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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

九份〜台湾旅行記

2015-08-04 | お出かけ

九份、という地名を知ったのは、台湾に旅行に来るようになってからです。
映画「非情城市」についてお話しした時、ここがロケ地になったことも知りましたが、
今回台湾滞在中に一度見ておこうと思い計画しました。



九份へは台北から直通のバスが出ています。
同じバスにはやはり日本人の観光客らしい人たちが少なくとも二組いて、
台湾観光の定番になっているのだと思われましたが、面白いのは
バスの運転手さんが料金を徴収する時に日本人客からは細かいお金を取っていなかったこと。

5銭?くらいの端数を切り捨てでお札だけを取るのです。
お釣りを出すのが面倒だったからに違いありません(笑)

で、このバスの運転が怖いんだよ。

バスなのに高速でも飛ばしまくりで、おそらく100キロはでてたんじゃないでしょうか。
カーブの時など明らかにぐらっと傾きかけてるんですが、運転手、
何人たりとも俺の前は走らせねえ!な勢いでかっ飛ばしていきます。

行きも帰りも同じような運転だったので、これはこの運転手だけがそうだったのではなく、
どうやら彼らは時刻表通りに運転しているだけだったのではないかと思われました。

行きに、前の方に座っていて肝が縮む思いをしたので、帰り後ろに座ると、

ほとんどの席にシートベルトがありませんでした(−_−#)

しかし、山間部の登り坂道に来た途端スピードががくん!と30キロに落ちて安全走行。
というか、精一杯ふかしてもそれが車の性能の限界であった様子(T_T)



バスが思いっきりノロノロ走っている時、向こうに何か見えてきました。
金山寺というお寺で、観光用というより仏僧が修行する道場になっているそうです。



そしてバスはうねうねと山道を登っていきます。
途中全くアナウンスもないし、降りる人がいなければバス停にも停まらないので、
近づくにつれ大変不安になったのですが、それらしいところで降りたらそこが九份でした。



この写真を見て初めて気づいた装飾。



ライオンともクマともつかない動物にまたがっている人発見。
いやっほ〜い!って感じで名乗りを上げています、



聖明宮というお寺の屋根の装飾らしいんですが、すごいです。
これでもかの極彩色。
遠くからなのでこの素材が何であるか全くわからないのですが、年月を経て
全く色が褪せている様子がないので、おそらく陶器ではないかと思われます。
もしこれを全部焼いて作っているのだとしたら凄すぎる。

これは日本でいうところの七福神みたいな感じの神様でしょうか。



道はまだ上に向かって続いており、山の頂上付近をよく見ると、



山水戸のところどころに見晴台なのか、このような建物があありました。
一番上まで登ったら何があるんだろう・・。



バスを降りたところでいきなり面白看板発見。
袈裟懸けのお坊さんをフィーチャーした病院の宣伝。
キリスト教系の病院というのは日本にもありますが、台湾には
仏教系の病院もあるわけか。

どうも用地はあるのでこれから建てるのだけど、そのお金を寄付してくれ、
と言っているように見えますがどうなのか。



さて、昼ごはんを食べ損ねてお腹が空いたので、とりあえず何か食べよう、
ということになったのですが、こういうところで何を食べるべきかわからないし、
地球の歩き方も持っていないし・・、ということで、バス停近くにあった
ファミリーマートのイートインコーナー(大きくて広い)で、
カツカレー(手前)とラーメンを食べてみました。

日本のコンビニと比べようがないのでわかりませんが、まあ食べられました。
台湾のコンビニも日本のように、お弁当を買ったら温めるかどうか聞いてくれます。
カウンターのお兄さんは日本語はわからないようでしたが、英語がしゃべれました。



九份って、なんなのか、と聞かれるとただ町でしょ?くらいしか
知識もなしにきてしまったので、とりあえず何をしていいかわかりません。

「あのコンビニの横の魔窟みたいなところを入っていけばいいんじゃないかなあ」



魔窟の入り口の横にあった謎の専門店。
「石頭猫」?



と思ったら石頭犬(狗)もいた。



さて、それではこの商店街に入ってみます。
お店の前にボンベがたくさん・・・。
とりあえずこの辺に都市ガスは引かれていないことはわかりました。



台湾風のケーキ、蜂巣ケーキだそうです。



陶笛というのはおそらくオカリナのことだと思うのですが、
このお店ではCDを鳴らしながらそれに合わせて「実演販売」していました。



注文すればしぼりたてのジュースが飲めるのですが、スイカはわかるとして
苦瓜・・・・?

すみません、わたし苦瓜苦手なんです。
苦瓜のジュースなんてとんでもないです。




九份にはイノシシもいます。
ってことで、地産地消、とれとれピチピチのイノシシ肉で作ったソーセージ。
それはいいんですけど、パソコンで製作したらしいポスターのイノシシ画像、
これは客に食べてみようと思わせるには少し逆効果だと思うがどうか。



お店の奥にかけられたご先祖様の写真。
日本でもこんな風に鴨居におじいちゃんの写真がかけてあるところ、
田舎に行くと未だにありますよね。

もしかしたら日本統治時代の慣習の名残なんだったりして・・。



何をしているのかわかりませんでしたが、九份の名物には芋団子や草餅があるので、
そういうお菓子を作っているのではないかと思われます。



野良猫もいました。
それにしても痩せている・・・。
こんな折れそうな手足の猫を見たのは初めてです。



養顔、というのは日本語の「美顔」という意味でしょうか。



日本人は魚海老は活け造りや踊り食いするのが平気なくせに、
鳥とか豚とかが原形をとどめていると途端に食欲をなくす、
(向こうの人から見ると)おかしな感性を持つ民族です。

魚は平気なのになぜ鳥や獣はダメなのか。
これって、クジラやイルカは殺せないけど牛や豚は食べるものだと思っている、
欧米人の感性からは日本人は理解できないというのとつながるかもしれません。

ずっと魚を食べてきた民族のDNAでもあるんでしょうかね。



民宿の前を通りかかったら、写真で中を紹介していました。
和室というのは「日本風な部屋」ということでしょうか。
ドライサウナもあって眺望抜群。

台湾元は今だいたい三倍すればいいそうなので、平日二人で泊まって
なんと7200円くらい?一人追加ごとに1200円ってこれ安いですよね。

3600円出せば休憩もできます。



向こうに見えているのが基隆港。
基隆は日本統治時代、海軍の軍港があり要塞地帯となっていました。
もともとこの港は岩礁がおおく、大型船は入港できない港でしたが、
統治するや否や、日本政府は港周辺の浚渫(しゅんせつ)工事と防波堤の建設などを進め、
1万トン級の船舶が停泊可能な近代港湾として整備してしまったのでした。

台南で結成された海軍航空隊「台南航空隊」は、まず間違いなく

この基隆港から南洋に向かったということになります。



おみやげ物屋さんで日本でもある「名前タグ」。
ここ台湾では「王」「蔡」「宗」など、台湾人に多い苗字を
タグにしてしまうようです。
韓国と違って家名の種類が多いのでタグもたくさんあるわけですが、
どうも見る限りABC順にならんでいるわけではなさそうです。
こんな莫大な名前の中からどうやっておめあてのを見つけるのでしょう。



食堂で、食事中の客の足元にきておねだりしている猫。
さっきのとは別の種類のように太っています。



野良なのかここの飼い猫なのかわかりませんが、客が食べ物を床に落としてやり、
それを食べていてもお店の人は黙認しているようでした。
日本だったらそもそも食べ物屋に猫がいるなどありえない光景です。



これは首輪をしているので近くのお店で飼われているらしい犬。

 

