ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

最終兵器を求めて スカウトD〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館の展示より、今日もまた
宇宙開発(という名の兵器開発)の過程で建造されたロケットを紹介します。

■最終兵器

冷戦が始まると同時に、米ソの戦略家と国家指導者たちは、
いかに敵の心臓部を素早く攻撃できるかという方法を模索し始め、
その答えは終戦と同時にドイツから持ってきた
「フライングボム」=飛行爆弾にあると考えられました。

つまり、のちの巡航ミサイルです。

しかし、ドイツから召し上げた初代巡航ミサイルのV-1は低速で精度が低く、
さらにそれを発展させたV-2も、ミサイルの原型としてはともかく、
この時代に使うには、あまりに精度も射程も不十分でした。

なにしろ冷戦時代の米ソは、ドイツがV-2で相手にしていた国との距離など
問題にならない遠方の敵にダメージを与えないといけないのですから、
それだけに状況に合った性能を持っていなければ話になりません。

そこで両国の技術者たちは、これらドイツの技術を発展させ、

V-1は長距離巡航ミサイル( long-range cruise missile )
V-2は大陸間弾道ミサイル(intercontinental ballistic missile ICBM)

へと改良されていきます。

【ナバホとトマホーク〜長距離ミサイル】



1946年に開発が始まったナバホミサイル(SM -64 NAVAHO)は、
ラムジェットエンジンを搭載し、長距離を飛翔する
大陸間巡航ミサイルを目指していました。

アメリカが戦後最初に取り組んだプロジェクトで、
V-2ロケットのエンジン研究から、より効率の良い新しい設計が試みられました。

1950年代には、無人による長距離飛翔体爆弾は、
まだ技術的に射程距離や精度が不十分で、
簡単に撃ち落とされてしまうという問題がありました。

1958年までの間、ナバホの研究は継続されていましたが、
そうこうしているうちに
長距離弾道ミサイル(ICBM)が実用化される見通しとなり、
開発の必要がなくなり中止されました。


【巡航ミサイルの分類】

1970年代に入ると、推進装置、電子機器、誘導装置の小型化が進み、
さらに偵察衛星によって詳細な地形図の情報が得られるようになってくると、
巡航ミサイルはいよいよ通常兵器や核兵器を搭載して実用可能となります。

巡航ミサイルの定義は、

「翼を持ち、推進力を伴って長距離を飛行し目標を攻撃するミサイル」

ですが、サイズ、速度、射程距離、発射される設備によって名称が違うので、
一応全部書いておきます。

ALCM( air launched cruise missile、空中発射巡航ミサイル)

GLCM(ground launched cruise missile、陸上発射巡航ミサイル)

SLCM(surface ship launched cruise missile、水上艦発射巡航ミサイル)

SLCM(submarine launched cruise missile、潜水艦発射巡航ミサイル)


水上艦と潜水艦の略字が同じですが、これはどちらでも通じるってことかな。
ちなみに空中や潜水艦から発射されるものは、運用の関係から
陸や艦から発射されるものより小型化されていました。

また、何を攻撃するかによっても名称が違います。

対艦攻撃:ASCM(anti-ship cruise missile、対艦巡航ミサイル

対地攻撃:LACM( land-attack cruise missile、対地巡航ミサイル)

また、巡航速度によっても二種類に分けられます。

亜音速巡航ミサイル(subsonic-speed cruise missile)

超音速巡航ミサイル( supersonic-speed cruise missile)

また誘導装置もミサイルによって異なり様々でした。

慣性航法、TERCOM、衛星航法など。

さまざまな航法システムを何種類も搭載できるミサイルもありました。

大型の巡航ミサイルは通常弾頭と核弾頭のどちらかを搭載することができ、
小型のものは通常弾頭のみを搭載することができます。

【トマホーク】


トマホーク

トマホークは、上記の分類に入っていませんが、分類としては
陸地攻撃ミサイル(ランドアタックミサイル・TLAM)です。

トマホークも分類分けしてみると、

海軍開発、艦船・潜水艦ベースの(SLCM)

陸上攻撃作戦に使用する(LACM)、


長距離、全天候型、ジェットエンジン搭載の

亜音速巡航ミサイル(Subsonic)

などがあります。

潜水艦から発射!

トマホークは、直近では2018年のシリアに対するミサイル攻撃で
米海軍が使用し、この時には66発のミサイルが
シリアの化学兵器施設をターゲットに発射されています。


【大陸間弾道ミサイル  ICBM】

ドイツのV−2から始まった長距離弾道ミサイル。

音速の5倍の速さ(極超音速)で移動することができ、
地上からの信号にも依存しないICBMは、当時にして
「究極の兵器」「最終兵器」と思われました。


1950年代後半から1960年代初頭の冷戦の最盛期には、
アメリカ軍はB-52ストラトフォートレス爆撃機
戦略的抑止力の主役にしていたというのは何度もお話ししてきました。

しかし、冷戦時代、ソ連が国力を上げてV-2の技術を改良しているとき、
相変わらず戦略爆撃機に重点を置いていたことは、宇宙開発の初期に
アメリカがソ連に引き離された原因の一つとなります。

なぜかというと、アメリカは最初、軍民宇宙計画に明確な区別をつけず、
ヴァンガード計画も表向き純粋な科学研究のためとしていた上、
科学衛星計画は非軍事という認識(というか建前)があったからです。

しかも、宇宙計画の責任や打ち上げ計画は、
実質軍部に任されていたというのに、肝心の空軍が
有人戦略爆撃機至上主義から一歩も出ていませんでした。

一方、ソ連はなまじ長距離爆撃機の戦力がアメリカに劣っていたため、
最初からV2を発展させて利用することに前向きでした。

そして国家の総力を挙げて開発したのが、
スプートニクを飛ばしたR-7ロケットです。


【ミサイルギャップ】

ミサイル「ギャップ」と打ったら、すかさず「ギャップ萌え」と変換される
わたしのPCですが、萌えている場合ではありません。

アメリカは、世界一の座にあぐらをかいていたのでしょう。

各種核兵器を現地に送り込む最も確実な方法は戦略爆撃機であり、
その方法ならソ連に負けるはずがない、と思いこんでいたのです。

しかし、同じドイツから技術と技術者を引っ張ってきておきながら、
ほとんど彼らを飼い殺しにしていたアメリカと違い、
ソ連はV-2技術を発展させ、世界初のICBM、R-7を作り、
そしてスプートニク1号を打ち上げてしまったのは歴史の示す通り。

アメリカの自尊心と自信をぶち壊したこの「スプートニク・ショック」は、
核の運搬方法において戦略爆撃機を上回る方法を敵に先に開発された
ということに対する恐怖を伴っていました。


【究極の武器とICBMの決定】

技術の進歩により、初期のミサイルはさらに強力な
「最終兵器」へと近づいていきます。

小型の熱核弾頭の開発は、広島と長崎に投下された原子爆弾よりも
遥かに強力な破壊力をミサイルに与えました。

1954年初め、アメリカ空軍にある極秘報告書が提出されました。

この極秘文書の内容は、最近の核兵器技術の進歩を踏まえた上で、
弾道ミサイルの効果を再評価する内容となっていました。

ミサイルギャップの時に議論されたことですが、この時戦略ミサイル評価委員会は、
長距離弾道ミサイルでロシアが米国に先行する可能性を懸念し、
空軍にミサイル開発を "極めて高い優先順位 "で扱う指令を下したのです。



■ポラリスミサイル 〜テクニカル・ブレークスルー

アメリカは、1953年までに水素爆弾を小型・軽量化することに成功しました。
つまり、ICBMの本体を大きく作る必要がなくなったのです。



1954年に南太平洋で行われたキャッスル作戦の「ブラボー」実験で、
小型化した新しい水素爆弾の実用性が確認されました。

ICBMの時代が到来したのです。

ちなみに、日本の漁船「第五福竜丸」が被爆したのはこの実験でのことです。


その後貯蔵可能な液体および個体推進剤により、ICBMS(大陸間弾道ミサイル)
地下サイロや、SLBM(submarine-launched ballistic missile)
つまり潜水艦から発射することができるようになります。
また誘導システムの改善により、精度が劇的に向上しました。



1960年にテストされたポラリスA-1アメリカ初のSLBMでした。

潜水艦という検出され難い装備から放たれるSLBMは当時
最も有効な戦略核兵器システムとして評価され、
米ソ両陣営で1960年〜65年ごろ配備されました。

ソ連側はSLBMと潜水艦をセットで開発して運用しています。

ちなみに、映画「K-19」で原子炉事故を起こした話が描かれた
「カ-19」は、ソ連海軍最初のSLBMを搭載した原子力潜水艦でした。


また、1970年代初頭には、

MIRVS Multiple independently targetable reentry vehicle
マーヴ、複数個別誘導再突入体

ひとつの弾道ミサイルに複数の弾頭(一般的に核弾頭)を装備し
それぞれが違う目標に攻撃ができる弾道ミサイルも現れます。


分かりやすいマーヴの弾道軌道イメージ

■スカウト:NASAの’ワークハウス’(主力製品)



この写真では右の、「UNITED」の文字が見えるのがスカウトです。

細長い円筒形で、ロケットの約半分まで徐々に細くなり、
直径の小さい第2段、直径の大きい第3段、第4段、
ペイロードセクションが熱シールドフェアリングに収納されています。

第1段の底部には4枚の固定式三角形空力フィンがあり、
フィンの外側は可動式で、方向制御と安定性を補助しています。

インジャンV(エクスプローラー40)とエクスプローラー39の
バックアップ衛星の2つのペイロードが見えるように、
この標本は上部が切り取られています。

1968年8月8日、スカウトDはオリジナルのペイロードを打ち上げました。



NASAが結成されて最初のタスクとなったのは、小型衛星と探査機を
宇宙に打ち上げるための信頼性の高いロケットの開発でした。

その結果NASAが開発したのはその歴史で最も小さかった

スカウト(SCOUT Solid Controlled Orbital Utility Test system)

です。
NASAは新しいロケットをできるだけ早く稼働させたかったので、
既存の固体推進剤ロケットのコンポーネントを使用して、
つまり既製品を使ってロケットを製造しました。

1段目は海軍のポラリスミサイル
2段目は陸軍のサージャントミサイル
そして上2段は海軍のヴァンガードからと言った風に。


短距離弾道ミサイル MGM-29 サージェント(Sergeant)

カリフォルニア工科大学と陸軍が開発したサージャントについては
少し前にもお話ししています。

スカウトに陸海ロケットを混ぜて使ったのは、忖度か内部事情か、
あるいは本当に科学的な理由によるものかは分かりません。


スカウトは「全米で最も成功した信頼性の高いロケット」と言われます。

Solid Controlled Orbital Utility Test system
(個体制御軌道汎用テストシステム)


の頭文字から取られた名称で、これまで打ち上げは118回行われ、
その成功率なんと96%を誇ります。

おそらく、スミソニアンに一緒に並んでいる各種ロケットの中で
最も評価が高く完成度も高い「優等生」に違いありません。

スカウトが打ち上げたのは、欧州宇宙機関のためにドイツ、オランダ、
フランス、イタリア、イギリスの衛星などを含み、
94の軌道ミッション(海軍の航法衛星27基、科学衛星67基)、
7つの探査機ミッション、12の再突入ミッションに関わりました。

スカウト計画に携わることによって、技術者たちは
米国の宇宙開発計画に独自の貢献をしたことになります。



当然ですが、開発当初から、スカウトの構成は進化し続けています。
各モーターは少なくとも2回改良され、ロケットエンジンの設計の改良により、
より大きなペイロードを搭載できるようになっています。

しかし、現在のスカウトG-1の形状は、開発当初とほとんど変わっていません。


確かに

これは取りも直さず、初期の設計の完成度の高さを証明していると言えます。


ロケットの各段には名前がつけられています。
「アルゴル」「キャスター」「アンタレス」「アルタイル」と。

ロケット1段目は「アルゴル」(Algol)

長さ9,144m、直径114cm。
このモーターは平均82秒燃焼し、最大推力は140,000ポンドです。
下部には、1段目の高度制御用ジェットベーンとフィンの先端があり、
最初の打ち上げ時に機体を操縦します。

第2段目の「キャスター」Castorは、長さ約6m、直径76cmの大きさです。
この段は41秒間燃焼し、6万ポンドの推力を発生させます。



第3段めのロケットモーター「アンタレス」Antaresは、
長さ3m、直径76cm。
第2段と第3段の制御は過酸化水素の噴射で行います。

第4段「アルタイル」Altairは、長さ152cm、直径50cmの小さなものです。
燃焼時間は34秒で、6000ポンドの推力を発生します。
その制御にはスピン安定装置が用いられています。


第4段とペイロードセクションを覆う熱シールドは、
コルクとグラスファイバーのラミネートでできています。

打ち上げ場は、バージニア州ワロップス島のNASAワロップス飛行施設
(ワロップスってネットスラングっぽい?)
カリフォルニア州バンデンバーグ空軍基地の西部試験場
それからアフリカのケニアにあります。



最初のスカウトは1960年に打ち上げられ、その後、モーターを改良し、
進化を続け、1972年に展示されているD型スカウトが登場します。

最後のスカウトが打ち上げられたのは1994年。

このロケットは1977年にNASAのバージニア州ワロップス島の施設より
スミソニアン博物館に寄贈されたものです。


続く。


初期の観測用ロケットと「スペースモンキー」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、前回「ロケット三兄弟」という言葉を紹介しついでに、
スミソニアンに乱雑に?立ててある各種ロケットについて
ちょっとだけご紹介してみた訳ですが、続きとまいります。

WACコーポラルロケットなどと同じ、観測用ロケットです。

■アエロビー AEROBEE 150
〜海軍初の打ち上げ観測ロケット


機体中央部の模様が中華丼風というかギリシャ風なのはなぜ。

アエロビー150ロケットは初期の観測ロケットで、
その期限を遡れば、酢電位1947年には打ち上げられています。

アエロビーシリーズもやはり、ナチスドイツのV-2ロケットの
技術転用による開発で生まれました。

こうやって見ていくと、本当にアメリカのロケット技術者は
ナチスドイツとフォン・ブラウンに足を向けて寝られないくらいです。

それはいいのですが、アメリカ、せっかく乱獲してきたV-2ロケットを
たくさんあるからと気を大きくして、惜しげもなく
宇宙線の性質や太陽スペクトル、大気中のオゾン分布など、
各種データ収集にふんだんに使いまくって消費してきたため、
だんだん数が足りなくなってきました。

そもそもV -2の組み立てと打ち上げには結構な費用がかかったのですが、
まあ基本的に、戦後のアメリカという国は、宵越しのV-2は持たねえ、
なくなりゃなんとかならあなくらいの感じだったんだと思います。

そして前回ご紹介したWACコーポラルは小さすぎて
積載量が少ないことから、新たに科学研究に使うための
安価で大型の観測ロケットを開発することになったのです。

建造の中心となったジェームズ・ヴァン・アレン応用物理研究所は、
エアロジェット社にその条件に合うロケットを発注し、
同社とダグラス・エンジニアリングの共同で開発が始まります。

ところでこの「エアロビー」の「ビー」ですが、ご想像の通り蜂のことです。

エンジン製造元の「エアロジェット」の「エアロ」
海軍の誘導ミサイル計画の「バンブルビー計画」「ビー」を合体させて、
「エアロビー」というわけです。

何度も言いますが、この頃はロケット開発を陸海空別々に行っていたので、
ネーミングまで別々となり、
海軍ではRTV-N-10(a)、空軍ではRTV-A-1と命名されています。

その後空軍はが949年12月に打ち上げた最初のロケットは、
宇宙からの写真を撮るのに成功しましたが、本体を翌年まで回収できず、
見つかった時には中身は無くなっていました。

しかし、その後打ち上げた32機のエアロビーはほとんどが成功し、
1951年にはを乗せて打ち上げたりしています。

今回は打ち上げられた猿についてお話ししようと思います。

■ エアロビーと「スペースモンキー」

あ、あんた俺が見えるのかい?ってそら見えるわ

Animals in Space - Aerobee 3 Sounding Rocket Documentary
お猿さん、アルバートVIヨリック生還の瞬間は12:33〜
エアロビーの説明は3:48〜

あまり話題になったことはありませんが、
アメリカはドイツから取ってきたV-2で猿を打ち上げているのです。

そのお猿さんたちの悲惨な運命について書いておくと、
初代は飛行中に窒息死、二匹目はパラシュートが開かず激突死、
三匹目は空中爆発死、四匹目はパラシュートが開かず激突死。

V-2に載せられた4匹の猿の名前は順番に
アルバート I、II、III、IVでした。

便宜上振り分けた名前なのに1世、2世って・・・。

それにアルバートだったらヨーロッパの王族に同じ名前の人がいるでしょ?
アルブレヒト6世とか、アルベール2世とか。
6世と2世がいるくらいだからきっと他にも実在してたはず。

アメリカ人には全く関係ないからって失礼じゃないの。

さて、エアロビーに載せられたのはアルバートのVからです。
彼は激突死しましたが、その次のアルバートVIは宇宙から生還しました。


生還したアルバート6世

アルバートという名前が失敗続きだったので、縁起を担いだのか、
アルバートVIにヨリックという「別名」(愛称かな)
をつけたのがよかったのかもしれません。

だがしかし。
宇宙から生還した初の霊長類に、アルバートVI、akaヨリックは、
着陸してから2時間後に死亡しました。

彼は高温のカプセルの中で、救出まで2時間の間に脱水症になったようです。
この時のアエロビーには、ヨリックの他にネズミも載せていましたが、
もちろん彼らも全員が生きてはいませんでした。

関係者は彼の功績を称え、デスマスクを製作しています。

アルバート6世デスマスク

エアロビーによる打ち上げでは、この後アルバートという名前は廃止され、
代わりにパトリシアとマイクという名前のつがいを乗せたところ、
彼らは生還した上、着陸後も長生きしたということです。

やっぱりアルバートがまずかったのでしょうか。


エアロビーはその後40年にわたって天文学、物理学、航空学、生物医学など
膨大なデータを収集するという役割を果たし続けました。

■スペース・モンキーズ

さて、アエロビーに乗せた猿の話が出たついでに、
今日はアメリカの実験で宇宙に打ち上げられた霊長類について、
お話をさせていただこうと思います。

ロケットに生命体を乗せることは、先ほどのビデオにもあったように
早くから試みられてきましたが、ソ連は犬を最初に取り上げたのに対し、
アメリカはネズミの次にいきなり霊長類を打ち上げようとしました。

もちろん最初は小さな猿からです。

V-2ロケットに最初に乗せたアルバート1世と2世、4世はアカゲザル、
アルバート3世はカニクイザルという種類で、
カップルのパトリシアとマイクもカニクイザルでした。

【ゴード Gordo】



1958年、ジュピターA M-13で打ち上げられたリスザルのゴード、
別名オールド・リライアブル(信頼くん?)は、
15分間の弾道飛行に成功しました。

しかもカプセルは着水予測の1m以内にどんぴしゃりで着水したのに、
その後カプセルごと行方不明になってしまいました。

つまり回収できなくて助からなかったということです。
衝突の瞬間までゴードが生きていたということはわかったため、
計画は成功🙌とされたようですが。

生きて帰ってくるまでが遠足、じゃなくて計画ってもんじゃないのか。

【エイブルAbleとミス・ベイカー】


わたしが行った時には貸出でもされていたのか、メンテ中だったのか、
見ることはできませんでしたが、スミソニアン博物館には、
ジュピターA M-18に搭乗したエイブルの実物があります。

実物、つまりご遺体の剥製です。

1959年、アカゲザルのエイブルリスザルのミス・ベイカーは、
宇宙旅行の生物医学的影響を調べるために計画された陸軍の実験で、
ジュピターに乗せられて、ケープカナベラルから打ち上げられました。

Space Monkeys Able and Baker

彼らの宇宙船は最高高度482kmから時速16,000kmで下降して
大気圏に再突入し、海軍艦船に回収されることに成功しました。
映像によると、彼らを回収したのは海軍のタグ「カイオワ」です。

コーンから艦上で引き出されているエイブルの姿がまさにこれ。


彼らはミッション成功後、記者会見まで行ったようです。
猿なのに。

しかし、エイブルは飛行後手術を受けることになりました。
おそらく体組成などを調べるための当人にはなんの必要もない手術で、
麻酔から覚めることなく死亡してしまいました。

陸軍が1960年にエイブル(の剥製)をNASM(スミソニアン)に譲渡し、
国立自然史博物館が保存することになったので、
宇宙博物館は宇宙開発関係の展示の一環として
時々ご遺体を「借りてくる」のかもしれません。

エイブルの剥製は宇宙に打ち上げられた時の姿をそのまま再現しています。

猿も打ち上げ中、身動きできないのは死ぬほど苦しかっただろうに、
死してなおこのような状態のままというのは本猿的にどうなんだろう。

ちなみに彼らの名前は、アメリカ式フォネティックコードのAとBで
エイブルとベイカーと付けられたそうですが、
この名前は(どちらもメスなのに)女の子っぽくないので
どちらも常に「ミス」をつけて呼ぶことになっていました。

自衛隊のフォネティックコード、アルファ・ブラボーではなく、
こちらは、

エイブル・ベイカー・チャーリー・ドッグ・イージー・フォックス・ジョージ

となります。

ついでにベイカー嬢のビデオもどうぞ。

彼女はあまりに賢くて可愛いかったため、
「親切に思いやりを持って世話をする」という意味の
「Tender Loving Care」からTLCと医師から呼ばれていたと言ってます。

アメリカにTLCというネットワークがあったけどそういう意味だったのか。

The Story of Miss Baker


そして彼女は、アストロノーならぬ「モンキーノー」(Monkeynaut)として
「正しい資質」The Right Stuff ザ・ライト・スタッフ
を持っていたと激賞されています。

ミス・ベイカーは帰還後ファンレターが殺到し、専用の秘書が付き、
死後は宇宙基地内に立派なお墓を作ってもらって、
連れ合いの隣に静かに眠っています。

お墓には、今も訪れる人がバナナ🍌を供えていくそうです。


【サムとミス・サム】


猿権なし

1959年12月、アカゲザルのサム
マーキュリー計画のリトルジョー2号機で、
1ヶ月後にミス・サムリトル・ジョー1Bに乗せられました。


ミス・サム(流し目美人)

ミス・サムは8分35秒の飛行に耐え、宇宙に行った猿の一頭になりました。
名前のSamは、テキサス州サンアントニオにあるブルックス空軍基地の
航空宇宙医学部 the School of Aerospace Medicine 
から取られています。

【ハム】



そういえば、昔アメリカにいた夏、MKが観たいというので
「スペース・チンプス」という映画を見に行ったことがあります。

Space Chimps - JoinMii.net Wii Trailer


実験ではなく、ちゃんと宇宙飛行士扱いされている猿たちが主人公で、
実験動物として乗せられていた実態とは全く別世界の話ですが、
主人公?のチンパンジーの名前は「ハム3世」だったのを覚えています。

これは誰でも知っている、マーキュリー計画で打ち上げられた
チンパンジーのハムの子孫という設定だったのでしょう。

Hamという名前も、ホロマン空軍基地の、

ホロマン航空宇宙医学部
Holloman Aerospace Medicine 

から取られています。

ハムは2歳からその名前の元となった、
ホロマン空軍基地航空医療フィールド研究所で
青い光の点滅を見てから5秒以内にレバーを押す訓練を受けました。

正しい反応をすればバナナペレットがもらえますが、
逆に失敗すると足の裏に軽い電気ショックがかかる飴と鞭作戦です。


1961年、ハムはマーキュリー計画のミッションの一環として
フロリダ州ケープカナベラルから軌道下飛行で打ち上げられました。

その生命反応と行動を、地球上のセンサーとコンピュータによって
常に監視されながら飛行を終え、カプセルは大西洋に落下し、
その日のうちにUSS「ドナー」によって回収されました。

ハムの身体的損傷は鼻の打撲だけ。
飛行時間は16分39秒でした。



回収されたLSD-20「ドナー」の甲板で、艦長の歓迎の握手を受けるハム。

ちなみに、ハムは帰還後ワシントンDCの国立動物園に移され、
その後17年を動物園で過ごし、1983年に亡くなりました。

死後、ハムの遺体は軍隊病理学研究所に送られ、剖検されています。
ハムの遺体も剥製にしてスミソニアンに展示する予定だったようですが、
この計画は、世論が否定的だったせいなのか、中止になりました。

しかし、結局最終的に骨格が残されて、そのほかは埋葬されているので、
「剥製が残酷だったから」とかそういう理由には当たらなさそうです。


ハムのお墓(立派)

ハムの骨以外の部分は、ニューメキシコ州にある国際宇宙殿堂に、
ちゃんとした正式の追悼式の後、埋葬されたそうですが、
その骨格は国立保健医療博物館が所蔵しているのだそうです。

