていきます。


ガラスケースに展示されたマスキーゴン・クロニクル紙、
その他関連資料が収められたガラスケース。

「ロシア”より”愛を込めて」を逆にもじって、

”To Russia with Love”

をタイトルにしたこの記事のサブタイトルは、

「ローカルヒーローの持ち物国際展示の一部」

となっています。
そして写真には、

「ナチスの囚人としてファンタスティックなアドベンチャーをしながら
『死の淵から帰還』したベイル(Beyrle)軍曹」

とあります。
展示された持ち物というのは彼の制服や靴、それから
地元の高校でスポーツ選手だった彼のユニフォームなどのようです。

「ロシアより愛を込めて」From Russia With Love

は映画で有名になりましたが、元々は小説で
イアン・フレミングのジェームズ・ボンドシリーズ第5弾です。

発行が1957年、映画化はさらに1963年ということで
おかしいなと思ってよくよくみたら、新聞の発行は2010年でした。

つまり、この時期にかつての地元ヒーローの遺品が、2010年になって
あらためてマスキーゴンで展示披露されたということのようです。



ガラスケースの中身はこの時の展示品でしょう。

ガラスケース右側の、勲章をたくさんつけた老人ですが、
これはそのジョー・べイルその人であり、
その本のタイトルというのは

「Hero of Two Nations」(二カ国の英雄)

となっています。
それでは、このジョー・ベイルとはどんな人だったのか。

■ ジョセフ・ベイル

そもそも、このBeyrleという名前をどう発音すればいいのか、
わたしにはまず想像もつかないわけですが、
「ベイル」「バイル」「ベイユ」あたりでしょうか。
「バイレ」かもしれませんし「ベイヤール」かもしれません。
でも想像がつかないので、ベイルに統一します。

彼がなぜ米ソ両国で「英雄」になったのか。

ジョセフ・R・ベイル 
Джозеф Вильямович Байерли 1923- 2004

は、第二次世界大戦でアメリカ軍とソビエト赤軍の両方で戦闘に参加した
唯一のアメリカ人兵士として知られています。

1944年6月5日から6日にかけて行われた
第101空挺師団の空挺上陸作戦「ミッション・アルバニー」に
第506パラシュート歩兵連隊の一員として参加し、
ドイツ軍の捕虜となって東部へ送られた彼は、
その後ソ連軍に参加して傷を負い、収容されていたところ、
先ほどの事情でアメリカに帰国しました。

彼の両親は、1800年代にドイツからアメリカに移民してきました。
ベイルという名前はドイツ系だったわけです。

【生い立ちと陸軍入隊】

7人兄弟の3番目として生まれた彼が幼い時、工場で働く父親が失業し、
一家は家を追い出されることになりました。
二人の兄は学校を諦めて働き、仕送りを続けていました。

彼は高校卒業後の進路としてアメリカ陸軍をえらびました。

大学進学をしようと思えば奨学金が取れるほど優秀だったようですが、
出稼ぎに出た兄の一人が16歳という若さで病没したことから、
やはりすぐにでも確実に家族を楽にする方法として入隊したのでしょう。

空挺歩兵として第101空挺師団の第506空挺歩兵連隊、
通称「スクリーミング・イーグルス」
に配属された彼は、
無線通信と爆破の専門を持ち、ヨーロッパに派兵されました。

【ノルマンディ上陸作戦】


そして、D-Day、ノルマンディ上陸作戦の6月6日がやってきます。

ベイルの乗っていたC-47は、ノルマンディー上空で敵の攻撃を受け、
110メートルという非常に低い高度からのジャンプを余儀なくされました。


再現シーン

フランスのサン=コム=デュ=モンに着陸した後、ベイル軍曹は
仲間の空挺部隊と連絡が取れなくなりつつも、発電所の爆破に成功。

さらに破壊工作を継続しますが、数日後、ドイツの捕虜になるのです。

ちなみに再現展示の後ろに見えているのは、現地にあった教会です。
2005年、この教会の壁に記念プレートが設置され、除幕されています。

二カ国で戦った英雄ベイルの功績を讃えるものでした。

【ナチスの捕虜になって】


捕虜となったベイル(不貞腐れ中)1944年秋

その後7ヶ月間、ベイルは7つのドイツ軍刑務所に収監されましたが、
2度脱走し、2度とも捕らえられました。

捕虜収容所の再現(多分)

反骨精神の塊のような面魂の彼ですが、無目的に逃げようとしたわけでなく、
脱走の目的は、仲間と共に近くの赤軍に合流することでした。

2回目の脱走でポーランドに行こうとしてベルリン行きの汽車に乗ってしまい
民間人に見つかってゲシュタポの手に落ち、拷問されますが、
どういう成り行きか、ゲシュタポには捕虜の管轄権がない
と、待ったをかけた当局者がいて(たぶんゲシュタポと仲が悪いドイツ軍)
その後、ドイツ軍に身柄を渡されることになりました。

このときの出来事が、彼の命を救うことになります。

なぜならゲシュタポは、空挺兵である=スパイの可能性あり、として
拷問ののちベイルを射殺するつもりでいたからです。


【ロシア軍女性戦車隊長との出会い】

しかしそこで諦めないのがこのベイルという男。

またしても捕虜収容所から脱走した彼は、
(ドイツ軍の捕虜収容所の警備はどうなっているのか問いたい)
ソ連軍との合流を目指し、東へ向かいました。

そしてついにソ連軍の戦車旅団に遭遇したとき、
彼はラッキーストライクのタバコの箱を持ったまま両手を挙げ、

「アメリカーンスキー・タバーリシ!」
(「アメリカの同志よ!」)

と叫んでみました。

ここからが映画化決定、全米が泣いた的展開としか言いようがないのですが、
その時彼が出会った戦車旅団の大隊長というのが、
世界で最も女性進出が進んでいたと思われるソ連軍の中でも
特別に出世したことで後世に名を残した、史上唯一の女性戦車士官



アレクサンドラ・サムセンコ
Aleksandra Samusenko
Александра Григорьевна Самусенко
1922−1945

だったのです。

Women of war Alexandra Samusenko Heroine of Russia

Women of war Alexandra Samusenko Heroine of Russia

生まれは白ロシアで戦車学校卒、最終階級は大尉。
ベイルと出会った時には22歳の若さですでに大隊長でした。

サムセンコの戦車旅団に遭遇したベイルは、彼女を説得して、
ベルリンに向かう部隊と一緒に戦う許可を得、
ソ連戦車大隊と行動を共にして1ヶ月間の任務を行いました。



戦車大隊では、ベイルの解体の専門知識が高く評価されることになりました。

加えて、サムセンコの部隊は、ここにもその姿を見ることができる、
アメリカのM4中戦車(シャーマン)を運用していたのです。

のちにベイルは、女性隊長サムセンコについて、

「彼女が戦争中に夫と家族全員を失っていると聞いた。
彼女は、この時期のソ連国民が示した不屈の精神と勇気の象徴だった」


と回想しています。

彼女はその後、行動中、暗闇の中で自軍の戦車に轢かれ、
その事故による怪我で、22歳の短い人生を終えています。


■ ロシア軍元帥の見舞い

「元帥のお見舞い」というと、どうしてもわたしたちは
日本海海戦で傷ついたロシア海軍のロジェストヴィンスキー将軍を
我が東郷元帥が枕元に見舞ったという話を思い出してしまうのですが、
今回の話はソビエト軍元帥自らが一アメリカ兵を見舞った例です。

ベイルは2月の第1週にドイツ軍の急降下爆撃機による攻撃で負傷し、
現在のポーランドにあったソ連病院に収容されました。

彼がゲオルギー・ジューコフ元帥の訪問を受けたのはこのときです。


ジューコフ元帥(参考までに左が若い時。軍帽の被り方にこだわりあり)

ジューコフという名前を知っている日本人はあまりいないかもしれませんが、
ソ連国民ならおそらく誰でも知っている軍人です。
日本で言うと乃木大将みたいな位置づけかもしれません。知らんけど。

病院で唯一の非ソ連人に興味を持った彼は、通訳を通じて彼の話を聞き、
ベイルにアメリカ軍に復帰するための公的書類を提供したというわけです。

■ 帰還

ソ連の乃木希典の鶴の一言によって、ベイルはソ連軍の輸送隊に合流し、
1945年2月、モスクワのアメリカ大使館に到着しました。

そこで彼がアメリカ陸軍省から聞かされたのは、彼自身が
1944年6月10日にフランスで戦死したと認定されていたことでした。

ジョー・ベイルが捕虜になりその後亡くなったという通知
マスキーゴンのベイルの父ウィリアム宛に届いた

このため、彼の地元マスキーゴンでは彼の葬儀が行われ、
地元の新聞に訃報が掲載されていたというのです。

そこからの思いがけない生還。

生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のベイルの生還に、
彼の両親がいかに狂喜乱舞したかは想像にあまりあります。