手作り工房「愛の物語」キター。
センスが限りなく昭和の「ペンションブーム」のころなんですけど・・。

ちなみに台湾人は日本語がある程度読める(というかわたしたちが中国語を読めるように)
ので、台湾にある東急ハンズの商品はほとんど日本のものが商品説明も日本語のまま売られています。



やはりこうしてみると日本とは違う街並み。
九份は19世紀終わりに金鉱が見つかり、日本統治後は鉱山が開かれていましたが、
(あ、それで金山寺なのか)採掘できなくなって1971年に鉱山が閉鎖され町は寂れていました。



ここには大きなホテルなどはなく、宿泊施設はすべて民宿です。
古くから残る建物もありますが、このように「古く見せている」ものもあります。
いずれにしても観光地として雰囲気を壊さないように町全体で取り組んでいるようです。



「九份にはトイレがない」「あったとしてもペーパーがない」

という恐ろしい話を前もって小耳に挟んだため、震え上がったわたしたちは
濡れティッシュと携帯ペーパーを台北で買って臨んだのですが、
あまり心配には及びませんでした。
坂の途中に喫茶店があり、そこには普通にお手洗いもあったのです。 



台湾は蒸し暑くて、外を歩いているとじわじわと汗が噴き出す、
実に不快な気候だったのですが、冷房した室内でタピオカのはいった
冷たいドリンクを口に含むとホッとしました。
ちなみにこのカップは350元くらいしたと記憶します。
わたしたちは「場所代」「お手洗い拝借代」として高いとも思いませんでしたが、
台湾の人にはとんでもない暴利に見えるのか、店内はガラガラでした。



さて、それでは九份のメインイベントへと。
九份は階段の町。
細い階段を降りていくと・・、


でた〜。
これがあの九份らしい建物のあれね。



「千と千尋の神隠し」に登場した「湯ばば」の屋敷、とがっつりかいてあります。
今この看板を拡大してみたら、

「千と千尋の神隠し映画のキャラクターの顔のお守りを店内で買えます」

スタジオジブリの許可は得てるんですか?



台湾でも宮崎アニメは普通に人気なので、全く同じことが漢字でも書いてあります。



しかし、嗚呼、悲しいことに、九份のこの屋敷をあの映画の作画のモデルにしたという
事実はないということを、宮崎駿ご本人が断言してしまっているそうです。

空気読めパヤオ。
ちゃっかり商売にしてしまっている九份の人たちに免じて(笑)、
ここがモデルだということでも別にいいじゃないか。

・・・って気もしますが、違うっていうんなら仕方ないね。



湯婆の屋敷(だから違うってのに)から少し階段を降りていくと、



「非常城市」のロケが行われた茶屋があります。
ここもわざわざ映画撮影前はなかった「非情城市」の看板を掲げています。
凄惨な白色テロがテーマの映画のタイトルですが、それはいいのね。

九份は金鉱が閉鎖されたあと、寂れた古い建物の残る町でしかなかったのですが、
1989年、「非情城市」のロケ地になったことから観光地として注目を集め、
それから何年間かは、台湾人の間で「九份ブーム」があったそうです。

商店街も民宿も、それ以降生まれてきたものだということですね。




白攝現場というのが「撮影現場」という意味のようですね。
ロケに使われたということを売り物にするなら、これでもかの
メニューの写真は逆効果のような気がするのだけど・・。



撮影に使われなかった茶屋もこの通り。
こちらも雰囲気ありますね。



劇場だったところはいまでもお芝居が行われている模様。
一番右に日本のお侍さんがいるのだけど、どんな話なんだろう・・。



「非情城市」の茶屋全体像。



神に筆で書いたものを木に彫りつけて(字が凸)あります。



ウーロニ茶。ジャスミンちゃ。クピオカ。

やはりカタカナが台湾の人たちには難関と見た。

というか、誰も指摘しないのね。まあわかるからいいけど。



でた。

「ビーフソ」。

カタカナの中でもシとツ(ツンガポールとかw)、そしてソとンの違いは
外国人にはさらに難しいのかもしれない。
その横の

「豚足ルーロウウつアソ」

にいたってはもはや原型がなんであるかさえ意味不明。
無理しなくても上の「猪(豚)御飯」だけでだいたいわかるっつの。

あとは無事()かと思ったら、

「虱目魚のスープは」

ああ、気になる。全く食欲をそそらない名前の「虱(しらみ)目魚」の正体は?
そして、「虱目魚のスープは」の続きははたして・・・・?!



どんどん下に向かって歩いて行きます。(その心は楽だから)



この辺りに来ると観光客は誰もいなくなりました。
赤いパイナップルの飾りがかわいい。
台湾というか、中華圏って本当に赤が好きですよね。



ここも劇場のようです。
時代劇を舞台で行っている模様。

台湾を挟んで中華民国旗と日本の旭日旗が描かれている・・・。

手前の紫色の侍は明らかに日の丸のハチマキをつけているわけだけど、
こちらの内容はさらに気になるなあ。

まあ、日本人が多く訪れることで保ってきたような観光地だから、
さすがに「日台戦争」(by  NHK)みたいな話ではないと信じたい。



この「軽便路」は、統治時代に台湾の会社と日本が合資で作った貨物鉄道のこと。
鉄道といっても、人力で速さを加減しながら動くトロッコだったそうです。



軽便路だった道を下ってきたら、自然食系のお店があり、その店先には
なぜか「反核」の垂れ幕が!

台湾に原子炉をあらたに作ろうという話があるんでしょうか。
たしかすでに台湾には島の両端に計4基、原子力発電所があるのですが・・。
反核運動を進めているらしいここの店主の言うには

「福島はもういらない」(みたいな?)



台湾という国は小さいけれど特にITの分野で先端をいっているという先進国で、
実はこの鄙びた(でもないか)観光地にもくまなくインターネット回線が張り巡らされ、
街角に立てば無料でWiFiにつなげることができるというくらいなのです。
(知ってたらグーグルアース使ったり、食事ができる店が調べられたのに・・)

当然、国内産業の基は原子力発電に多くを負っていて、台湾人はその恩恵を被っているわけだけど、
ここの店主さんはインターネットも使わず、電気を節約するために冷房もつけない主義かな?



というわけで、駆け足で巡った九份。
日本統治時代に建てられた建築物が多く残っているところを歩くまで至らず、
蒸し暑さのせいで見残しが多かったという感はありますが、
日本と似ているようで全く似ていないディープ台湾を見た気がしました。





 


台湾雑景〜旅しながら写真を淡々と貼る

2015-07-30 | お出かけ

三回台湾に旅行をして、もう当分行くことはなかろうと思っていたのですが、
意外なところからのご縁でまたしても訪台することになりました。
今回参ったのは、台湾の高温多湿の気候です。

今まで年末年始という台湾では過ごしやすい季節に訪れていたのと、
それまで滞在していたのが湿度の低い東海岸だったので、外を歩くと
まるでサウナの中を歩いているような重たい空気は堪えました。

「よく台湾の人こんな気候で平気だなあ」

「生まれてずっとこれなんだから慣れてるんじゃないの」

とか言い合っていたのですが、今回現地で知り合った台湾人に聞いたところ、
台湾人もこの天気にはうんざりしているし大変辛い、と聞いて安心しました。

今回一時帰国した時に日本はその時の台湾並みに蒸し暑かったわけですが、
日本人もこの蒸し暑さが平気だという人なんていないわけですし、当たり前なんですが。

それはともかく、近くて遠くて日本と似ているようで似ていない、
そんな台湾を巡って、目に付いたものを片っ端から撮ってきました。

冒頭写真は、九份(あれ?以前打った時には漢字が出てこなかったのに変換できる・・)
に行った時、かえりのバスから見えた景色ですが、すごいでしょう。



台湾と日本、街並みにおいて何が大きく違うかというと、それはビルの綺麗さ。
日本もアメリカと比べると大概汚いビルが街並みに混在しているのですが、
アメリカの場合は綺麗も汚いも、煉瓦造りの100年越えの古い建物なので、
古くても鑑賞に耐えるものばかりなのに対し、なまじ近年に建った建物ばかりの日本と台湾では、
そのメンテナンスの頻度が如実に表れてしまうのです。

