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「黒い5月」 Uボートvsハンターキラー任務群〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

シカゴの科学産業博物館に展示されている
U-505の展示を紹介するシリーズですが、
まだここまでは潜水艦のあるところにすらたどりついていません。

前説というか、Uボートについての歴史的な説明、
アメリカに与えた脅威、ひいてはその性能について、
見学者に基礎知識を与えるための展示を見ながら進みます。

■ Uボートの脅威(Menace)
”ウルフパックによる連合国船団への攻撃”



何百もの無防備な連合国の商船が、Uボートの攻撃で無慈悲に沈みました。

これに対して連合国は最大200隻の商船からなる護送船団を編成し、
護衛空母と駆逐艦によって大西洋全域を護衛しようとしました。

Uボートが護送船団を攻撃すると、これに対し駆逐艦は
爆雷(デプスチャージ)やヘッジホッグで対抗しました。



ヒットラーは(というかデーニッツなんですがこう書いてあるので一応)
ウルフパックと呼ばれるUボートのグループを編成し、
船団に大混乱をもたらす攻撃法を取りました。

1943年3月には、この戦争で最大級のウルフパック(Uボート40隻以上)が
100隻の連合軍艦艇から成る二つの護送船団に対する攻撃を行い、
この結果うち21隻が沈没させられるということが起こっています。

”連合軍の典型的な船団編成”



まず、黄色で記されたのが船団護衛駆逐艦です。
四角く並んだ船団の四隅を縁を描くように4隻、そして
そのさらに両外側を行きつ戻りつしてガードしています。

左上の旗🚩を立てた駆逐艦が護衛隊司令官の船です。

船団の外側を取り囲む灰色の船は資源を積む貨物船
その内側の紺色が石油タンカー
タンカーに挟まれているオレンジの船が戦車や航空機などの貨物
赤は弾薬輸送船です。

白い二隻の船はトループシップ、兵員輸送船です。

船団の最前列真ん中に🚩コンボイ、船団旗艦が位置します。

1942年までに、典型的な誤送船団は長方形のパターンで編成され、
その周りを護衛艦が囲むという形になっており、弾薬船、石油タンカー、
兵員輸送船は比較的安全な編隊内部に配置されました。

しかし、このフォーメーションはあくまでも「理想」「平穏時」であり、
荒天時、ましてやUボートが攻撃してきた時に
正確な間隔を維持することはほとんど不可能でした。

■ 1942−43 Uボートの脅威
”商船攻撃”



Uボートはほとんどの時間を水上で過ごすように設計されており、
基本的に見張りが水平線を偵察して
商船の煙突から立ち昇る煙を探していました。

船が発見されると、その時に初めて艦長はUボートを潜水させ、
潜望鏡を使って波の上を監視しながら獲物を追跡します。

次に艦長が

「フォイアー・アイン!(ファイアー・ワン)」

と叫ぶとき、それがUボートの乗組員が
運命の船に向かって魚雷を発射する瞬間でした。



数秒後、魚雷は商船に向かい、ヒットして激しい爆発を起こし、
船体にギザギザの形の穴を開けます。



そうすると火災が起き、船を揺るがす二次爆発が始まると、
海水が容赦なく船に浸水し雪崩れ込んできます。

乗組員は船体と共に大西洋の氷の海の底に引き摺り込まれる前に、
船を放棄しようとして、命懸けで脱出を図りますが、
そのほとんどは生き残ることはできず、共に海中に沈んでいきました。

■ハンターキラー・タスクグループ

戦争が進行するにつれて、連合軍の補給線は
ハンターキラー・タスクグループが開発されるその時まで
常に攻撃を受け続けることになりました。

しかし、一度これが投入されるようになると、
これらの任務群の有能さは目を見張るばかりで、
そのノウハウを全力投入し、威嚇するUボートを追い詰めると、
逆にそれがUボートにとっての大変な脅威となって立場が逆転し、
目に見えて護送船団の被害は激減していきました。

戦争の終わりまでに、ハンターキラー・タスクグループの投入の結果、
連合国の商船隊は、脅威に脅かされることもなく
大西洋を航行することができるようになっていきます。