ハムの骨格・国立保健医療博物館

思ったよりバラバラだった。

ハムのテスト飛行の結果は、1961年、アラン・シェパード
フリーダム7で行ったミッションに直接つながる貴重なデータとなりました。

もちろんハムの結果だけが役に立ったというわけではありません。

歴代の実験動物たちが命と引き換えに残したデータの積み重ねが、
人類を宇宙に送ることを可能にしたのです。

アメリカの宇宙開発実験で犠牲になった霊長類は以下の通りです。

 アルバートI 1948/6/11 V2ロケット内で窒息死

アルバートII 1949/6/14 V2パラシュートの故障で激突死

アルバートIII 1949/9/16 V2爆発で死亡

アルバートIV 1949/12/8 V2パラシュート事故で衝突死

アルバートV 1951/4/18 エアロビーパラシュート故障で衝突死

アルバートVI(ヨリック)1951/9/20 エアロビーで打ち上げ成功、着陸後死亡

ゴード 1958/12/13 ジュピターA M-13打上げ後パラシュート故障で死亡

エイブル 1959/5/28 ジュピターA M-18打上げ、帰国後麻酔で死亡

リスザル 
ゴライアス 1961/11/10 アトラスロケット爆発で死亡

赤毛猿 スキャットバック 1961/12/20 軌道飛行後着水後行方不明

ブタオザル ボニー 1969/7/8 バイオサテライト3号着陸後死亡

スペース・モンキーノーたちの尊い犠牲に、敬礼。∠( ̄^ ̄)

続く。



海軍のヴァイキングと陸軍のジュピターC〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている
ロケット群から、年代を追ってご紹介していきましょう。

さて、最先端を行っていたドイツのV-2ロケットの技術は、
その後究極の兵器を求める米ソ両国に受け継がれました。

しかしアメリカでは、1950年代後半から1960年代初頭の冷戦の最盛期には、
B-52ストラトフォートレス爆撃機が戦略的抑止力の主役だったのです。

V-2の技術の直系の継承にソ連の方が熱心だったのはなぜか。
それはソ連が長距離戦略爆撃機戦力で劣っていると自覚していたからです。
最初から不利な技術で勝負せず、相手のまだ手をつけてない技術で
優位に立とうとしたという訳ですね。


しかし米ソ共に、ロケット技術が未熟であった初期には、
遠方の敵を攻撃する方法として、ある技術に目をつけ始めるのです。

それが、こんにち巡航ミサイルと呼ばれる無軌道の飛行爆弾でした。

巡航ミサイルは、翼と空気で動くエンジンを持って飛びます。
つまりロケットと違って大気圏外では活動できないのですが、
さらに航空機と決定的に異なるのが、無人で操縦され、
自動航行装置によって目標まで誘導されるという、
当時として画期的な仕組みを持っていました。


そしてスプートニク1号の打ち上げに使われたソ連のR-7ロケット
世界最初のICBM(大陸間弾道ミサイル)でした。
両国はその技術を宇宙開発の名の下に昇華してゆき、
それはついに音速の5倍以上の速さ(極超音速)で移動し、
地上からの信号にも依存しないICBMに結集します。

これこそが人類に生み出せる「究極の兵器」とも思われました。


■ミサイル・観測ロケット・打ち上げロケット

というわけで、次のコーナータイトルが、いずれも同じ技術から発展し、
アメリカとソ連がその開発競争を長い間行ってきたロケット技術の結果、
ミサイル、観測ロケット、打ち上げロケットの「ロケット三兄弟」です。

三者の違いを簡単に言うと、

ミサイルロケット
爆発性の弾頭をもち目標に打ち込む兵器

観測用ロケット
大気圏上層部に科学観測機器を打ち上げる

ランチ・ビークル(打ち上げロケット)
宇宙船を地球周回軌道などに運ぶ

これらのロケット三兄弟は、ロケット工学の研究、国防、
そして宇宙開発の分野において重要な役割を持ちます。



スミソニアンにはこれらの歴代ロケットが、
まるでペン立てのボールペンのようにまとまって林立しており、
その眺めは壮観です。

今日はこれらをご紹介していきましょう。
まずは、この中の手前に見える、ほっそーいロケットからです。

■ WAC CORPORAL (ワック・コーポラル ロケット)
〜V2時代のアメリカのロケット技術(の限界)



TRYING CATCH UP WITH THE V-2

というのがWACコーポラルロケットの説明のタイトルです。
「V-2の背中を追って」「追いつくために」
みたいなイメージでしょうか。
いずれにしても、「トライ」のまま終わった感じダダ漏れです。

ドイツのV-2が第二次世界大戦中、ヨーロッパの各地を攻撃していた頃、
アメリカでは、まだ長距離ミサイルの研究は緒についたばかりでした。

V-2ロケットとこのWACコーポラルの見かけの違い、
それは大きさ太さだけでもスリコギとシャープペンくらいの違いですが、
それはそのまま、1945年現在における両国のロケット技術の違いでした。



WACという意味は、誰もが
「Women’s Army Corps」陸軍女子隊
の意味であり、さらにコーポラルは普通に伍長の意味だと思うでしょう。

ではワック・コーポラルとはなんぞや。


カリフォルニア工科大学、通称CAL-Techの中のジェット推進研究所
が開発したことから、こんな名前が付けられたという説もありますし、
例によって、アメリカ人の悪い癖で、自虐的に

"Without Attitude Control"(態勢コントロールなし)

という意味から取られたWACだったという説もあるようです。


カルテックというところは、もちろんアメリカの名門工科大学ですが、
規模としては(アメリカにしては)小さく、MKの大学選びのために
見学に行ったときには、なんかわからんが変人が多そうな印象があって
(印象ですよ)ドームも随分荒んだ様子が感じられ、
願書も出さずに終わり、わたしの中ではあまり良い印象がありません。

というのとは関係があるのかないのか(もちろんない)、この研究所は
1930年代にカルテックの中にできたロケット愛好団体が発祥で、
当初は団体名が「Suicide squadron」(自殺部隊)だったそうです。

ちなみにワック・コーポラルの前は
「プライベート・コーポラル」
という名前だったらしいのですが、これもいつの間にか昇進させています。

つまり、この団体のネーミングセンスはヘン、ということだけはわかります。



推進は海軍飛行艇のために開発された液体燃料エンジンが使われ、
フィンはなぜか革新的な3枚(黒1枚、白2枚)というものでした。

最初から大気圏観測ロケットとして構想されたもので、
実験では高度72キロメートルまで達したようです。

BUMPER WAC(バンパーワック)

BUMPER WAC

このWACをドイツ開発のV-2と組み合わせるという
画期的な実験が行われたことがあります。

世界初の2段式液体燃料ロケットとなる
「バンパー計画」として実験が行われました。

1949年、5回目の飛行で高度390kmを達成し、
この記録は1957年まで破られることはありませんでした。

WACコーポラルは、アメリカ発の観測ロケットでありましたが、
その最終目標は軍事弾道ミサイルであったのはいうまでもありません。

■ 海軍のヴァイキング〜V2の発展形



第二次世界大戦後、アメリカはドイツで大量に鹵獲してきた
ドイツのV-2ロケット超高層大気圏の研究に使用していましたが、
ほぼ使い捨てだったので、そのうち数が減少してきました。

そこでV -2の後継機として、アメリカ海軍研究所(NRL)による
大型液体推進観測ロケット、ヴァイキングVikingが開発されました。

これも最初から科学観測用とされていましたが、暗黙の了解として、
当時観測用ロケットは将来的に兵器になることを前提に設計されました。

元々兵器であるV-2の後継ですから、それを参考に開発されたロケットは
「根っこは同じ」であり、宇宙開発もすなわち潜在的な兵器開発となります。

バイキングに搭載された推力2万ポンドのXLR-10液体燃料ロケットエンジンは、
リアクション・モーターズ社が開発しました。

円筒形で先端が鋭く尖り、基部に4枚の十字型三角形のフィンがあります。
全体は白で塗装され、フィンのすぐ上に黒い帯のような塗装がなされました。

4枚のフィンはそれぞれSE、NE、NW、NWと名称がついていて、
各フィンは、飛行中のロケットを視認するために配色が少しずつ違います。

SEとNEは白と黒の半々、NWは黒、SWフィンは白、といった具合です。



1949年から1957年にかけて、14機のバイキングが製造・飛行され、
さまざまな機能のテストや、より大きな観測機器の搭載が行われました。

バイキングの設計には、制御、構造、推進力において
重要な革新が導入され、12基製作されましたが、
2つとして同じものはありません。

それらは主に長距離無線通信に影響を与える
上層大気の領域を研究するために使用されました。

しかし、海軍研究所が「戦術的弾道ミサイル」の可能性を調査するための
研究と試験発射を兼ねていたのは当然のことでしょう。




エンジン部品などはプレキシグラスを通して見えるのだそうです
(が見えません)
ロケットの機首に配置されている機器などは以下の通り。

航空機用カメラ(フォルマー・グラフレックス社製)
映画用カメラ、木製モックアップカメラ、太陽面カメラ、ラジオドップラー
20チャンネルテレメーター送信機、電離層用送信機など

ヴァイキングは1号の1949年初打ち上げ後、12号まで打ち上げられ、
一連の実験に成功を収めた海軍研究所の科学者たちは、
より強力なロケットを開発すれば人工衛星の打ち上げが可能と自信を持ち、
それがヴァンガード計画へと繋がっていくのです。

スミソニアン展示のヴァイキング12号は、オリジナルのロケットから
回収された部品をもとに復元されたものとなります。

形はバイキング8号機以降によく見られるもので、
主要メーカーであるグレン・L・マーチン社によって製作されました。


その後、ヴァンガード計画がどうなったかについては何度も書いていますので
ご存知のことかとは思いますが、もう少し後で述べます。


■ジュピターC
大気圏突入のための”ノーズコーン”実験



UEと書かれたロケットがジュピターCの実物大模型です。

ヴェルナー・フォン・ブラウン率いるアメリカ陸軍弾道ミサイル機関(ABMA)
クライスラー社製造によるサウンディングロケット=観測ロケットで、
「A」をベースに開発されたので「C」(なぜかBなし)と命名されました。

ジュピターC
ケープカナベラルでの初打上げ日 1956年9月20日
最終打上げ日 1957年8月8日
打上げ回数 3



レッドストーンMRBMを採用したジュピターCロケットは、
先ほども書いたようにジュピターAの後継機です。

ジュピターCは、1956年から3回の無人の準軌道宇宙飛行に使用されました。
観測ロケットと言いながらその任務の中でメインだったのは、ジュピター計画で
宇宙船が大気圏に再突入する際のノーズコーンをテストすることでした。

何度か書いていますが、1958年にNASAが設立されるまでは、
ロケット開発は陸海空がそれぞれ別に請け負っていたので、
中には協力的なプロジェクトもありましたが、ほとんどはご想像通り
互いに先んじようと激しく競争していた(特に陸海)というのが実態です。

ジュピターCが打ち上げられたハンツビルのレッドストーン工廠
元々1950年に陸軍のミサイル開発センターとして開設されました。

レッドストーン開発グループの中心は、戦後にドイツから渡米した
フォン・ブラウンを中心とするドイツのロケット技術者チームです。

彼らはドイツのV-2ロケットの技術をベースにロケット開発プロジェクト、
すなわちレッドストーンロケットの開発を行います。
それは射程100マイルの地対空ミサイルとして構想されました。

レッドストーンには、フォン・ブラウンがドイツで開発した(つまりV2)技術と、
ノース・アメリカン・アビエーション社がアメリカ空軍の
ナバホ(NAVAHO)巡航ミサイル計画
のために開発したエンジンの改良型が使用されました。

ナバホ

ナバホは1946年に開発された大陸間ラムジェット巡航ミサイルです。
これもV-2ロケットエンジンの研究から生まれた技術でした。

そしてロケットの設計が始まるわけですが、当時のアメリカでは
朝鮮戦争のため国防資金が限られており、グループは創意工夫を強いられました。

ロケットを試験するための「試験台」を作るために75,000ドルの入札を受けた後、
チームはわずか1,000ドルの材料でそのモデルを作り上げ、
自らそれを「プアマンズ・テストスタンド」と自嘲していたくらいです。

現在もハンツビルのマーシャル宇宙飛行センターには、
「貧乏人の試験台」が歴史的な建造物として展示されています。


■陸軍までがヴァイキングを選んだわけ

さて、これでヴァイキングが海軍、レッドストーンが陸軍によって
制作されたロケットであることがお分かりいただけたかと思います。
この頃、空軍もアトラスミサイル計画を立てていました。

以上を頭に置いて次に進みましょう。

1955年、アメリカは地球の軌道を周回する
工衛星の打ち上げ計画を開始します。


これに、陸軍のレッドストーン、海軍のヴァイキング、そして
空軍のアトラス
が三つ巴となって競争することになりました。

ところが、です。

陸軍と業界と委員会がなぜか海軍のヴァイキングを選択し、
海軍がヴァンガード(衛星)計画を請け負うことになったのです。

陸軍がなぜ海軍のヴァイキングを選んだかというと・・あれですか?
レッドストーンの中心人物がドイツ人だったからかな?

そうだな?そういうことなんだな?

海軍のヴァイキングも、もちろん陸軍のレッドストーンも、
なんなら空軍のアトラスも、その出発点はドイツのV-2ミサイルです。

ならば、その開発者であるフォン・ブラウンを獲得した陸軍が
三軍の中で断然有利だったのでは、という気がするのですが、
そこはそう単純なものではなかったようです。

実はアメリカとしては、やはり国家初の宇宙事業の中核に、
ドイツ人を据えたくなかったというか、純国産でやりたかったのではないか、

と今では言われているようですね。

まあ仕方ないかもしれん。

その後、カリスマ的なリーダーであるエンジニアの
フォン・ブラウン率いる組織は、陸軍弾道ミサイル局と名称を変えて、
行政的な制約に縛られることなく、
ジュピターの開発を継続することになります。


そして、1957年10月4日、アメリカ(と海軍)にとって屈辱の日が訪れます。

ソ連がこの日世界初の人工衛星スプートニク1の打ち上げに成功し、
「スプートニク・クライシス」
とまで言われるショックを国民に与えたのに続き、
期待された海軍のヴァンガード計画は失敗してしまうのです。

Vanguard (Flopnik)

打ち上げ時間は2秒で終了。

発射台から飛び立つことなく木っ端みじんこになってしまったというね。
Flopnikはスプートニクのもじりで「バタンとニク」みたいな意味があります。

この失敗を受けて、フォン・ブラウンが喝采したかどうかはわかりません。
わかりませんが、これで彼とレッドストーンの「出番」になったのは事実です。

・・・やっぱり喝采したんだろうな。
現にこんな話があるのですからね。

当時、次期国防長官が決まってたニール・マッケロイは、
「偶然」レッドストーン工廠を訪問しているその最中、
スプートニク打ち上げを知りました。

その夜、関係者によるマッケロイ歓迎のディナーが催されたのですが、
その席でレッドストーン工廠のジョン・メダリス司令官と、
ヴェルナー・フォン・ブラウンがしっかりとマッケロイの脇を固めて、
「閣下、人工衛星うちにやらせてください💏」
と両側からガンガン売り込んできたそうです。

なんとこの二人、ヴァンガード失敗以前から、
レッドストーン工廠なら4ヶ月以内にジュピター打ち上げできる!
と関係者に売り込んでいたのでした。

思うに、フォン・ブラウンは、ヴァンガードの欠点を知っていて、
失敗することも予測していたんではないでしょうかね。

その後11月3日、
ソ連がスプートニク2号で犬のライカを打ち上げに成功します。
これですっかり焦った国防省が、陸軍の申し入れを承諾した直後、
フォン・ブラウンの予想通り、ヴァンガード計画は見事失敗。

ほれ見たことか、と1月31日に満を持して打ち上げた
ジュノーI、レッドストーンロケット、ジュピターCに
衛星軌道用のブースターを追加した陸軍のミサイルは、
アメリカの期待を一身に担うことになったというわけ。

この計画を、軌道に乗せた衛星の名前をとって

エクスプローラー1号(Exporer I)

と言います。

エクスプローラーI型衛星はジェット推進研究所(JPL)が開発し、
JPLとレッドストーン工廠チームが固体燃料の上段ロケットを考案しました。



1958年1月31日、予定よりわずか2日遅れはしましたが、
ジュピターC(正式にはジュノーI)は、
エクスプローラーIを軌道に乗せることに成功したのです。


ばんざーい
エクスプローラー1実物大を持って万歳するフォンブラウン(右)

この衛星には、宇宙線、温度、微小隕石の衝突を測定する科学機器が搭載され、
地球周辺のヴァン・アレン放射線帯の存在を検出したことで知られています。

前にも書きましたが、この真ん中にいるのがヴァン・アレンです。
放射線帯に自分の名前をつけてしまうなんてラッキーな学者ですよね。

(ちなみに、ヴァン・アレン帯については、うちにあった手塚治虫全集
『鉄腕アトム』にその名前が出ていたことから、わたしは物心ついた時には
ヴァン・アレン帯という言葉だけは知っていたのですが、
もしかしたら手塚治虫先生は存在検出のニュースを受けてすぐ
この作品にこれを取り入れたのかも、と今にして思います)

このロケットは、エクスプローラーIII、IVの打ち上げにも成功しましたが、
エクスプローラーII、Vを軌道に乗せることには失敗しています。

その後もジュピターは陸軍の主力ロケットとして、
空軍のトールロケット、そしてアトラスロケットと競合する存在でした。
(え、ヴァイキングは?ヴァイキングはもうダメってことになったの?)

この3つのロケットはいずれも第1段ロケットとして使用されましたが、
レッドストーンロケットは、その後アメリカ人を初めて宇宙へ運ぶ
マーキュリー・レッドストーンシリーズのロケットとなりました。

その後、NASAが設立され、陸軍弾道ミサイル局・ABMAは
レッドストーン工廠の敷地内に新設された
NASAのジョージ・C・マーシャル宇宙飛行センターへ移管されました。

そして、フォン・ブラウンを中心としたABMAのジュピター開発チームは、
アポロ計画の推進システムであり、アメリカの宇宙飛行士を月に運んだ
あのサターンVロケットの開発にも携わることになります。


■ ジュピターCのノーズコーンの謎



宇宙に打ち上げ、回収された本物のノーズコーンです。

ノーズコーンは核弾頭を運ぶための中距離弾道ミサイル実験の、
文字通り、マイルストーンでもあります。

地球の大気圏への再突入中に経験する途方もない高温から保護するために、
セラミックで作られた熱シールドを備えた設計になっています。

陸軍弾道ミサイル局が1957年8月8日、ケープカナベラルから打ち上げた
ジュピターCロケットの先端に、このノーズコーンは装着されていました。

再突入時、温度は1100℃にまで達したと言われています。
その後、ノーズコーンは海上に着水し、海軍艦艇によって回収されました。


コーンはステンレス製の円錐形が白く塗られた素材で覆われています。
見る限り、表面の素材は滑らかで、炭化した形跡は一切ありません。

ここでちょっと不思議な話があります。
ここにあるのはジュピターCのノーズコーンには違いないのですが、
ある高官レベルの軍関係者の日誌によると、打上げ後の1957年11月、
ノーズコーンをホワイトハウスに運ぶ前に、
剥離材が「剥がされた」
というのです。

これがオリジナルのロッキードのコーティングの下地であるか、
1957年8月の飛行後に付けられたものであるかについては、
資料も残っていないのだそうです。

しかし、2006年に検査した応用物理学研究所の2人の科学者は、
そこにセンサーパスが見られたことから、
おそらくこの表面は「下地」であろうと述べています。

しかも後端部にはステンレス製の板が溶接され、ボルトで固定されており、
これがオリジナルの装備かどうかすら不明です。

内部には計器類は全く残されておらず、
熱電対などのセンサーに使われたと思われる継ぎ手があるのみ。



苦労して外側を削った後、みたいな?



1957年11月7日、ホワイトハウスで、
ジュピターCミサイルのノーズコーン模型を横に演説する
ドワイト・D・アイゼンハワー大統領。

ノーズコーンの「模型」・・・?。

大統領はこれが本物だと信じて疑っていませんが、
なぜ本物を大統領の横に置いてあげなかったのでしょうか。

何のためにホワイトハウスに運ぶ前に
本物のノーズコーンから外側を剥離したのか。
何か本物を見られては都合が悪い事情があったのか。


宇宙は謎に満ちています。


続く。



宇宙でのトイレ事情(小編)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

宇宙飛行に対して、声に出して言わないまでも誰もが持つ疑問があります。

"宇宙ではどうやってトイレをするのだろう?"

アメリカ国立航空宇宙博物館における一般公開においても、
そのことは見学者の多くが質問するしないに関わらず考えることです。

そんな疑問に少しでも答える展示がスミソニアンにあります。

さて、今日は宇宙でのトイレ事情についてお話しするつもりですが、
宇宙開発が始まって以来、そこには笑いあり涙ありの、
トイレ事情の歴史とその発展、工夫がありました。
(そしていまだにある意味解決されていないという)

それをお話ししていく都合上、直截に表し難い言葉もあり、また
そのものをズバリ表現するには、途方もない羞恥心の克服を要します。

てなわけで、論文とか正式の文献ではない当ブログとしては、
そこんところをできるだけ穏便に、かつ婉曲しつつ、
マイルドに、遠回しに表していることをどうかご了解ください。

とはいえ、念には念を入れて、食事をしながらお読みになることは
厳に慎むことをお願いする次第です。



スミソニアンには、なぜか、ソ連のソユーズが搭載していた

Human Waste Disposal Unit
「人類用廃棄物処理ユニット」

の実物がロケットや宇宙船の谷間にひっそりと展示されています。
Male Configuration=「男性用(構成)」
ということでご理解いただけましょう。

ソユーズは、有人宇宙飛行船の中で最も長い運用期間を誇ります。
ガガーリンが有人飛行を行った時から、現在も国際宇宙ステーションへの
人々の輸送に使用されて、バリバリ現役なのは皆さんご存知ですね。

今回のロシア侵攻以来、宇宙の開発事情にも大きく関わるのではないか、
というのは誰しもが懸念するところだと思いますが、その話はまた別に。

さて、そのソユーズですが、ソ連らしく実に合理的なことに、
最初から「自己完結型」を目指していたため、トイレも完備でした。

アメリカの宇宙船トイレ事情一般があまりに悲惨だったことを考えると、
宇宙のトイレ事情に関しては、一貫してソ連の圧勝だったと言えます。

アメリカがソ連に追いつき、追い抜いた後も。



これがソユーズの「人類用廃棄物処理装置」
収集タンクが取り外し可能です。


そしてこれがどうやら男性専用のアタッチメントである模様。


説明がなかったのですが、取り付けられている位置関係から考えて
こちらも「廃棄物処理用」であることは確かです。

JSC Zvezda

という文字が見えますが、これはロシア連邦の企業である
NPPズヴェズダのことです。

ズヴェズダとはロシア語で「星」を意味し、宇宙飛行士の生命維持装置、
宇宙服(与圧服)、月面用宇宙服、射出座席などを製造しています。


■悲惨だったアメリカの宇宙トイレ事情

もうこの際はっきり言ってしまいます。

アメリカという国が、宇宙開発事業において
世界一の科学技術先進国でありながら、
どうして宇宙飛行士の生理というものにこれだけ無情でいられたのか、
わたしにはさっぱりわかりません。

いや、わかる気もしますが、わかりたくありません。

宇宙飛行士。

勇敢で、知的で、常に冷静で、目も眩むような秀でた能力を評価され、
数多の優秀な候補者の中から選ばれた一握りの・・超エリートです。

つい最近、ディズニープラスのナショジオ制作による
「The Real Stuff」(マーキュリーセブン」を少しずつ観出したのですが、
改めて7人の選考過程を見て、こいつら只者じゃねえ、と感嘆しました。

(ちなみにジョン・グレンを演じているのが『スーツ』のマイク・ロス役で、
これは全然違うだろう!と画面に出てくるたびに全力で不平を言うわたし)

「マーキュリーセブン」は、秀でた人間の人間らしい弱さや個人事情、
家庭の事情などに今のところ焦点を当てている様ですが、それは逆に、
今まで彼らがスーパーマンとして描かれてきたと言うことでもあります。

しかしパイロットとしての能力はともかく、彼らも人間である以上、
人間的な弱さはもちろんのこと、物を食べ、それを外に排泄するという
ごく当たり前の、しかし本人にとってはプライベートであるべき、
かつ、切実な本能を有しています。

ところが、1960年代に宇宙飛行士を月に送り込むための競争を始めたとき、
NASAは「人類が宇宙で膀胱と腸を空にする方法」にほぼ無関心でした。

無関心というか、よく言われるのが、NASAの技術者は、
ロケットを飛ばし、人を乗せて生きて帰らせることのみに注力しすぎて、
排泄の問題を(ロケットを飛ばすことに比べれば)
「ほんの些末な問題」と考えていたか、あるいは全く考えていなかった
(専門の対策もしなかった)ということです。

思い出してください。

アメリカ人として最初に宇宙に行った宇宙飛行士、
海軍一のパイロットと自他ともに認めるところのアラン・シェパードが、
1961年、ロケット発射台でどんな恥ずかしい目にあったかを。

【アラン・シェパード飛行士の場合】

ライトスタッフ・シェパード出発シーン

アランが尿意を訴え、スタッフが慌て始めるのが3:15~。

アランが「ゴードン」と呼びかけているのはマーキュリーセブンの同僚、
ゴードン・クーパーのことで、打ち上げのCAPCONには必ず飛行士が交代で入り、
連絡を行ったり対策を一緒に考えたりしました。

「スーツの中でやれ」

とスタッフのチーフが許可するのが4:50。
ほっとするアラン、次いで液体の移動がセンサーに反応。
心臓と呼吸のモニターの電子センサーがショートする。
そしてそれとは全く関係なく打ち上げは成功!