台湾では一旦建ったビルの外装を綺麗にするという習慣がないのかもしれません。



台北で最初に泊まったホテルの窓から、ファミリーマートが見えました。
「全家」でファミリーマートなんですが、日本人にとってこのコンビニは、
東日本大震災の時に巨額の寄付金を台湾人がレジにある募金箱に入れてくれ、
そして日本を励ましてくれたことで特別の感慨を与えます。



次の日ホテルから出ようとしたら前を横切った不思議な人力車。
もしかしたら犬が引いているのか?と思ったのですが、動力はおじさんです。
漢字で書かれた文句を読むと、どうも何かの宣伝らしいのですが、
屋台に飾られた仏具らしいものから見るとお寺か何かでしょうか、
おじさんの頭に花が飾られているように見えるのは偶然です(笑)



タクシーに乗るために街角に立ち最初に目に付いたのがこの看板。
八代亜紀は「日本演歌天后」で女王くらいの意味でしょうか。
森進一の看板もありましたが、こちらはなんて書かれていたのか見損ないました。



台湾の街を走っている大量のバイクには驚かされます。
自転車より、自家用車より市民の足になっているのがバイク。
おそらくほとんどが日本製のものだと思われます。 



またしても面白日本語発見。

「キューピッド」と書きたかったのですねわかります。



地下鉄の発達しているのには驚かされます。
ここなどまるで千里中央駅みたいでしょう?(ローカルですみません)

すべてのホームは転落防止の自動開閉フェンス付きで、切符ではなくトークンを買い、
それを指定のところにかざすと「ピッ」となって改札が通れます。
これエコロジーの点では日本より先進と言っていいのでは・・。
地下鉄はすべて空調が完備、暑い地上で車を捕まえるより、こちらの方が移動は楽かもしれません。



「猫空」という地名が気に入ったのですが(笑)これは「まおこん」と読みます。
「猫空◯車」というのは、マークでもわかるように観覧車があるんですね。
ここには動物園もある模様。



九份に向かうバスの窓からは、市街地を過ぎるとこんな景色が見えてきます。
全体的に郊外の建物も薄汚れた感じは否めないのですが、そんな家の軒先に
ポルシェが停まっていたりするので、台湾って面白いところだなあと思います。



こんなところに布団を干して、太陽の殺菌はともかく、排気ガスとか
なにより壁の汚れが布団に着くとかは心配ではないのでしょうか。
日本でも、高速道路脇のアパートに布団を干しているのを見ることがありますが、
いつも不思議に思います。
この時に顔を引っ込めていまいましたが、ベランダにはおばあちゃんと子供がいます。



さて、わたしたちは李登輝元総統の講演会以外、台湾での予定を入れなかったのですが、
毎日誰かがお誘いくださったため、食事の場所に関して困ることは全くありませんでした。
ここは、日本から李登輝総統の講演会をわざわざ夫婦で聞きに来られた方が、
ご自身が雇った現地の通訳の女性に「地元民しか行かない店」を紹介してもらいました。

「処女(虫編に尋ねる)」?このお店の名前は一体・・・。 



写真で撮っても、この店の雑駁な感じがわかっていただけるでしょうか。
棚に並んでいるのは紹興酒を始めとするお酒の数々。



お店のおばちゃんのファッションも、日本では手に入らなさそうな、
合成繊維100%な感じがキッチュで、招き猫のセット(右手上げと左手上げ)や
大福様とぴったりマッチしております。



ここは、日本人観光客はもちろん、大陸からの観光客も来ないようなところだそうです。
つまりそれだけ地元密着の「いかにも庶民的」な大衆食堂ということですね。
日本だと「生簀」」という趣向はあっても、こんな店内に魚屋みたいな屋台があって、
そこから客が魚介類を選んですぐに調理してもらうという形式の店はありません。

まず生魚を置いていることで魚屋のような匂いが店内に漂うと、
日本人の場合は食欲がなくなる人が多いと思うのですが、こちらではそうでもないようです。



案の定、魚を選びに駆り出されたものの、わたしには何をどうしていいか
全く見当もつかず、通訳の人にまる投げしてしまいました。



クレラップは日本語のロゴを残しているあたりがブランドの照明?



実は魚介類、ことに甲殻類はあまり、とこんな店に連れてこられてからカミングアウトするのも
連れて来てくださった人の顔を潰すことになるので、お任せにしたのですが、
やっぱりでてきたのはエビでした。
なにがいやって、殻をむくのが面倒なんですよね。
努力の割に美味しいと思ったことはないし手は臭くなるし・・。



カニまででてきたし(笑)
一人半分づつということなので多分台湾的にお高かったのでしょう。
もし脳の大きさで頭の良さが決まるなら、ノーベル賞確実ではないか、と思われるほど
このカニは全身ミソだらけでした。

お酒飲む人はカニミソがお好きだそうですが・・。



こちらメインの魚鍋。
魚の種類は・・・・忘れました。



たっぷりのネギと生姜を効かせた魚料理。
魚の種類は・・・・。



庶民のお店だなあと思ったのが、店の中の虫の多さ。
そこに出ている魚介類にも止まりまくりなのよねと思うとドン引きしてしまうのですが、
時々当店の看板娘がバチっバチっと大きな音を立ててラケットで叩き潰してしまいます。



アメリカの「Bed & Bath Beyond」で全く同じものを見ました。
虫ラケット、電流で虫を焼く仕組みなのですが、

「虫の体はどうなるの」

「消えるんじゃない」 

こういうものを客の見ているところで使うっていうのが日本人にはもうダメ(笑)
そして、台湾の人たちというのは何しろ声がでかい。
よく大陸からの観光客は声が大きくて迷惑といいますが、庶民クラスは
むしろ大陸より食事中の声は高いように思われました。
 


この店の向かいにあった、これも海鮮料理レストラン。
「生猛活海鮮」というのが、猛烈に生きがいい、という感じでしょうか。



左は日本式しゃぶしゃぶ、トレードマークはお相撲さん。
右の「阿部」というお店は、日本人経営のパン屋さんです。

 

夜も活気のある繁華街には、日本式岩盤浴の店もありました。
「玉川温泉」だそうですが、玉川温泉って?