その目覚ましい結果は数字に現れています。

下のグラフは、大西洋で沈没した連合国の船の数と、
撃沈されたUボートの数を年代ごとに示したものですが、これをご覧下さい。



いかがでしょうか。

最盛期の1942年まで圧倒的(1150隻)だった連合国側の船舶被害数が、
1943年に377隻とほぼ三分の一に激減し、1944年には、
民間船被害とタスクグループの撃沈したUボートの数が逆転、
終戦の頃には、完全にUボートの被害が優っています。

ハンターキラーグループは、「コンボイ・サポートグループ」とも呼ばれ、
第二次世界大戦中に積極的に投入された対潜水艦の集団です。

高周波方向探知などの信号情報、「ウルトラ」などの暗号情報、
レーダーやソナー・ASDICなどの探知技術を進歩させていった結果、
連合国海軍は敵潜水艦を積極的に追い詰め、
撃沈するための任務群を編成することが可能となりました。

こういう時の英米の科学技術に注入する民間の力は凄まじく、
短期間にこの逆転を可能にしたのは、科学・産業界の底力に他なりません。

ハンターキラー群は通常、航空偵察と航空援護を行う護衛空母を中心に、
コルベット、駆逐艦、護衛駆逐艦、フリゲート、
アメリカ合衆国沿岸警備隊カッターなどで構成され、
駆逐艦群は深爆雷とヘッジホッグ対潜迫撃砲で武装されていました。


ハンターキラーの構想が提案されたのは1942年、発祥はイギリスです。

Uボートの脅威にさらされていた大西洋横断輸送船団の護衛のため
強化された軍艦群を組織する構想が、まずイギリス海軍から生まれました。

1943年初頭に行われた連合国大西洋輸送船団会議では、
それぞれ護衛空母1隻を含む対潜戦艦10群を編成することが決定し、
そのうち5つの英・カナダグループが北大西洋の輸送船団ルートを、
5つの米グループが大西洋中部の輸送船団をカバーすることになりました。


そして1943年の5月、
大西洋でUボートの死傷率が初めて連合国軍のそれを上回りました。

これがハンターキラー導入後のエポックメイキングな出来事として
「ブラックメイ」(黒い5月)と名付けられました。

Uボートの立場に立ったネーミングですがそれはいいのか。

実はその直前の3月まで、Uボートの攻勢はピークに達しており、
大規模な輸送船団船でドイツは勝利を続けていたのです。

前の月の4月にもU-515による輸送船団TS37への衝撃的な攻撃で、
連合国は3分間に4隻、ついで3隻のタンカーを失ってもいます。

しかし、歴史を後から振り返ったとき、1943年5月、
それはUボートの戦力はピークに達し、後は落ちる運命でした。

240隻のUボートのうち118隻が出動している状態でしたが、
そこから連合軍艦船の撃沈は減少し続けたのです。

それでは「ブラック・メイ」といわれたこの5月、
何があったかというと、それまでで最もUボートの損失が大きく、
41隻(稼働中のUボートの25%)が破壊されていました。

この月は双方で大きな損失を出した激戦があったものの、
護衛艦の戦術的な改良が効果を発揮し始め、
次に攻撃された3つの輸送船団は、わずか7隻の沈没に対し、
撃沈したUボートはついに同数となっていました。

そこにいる人々には誰にも見えていなかったかもしれませんが、
明らかに後から考えれば、分水嶺というべき瞬間だったことがわかります、

この月に撃沈されたU-954には、
デーニッツ提督の息子ペーター・デーニッツも搭乗していました。

つまりデーニッツは自らの作戦で息子をなくす結果になったわけです。
翌年5月に、もう一人の息子、Sボート乗員だったクラウスも失っています。


クラウス・デーニッツ

デーニッツにとってもこの月は文字通りの「黒い5月」となったわけです。


この5月、大西洋で失われた連合軍の船はわずか34隻に止まりました。

5月24日、Uボートの敗北にショックを受けたデーニッツは、
Uボート作戦の一時停止を命じ、大半を作戦行動から撤退させています。

そしてその後、Uボートが優位を取り戻すことはありませんでした。

さて、ここからは、タスクグループ結成までの流れを、もう一度、
この博物館のパネルをもとに順番に説明していくことにします。


■ 米海軍”ハンターキラーを解き放つ”