・・・してしまったので、この問題は、些末なこととして
(むしろ緊張の中のちょっと和む逸話として)
その成功の喜びにかき消された、と言ったらいいかもしれません。


1961年5月5日のシェパードの飛行時間は15分程度と想定されていたため、
NASAがトイレについて考えなかったのは当然といえば当然かもしれません。
が、
それは彼らが、概念上でしかその問題を捉えていなかった、
ということの表れと言えましょう。

確かに飛行時間は15分程度でしたが、シェパードが最初に宇宙服を着て、
カプセルに入り込み、待機する時間は何時間にも及ぶことを
おそらくスタッフの誰一人考えたこともなかったに違いありません。

映画のシーンを観た方ならお分かりのように、
アランが搭乗前皆に拍手で迎えられている時、周りは真っ暗です。
この直後からはおそらく彼はトイレに行く環境にはなかったはず。
そりゃ途中で行きたくなっても時間的に当然というものでしょう。

何時間もノーズコーン内に座っていたシェパードは、そのうち
膀胱が我慢できないほどいっぱいになっていることに気づき、訴えましたが、
宇宙服を脱ぎ着している時間はもうありませんでした。

最初は漏電の可能性を考えて拒否していたNASAも(てか拒否してどうする)
アラン・シェパードがもう我慢できない〜と再度訴えたため、
自分の座席で「逝く」ことを許可しました。


アラン・・・(-人-)

彼は後にこう語っています。

「もちろん、その時綿の下着を着用していたので、すぐに染み込んでしまいました。
打ち上げの時には完全に乾いていました

しかしこれって、国家の英雄に語らせるようなことじゃないよね。
ソ連ならきっと同じことがあっても「グラスノスチ」はなかったでしょう。


マーキュリーカプセルが回収された後のアラン・シェパード宇宙飛行士
この時には宇宙服内部はすっかり乾いていた

次のマーキュリー計画4号の時、ガス・グリソム飛行士は、
打ち上げの1日前に急遽作ったという、
二重のゴムパンツに、採尿設備が埋め込まれたもの
を穿かされています。

どんなものかはわかりませんが、さぞかし気持ち悪かったことでしょう。
宇宙船の中は結構温度が上がって暑くなることもあったそうですから、
そんなところでゴムのパンツを履くなど、考えただけで汗疹ができそうです。


その後、反省した(のかどうかわかりませんが)NASAは、
ジェミニ計画の後に続く宇宙飛行士に排「尿」設備を与えるようになりました。

繰り返します。排「尿」設備です。

それがこれ。

スミソニアン国立航空宇宙博物館所蔵

NASAの命名したところのロール・オン・カフ」
という男性用のラテックス製カフは、プラスチック製のチューブ、
バルブ、クランプ、回収袋に接続されていました。

これは見て想像できる通り、あまりいいシステムとは言えませんでした。
時々漏れることもありました。

って当たり前みたいにいうなっての。

しかしながら、この後に及んでも、NASAは
宇宙飛行士の排泄の問題を真面目に取り組もうとせず、それどころか、
NASAのアポロ宇宙ミッションに関する公式報告書(1975)には、

「有人宇宙飛行の初期から、排便と排尿は
宇宙旅行の煩わしい側面であった」

とあくまで他人事のように書かれています。

煩わしい、という言葉からは、どうにかせんといかんことはわかっているが、
本人でない技術者には煩わしいことでしかない、
という他人事感がダダ漏れに溢れ出ています。

これって、全く関係ないようですが、
「犬や猫は可愛いけど糞尿の始末をするのは煩わしい」
みたいな話と同列に思えてきますね。


【ジョン・グレンとジェミニ宇宙飛行士の場合】



この「カフ」を初めて使用したのが、ジョン・グレン飛行士です。
マーキュリーアトラス6「フレンドシップ7」のミッションでのことでした。

(しつこいですが、エド・ハリスのジョン・グレンがあまりに良かったので、
ナショジオの「マーキュリー7」におけるジョン・グレン役
パトリック・J・アダムズが全く受け入れられないわたしです)

このミッションで、彼はアメリカ人として初めて軌道に乗ったのですが、
飛行時間は4時間55分ということもあり、準備から回収までの間に
食事もするしトイレもするであろうということが最初から予想されたのです。

というか、このミッションでは、
生理的な実験データを取るというのもプログラムの一つでした。


ここで改めて考えてみると、宇宙でのこの手の問題が複雑になるのは、
無重力という特殊な状況が関わってきます。

地上では可能なことでも、無重力下だとダメなことはいくつもありますが、
この排尿という事案では、スーツ内に圧力を高めるバルブを導入しなければ、
尿というものを排出することすらできないという問題がありました。

その結果生み出されたこのガジェットですが、
結論から言うとそこそこうまく機能したようです。

それは具体的にこういうものでした。


ジョン・グレンが使用した装置(というか袋)

地球上に生存している人間は、膀胱の隙間が半分以下になると、
神経センサーが脳に信号を送り始め、トイレに行きたくなるものなのですが、
微小重力下での尿は膀胱の底に溜まらず、膀胱内で浮く
状態になるため、ジョン・グレンは飛行中、
膀胱がほぼ満杯になるまで自然の欲求を感じることはありませんでした。

その後、彼は尿バッグに約800mlの液体を入れて帰還しました。

ジョン・グレンの採尿バッグは、1976年から
アメリカのスミソニアン国立航空宇宙博物館で展示されています。


■ アポロ計画と”人体廃棄物”問題

そして時代はジェミニ、次いでアポロ計画へと進んでいきます。

しかしNASAの技術者たちは、相変わらず
宇宙飛行士を月に送り届ける方法を考えるのに忙しく、
1960年代と70年代のアポロミッションの時代になっても、
頑なにトイレを設計しようとはしませんでした。

実際、1980年代にスペースシャトルにトイレが搭載されるまで、
アメリカの宇宙船にそれが設置されることはなかったのです。

ソ連の宇宙飛行士が、当初から座席の下にトイレを組み込み、
座席に座ったまま用をたしていたということを考えると、
この非人道的かつ非科学的な態度にはどうにも首を傾げざるを得ません。

欲しがりません勝つまでは、ってやつかしら。
それとも贅沢は敵だ、的な?
心頭滅却すれば火もまた涼し・・いやこれも違うな。

さらに時代は下り、1970年代のスカイラブ宇宙ステーションには
一応技術的にトイレと呼べるものがあるにはありましたが、
それは壁に穴が開いたような原始的かつ無残なもので、
宇宙飛行士は特別な区画で排泄物を乾かしたり?していました。

どうしてNASAは専門家、それもズバリ、トイレの専門家の意見を
もう少し積極的に取り入れなかったのか、と不思議に思わずにいられません。

もし依頼してくれていれば、当時のTOTOがNASAに
何らかの画期的な提案ができたかもしれないのに。


【だがしかしアポロ計画でもトイレはなかった】

NASAが初めて本格的な宇宙トイレを設置したのは、
1970年代初頭に打ち上げられたスカイラブ宇宙ステーションからで、
本格的なトイレが設置されたのは、
1980年代のシャトルミッションのときです。

そして人類初の月着陸を可能にしたアポロ11号には
トイレはありませんでした。

宇宙飛行士のニール・アームストロングバズ・オルドリンは、
50年前の1969年7月20日にアポロ11号が月面に着陸したとき、
月面に降り立った最初の人間になったかもしれませんが、
彼らが月面着陸をやり遂げるために払った犠牲は、こと排泄という
根本的な生理的快不快の点で言うと、あまりに大きかったと思われます。

トイレがなければ、袋にすれば良いじゃない。

・・とNASAの中の人が言ったかどうかは知りませんが、
トイレを作ることをすっかり放棄したNASAが選択したのが「袋」でした。

小をするときは、先程のカフに行うのですが、
それは短いホースで袋につながれています。
ただ、カフは毎日取り替えることができました。

そしてアポロの宇宙飛行士は当たり前のように全員男性だったので、
女性が使うためのシステムについては検討されたこともありませんでした。

ソ連は早いうちに女性飛行士テレシコワの打ち上げを行いましたが、
驚くべきことに彼の国はそっち方面の問題もちゃんと解決していました。

対してアメリカは、男性のトイレ問題にすら苦労していたわけですから、
女性宇宙飛行士を打ち上げるなどまず物理的に不可能だったのです。

しかも男性専用とされたこの装備も、決して素晴らしいというものではなく、
よく外に溢れたと言いますから、女性用など夢のまた夢?でした。


さて。

しかしながらこれまで語ってきたことは、排泄という問題の
ごく限られた、あくまでもライトな部分に過ぎません。

宇宙計画が進むということは、滞在時間が長くなるということで、
最初のうちそんなことは考慮すらされなかった状態から、
いよいよNASAは「その問題」に対峙しなければならなくなってくるのです。
(意味は・・・わかるね?)

その解決方法は、あまりにも情けなく(宇宙飛行士にとって)
苦痛と、何とも言えない一抹の悲しみを伴ったものとなりました。

次回は、あくまでもその問題を避け続けたNASAのせいで、
代々宇宙飛行士たちが直面せざるを得なかった、
プライドさえもズタズタになるような、恥辱に満ちた宇宙飛行についてです。

引き続き飲食をしながらの閲覧はご遠慮ください。


続く。



マーキュリーとジェミニ〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-05-30 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館の展示から、
「マーキュリーとジェミニ」というタイトルでお送りします。

冒頭写真はアメリカ初の有人宇宙船計画、マーキュリー計画のために選ばれた
アメリカ最初の宇宙飛行士7名、通称「マーキュリーセブン」です。

前列左から:
ウォリー・シラー、デイク・スレイトン、ジョン・グレン、スコット・カーペンター
後列左から:
アラン・シェパード、ガス・グリソム、ゴードン・クーパー

映画「ライト・スタッフ」では、この写真を撮るシーンがありましたね。

「セブン」という数字が狙っている感じさえしますが、
元々マーキュリー計画の宇宙飛行士は6人ということに決まっていたのが、
最終的に7人になったという話をどこかで読んだ気がします。

マーキュリーセブンは、最終的に全員が宇宙飛行を行いました。
マーキュリー計画を始め、その次のジェミニ計画、
アポロ、そしてスペースシャトルに至るまで、この中の誰かが参加しています。

■マーキュリー計画

ソ連のスプートニク打ち上げ以降、国力を上げてこれに追いつき、
追い越そうとするアメリカがまず立ち上げたのはマーキュリー計画でした。



マーキュリー計画はカプセル一人乗りでした。
アメリカは、安全な宇宙飛行と地球への帰還のためのハードウェアの開発、
そして人類が宇宙でどのように生存し、生活できるかを
マーキュリー計画を通じて探究しようとしました。

1961年から1963年までの間で、アメリカは多数にわたる試験飛行と
6回の有人マーキュリーミッションに挑戦しました。

そして、それはソ連に周回遅れと言いながらも、華々しい成功を収めます。

1961 初打ち上げ〜アラン・シェパードとマーキュリー3号


「ライト・スタッフ」では艦載機で空母に着艦するシーンで登場した
アラン・シェパードが、まずマーキュリー3号で宇宙に。

つまり彼がアメリカ人初の宇宙旅行者です。

飛行時間は短かったのですが、待機時間の間にトイレに行きたくなり、
懇願して宇宙服の中で用を足し、スッキリして打ち上げられました。

つまり宇宙服の中で用を足した最初のアメリカ人となったわけですが、
ソ連ならこういう話は絶対オフレコになっていたでしょう。

1962 初軌道周回〜ジョン・グレンとマーキュリー6号



ジョン・グレンマーキュリー6号に使われたフレンドシップ7
スミソニアンにその実物が展示されています。


軌道に打ち上げられた初めてのアメリカ人が、ジョン・グレンです。

何度か当ブログでも取り上げていますが、グレンは海兵隊パイロットです。
弾丸飛行で大陸間横断時間の最短記録を樹立した
大変優秀なテストパイロットでした。

初めての宇宙飛行士をどこから選ぶかという話になった時、
選考委員会は航空機パイロット、潜水士、深海潜水士、
登山家(サーカス芸人という話も)など、
必要とされる技能を持っている職業の中から、
軍のテストパイロットが最もこれに適していると判断しました。

その理由はいくつもありますが、選考プロセスが簡略化されること、
またこの役割はほぼ確実に機密情報の取り扱いを伴うため、
セキュリティ上の要件も満たしているというのが大きなものでした。

宇宙飛行士の選考基準は次なようなものです。

40歳未満であること。
身長5フィート11インチ(1.80m)以下であること。
健康状態が良好であること。
学士号またはそれに相当する学位を持っていること。
テストパイロット養成校を卒業した者。
総飛行時間が1,500時間以上であること。
ジェット機パイロットの資格を持つ。


年齢が40歳までというのは随分緩い基準に思われますが、
学士号を持っていてテストパイロットの学校も出ていて、
飛行時間をクリアしているとなると、当時は20代では無理だったのです。

また、身長制限があったのは、マーキュリー宇宙船の設計上、
背の高い人を収容することはできなかったからです。



しかし写真を見るとガス・グリソム(160センチ台。腕組みの人)以外、
結構皆180センチぎりぎりっぽいですね。
カーペンター(右端)とか、これ身長誤魔化してないか?


そしてスミソニアンに展示されているジョン・グレンの宇宙服セット。


フル着用バージョン

1962年2月20日、ジョン・グレンがアメリカ人として初めて
地球周回軌道に乗ったときに着ていた宇宙服がこれです。


ガガーリンのSK-1与圧スーツ ヘルメットは取り外し不可

ここにはガガーリン宇宙飛行士のスーツもありますが、それと同様、
戦闘機のパイロットが着用する高高度与圧服を応用したデザインです。

世界初の宇宙服であるS K -1は、ヘルメットのバイザーはガラス仕様、
そのせいで20キロの重量がありましたが、アメリカが開発した
グレン着用の「マーキュリースーツ」は、アルミナイズされたナイロンで
カバーレイヤーとする軽量な多層構造でできており、重さは10キロ。

バイザーがアクリル樹脂だったことで随分軽くなったようですが、
ヘルメットと頭をしっかり固定する作りだったので、首を回せない
(つまり横を見るときには体ごと向けないといけない)のが問題でした。

13個のジッパーと、カスタムメイドの手袋、ブーツ、ヘルメット。
これらが体にぴったりとフィットするカスタムメイドでした。

ガガーリンの宇宙服と比べてみると、フィッティング度が違うというか、
ソ連の方は随分ダブダブしているように見えますが、
これでも小柄なガガーリン(160センチ台)に合わせて作ったものだとか。

冒頭の宇宙服のうち何人かのものからは腰から管が出ていますが、
これは酸素供給用で、排気はヘルメットから行います。

最後にマーキュリー計画の有人飛行の成果を一覧表にしておきます。

MR-3 フリーダム7号 アラン・シェパード アメリカ人初の打ち上げ

MR-4 リバティベル7号 ガス・グリソム 海上で回収中ハッチ開かず

MR-6フレンドシップ7号 ジョン・グレン アメリカ人初の軌道3周

MA-7オーロラ7号 スコット・カーペンター計算間違いで着水地点がずれる

MA-8シグマ7号 ウォルター・シラー 耐空時間新記録(9時間) 

MA-9 フェイス7号 ゴードン・クーパー 軌道22周で記録更新

マーキュリー7のうちディーク・スレイトンは、心臓に疾患が見つかり、
マーキュリー計画には参加できなかったのですが、その後
体を鍛えて再挑戦し、アポロ・ソユーズテストで飛行することができました。

余談ですが、当時オンエアになった人形劇「サンダーバード」には、
主人公の何人かの名前が、マーキュリー7の名前から取られています。

スコット・トレーシー← スコット・カーペンター

ジョン・トレーシー← ジョン・グレン

バージル・トレーシー← バージル・アイヴァン・”ガス”・グリソム

ゴードン・トレーシー←ゴードン・クーパー

アラン・トレーシー←アラン・シェパード


アメリカ人なら皆知っていたと思いますが、あなたはご存知でしたか?


■ ジェミニ計画

一人乗り宇宙船だったマーキュリー計画の後、
NASAは2人の宇宙飛行士を乗せるため、
スペース拡大を目的に再設計したジェミニ宇宙船を導入しました。

1964年から1966年にかけて、宇宙船の制御、ランデブーおよびドッキング、
船外活動(宇宙遊泳)の技術を向上させるために、
10回の有人ジェミニ・ミッションが飛行されました。

あるジェミニ計画のミッションでは、2週間を宇宙で過ごすことに成功。
これは、将来のクルーが月へ行き、探索し、帰還するのに十分な時間でした。


これがジェミニ宇宙船。

二人乗りで、各自のコンパートメントに扉が別々に付いています。
身動きというのができない狭さであることがよくわかりますね。

閉所恐怖症には絶対に乗れない代物です。

宇宙軌道上のジェミニ宇宙船

1965 エドワード・ホワイトとジェミニ4号


アストロノー、エドワード・ホワイトの空軍軍人姿

ところで、アストロノー(Astronaut)という単語は昔はなかったもので、
宇宙飛行が始まったとき、アメリカの中の人(NACAの人。しつこい?)が
「空の旅人」を意味する「aeronaut」から思いついたつもりでした。

実はその言葉は1920年からSFの世界で存在していたのですが、
中の人はそれを知らず、オリジナルだと思っていたようです。

しかし、このブレインストーミングの結果、オリジナルではないとはいえ、
アストロノーという言葉を正式に採用することになったのです。

そのとき委員会では宇宙飛行士の給与についても規定を作り、
それは公務員として等級12から15まで資格と経験によって決まり、
実際には年俸は現在の73,953〜113,370ドル
(8478.5266〜12999.1176円)が提案されました。

能力と危険手当て込みと思えば、年俸8千万〜1億3千万は高くありません。
(むしろ安いのでは?とわたしは思います)

さて、このエドワード・ホワイトがアメリカ人として初めて
宇宙遊泳を行ったということは以前もお伝えしました。


左手の時計にご注目

宇宙遊泳のことを英語でスペースウォーク、EVAといいます。
EVAはExtravehicular activityのことで、
世界最初のEVAは前にも書いたようにアレクセイ・レオーノフが行いました。

レオーノフのEVA時間は12分9秒。
白い金属製のバックパックに45分分の呼吸・加圧用酸素を入れ、
15.35mのテザーを引っ張る以外、動きを制御する手段がない状態でした。

このときレオーノフの宇宙服が内圧で膨らみ、
宇宙船に戻れなくなって内圧を抜きながらなんとか生還していますが、
この時の宇宙飛行士の覚悟については、
わたしが以前想像したより事実は凄まじいものだったのがわかりました。

レオーノフは、もし宇宙船に帰れずに回収できなかったら、
もう一人のクルーに自分を置いて帰るようにと遺言?を残し、
さらに宇宙空間に取り残されたときに飲む毒薬を用意していたそうです。

そもそもその状態でどうやって毒薬を飲むのかという気もしますが。
いつでも噛み砕けるようなカプセルをヘルメットに仕込んでいたのかしら。

レオーノフは薬を噛み砕く事態にはならず、潜水病のような状態とはいえ
きちんと生きて帰ることができたのは前回書いた通りですが、
この時の問題をソ連はなかったものとして冷戦終結後まで隠蔽していました。

もしレオーノフが宇宙に取り残される事態になっていても、
おそらく冷戦が終わるまでそのことは秘密のままだったでしょう。


ホワイトの宇宙遊泳は、1965年6月3日、21分間に渡って行われました。
宇宙船に繋がれたホワイトに酸素は7.6mの管を通して供給され、
通信装置も搭載されていました。

アメリカはこのとき、宇宙で初めて手持ち式の操縦装置を使い、
自分の動きを制御することに成功しています。

これはジップガンと呼ばれた手動の酸素排出器で、
わずか20秒分推進するだけのものでしたが、実際にうまく作動しました。

ホワイトはこれがめっぽう楽しかったらしく、
あっというまにガスを使い切ってしまいました。


そして、帰りたくねえ!と駄々をこねたというのは有名です。
ちなみにこの時の会話(一部脚色しています)。

グリソム(打ち上げセンター):
フライトディレクターが言っている、戻って来い!

マクディビット(クルー):ガス、ジムだ。何かメッセージはあるか?

グリソム: ジェミニ4号、戻れ!

マクディビット:オーケー!
(ホワイトに)すぐに戻れって言ってるんだけど・・

ホワイト:いや・・・写真撮らなきゃだから・・もう少しだけ!

マクディビット:だめだよ。すぐに帰ってこないとまずいってばよ

ホワイト:ちっ・・俺の人生で一番悲しい瞬間だわ・・


ちなみにホワイトが宇宙遊泳している姿を写真に撮ったのは
クルーのマクディビットです。

この時、ホワイトはオメガのスピードマスタークロノグラフを付けており、
写真の腕にはバッチリその時計が写っていました。

NASAは宇宙飛行の開発当初から宇宙で使用できる時計を選定するために
大規模な実験をおこなっていたのですが、その結果、
宇宙での使用を承認した二つのメーカーのうち一つがオメガでした。



しかし、肝心のオメガ社は、宇宙でマクディビットがホワイトの写真を撮り、
それが公開されるまで、自社製品がNASAで実験されたことも、ましてや
宇宙飛行士がそれをつけて打ち上げられたことも知らなかったそうです。

まあ、NASAが宣伝するわけではないので、文句のつけようもないですが。

この時宇宙遊泳中着用されたオメガのモデルは、
「エド・ホワイト」と呼ばれ、時計コレクターの間では、
256万(今日現在)円で取引されています。


ジェミニ計画の「計画」

それでは、ジェミニ計画において達成した成果などを書いておきます。

ジェミニ3号 ガス・グリソム/ジョン・ヤング

ジェミニ計画としては初めての有人飛行
コールサインはモーリー・ブラウン(タイタニックの不沈のモリーより)
ヤングが宇宙にサンドイッチを持ち込みめちゃくちゃ叱られる

ジェミニ4号 エドワード・ホワイト/ジェームズ・マクディビット


アメリカ初の船外活動 (宇宙遊泳) 

ジェミニ5号  ゴードン・クーパー/ピート・コンラッド

アポロ計画で最低限必要となる8日間の宇宙滞在・燃料電池使用

ジェミニ6A号 ウォルター・シラー/トーマス・スタッフォード
ジェミニ7号 フランク・ボーマン/ ジム・ラヴェル

アメリカ初のランデブーを達成・7号は14日間の宇宙滞在

ジェミニ8号 ニール・アームストロング/デビッド・スコット

深刻な機器の故障から無事生還

ジェミニ11号 ピート・コンラッド/ リチャード・ゴードン

アジェナ衛星のロケットを使用して最高高度1,369kmに到達
この記録は現在に至るまで破られていない

ジェミニ12号 ジム・ラヴェル/バズ・オルドリン

オルドリンによる長時間の船外活動で、人間が生命に危機を及ぼすことなく
宇宙空間で行動できることを実証


さて、アメリカは宇宙開発において、
長らくソ連に遅れを取っているように思われていましたが、
実際には、それぞれのミッションが前のミッションの上に立ち、
それを拡張するという、計画的な
「ステップバイステップ」のプログラムに従っていたのです。

マーキュリーとジェミニは、アポロ計画への道を慎重に準備するものであり、
それだけでなく、これらを

「アポロ計画の準備段階」「アポロ計画の一環」

とする考えもあるほどです。

国威発揚のためにともすれば人命を軽視してまで結果を急いだソ連の背中を、
アメリカは戦略的に実績を重ねて、追い抜くチャンスを待っていたのです。

一歩ずつ、着実に。



続く。



宇宙遊泳(イグジット・トゥ・スペース)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-05-28 | 博物館・資料館・テーマパーク
さて、卒業式シリーズも終わったので元のシリーズに戻ります。

しばらくの間、宇宙開発競争におけるソ連とアメリカ双方の奮闘努力、
そこで行われた技術者たちの真摯な取り組みについて語ってきました。

そもそも宇宙開発競争の大きな渦に二大国家がのめりこんだのは、
巨大な国家的意志がそれを是としたからに他なりません。

しかし、もっと根源的なところにあったはずの最初の小さなきっかけ、
人類を宇宙へ向かわせる強い意志を、巨大な流れへの原動力に変えたのは、
他ならぬ人間=「宇宙を夢見る人」であったはずなのです。

それは一体誰だったか。
わたしはこのクェスチョンに、今ならこう答えられます。

それは、人類を宇宙に送りたい、宇宙の神秘に少しでも近づきたい、と
ロケット開発を夢見ていたロシアの科学者、セルゲイ・コロリョフと
その仲間という一握りのロケット開発者だった、と。


コロリョフの解説でも書きましたが、元々ソ連共産党は、
宇宙開発などになんの意味があるのか、という態度で無関心でした。

コロリョフがソ連メディアを焚きつけ、アメリカのメディアがそれを書き立て、
ついにはアメリカ政府が宇宙開発競争を受けて立ったことを知るまでは。

アメリカはというと、それでも自国の優位を信じ現状に甘んじていました。
本気になったソ連がスプートニク打ち上げに成功したと知るまでは。

つまり、米ソが宇宙開発競争へと国家の舵を切っていったそのきっかけが
セルゲイ・コロリョフであったということがお分かりいただけるでしょう。


最初にコロリョフにスプートニクの実物(ビーチボールに脚がはえたような)
を見せられたフルシチョフは、何じゃこりゃと言ったとか言わなかったとか。

しかし、ロケット科学者の煽りに乗って半信半疑でゴーサインを出したら
このビーチボールで宿敵アメリカに途轍もない打撃を与えたことを知ります。

フルシチョフ、これにすっかり気をよくして、よし、もっとやれ、
どんどん打ち上げて我がソ連の威光をアメリカに見せつけろ、
とさらなるイケイケモードに突入し、アメリカはそれを追う形で
二大国家の「宇宙戦争」の構図は出来上がっていったのでした。

■宇宙飛行士たち

その際、国家が生んだ偉大な宇宙のヒーローとして、
全面的にメディアの前に立ったのは(科学者ではなく)宇宙飛行士たちでした。

ソ連は、ロケットを打ち上げた科学者は、機密上の理由から、
その存在すら「赤いカーテン」と言われる機密に隠されていたので、
その分、宇宙飛行士がわかりやすく宇宙開発の象徴となったのです。



ソ連の「最初」の宇宙飛行士たちが揃った珍しい瞬間です。
ソ連では宇宙飛行士をアストロノーではなく「コスモノー」と呼びました。

彼らはレーニンの顔と飛ぶR7ロケットのパネルの前でマイクを囲んでいます。
おそらくテレビの座談会か何かのシーンであろうかと思われます。

彼らは全員がボストーク計画の宇宙飛行士(コスモノー)であり、
テレシコワを除く全員が軍パイロット出身で、全員軍服着用です。
非公式の写真で、撮られたのは1960年代ということがわかっています。

左から右に向かって:(括弧内はコールサイン)

パーヴェル・ポポーヴィッチ(イヌワシ=ベルクート)
 ボストーク4号・ソユーズ14号 初のランデブー成功

ユーリ・ガガーリン(ヒマラヤ杉=ケードル)
ボストーク1号 人類初の有人飛行に成功

ワレンチナ・テレシコワ(カモメ=チャイカ)
 ボストーク6号 初の女性宇宙飛行士

アンドリアン・ニコラエフ(ファルコン) 
ボストーク2号 ソユーズ8号 軌道上への滞在時間の最高記録を更新

ゲルマン・ティトフ(ワシ=オリョール)
ボストーク2号 初の宇宙からの地球撮影 初の宇宙酔い経験者

テレシコワは最終的に空軍少将になっていますが、
彼女が軍に入隊したのは宇宙旅行を成功させてからのことなので、
おそらくこの時はまだ軍人ではなく、私服で出演しているのでしょう。

ちなみに彼女が工学博士号を取得したのは、40歳の時です。

■フェオクチストフのフライトスーツ
(彼が宇宙服なしで打ち上げられた理由)



先の座談会には出席していませんが、宇宙飛行士であり、宇宙技術者だった

コンスタンチン・ペトロヴィッチ・フェオクチストフ
Konstantin Petrovich Feoktistov
 Константин Петрович Феоктистов、1926-2009

のスペーススーツ実物がスミソニアンには展示してあります。

これがスペーススーツ?無印良品のポロシャツとチノパンでは?