九份に行ったときに途中にあった墓地。
前にも写真を撮ったことがありますが、台湾のお墓は一つ一つが家のようで立派です。
こうしてみると本当のアパートみたいですね。



お弁当屋さんの看板と警察の印が同じポールに・・・。
で、どこが警察なのかと写真をよくよく探したところ、
どうやら左のマンションの一階と二階ではないかという結論に達しました。
地域に溶け込む警察ってヤツですか。というか溶け込みすぎ。



工事中のおまわりさん人形は台湾ではこうなります。
腕の部分はどちらもパタパタと上がったり下がったりしていて、
その先に旗がついて(片方取れていますが)注意を喚起すると。
ちゃんと足元に移動用の車がついていたり、着せている洋服が特注なのが工夫の一品です。



前にも台湾は大変な学歴社会なので塾が大繁盛と書いたことがありますが、
またしてもすごい看板を見つけました。
前年度の有名校合格者の進学先を顔写真付きででかでかと・・・。
日本ではせいぜい「前年度・東大3人 早稲田3人」と人数だけが書かれるところです。

台大はもちろん台湾大学、成大は成功、中央は国立中央、清大は精華大でいずれも国立名門。
写真の上に書かれた言葉は、いずれもトップを表すものであろうと思われます。



都心部に帰ってきたら、台湾電視(右から読む)の本社がありました。
テレビ局のビルでさえ、あまり綺麗ではないのが台湾というところ。



九份では現地に「千と千尋の舞台」などとちゃっかり看板がありましたが、
ここ台湾でも宮崎アニメは普通に人気。
バスで斜め前に座っていた女の子が、トトロのパスを持っていました。



こういう、ゲーム的キャラクターで古典を「萌え化」してしまう傾向も
どうやら日本からの伝来としてあるようです。

台湾にはこういう文化面での日本の影響というのは我々が思っているより色濃くあり、
古くからの、日本とは遠く離れた部分とは全く別に、その歩みはほとんど揃っているかに見えます。
特にIT関係については台湾という国が国策としてそれを推し進めた結果、
ある意味日本より先に行っていると思われる部分すらありました。

本当に台湾とは面白い国です。

 


われわれはなぜ台湾に行ったのか〜「台湾的扶輪社」会合参加記

2015-07-20 | お出かけ

さて、先日から2週間に亘るボストンーニューヨークー成田ー台湾という
無茶苦茶な日程の旅行についてお話ししているわけですが、そもそも
われわれは何のためにこんな日程を組む必要があったのか。

というか、本来ずっとアメリカにいる時期に、わざわざアメリカまで2往復してまで、
台湾になんの用事があったかってことなんですが、あっさり種明かしをしてしまうと、
李登輝元総統の講演に参加し、その前後に一席を囲み個人的にお話しができるという
願ってもないお話をいただいたからでした。


講演会と会談は全く別のところからきた話で、先にTOが講演会への参加を打診されました。

「李登輝先生の講演、アメリカに行っている間だけどどうする?」

「行く」(即答)

「行くって、終わったらもう一回MK(息子)を迎えにアメリカに行かないといけないよ」

「いや、でも李登輝先生はもう今年92歳だし」

「・・・・最後のチャンスかもしれないね」

ということで、我が家は時間的にも費用的にもかなりの無理をして、訪台することにしたのです。
その後、わたしが防衛団体関係の知人に聴講をお誘いしたところ、その方が
講演会の次の日に個別会談を調整してくださるという展開になりました。

李登輝氏についての知識は普通にあるつもりでしたが、じっさいにお会いするとなると
いったいどんな話をすればいいのか・・・。
旅行の準備や教育航空隊訪問など、目まぐるしく忙しい日程の間を縫って、
わたしは何を着ていけばいいかも含めて大変頭を悩ましていたのですが、
読み漁った資料の一つ、小林よしのり氏の「台湾論」における李登輝氏の表現と、
氏と何度かお会いしている方の、

「李登輝さんは話し出したら止まらないほどエネルギッシュにしゃべる」

という話から、おそらくこちらが話さなくても元総統のお話を伺うつもりでいればよい、
と納得したため、あまり会談内容については考えずに当日を迎えたのでした。

92歳とはいえお忙しい方でもあり、別に日を取っていただけるとは思っていませんでしたが、
やはり最終的に「講演前の30分、控え室に来ていただければお会いします」ということになり、
前日にわたしたちは台湾に着くように日程を調整したのでした。


桃園空港近くのノボテルホテルから台北まで車で移動し、講演会場のホテルにチェックインを済ませ、
会談をセッティングしてくれた知人に連絡を取ったところ、衝撃の事実が。

「李登輝元総統は本日体調が悪く、講演会は中止になりました」

「・・・・・・・・・」


_| ̄|◯ ←TO  ◯| ̄|_ ←わたし


いやまあ、92歳ですから、お体のことは全く予測できないこととはいえ、
このためにいろいろいろいろと調整してきたのに、と脱力感でぐったりなるわたしたちに、
その方は

「しかしその代わりに李登輝総統のブレーンであった方が講演されるそうです」

とまだしも立ち直る余地のある情報を教えていくださいました。

確かにがっくりときましたが、実のところかなり緊張していたため、
それがなくなったとたん、少し気が楽になったというか、ホッとしたのも事実。

「あ〜、気が抜けちゃった」

そう言いながらも会場ではどんなお料理が出るかなどといったことに
思いを巡らす余裕も出てきました(笑)



講演は、李登輝氏が名誉会長を勤めている台湾のあるロータリークラブの
年度ごとに行われる会長の交代式で行われることになっていました。

首敲、というのはいかにも「首をすげ替える」といった感じですが(笑)
これが交代式の意味であり、「扶輪社」がロータリークラブです。
音読みすると「ふりん」となり、なんだか不適切な響きでもあるわけですが、
このときに知り合った同志社の台湾事務局で働いている女性の方は

「同志社というと、”何?同性愛?”と言われることがある」

と苦笑していました。
中国語と日本語の違いは時としてこんなことになります。

ところで皆さん、中国語といえば昔少しだけ、
上海に旅行することが決まったので勉強してみた程度のわたしが、
どうして台湾で李登輝総統の講演を聞いたり、現地の扶輪社メンバーと歓談できるのか、
不思議に思われませんでしょうか。

おそらくこのことをいうとほとんどの方ばびっくりするかもしれませんが、
台湾にあるロータリークラブのうちなんと三つの団体は、

日本語が公用語であり、

会合は全て日本語で行われるのが昔からの伝統になっているのです。
台湾に行ったことのある方は、いたるところで日本語が普通に通じるのに驚かれるでしょう。
ホテルなどはほぼ100パーセント、街を歩いていても、わたしたちが空港で遭遇した
親切な男性のように日本語で話しかけてくる台湾の人もたくさんいます。

わたしたち日本人が思っているよりずっと、台湾における日本は密接で大きな存在であり、
日本からの来客を日本語で接遇しようという気持ちに於いてはおそらく世界一ではないかと
わたしたちは何度かの訪台で知ったのですが、さすがにここまでとは・・。

このロータリークラブには、現地の日本企業の社員も参加しているため、
便宜上そういう慣習が続けられてきたのかとも思っていたのですが、
どうやらこれはさかのぼること戦前の、日本が台湾を統治している時代からの流れではないかと
わたしはこんな話を聞いて思った次第です。

それは、このブログでもなんどもお話ししたことがあり、映画「KANO」でも語られた
鳥山頭ダムの設計者、八田與一がロータリークラブの会員であったという事実です。
台湾におけるロータリークラブ活動については今回わかりませんでしたが。




当ホテルの宴会場はこの扶輪社の毎週の会合が行われており、
李登輝総統が私的にも訪れるレストランがあるそうです。



当クラブは台湾と日本の親善をも目的としているわけで、

開始の「四つの誓い」(兵学校の五省みたいなもの)を日本語で唱えた後、
台湾の歌を一曲、日本の歌を一曲歌います。

TOの属するクラブには専属のピアニストがいて伴奏をしていましたが、
ここではカラオケを流して1番を歌ったらいきなり音を切ってしまうというものでした。

日本側の歌は「涙そうそう」でしたが、なぜこの曲なのかは謎でした。



当クラブにはお揃いの緑のジャケットを着て参加するという慣習があります。



このイケメン(もちろん台湾人)が本年度のクラブ社長、つまり会長。
皆日本語でスピーチをされるのですが、日本語の能力についてはいろいろです。
しかし、いずれにしても日本統治下の日本ならともかく、現代の台湾で、
これほど外国語でスピーチをできる人がしかもたくさんいるというのがすごい。