そこからの帰還ですから、冒頭の写真で
かーちゃんが息子にしがみついて離れないのも無理はないと思えます。

ベイルは1945年4月21日にミシガン州に生きて帰還しました。

そして翌年1946年に結婚したのですが、結婚式を挙げた教会は
2年前に彼の葬儀を執り行ったのと同じでした。

アメリカの家庭は、特に地方ほど一つの教会に代々通うことが多く、
神父さんともすっかり顔馴染みだったりするので、
同じ教会で洗礼を受け、結婚式を挙げて時々懺悔を行い、
死んだらそこで葬式をするのがわりと普通のことになっています。

なので、順番が上の通りならなんら不思議なことではありませんが、
一人の男の葬式を執り行ったのと同じ神父が、それからのちに
生きて帰ってきた本人の結婚式を執り行う例は
おそらく世界でも稀なできごとだと思われます。

さて、時は流れてDデイから50年後の1994年。

ホワイトハウスのローズガーデンで行われたDデイ50周年記念式典で、
ベイルはビル・クリントン米大統領とエリツィン露大統領から
その功績に対しメダルを授与されることになりました。


彼の長男のジョー・ベイル2世は、ベトナム戦争で第101空挺部隊に所属し、
2008年から2012年まで駐ロシア米国大使を務めました。
(絶対この人事、狙ってるよね)

ジョー・ベイルが亡くなったのは2004年12月12日。

かつて落下傘兵として訓練を受けたジョージア州トッコアを訪問中、
心不全で眠りながら亡くなりました。

享年81歳。
現在はアーリントン国立墓地に眠っています。



’ジャンピン’ ジョー・ベイル

ジョーは1942年6月に高校を卒業しました。
ノートルダム大学への奨学金を断り、アメリカ陸軍に入隊。

彼は新たに編成された空挺部隊に志願し、1942年9月17日入隊。
ジョージア州キャンプ・トコアに送られ、エリート部隊である
第101空挺師団506連隊の一員になりました。
彼らは「スクリーミング・イーグルス」として知られるようになります。

5回の空挺降下に成功した後、彼はウィングマークを獲得しました。

海外に派兵される前に、通常兵士たちは故郷への帰還を許されます。
マスキーゴンでの休暇中、彼のウィングマークを見た女性は
ジョーのことをパイロットだと思い、

「今まで何回ほど飛行なさったの?」

と聞きました。
すると彼の答えは、

「11回離陸しましたがまだ着陸はしたことないです」

つまり11回全て空挺降下したので飛行機で降りたことありませんと。



空挺、エアボーンという部隊は一般にそれほど知られていませんでした。
この頃、空挺降下はまだ軍隊にとって新しい概念だったからです。

装備、戦術、訓練方法、そしてシステム、これらの全てをゼロから発明し、
そしてそのそれぞれをテストする必要がある段階でした。

空挺部隊の黎明期に隊員となったベイルは初期のエキスパートとして、
パラシュート降下の新しいメソッドを開発することで
さらにこの戦法の確立に貢献したと言えます。

ジョー・ベイルの人生と、戦時中の体験に捧げられた展覧会は、
2010年にモスクワと他のロシアの3都市で開催されました。

その後アメリカでは2011年にはトッコアとオマハで、
2012年6月にはベイルの故郷のマスキーゴンで開かれています。

そして、現在、ここマスキーゴンのUSSシルバーサイド・ミュージアムに
常設展示されているというわけです。



続く。



鋳造会社CWCと戦時ヘッドライン〜潜水艦シルバーサイズ博物館

2023-03-23 | 博物館・資料館・テーマパーク

USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示から、
今日はまず、潜水艦に不可欠な部品、クランクシャフトを作っていた
マスキーゴンの鋳造会社の技術についての展示をご紹介します。


クランクシャフトの「クランク」は、機械装置の一つで、
往復運動を回転運動にしたり、その逆に変えたりする装置のことです。

また、「シャフト」とは、機械などの動力伝達用の回転軸のことです。

クランクシャフトは、エンジンでピストンが往復運動をし、
その力をコネクティングロッドが伝達することで、回転の力を生みます。


赤い部分がクランクシャフト。
グレイがピストン、ブルーはシリンダーです。


■C.W.Cによるクランクシャフトの製造



このC.W.Cというクランクシャフトの会社について、
検索してみたのですが、すぐには引っかかってきませんでした。

さらに検索すると、

CWC Textron Castings

という会社がそれに該当することがわかりました。



1908年、3人のアメリカ人が立ち上げた製造会社です。
CWCという会社名は、彼ら3名の名前のイニシャルから取って

Campbell、Wyant & Cannon Foundries

というのが最初の名称だったことからきています。

ドナルド・J・キャンベル、アイラ・A・ワイアント、
ジョージ・W・キャノンの3人が会社を起こしたのは1905年。

1908年、彼らはミシガン州マスキーゴンで最初の鋳造品を生産。
(この日の生産量は5トン)。

1910年に法人化しそれからは既存の施設を拡張し、
新しい工場を建設し、繁栄、拡大の一路をたどります。

このような事業展開は、高い技術力、柔軟性を持った組織を構築し、
品質の高い新製品や改良品の開発に成功したこと、そして、
厳格な冶金管理による高い生産方式を鋳造の手法に応用したこと、
それらによって可能となりました。

高度に複雑な合金鋳鉄や鋼鉄鋳物の製造を専門とするCWCにとって、
新しい、これまでになかったアイデアは常に挑戦であり、ゆえに
多種多様な製品の鋳造に成功した最初の鋳造所になったのです。

現在、CWCの6つの鋳物工場は、1日に1600トン以上の合金鉄と
鋼鉄の鋳物を生産する能力を有しています。


戦時中、CWCは国際連合に不可欠な機器の生産に100%従事し、
1940年には事業を拡大してアメリカ合衆国最大の鋳鉄所となり、
1941年からカムシャフトの大規模な製造を開始しました。

マスキーゴンに本社工場を持ち、
年間1,200万本のカムシャフトを生産しているだけでなく、
4大陸に6,000人以上の従業員を擁しています。

事実、北米で生産される自動車の実に30%近くが、
マスキーゴン工場で生産されたカムシャフトを搭載しているのだとか。

さて、そのCWCが製造したシャフトですが、
クランクシャフトの製造法は、大きく分けて3種類あります。

1、鍛造(たんぞう)クランクシャフト

鉄の棒からロール鍛造で作る。
現在では、軽量・コンパクト・高減衰の点から
鍛造クランクシャフトが好まれる傾向にある。


2、鋳造(ちゅうぞう)クランクシャフト

ダクタイルからクランクシャフトを鋳造することである。
鋳鉄製クランクシャフトは、現在では
負荷の少ない安価なエンジンに多く見られる。


ダクタイルとは、グラファイトを球状にして、
強度や延性を改良した鋳鉄のことです。

3、機械加工クランクシャフト

高品質の真空再溶解鋼の棒であるビレットから機械加工する方法。
通常鍛造が困難な高級鋼を使用できる。
旋盤やフライス盤で削る量が多いこと、材料費が高いこと、
さらに熱処理が必要なことから、1本当たりのコストが非常に高いが、
高価な金型が不要なため、初期費用をかけずに少量生産が可能である。



C.W.Cが治金学や鋳造実戦に先駆けて残した影響のない鋳鉄所は存在しない、
とその世界の第一人者たる技術者なら、そのように述べるであろう。

というのがこのコーナーの最初の文言です。

その施設は戦時につけ平和時につけ、いつもアメリカの産業にとって
非常に重要かつ先進的な開発をおこなってきました。

C.W.Cの治金工学は、「鋳造クランクシャフト」「鋳造カムシャフト」
「遠心鋳造シリンダーライナー」「遠心ブレーキドラム」「遠心鋳造」
を生み出し、戦車の装甲から航空機の着陸装置のコンポーネントに至るまで、
さまざまなバリエーションを持ちました。

そして、戦争遂行に不可欠な、前例のない量の生産を、
最大の経済性で可能にしました。




クランクシャフトの鋳造技術はC.W.Cオリジナルの開発です。

戦前は民間生産で賄われていましたが、真珠湾攻撃後、
従来の鋳造方法では、潜水艦や護衛艦、貨物船など、
軍需品に欠かせない大型エンジンのクランクシャフトに足りません。

C.W.Cの独自技術は、1年間に合計7,500基の
ディーゼルエンジンクランクシャフトの製造の達成を可能にしました。


オートマチック・スピードシリンダー
6分でクランクシャフトの金型を打ち込むことができる


鍛造クランクシャフトと比較して、鋳造クランクシャフトの最大の利点は、
設計上の制約がないことでしょう。

鋳造の場合、金型は設計者が希望する通りの仕上がりにすることができます。

この金型で10,000ポンドのクランクシャフトができる



金型に注ぎ込まれてできたクランクシャフトの塊



さまざまな用途別の各種クランクシャフト



パワーグラインダーとクランクシャフト 洗浄中



ゴンドラ鉄道車両に積載して出荷される、
潜水艦に使用される予定のティーシリンダーエンジンのクランクシャフト。

第二次世界大戦中、CWCは55万トンもの鋳造による製造を行いました。

余談ですが、戦後すぐCWCは航空機製造会社TEXTRONに買収され、
事業拡大を達成し、2003年にKAUTEXという
ドイツの自動車部品メーカーと合併し、現在に至ります。




■ マスキーゴン・クロニクルのヘッドライン



地元紙である「マスキーゴン・クロニクル」の、
戦争中の象徴的な第一面が並んでいます。

真ん中の
「エクストラ!エクストラ!」
「号外!号外!」でよろしいでしょうか。

日付の古い順に挙げていきます。

【1941年12月7日】

アメリカ陸軍輸送船魚雷攻撃さる

アメリカと日本交戦状態に入れり!