フォエクチストフについては、以前当ブログで
ナチスに捕虜になって撃たれたけど弾が当たらず助かった、
(多分死んだふりをして後で脱出したのだと思われる)
という話をしたのを覚えておられるかもしれません。

ちなみに座談会に呼んでもらえなかったのは、もしかしたらこの人が
宇宙飛行士で唯一、宇宙飛行士でありながら設計にも加わった技術者で、
博士号を持っているけど軍人でも共産党員でもない唯一の民間人だったから。

・・・かもしれませんしそうではないかもしれません。

さて、フィオクチストフが搭乗したのはボスホート1号でした。

ボスホートはボストーク宇宙船の発展形です。
一人〜二人乗りだったボストークに、3人も乗せるために改造したものです。

改造するといったって、部屋を建て増しするみたいにスペースを広げる、
なんてことは不可能なので、シートを増やしただけでした。
(まあ改造はそれだけではないんですが)

するとどうなるかというと、内部が狭いので、スペースを確保するために
それまであった宇宙飛行士の座席射出のシステム装置がなくなりました。

それまでのボストーク宇宙船は、降下時に宇宙飛行士は射出されて
パラシュートが自動で開き、地上に降下したのですが、
それができなくなったので、宇宙船にパラシュートをつけて降下し、
地面が近づいたら新しく増設した逆噴射ロケットで
減速させて着地するという仕組みになりました。

あと、これが最も困ったことに、宇宙船内が狭いので、
宇宙飛行士は宇宙服を着せてもらえませんでした。



というわけで、そのとき乗り組んだフィオクチストフは、
宇宙服の代わりにこの無印良品のポロシャツとチノパンを着て、
右下の写真にあるラグビーのヘッドギアみたいなのを被っていました。

これ、もしズボンがショートなら、まんまラグビーする人みたいです。


ユーリ・ガガーリンが人類として初の宇宙打ち上げに臨んだとき、
フェオクティストフが作成した宇宙飛行士のチェックリストの草稿です。

打ち上げ前、軌道上、降下中の手順をガガーリンに指示しています。

宇宙飛行士が打ち上げセンターのスタッフとして他のミッションに臨み、
これから任務をおこなう宇宙飛行士にアドバイスをしたり、
何か起こった時に対処法をサジェスチョンするという態勢は、
ソ連よりむしろアメリカによく見られるパターンです。


ボストーク1号と2号を比べてみると、明らかに増設された部分があります。

しかも、2号は乗員が二人だったので、宇宙服を着ることができました。
ってか、宇宙服って着るのが当たり前ですよね?
着せずに宇宙に打ち上げるって、かなり酷くないか。
ほんと無茶しますよねこの頃のソ連って。

宇宙飛行士の人権より、国威とアメリカに勝つことだけが大事だったのね。


ボスホート1号に搭乗した3人とは、宇宙工学者のフィオクチトフ以外に、
宇宙飛行士ウラジーミル・コマロフ、そしてもう一人は
宇宙医学を専攻した医師のボリス・イェゴロフとなります。


イェゴロフ

3人乗せるなら医師もいた方がいいよね、ということだったのでしょうか。
イェゴロフは宇宙に行った初めての医師となりました。

イェゴロフヘッドギア装着の図。
男前が台無しだ。



医師で宇宙飛行士、おまけにこのイケメンである。
というわけで女優と次々浮名を流し、そのせいなのか、結婚歴3回。

しかし、脳梗塞でわずか50歳代で他界してしまいました。

小さくてすみません

フィオクチストフのスペーススーツ(ってもんじゃないですけど)
の横には、そのときに携えていったサバイバルギアが添えられています。

これは「ボスホート・ナイフ」と呼ばれています。

ソ連の宇宙船は陸地に降りるように設計されており、
できれば発射場近くの平原に降りるのが理想的とされていました。
しかし万が一、回収予定地以外の荒野に着陸したときのために、
クルーのサバイバル・キットには狩猟用ナイフが含まれていました。

何のためにこんなものが、って?
それはあなた、もちろん着地してからの食糧確保と外敵駆除でのためですよ。

フェオクティストフらのボスホート1号では使う必要はなかったのですが、
ボスホート2号の乗組員にとっては、大変お役立ちキットとなりました。

なぜならボスホート2号は予定地から約2,000キロメートル外れて着陸し、
原野で回収を待つハメになったからです。

宇宙飛行士は救助隊が来るまでの間、
近くで動物の遠吠えを聞いた:(;゙゚'ω゚'):と報告しています。

■ 史上初!!宇宙遊泳



タイトルの「イグジット・トゥ・スペース」は「宇宙に出る」、
つまり宇宙遊泳を意味します。

前にもスミソニアンシリーズで一度お伝えしていますが、成り行き上
もう一度、アレクセイ・レオーノフの初の宇宙遊泳について書きます。

最初からエアロックを増設した宇宙船に乗せた乗員二人は、
先ほども言ったように宇宙服を着せてもらうことができました。
その理由は史上初の人類による宇宙遊泳を成功させるというのが
ボスホート2号の重要ミッションだったからです。

スミソニアンに展示されているのは、まさにレオーノフが宇宙空間に出た
その瞬間の再現シーンであり、スーツはもしかしたら本物かもしれません。


ここで注目していただきたいのは、エアロックと呼ばれる「トンネル」です。

宇宙飛行士が加圧された宇宙船から出るために、
ソ連の技術者たちは柔軟なエアロック・アタッチメントを設計しました。

エアロックは軌道上で膨らませるトンネルで、
宇宙船から出たり入ったりしても、密閉された状態を保つ仕組みです。

アレクセイ・レオーノフは、打ち上げ前からこのエアロックを使って
宇宙遊泳の訓練を行い、史上初の宇宙遊泳に備えました。

のちにアメリカも宇宙飛行士の宇宙遊泳に成功しましたが、その時は
宇宙船は完全に減圧され、ハッチが直接宇宙に向かって開く仕組みでした。

ちなみにレオーノフが最初に宇宙空間に出他とき、彼の体は
4.8メートルのテザー(命綱)で宇宙船と繋がっていました。

しかしそのとき、問題が起こります。

宇宙を初めて「歩いた男」は、危うく最初の死者となるところでした。

というのも、「宇宙遊泳中、レオーノフのスーツは予想以上に膨張し、
硬くなり、大きすぎてエアロックに入らなくなったのです。

エアロックに入れない、つまり宇宙船に戻れないということです。



スミソニアンに展示されているのはレオーノフが訓練で使用した
ベルクート(ゴールデンイーグルの意味)与圧服というものです。
本番でも同型のものが使用され、おそらくソ連のどこかにあるのでしょう。


宇宙服が膨れてトンネルを通れなくなってしまい、どうしたかというと、
彼は細心の注意を払って宇宙服から圧力を減らして萎ませていきました。
そしてなんとかギリギリにエアロックに入れる大きさにまで調整し、
ようやく宇宙船に戻ることができたのです。

当初、船外活動をリアルタイムで放送する予定でしたが、
緊急事態を受けて放送は即座に中断されました。

万人監視の中、レオーノフが宇宙に取り残されるようなことがあったら、
国威発揚どころの騒ぎではなくなるからですねわかります。

この時に限らず、宇宙空間に遊泳するというのは、
我々が現在想像するより遥かに危険と隣り合わせでした。

テザーが切れたり、膨らみすぎて宇宙船に戻れなかったとしたら、
もうその瞬間、彼を救出する術はありません。
その体は生命が失われた後も永遠に宇宙空間を彷徨い続けることになります。

あ・・昔、そんなシーンが出てくるSF小説を読んだことがあったっけ。

アシモフだったか、ハインラインだったか、ブラッドベリだったか。
題も覚えていないし、本当にそんなシーンがあったかも判然としませんが。

そういえば、ソ連が秘密にしているので全く話題にならないけど、実は
宇宙で「彷徨っている」ソ連飛行士がいるとかいう噂もありましたっけ。

レオーノフは無事に帰って来られてよかったですね。


ちなみに、レオーノフが素人画家であるという話は以前にもしましたが、
彼はちゃんとスケッチブックを持っていき、軌道上の日の出を見ると
すぐさまこれをスケッチして、宇宙で初めて絵を描いた人第一号にもなりました。



その「史上初の宇宙でのアート」が左。
色鉛筆に紐がついていますが、レオーノフが手首につけるためのものです。


お宝写真。
自分で描いた宇宙遊泳の作品の前に立つレオーノフ。
JALのハッピと鎖帷子ふうシャツと本人の表情の取り合わせがシュール。

宇宙遊泳のその日から52年後の写真だそうです。

さて。
ボスホート2号のミッションによって、宇宙服さえ適切なものであれば、
人類は宇宙空間で活動が可能であることが実証されました。

このことは、実証されてみればなんでもないかもしれませんが、
初めてその空間に一歩(っていうのかな)を踏み出す者は、
常人に想像もつかぬ恐怖と不安の克服を余儀なくされたはずです。

想定外のアクシデントに見舞われたにもかかわらず、
その問題を解決して生還した宇宙飛行士、レオーノフの冷静さと優秀さは
もっと歴史的にも評価されてもいいと思いませんか。


続く。



ロシアの「史上初」とガガーリン〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-05-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館のメインコーナーでは、
アメリカと、アメリカが追い求めたソ連の宇宙科学技術を表す展示が
実にわかりやすいパネルにされております。

ただの写真解説ではなく、何と言ってもスミソニアンですから、
普通にロケット本体とか、宇宙服をその目で見ることができるのです。

例えば、この冒頭の写真、これは、

ユーリ・アレクセイビッチ・ガガーリン少佐
Yuri Alekseyevich Gagarin / Юрий Гагарин


トレーニングスーツです。
スーツは密閉された空間で呼吸を可能にする圧力層を可能にするもので、
この下には防寒着を着用していました。

このスーツの目的は、宇宙飛行の最後を締めくくる
高高度パラシュート降下で生存するためでした。


スペーススーツヘッド部分。
素材は金属のようですが、さぞ着用したら重かったでしょう。




ブーツは意外すぎるくらい普通だなと思ったり。

ガガーリンは1961年4月12日のボストークでの飛行のために、
このSK-1与圧スーツで訓練を行いました。

注目すべき機能として、この重たそうなバイザー付きヘルメットは
スーツから取り外しできなかったということです。

着水するようなことがあったら膨張し、展開させるゴム製の襟
(兼フロート)がついた明るいオレンジ色のナイロン製スーツです。


袖に付いているのは鏡だよね?と思ったら本当に鏡でした。
これは、動きが取れない船内で、スイッチやゲージを見るのに役立ちます。
(こんなものがないと見られない状況って一体・・・)

圧力をかけるためのライナー(内側の層)にこれでもかと繋がれた
各種コネクターは、生命維持とコンタクトのために必要な各種機器。

手袋は革製、重たそうなブーツも革製、ラジオヘッドセットも革張りでした。

■ガガーリン

ユーリ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン (1934年3月9日 - 1968年3月27日)
は、人類初の宇宙飛行士となったソビエト連邦のパイロット、宇宙飛行士です。

1961年4月12日、「ボストーク1号」カプセルで地球を1周することに成功し、
宇宙開発競争におけるこの重要なマイルストーンを達成しました。


労働者階級の家に生まれたガガーリンは鋳物工として働きだし、
その後、ソ連空軍のパイロットであった時、初の宇宙開発計画に選抜されます。

宇宙計画の主任だったウラジーミル・コロリョフは、
ボストーク・カプセルの限られたスペースに収まるように、
候補者は体重72kg未満、身長1.7m以下と指定しました。

この時空軍から選出された候補者が154人でしたが、
その中から5人が最終選考に残りました。

人に好かれるタイプで(自分以外で誰を最初に飛行させたいか、という
匿名の投票をさせたら、ガガーリンが圧倒的に多かったらしい)
集中力があり、自分にも他人にも厳しく、肉体的・心理的な耐久性に優れ、
控えめで調子に乗らず、記憶力があり、鋭い注意力と洞察力を持ち、
想像力豊かで、反応は機敏、忍耐強く、活動や訓練のために丹念に準備をし、
天体力学や数式を簡単に扱い、高等数学にも長けており、
自分が正しいと思えば、自分の意見をはっきりと主張する。

史上初の宇宙飛行士として、ソ連が選び抜いたのはこんな人物でした。
決して「ラッキーボーイ」というレベルの人物ではなかったのです。

ボストーク2号に乗ったゲルマン・チトフも超優秀な人物でしたが、
彼の両親は知的階級で、そこそこ裕福な家庭の出身でしたから、
ガガーリンのような貧しい労働者出身の方が、
国家事業第一号のヒーローとして「映える」とされたようです。

あと、チトフのファーストネーム「ゲルマン」は、
つい最近までドイツとドンパチっていたソ連的にはいまいちで、
「ユーリ」という典型的なロシアンネームの方が
これも英雄としては大衆に受け入れられると考えられました。

Comrade Gagarin the first man in space


ボストーク1が人類初の宇宙旅行者となったガガーリンを乗せて
バイコヌール宇宙基地から打ち上げられた時、
コールサインはケドル(Кедр、シベリアの松または杉)でした。

Radio communications between Yuri Gagarin, Sergei Korolev and Ground Control


英語訳字幕に「Cedar」とあるのがお分かりいただけるでしょう。
発射管制室とガガーリンの無線通信

コローリョフ:予備ステージ...中間...メイン...。
リフトオフ! 良いフライトをお祈りしています。すべて順調です。
ガガーリン: 出発です!さようなら、近いうちに【会う】まで、親愛なる友よ。

非公式なのでこの音声には残っていないようですが、ガガーリンは最後に

「ポイエカリ!」(Poyekhali! Поехали!, 'Off we go!')

といい、これは、後に東欧圏で
宇宙時代の始まりを意味する表現として使われるようになります。

打ち上げ後、宇宙船は108分間周回してカザフスタンに着陸しました。
こうしてガガーリンは人類初の地球周回飛行士となったのです。


ちなみに搭乗前中尉だったガガーリンは飛行中に2階級特進し少佐になりました。
これは、本来ならば名誉の戦死に対して行われる昇進ですが、
宇宙飛行中に昇進したことを本人が知っていた方が、
その後何が起こってもおそらく本望だろう、という配慮からと思われます。

本来の2階級特進の事態がいつでも起こりうると考えられてたんですね。


国家どころか人類の英雄となったガガーリン。
彼は母について、こんな孝行息子なことを述べて世界を感動させました。

「私は母を非常に愛しており、達成したすべてのことは母のおかげです」

ガガーリンの筆跡。
几帳面で丁寧で、書き手の明晰さも窺えます。

ガガーリンは歴史的な飛行の二日前に、宇宙飛行に関するスピーチを
ソビエト国家委員会において行っています。

その中で、彼は同僚のパイロットたちが

「私が最初に宇宙に飛び立つにあたり信頼をしてくれたこと」に感謝し、
「ソビエト人がそうであるように、私は嬉しく、また誇らしく、幸福だ」


と付け加え、さらにまた、

「飛行の成功の結果を疑っていない」

とその場の聴衆に力強く保証して結びました。

ここに展示されているのは、この時に行ったスピーチのために
ガガーリンが書いた自筆原稿の複製です。

ともあれ、ソ連は最初に人類を宇宙に送ることになり、
それは世界に・・・とりわけアメリカに衝撃を与えました。

ガガーリンの飛行は、アメリカの宇宙飛行士、アラン・シェパード
初の弾道飛行を行う1ヶ月前でしたし、
宇宙飛行士ジョン・グレンが地球をアメリカ人として初めて周回した
10ヶ月前にすでに行われていたということになります。

これは、ソ連が宇宙開発競争において、圧倒的にアメリカの先を行くことを
あからさまに示す出来事になりました。


フルシチョフに花束を贈られるガガーリンを表紙にした
1961年4月21日発行のライフ。(ちなみに値段は20セント)


このIDは、スミソニアンがロシアのスターシティにある
その名も「ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センター」
博物館のものをコピーさせてもらったもの、と説明があります。

まず、こちらはガガーリンが訓練中の宇宙飛行士であるというID。


そしてこちらは共産党のメンバーであるというIDつまり党員証です。
アメリカ人にはこういうのが地味にショックかもしれません。

しかし、歴史的な宇宙飛行の間、彼が帯同していたのは
もちろん宇宙飛行士としてのIDでした。



■ソ連の連続”初めて”


ボストークとボスホートというコーナーです。

1961年から1965年の間に行われたボストーク、ボスホート計画は、
宇宙におけるソビエトによる「史上初」となる一連の任務を成功させました。

ボストークVostokという名称は、ロシア語で「東」を表す一般名詞です。
1961年から最初2年間での6回のミッションで、
ボストーク宇宙船は宇宙飛行士を長時間地球軌道に乗せることに成功しました。

その後、ボストーク宇宙船は、2〜3人の飛行士を収容するサイズになり、
名前もボスホートVoskhodと変えました。
今度は「日の出」を意味する単語です。

そして3人の宇宙飛行士が、1964年10月、ボスホート1号による
1日の軌道周回に打ち上げられ、成功します。

これは、アメリカが二人乗りのジェミニ計画を成功させる5ヶ月前でした。

そして、1965年には、ボスホート2号の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフ
軌道を回る宇宙船の外に出て、世界最初の人類による宇宙遊泳を達成します。

ちょっとここで、ソ連のボストークによる「初めて」5連打を表にしておきます。

1961 初めての有人飛行打ち上げ
ユーリ・ガガーリンの1周回飛行(ボストーク)

1961 初めての1日周回飛行
ゲルマン・チトフ(ボストーク2)

1962 初めての2機打ち上げ
ボストーク3と4

1962年 初めての長期耐久ミッション
宇宙船で5日滞在(ボストーク5)

1963年 初めての女性宇宙飛行士打ち上げ
ワレンティナ・テレシコワ(ボストーク6

もうこうなったら、次はどんな初めてにしよっかなー、と
皆で目を輝かせて「初めてネタ」を協議してたって感じですね。


ゲルマン・ステパノヴィッチ・チトフ
Герман Степанович Титов、Gherman Stepanovich Titov

ボストーク2で地球周回軌道より遠い軌道での飛行を行ったチトフ。

史上初めて宇宙で乗り物酔いをした人物としても名を残しました。
史上初めて宇宙船を操縦し、史上初の宇宙でものを食べた人物でもあります。



また、史上初めて宇宙から地球を撮影した人物にもなりました。

この写真はチトフが撮影した地球。
左上にサインがありますね。

2000年、チトフは65歳で亡くなっていますが、これがまた、
サウナに入っている時、心筋梗塞になったのが死因だそうで。
おそらくですが、サウナで死んだ史上初の宇宙飛行士となったと思われます。



最初の女性宇宙飛行士となった、
ワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ(1937〜)
Валенти́на Влади́мировна Терешко́ва
 Valentina Vladimirovna Tereshkova

ガガーリンが「シベリア杉」チトフが「鷲」だったように、
テレシコワのコールサインは「チャイカ」(Ча́йка、かもめ)だったため、
打ち上げ後に
«Я — Чайка» ヤー・チャイカ=「こちらチャイカ」
と言ったのがその後世界でバズりました。

この写真は、飛行中のモーションピクチャーのキャプチャですが、
なんかすごく可愛らしいというか・・。

「お黙り!」とか言われそう(ちなみに空軍少将)

こういうイメージとは全く違う表情ですね。



これがボストークだ


当時のことなのでフライトプランは全て手書きとなります。
これはボストークのフライトプラン。


初のガガーリンによる有人打ち上げに関するチェックリストのドラフト。

前回ご紹介した技術者であるフェオクチストフの手によるもので、
打ち上げ前、軌道上、および降下中、従うべき特定の手順が指示されています。

これもオリジナルのコピーです。

■負けを認めたアメリカ



「ケネディ:我々は立ち遅れている」

こんな見出しが目につきます。
どんなことが書いてあるでしょうか。

記者会見の記録から

問:大統領は本日、宇宙分野でアメリカがロシアの後塵を拝しているのに
うんざりしているとおっしゃいました。
今大統領は宇宙計画をスピードアップするために議会に予算を要求しました。
我々がロシアに追いつき、追い越せるという見込みはなんですか。

大統領:そうですね。
ソ連はより大きなブースターで重量を支えることで利点を獲得しました。
そしてしばらくはそれが役に立つでしょう。
誰もがどんなに疲れていても・・・私ほど疲れてる人はいないと思いますが、
そう言ったことに時間がかかるのは事実です。
それを認識しなければならないと思います。

彼らは大きなブースターで
スプートニクによって最初を手に入れ、最初に宇宙に人を送りました。
今年も関係者の生活の問題に気を配りながら頑張っていきたいですが、
とにかく私たちは遅れています。

彼らは先に行くために集中的に努力をしているでしょう。
土星にさらに重点を置き、ローバー(探査機)を計画しています。
私たちはより強力な地位を与える他のシステムを改善しようとしています。

しかしそれらは非常に効果であり全てに数十億ドルがかかります。

その上であなたの質問に答えると、一般教書演説で言ったことですが、
私たちが追いつくまでにはしばらく時間がかかるでしょう。
私たちは、「最初」になることができて、おそらく人類に
より長期的な利益をもたらす分野に行くことを望んでいますが、

とにかく今は遅れているんです。

記者会見の別の時点で、大統領は宇宙開発競争についてこう述べた。


「”宇宙の最初の男”が自由主義の弱体化の兆候であるとは考えていませんが、
過去数年間行われた共産主義者の宇宙への動員は、
私たちにとって大きな危険の源であるとは考えています。


そして、私たちは今世紀の残りの大部分を通して
その危険を抱えて生きていかなければならないだろうと考えています。
(略)
私たちの仕事は、自分達の優れた資質がより効果的に発揮されるまで
自らの力を維持することです」

アメリカはどうやってこれから巻き返していくでしょうか。


続く。


宇宙開発競争 アメリカのプレッシャー〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-05-04 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、前回は「スプートニク危機」をアメリカに与えたところの、
ソビエト連邦のぶっちぎり宇宙開発期についてお話ししました。

今日はぶっちぎられた方のアメリカについてです。
スプートニクうちあげからルナ3号に至るまでのソ連の快進撃資料の横に、

「PRESSURE ON AMERICA」

というタイトルで紹介されたコーナー。

ここでは、東西二大陣営の技術力最高峰を自負していたアメリカが、
あれ?余裕こいていたのに俺たち意外と負けてね?とショックを受けた後、
文字通りソ連に追いつけ追い越せの奮闘を始めるわけですが、
そこには大きなプレッシャーがのしかかってたんですよまあ聞いてください、
と大体そういうことが語られています。