中国語はたくさんの発音の因子を含むため、中国語を母語とする人は
3ヶ国語くらいは楽に話すことができると聞いたことがありますが・・。



このときに配られた、前年度の李登輝総統の講演の様子。
さすがに文章まで日本語で書くのはちょっと無理らしく、すべて中国語ですが、
李登輝先生の講演のタイトルだけは日本語となっていました。

「台湾の主体性を確立する道」

写真は去年の同クラブでやはり会長交代式のときに行われた講演のときのものです。

李登輝元総統の講演の代わりに行われた鄭世松先生の講義も勿論日本語で行われました。

86歳で、生まれてから16年間日本人であり、さらには戦後東京大学に留学して
日本で働き、日本女性を妻にした先生の日本語はほぼ完璧で、後にご挨拶させていただいたところ、

「つまらない話をくだくだいたしまして」

などと恐縮しながら謙遜するあたりも、日本人らしさを感じさせる方でした。

先生の講演については、また項を改めてお話させていただきたいと思いますが、
とにかく李登輝氏の講演が聞けなかったことの無念さは、
その素晴らしい内容のおかげですっかり払拭されたやに思われました。

払輪社の恒例行事が恙無く終わったあとは、お待ちかね歓談タイム。
あたりまえですが、台湾の宴なので中華料理です。


驚いたのはわたしの所属するいくつかの防衛団体に限らず、ロータリークラブなど
日本人の団体が行うパーティのように皆知り合いとだけ話すのではなく、
このクラブでは次々と新しい人が挨拶にやってくるのです。
日本企業を相手に仕事をしている会社の社長などが多いのでそれも当然ですが、
その積極的なのにはびっくりしてしまいました。

わたしなど、あっという間に自分の名刺が無くなってしまったほどです(T_T) 

同じテーブルの台湾人ロータリアンは、一人は弁護士、一人が化粧品会社の社長。
共に次の日の便で日本に行くことになっていて、飛行機まで同じでした。
彼らが日本語での会合を週一回のわりで続けている理由のひとつに、日本での仕事のため
語学力をキープするという意味もあるのではないかと思われます。



わたしの知人はご夫婦での参加でしたが、筋金入りのお酒好き。
奥様はとくに紹興酒がお好きで、台湾では紹興酒の年代物を買って帰られるそうです。
ここで出されたのは三年ものなので、レモンを外から握って中身を潰し、
ボトルの蓋を差し込んで紹興酒に注ぎ入れていました。



会の最後に、李登輝氏の秘書が元総統の欠席を詫びる挨拶をされました。
李登輝氏の秘書、H氏は(何人かいるのかもしれませんが)日本人です。
われわれと元総統の個別面談を調整してくださっていたのもこのかたなのですが、
今回の欠席については体調不良ではあるが今日だけのことであるという説明をされました。


ところで、わたしたちは李登輝元総統にお土産を日本から郵送させていました。
「傘」です。(選んだのはTO)
この傘、ただの傘ではなく、日本の職人技術の粋を集めたとでもいうべきもので、
決して壊れない、そして軽い、一振りすれば濡れた傘も瞬時に水を弾く。
車に濡れた傘を持ち込む時の不快感を軽減する機能なので、例えばレクサスでは、この傘を
車の購入者へのプレゼントにしていて、わたしたちは「L」マークのレクサスバージョンを
一つ特別に売っていただき、レクサスではない車に乗せて使っています。

この会社の社長に、御社の傘を李登輝氏へのプレゼントにしたいからと相談したところ、
社長は張り切って、特に軽さを売りにした開発中のモデルを、
「李登輝モデル」として前倒しして完成させ、台湾まで送ってきてくれたのでした。

これほどの気合の入った渾身のモデル、ぜひご本人に直接お渡ししたかったのですが、
今回は秘書の方に預かっていただくことになりました。


そして、最後にこんなニュースを発表されました。
7月21日から数日間、李登輝元総統が来日するというものです。

【台北=山下和成】台湾の李登輝・元総統(92)の事務所は8日、
李氏が21~26日の日程で日本を訪問すると発表した。
訪日は昨年9月以来で、東京、福島、宮城の3都県を回る予定だ。
東京での講演のほか、李氏がかねてより希望していた東日本大震災の被災地も訪れる。

李氏の訪日は2000年の総統退任後、7回目となる。
東京では22日に国会議員会館、23日に外国特派員協会で講演する。
24日には福島県郡山市の病院で先端がん治療の現場を視察する。
宮城県では25~26日に松島町の瑞巌寺のほか、岩沼市にある震災の慰霊碑を訪れる予定だ。


秘書の方は「明日メディアに発表する」とおっしゃっていたので、
わたしたちはこのニュースを世界で一番早く知ったことになります。

日本側で行われる歓迎レセプションでは、わたしは在米中なので行けませんが、
TOが参加して、元総統にご紹介していただくことになるでしょう。

中止となった講演はまた行われる予定なので、また訪台してでも参加するつもりではいますが、
その前に李登輝氏が日本でされる活動、特に国会会館でどんな講演が行われるのかを、
注視していきたいと思っています。


 

 


ボストンー成田ー台湾

2015-07-19 | お出かけ

東海岸をボストンからニューヨークまで走り回り、息子を学校に預けた後、
私たち夫婦はローガン空港から成田に向かいました。



ローガンの鶴丸航空(仮名)カウンターには、七夕の笹が。
短冊がかけられた笹は、ちゃんと日本の神社に奉納すると説明されています。



「飛行機で気持ち悪くなりませんように」

今から飛行機に乗るから切実なお願いですが、おそらくそれは叶うでしょう。
そのほか、

「今の3倍の速さで飛ぶ飛行機が発明されますように」

という(これは大人)お願いもありましたが、その速さで飛ぶ旅客機は多分
機内サービスはもちろん、立って歩き回ることもできなくなると思う。

鶴丸のカウンターでチェックインをしてくれたのは、なんと日本語が喋れるアメリカ人男性。

「オニモツハイクツアリマスカ〜?」

「パスポートオネガイシマース」

とか、基本的接客は全て日本語おけーな人でちょっと新鮮でした。
ちょっと話がややこしくなると英語になってしまっていたものの、気のせいか
英語での接客より丁寧で、にこやかな彼にも好感持ちまくりです。



気持ちよくチェックインを済ませ、ゲートに向かうと入り口では
上半身だけ映像の看板がゲートを通過する際の注意事項を説明していました。
去年これはなかったので、この一年間の間に導入された最新システムでしょう。



行きは中央の2席だったので、窓際が嬉しい。

 

またもやTUMIのポーチが手に入ってしまうのだった。
よく考えてあって、アメリカ行きは黒、帰りはグリーンと、色が違います。



ボストン・ローガン空港は、周りを海で囲まれています。




滑走路からは、付近を航行する船舶やヨットがよく見えるのですが、これは
おそらくボストン湾の遊覧船であろうかと思われます。



この高速艇にもよく見たらたくさんの乗客が。
ボストン湾観光で何を見るのかわかりませんが・・・。
「ボストン・ティーパーティ事件」の現場とか?
この時は独立記念日の次の日だったので、独立関係の観光地は混雑したのではないでしょうか。

冒頭写真は離陸してすぐに見えるボストン湾の半島。
実に面白い形をしているわけですが、この「さすまた」のような形の先端にも、
途中の中州にある緑地にもちゃんと民家があって人が住んでいるんですね。