日本の飛行機と艦船がハワイとマニラに大規模な攻撃を開始

最新レポートではアメリカ軍が新しい世界紛争で
敵との最初の戦いに勝利したと示す


【1941年12月8日】

議会合同で召集される

米国側の死者数多数

日本警告なしに太平洋の米海軍基地を攻撃

敵による空襲の報告でホワイトハウスが仄めかした黒い知らせ



【1941年12月8日】

?隻のアメリカ戦艦日本軍によって沈む

米国議会戦争布告

米軍は3,000人の死者、負傷者

東京はアメリカ海軍艦艇に大きな損害を与えたと声明

世界の呪いはルーズベルトにかかっているという

下院と乗員が大統領の対立の呼びかけを応援

【1942年2月26日】

アメリカの潜水艦が4隻の日本艦艇を撃沈

マッカーサー元帥の軍隊が攻勢に出る

敵軍は不意の突撃に後退
ナチスの軍艦に重大な損傷を与えたとの報告
日本機を21機撃墜

【1942年5月9日】

ジャップ艦隊は撃退された!

珊瑚海海戦は「一旦停止」として日本艦隊撤退

【1942年6月6日】

ミッドウェイ海戦 大勝利!

8隻の大型日本艦に損傷を与える

【1945年8月14日】

平和!
日本はビッグ4によって定められた降伏条件を受け入れる

敗北した敵は国連の厳しい要求に頭を下げる

ワシントン 8月14日
トルーマン大統領は中央戦時今夜、日本が降伏条件を受諾したと発表。
準備が整い次第、ダグラス・マッカーサー将軍に承認される予定。

トルーマンは日本の指導者がポツダムにおけるビッグ3会議によって
定められた条件による降伏を受諾した、という
スイス政府を通じて中継された正式なメッセージを読み上げた。

トルーマンは次のメッセージを発表した。

「8月11日に国務長官から送られたメッセージへの返信として
本日午後日本政府のメッセージを受け取りました。
その返答は、日本の無条件降伏を明記した
ポツダム宣言の完全な受諾であるとみなされます」

ちなみに冒頭の紙面左下の顔写真は、
以前もここで扱ったことがある、
ジョナサン・M・ウェインライト少将のもので、

戦争初期、英雄に与えられた拷問

というタイトルで、高級将官が日本の捕虜になって酷い目にあった、
ということを報じています。

マッカーサーはここぞとかつて自分が蹴落としたこの少将を
調印式に担ぎ出し、痩せ細った体を抱き寄せたりしていましたっけね。
(悪意ありまくり)


【1945年9月1日】

日本降伏調書サインの準備が整う

ミズーリ艦上で7時に降伏;8:30より放送

東京湾は大忙しに;
アメリカ人は策を弄することを良しとせず

「ルーズベルトが呪われている」とか、
ちょっとわけのわからないタイトルもときどきありますが、
まあだいたい日本人にはお馴染みの文言ばかりです。

アメリカ人は策を弄することを良しとせず、
というのもあまり意味が分かりませんが、これは
おそらく記事を読めば納得のいく内容なのかもしれません。

さすがにそこまでは文字が読めなかったので、
さすがのわたしも解読は諦めました。


続く。




思い出の極東みやげ おまけ:潜水艦と喫煙〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

「シルバーサイズ潜水艦博物館」の展示には
少しだけですが日本との戦争で兵士が持ち帰ったものがあります。

今日はそんな遺品から紹介します。

■ 兵士たちの「極東土産」

太平洋戦域に出征している間アメリカ軍の兵士たちは
現地でさまざまな記念品を手に入れ、持ち帰りました。

ミルトン・モッカーマンはUSS「スプリングフィールド」
三等機械兵(Machinist's Mate 3)として勤務した人物です。

「スプリングフィールド」というと、あの
「シンプソンズ」を思い出す人もいるかもしれませんが(わたしだけ?)
イリノイ州の州都から取った伝統的な艦名であり、
この名前を持つ艦は、現在の原子力潜水艦を含めると4隻あります。


軽巡洋艦「スプリングフィールド」CL-66迷彩仕様

1944年に就役してから、戦争中のほとんどを太平洋で過ごした、
軽巡洋艦「スプリングフィールド」の経歴をざっと書いておきます。

1945年、西太平洋に向けて出発した「スプリングフィールド」は、
ウルシー環礁に到着し、高速機動部隊に加わります。

3月18日、19日と九州と本州を空襲した後、沖縄に上陸。

空母が沖縄の防衛力を弱めるために航空機による攻撃を行い、
その間軽巡も敵航空攻撃を阻止しようとしました。

1945年4月1日以降は沖縄攻撃を行う空母を支援。

頻繁に「ジェネラルクォーター!」(総員配置)のコールがかかり、
日本の「神風」がアメリカの戦闘航空隊と水上対空網に対し
自爆攻撃をかけてくるのを時には見守り、時にはそれと戦いました。

彼女自身は少なくとも3機の特攻機を破壊した、と記録されます。

例えば4月17日、特攻してきた日本軍機を1機撃墜した直後、
別の機体が「スプリングフィールド」に突撃を試みましたが、
多くの姉妹艦と同じ運命をたどることを、すんでのところで逃れています。

ラッキーだったのか、それとも操舵でそれを回避したのかはわかりませんが、
その神風特攻機はわずか40メートル先の海に墜落しました。

5月、「スプリングフィールド」はレイテ島に寄港し、
日本本土を攻撃する空母と共に東京を目指します。

そして7月13、14日、本州本部と北海道を目標とし、
17日からは東京と横浜を攻撃しました。

7月18日には戦艦「長門」と「榛名」を爆撃し、
7月24、25日(呉大空襲)には呉を、28日には神戸、
そして再び東京を攻撃しています。

終戦となってから「スプリングフィールド」は機動部隊と相模湾に入り、
その後1946年1月の上旬まで極東にとどまりました。

この3ヶ月間に、佐世保、横須賀、中国の上海、青島など、
そして朝鮮半島の仁川を訪問しています。

つまり、モッカーマン三等水兵は、戦地というより、
戦後の極東滞在期に手に入れたものを持って帰ったのでしょう。

そして、冒頭にある日の丸の旗です。

これは陸軍第43師団第103歩兵連隊に所属していた
デビッド・ケネディが持ち帰ったものです。

寄せ書きがない日の丸は、南方で戦死した日本兵から奪った、
というようなストーリーを感じさせないので、なんとなくホッとしますね。

そんなふうに感じるのは日本人だけだと思いますが。

現地の解説には、

「日本の国旗の中央にある赤い円は太陽を表しており、
日本の天皇は神道による伝説で太陽の女神天照の子孫である、
という信念のために重要なモチーフです」

と書かれています。




五重塔に大文字焼が描かれた絵葉書。
このことから、これらはいずれも京都で手に入れたものと考えられます。

で、手前の「優雅のみやこ」というのは、
もしかしたら何かの包装パッケージの一部だったのでは?
と考え、下にある絵の器に書かれている文字を解読したところ、

「二軒茶屋」

と読めました。
これ、八坂神社の二軒茶屋のことではないでしょうか。
この絵に描かれたものも、名物の田楽なのでは・・。
これのことね

二軒茶屋HPより田楽豆腐

自分で言うのもなんですが、多分当たっていると思います。
現在も営業されているようなので、お店に教えてさしあげようかな。


これはどう見てもメイドインチャイナ。
いや、でも、刺繍が施されているのは米海軍縫製の水兵服じゃないですか?