アメリカは1957年に最初の科学衛星打ち上げを計画していました。
しかし、海軍のヴァンガードロケットを使用した2回の打ち上げの試みは
惨事に終わりました。

■ ヴァンガード・ロケットVangard Rocket

というわけでその惨事に終わったヴァンガードですが、説明にわざわざ
「海軍」と書かれていることに気づかれたでしょうか。

衛星ロケットヴァンガードを開発したのはアメリカ海軍なのです。

あれ?NASAじゃなかったの、という声もあるかと思いますが、
この頃まだNASAはなく、政府が人工衛星の打ち上げは海軍が行うとし、
陸軍には弾道ミサイルの開発、と分業されていたのです。

もちろん空軍も別に開発を行なっていました。

結局この分業制のせいでソ連に勝てないんと違うんかい、
となってNASAが生まれるわけですが、その話は後に回します。

【科学衛星の開発】

1955年、アメリカは1957〜58年の国際地球観測年(IGY)に向けて、
科学衛星を軌道に乗せる計画を発表しました。

ソ連がなんたら記念日に間に合わせるためにスプートニク2号を上げたように、
こういう事業には何かしらの「お題目」を必要とするんですね。

当時、打ち上げのためのロケットには陸海軍3つの候補がありました。

陸軍弾道ミサイル局のSSM-A-14レッドストーンの派生型
海軍のRTV-N-12aバイキング観測ロケットをベースにした3段式ロケット
空軍のSM-65アトラス

の三案です。

そもそもなんで軍が開発していたかというと、当時の宇宙事業の目的が
偵察衛星=兵器システムだったからで、計画も最高機密区分だからでした。

「軍事偵察の歴史」でも触れたように、偵察に関しては合法性の問題があります。
その点、平和的民間衛星であるIGY衛星は、いい「隠れ蓑」となり、
宇宙の自由という先例を作るという大義名分にもなります。

そしてNSCは、IGY衛星が軍事計画に干渉してはならない、と強調しました。

ヴァンガードを打ち上げた 海軍研究所(NRL)もまた、
軍事組織というより科学組織と見做されていたのです。

この頃、陸軍がドイツの科学者、フォン・ブラウンの協力のもと、
レッドストーン弾道ミサイルを計画していたのですが、
IGYの責任者は海軍研究所を科学組織と捉えていたため、
陸軍やドイツの学者の案を退け、
ヴァンガードを推進するように政治的に動いたのです。

そして1955年、国防総省は、
ヴァンガード計画をIGYプロジェクトに選びました。
ヴァイキングを製造したマーティン社がロケットの主契約者です。

ロケットは3段式。
第1段はゼネラル・エレクトリック社の液体燃料エンジン、
第2段はエアロジェット社の液体燃料エンジン+慣性誘導システム、
自動操縦機能、
そしてスピン防止機能付き3段目は、
固体燃料ロケットモーターでできていました。

【スプートニクならぬ”カプートニク”】

1957年12月6日。

アメリカ海軍はケープカナベラルから1.5キログラムの衛星を搭載した
ヴァンガードTV-3ロケットを打ち上げました。



このロケットは高度1.2メートルに達したところで落下し、爆発しました。
このロケットに搭載されていたのが、冒頭写真の衛星です。


搭載している時はこんな形状でした。
スミソニアンに展示されている衛星は、脚がぐにゃりと歪んでいますね。

ロケットは高度1.2メートルに達したところで落下し、爆発しました。

「悲惨なロケット事故ワースト10」などのYouTubeで見ることができます。
衛星はロケットの上部から爆発し、発射台近くの茂みに着地し、
そしてそこで信号を発信し始めました。


「OH, WHAT A FLOPNIK!」

共産国家のソ連なら、こんなタイトルを考えた奴は即刻シベリア送りでしょう。
良くも悪くも自由主義国家なんで、この失敗を大いに楽しんだのは
実は皮肉屋のメディアだったかもしれません。

Flopというのは物がどさっと落ちるという意味がありまして、
もちろんこれを「スプートニク」と合わせているわけです。

他にも、「Kaputonik」カプートニクなどという愛称?もありました。
こちらはKaput=ダメになった、イカれた、破壊されたという意味で、
ドイツ語起源の単語のチョイスに、当時関係者にドイツ人が多かった、
ということへの皮肉が込められているような気がします。

事故調査の結果、燃料タンクの圧力不足により、高温の排気ガスが逆流、
インジェクターヘッドが破壊され、エンジン推力が完全に失われていました。

ヴァンガードロケットはその後、10回が打ち上げられ、衛星を
軌道に乗せることができたのは3回で1号、2号、3号と名付けられました。

とりあえず成功したら号数を振っていくというやり方ですか・・。

【NASA誕生と人工衛星打ち上げ成功】



最初のヴァンガードの失敗の時、怒りを込めて
だから言わんこっちゃない的なコメントしたのは、
あのドイツ人科学者、フォン・ブラウンでした。

1958年1月、フォン・ブラウンの指揮の下、陸軍は衛星打ち上げの承認を得て、
改造されたレッドストーンミサイル、ジュピターCが、
アメリカ初の衛星エクスプローラー1号を宇宙に打ち上げました。



海軍がヴァンガード3号の打ち上げに成功したのは3月のことです。



しかし、ソ連の後ろ姿はこの時点ではまだ遠くでした。
周回遅れ、と言ってもいいくらい引き離されていたと言っていいでしょう。

そもそも、この新聞にも、「陸軍のミサイルが」なんて書かれているように、
陸海空が別個にこういうことをやっていては効率が悪い、
ソ連が国家事業として国力を挙げてやっているのに、こんなことではいかん、
とアイゼンハワー大統領が考えたのも当然です。

ちなみに、スプートニクショックの後、それまで陸海空バラバラでやっていた
宇宙開発の指揮系統の一本化を決め、まずNACA(アメリカ航空諮問委員会)
を設立し、そこにいるのは「NACAの人」と呼ばれていました。

繰り返します。「NACAの人」と呼ばれていました。

が、当時のアイゼンハワー大統領は宇宙計画のための独立した組織の設立を求め、
アメリカ初の人工衛星エクスプローラーの打ち上げに成功した後、
アメリカ航空宇宙局
National Aeronautics and Space Administration)
NASAを誕生させることになったのです。




■ ガガーリンの有人打ち上げとケネディ演説



とかなんとかやっているうちに、決定的な出来事が起こりました。

1961年4月12日、ソ連が有人飛行を成功させてしまったのです。
ユーリ・ガガーリンの宇宙服もここにはありますが、その紹介は別の日に。



前にも挙げたことがあるこの写真。
この時ケネディがライス大学で行った演説は「ムーン・スピーチ」と呼ばれます。

ガガーリンの打ち上げ成功直後、ケネディ大統領はソ連から主導権を奪うために
アメリカが宇宙で何をできるかを知りたがりました。

そこで出ばってきたのが、当時の副大統領、JFK暗殺後に大統領となった
リンドン・ジョンソンで、彼の号令によってNASA、関係業界、
そして軍の指導者たちから聞き取り調査などが行われ、その結果、

「ソ連を『おそらく』打ち負かすことができるとしたら、
それは強大な努力によって月の周りに人を送るか、あるいは
月そのものに人を着陸させるということでしょう」

と報告したのです。
その報告を受けて行われたのが「月演説」でした。

JFK Moon Speech

われわれは月へ行くことを選びます。
この10年のうちに月へ行くことを選び、
そのほかの目標を成し遂げることを選びます。
われわれがそれを選ぶのは、たやすいからではなく、困難だからです。
この目標が、われわれの能力と技術のもっとも優れた部分を集め、
その真価を測るに足りる目標だからです。
この挑戦が、われわれが進んで受け入れるものであり、
先延ばしにすることを望まないものであり、われわれが、

そして他の国々が、必ず勝ち取ろうとするものだからです。

このような理由から、昨年わたしが下した宇宙開発を促進する決断は、
大統領就任以来、もっとも重要な決断のひとつだと考えます。

(JFKライブラリー資料ページの日本語版引用)

”We choose to go to the moon.”

という言葉の繰り返しがあまりにも印象的なこの15分の演説がもしなかったら、
アメリカはソ連を追い越すことはできなかったかもしれない、と言われます。

しかし、米ソどちらの国もその時点ではまだそのような任務に耐える
十分に強力なロケットを持っていませんでした。
月への到達は、アメリカが不利な立場のまま始められるものではなかったのです。


この記事のクリアな画像が欲しくてNYTのアーカイブを探したのですが、
見るだけで料金が発生することが分かり断念しました。

まず、タイトルは、

AS EXPLORER JOINS SPUTNIK
(スプートニクに混ざろうとするエクスプローラー)

左は、エクスプローラーがヴァンガード(字が消されている)の胸ぐらを掴み、

”Let me show you, Dud, how things are done."
「おとっつぁんよ、見せてやろう。物事はどう進めたらいいかをな」

うーん、エクスプローラー氏態度悪すぎ。

右側は、ずいぶん古めかしい格好の人が、

”I feel better already."
「すっかりいい気分になったわい」

いや、これさあ・・。

打ち上げただけで気分良くなってちゃダメでしょ。
エクスプローラーもさ、ヴァンガードにマウントとってどうするの。

つまりこの漫画は何を言いたいかというと、
アメリカが成功させたエクスプローラーの成果が、いかに世間からは

「自己満足の周回遅れ」

と冷ややかに見られていたってことなんじゃないでしょうか。


こんなにはしゃいじゃって・・・・。

左がジェット推進研究所の開発責任者ウィリアム・ピッカリング
真ん中は「ヴァン・アレン帯」に名前を残したジェームズ・ヴァン・アレン
右側がヴェルナー・フォン・ブラウンです。



スミソニアンのどこかにエクスプローラーの予備機があると知ったので、
改めて探してみたら、どうもこれらしい。↓


あまりにも小さく、メディアには散々コケにされたものの、
衛星としては有用であったエクスプローラーは、
アメリカに追いつこうとする反撃の狼煙
となったのです。

どうなるアメリカ!


続く。





スカイラブの軌道上ワークショップと3人の地上実験クルー〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-30 | 博物館・資料館・テーマパーク


今、スミソニアン博物館の、マイルストーンコーナーという
歴史的な機体の数々を順次ご紹介しているわけですが、
その中には、月着陸船やジェミニ計画のカプセルなど、
歴史的でありかつアメリカの宇宙開発を物語る展示もあります。

そして同じ空間に、1950年代の米ソの宇宙開発競争から、
近年の国際協力に至るまで、米ソの宇宙開発競争の歴史をたどる
大規模な展示のほとんどは、そのテーマのどちらにも属するというわけです。

■マイルストーンとしての米ソ宇宙開発競争関連展示

今日のテーマに入る前に、このコーナーの展示を
ざっと網羅しておこうと思います。
当ブログではこれからこのテーマについてしばらくお話しするつもりです。

「宇宙開発競争の軍事的起源」
Military Origins of the Space Race

宇宙開発競争の根底にあるのは、文字通り「核」でした。
ロケットは、イコール熱核弾頭を地球全域に飛ばすことができるツールです。

このコーナーでは、米ソの二大大国が、最終的な核攻撃の手法を
互いに相手より早く開発しようと競争に突入していった事情が説明されます。

軍事的起源の実例としてドイツのV-1「バズボム」
そしてV2ミサイルが展示されています。

「宇宙を見つめる目」
Secret Eyes in Space


長い間秘密にされてきた偵察プロジェクトや、
最近機密解除されたスパイ衛星カメラ「コロナ」などが紹介されています。
最初の偵察衛星「ディスカバラーVIII」の実物も展示されています。

「月への競争」
Racing to the Moon


ソビエトの月面宇宙服「クレチェット」アポロの宇宙服など、
アメリカとソ連両国の公的な成果を紹介します。

「月探索」
Exploring the Moon


アポロ11号の月着陸以降、月面の写真を地球に送信したり、
土壌の化学分析を行ったり、その他、科学実験を行うために開発された
さまざまな機器、そしてアポロ月着陸船(Lander)も含まれています。

「宇宙における恒久的プレゼンス」
A Permanent Presence in Space


科学的発見の継続と宇宙協力の時代の幕開けのために、
恒久的な宇宙ステーションを設置しようとする
米ソ両国の取り組みについて紹介しています。

アメリカの宇宙ステーション、スカイラブ軌道上のワークショップ
(これは今日のテーマですが)その内部などが展示されています。

「有人宇宙飛行の50年」
Fifty Years of Human Spaceflight


では、冷戦時代のあの1961年、ソ連と米国が
どのように競争して人類を初めて宇宙に送り出したかを検証しています。

ここではアポロ1号やソユーズ11号などの悲劇についても語られます。

ソユーズTM-10宇宙船、コスモス1443「メルクール」宇宙船
ロシア人を月に着陸させるという「未完成のミッション」のために作られた
宇宙服などが展示されています。
ところで、ソ連とアメリカ両国の宇宙船があるのは当然として、
ガガーリンの宇宙服までがここにあるのはなぜなんでしょうか。

「ハッブル宇宙望遠鏡の修理」
Repairing the Hubble Space Telescope 


広視野惑星カメラ2(WFPC2)と、1993年に望遠鏡の光学系を修正した
補正光学宇宙望遠鏡軸方向交換(COSTAR)を特集しています。

ここにはハッブル宇宙望遠鏡の実物大試験機が展示されています。



正直なところ、わたしはスミソニアン博物館の中にあって、
この構造物が、あまりに建物の壁と同化していたので、
歴史的な何かとは全く思わず、前まで行ってみることもしませんでした。

写真を見たところ、どうも内部を覗き込むことができるような
通路が設けられていて、わたしの撮った冒頭写真では、
人が中に入っていっているではありませんか。

今後いつワシントンDCなんぞに行けるのかもわからないのに、
その時はどうしてこれほどぼーっとしていたのか、自分で自分を叱ってやりたい。

で、わたしが宇宙ステーションを模した建物の一部だと思い込んだこれは、

「軌道上ワークショップ」The Orbital Workshop

という、これだけ聞いたら何のことやらという展示でした。
これを説明するには、まずスカイラブから理解していただく必要があります。

■スカイラブ計画


日本語だと同じ表記になってしまいますが、Loveではありません。
スカイラブはSky Lab、つまり空の実験室の意味があります。

スカイラブは、NASAが打ち上げたアメリカ初の宇宙ステーションです。
1973年5月から1974年までの約24週間にわたって滞在し、その間
3人の宇宙飛行士による3つの別々のクルーによって運用されました。

運用されたのはスカイラブ2、スカイラブ3、スカイラブ4の3基。
軌道上ワークショップを含み、太陽観測、地球観測、数百の実験を行いました。

2022年現在、スカイラブは米国が独占的に運用する唯一の宇宙ステーションです。

スカイラブの構成要素

スカイラブは、ワークショップ、太陽観測所、そして
数百種類の生命科学と物理科学のラボなどで構成されています。



地球低軌道へはサターンVロケットを改造し無人で打ち上げられました。
サターンVロケットは、スプートニクショックの後のアメリカが
ソ連に追いつけ追い越せで作り上げ、アポロ月面着陸に使用されたことで有名です。

第1段がボーイング、第2段がノースアメリカン、第3段がダグラスと、
アメリカのビッグ3に配慮しまくって製造されております。

アポロ計画の余剰品のロケットや宇宙船を使用して
科学的探査を行うことを検討する、アポロ応用計画として
宇宙ステーション建設が立ち上がり、それはスカイラブ計画となりました。

スカイラブを打ち上げたのがサターンVにとっては最終飛行となります。

スカイラブには、アポロ望遠鏡マウント(マルチスペクトル太陽観測所)
2つのドッキングポートを持つマルチドッキングアダプタ
船外活動(EVA)ハッチを持つエアロックモジュール
スカイラブ内の主要な居住空間である軌道ワークショップが含まれます。

電力は、巨大なソーラーパネルを見ればお分かりのように、
ドッキングされたアポロCSMの太陽電池と燃料電池から供給されました。

ステーションの後部には、大きな廃棄物タンク、操縦噴射用の推進剤タンク、
そして放熱器なおが設置されています。

スカイラブでは、運用期間中、宇宙飛行士がさまざまな実験を行いました。


■ 軌道上ワークショップ

軌道上ワークショップは、アメリカ初の宇宙ステーションである
スカイラブの最大の構成要素です。

そこには、居住空間、作業・保管場所、研究機器が設置され、
3人の宇宙飛行士であるクルーをサポートするために
必要とされる物資のほとんどが収容されているのです。

スカイラブは2基製造されています。
1973年5月にはそのうち1基が地球軌道に打ち上げられました。

そして地球からの飛行が到着するのを待っていたのですが、スカイラブ計画は
それからスペースシャトル開発への取り組みに移行したため中止されました。

スカイラブ計画が中止された後、NASAは1975年に
バックアップのためのスカイラブを国立航空宇宙博物館に移管しました。

というわけで、軌道上ワークショップは1976年から
当博物館のスペース・ホールに展示され、
若干の改装を施されて居住区は歩けるようになっています。

居住区を歩ける
居住区を歩ける?

うわあああああ(血の涙)

この一文ほど最近自分自身を打ちのめしたものはありません。
ぼーっとして気づかなかった自分が改めて憎い。

このバックアップの宇宙船についても書いておきます。

もし軌道上での救出ミッションが必要となった場合、そして
ステーションが何らかの深刻な損傷を負った際に備えて、
NASAはバックアップのアポロCSM/サターンIBに2名の飛行士を乗せて打ち上げ、
救出に向かわせるというプランを立てていました。

幸い、この車両は一度も飛行することなく終わり、スミソニアンにあるわけです。


居住性・食糧・寝室

製造にあたっては工業デザイナーが関わり、居住性を重視する提言を行いました。
食事や休憩のためのワードルームや窓の設置、色使いなどについてですが、
肝心の宇宙飛行士たちはその類の配慮に疑問を持っていたようです。

ただ、持ち込む本や音楽については各自のこだわりがあり、
当然のことながら、食糧については大変な関心事でした。

宇宙開発の黎明期には食事は「実験のため」の意味合いが強く、
一に栄養二に機能性だったため、味は二の次三の次で、
ほとんど飛行士にとって苦痛でしかなかったようです。

その伝統は初期のアポロ計画まで受け継がれました。
NASAのボランティアが実験的に宇宙食で過ごしたところ、
4日間でもアポロ食で暮らすことはほぼ拷問に近いと結論を下しました。
相も変わらずキューブやチューブの形のそれは、悲惨なものでした。

そこで、スカイラブの食事は、栄養学的な必要性よりも
食べやすさを優先させることで、以前のものより大幅に改善されたのです。
(当社比)


各宇宙飛行士には、プライベートな空間も一応用意されました。
カーテン、寝袋、各自のロッカーを備えた、
小さなウォークインクローゼットサイズのプライベートな寝室です。

設計者はまた、飛行士の快適さと地球での検査結果を得るために、
正確な排泄物が取れるシャワーとトイレの設置にこだわりました。
人体からの廃棄物のサンプルは研究のために非常に重要な資料なので、
万が一救助ミッションが行われる事態になってもこの確保が優先されたはずです。

スカイラブでは、尿を飲料水に変えるなどのリサイクルシステムはなく、
廃棄物を宇宙に捨てるという処理も行いませんでした。

軌道上ワークショップの下には液体酸素タンクがありますが、
エアロックを通過したゴミや廃水を保管するために使用されたのみでした。


■ 運用の歴史 完成と打ち上げ



1969年8月8日、マクドネル・ダグラス社との契約を受注し、
オービタルワークショップは1970年2月にNASAのコンテストの結果
「スカイラブ」と改名されました。

スカイラブは1973年5月14日に改良型サターンVによって打ち上げられます。

打ち上げと展開の際に、サンシェードと太陽電池パネルの1つを失い、
ステーションの電力は大幅に不足するという事故に見舞われました。

有人ミッションは、スカイラブ2、スカイラブ3、スカイラブ4が行われ、
スカイラブ5はスタンバイしていましたが中止になっています。


スカイラブ2司令 ピート・コンラッド


スカイラブ3司令 アラン・ビーン

スカイラブ4司令 ジェラルド・カー

3人ともなんか同じようなタイプに見えるのはわたしだけでしょうか。
ヘアスタイルのせいかしら。


ちなみにこれがスカイラブのシャワー施設。
起源よく入っているのはコンラッドですが、
この人はすきっ歯で有名?でした。

今なら「信頼できない」とか言われて宇宙飛行士になれなかったかもですね。

入浴は、温水の入った加圧ボトルをシャワーの配管に連結し、
中に入ってカーテンを固定した後行います。

シャワーの上部にプッシュボタン式のノズルが硬質ホースで接続されていて、
1回のシャワーで約2.8リットルの水が使用できます。
水は個人衛生水タンクから汲み上げる仕組みで、計算量しか搭載していないので、
液体石鹸と水の使用は慎重に計画され、入浴は週に1回と決まっていました。

宇宙シャワーを最初に使用した宇宙飛行士の感想は、

「予想以上に使用するのにかなりの時間がかかったが、いい匂いで出てくる」

シャワーを設置し使用済みの水を放散する時間を含めて、
全行程でなんと約2時間半かかるのだとか。
苦行か。

シャワー操作手順は以下の通り。

1、加圧水筒にお湯を入れ、天井に取り付ける
2、ホースを接続し、シャワーカーテンを引き上げる
3、水を吹きかける
4、液体石鹸を塗布し、さらに水を噴射してすすぐ
5、液体をすべて掃除機で吸い取り、アイテムをお片付け


宇宙で入浴する際の大きな懸念事項の1つは、
水滴が間違った場所に浮かんで電気ショートを起こすことです。
したがって、真空水システムはシャワーに不可欠なものでした。

排水は廃棄袋に注入され、そのまま廃棄タンクに入れられます。

また、スカイラブでは、クルーごとに色分けされた
縫い目のあるレーヨン製のタオルが420枚搭載されていました。

使い捨てか・・まあどっちにしろ洗濯できないしな。



最初の有人ミッションであるスカイラブ2は、
悲惨な状態のままであったステーションの修理がミッションとなりました。
乗組員は日除けを展開してステーションの温度を許容レベルまで下げ、
オーバーヒートを防ぐことに成功しました。

クルーは2回の宇宙遊泳(船外活動:EVA)を行い、
スカイラブとともに28日間軌道上に滞在しました。

スカイラブ3の打ち上げ日は1973年7月28日、続いて
1973年11月16日にはスカイラブ4がほとんど立て続けに打ち上げられ、
ミッション期間は段々伸びて59日間と84日間となりました。

宇宙空間で2ヶ月半っていうのもなかなかの拷問のような気がします。

また、中止となったスカイラブ5以外にも、
レスキューのためのスカイラブが待機していたそうです。


5名乗りのレスキュー用モジュール これはひどい。
アフリカから奴隷を運んでくる船か。

宇宙空間に出てしまえば、何というか覚悟も決まるのですが、
1972年には奇特なことに、56日間、地球上の低圧で過ごした
スカイラブ医療実験高度試験(SMEAT)の3人のクルーがいました。

SMERTクルーのエンブレム
 
クルーのクリッペン、ボブコ、ソーントン

医療実験装置の評価、そしてスカイラブのハードウェアのテストのために
完全重力下での宇宙飛行アナログ試験として行われたものです。

医療知識は得られた、と穏便な?書き方をしていますが、
SMEATの主な目的は、スカイラブミッションで使用するために提案された
機器と手順を評価することの他に、
試験室に閉じ込められたクルーの生理学的データの基準値を取得し、
ゼロGで生活するスカイラブの軌道上のクルーと比較することでした。

その結果、スカイラブの尿処理システムの欠陥が明らかになりました。

彼らの尊い犠牲のおかげで、(死んでませんが)
スカイラブのトイレは、軌道上でのミッションの後、
宇宙飛行士から広く賞賛されることになったのでした。

宇宙にいけないのに、宇宙並みの苦労をしたクルーですが、
そんな彼らの様子は報道陣によってカメラに収められたりしました。

宇宙でもないのに酸素マスクを着用していたため、
入場時に報道陣と話すことはできませんでしたが、
報道陣の一人にサイン入り写真を渡すなどして大いに楽しんだようです。

サインをもらった中には、NASAの関係者も多数いたということですが、
なぜ彼らが地上クルーのサインを欲しがったのかは謎です。

そして、宇宙ほど危険でないとはいえ、クルーは1/3バールの圧力、
そして70%の酸素濃度にさらされ、
閉回路テレビに逐一チャンバー内の行動を映像に撮られていました。

これはある意味宇宙にいるよりストレスかもしれません。

56日間のSMEATシミュレーションでは、スカイラブの模擬シャワーも使用され、
クルーは「良い経験になった」(棒)と述べています。

■実験成果

これで終わるのも何なので、実験成果について書いておきます。
実験は大きく6つのカテゴリーに分けられました。


1、生命科学 - 人間の生理学、生物医学の研究、概日リズム(マウス、ブヨ)