1943年までに、連合国の対戦情報、電子追跡、攻撃機の進歩により、
流れはドイツ海軍のUボートにとって不利になりつつありました。

米海軍はUボートを1隻ずつ追い詰める時期がきたと判断しました。

しかし、Uボートは依然捉えどころのないものであり、
単一の船でその仕事をすることはできません。

そのため、米海軍は特別な対潜護衛艦を編成し、
ハンターキラー・タスクグループと呼ばれる部隊を作ったのです。


1944年5月、ハンターキラー・タスクグループ22.3が結成されました。
その機動部隊は、USS「ガダルカナル」と名付けられた小型空母護衛艦と
5隻の軽護衛駆逐艦で構成されていました。

22.3のようなタスクグループは、技術をプールして攻撃を続けることで
Uボート戦における形勢をじわじわと逆転させていきました。

いまやかつてのハンターは、「狩られる」側になろうとしていました。


ハンターキラータスクグループ旗艦「ガダルカナル」艦上の壮行式

■ タスクグループ始動



タスクグループ22.3の旗艦
対潜護衛空母USS「ガダルカナル」CVE-60



写真右下のグラフは、士官、下士官兵、パイロットの搭乗員の数を表します。
パイロットの割合の多さが注目すべき点です。

艦載された戦闘機と雷撃機は、連合軍の陸上機の射程外に扇状に展開し、
Uボートを捜索する役割を果たしていました。

当然のことですが、速度と高度により、戦闘機群は、
艦船が単独で行うより遥かに多くの海域を探索できます。

パイロットは日中は肉眼で海上のUボートを探し、
夜間は艦載レーダーによって捜索が行われました。
また、水中のUボートの音を聞くためにソノブイが投下されました。

航空機に発見されると、Uボートは本能的にそれを察知して潜航しますが、
パイロットはその位置をマークするために、水上に発砲を行います。

するとそののち駆けつけてきたタスクグループの駆逐艦は、
マーキングされた付近に爆雷を雨霰と投下するのです。
  
■ 1944年アメリカ海軍
”ダン・ギャラリー大佐”


ハンターキラータスクグループの、23.3の指揮官に選出されたのは
ダニエル・V・ギャラリーJr.大佐でした。

シカゴ出身のギャラリーは、海軍兵学校卒業後パイロットとなり、
飛行教官としても腕を振るいました。
彼の飛行技術は独創的で、インスピレーションに富み、
そして何より勇敢で優れた戦闘機乗りでした。

戦争の前半、彼はスコットランドとアイスランドの水上機基地を指揮し、
北大西洋の船団レーンのパトロールを担当していました。
彼の船団グループは合計6隻のUボートを撃沈しています。

1943年9月、ギャラリーはアメリカに戻り、
USS「ガダルカナル」の艦長に任命され、その後、タスクグループ21.12で
U-544、U-515、U-68、3隻のUボートを撃沈しました。


■ ”我々にUボート捕獲の勝算あり”



機動部隊31.1aでの最後の対潜哨戒中、
ギャラリー大佐はUボートの捕獲が可能かもしれないと考えました。

もし捕獲できれば、Uボートの持つ魚雷誘導システム、通信コード、
Uボートが使用する攻撃戦術に至るまで、
ドイツの秘匿された軍事技術を連合国で共有することが可能となり、
戦況に大いに有益となるばかりか、その後の展開によっては
歴史的にも記念碑的な偉業になるに違いありません。