ということで、説明によると、これは現地で刺繍してもらったのだそうです。

中国に上陸すると、モッカーマンとその仲間たちは、
衣服にドラゴンを刺繍して欲しくてたまらず、
請け負ってくれる現地の女性を熱心に探しました。

制服にエキゾチックなドラゴンの刺繍。
誰かが始めたこのおしゃれが、当時極東にいた水兵さんの間で流行って、
現地の中国人もいい商売にしていたのでしょう。

海軍の上の方は、この「流行」を苦々しく思い、
こんなことに浮き身をやつす水兵たちに不満だったらしいのですが、
彼らはそんなおっさんたちの文句は聞き流し、
最終的にドラゴンを制服に刺繍することに成功しました。

まあ、それもこれも戦争が終わっていたからこそ。
上もなまじ彼らが激しい戦闘を耐えぬき生きてここにいる、
と思ってそれくらい大目に見よう、となったのに違いありません。


ピンクの扇子も、デビッド・ケネディが持ち帰ったものです。

5円、10銭、50銭の日本札が並んでいますが。
これは強襲揚陸隊のメンバーで、第二次世界大戦中太平洋戦線で勤務した
ポール・エーブリー・ニールセンが帰還時に故郷に持ち帰ったものです。

軍事円は香港やフィリピンなどの占領地で使用されました。
占領時に、被占領地は通貨を軍事円に交換することを余儀なくされました。

残念なことに戦後日本の軍円は全く価値がないとみなされ、
全ての軍円は破棄することが推奨されました。

現在は香港賠償協会という団体が、
かつて保有した軍円の補償を求めて戦っているそうです。

■ TBTターゲット方位送信機


ターゲット・ベアリング・トランスミッター
Target Bearing Transmitter、通称TBT


この機器が活躍したのは主に夜間の水上攻撃のときです。
TBTは通常各艦船に2基装備されており、一つがブリッジの前部、
もう一つはブリッジ後部のシガレットデッキに装着されていました。

この「シガレットデッキ」と言う名称を聞いたことがなかったのですが、
乗員がタバコを吸ってもいいデッキということでしょうか。

■ 潜水艦と禁煙

ここでタバコがでてきたので、ちょっと寄り道して喫煙の話をします。

世の中の公式な場所はほとんどスモークフリーが進んでも、
「兵の士気」にタバコが欠かせなかった軍隊では
世間一般よりもその動きは鈍かったといえます。

しかしそんなアメリカ海軍でも、ついに潜水艦の喫煙が禁止されました。

とはいえ、これはすでに10年以上前の話となります。

「2010年、海軍は受動喫煙の害についての医学的テストを受け、
潜水艦が水面下に展開されている間は艦内での喫煙を禁止するとした」


いや、逆に驚いてしまったのですが、
艦内での喫煙はそれまで許されていたってこと?

ディーゼル艦では何度も潜航中の煙草は禁じられていた、
と書いたものですが、原子力潜水艦になってから
艦内の換気に気を配る必要がなくなったので、
こんな最近まで艦内喫煙が許されていたんですね。

しかし、この措置をよしと思わないアメリカ人も(当時は)いて、

「この決定は第二次世界大戦時の映画で超クールに描かれた、
海上での厳しい一日の後にタバコを吸う乗員のイメージを崩しかねない」


という意見もあったようです。
イメージ重視か。

前述のように、喫煙は長い間、海軍(他の軍隊も)文化の定番でしたし、
何十年もの間、救命ボートに積まれた非常食の中には、
食料や水と一緒にタバコも入っていました。

ノーフォークの海軍潜水艦部隊司令官、マーク・ジョーンズ中佐によると、
世がいかにスモークフリーの動きを見せても、海軍ではそうではなく、
実に潜水艦乗員の約40パーセントがこの時点で喫煙者だったとか。

第二次世界大戦中が95%だとすれば、もちろんこの数字は
世間の趨勢を受けて激減していたということなんでしょうけど、
それでも40%は多いですよね。

サブマリナーに喫煙者が多い理由を、あるベテランは、
「ストレスに満ちた環境だから」と言います。

そんな彼らに、この決定は大きな変化を強いるものになるだろうとも。

この決定を知らされた喫煙派乗員の意見は、

「潜航したら、皆イライラして怒りっぽくなるかもしれない」

また逆に、22年間非喫煙者だった人は、

「いいことだと思う。何と言っても閉ざされた環境ですからね」

とまあ、当たり前のことを言っています。

しかし、これだと、原子力潜水艦は通常一度に60日間、
時にはもっと長い期間「パックアウト」するので、
喫煙者は何ヶ月もタバコを吸う機会がなくなります。

「シガレットデッキ」という名称が示すように、
昔は喫煙所は堂々と公的に存在しました。

2010年までは、潜水艦の喫煙所は艦長の裁量で指定されていました。

しかし、2006年、ついに副流煙の悪影響についての報告が上がってしまい、
海軍は独自の調査を依頼せざるを得なくなったのです。

その方法は、9隻の潜水艦で非喫煙の乗員を対象に医学的検査を行うもので、
やはり副流煙の医学的影響があるという結果が出たのです。

いや、原子力潜水艦は換気システム完備なのに?
とその結果に驚く人もいたかもしれません。

しかし、実際には、換気システムは副流煙を環境から取り除くのに
必ずしも有効ではなく、どうしても非喫煙者は
呼吸器感染症、心臓発作、癌のリスク増大の影響に曝されます。

また、潜水艦のような空間では、非喫煙者も、
「サード・ハンド・スモーク」と呼ばれるところの、
喫煙者の衣服に付着する微粒子状の煙の影響を受けるとされます。

狭い環境ではどうしても塵は時間とともに蓄積され、行き場がなくなります。

この後、海軍はニコチンパッチやガムを配布するとか、
禁煙外来を開設したりして禁煙したい人の支援を始めました。


TBT=高性能双眼鏡



さて、TBTに話を戻します。

TBTが取り付けられているのは「ペロラス」というコンパスで、
ベースには電気送信機が組み込まれていました。
方位角360度回転することができ、
オペレーターが方位を読み取るためのスケールが装備されています。

目標の相対方位をコニングタワーにある
魚雷データ・コンピューター(TDC)に送信するのです。

双眼鏡は圧力硬化素材でできていて、潜水艦が潜航中も
取り付けたままにしておくことができました。

■リフレクター・テレスコープ(屈折望遠鏡)



屈折望遠鏡は、レンズを対物レンズとして使用し画像を取り込みます。

屈折望遠鏡の原理は元々スパイグラスや天体望遠鏡で使用されていましたが、
双眼鏡やカメラの望遠レンズなどのデバイスでも用いられます。

対物レンズと目に近い方の接眼レンズの組み合わせを使用して、
人間の目が単独で収集できるより多くの光を集め、
焦点を合わせて、より明るく、鮮明で拡大された画像を表示します。

屈折望遠鏡は光を屈折させ、それを利用して結像します。
この屈折により、平行光線は焦点に収束しますが、
平行でない光線は焦点面に収束します。

簡単にいうと、筒の先にある対物レンズの凸レンズでできた像を、
接眼レンズで拡大するという仕組みです。

■ ラジオ・トランスミッター



なんの説明もなく隅っこに置かれていました。

GE製のタイプQG-52241ラジオ・トランスミッター、
Model TAJ-18
とあります。
信号を伝えるラジオシステムの1部分である送信機だそうです。

まさかと思って型番で検索してみると、


   Preliminary Instruction Book for 
Navy Model Taj-18 Radio Telegraph Transmitting Equipment.
 (Manufactured by General Electric Company, Schenectady, N.Y.)  
 
U. S. NAVY DEPARTMENT. BUREAU OF SHIPS

  海軍モデルTaj-18無線電信送信装置 予備 取扱説明書
(ニューヨーク州スケネクタディ ゼネラル・エレクトリック社製)。

アメリカ海軍船舶局

という本が話が日本の国会図書館で閲覧できることを知りました。
いやさすがのわたしもそこまではしませんけどね。

それより、アメリカ海軍の船舶局とやらが、博物館見学で行ったことがある
ニューヨーク州スケネクタディという変な名前の街にあったことが驚愕です。

■ 電話




今日最後にお見せする展示は電話です。
なんでここにあるのかはわかりませんが、潜水艦関係ありません。

中には昔のタイプの電話がありますが、貼り紙にはこうあります。

「このアンティーク電話ボックスは現在
清掃&改装実施中です。
今のところ、好きなだけご覧になっていただいて結構ですが、
どうかお手を触れずにお願いいたします」


なにを清掃&改装していたんだろう。


続く。

フリートサブマリンvs.原子力潜水艦〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

タイトルとはあまり関係のない海軍軍人の肖像ですが、
もしこの人の官姓名を知っていると言う方がいたら、
あなたはかなりの潜水艦通だと言っていいかと思います。

今日はマスケゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館展示から
興味深いいくつかの展示をご紹介します。

■ アメリカ海軍潜水艦隊の英雄 チャールズ・ロックウッド中将

チャールズ・ロックウッドは1943年から45年まで
アメリカ海軍太平洋潜水艦隊の司令官だった人物です。

第二次世界大戦中の太平洋戦域で
サイレント・サービスこと潜水艦任務を勝利に導いた

COMSUBPAC=太平洋艦隊潜水艦部隊司令官

として、その名は永遠にアメリカ海軍の潜水艦史に刻まれることでしょう。

バージニア州ミッドランドで生まれたロックウッドは、
1912年に海軍兵学校を卒業しました。

1914年に潜水艦USS「A-2」SS-3の乗組から軍歴を開始し、
1919年の3月から8月までは、元ドイツ潜水艦だった

SM UC-97

の指揮を執っています。

SM UC-97は、第一次世界大戦中、
ドイツ帝国海軍(Kaiserliche Marine
に所属したドイツのUC III型機雷潜水艦=Uボートでしたが、
前年度ドイツが降伏したため、アメリカが戦利品として取得した一隻です。