2、太陽物理学と天文学 - 太陽の観測(8台の望遠鏡と個別の装置)
コホーテック彗星(スカイラブ4)、恒星の観測、宇宙物理学

3、地球資源-鉱物資源、地質、ハリケーン、土地と植生のパターン

4、材料科学 - 溶接、ろう付け、金属溶解、結晶成長、水・流体力学

5、学生が提案した19種類の研究
器用さの実験や、低重力下でのクモによる網紡ぎの実験など

6、その他 - 人間の適応性、作業能力、器用さ、生息地の設計・運営


スカイラブ2は、ステーションの修理があったため、
実験に費やせる時間が予定より少なくなりましたが、
スカイラブ3号とスカイラブ4号は、クルーが環境に慣れ、
地上管制官との快適な作業関係を確立し、当初の計画を上回る成果を上げました。

ジョン・ホプキンス大学のリカルド・ジャッコーニは、
スカイラブに搭載された太陽からの放射の研究な度によって、
X線天文学という分野の誕生に寄与した功績を讃えられ、
2002年のノーベル物理学賞を共同受賞しています。

どう考えてもこの件で一番ご苦労様だったのは地上クルーの3人ですね。
彼らには決して各種勲章は与えられませんが。


続く。


偵察衛星の「隠れみの」だったディスカバラー計画〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

当ブログのスミソニアン博物館の空中軍事偵察の歴史を扱った
「ザ・スカイ・スパイズ」 シリーズが終わって久しいわけですが、今回
このディスカバラーXIIIなるなにやら装置満載のお釜について調べていて、
これがかつては「スカイ・スパイズ」シリーズの一環だったことがわかりました。

昔のスミソニアンの資料を見ると、明らかにこれは偵察機器としての扱いで、
しかも他でもないスカイスパイズのコーナーにあったんですから間違いありません。


ところが今現在は、グラマンの「マイルストーン」展示の、
宇宙開発的なコーナーにあるわけです。
隣のモニターではX-15のテスト飛行の映像などを繰り返し放映し、
後ろには「パイオニア」と「パーシングII」ミサイルが聳え立っております。

理由はわかりませんが、このお釜がいつのことなのか、グラマンに
「マイルストーン」認定されて展示方法が変わったのだとしか理解できません。

■ ディスカバラー(Discoverer)XIII

ディスカバリーではなく、DISCOVERERです。
皆さんもあまり聞き覚えがないかもしれません。

ディスカバラー衛星計画は、実は今日に至る
「宇宙からのスパイ(偵察)」時代の嚆矢となった軍事作戦でした。

なるほど、この展示が「スカイスパイズ」にあった訳がわかりましたね。

「ディスカバラー」。

それは高度に分類されたアメリカ空軍とアメリカ中央情報局、CIAが計画した
「コロナ偵察衛星プログラム」の初期に使用された「カバーネーム」でした。

そして、ここにあるDiscoverer XIIIカプセルは、
「打ち上げ軌道から回収されたアメリカ最初の人工物」
として、ここマイルストーン展示にふさわしいとされたのでありましょう。

多分ですけど。


 1960年8月11日。
アメリカ海軍は、ハワイ北部の太平洋上から、カプセルカバー、パラシュート、
そしてディスカバラーXIII再突入カプセルを回収しました。

再突入カプセル(Reentry Capsule・リエントリーカプセル)とは、
宇宙飛行後に地球に帰還する宇宙カプセルの部分のことを言います。

カプセルの形状は空気抵抗が少ないため、最終的にはパラシュートで降下し、
陸上や海上に着地するか、航空機に捕獲されます。

「ディスカバラー」とは、極秘プロジェクトだったコロナ光偵察衛星の愛称でした。
ディスカバラーXIIIには、カメラやフィルムは搭載されておらず、
カプセルの中には診断用の機器しか入っていません。

しかし、1週間後の「ディスカバラーXIV」からは、カメラとフィルムを搭載し、
なんとその後、1972年5月のコロナ計画終了までに、
120機以上のコロナ衛星が、ソ連や中国などの撮影に成功しているのです。


この前日、バンデンバーグ基地から打ち上げられた
人工衛星「ディスカバラーXIII」は、空軍のC-119によって空中で回収されました。

航空機の後ろに見える空中ブランコのような装置には、
カプセルのパラシュート索を引っ掛けるためのフックがいくつも付いています。

C-119の愛称は「フライング・ボックスカー」
「ボックスカー」という名前に日本人ならピンときてしまうわけですが、
あちらは爆撃機で、こちらはフェアチャイルド社製造の輸送機です。

双銅の、P-38を思わせるような独特の機体で、ボックスカーの意味は
有蓋の貨車なので、あまり深い意味はなかったのだと思います。


■冷戦と偵察

1950年代、アメリカとソビエト連邦の冷戦が深まるにつれ、
アメリカ人のソ連に対する警戒感はますますひどくなっていきました。

海の向こうから伝わってくる共産主義国家特有のプロパガンダもさることながら、
この秘密主義の巨大国家の軍事力に対して実質的な情報が全くなかったことも、
この恐怖を増大させたと言っていいでしょう。

そこでアイゼンハワーは、鉄のカーテンの向こう側の有益な情報を提供するため、
ソ連領上空の写真を撮影する新しいシステムの開発を許可したのです。

アメリカ初の人工衛星計画

この命令によって開発されることになったシステムのひとつが
コードネーム「アクアトーン」Aquatoneでした。
当ブログでもお話ししましたが、防空システムの届かない上空に
高高度偵察機U-2を飛ばして、偵察撮影するという計画です。


犠牲者も出た

これは確かに多くの成果を得ましたが、国際法違反であった上、
当初からソ連のレーダーとミグ戦闘機に追尾されていたので、
結局1960年までソ連領内での20数回のミッションしか行えませんでした。

そこで次の新しい計画として、偵察衛星を飛ばすことを考えました。
軌道上からソ連の詳細な画像を送ることができる衛星の開発です。



1956年7月までに、秘密の高度偵察システムの開発計画が承認されました。
これは、あの失敗計画、バンガード計画が緒につく2ヶ月前だったといいます。

これは偶然でしょうか。
そんなわけありませんよね。

この計画は、秘密だったとはいえ、国家初の衛星計画だったってことです。

というわけで、U-2を製造したロッキード社が開発を受注したのですが、
予算はというとたった300万ドル(現在の金額で約2800万円)。
まあ、やる気がないというわけではないが優先順位は低かったってことですね。

その後企画開発は粛々と進められ、フィルムを露光し、軌道上で現像し、
その後スキャンして地球に送信するシステムを開発しました。🎉

信号情報パッケージ、後にミサイル発射を探知するための赤外線センサー、
スピン安定化写真システム(これってもしかしてジンバル的な?)も研究されます。
小型の帰還カプセルの中に露出したフィルムを戻すという方法も開発されました。


打ち上げはソーThor)中距離弾道ミサイル(IRBM)を使います。

IRBM「ソー」は、ダグラス・エアクラフトの製造です。
核弾頭を2,600kmの範囲に飛ばすことができる兵器システムで、
全長約18.6メートル、底面の直径2.4メートルの大きさです。

エンジンはロケットダイン社のMB-3パワープラントを搭載。
ケロシンのロケット推進剤と液体酸素(LOX)を燃焼させて推力を発生させます。

ロケットは3段式で、ソーの上に、バンガードロケットの2段目を改造して搭載。
第3段はスピン安定化型X-248ロケットモーター、エイブルで、
これも海軍がヴァンガードロケット用に開発したものでした。

この仕組みは1958年に最初のパイオニア探査機を月に打ち上げるために採用され、
後にNASAのデルタロケットの基礎となっています。

しかしながら、計画が遅々として進んでいないらしいことが明らかになりました。
というのも、あの「スプートニク・ショック」による不安と、
秘密であるはずのこのプロジェクトをどこでかぎつけたのか、マスコミがこれを
「空のスパイ」(Spy in the Sky)
などと呼び始め、プロジェクトの安全性が懸念されるようになったのです。

そこでアイゼンハワー政権は、思い切った行動を取らざるを得なくなります。

偵察衛星の開発を加速させると同時に、上空からの偵察という
微妙なテーマに関する世論の議論を避けつつ計画を軌道に乗せるために。

コロナ計画誕生

「プロジェクト・コロナ」と名付けられたこの計画で、
ロッキード社は、この小規模で集中的な取り組みの契約を継続し、
カメラの下請けにはフェアチャイルド・カメラ&インスツルメント社
帰還カプセルやSRV(衛星再突入車)の開発には
ゼネラル・エレクトリック社が選ばれました。

この後の開発についての詳細は省きますが、注意したいのは
この時に開発された推進システムなどは、のちの宇宙開発プログラムに
そのまま採用されたりすることになります。
「アジェナA」と呼ばれる推進システムもその一つでした。

フェアチャイルド社の開発したカメラは、近地点約190kmの軌道から
衛星の地上軌道に対して、垂直方向に70°の範囲を
最大12mの解像度で撮影することができるものでした。

70mm判のアセテートフィルムが露光されると、
スタック最上段のSRVに送り込まれ、地球に戻されるという仕組みです。


SRVの大きさは直径83cm、高さ69cm、質量約135kg。
お椀の外側は、再突入時の熱シールドとして、アブレーション材で覆われています。



内部には金メッキを施した「バケツ」があり、
積荷のフィルムから熱を反射させる効果があります。

大気圏に再突入すると、パラシュートが開き、最後の降下が行われます。
有人カプセルと同様、機器の安全を考えた場合、水中で回収したいのは山々ですが、
懸念される可能性もありました。

アメリカ海軍よりもソ連の潜水艦の方が先に
ペイロードを拾ってしまうことです。

そこでこれを避けるために、空輸による回収が提案されたのでした。
フェアチャイルド社のC-119「フライング・ボックスカー」貨物機に
特殊なブランコ状の装置をつけて、降下するSRVのパラシュートを引っかけ、
内部にウィンチで運ぶという方法です。


問われるパイロットの操縦技術

コロナ計画は(アメリカがコロナをCOVID-19としか呼ばないわけがわかりますね)
アメリカ政府の最高機密とされ、1960年代を通じて、
冷戦における二大国のパワーバランスを維持するのに役立つ、
最重要の情報をアメリカの政策立案者に提供し続けていました。

それにしても、どうしていまだにその名前に認知度がないのか、
ほとんどの人がこれまで一般のニュースや印刷物で見たことがないのかというと、
それは、事柄上、国家最重要機密として長年その存在は秘匿されていたからです。

計画に投入された費用は、こちらは広く広報されたアメリカの宇宙計画に
匹敵するだけの額だったと言いますが、にもかかわらず、
1995年に当時の大統領ビル・クリントン政権がその機密を解除するまで、
アメリカ国民はその事実を知りませんでした。



1960年、アイゼンハワー大統領と二人の空軍将校が、
ホワイトハウスで行われた式典で回収されたカプセルを見学しています。

一般に向けては、カプセルは科学衛星ディスカバラーシリーズの計画の一部、
という報道がなされ、その真の使命については知らせていない、
ということをおそらく大統領はこの時報告されたと思われます。

それにしても、何も知らないでこの写真を見たら、
まるで大きな金だらいかカレーを作る鍋みたいですな。


金メッキが施された再突入カプセルは、宇宙の軌道から戻ってきて回収されます。
この段階で、上部ロケットステージと熱シールドはどちらも投棄されています。

その後パラシュートを開いたディスカバラーXIIIは海に落下し、
ヘリコプターによって引き揚げられました。

これ以降のモデルは海に落ちる前に空中でキャッチされるようになっています。



スミソニアンのカプセルはゼネラルエレクトリック社製。
カプセルが用済みとなった1960年に米空軍からNASMに寄贈されました。

もしソ連がそれをおこなっていなければ、史上初めて
軌道上から回収された人工物として、このマイルストーンコーナーにあるわけです。
本コーナーでのキャッチフレーズは、

"ディスカバラー衛星計画は、今日まで続く
宇宙からのスパイ時代の幕開けとなった"


初期の偵察衛星に搭載された写真システムは、いちいち地球に戻し、
実験室で電子的に現像しなけれなならないフィルムを使用していました。
現代の衛星では画像を送信することができるので、
衛星はその分長く軌道に留まって多くの画像を取得できます。



この写真は、ソ連のチュラタム発射基地をアメリカの偵察衛星が撮影したものです。
これはディスカバラーXIIIの成功以降に開発された衛星でした。

赤い線が付けられている部分には2本の避雷針と、
ロケットは発射台の上に白い形で確認することができます。
それに挟まれた巨大なN-1が写っています。

早朝なので長い影が地面に写っており、その存在がよくわかります。



■初めて宇宙に打ち上げられた星条旗

実は、ディスカバラーXIIIカプセルの中にはアメリカ国旗が搭載されており、
この軌道上から回収された人類初の物体に密かに格納されていた米国旗は、
1960年8月15日にホワイトハウスで行われた式典で公開されています。



「大統領、このカプセルの中には、多くの遠隔測定装置や科学機器、
そしてもう一つパッケージがあります」

右から2番目のアメリカ空軍参謀長、トーマス・ホワイト元帥は、
アイゼンハワー大統領に今こう言っているところです。

「アメリカ国旗です」

ディスカバーXIII再突入カプセルに入るように慎重に折られた
幅90、高さ61センチのアメリカ国旗は、
こうして軌道上から戻った最初の宇宙記念品となりました。


アイゼンハワーは、広げた旗を手に取りながら、礼と共に

「この旗がすべてのアメリカ人の目に触れて、この偉大な業績を
思い起こすことができるような場所に置かれるよう努力するつもりです」

と約束しましたが、残念ながら事柄上公にしにくい任務だったこともあってか、
1961年のアラン・シェパードの弾道飛行の時の星条旗が「宇宙初」となり、
すっかり忘れられていました。

この旗は確かに、史上初めて軌道上から回収されたものですが、
「初めて飛行したもの」ではありません。

その理由を説明します。

先ほども申し上げたように、ディスカバラー計画は、CIAと米空軍による
一連のコロナ偵察衛星(軍機密任務)の公的な隠れ蓑でした。

そもそも再突入カプセル「ディスカバラーXIII」は、次の打ち上げから始まる
宇宙からのフィルムリール返還のために開発されたものだったのです。


ロッキード社の先行開発部門「スカンクワークス」で働く人々にとっては、
いくつかのカプセルのうちどのフライトが最初に成功するか知る由もありません。

つまり、ディスカバーXIII以前、太平洋から回収されるまでに打ち上げられ、
失われたいくつかのカプセルにも、実は国旗が仕込まれていたのでした。

これは単なる偶然なのですが、、ディスカバラーXIIIのミッションは、
ハワイがアメリカ合衆国50番目の州になったことを記念して
50星の米国旗が初めて公式に掲げられた直後に行われました。

そして、ディスカバラーXIIIが初めて地球を周回して無事に戻ってきたので、
その内部に収められた米国旗が「最初に軌道から帰還した国旗」となったのです。

あくまでも偶然だったのですが。

五十個の星がついたばかりの国旗がこのような快挙となったことを
アメリカ上層部はラッキーな偶然と考えました。
ホワイト元帥はアイゼンハワーに向かって、

「この旗が49番目の州(メリーランド)上空宇宙空間の軌道から放出され、
50番目の州であるハワイの近辺で回収されたことは、重要なことです」

と胸を張りました。

この後、アメリカの宇宙ミッションでは、カプセルに記念品を入れて
飛行させるという公式・非公式な伝統が生まれました。

その後のディスカバラー(コロナ)の飛行では、いつの間にか
打ち上げチームのメンバーが無許可でコインやらニッケルやらを勝手に乗せ、
それが後から発見されるという由々しき事態が相次いだため、
ワシントンは現場に、記念品打ち上げの習慣を止めさせる責任を課す
厳しい言葉のメッセージを送った、と記録には記されているのだとか。


スミソニアン博物館には、マーキュリー7の一人であるアラン・シェパードが、
自分でも知らないうちに、マーキュリーカプセルに混入していた?
(というかすっかり忘れていたらしい)アメリカ国旗が所蔵されています。

シェパードは何の気なしに星条旗を丸めて船内の配線の束に貼り付けていて、
それは着水した後のカプセルから発見されました。

「1961年5月5日、米国初の有人宇宙飛行としてNASAの宇宙飛行士
アラン・B・シェパードが15分間の軌道下飛行に同行したこの旗は、
米国で初めて宇宙に飛び立った旗らしい


と、スミソニアンは記述しています。
これは間違いで、つまり初めて宇宙に飛び立った旗というのが、
ディスカバラーXIIIの国旗であることは皆さんもうお分かりですね。

でっていう話ですが。


続く。


世界初!民間有人宇宙飛行 スペースシップ・ワン〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

何度も書いていますが、スミソニアン航空宇宙博物館に足を踏み入れると、
歴史的なマイルストーンとなる航空機が最初に現れます。


リンドバーグが大陸間横断の偉業を打ち立てた、
「スピリット・オブ・セントルイス」号とわずかな空間を隔てたところに
スペースシップ・ワンはあります。

この民間の有人航空機は、宇宙に飛び立ち、到達し、
そして無事に帰還して商用宇宙飛行の未来の嚆矢となりました。


したから見ただけでは全く全体像の掴めないこの機体には、
いかにもお役所仕様ではない遊び心が溢れすぎてダダ漏れのデザイン。

アナログなおっさん二人がグーグルのインターンシップに紛れ込み、
最後に入社の栄光を勝ち取るという映画「インターンシップ」で、
グーグル本社の映像にこれが映っていたのにはちょっと驚きましたが。


わたしがスミソニアン博物館を訪れたのは2018年でしたが、
その前に撮られた写真に撮られた写真では、こんな展示となっています。

定期的に展示の態勢を変えていろんなポーズを見せる心配りかもしれません。


で結局どんな形なのかというとこれなんです。
いやこれは新しいわ。

従来の航空機のどれにも似ていない斬新なシェイプをしております。

■ 初めての民間宇宙船

2004年、スペースシップ・ワンは、3人を乗せて軌道下で宇宙飛行を行い、
最初の民間開発宇宙船アンサリXプライズで1000万ドルを得ました。

アンサリXプライズというのは、Xプライズ財団によって運営され、
そのものズバリの有人弾道宇宙飛行を競うコンテストのことです。

スペースシップ・ワンはその受賞対象である、

     1、宇宙空間(高度100 km以上)に到達する
2、乗員3名(操縦者1名と乗員2名分のバラスト)相当を打ち上げる
3、2週間以内に同一機体を再使用し、宇宙空間に再度到達する

という三つの受賞条件を満たしたというわけで、
言わば鳥人間コンテストの大規模なものみたいな感じだと思います。

ところで、この三つの条件の3番目の意味がよくわからんのですが、
1回成功してもまぐれかもしれないから、ってことなんでしょうか。

スペースシップ・ワンは、2週間以内に見事おなじ弾道飛行に成功し、
受賞対象になって賞金を獲得したということになります。

ところで、このスペースシップ・ワンの出資者、誰だと思います?


ポール・アレン

言わずと知れたマイクロソフトの共同創業者ですね。
2018年10月といいますから、わたしがスミソニアンで
スペースシップワンを見た2ヶ月後にリンパ腫で亡くなっておられます。

マイクロソフトを退社してからは慈善事業に参入し、
このスペースシップ・ワンへの出資もその一環だったそうです。

余談ですが、彼は第二次世界大戦時の兵器に造詣が深く、マスタングや
シャーマン戦車、なんなら一式戦闘機「隼」までコレクションしていました。

深海調査船で「武蔵」「インディアナポリス」などの
軍艦の沈没地点を明らかにしていたのも記憶に新しいところです。

アンサリXプライズについても話しておきます。



アメリカの起業家、ピーター・ディアマンディス(Peter Diamandhis)は、
1995年Xプライズ財団を設立しました。

スミソニアンでスペースシップワンの隣に展示されていた
「スピリット・オブ・セントルイス」で大西洋横断を行ったリンドバーグが
1927年に受賞したオルティーグ・プライズの、

「ニューヨーク市からパリまで、またはその逆のコースを
無着陸で飛んだ最初の連合国側の飛行士に対して与えられる」

という条件を満たすためにその壮挙を成功させた例に倣い、
この目的ありきの賞が、リンドバーグの時航空業界に拍車をかけたように、
アンサリXプライズによって宇宙開発に刺激を与えることが目的でした。

賞のアンサリという名前は、イラン系アメリカ人であるビジネスパートナー、
アヌーシャ(Anousheh)とアミール(Amir)・アンサリから取られています。


左から:ハミッド・アンサリ、パイロットのブライアン・ビニー
プライズ出資者アヌーシャ・アンサリ、設立者ピーター・ディアマンディス
そして出資者のアミール・アンサリ

アンサリ何人いるんだよっていう。

出資者のアンサリーズは賞金の1000万ドルを出資しています。

このアヌーシャは2006年に、スペースアドベンチャーズ社が仲介して、
ロシアのソユーズ宇宙船でのプライベートトリップに加わり、
国際宇宙ステーションに宇宙飛行士として飛びました。



彼女は宇宙旅行者としては女性初めて、そして
イラン系初のイスラム教徒の女性として宇宙へ行った人物となりました。

ちなみに彼女は10代でイランから米国に移住したイラン系アメリカ人で、
先ほどの写真のうち夫はハミド、アミールは義弟だそうです。

事業で成功した彼らは、宇宙事業に出資して
念願のアンサリX賞を設立したというわけです。

宇宙に対して早くから関心を持っていた彼女は、ロシアで訓練を開始し、
当初は、日本の実業家、榎本大輔氏のバックアップとして参加しましたが、
榎本が健康上の理由で宇宙飛行を断念したため、
彼の代わりにソユーズTMA-9のフライトクルーとなり、
打ち上げ後、国際宇宙ステーションで8日間を過ごしました。


左から:
バージン・ギャラクティックのオーナー、サー・リチャード・ブランソン
スペースシップ・ワンの設計デザイナー、バート・ルータン
スポンサー、ポール・アレン

まさに今飛び立つスペースシップ・ワンを見ています。
全員が指差し確認している状態って、なんなんだ。
やっぱりついついこのポーズをやっちゃうのでしょうかね。

バージン・ギャラクティックというのはご想像の通り、
バージン・アトランティックのバージングループの傘下にあり、
会長のリチャード・ブランソンが設立した宇宙旅行ビジネスを行う会社です。
(ちなみに今現在従業員は30名)


スケールド・コンポジッツ社より技術提供を受け、
宇宙船「スペースシップツー」を開発した会社で、
米国ニューメキシコ州とスウェーデンに「スペースポート」を持っています。

昨年12月、日本の実業家、前澤友作氏が100億だかなんだか払って
ソユーズで宇宙に行きましたが(一応話題になってましたかね)
今後もヴァージン・ギャラクティック社は、
年500人の観光客を一人当たり25万ドル(2885万円くらい)の料金で
宇宙へ送る計画を立てています。

ただし前澤氏のような宇宙ステーションまでというプランではなく、
弾道飛行で、大気圏と宇宙のおおよその境界とされる
地上100kmを若干超える高さに到達するだけということになります。

それでも完全な無重力になる時間はおよそ6分間あるそうなので、
それくらいなら一度くらい経験してみたいと思う人もいるかもしれません。

同社はその後、「スペースシップツー」を開発し、
(その間事故などにも見舞われたようですが)2021年7月11日、
創業者のリチャード・ブランソンら6人が搭乗して
高度80kmに到達し、3分間の無重力体験を行ったのち、
1時間後に無事帰還することに成功しました。

■” あなたもスペースシップ・ワンで宇宙へ”

The story behind Virgin Galactic - SpaceShipOne to ... 

動画の最初で大きな飛行機が宇宙船を運んでいるのがわかりますが、
これが「ホワイトナイト」(White Knight)と名付けられた母船です。

宇宙船がホワイトナイトからリリースされると、
スペースシップ・ワンのロケットエンジンが点火されます。

その接合された翼は「feathered 」ポジションに回転し、
大気圏への飛行を安定させるのです。

人々は、宇宙旅行のチケットを購入するような日がやって来ることを
長い間夢見てきました。

1964年、パンアメリカンワールド・エアウェイズは、2000年から
軌道宇宙ステーションへの定期便飛行を開始するとして、

「ファーストムーンフライト」クラブ

の受付を開始しており、1964年以降、9万3000人が、
その順番待ちリストに名前を連ねました。

その会員証・会員ナンバー1043、ジェームズ・モンゴメリー様

これは1968年から1971年にかけて行われたパンナムの
まあ言えばマーケティング・キャンペーンに過ぎません。

ふざけていると考える人もいましたが、パンナムは大真面目だったようです。

この企画は、1964年、オーストリアの一人のジャーナリストが、
ウィーンの旅行代理店に月への飛行を依頼したのが始まりでした。

旅行代理店がパンナム航空とアエロフロート航空に依頼を出したところ、
パンナムは企画を立て、最初のフライトは2000年だと回答したのです。

このとき、SF映画「2001年宇宙の旅」が公開されたこと、
1968年にアポロ8号が成功したことで一層関心が高まりました。

パンナムがウェイトリストを保存していることがメディアに漏れると、
会社には問い合わせが殺到しました。
さらにはアポロ11号による人類初の月面着陸が成功し、
この夢のようなプランにお金を出す人は増加していきます。

このカードに記載されている名前のジェームズ・モンゴメリーとは
当時のパンナムの販売担当副社長でした。

カードの裏面には「スペースクリッパー」が描かれ、
順番待ちリストを示すシリアルナンバーが印刷されていました。


最終的には90カ国から93000人が申し込みをし、そのリストには
ロナルド・レーガン、バリー・ゴールドウォーター、
ウォルター・クロンカイト、ジョージ・シャピロ
など、
(中にはシャレで申し込んだ人もいたかも)多くの公人が含まれました。

パンナムはもし計画が実行されたら何年後でもリストの順番は維持される、
と最後まで言っていたようですが、その後財政危機に陥ってしまい、
2000年までに破産して影も形も無くなってしまったのは皆様の知るとおり。

そして、リストに名前を連ねた人々のほとんどは、自動的に、そして確実に、
月ではない別のところに行ってしまったということになります。



ところで、その2001年宇宙の旅のプロモーションアートを手掛けた
「スペースアーティスト」のロバート・マッコールが描いた絵が、
ここボーイング・マイルストーンオブ・フライトホールに展示されています。

人々が宇宙旅行をすることのできる未来は案外近いのかもしれません。


ところで、さっきちらっと話が出た「日本人実業家榎本氏」ですが、
皆様この人のことご存知でした?