1944年4月に、ギャラリーはアメリカ本国に戻ると、
タスクグループの全ての艦船に、Uボートの捕獲、その後の接収、
そして牽引の計画を作成するように命じました。

部隊はすぐにそのための訓練を開始しましたが、
これまでになかったことの準備ゆえ、多くの未知数があったのも確かです。

しかし、1944年5月、ギャラリーが指揮するハンターキラー機動隊22.3は
可能であればUボートを捕獲すべしという命を受けて大西洋に出撃しました。


ハンターキラータスクグループ21.12がU-515を捕獲した地点
「沈没」と書いてあるが、結局沈没はアメリカの手で食い止めた


■ 護衛駆逐艦



ハンターキラータスクグループ22.3で
ギャラリー艦長率いるUSS「ガダルカナル」を支援したのは、
以下5隻の護衛駆逐艦でした。

USS「シャトレイン」Chatelain DE-149

USS「フラハティ」Flaherty DE-135

USS「ジェンクス」Jenks DE-665

USS「ピルズベリー」Pillsbury DE-133

USS「ポープ」Pope DE-134

護衛駆逐艦は、通常の重装甲の駆逐艦よりも軽量、小型、高速で
機動性に優れていたため、とらえどころのないUボートを追跡、
そして攻撃するのに最適だったと言えます。

アメリカ海軍の水兵たちが親しみをこめて呼んだところの
「ブリキ缶(ティン・カン)」には、
浮上したUボートの位置を特定するためのレーダーが装備されていました。

加えて、水没したUボートを検出するソナーと水中聴音機で、
命中すると爆発する小さなヘッジホッグ、
そして特定の深度で爆発するよう設定できる強力な爆雷を持っていました。

Uボートの艦長たちは、護衛駆逐艦を避けるために全力を尽くしました。
見つかったが最後、自ら終焉を覚悟するほどの打撃は免れなかったからです。




続く。




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5 Comments

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1939年 (お節介船屋)
2023-04-14 20:26:04
1939年9月第2次世界大戦が開戦しましたが、ヒットラーが1946年までは英国と全面戦争にはならないとの見解でドイツ海軍はZ計画で戦艦8隻、空母4隻、巡洋艦49隻、駆逐艦68隻、潜水艦249隻等の保有の考えでした。
ポーランド侵入で開戦しましたがヒットラーは英仏とも軍事介入しないとの予想でした。
独海軍は全く用意がなく、艦艇の就役数も少なく、イギリスに対する通商破壊戦を命じられましたのでZ計画を破棄して潜水艦の大量建造を基本にしました。


一方英国はアスディクが実用化の域に達しており、これを用いれば対潜戦が有効に進められると考えていました。スループ、コルベット、護衛駆逐艦の対潜艦艇を大量建造することを1938年から進めてはいましたが開戦には間に合っていませんでした。

ドイツ海軍も潜水艦建造技術をオランダで秘密裏に温存し、1935年英国との海軍協定で潜水艦建造計画を発表し、建造開始しましたが中心となるⅦ型及びⅨ型が竣工するのは開戦直前であり、また海軍首脳の大型水上艦建造の煽りで建造はあまり進んでいませんでした。

隻数が増加し、無警告撃沈で狼群戦術が可能となるのは1940年7月以降でした。
一つのピークは1941年3月の63隻365,000tでしたが、イギリスも船団の全行程護衛、航空哨戒、レーダーの採用等対抗手段の強化を図りました。

ドイツ潜水艦建造は開戦後デンマーク社とクルップ・ゲルマニアヴァルフト社、ドイチェ・ヴォルフト社の3社を基幹造船所として18社ですさましい大量建造が始まりました。
ドイツらしい生産を分担し合い、極めて計画的に生産体制が整えられ、徹底したブロック建造で1,100隻以上が建造されました。

ドイツはフランス占領でアスディクについて把握しており、この盲点を突いて夜間水上攻撃での攻撃を実施していましたが航空哨戒、レーダー使用で水面下に押し込められ、電波探知、暗号解読等で戦果が下降、被撃沈増加となって行きました。

参照海人社「世界の艦船」No471
返信する
これはきつい (Unknown)
2023-04-15 07:34:32
>護衛駆逐艦は、通常の重装甲の駆逐艦よりも軽量、小型、高速で機動性に優れていたため、とらえどころのないUボートを追跡、そして攻撃するのに最適だったと言えます。

調べて見たら、基準排水量1,200トンの小船ですね。これに近い船に乗っていたことがありますが、洋上補給なしだと一週間くらいしか走れないし、そもそも、小さいので居住性は低く、これで大西洋を走り回ったとしたら、潜水艦並みにきつかったはずです。
返信する
ウルフパック (お節介船屋)
2023-04-15 09:54:55
第1次世界大戦末期に考えられましたが採用されませんでした。
デーニッツが1935年末この戦術をおおむね完成させました。