アメリカ海軍はロックウッドを含む12名の将校を遠征させ、
この鹵獲潜水艦で大西洋を横断し、その後は
リバティボンド(国債)集めのための見せ物にしようとしました。


トロントに寄港中のUC-97

ロックウッドのUC-97は他3隻とともにニューヨークまで回航。
彼の指揮のもとニューヨークから水路を通り、五大湖を制覇する、
ということになりましたが、UC-97だけが色々と反応しなくなったので、
ロックウッドはこの艦長を別の人間に任せて他の新造艦に転勤しています。

アメリカがUボートを取得した目的は見せ物にするだけだったので、
こののちUC-97はミシガン湖で標的となって沈みました。

湖底の艦体が1992年に発見されています。

そして第二次世界大戦が始まりました。

ロックウッドは1941年から1年ほど駐英米海軍武官を務め、
その後南西太平洋の潜水艦司令官として活躍しました。

1943年2月にトーマス・イングランド少将が亡くなると、
ロックウッドは後任として旗を真珠湾に移し、
太平洋艦隊の潜水艦隊の指揮を執ることになります。

任務中、ロックウッドは潜水艦を最も効果的に運用するための戦術を
ほぼ即興で作成し、海軍の艦船兵器局に、可能な限り有用な
潜水艦とそして魚雷を現場に提供することを働きかけました。

彼は初期のアメリカ海軍の魚雷に技術上の問題があり、
運用における信頼性が低いと言う報告を受けると、
自らが現場で性能証明の試験を監督し、1944年と1945年に
魚雷の徹底的な改良を行わせました。

これは、当ブログでも何度も別角度から取り上げている
あの「魚雷不発問題」のことです。

ぷすぷすと日本軍の艦船に魚雷が命中して突き刺さっていくのに、
一向にそれが爆発せず、日本艦は魚雷を刺したまま帰国し、
かんざしを刺した花魁のようだと笑われたというあの話ですね。

アメリカ海軍の潜水艦は、第二次世界大戦期に
1,100隻以上の商船と200隻以上の軍艦を含む、
560万トン以上の敵船を沈めました。

敵船に対するアメリカ潜水艦の攻撃は、
戦争中に喪失した敵船の50パーセントを占めたといわれています。

しかしながら、戦争中、16,000人のアメリカの潜水艦隊人員のうち、
52隻の沈没により375名の将校と3,131名の下士官兵が失われました。

この数字は、各国の戦闘潜水艦による死傷率の中で
最も少ないことから、米国潜水艦隊の任務は成功だったとされます。

ロックウッド中将の強力なリーダーシップと、
彼の海軍に対する献身は、彼自身に勝利をもたらしました。

「アンクル・チャーリー」

とサブマリナーたちに敬愛を込めて呼ばれた彼は、
1943年に少将から中将、副提督に昇進し、1967年に亡くなりました。



このコーナーは「太平洋戦争のリーダーたち」。
左から、

フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領

ハリー・トルーマン大統領

チェスター・W・ニミッツ提督

ダグラス・マッカーサー将軍

ウィリアム・D・リーヒ提督

アーネスト・J・キング提督

ウィリアム・J・ハルゼー提督

とまあ、誰でも知っている面々となりますが、
このうち他の人ほど日本人には名前の知られていない
ウィリアム・リーヒという人について説明しておきます。



ウィリアム・ダニエル・リーヒーは、第二次世界大戦中、
現役のアメリカ軍最高幹部として活躍したアメリカ海軍将校です。

複数の称号を持ち、第二次世界大戦中のアメリカ軍において、
すべての主要な軍事的決断の中心にいた人物だったのですが、
皆さんはご存知だったでしょうか。

アメリカ海軍将校として初めて五つ星の階級を保持した人物で、
戦争中、米国の外交・軍事政策に影響を与えたことから、
ある歴史家は彼を「世界で2番目に力のある男」と評したくらいです。
(一番はアメリカ合衆国大統領ってことでよろしい?)

1897年アナポリスを卒業したリーヒーは、米西戦争、
フィリピン・アメリカ戦争、義和団の乱、バナナ戦争、
第一次世界大戦にと参加しました。

その後は海軍作戦部長=米国海軍の上官として戦争の準備に携わります。
彼はここで海軍を退役するのですが、ルーズベルト大統領が親友だったことで
プエルトリコ知事、駐仏大使と政治の道を歩み始めます。

駐仏大使時代はヴィシー政権をドイツの支配から解放しようとしますが、
それはあまり成功しませんでした。

1942年、大統領の個人的な参謀長として現役に呼び戻された彼は、
第二次世界大戦中、軍人としてルーズベルトの懐刀の役目を務めました。



彼の地位は事実上の初代統合参謀本部議長というべきものでした。
戦争中、リーヒは主要な意思決定者であり、
権限と影響力において大統領に次ぐ存在であったといわれます。

ルーズベルト死後はハリー・S・トルーマンに仕え、1949年に引退するまで、
戦後の米国の外交政策の形成に貢献し続けました。
1942年から引退するまで、リーヒーは現役の米軍兵士の中で最高位であり、
彼が報告をしなければならない存在は、唯一大統領だけというほどです。

■ フリートvs. 原子力潜水艦



フリート=ディーゼルボート対原潜
ってことですね。
(フリートタイプは第二次世界大戦中のディーゼルボートと同義)

あの映画「ダウン・ペリスコープ」的な?と期待するタイトルですが、
なにが説明されているのでしょうか。

第一次大戦以前、アメリカの潜水艦は低速で、
潜航する深度も非常に浅かったため、その活動は沿岸防衛に限定されました。

第一次世界大戦が終わると、戦後処理を決めたベルサイユ条約の一環として
ドイツは所有していたUボートを連合国に引き渡すことを余儀なくされます。

この頃のドイツの技術優位は明らかで、アメリカは
大型で高速のUボートを手に入れることによって、
自国の潜水艦技術を格段に進歩させるきっかけを得ることになりました。

そうやって再設計された潜水艦は、従来のものよりも

10ノット速く進み

100フィート深く潜ることができ


このため、アメリカ海軍の水上艦隊を維持し、保護する、
という設計目的を十分に満たす仕様となったのです。

そしてこのときなされた設計は、1920年台から第二次世界大戦中、
全ての潜水艦のプロトタイプとなったのです。



クラスとしてほぼ同じ大きさの「ガトー」「バラオ」「テンチ」
この3タイプは、第二次世界大戦中、約600万トンの輸送船を撃沈しました。

フリートタイプの潜水艦が最後に退役したのは、1983年です。
この頃にはもう原子力潜水艦が主流でしたが、
「ダウン・ペリスコープ」でも、「ディーゼルボートフォーエバー」
という機関室の爺さんが言うように、「ディーゼル派」は根強くいて、
つまりそれはそれだけ機能に信頼性があったということです。

しかしながら、

フリートサブマリンには限界がありました。
ディーゼルエンジンを使ってバッテリーを充電するという機構の関係で、
どうしても空気を吸うために頻繁に浮上しなくてはならなかったのです。

これは水中で隠密行動をするのが身上の潜水艦にとっては
ある意味致命的かついつかは克服すべき欠点だったといえます。

ディーゼルボートが水中に滞在することができる時間は、
水中でどれだけエネルギーを使用したかによって決まってきます。

第二次世界大戦中、そして1950年代初頭の多くのミッションで、
ディーゼルボートの乗組員は、敵水上艦によって水中に閉じ込められ、
往々にして窒息寸前になっています。

その宿命的な欠陥を補うべく生まれたのが原子力推進でした。



1953年、世界初の原子力潜水艦、USS「ノーチラス」が進水しました。

原子炉はわずか28フィート幅のコンパートメントに詰め込まれていました。
(え、原子炉のせいで居住区が狭いんだと思ってたけど違うのか)

水を加熱して蒸気を生成し、タービンと全てのシステムを動かす仕組みです。

これだとエンジンを稼働させるために浮上する必要がなく、
なんなら潜水艦は独自に空気と水を作り出すこともできるので、
ほぼ無制限、半永久的に水中に留まることができるようになりました。

前にこのブログの「ノーチラス」シリーズで書いたことがありますが、
彼女は北極海の氷の下を横断した最初の潜水艦でした。

呼吸するために頻繁に浮上しなければならなかった時代から、
「ノーチラス」はのちの機密記録にその名があるはずの後継者たちに先んじて
水中を世界一周し、60日間を潜水したまま過ごした潜水艦になったのです。

原子力潜水艦は今でもアメリカ海軍の主力潜水艦です。



「ターミノロジー」は用語という意味です。
潜水艦用語をここで解説してくれているわけですね。
アメリカ人なら英語を見るだけでわかるかと思ったらそうじゃなかったのか。
なんかちょっと安心してしまった。