失礼ながらわたしは全く名前にも聞き覚えがなかったのですが。


氏は、前述の宇宙飛行士不適格事件で、料金の返還を求めて、
仲介を行ったSpace Adventures社を訴えた末和解しています、

医学上の問題で不適格と見做された場合は、代金の払い戻しは行なわれない、
という契約条項を氏は知った上で契約した、というのがSA社の主張ですが、
ご本人によると、それは法を盾に取った「言い訳」だそうです。

つまり、このとき、Space Adventures社は
氏の代わりに搭乗した富裕な実業家女性アヌーシャ・アンサリ氏から
「別の投資」を受け取るために氏を追いやったのだと。

「医学的な問題」というのがどの程度交代に足る理由だったか、
ということが争点になったんだと思いますが、
どちらにしてもなんだかドロドロした話になっていたんですね。


ところで、前述の前澤氏が宇宙に行くことが決まった時、
わたしはメディア発表をアメリカにいるときに見ましたが、
現地報道の様子は「ふーん、で?」というような冷たいものでした。
前澤氏のプロフィールもその事業についてもほとんど触れられず、
肩書きも「日本のミリオネア」だけだった記憶があります。

前澤氏がアメリカ人だったら反応は違っていたのでしょうか。

一部の億万長者だけが宇宙旅行を経験できる現代ですが、
すでに利権やお金の絡んだ美しくない話も裏では起こりつつあるのでしょう。

これも人の世の常といったところです。

因みにリチャード・ブランソン氏は2005年にこんなことを言っています。

「手頃な価格のプライベート宇宙旅行は、
類の歴史に新しい時代を開きます。
軌道に乗る、月にいく。
このビジネスには限界というものはないのです」

一般市民がその恩恵に与ることができるようになるのは何年後でしょうか。


続く。

バイキング・ランダー(着陸船)とカール・セーガン〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館のマイルストーン航空機展示場には、
アメリカが打ち上げた二つの歴史的なカプセルと並んで、
火星探査機バイキング Viking Lander
が展示されています。

バイキング計画(Viking Program)
は、NASA、アメリカ航空宇宙局が1976年に行った火星探査計画です。

それは一対の宇宙探査機、バイキング1号とバイキング2号で構成されおり、
結論として火星の着陸に成功しました。

この二部構成からなる宇宙船は、火星の秘密を解き明かす端緒となり、
その成果は、惑星探査に対する国民の熱意を刺激することにつながりました。

それにしても、凄いものです。

スミソニアン博物館に足を踏み入れると、ゲートを入った瞬間、
あなたはアメリカ初のジェット機、最初の音速機X S-1、
月着陸ロケット、ジェミニ計画のフレンドシップ7、
そして火星探査着陸機を同じ空間の中に一望できるのですから。

これらはどれ一つとっても、特別展を開いて展示する価値のある
歴史的な航空機ですが、アメリカ合衆国というところは、
それら全部を一つの博物館どころか、その一つの部屋に集めて
さっくりとひとまとめにして見せているのです。

20世紀は文字通り「アメリカの世紀」だったと言っても、
少なくともこの空間に立ってこれらを眺めたことのある人なら、
賛同していただけるのではないかと思います。

■ スミソニアンのバイキング・ランダー

宇宙船バイキングは、母船であるオービターと、着陸船ランダーの
2つの主要部分から成っています。

オービターは軌道から火星の表面を撮影するため設計され、
着陸したランダーのために通信中継ポイントとして機能しました。
ランダーは表面から火星の調査をするために設計されたものです。

ランダーは、火星表面と大気の生物学、化学組成(有機物と無機物)、
気象学、地震学、磁気特性、外観、物理特性を研究するという
ミッションの主要科学目的を達成するための機器を搭載していました。

360度円筒形のスキャンカメラ2台が搭載され、
中央部からは、先端にコレクターヘッド、温度センサー、
マグネットを搭載したサンプラーアームが伸びています。

脚の上部からは、温度、風向、風速のセンサーを搭載した気象観測ブームが伸び、
地震計、磁石、カメラのテストターゲット、拡大鏡も搭載。

内部区画には、生物学実験とガスクロマトグラフ質量分析計、
また、蛍光X線分析装置もこの中に設置されています。

着陸機本体の下には、圧力センサーが取り付けられています。
科学実験装置の総質量は、約91kgでした。



説明板にあった略図

実物を見ても目に止まるのが長いブームです。

これは掘削ブームであり、調査のために火星の土を集めることができました。
ブームで集められた土は、宇宙船の上にある3つのキャニスターに収められました。


「あなたはそれらを見つけることができますか?
ヒント:一つには上にじょうごがついています」

と説明板に書いてあったので、わたしも探してみました。
ここには二つのキャニスターが写っています。

それにしても、地面の土をすくって缶に入れている探査機、
なかなか遊んでいるようで可愛らしいものです。

そういえば、火星の石をひっくり返してばかりいる探査機が、

「あいつもしかしたら、石の裏のダンゴ虫でも探してるんじゃないか」

とNASAの人が疑う、という漫画があったのを思い出します。
(いしいひさいちだったかな)

ここに展示されているのは、1976年に火星の表面に到達した最初の
アメリカの宇宙船となった二つの宇宙船と全く同じ機能を持つものです。



ミッションの計画中、そして着陸船が火星で活動している間、
科学者とエンジニアはこの複製を使用し、着陸船がさまざまなコマンドに対し
どのように反応するかをモデル化していました。

宇宙船が火星にランディングし、データを取集する機能がもたらしたものは、
それまで科学者たちが火星について知っていたことにとって
革命とも言える新しい事実でした。

火星が何でできているのか。

火星がどのように形成されてきたのか。

そして太陽系の進化について。



■バイキング計画

松任谷由美が「ボイジャー〜日付のない墓標」という歌を歌っていたのは、
ボイジャー計画が実行されてしばらくたった頃だったでしょうか。

小松左京のSF「さよならジュピター」と言う映画の挿入歌だったそうですが、
あの「妖星ゴラス」のように、ブラックホールを避けるために
木星を爆発させて軌道変更させるというこの話も、
「ボイジャー」と言う題そのものも、元はと言えば
このボイジャー計画にインスパイアされたのに違いありません。

さて、そのボイジャー計画ですが、1970年後半、
NASAが宇宙空間での探査のために打ち上げた「深宇宙探査機計画」です。

ボイジャー計画では、無人惑星探査機ボイジャー1号と2号を打ち上げられ、
撮影された画像は多くの新しい科学的発見をもたらしました。

それらは電池がきれるとされる2025年ごろ(あ、もうじきだ)まで
宇宙空間で漂いながら稼働する予定です。

ボイジャー1号と2号(イメージ図)

しかし、このバイキング計画は、NASA創設の初期から、
「より野心的なボイジャー火星計画」として発展したものです。
つまり、宇宙を漂いながら撮影を続けるボイジャーと違い、実際に
火星という目標を決めてそこに降り立ち、探査を行うというのです。

バイキング1号は1975年8月20日に、2号機は1975年9月9日に打ち上げられ、
いずれもケンタウルス上段のタイタンIIIEロケットに搭載されました。

バイキング1号は1976年6月19日に火星周回軌道に入り、
バイキング2号は8月7日に火星周回軌道に入ります。

これは、わかりやすくいうと、降りるべき場所を探していたんですね。

火星を1ヶ月以上周回し、着陸地点の選定に必要な画像を返した後、
軌道船と着陸船は分離し、着陸船は火星大気圏に突入し、
さらに選定された場所に軟着陸することに成功しました。

まずバイキング1号が1976年7月20日に火星表面に着陸。
その頃火星軌道上に到着したバイキング2号は、9月3日軟着陸に成功します。

そして着陸機が火星表面に観測機器を設置する間、
軌道上から軌道周回衛星が撮影やその他の科学的作業を行なっていました。


■生命体の探索〜火星人はいたか

昔、火星人といえば、誰がか考えたか、タコのような生物とされていて、
漫画でもそのような認識が随分と浸透していたような気がします。
なぜタコだったのか今となっては謎ですが、このバイキング計画では、
三つの目標のうちの一つが、火星に生命体が存在した証拠を探すことでした。

ちなみにあと二つは、

「火星表面の高解像度画像を獲得する」

「待機と地表の構造並びに素性を明らかにする」

ことです。

火星にタコのような火星人はいるのか。いたのか。
このことを、化学物質を採取し、
それを分析することによって探ろうとしたのです。


各々のバイキングランダーは、地表から土をすくい取り、
分析のためにそれを小型のロボット化学実験室に回しました。


バイキングは、火星の土から生命の構成要素の多くを検出しましたが、
しかしながら、火星に生命が存在したと言う証拠は見つかりませんでした。

それこそ、石の裏のダンゴムシでもいいから、何かその痕跡があれば、
人類はそこにいたかもしれないタコ(かどうか知りませんが)星人について
あれこれと思いを巡らすこともできたのですが。

とはいえ、ご安心ください。
科学の進歩は、少し前にわからなかったことも明らかにしているのです。

確かに、ミッション期間中、NASAは

「バイキングランダーの結果は、2つの着陸地点の土壌に
決定的なバイオシグネチャーを示すものではなかった」

と発表して世界をガッカリさせましたが、
試験結果とその限界についてはまだ評価が終わっていない状態なのです。

後年送られたフェニックス着陸船が採取した土からは、
過塩素酸塩が発見されました。

過塩素酸塩は加熱されると有機物を破壊する性質があるので、
バイキング1号2号の両方で分析した土壌に含まれた有機化合物を
過塩素酸塩が壊した可能性も捨てきれない
と言うのが現段階の見解です。

つまり、火星に微生物が生息しているかどうかは、
まだ未解決の問題ということなのです。

さらに2012年4月12日、科学者の国際チームが、
1976年のバイキング・ミッションの解析による数学的推測に基づき、
「火星に現存する微生物生命」
の検出を示唆する可能性のある研究を報告しました。

さらに2018年にはガスクロマトグラフ質量分析器(GCMS)を使い、
結果の再検討をおこなってそこで新しい知見が発表されています。




バイキングが送ってきた劇的なカラー写真の多くは、
火星の空の色をはっきりと捉えていました。

火星の空、それは予想していたような青ではなく、
サーモンピンクだったことは人々を驚かせました。

着陸船はまた、土壌を分析し、風を測定し、大気をサンプリングしました。


そして火星の「地理」です。

この明瞭な写真は、バイキング1号と2号の撮影したものを合成してあります。

真ん中を横切る亀裂のような線は、
バリス・マリネリス(Vallis Marineris)峡谷
左側に二つ見えている点はタルシス火山(Tharsis)
そして白く雪か氷を頂くのは北極と名付けられました。

大量の水から形成される典型的な地形を数多く発見したことで、
オービターからの画像は、火星の水に関する考えに革命をもたらしました。

巨大な河川、渓谷の存在そして洪水の跡。
水は深い谷を作り、岩盤を侵食し、何千キロも移動していました。

かつては雨が降っていたと言う証拠です。

また、ハワイの火山のようにクレーターがあり、
また、泥の中の氷が溶けて地表に流れ込んだと考えられました。
地下水の存在も明らかになったのです。



■カール・セーガン


火星探査機バイキングってこんなに小さかったの?

と驚く人もいるかもしれません。
これはモックアップですが実物大で、ランダーは
1.09mと0.56mの長辺を交互に持つ6面のアルミニウム製ベースからなり、
短辺に取り付けられた3本の伸ばした脚で支えられていました。

脚部のフットパッドは、上から見ると2.21mの正三角形の頂点を形成します。




横に立っている人物はカール・セーガン。
場所はカリフォルニアのデスバレーです。

コーネル大学の天文学者であった
カール・セーガン(Carl Sagan)
は、着陸地点の選択とバイキング計画全体を支援した人物です。

彼は、1970年から1990年代にかけて、宇宙探査の興奮を
同世代のアメリカ人(とここには書いています)に明確に伝えました。

彼は、自身のPBSテレビシリーズ「コスモス」(1980)、
ジョニー・カーソンとの「トゥナイト・ショー」などの番組に出演し、
雑誌、本などでの魅力的な執筆を通じて、
科学者と一般市民との間に知識の架け橋を作り、
その魅力を広く世に伝えました。


壇ノ浦の合戦、安徳天皇の入水、平家ガニという掴みから
DNAについて語るカール・セーガン。

■スミソニアン航空宇宙博物館のオープン


バイキング1が着陸に成功したのは、おりしもアメリカ建国200年の節目で、
その祝賀の雰囲気の中でした。(それに間に合わせたんでしょうけど)

1976年7月1日のその時、建国200周年の祝祭イベントの一つとして、
ここスミソニアン航空宇宙博物館がオープンしたのです。

リボンカットを行ったあと手を叩いているのは
現職の大統領だったジェラルド・フォードで、リボンカットは
バイキングのオービターが送ってきたシグナルと同時に行われたのだとか。

ここスミソニアン航空宇宙博物館が、いかにアメリカの科学、文化、
そして国力の象徴であったかを物語る写真です。



バイキング計画プロジェクト費用は打ち上げ時におよそ10億ドルで、
2019年のドル換算で約50億ドル(約5,761億323万7,700円)相当します。

このミッションは成功とみなされ、1990年代後半から2000年代にかけて、
火星に関する知識の大部分を形成するのに貢献したと評価されました。


続く。


”スペースウォーカー”ジェミニVI〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館に一歩足を踏み入れた途端、
その歴史的価値においてはどれも一級の航空機が並んでいて、
大国アメリカのこの世紀における底力に誰もが圧倒されますが、
特に、ソ連とその科学力を持って世界一を争った
航空宇宙開発の足跡であるところの宇宙船などは壮観の一語につきます。

今日はそんな宇宙開発展示の一つについてお話しします。

◆ジェミニ計画

ジェミニ計画(Project Gemini)は、アメリカ合衆国航空宇宙局、
NASAの、二度目の有人宇宙飛行計画です。

1958年から始まったマーキュリー計画と、有人宇宙飛行が目的だった
アポロ計画の間に当たる、1961年から1966年にかけて行われました。

ジェミニ計画の目標は「スペースウォーク」。
ジェミニ4号は、宇宙で活動することに向けた大きな一歩である、
宇宙船外における人類の活動を初めて可能にしました。


宇宙飛行士、エドワード・H・ホワイトは、ジェミニ4号の活動中、
このスミソニアンにあるカプセルの右側にあるハッチをあけて
宇宙空間に21分浮いたとき、初めて宇宙を歩いたアメリカ人となりました。


このとき、窓から出ていった予備の耐熱グローブは回収することができず、
しばらくスペースデブリとなって宇宙を漂っていたとか(回収済み)

ホワイト飛行士

残念なことに、アメリカ人で初めて宇宙を歩いたホワイトは、
この成功からわずか1年半後、アポロ1号訓練中の火災によって
ガス・グリソム、ロジャー・チャフィと共に殉職してしまいました。

アポロ1号の火災事故については、映画「アポロ13号」でも取り上げられ、
「ライト・スタッフ」では、ラストシーンで映るガス・グリソムの映像に
彼が事故で亡くなるという字幕が重ねられています。

話を元に戻します。

ジェミニ計画で最初のジェミニ1号が打ち上げられたのは1964年、
2号は翌年の1965年で、いずれも実験的な無人飛行でした。

ジェミニ初めての有人飛行となったのは3号で、このときは軌道を3周し、
その次の4号が初めて船外活動に成功したというわけです。

この時ジェミニ4号の機長ジェームズ・A・マクディビットとホワイトは
4日間にわたる宇宙飛行を記録し、アメリカ国内の滞在期間を更新しました。

以降ジェミニ宇宙船は1965年から1966年までの間に
2名ずつ10名の宇宙飛行士を宇宙に送り出しました。

その中にはアポロ11号乗員ニール・ームストロング、バズ・オルドリン
アポロ13号船長だったジム・ラヴェル
「マーキュリー・セブン」だったウォルター・シラー
そしてガス・グリソムの名前がありました。

宇宙開発競争の主要部分とも言えるジェミニ計画は、
いわば「基礎」となったマーキュリー計画によるカプセル打ち上げと、
より洗練されたアポロ計画との重要な架け橋だったと位置付けられています。

ジェミニ計画の飛行士は、順次打ち上げられた12号までのカプセルにおいて、
軌道を変更する方法、ランデブーして他の宇宙船とドッキングする方法、
そして宇宙を歩く方法などを学ぶことができました。

ジェミニは実用的な宇宙飛行の先駆けとなったのです。

そして対外的なことを言えば、この計画により、アメリカは
東西冷戦時代にソビエト連邦との間でくり広げられた宇宙開発競争において
決定的に優位に立つこととなったとされています。


◆人類初の宇宙遊泳者 アレクセイ・レオーノフ


先ほど、ホワイトについて「アメリカ人最初の宇宙遊泳者となった」と書きました。
それは、彼が「世界初」ではなかったからです。

世界で初めて宇宙を歩いた男。

それは、アメリカと開発競争を争っていたソビエト連邦の宇宙飛行士、

アレクセイ・レオーノフ
(Alexey Arkhipovich Leonov, 1934- 2019)

でした。

レオーノフは、世界で初めて宇宙に飛んだ男ユーリイ・ガガーリン、
ソユーズ1号で事故死したウラジーミル・コマロフらとともに
選抜されたソ連最初の宇宙飛行士の一人です。

レオーノフが世界で最初に宇宙遊泳を行ったのは1965年3月18日。
ボスホート(Voskhod)2号で打ち上げられ、約10分間、遊泳を行いました。

ジェミニ4号でのホワイトの宇宙遊泳は22分間で、これは、
彼がなかなか帰ってこなかったせいと言われていますが、
アメリカは先を越されてしまった分、せめてソ連より
1分でも長く滞在しようとしたという可能性もあるかもしれません。

当時の米ソの宇宙開発競争が、国家の威信と覇権をかけた、
それはそれは熾烈なものだったことを考えると、
これはあながち間違っていないのではとわたしは思います。


アレクセイ・レオーノフについてもう少し書いておきます。

この人はソユーズ11号に乗り込む予定でした。
しかし予定の三人のメンバーのうち一人に結核の陽性反応が出たため、
(これは後から誤診だったとわかる)
全員交代を命令されて彼も任務を降りざるを得なくなりました。

ところが、代わりにソユーズ11号に乗ったのが予備メンバー。
経験と訓練不足もあって、帰還時空気漏れ事故を回避することができず、
カプセルの中で全員が窒息死するという惨事に見舞われました。

殉職した飛行士たちの国葬

乗員交代の命令が降ったとき、レオーノフはこの措置に反発し、
結核の疑いのある者だけを交代させ、自分ともう一人を残すように、と
かなり強く要請したのですが、叶いませんでした。

しかしこのとき彼が予定通り乗り組んでいたら、
おそらく事故は回避されていたと考えられており、その理由は二つあります。

まず、酸素漏れの原因となった自動制御のノズルを、
レオーノフは手動に変えておくべきだと忠告しようとしていました。

つまりこの時点で空気漏れの事故は防げたはずというのが一つ。

それからカプセルの酸素が抜けていく音に気づいた乗員は、
ノズルがどこにあるのかわからず、探すために音声を切っています。

空気漏れの音が座席の下からしていることに気づいた時には手遅れでしたが、
レオーノフであれば、万が一そうなってもすぐに対処できたはずでした。

こうなると、諸悪の根源は、ラボの健康診断での誤診ということになります。
ここさえ間違わなければ、そもそもメンバーが交代もなかったのですから。


さて、このアレクセイ・レオーノフさんですが、
この写真を見てもなんとなくうかがえるように、大変気さくな人柄でした。

絵を描くのが大好きで、ご本人が持っている絵は自分で描いたもの。
宇宙開発の任務に携わっていた時期から、
趣味として宇宙などを題材とした絵画を描いていたそうです。

また数度の来日経験があり、気さくな人柄でテレビ出演や
トークショーなどを何度も行い、日本ではサインも日本語で書いていたとか。

2019年10月に85歳で亡くなりましたが、原因はコロナではありません。


◆コールサインは”ヒューストン”



ジェミニ4号に話を戻します。

これはジェミニ4号内部のホワイト飛行士(右)と
船長マクディヴィット飛行士で、リフトオフを待っているところです。

スミソニアンにはこれが反転した写真が展示されています。
ホワイトの肩の🇺🇸を見れば、こちらが間違っていたことがわかりますね。


さて、この両国の快挙で初めて人類が宇宙船の外に出ました。

それは宇宙飛行士が月面を歩くこと、そして宇宙ステーションの建設、
人工衛星の修理、化学機器の整備など、あらゆる可能性につながりました。

この宇宙遊泳は、人類が宇宙に踏み出すための偉大な一歩だったのです。

うわーみんな頭良さそう。あたりまえか。

ヒューストンコントロールセンターに最初に指名された
NASAの航空ディレクターたち。
彼らはジェミニIVのミッションディレクターとして働きました。

左上から時計回りに:

グリン・ラニー(Glyinn Stephen Lunney)
ジョン・ホッジ(John Dennis Hodge)
クリス・クラフト(Christopher Columbus Kraft Jr.)
ユージーン・クランツ(Eugene Francis "Gene" Kranz )

全ての宇宙飛行の実行のためには、多くを地上支援に頼ります。
ジェミニ4号以降、地上管制システムは、それまでの
フロリダ州ケープカナベラルからテキサス州ヒューストンの
ミッションコントロールセンターに移転しました。

コールサイン「ヒューストン」で知られるこのセンターは、
何十年にもわたる宇宙飛行のミッションを通じて、
冷静で科学的な管理と問題解決の象徴となりました。

ちょっとこの写真の面々を紹介しておきます。

【グリン・ラニー】

ジェミニ計画・アポロ計画のフライトディレクターです。

アポロ11号の月面上昇やアポロ13号の危機などの歴史的な出来事に立ち会い、
アメリカの有人宇宙飛行計画における中心人物と言われています。

「アポロ13」ではジーン・クランツ(エド・ハリス)が目立ちましたが、

「世界は、宇宙飛行士を破滅させる可能性のある大惨事を回避しながら、
宇宙飛行士を安全に月のモジュールに移動させる即興の傑作を組織したのが
グリン・ラニーだったことを記憶するべきである」

と述べる作家もいます。

【ジョン・ホッジ】

イギリスの航空宇宙技術者だったホッジは、カナダに渡って
戦闘機の研究をしていましたが、それが中止されるとNASAに入り、
フライトディレクターとして活躍しました。

【クリス・クラフト】

クリストファー・コロンブスというファースト&ミドルネームがすごい(笑)
彼はこの名前もあって、宇宙開発時代は大変な時代の寵児だったようです。

ところで、この4人のうち、いわゆるトップ工学系大学を出ているのは
バージニア工科大学を卒業したこのクラフトだけです。
アメリカって特に科学系は学歴ではなく実力主義だなあと思います。

それと、白人系であれば、他国籍でも軍事産業参加OKなんだなあと。


1957年、いわゆる「スプートニク・ショック」の後、アメリカは
始まったばかりの宇宙開発計画を加速させますが、
「人間を軌道に乗せる」問題の研究に誘われた彼は、有人宇宙計画、
マーキュリー計画の最初の35名のエンジニアの一人となりました。

「アメリカの有人宇宙飛行計画の始まりからスペースシャトル時代まで、
その推進力であり、功績が伝説となった人物」

と言われています。

【ジーン・クランツ】

映画「アポロ13号」でエド・ハリスが演じたジーンとはこの人です。

Gene Kranz: other famous quotes

うーんかっこよすぎでないかい。

実物もよし。
例のあのベスト(奥さんお手製)が似合ってます。


奥さんはミッションのたびにベストを手作りしていたため、
何種類もあったらしく、赤や黒のバージョンもあります。

クローズカット&フラットトップのヘアスタイルと共に、
妻のマルタがフライトディレクターの任務のために作った、これらの
さまざまなスタイルと素材の「ミッション」ベストはあまりにも有名で、
彼は今でもアメリカの有人宇宙開発の歴史のレジェンドです。

「タフで有能」の権化だった彼の語録は「クランツ・ディクタム」として、
映画やドキュメンタリー映画、書籍や定期刊行物の題材になりました。

2010年の宇宙財団の調査では、クランツは
「最も人気のある宇宙ヒーロー」の第2位にランクインしています。

空軍のテストパイロット出身で、マクドネル社を経てNASA入局。
ジェミニ4号の時にはまだマクドネルに所属していました。

アポロ13号打ち上げの時にフライトディレクターだった彼は、
彼らを地球に帰すNASA一丸となったミッションの指揮を執りました。
映画では、

「Failure Is Not An Option」
(失敗は選択肢にない=許されない)