こんなかわったところに住みたがるのはアメリカ人の場合とんでもないリッチな層ですが、
上空から見ても一軒一軒の大きさがただ事でないのがよくわかります。



機内食はまたしても「洋食・魚」を選びました。
同じようなメニューで食材が違うだけですが、気のせいか日本初の方が美味しかったような・・・。



なんだか微妙なメインディッシュだなあと思ったらこれは前菜でした。
自分で頼んでおいて白身魚が出てこないのに何の疑問も感じなかったという・・。



デザートはパンナコッタで普通に美味しかったです。

帰りの機内では、テレビ番組が通しで観られることを知り、

「ドクターX〜外科医・大門未知子」

とかいう絶対失敗しない女外科医の話(笑)を全9話通しで見てしまい
それだけで13時間のフライトのうち9時間を費やしてしまいました。orz
観終わってあと4時間だけでも寝ておこうと思ったのですが、
食後に頼んだ紅茶のカフェインのせいで一睡もできないまま成田に到着。



成田は雨でした。
しかし、ここでは一歩も出ないで台湾行きに乗り継ぎです。

登場を待つ間、マッサージ屋に行って1時間20分のコースで頭から足の裏まで
しっかりとほぐしてもらいましたが、其の間も全く眠れず。

ボーッとしながらゲートに行って、トイレの中に携帯とクレジットカードホルダーだけ入れた
小さなポーチを忘れたのに気づいて真っ青になって取りに行ったら、そこにはなく、
出発前なので取り敢えずカウンターに行ったら、カウンターの上に置いてありました。

「日本でよかったね」

と呆れながらいうTO。
しかも、中国本土行きではなく(まずそういう便に乗ることは今後もないと思いますが)
台湾行きのカウンター横であったからこそ、届けられたのだと思います。

台湾行きの最終便は、観光できたらしい若い台湾の人たちが圧倒的に多く、
その中の一人が映画「KANO」のTシャツを着ていたのが印象的でした。

あの映画を観て日本に興味を持ってくれたのでしょうか。
台湾人の男性と日本から来た女性の今と、昔終戦の時に、
台湾から引き上げてくる日本人男性と台湾人女性の恋を絡めて描いた
同じ監督の「海角7号」という映画は台湾では大ヒットとなったそうですが、
台湾の若い層がこうして日本に興味を持ってくれるのはありがたいことだと思いました。



機内で寝られるかと思ったのですが、所詮3〜4時間(どっちだっけ)のフライトなので、
やはりうとうとした頃に桃園空港に着いてしまいました。



桃園空港は松山空港と同じくらい新しい感じがします。
入国審査のときには後ろに6〜7人の若い女の子のグループが、
別れて並べばいいのにひとかたまりになって少し緊張しながら並んでいました。

入国審査の前の立ち入り禁止線を越えてわたしたちの後ろに着いてきたので、

「黄色い線で並ぶんですよ」

と教えたら、素直にすみません、と言って皆で線の後ろに移動。
もしかしたら修学旅行以外で海外に来るのが初めてだったりするのかな。
日本の若い人たちも、震災以来台湾に対する好意と興味を持つようになり、
台湾からの日本への観光客は昨年最高人数となって、民間レベルでの

交流が進んでいると感じます。

ちなみに、東京にいる観光客で、おしゃれで洗練された格好をしているのは
ほとんどが台湾から人たちであることが声の小ささでわかります。
ここ台湾でも、大騒ぎしてダサい大陸からの客は現地の人に内心馬鹿にされている模様。
(現地の人の感想による)

今回台湾で、大陸からの団体が至近距離で大騒ぎしていたのですが、
その中のおじさんがが背負っているのが
プラダのバックパックでした(笑)
身につけているものは一流品だというのに全くおしゃれに見えないという・・。



台湾の空港などで見かけたキャラクターのクマ。
このいかにも可愛くない感じにくまモンの影響を感じます。

わたしたちは空港に唯一あるノボテルホテルに一泊予約をしていたのですが、
どうやってそこまで行くのかわからず、案内を見ていると、横から男性が
どこにいくのかと日本語で尋ねてきてくれ、ホテルには専用バスがあること、
バスの乗り場がどこにあるかを丁寧に教えてくれました。

「ありがとうございました」

「本当に助かりました」(聞いていなかったら歩いて行くところだった)

そういって歩き出し、台湾の人はいつ来ても皆親切だねー、と言いながら振り返ると、
男性は立ち止まってわたしたちがちゃんと教えたところに行くかどうか見ていました。
慌ててもう一度お辞儀するわたしたち。

前回の旅で、台南駅では成功大学の学生らしい人が英語で話しかけて助けてくれたし、

本当に台湾の人たちは親切です。




「なるほど、はんてんせつばくしゃで行くわけですな」

かこうしょふとくはんてんせつばくしゃに乗るのね」

台湾に来ると不思議なくらい漢字だけで意味が伝わってしまいます。
面白がって漢字をそのまま読んで楽しむわたしたち。




今回乗り継ぎがなかったので桃園空港に着く便に乗ったわけですが、
ノボテルに一泊することにしたのは、ボストンから飛行機を乗り継いできて、
桃園からさらに市内まで移動するのが大変ではないかと思ったからです。
実際はタクシーに乗っても3000円(日本円)くらいだったことが後からわかりましたが、
しかしそのおかげで、この比較的安価なわりに居心地のいいホテルに泊まれました。

ホテルのロビーではブリキのヤカンや楽器、バケツを使って作った楽隊がお出迎え。



フランス資本のホテルだけあって、インテリアも小洒落た感じがします。
清潔だしインターネット環境は最高だし、思わぬ収穫でした。
台湾のIT技術は昔から国家的戦略によって大変進歩しており、その恩恵で
市民も大抵のところでは無料でインターネットに接続することができます。

そういう国はアメリカだけだと思っていたのですが、インターネット接続に
いちいちお金を取るのはどうやら日本だけだったようですね。
日本ではホテルの宿泊客からですら料金を取るのが普通ですし、スターバックスでさえ
無料でつなげることができないのが当たり前ですが、こういうのは海外から来た人には
日本ほどの国なのにどうして、という部分となっていると思います。



どこに行ってもある程度日本語が通じてしまうのが台湾という国のありがたいところ。
部屋に置いてある案内物も全て日本語表記です。
しかしときどき可愛らしい?間違いがあるので、それを見つけるのも台湾の楽しみ。

モーにグコール・・・。

彼らにとっての難関はカタカナみたいですね。



さて、というわけで台湾に着いて最初の食事。
いつ来ても嬉しいのは、台湾はどこで食べても食事が美味しいこと。
そして、朝からいろんな種類の料理が食べられることです。

アメリカではどんなホテルでも卵とベーコンハム、シリアルにせいぜい果物、
という日本人の口にはそれだけでは辛い、(しかもパンがまずい)という朝ごはんが
続いていただけに、このホテルの朝ごはんには心底ホッとしました。

わたしは比較的どんな食事にも順応するタイプですし、通常のアメリカ滞在では
外食はほどんどせず自炊ですから平気なのですが、アメリカでは食欲をなくして痩せるというくらい
この手の食事が続くと涙目になるTOは台湾式朝ごはんに大感激しています。



日本では空港ホテルレベルの朝ごはんはあまり期待できないことが多いですが、
ここは空港ホテルといっても、隣に中華航空の本社があるという立地上、
ある程度のレベルをキープしているのかと思われました。

台湾のホテルでは時々見られる、モーニング麺のサービス。
手前のざるに入っている白い塊はビーフンです。
見ただけでは何かわからなかったのでこれはなにかと英語で聞いたらライスだ、というので、

「み?(米)」

とかすかな中国語の記憶を駆使して()聞いてみると少し嬉しそうにそうだと言います。



鉢に麺を盛り付ける様子は手際が良すぎて画像がブレるほど。



「はいよ一丁!」

というわけで端っこから麺が垂れていますが、細けえことはいいんだよ!