Bow 船首:潜水艦の前部または艦首

Stern 艦尾:潜水艦の端または尾部

Starboard 右舷:艦首から見て潜水艦の右側

Port 左舷:艦首から見て潜水艦の左側

Length 全長:潜水艦の艦首から艦尾の端までの距離

Beam ビーム:潜水艦の左舷から右舷までの距離で最大の長さ

Draft 吃水:水面と潜水艦の艦体の最下点との間の距離

Displacement 排水量:潜水艦が浮いている水の重量

Complement 補完:働いている人の数

Armament 武装:潜水艦の武器又は防御システム

Knot ノット:nautical mile の略で、およそ1.15マイル、又は1852m

これらの条件は、全ての海上船舶に適用されます。


■ パッシブソナーとアクティブソナー

潜水艦について多角的にお勉強できるこの展示ですが、
博物館にありがちなこととして、その時前を通過し、
文字列を認めるだけで数分後には忘れてしまうのがほとんどなのに対し、
極東の日本から来た一日本人女性であるわたしが、過去の見学者の中で、
おそらくほとんどのアメリカ人の誰よりも、
特にその内容を理解しようというその熱意において抜きん出ていたはずです。

と無意味に威張ってみたところで、続きです。

パッシブソナーとアクティブソナーについての解説がありました。



パッシブソナーは、特別な水中マイク「ハイドロフォン」を使用して、
水中生物、船、地熱事故によって水中で生成される音を聴きます。

これらの水中聴音器は非常に敏感であるため、
何百マイルも離れた場所で生成された音であっても、
たとえばエビや珊瑚が餌を食べているような微妙な音を聞くことができます。

ただし、パッシブソナーは、水中の山岳地形、難破船、
ぶら下がっている漁網などの音を聴くことはできないため、
潜水艦は利用できうる最高の性能を搭載した水中マップで
ソナーレポートを使用する必要があります。

これは依然として危険な水中移動方法です。

つい最近である2005年まで、潜水艦は
海底地図に記録されていない水中の地形に衝突・座礁したり、
あるいは放棄された漁網にスクリューを絡めたりして
深刻な損傷を受けるか、最悪喪失するということがありました。

水上艦もパッシブソナーで聴音を行い探索しますが、
潜水艦は静音性の設計をされているうえ、
艦体が黒でコーティングされていて、それが音を反射せず、
逆に吸収する仕組みを持つので、他の船からほぼ探知されません。

潜水艦はというと、このイラストにも見られるように、
全ての海洋生物の立てる音、人が水中を泳ぐ様子、
岸に打ち寄せる波や水上にある船の音を聴くことができます。
会食崖や漂流する網で沈没した船は見えません。

そして大事なことは水上艦は潜水艦が見えないということです。



アクティブソナーは「ピンPing」と呼ばれる調整音を水中に送信し、
それが跳ね返ったときに生成されるエコーを聴くものです。

これらのエコーは、潜水艦の周るの全ての形状と位置を示し、
水中の山、沈没船、水上艦艇、そして
潜水艦を危険に晒す可能性のあるものを含む、
その周囲の全体像を取り込み、情報として取得することができます。

欠点はこの「ping」そのものです。

これを発信していると、水上艦やソナーを実行している
他の潜水艦に簡単に音が聴こえるため、
これによって潜水艦の位置は明らかになってしまいます。

このため、潜水艦がアクティブソナーを使用することはめったにありません。
使用する状況というのは極々かぎられてくるということです。

このイラストにも見られるように、潜水艦は
跳ね返る「ping」を送信します。

海食崖と海底の沈没船がはっきりと見えており、
これによって潜水艦が敵の探索から逃れる可能性がありますが、
海上の空母と巡洋艦は潜水艦が水中にいることを認識しており、
アクティブソナーによって「ハント」捜索することができます。

水上艦はそのものの位置を隠すことはできないので、
自衛として潜水艦よりも頻繁にアクティブソナーを使用します。

アクティブソナーは前述の理由から非常に危険と考えられているため、
一部の弾道ミサイル搭載潜水艦には装備されていません。


初心者にもよくわかるいい説明だと思います。
必要以上に子供目線でもなく、それでいて
平易な言葉で解説されているのが、さすがだと思いました。

もちろんわたし自身にとっても大変勉強になりました。


続く。





「タートル」から「ミシガン」まで 歴史の断面図〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

潜水艦「シルバーサイズ」博物館の展示をもう少し続けます。

■ 潜水艦はどうやって潜航し浮上するのか?

潜水艦は「浮力」Buoyancy と「変位」Displacementという
二つの主要な力によって潜水および浮上します。

【アルキメデスの原理】


全体的または部分的に流体に浸された物体は、
物体によって押しのけられた流体の重量に等しい力によって浮上します。

あなたは海やプールでビーチボールを水中に押し込んで
そのまま保持しようと試みたことはありませんか?

深くボールを押し込めば押し込むほど抑えるのは難しくなります。
何かが深く水中で抑えられると、水はそれを押し上げようとします。

これが「アルキメデスの原理」ですが、これは
変位などの他の力にも依存します。

【変位】



沈む物体は、オブジェクト(物体)の体積に等しい量の流体を押し退けます。
(アルキメデスがこれを発見したきっかけが、
お風呂から溢れ出る水だったことを思い出してください)

コップ一杯の水に大きなビー玉を落とすと水が溢れ出しますね。
水に何か入れるとその体積に等しい量が押しのけられるのです。

例えば100トンの頑丈な鉄の棒を水中に投げると、体積がずれて沈みます。
しかし、その鋼鉄の棒が空のスペースを持つ船の形をしている場合、
同じ堆積の水を押しのけるというのは棒の場合と同じですが、
ただしこちらは内部の空のスペースがあるので、浮くことができるのです。

この際、浮いている船の変位と浮力は必ず等しくなければなりません。
ここで潜水艦の潜水の仕組みを図解で示します。

1浮上中     2潜入    3潜航中    4浮上中    5浮上完了

1. 潜水艦が潜水するとき、上部と下部の通気孔が開きます。

2.空気が上部から排出されると、水がバラストタンクの下部に入ります。

3.潜水艦が必要な深度に達すると、上部の通気孔を閉じますが、
そうするとバラストタンク(および圧力艦体)に十分な空気が残り、
潜水艦は水中に浮いたままの状態を保持します。

4.潜水艦が水中に留まるために十分な水を移動させると、
アルキメデスの原理によって艦体は下から押し上げられ、浮上します。

5.浮上すると、底部の通気孔が開かれ、艦内の圧縮空気の特別なタンクが
空気をバラストタンクに送り込み、中の水を押し出します。

すると潜水艦はアルキメデスの原理で押し上げられて水面に浮かびます。

潜水艦が水面に到達すると、外気から空気を吸い込み、
バラストタンクへの充填を完了することができるのです。


自分の過去ログを見ていたら、呉で「あきしお」を見学した時の
自衛隊による同じ原理の説明がみつかりました。

日本語のせいだけでなく、こちらの方がわかりやすいですね。



さて、冒頭のパネルには、かっこいいタイトルが付けられています。

Relative  Size: Cross Section of History
大きさ比較:歴史の断面図

独立戦争時代の小さな潜水艦「タートル」から、
今日の巨大な攻撃型潜水艦まで、
アメリカ海軍の潜水艦の長さ、幅(ビームと呼ばれる)および
その外観は時代につれ変化していきましたが、
必ずしも時代が下れば艦体が大きくなるというわけではありません。

ここではUSS「タートル」から最初の公式海軍潜水艦「ホランド」、
そして海洋をパトロールする最新クラスの潜水艦旗艦、
USS「バージニア」にいたるまでの、かつて存在した
いくつかのクラスの潜水艦の断面が実物大で示されています。

■ アメリカン・タートル American Turtle




巨大な円の中心となっているのは、独立戦争時代に
エズラ・リーとデビッド・ブッシュネルが考案した一人乗り潜水艦、

「ブッシュネル・タートル」Bushnell Turtle

という「潜水可能な」=submersible 船の艦体です。

ブッシュネルの亀は、「潜水艦の故郷」ともいわれる
コネチカット州グロトンの潜水艦部隊基地に併設された潜水艦博物館に
実物大のレプリカが展示されていたことから、当ブログでは
結構微に入り細に入りお話ししたことがあります。

ブッシュネルの亀〜アメリカ潜水艦事始め

興味のある方はぜひご一読ください。

ここに記された潜水艦の最も大きな部分の「輪切り」ですが、
そのほとんどが「縦切り」による輪切りなのに対して、
この「タートル」だけは横に切っています。


一人が内部に自転車を漕ぐような形で乗るため、
どうしても縦長の樽状にせざるを得なかったんですね。
スペックは、

【American Turtle】
1775年
乗員:1
潜航深度:ほぼ水面
速度:3mph(時速4.8km)