というクランツのセリフが有名になりましたが、これは彼の発言ではなく、
管制クルーの一人がインタビューでなんとなく言った言葉を
脚本家がドラマチックに取り上げてクランツに言わせたと言われています。

ただ、クランツは、のちにこの言葉を自伝のタイトルにしています。


ジェミニ4号のミッション・コントローラーと話をする
NASAのディレクター、デーク・スレイトンDake Slayton(左)。

第二次世界大戦中はB-25ミッチェルの操縦士だったスレイトンは
戦後は空軍で戦闘機のテストパイロットをしていたところ、マーキュリー計画で
7名の宇宙飛行士の一人に選ばれますが、心臓に疾患があったため、
療養している間、ディレクターとしてNASAの宇宙開発事業に携わりました。




最後にちょっといい写真を。

スレイトンと、先ほどのアレクセイ・レオーノフのツーショットです。

後のシリーズで実物の展示写真と共にお話しする予定ですが、
スレイトンは1973年2月、ドッキングモジュール・パイロットとして
アポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
に参加することになりました。

アメリカ人クルーはロシア語を学び、ソ連に渡ったのち、
ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターで
2年間の訓練プログラムを開始することになりました。

彼はスカイラブ計画中も管理職の役割を担っていましたが、
来るべきフライトに備えて1974年2月にディレクターを辞任しました。

そして、1975年7月15日、アメリカからアポロ宇宙船、
ソ連からソユーズ宇宙船が打ち上げられます。

7月17日に2機の宇宙船は軌道上でランデブーし、アメリカ人宇宙飛行士は
宇宙飛行士のアレクセイ・レオーノフ、ヴァレリ・クバソフ
クルー・トランスファー(乗員交換)を行いました。

この時スレイトンは51歳。
当時宇宙飛行を行った宇宙飛行士としては最高齢でした。


アポロ1号、そしてソユーズ11号と、宇宙飛行士が犠牲となった
宇宙開発戦争における悲惨な事故のうち二つを紹介しましたが、
それでもなお、人類にとって、当時、宇宙は
命をかけてチャレンジする価値のある未知の領域でした。

アメリカで最初に宇宙を歩き、その後アポロ1号の事故で殉職した
エド・ホワイトは、宇宙飛行からカプセルに戻る時、
ミッションコントローラーだったクリストファー・クラフトに、
このように通信しています。

”I'm coming back in…
And it’s the saddest moment of my life.”
(帰還する・・これは僕の人生で最も悲しい瞬間だ)

よっぽど宇宙が楽しかったんですね。

続く。


「月に触れてください」アポロ17号の月の石〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館のマイルストーンコーナーには、
文字通りのマイルストーンとして月の石が展示されています。

わたしが写真を撮ったとき、意識したわけではありませんが、
たまたま横にいて月の石を触ろうとしていたのは、
「NASA」の文字が書かれたTシャツを着た少年でした。



アポロ計画でアポロ11号が月面着陸させたのと同タイプである
LM-2と同じコーナーに、それはあります。


月面上で撮られた写真には、宇宙飛行士たちが持ち帰る前の、
地面(っていうか月面ですが)に転がった岩が写っています。

「あなたが触るのはこの岩の一部分です」

左に書かれているのは、

「アポロ計画の最後のミッションとなったアポロ17号のクルーは、
1972年の12月、この石のサンプルを地球に持ち帰りました」

そして、石は航空宇宙局から貸与されているものであるという説明です。


斜めに丸くくり抜かれたウィンドウは、
中央におそらく盗難防止のための分厚いアクリルガラスが嵌め込まれ、
その下の部分に手を差し入れるようになっています。

誰も見ていない隙に大掛かりな機材を使って
台座ごと根こそぎ掘っていくことができないようにかもしれません。


元々宇宙飛行士が持ち帰ったという「月の岩」はこれ。
写真に写っているのが結構大きなものであったことがわかります。

ここで展示されている岩があったのは、
「タウルス・リットロウの谷」と名付けられた場所で、
鉄分が豊富な火山岩であり、緻密で暗灰色または黒い玄武岩です。


アポロ17号の持ち帰ったサンプルは111キロあったそうですが、
それが一つの塊だったかどうかはわかりませんでした。

わかっているのは、主にアポロ15, 16, 17号によって採取されたのが
2415サンプル、総重量382キログラムであったということです。

アポロ計画において、月の石はハンマー、レーキ(熊手)、スコップ、
トング、コアチューブといった様々な道具を使って採集され、
ほとんどはここに展示してあるような採集前の状態が写真で記録されています。

石は採集時にサンプル袋にいったん入れられ、それから汚染を防ぐため、
特別環境試料容器に格納されて地球へ持ち帰られました。


月の上にあったというその岩は、一体幾つに刻まれたのか、
こんな小さなピースになり、それが埋め込まれています。


スライスされたばかりの月の岩。
ここに展示されているのは、星印の部分となります。


そしてその部分を触っている、見知らぬアメリカ人の手。



違うところに展示されている月の石らしいですが、
微妙に形が歪んでいますね。
なぜこの形にカットしたんだろう・・・。

◆月の一部にタッチしよう!

展示の横の説明にはこんな言葉があります。

月の実際の部分に手を触れること。
それはあなたを人類の宇宙への冒険に誘います。

最後のアポロ月面ミッションであるアポロ17号の乗組員は、
このサンプルを1972年12月に地球に持ち帰りました。

1969年7月から1972年12月の間に月に着陸した6回のアポロ計画は、
合計約382kgの岩と土のサンプルを地球に持ち帰りました。

これは月の歴史と構成について知るデータを地質学者に提供しました。



1960年代までは、月は文字通り「到達できない場所」でした。
しかし1969年以降、人々は月に到達することができるようになり、
それ以降人類の視野は根本的かつ大々的に変えられることになります。


プエルトリコのアレシボとバージニア州グリーンバーグには
巨大な電波望遠鏡が設置されています。

Arecibo Telescope

これらを使用して収集されたこの月のレーダー画像は、
北極(中央下)、岩の多いクレーターからの反射、
古代の溶岩流からの暗い反射がはっきり確認できます。

画像に「ブルース・キャンベル」と書かれていますが、
アメリカの俳優くらいしかヒットしませんでした。

◆月の一部を持ち帰るために

月に到達するまで、アポロ計画で乗組員に課された訓練の一つに
月のさまざまな、かつてないほど困難な場所に着陸し、
地球に持ち帰るためのサンプル標本を選択するためのものがありました。

特に最後のアポロ計画のために、NASAは、乗組員に
地質学者を加えたというくらいです。



アポロ17号のメンバー、左から月面着陸操縦士ハリソン・シュミット
船長(ミッション・コマンダー)ユージン・サーナン
司令船操縦士ロナルド・エヴァンス



この左のシュミットが学者代表で送り込まれた?地質学者です。

当初クルーにはサーナン、エバンスと別の飛行士が指名されるはずで、
シュミットは18号に搭乗する予定でしたが、
アポロ計画そのものが17号で打ち切りということが決定したため、
この決定を受け、科学者らの協会が

「17号では宇宙飛行士に訓練で地質学を学ばせるのではなく、
地質学者そのものを月面に赴かせるべきである」


とNASAに圧力をかけたと言われています。
それほど月の物質を持って帰ることが重視されていたということでしょう。

アポロ宇宙飛行士たちが持ち帰った月の石から貴重なデータを得ることは
研究者たちのアポロ計画の一つの大きな目的でした。

そしてこの科学者からの要望を考慮して、着陸船操縦士に指名されたのが、
地質学の専門学者であるシュミットだったというわけです。


地質学者ハリソン・シュミット、大きな岩を調査中。



シュミット、石採集中。

ちなみに、船長のサーナン、操縦士エヴァンスはどちらも海軍軍人でした。

サーナンはF -J-4フューリー、A-4スカイホークの艦載機パイロット、
エヴァンスは宇宙飛行士のテストの合格を受けたとき、
「タイコンデロガ」の艦載機であるクルセーダーのパイロットでした。


月周回軌道が2011年に撮影した、アポロ17号の月着陸地点の写真です。
この写真には、月面探査機の軌跡、宇宙飛行士たちの足跡が作った道、
そして月面探査機が降下した後がはっきりと写っています。

◆ ルナ・ディプロマシー(月外交)

アポロ17号のハリソン・シュミットは、月から採取した一つの岩を分割して、
親交国の政府、アメリカ50州、そして領地に配布することを選択しました。

それはまだ彼らが「月の上」にいるときに、司令官ジーン・サーナンは、
アポロが将来の世代のために挑戦の扉を開いた、と声明を発表しました。

「確かに今は、そのドアにはヒビが入っているかもしれません。
しかし、アメリカだけでなく、世界中の若者たちが共に手を取り、
学び、働くことができる、そんな将来が確実に訪れるはずです」


確かにその後、宇宙においてそれは理想に近づいたかもしれませんが、
また最近、ロシアという宇宙大国の一つが戦争を起こすことで
そこにも亀裂が入っているというのが現実です。

◆月の石の所在場所

アポロ計画によって持ち帰られた月の石はそのほとんどが
テキサス州ヒューストンの宇宙センター内にあります。

市場に出て売買されたものもあり、2002年には月試料実験室施設から
火星の岩石資料が入った保管庫が盗まれたこともあります。(回収済み)

日本では、1970年の大阪万博においてアメリカ館で実物が展示され、
連日長蛇の見学者が訪れたのが有名です。

2005年の愛知万博でも大阪万博のものとは別の月の石が展示され、
国立科学博物館には常設展示されています。


◆月の石捏造説


アポロ月着陸陰謀説を紹介したので、ついでにこちらも挙げておきます。

「アポロの回収した月の石は偽物で、アメリカの砂漠で拾ってきたもの」

アポロ着陸が陰謀なら、当然石もありえないということになるわけで、
こういうことを言う人が出てきてもさもありなんです。

実際には地質学者の研究により、月の石は年代的にも成分も、
地球の石とは全く異なる特徴を示していることや、
地球には存在しない組成を持っていることが発表されています。

そもそもこの捏造論者は、アメリカを始めとする地質学者、物理学者が
これまでに発表した論文をちゃんと調べず発言しており、
そのことも各方面から指摘されているようです。

しかも、現在進行形で世界各地の機関が、しかも分析機器の進歩を見込んで
少しずつ小出しにして研究が進められており、
過去にも多数研究論文が発表されているのですが、この名誉教授は
自分の専門外の研究についてそういったことについて確認せず、
捏造を学術的に反論しようともしていないことから、
トンデモ扱いされているようです。



1969年9月15日、アポロ11号の宇宙飛行士、

月着陸船パイロット エドウィン・E・オルドリン・ジュニア、
司令船パイロット マイケル・コリンズ、
船長 ニール・A・アームストロング

が、ワシントンDCのスミソニアン博物館の当時の博物館長
フランク・テイラーに2ポンドの月の石を見せています。



彼らは1969年7月、月面にこのように書かれた碑を遺してきました。

We came in peace for all mankind.
「我々は平和裡に月にやってきた 全人類のために」

冒頭の写真の男の子が成人する頃には、
人類が「手を取りあって」「平和に」宇宙に行く未来が来るといいのですが。


続く。





ジョン・グレンとフレンドシップ7〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-30 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館の最初にある「マイルストーン」展示。
次にご紹介するのは、地球の軌道を周回したカプセルです。

この歴史的なカプセルで、ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニア
アメリカ人として初めて地球の軌道を周回しました。

1961年に行われた2回の弾道飛行
アラン・シェパードのフリーダム7ガス・グリソムのリバティベル7
につづき、これがマーキュリー計画の3回目の有人飛行です。



グレンの乗った宇宙船は「フレンドシップ7」でした。



なぜどの宇宙船も最後が7なのかというと、彼ら宇宙飛行士7人が
「マーキュリーセブン」として売り出された?からです。
宇宙船の名前はそれぞれの飛行士によってつけられ、それに7が加えられました。

ちなみにグレンの後の宇宙船の名前は、

スコット・カーペンター ”オーロラ7”
ウォルター・シラー ”シグマ7”
ゴードン・クーパー”フェイス7”

マーキュリーセブンのうちの一人、ドナルド・スレイトン
自分の識別名を”デルタ7”にするつもりでしたが、以前もお話しした通り、
心臓の疾患が疑われたため、地上に降りてNASA管理職を務めました。

1975年、彼は健康上の問題を回復して世界最高齢で宇宙飛行士に復活し、
アポロ・ソユーズ計画でドッキング任務を成功させています。


後列左から
シェパード(海)シラー(海)グレン(海兵隊)
前列左から
グリソム(空)カーペンター(海)スレイトン(空)クーパー(空)

「ライト・スタッフ」の映画紹介の時にも同じことを書きましたが、
空と海の人数が3人ずつというのは決して偶然ではないと思います。

余談ですが、映画で描かれていたように、マーキュリー7の中で
ジョン・グレンは堅物で愛国的で信心深く家族思いな人物とされ、
マスコミの間では彼が最もウケが良く、まるで
セブンの代表であるかのような扱いを受けていました。

NASAは、宇宙飛行士に理想の父親、理想の夫であることを要求したため、
採用試験の際、妻とうまく行っているかが聞かれましたが、中には
自分の不倫で妻との仲が冷え切っていたのにも関わらず、飛行士なりたさで
妻と口裏を合わせてうまく行っているふりをした人(クーパー)もいます。

もちろんグレンは清く正しく美しく、そういったこととは無縁の人物でした。

また、ヒーローとなった宇宙飛行士に、ゼネラルモーターズが
宣伝のために年間1ドルで(公務員なので無料というわけにはいかず)
シボレーコルベットを貸してもらえるという特典が与えられた時、
アラン・シェパードやウォルター・シラー、スコット・カーペンターなどは
目の色を変えて飛びつき、公道をこれみよがしにぶっ飛ばしていましたが、
グレンだけはその申し出を断り、ノイジーな2気筒600ccのドイツ車、
NSUの600CCプリンツに乗ってNASAに通っていました。


1962年2月20日。

ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニアを地球周回軌道に乗せたのは
発射用ロケット「アトラス」でした。




■アメリカの「追い上げ」

このマーキュリー・アトラス(MA)ミッションは、
NASAとアメリカがソビエト連邦との宇宙開発競争において
強力な競争相手であることを改めて再確認&再確立することにもなります。

ここでサラッと経緯を書いておきます。

ソ連は1957年10月に世界初の宇宙船スプートニクを打ち上げ、
1961年4月には人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンを送り込みました。
「ジェミニ計画」において、エド・ホワイトの宇宙遊泳はソ連のレオーノフ
ほんの一瞬とはいえ先を越され、悔しい思いを噛み締めます。

そしてNASAは1961年5月にアメリカ人初の宇宙飛行士、
アラン・シェパードを宇宙に送り込むことに成功しましたが、
ガガーリンの地球周回したのに対し、シェパードは弾道飛行に終わりました。
(それでもちゃんと順序を踏むあたりがアメリカです)

シェパードとグリソムの行った弾道飛行の所要時間はいずれも15分台です。


弾道飛行というのはこういうものなので、短時間で済むわけです。

シェパードは「アメリカ人で初めて宇宙に行った男」の称号を受けました。



それまで遅れをとっていたNASAですが、このグレンの軌道周回飛行で
ようやくソ連に互角と言えるところまでつけることができたのです。

グレンはこれで「アメリカ人で初めて地球を周回した男」となりました。


ケープ・カナベラル空軍基地での打ち上げの後、フレンドシップ7は
4時間55分23秒かけて地球軌道上を3周して戻ってきたのち、
バミューダ沖に着水してフリゲート艦USS「ノア」に回収されました。

「ノア」乗組員熱烈歓迎中の絵

ジョン・グレン、熱烈リラックス中@「ノア」艦上

しかし、スミソニアンにあるフレンドシップ7の現物を前にすると、
こんな小さなものに乗って、5時間足らずとはいえ、
地球を3周するなんて、さぞ窮屈だっただろうなと思わずにいられません。

そりゃ軍艦の甲板で足も伸ばしたくなるというものでしょう。

ちなみに彼がカプセルを出て最初にいった言葉は、

「船内はとても暑かった」

だったと言われています。
その理由とは。


「フレンドシップ7」の軌道周回ミッションにおいて、
ほとんどの主要なシステムは順調に作動し、偉業として大成功を収めました。
無人飛行なら終了していた自動制御システムの問題を克服したのです。

映画「ライトスタッフ」を観た方は、エド・ハリス演じるグレンが、
機外に「ホタル」を見たと思うシーンを覚えておられるでしょうか。

グレンが畏敬の念を持ってそれを見つめている間、
地上では、カプセルの熱シールドが緩んでいる可能性を示され、
彼が宇宙で死亡する最初の人間になるのではないかという緊張が走っていました。

「こちらフレンドシップセブン。
私がここにいることをお伝えしようと思います。

私は非常に小さな粒子の形作る大きな塊の中にいて、
それらはまるで発光しているかのように鮮やかに輝いています。
このようなものを今まで見たことがありません。


その少し丸みを帯びたものは、カプセルのそばまでやってきています。
まるで小さな星のように見える。
それらが近づいてまるで浴びているようです。

カプセルの周りをぐるぐる回っていて、窓の前で全部が鮮やかに光っていて。
多分7〜8フィート離れたところ、
私からはすぐ下に見えています!」

現状を何も知らずに、ただうっとりとポエムるグレン。

「了解、フレンドシップセブン。
カプセルの衝撃音は聞こえますか?オーバー」

カプコン、人の話聞いてねーし。

「ネガティブ、ネガティブ、時速3、4マイル以上も離れていません。
それは私とほぼ同じ速度で進んでいます。
私の速度よりほんの少し低いだけです。オーバー。

それらは、私とは違う動きをしています。
なぜならカプセルの周りを旋回し、私が見ている方向へ戻っていくので」

こっちもまだ「蛍」の話してる?
っていうかこれ、外側の異常じゃないんか。

実際カプセル内の温度は上がり続け、さすがの彼も一度は覚悟を決めました。
カプセルから出た最初の一言は、このような事情から生まれたものでした。


スミソニアンの展示は、中がライトアップされていて、
グレンが大気圏突入後バミューダ沖で回収された時のまま、
設定を変えていないスイッチの状態が維持されています。

手書きの時間、これもグレンの字と思われる
左上の視力検査表に注意

彼は飛行中、非常に多くのことを監視しなければなりませんでした。
例えば、飛行中のあらゆる力学に加え、グレンは飛行中、
常に自分の視力をモニターする任務を負っていました。

これはどういうことかというと、人間の眼球が
無重力状態で変形すること
が医学的に懸念されていたからです。



グレンは飛行中、紙の視力表でしょっちゅう視力をチェックさせられました。
計器の上に貼ってある2枚の紙がそうです。


結局ミッションコントロールは、熱シールドがバラバラにならないように、
逆噴射ロケットを投棄せず、装着したまま大気圏に突入するよう指示し、
結局グレンは(おそらくあまり危機感のないまま)再突入に成功しました。


ジョン・グレンが見ていた天井の機器



ジョン・グレンが最後に触ったそのままのスイッチ

■冷戦下のイベント

ジョン・グレンの飛行のために、米国国防省は、
NASAが世界中の中立国またはアメリカとの同盟国に
追跡ステーションを設置するための支援を行いました。

しかし、結果としてグレンは追跡局の無線範囲を外れた時には
いっさいNASAと通信をせずに飛行を行っています。

この理由はよくわかっていません。


任務終了後、「フレンドシップ7」は、アメリカの宇宙計画と
外交政策の利益を促進する為、3か月に亘る「ワールドツァー」に出ました。

つまりもう一度「地球を周回」したのです。
誰が上手いこと言えと。

これはセイロン(現在のスリランカ)に到着した時のもので、
「フレンドシップ7」は象の歓迎を受けています。


フレンドシップ7の裏側。
大気圏突入の凄まじい熱が加わるとこうなります。

任務前、浜辺をランニングするジョン・グレン

海兵隊航空士として、ジョン・グレンは第二次世界大戦において
59回の攻撃任務、朝鮮戦争では2回の遠征で90回もの任務を行なっています。

その後はテストパイロットになり、ここでも以前紹介したように、1957年、
史上初の超音速機(弾丸機)による大陸横断飛行を行いました。

そしてその後、オリジナルの7名のマーキュリー宇宙飛行士の一人となり、
1962年のマーキュリーミッションを成功した後は国民的英雄となりました。

凱旋パレード「よくやったジョン」

ケネディ大統領とレイトン・デイビス空将の間に座って
ワシントンでのパレード

1964年にNASAを辞した後は、1974年から1999年まで
オハイオ州で上院議員を務めていました。


1998年、グレンは77歳で宇宙任務に復帰し、
スペースシャトル「ディスカバリー」でSTS-95ミッションを行いました。

STSというのはディスカバリーのミッションの名称で、
STS−92と119には日本人宇宙飛行士若田光一氏、124には星出彰彦氏、
114には野口聡一氏、131には山口直子氏が搭乗しています。

グレンの2回目の宇宙飛行となったST S -95ミッションには
日本人女性宇宙飛行士第1号、向井千秋氏が同乗していました。

ディスカバリー計画になぜ頻繁に日本人が乗ることになったのかというと、
(他のメンバーはほぼ全員白人かたまにヒスパニック系で、
アジア系は日本人以外はエリソン・オニヅカだけ)
それは日本の、主に経済的協力の厚さを表していると思われます。


そして、なぜグレンが歳を取ってから宇宙に呼び戻されたかというと、

「老人が宇宙に行ったらその体組成はどうなるのか」

という実験対象に適役だと思われたからなのだそうです。

77歳でかくしゃくとしている元宇宙パイロットなんて存在、
当時はもちろん、今後も現れるとはとても思えなかったのでしょう。

そういう意味でも、グレンは宇宙関係の研究に貴重な記録を残したのです。


ここスミソニアンにはグレンの着用したスペーススーツ実物があります。


名札付き。
こちらはもちろん一回め、ジェミニVIの時着用したものです。


■マーキュリー計画


NASAが発足して間も無く始まったマーキュリー計画。
それはNASAの最初の大きな事業でした。

目標は、パイロット付きの宇宙船を地球を周回する軌道に乗せること、
その軌道上での人間のパフォーマンスを観察すること、
そして人間と宇宙船を安全に回収することでした。

当初、とにかくアラン・シェパードが初飛行に成功したとはいえ、
アメリカ人が宇宙でどのように生き延び、機能するのか。
多くの疑問が残されていたのです。

しかし、「フレンドシップ7」ミッションの成功により、NASAは
マーキュリー計画への取り組みをさらに加速させることになりました。

マーキュリー計画の開始から終了までの5年間で、
政府と産業界から200万人以上の人々がそれぞれのスキルと経験を結集し、
6回の有人宇宙飛行が実現し、コントロールすることに成功しました。

マーキュリー宇宙船は、人体が微小重力下で1日以上生存しても
通常の生理機能が衰えないことを実証しました。
これも、実際そこに行くまではわかっていなかったことの一つです。

マーキュリーはまた、1960年代に行われたジェミニ計画や続くアポロ計画、
そしてその後のすべての米国の有人宇宙飛行活動の舞台を整えました。

このように、フレンドシップ7号のMA-6ミッションは、
NASAの有人宇宙飛行における重要な出来事であると同時に、
さらに多くの成果を生み出すきっかけとなったのです。


宇宙飛行士席が見えるカプセルの内部。

ジョン・グレンが座った座席は「カウチ」と呼ばれ、
ミッション中、彼と宇宙服にぴったりフィットするよう特注されています。

宇宙船の大きさから換算して、マーキュリーの宇宙飛行士は
身長155.7cm以上、180㎝以下でなければならないことになっていました。

宇宙飛行士たちは、宇宙船に"乗るのではなく宇宙船を着るのだ"
とジョークを飛ばしていたそうです。



フレンドシップ7号の飛行中にジョン・グレンが握った操縦桿。
先ほども述べたように、グレンは経験豊富なパイロットでしたが、
この操縦桿は航空機のと違い、宇宙空間でカプセルの向きを変えるだけです。



■宇宙に行った「フレンドシップ7」の星条旗



スミソニアンには、ジョン・H・グレン・ジュニアがアメリカ人として
初めて地球の軌道を周回した際に、「フレンドシップ7」に納められていた
アメリカ合衆国の国旗が寄贈され、保存されています。

NASAは1963年に「フレンドシップ 7」をスミソニアン協会に譲渡し、
以来、ここナショナルモールの建物に展示されています。
この旗は、宇宙船のどこかに詰め込まれていたようで
(おそらくグレンも知らなかったかあるいは忘れていた)
機体と一緒に、スミソニアン博物館に運ばれてきました。


ジョン・グレン宇宙飛行士は、宇宙船フレンドシップ7を操縦して
地球周回軌道に乗り、1962年2月20日に無事帰還し、
アメリカ人として初めて歴史的偉業を成し遂げました。

彼は確かにたった一人でカプセルに乗り込み、地球を周回しましたが、
ミッションの成功は全米の何千人もの人々によって支えられていました。



NASAは1963年に「フレンドシップ7」をスミソニアン協会に譲渡し、
以来この、アメリカの宇宙開発計画を開始した宇宙船は、
ボーイング・マイルストーン・オブ・フライト・ホールで展示されています。

そしてスミソニアンは、この歴史的な宇宙船を
未来の世代に見てもらうことができるのを誇りにしています。



続く。