麺とビーフンを一つづつ作ってもらいました。



スープの味もあっさりとした、しかしなかなか味わい深い一品で、
TOなど文字通り涙目状態で「おいしいなあ」といただいております。



昔上海にいったときにはとにかくパンや菓子類がまずいと思ったのですが、
同じ中華圏でも台湾はどこにいってもおいしいパンが食べられる国です。
以前泊まった日月譚では、おそらくパリに次ぐ旨いクロワッサンがありましたし、
このノボテル程度のホテルでも日本のホテルよりレベルは上と思われました。

日本のホテルのパン、あれはなんなんでしょうね〜。



ホテルの窓から「航空博物館」という建物が見えました。
本日夜まですることのないわたしたち、これは行くしかないでしょう、
とホテルの人に聞いてみたら、なんと驚くべきことに

「今はやっていない」

道理で駐車場が朝からぎっしりと満車になっていると思った。
付近に務める人たちの無料駐車場にされていたのね。
後から地元の人に聞いたところ、どこかに移転させるためにここは閉鎖するとのこと。

「海の博物館」のように仕分けにあって無期限閉鎖とかいうのでなくてよかった。
なん年後になるかわかりませんが、どこかにオープンしたら是非見に行きたいと思います。



移動の時に見つけたバーらしきものの看板。


「酒泉市は、我々は東アジアで行う」

いったい誰に向けての秘密の暗号なのか・・・!?


続く。


 


東京駅前ホテル(仮名)でプレジデント気分

2015-06-19 | お出かけ
はてなブログに移転しました

旅しながら淡々と写真を貼る~久美浜のオーベルジュを訪ねて

2015-06-11 | お出かけ

ふと思い立って日本海を見てきました。
例によってうちのTOが、お付き合いで立ち寄った久美浜のお洒落ホテルに
こんどは家族を連れて是非泊まりに来たいと思い立ち計画した一泊旅行。

行き先は京都府京丹後市久美浜です。
わたしは久美浜という地名に激しく聞き覚えがありました。
それもそのはず、久美浜というのは、京都府と言いながら兵庫県の真裏の日本海側にあり、
わたしは小さい時に家族旅行で何度か、そのときは車で海水浴に行ったことがあるからです。

TOの口から「久美浜」という言葉が出て、また行くことになったとき、
不思議な縁を感じたのですが、この度は家族は家族でもわたしの夫と息子と、
車ではなく新幹線で関東から向かうことになったわけです。



ニコンのカメラと望遠レンズを持ってきながらメモリーカードを忘れるという、
サザエさん的痛恨のミスに気がついたのは、京都駅から福知山で乗り換え、
豊岡という駅に着いて、二時間に一本しかない京丹後鉄道の電車を撮ろうとしたとき。

「メモリーカード忘れた。あの電車撮っといて」

息子が呆れながらiPhoneで撮ってくれたのが上の写真。
しかし、同時にわたしは、下手なカメラよりずっとマシなレンズ付きの
iPadairを、カード会社のポイント交換で手に入れたばかりだったのを思い出し、
この後からiPadを使って写真を撮りました。

なんだか気のせいか、あまりニコンと変わらない気がするなあ・・。




本当はこの前日京都に一泊して、翌日早くホテル入りする予定だったのですが、
息子の学校の用事が後からわかったため、TOに遅れて夜のチェックインになり(T_T)
ホテルの部屋を見て、もったいないことをしたと心から悔やみました。



階段を上っていくと、小さな扉があり、ここが部屋の入り口です。



はしゃいで踊っている人あり。

内部はこのようなヨーロッパの田舎風。

梁が出ていてまだ木のにおいも真新しい、このホテルは1年前に
大々的にこれらのコテージ風の客室が点在するタイプに改装したそうです。



どうですかこのおしゃれな水回り。

この会社は神戸のアパレル輸入会社で、この地に倉庫を持っていて、
最初は2部屋だけの小さな宿を経営していたそうですが、このたび規模を拡張し、
ついでに洗練されたオーベルジュとしてリオープンしたというわけ。

ユナイテッドアローズやトゥモローランドなどにも輸入した衣料を卸しているそうで、
おしゃれなのも激しく納得です。



水回りが完璧なのはホテルとしてポイント高し。
床の木材は滑らかで清潔、裸足で歩き回ってもまったくOK。
アメニティもAESOP(イソップ)のソープ類を使うなど、一味違います。




私たちの部屋の地下に、倉庫と洗濯場があって、そこに入っていけるのも
なんとなく日本離れ?していましたが、その地下の床になぜか入り込んでしまったらしい
サワガニがいました。

かわいそうに、食べるものがなくつい最近お亡くなりになったようです。



遅くに到着したのでさっそく夕食をいただきました。
この季節だというのに夜は寒く、また夜遅かったのでカフェインの入っていない暖かいものを、
と頼むと、バーベナの葉のハーブティーを出してくれました。



軽いコースの前菜はカツオのマリネや貝、キスみたいな魚のフライ。



オコゼのフライとアスパラガス。
このオコゼは絶品でした。



和牛のステーキ。
こうして写真に撮ると大きく見えますが、実寸は2㎝×4㎝×5mmくらい。
しかし味が濃厚で旨味のある肉は少しで十分でした。

アメリカ人なら少なすぎて暴れるレベルですが、こんな滋味溢れるステーキも、また、
アメリカではお目にかかることのないレベルです。



ディナーのメインディッシュはアクアパッツァ。
アサリは半分くらい残りましたが、二匹の白身の魚は柔らかくて味が濃く、都会のホテルで出される
「ソースは濃厚だけど身はパサパサで残念」な白身魚とは格が違いました。
味付けもガーリックをメインに、オリーブオイルと香草と塩だけ。



デザートは甘い甘いイチゴを使ったパンナコッタ。
クラムのシャリっとした食感が味を引き締めていました。

 

部屋に戻って一応インターネットを試してみましたが、まったく通じず。
当然ながら部屋にWiFiなど通っていません。

「これはインターネットは忘れて過ごせということね」

と肝に銘じ、おとなしく?iPadにダウンロードしてあった本を読みながら寝ました。
ちなみに今読んでいるのは「二つの祖国」(日系二世の記事を書くために読み直し)です。



明けて翌日。

改めて見る部屋の中は、わたしたちがボストンの郊外で泊まったことのある、

優に築150年は超えた民宿の部屋をそのまま現代に蘇らせたようでした。



カーテンも窓枠もないガラスの窓。
このあたりは現代風です。




外に緑が見えていますが、この向こう側は海だそうです。



これは息子のとったiPhone写真。
私のとった写真より、手すりの影の映り方が綺麗だったのでこちらを採用。



ここでのんびりお茶を飲むこともできます。
冷蔵庫には水と桑茶のペットボトルが人数分用意され、コーヒーや紅茶を
ラッセルホブスのケトルで沸かして飲むこともできますが、
部屋にあった注意書きによると、飲み物、とくにお酒の持ち込みは禁止されているようでした。
ちなみにワインボトル一本の持ち込みに1000円かかるとのことです。



部屋に続くエントランス。
くまさんのいるところで靴を脱ぎ、階段を上がると部屋の扉があります。




こういうインテリアはいかにもフランス風だなと思ったのですが、



さらにこの外観を見て、昔パリ郊外のトロワという街の、

Le Champ Des Oiseaux

というホテルに泊まったのを思い出しました。
今久しぶりにHPをみると、チューダー朝風とでもいうのか、ずいぶんこれとは違いますが、
レンガを重ねた感じと、古い建築によく使われる、建具の黒い金属の使い方などは同じです。