そして「タートル」からは格段に大きい群青色の輪は、


USS「ホランド」Holland SS-1



このいちばん手前のブルーの物体が「ホランド」です。
可愛らしいですね。



これも立って乗るのか・・。

艦の発明者であるジョン・ホランドの名前にちなんで命名された、
SS-1つまりアメリカ合衆国最初の公式潜水艦ということになります。

この「公式」は最初に艦番号が与えられたという意味であり、
実際の「最初のアメリカ海軍潜水艦」は、
フランス人技術者が開発した「アリゲーター」でした。

「ホランド」の性能諸元は以下の通り。

USS Holland SS-1
1900-1910

全長:19m
ビーム:3m
潜水深度:3m
最大速度:水上航走時 8
潜航中 5
乗員:7
推進:ガス/電気

 USS「シルバーサイズ」Silversides SS-236 
「ガトー」Gato



いきなり3倍くらい大きくなった茶色い円は、
当ブログで説明してきた潜水艦「シルバーサイズ」を表します。

第二次世界大戦中活躍した「シルバーサイズ」については
今までお話ししてきましたので、説明は省きます。

性能諸元

USS「シルバーサイズ」1
1941ー1946
「ガトー」「バラオ」「テンチ」級潜水艦

全長:95.02m
ビーム:8.31m
乗員:士官654
試験深度:90m
最大速:水上 時速37km 水中 時速16km
推進:ディーゼルエンジン


「シルバーサイズ」は「ガトー」級ですが、
艦体の大きさがほぼ同じである同時代の「バラオ」「テンチ」も
輪の中に一緒に名前が記されています。

 USS「シルバーサイズ2」SilversidesII
「スタージョン」級原潜 SSN-679



緑色で表されている潜水艦は、
原子力潜水艦2代目「シルバーサイズ」です。



進水式のときと思われます。
セイルのところに立っている一団は乗員(予定)でしょうか。
日本では引き渡し式を経るまで正式にはまだ自衛隊のものではないので、
進水式の時にはまだ乗り込んでいないと認識していますが、
アメリカではこのへんがちょっと違っているのかもしれません。

ディーゼル機関から原子力潜水艦に移行して、
いちばん変わったのがなんといっても艦体の大きさだと思いますが、
実は「シルバーサイズ」」のガトー級と「スタージョン」級は
いうて5mしか全長が違いません。

確かに艦体の輪切りを見る限り、かなり大きくなっていますが、
しかし、居住性が良くなったかというとそれは疑問です。

「シルバーサイズ」2が生まれたグロトンの潜水艦博物館には
史上初めての原潜「ノーチラス」が展示されていて、見学しましたが、
ディーゼルボートと比べても決して居住区は広くありませんでした。

これは、見学者には立ち入りを許されなかった艦の後部、
原子力機関の区画にスペースが割かれているからと考えられます。

乗り込む乗員数もほぼ2倍に増えているせいもあって、
艦内のコンパートメントはやたら細かく区切られており、
閉所に弱い人は確実に精神をやられそうに見えました。

原子力潜水艦はその気になれば永久に潜航可能
(これが本当のスティル・オン・パトロール)ですが、
人間がそれでは「もたない」ので、必ず適度に上陸させるのだそうです。

余談ですが、「スタージョン」級の命名基準は、
ディーゼル式の頃からの伝統を受け継いで魚の名前となっていますが、
3隻だけ、海軍出身上院議員の名前を冠した艦が存在します。

「ウィリアム・H・ベイツ」SSN-680

「L・メンデル・リヴァース」SSN-686

「リチャード・B・ラッセル」SSN-687

らがそれです。

性能諸元

USS「シルバーサイズII
「スタージョン」級
1969-1994

全長:90.8m
ビーム:9.7m
潜航深度:396m
最大速度:25
推進:原子力 蒸気タービン
乗員:士官 14 兵員 95


■ USS「バージニア」Virginia SSN-774
「バージニア」級攻撃型原子力潜水艦



薄いブルーに塗られた潜水艦です。

旗艦「バージニア」が海軍に引き渡された2004年10月12日は、
かつてUSS「ホランド」が就役したのと同じ日だったそうです。


いかに「バージニア」級が大きいかは、上に人が乗っている状態でないと
よくわからないでしょう。(写真はUSS『ノースカロライナ』)

性能諸元

USS「バージニア」Virginia SSN-774
2004-

全長:114.9m
ビーム:10.3m
乗員:士官 兵員 113
最大潜航深度:250m
最大速度: 水上時速 46 km 水中 59 km
推進:加圧水型原子炉 蒸気タービン



USS「ミシガン」Michigan
SSBN-727/SSGN-727

「オハイオ」級原子力潜水艦



そしていちばん外側の最大の輪で表されたのが「ミシガン」。
実は「バージニア」級より20年も前に就役したタイプです。

「必ずしも時代が下れば大きいというわけではない」

というのはこのことを言うのですね。
原子力推進を得てどんどん艦体を大きくしていき、
「オハイオ」級では大きさの限界に挑戦しました的になりましたが、
潜水艦ってこれほど大きくする必要ある?と自制&自省した結果が、
「バージニア」級のサイズダウンだったのでしょうか。

ちなみに、「ホランド」級と比較すると、

全長 9倍
ビーム 4.3倍
乗員数 22倍

となります。



続く。


「ゴルフ場の潜望鏡」ペリスコープ今昔物語〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

一応「シルバーサイズ」本体の紹介が終わったので、
あとは博物館の潜水艦に関する展示を取り上げていくことにします。

今回のお題はペリスコープ=「潜望鏡」

海面下を航行する潜水艦の全てのステルス性、そしてその圧倒的強さ。
人類が武器として潜水艦を求めたのも当然でしょう。

しかし当初、そこには、明らかな問題が一つありました。
それは、潜水艦は一旦水の中に入ると、ほとんどの視界を失うことです。

それに対して発明された潜望鏡という解決策は、
おそらく最もよく知られた潜水艦を潜水艦たらしめるものですが、
初期の単純なチューブと鏡の組み合わせから、
今日の複雑な複合的機器に至るまで、
そこには長く険しい道のりがありました。

今日ご紹介するのは、潜望鏡という機器を生むため
人類が知恵を絞り格闘してきたその歴史(の一部)です。

■ グーテンバーグの潜望鏡



潜望鏡が初めてその形を記録に残したのは、

ヨハネス・グーテンベルグ
(Johannes Gutenberg)1397年頃 - 1468年

によって「売り出された」時でした。
彼は1430年代、印刷機を発明した人物として知られています。

金細工師であった彼は、印刷機械のみならず多数の発明をしているのですが、
その中の一つにペリスコープがありました。
これは宗教祭において群衆を見渡すことができるようにする筒で、
宗教巡礼者のために発明したものでした。

彼はこの発明を売ろうとお金を借りてたくさん商品を作りましたが、
この機械の利便性が伝わるには当時はちょっと時代が早かったようで、
機械は売れず、これが彼を破産させることになってしまいました。


■ マリー-ダヴィの潜望鏡



博物館の潜望鏡の歴史、いきなり話は1800年代に飛びます。
フランス人科学者であり、発明家だった、

エドム・イポリット・マリエ・ダヴィ
Edme Hippolyte Marie-Davy1820-1893


は、潜水艦に搭載する、鏡を45°に傾けた光学チューブを発明しました。
それは二つの鏡を使って作られた世界初の海軍潜望鏡でした。

子供でも思いつきそうな、と言って終えばおしまいですが、
まあこれもコロンブスの卵ってやつです。




この潜望鏡は1880年代に実験的なフランスの潜水艦、
「ジムノート」Gymnote に搭載されてデビューしています。

意外と近未来的なシェイプの「ジムノート」

彼は電磁モーターを発明しており、それをもとに
電気駆動プロペラを持つ潜水艦の提案も行っています。

■ サイモン・レイクの発明


潜水艦に少し詳しい方なら、ホランド型潜水艦に名前を残す、

ジョン・ホランド John Phillip Holland

の存在を知っていると思います。
しかし、この写真はホランドではありません。
彼のライバルであった、

サイモン・レイク Simon Lake 1866-1945

なのですが、残念ながら歴史的には無名と言ってもいいかもしれません。
その理由は、単に海軍が最初に採用した潜水艦がホランドのだったからです。

サイモン・レイクはクェーカー教徒のエンジニア、海軍建築家で、
アメリカ海軍の最初の潜水艦を作るために、
ジョン・フィリップ・ホランドとガチンコで競い合っていました。

そして1893年にアメリカ海軍から潜水魚雷艇の要請を受けています。

しかし、その後海軍は彼との契約を打ち切ってしまいました。
何があったのかはわからないのですが、レイクは発明を続け、
1894年に最初の潜水艦であるアーゴノート・ジュニアを建造しています。


Argonaut Jonior

これを潜水艦と呼ぶとは誰も思いますまい。
しかしこれが彼の開発した最初の「サクセスフル」な潜水艦でした。

アーゴノート、アルゴノートの語尾がアストロノーと同じ
"naut"であることから想像できるように、この言葉には、
ギリシャ神話に登場する巨大な船「アルゴー船」の乗員の意味があります。