水上機動力を発揮し、船団捜索、追尾、反復攻撃
船団の発見報告、司令部とのやり取り、命令、追加報告、状況報告、僚艦寄せ集めのホーミング信号

アスデイックの裏をかいて夜間水上襲撃実施

1939年10月 狼群戦術試行、投入Uボート少なく失敗
1940年6月再開、当初は失敗しましたが後に大戦果
1943年5月連合軍側の新兵器、レーダー、hF/DF等電波探知、方位位置測定で被害続出、船団攻撃中止
1943年9月Uボート 新兵器、逆探、音響ホーミング魚雷装備し船団攻撃再開
1943年11月作戦海域を西大西洋から東大西洋に移動
航空機の脅威、アメリカとイギリスの協力で長距離哨戒機配備、航空爆雷、機上探照灯、ソノブイ、対潜ホーミング魚雷、ロケット弾、磁気探知機等が開発実用されエアーカバーも拡大
1944年3月連合軍の圧倒的な対潜戦術でウルフパック戦術放棄

約800隻のUボート被害の内、航空機によるものが47%、空水共同が6%、艦艇のみでが47%でした。

ヒットラーの外交や指導の失敗で開戦時57隻の小兵力でしたが1,100隻以上を建造し、実質830隻で商船3,000隻、1,490万総トンの戦果でした。

参照海人社「世界の艦船」No471
返信する
DE (お節介船屋)
2023-04-16 11:46:22
USS「ピルズベリー」Pillsbury DE-133 1943年6月竣工、1965年除籍
USS「ポープ」Pope DE-134 1943年6月竣工、1970年除籍
USS「フラハティ」Flaherty DE-135 1943年7月竣工、1966年除籍
USS「シャトレイン」Chatelain DE-149 1943年9月竣工、1973年除籍
以上4隻は「エドソル」級85隻の同型艦でした。
基準排水量1,200t、全長93m余り、デイーゼル機関4基、2軸、6,000馬力、速力21kt、7.6㎝50口径単装砲3基、40㎜連装機銃1基、20㎜単装機銃8基、53.3㎝3連装魚雷発射管1基、ヘッジホッグ1基、爆雷投射機8基、爆雷投下軌条2基、乗員200名
戦没艦は4隻でした。

USS「ジェンクス」Jenks DE-665 1944年1月竣工、1966年除籍
「バックレイ」級154隻の1艦でした。
米護衛駆逐艦最大の建造数で46隻が英海軍へ貸与、6隻が途中から高速輸送艦に変更完成、102隻が米海軍護衛駆逐艦で就役。戦没3隻
基準排水量1,400t、全長93m余り、ターボ電気機関、蒸気タービン2基、発電機2基、電動機2基、2軸、12,000馬力、速力24kt、7.6㎝50口径単装砲3基、28㎜4連装機銃1基、40㎜単装機銃4基、20㎜単装機銃8基、53.3㎝3連装魚雷発射管1基、ヘッジホッグ1基、爆雷投射機8基、爆雷投下軌条2基、乗員220名

アメリカは参戦1年半前の1940年に援英用護衛駆逐艦を設計、建造を始めますが参戦前航洋型護衛艦を重視しておらず、そのため英国の対潜護衛艦を手本として米国海軍仕様を加味して護衛駆逐艦とパトロール・フリゲートを500隻余り建造して約100隻を英国に貸与しました。

先走ってエリス中尉に怒られるかもしれませんが「ガタルカナル」の捕獲隊が乗艦前に「ピルズベリー」の捕獲隊が自沈のため注水していたのを止めて沈没を防いでいました。

>ハンターキラータスクグループ21.12がU-515を捕獲ではなく撃沈した地点
>「沈没」と書いてあるが、結局沈没はアメリカの手で食い止め
U-505とU-515を勘違いされていますがU-515は1944年4月9日撃沈されています。

ハンターキラータスクグループ22.3がU-505を捕獲したのは1944年6月4日です。
ハンターキラータスクも違いますし、位置も違うと思います。

参照海人社「世界の艦船」No471、910、926
返信する
週間空母 (ウェップス)
2023-04-18 11:43:53
動画ありますよ~!(^^)!

https://www.youtube.com/watch?v=7NE3qxOxHLQ

カサブランカ級空母ですね。いわゆる週間空母ですが、これだけの数の艦を週一ペースで建造する能力はもとより、一艦一艦に艦長と乗員と飛行士を充てる養成パワーに感服します。
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