三角形で木製、船底の車輪は「船の底が海底に付かないためのもの」。
これは船というより「海底探査車」に近いものだったようです。

ゴム長靴を履いて乗り、船体を中から押しながら海底を歩いて移動し、
なんなら海底に落ちているものを拾い上げることも可能でした。

空気はどうするかというと、密閉された船内の上部に溜まった空気を
極限まで吸うというデンジャラスな仕組みとなっていました。

大きな洗面器をかぶって中の空気を吸う的な。



流石にここで終わるはずもなく、レイクは1900年になると、
今度はアーゴノーという実に潜水艦らしい形のものを開発しました。

このアルゴノートも、その次の「プロジェクト」という潜水艦も、
レイクの潜水艦は、なぜか海軍に採用されることはありませんでしたが、
彼が潜水艦のために発明したものの多くは、
その後の潜水艦が標準的に備える装備となっていきました。

ダイバーが潜水艦を離れる時に必要なロックアウトチャンバーの設置。
司令塔の前方と後方に合計4つ搭載された潜舵、フラットなキール。
これでバラストタンクのレベルを変えることなく深度を維持できます。
バラストタンク搭載の二重構造による船殻。

そして、潜望鏡です。
このアルゴノートの図には「U」として潜望鏡が描かれています。

ところでこれだけの発明をしていたのに、
なぜ海軍はレイクの案を採用しなかったのでしょうね。

特に、「アーゴノート」の後継型、「プロテクター」潜水艦の導入を、
海軍と議会から拒否されてしまったレイクは、
腹立ちまぎれに設計図ごとそれをロシアに売却し、
腹立ちまぎれにロシア海軍にメインテナンスのやり方を兼ねて
手取り足取り乗組員の訓練もしてやったそうです。

レイクはロシア以外に日本にも売り込みをかけていたといいますが、
日本海軍も結局ホランド型を購入しています。
この時「プロテクター」を買っていたら、レイクが日本に来て
あれやこれやを指導していた可能性もありますね。


ところで、海軍がなぜレイクの潜水艦をなぜ買わなかったかというと、
潜水艦そのものに対する安全性への懸念だったのではないでしょうか。

結局導入を決めた「ホランド」型の開発についても、
何度も計画が変更してうまくいかなかったという事実が示す通り、
潜水艦という兵器はいかに発想が魅力的でも慎重にならざるを得ず、
従って、消去法で懸念材料が多かったレイク案が消えた、
ということにすぎなかったのかもしれません。

結局海軍が完成した「ホランド」号を購入したのは3年後でした。
ただし、肝心の潜望鏡という観点で言うと、

USS「ホランド」には潜望鏡は搭載していませんでした。

ホランドが潜望鏡を開発しなかったからです。
「ホランド」で当初どうやって外を見ていたかというと、

「ポーポイズ運動」

を行うという方法でした。


具体的にこんな感じで

失敗した魚雷が、海面に浮いたり沈んだりしながら進むことを
ポーポイズ(ネズミイルカ)と呼ぶことはご存じでしょうか。

「ホランド」の見張りは、数フィートごとに水面に浮上して、
強化ガラスを貼り付けたタワーの覗き窓から外を見ていたのです。

絶賛ポーポイズ運動中

これだとどうしても艦体が波間に見え隠れしますし、
写真でもわかるように大きく白波が立ってしまい、
潜水艦のステルス性は全く意味をなさなかったといえます。

何のための潜水艦か、って感じですね。

■ 潜水艦 USS「アッダー」Adder SS-3



まるでひっくりがえったボートに乗っているようですが、
これはよく見ると潜水艦なのです。

「アダー」は「ホランド」SS-1に続くアメリカ海軍の潜水艦であり、
歴史的にはこれが最初に潜望鏡を搭載した潜水艦と言われます。

ちなみに「Adder」というのはクサリヘビのことで、
「プランジャー」級の2番艦です。
「プランジャー」というのは「潜水夫」を表す言葉ですが、
潜水艦に水棲生物の名前をつける慣習は「プランジャー」級3番艦の
USS「グランパス」(シャチの種類)から始まっていたようですね。


しかし、潜望鏡。



これを見る限り、「アーゴノート」のように
はっきりと潜望鏡とわかる装備らしきものは見当たりません。

写真で、右から2人目と3人目の間に立っているのがそれかもしれません。

ちなみに写真の左端に見切れている大きなパイプは吸気用です。


■ 潜水艦以外に利用された”潜望鏡”


日本語だと潜望鏡は字面から見て水中使用専門のイメージですが、
英語の「ペリスコープ」は、必ずしも水中での使用を意味しません。

第一次世界大戦でペリスコープの必要性は激増しました。
塹壕戦が主流となり、身体を出さずに敵の様子を窺うためです。


この写真で使われているのと全く同じタイプの
「トレンチペリスコープ」はamazonで買えないこともないようです。



また、ペリスコープは第一次世界大戦の戦車にも大いに活用されました。

ガンドラッハ・ロータリー潜望鏡
(Gundlach Rotary Periscope)

はポーランドの軍人ルドルフ・ガンドラッハが1936年開発し、
360°の視界を可能にした回転式潜望鏡で、
戦車の中から戦車隊長などの観察者が座席を移動することなく、
前方(写真上)や後方(写真下)を見ることを可能にした。


後方を見る


この採用は観察者の快適性を大きく向上させ、視野も広くなるため、
1940年以降に製造されたほぼすべての戦車に採用されています。

戦前のポーランドとイギリスの軍事協力の一環として、
この特許はヴィッカース・アームストロング社に売却され、
すべてのイギリス戦車(クルセイダー、チャーチル、バレンタイン、
クロムウェル
など)に搭載されることになりました。

日本の戦車にも同じ機構が採用されていますし、アメリカに伝わり、
M6ペリスコープとしてすべてのアメリカ戦車
M3/M5スチュアート、M4シャーマンなど)に搭載され、
第二次世界大戦後、全世界で採用される技術となりました。


■ゴルフコースにペリスコープ

カナダのオンタリオにあるゴルフコースのペリスコープ

『ジョークではありません』

1933年に発行されたポピュラーサイエンスマガジンには、
ペリスコープがあなたのゴルフボールをグリーンに運ぶのに役立つだろう、
と、まるで冗談のようなことが書いてあります。

ゴルフコースのペリスコープ。
低い場所を見渡せます。

おそらく世界でも最も珍しいゴルフ場の設備の一つが、
カナダのブリティッシュコロンビア州ビクトリアのコースにあります。

このコースの9番ホールと10番ホールの間には小さな丘があって、
プレーヤーはどこにボールを打つかを肉眼で確かめることができません。

この問題を解決するために、この写真に見られる
高さ12フィートのペリスコープが9番ホールに設置されたのです。

見えない10番ホールに向かってショットを打つ前に、
プレーヤーは潜望鏡を通して丘を見渡すことによって、
自分のボールを打つ方向を確認できるというわけです。

また、実際の潜水艦の潜望鏡を使っているゴルフコースもあります。

The Golf House Club, Elie

スコットランドにあるというこのクラブのスターターハウスには、
1966 年に HMS 「エクスカリバー」から引き揚げられた潜望鏡があります。

これはまさしく・・・

こうしてみると潜水艦の潜望鏡の実際の長さが実感できますね。

この潜望鏡のおかげで、スターターは1番ホールの丘を見渡すことで
前の組が順調に進んでいるかどうかを確認することができますし、
賢明なゴルファーは、これからプレイする2番グリーンのホールが
どこに切られているかをばっちり見ることもできるというわけです。

HMS「エクスカリバー」とその姉妹船HMS「エクスプローラー」は、
英国海軍が建造した高濃度過酸化水素(HTP)を動力源とする潜水艦でした。

1950年代半ばに進水しましたが、潜水艦の動力源に使うには、
HTPは不安定であることがわかり、1968年末には両艦とも退役しています。


HMS「エクスカリバー」


HMS「エクスプローラー」

高濃度過酸化水素は閉鎖系エンジン(非大気依存推進)の酸素源として
利用が検討され、ヴァルター機関などにも検討されました。

大戦後、戦勝国がその成果を持ち帰った技術で、イギリスではこの
「エクスプローラー」級潜水艦が試作されたのですが、先ほど述べた理由で
潜水艦の水中動力源としては実用化されませんでした。

ただし、ロケット飛行機であるメッサーシュミット Me163のエンジンや、
日本の「秋水」の特呂二号原動機ベル ロケット ベルト、X-1、X-15、
ブラック・アローの推進剤
としては使用されています。

ロケットエンジンとしてもV2ロケット、ヴァイキング、レッドストーン、
ソユーズロケット
でターボポンプの駆動ガスの発生にも使用されました。


ロシア海軍は魚雷の推進剤に過酸化水素を使っていたのですが、
2000年、潜水艦「クルスク」で過酸化水素が不完全な溶接箇所から漏れ、
爆発し、魚雷の弾頭が誘爆したことが不幸な沈没事故を引き起こしています。


続く。