このホテルを造るにあたっては、主にドイツの建築を実際に見に行って参考にしたそうです。



ここの自慢は朝ごはんなのだそうで、メインはこの温野菜。
生野菜やパンなどはビュッフェ形式で取りますが、この温野菜や、



卵料理は運んできてくれます。
今回はホワイトオムレツは頼まず、普通のオムレツをいただきました。



食事をしていたら庭の柵の向こう側に雉がきていました。

「今晩のディナーはキジの料理?」


と息子。

昨夜、久美浜の駅からここに来るまでの山道(街灯などまったくなし)を走っていると、
道の脇にシカがいましたし、ヘッドライトの前をわざわざ横切るタヌキもいました。
もちろんイノシシなどもたくさんいそうです。



ガーデニングも大変力を入れているそうで、わたしたちが次にここを通った時、
従業員がラベンダーの花がら摘みをしていました。
向こうにはオリーブの木もあります。

山間地帯で湿度が低めなので、イギリス風のガーデニングも可能なのでしょう。



こういったスレートを積み重ねたものも、ドイツから仕入れてきたアイディアで、
この石は普通の石を薄く切り出して、それを何層にも重ねたものなのですが、
その作業は全て、当ホテルのスタッフが手仕事で行ったものなのだとか。



マキを積み重ねておくための小屋。



わたしたちの泊まった部屋の廊下部分。
この雨樋を見ていただければ、ヨーロッパ風を再現するのに細部までこだわっているかが

お分かり頂けると思います。




街中にいきなりある、内部だけ作り込まれた結婚式場の、あのハリボテ感など微塵もなく、
ここが京田辺市の山中であることを忘れさせてくれます。
しかし、それは自然も一体となったもので、決して日本を否定するものではありません。

いわば「こんなのも日本でできるんですよ」「これも日本なんですよ」といったコンセプト。
温泉もない、近くに海水浴場もない、ただ自然と料理とホテルそのものを楽しむホテル。

こういうオーベルジュ型のホテルが日本にも随分増えてきたと思いますが、
有名な観光地ではないところは、中国人の観光客がまず来ないのが大きなメリットで、

敷地内に中国語やハングルの文字を見ずにすむのはたいへんうれしいことです(笑)



まったくの山間部にあるこの一帯は、耳をすますと四方からいろんな鳥の声が聞こえます。

ウグイスがさかんにホーホケキョを聞かせてくれました。
テラコッタのバードバスにも鳥が水浴びに来るようです。



近くにはハイキングもできる遊歩道もあります。

これはホテル所有のハーブ畑。



ハーブ畑はホテルの道を挟んで反対側の山の斜面にあり、登っていくと
昔このホテルがレストランにしていた建物がありました。
ここも十分おしゃれで、今倉庫になっているだけというのはなんとも勿体無い気がします。



ここに設えられたテラスから久見浜湾を望む眺望はこの通り、絶景です。

久美浜というのは地図を見ていただければお分かりですが、日本海から深くくりこんだ、
まるで湖のような形の湾で、まるで江田島の江田湾のように、内海は波一つたちません。



こういうところから望む湾は、まるで山間の湖のように見えます。



景色を見ていると、建物のそばにいたネコが近寄ってきました。

すごく人懐こくて、尻尾を触っても嫌がりません。

シャム猫とキジ猫がミックスされた変わった毛色です。



わたしたちに近づいてきたのは彼女の時間つぶしだった模様。

まずはその辺の草を食べ(毛が抜ける時期なので?)、



その辺ですりすりして、




散々遊んでいるところを見せてくれていましたが、下の山道に車が来たとたん、

(わたしたちには見えていましたが、彼女には見えなかったはずなのに)
音だけで聞き分けたのか、時間つぶしをやめ、



さっさと下から続く道の方へ移動。




車から降りてきたのはホテルの従業員の方。




倉庫の前に歩いていくホテルの人に走ってついていきます。




なんと、このネコはホテルの「公式飼い猫」。
平日は専門で面倒を見ている人がいて、餌の時間も決まっているのですが、
この日はその人が休みなので、かわりの人がその時間にえさやりのためにここにきたのです。

9時20分という「餌やりタイム」に1分も違わず。


ホテルの人が袋から出しているのは獣医さんから処方されたおくすり。
最近このネコ、とらじろう(女の子なのに・・)は歯を抜いたため、
抗生物質を投与されているのですが、ドライのキャットフードが食べられなくなり、
缶詰の半生タイプを与えられているのだそうです。 



その辺の山を駆け回って自由に遊んでいるとらじろうですが、

ここでごはんがもらえるため、ほとんどこの辺りでうろうろしているそうです。

下に降りてくることはほとんどないのですが、牛肉を焼く匂いがするときだけ、
キッチンの外側に来て、もらえるのを待っているのだとか。

ネコのくせに牛食べるのか・・・。




お食事終了。
左にある小屋はとらじろうの邸宅で、冬は雪が多いこの辺りの気候のため、
毛布をかぶせた箱のなかに「ネコつぐら」を入れ、さらにはその下に
電気式の暖房シートを仕込んだ完璧な仕様です。
冬はずっとこのなかにいてご飯の時しか出てきません。

給水中。
さすがはおしゃれなホテルの飼い猫なので、餌入れもホーローのパンケース。
積み重ねたレンガの棚といい、こんなところも手を抜きません。



食事が終わったので満足した彼女はわたしたちの相手になってくれました。




例によって一番可愛がってくれそうな人(わたし)を見極めるや、

足元に寝転んで撫でてくれアピール。



ところでこのホテルは、ホリディホームといいます。
久美浜に行かれたらぜひ、というか、ホテルに宿泊する「だけ」に行く価値のあるホテルです。



ドイツ風の建築にはメルセデスがよく似合う。
ここには取引先、たとえばユナイテッドアローズやトゥモローランドの偉い人も泊まりにきます。

元々はそういう取引先の人たちを泊めるために宿泊できる施設を作ったのだとか。



歩いて5分ほどのところにキャンプ場があり、海岸に面していました。
向こう側は市役所や学校などのある久美浜町の中心部分。







ところで部屋のテレビ台になっていたこのタンス、どう見ても江戸年間のものです。

鍵のかかるバーが前に設えていることといい、



タンスの引き出しに「証書(旧字体)」「田」などのラベルがあることから、
昔、役所や銀行のようなところで使われていた書類入れではないかと思われました。



さて、ホテルをチェックアウトして久美浜の駅で電車を待っているわけですが、

ホテルには元々の本業であるアパレルのブティックもありまして、
記念にと横縞のTシャツと麻のスカート、ワンピースなどを購入しました。

ここが輸入しているストライプのシャツですが、元々はフランス海軍の
あの赤と白のセーラー服の内側に切るシャツを納入していたメーカー。
つまり、海軍御用達です。

そういうブランドならではの横縞Tシャツは、着心地がよくシルエットもそこそこタイトで、
元々持ってきたファリエロ・サルティのストールと合わせてもいけます。
帰りに駅まで送ってくださったホテルの女性従業員が、

「そういった大人っぽい着こなしをしていただけると嬉しいです。
たいていカジュアルに着られるので」

と褒めてくださいました。

この会社はビルケンシュトックなども輸入しています。



向こう側にやってきたカラフルな電車。

久美浜を通るこの路線は「京丹後鉄道」といい、JRではありません。
昔廃線になりそうになったのを、地元の第三セクターが買い取り経営しています。

2時間に1本の運行だそうですが、交通が前線バスになるというのも
地元の人たちにとっては不便になるということだったのでしょう。



ちなみに会社は北近畿タンゴ鉄道といいます。

タンゴは丹後とダンスのタンゴをかけて、あえてカタカナです。

私たちの乗る電車がやってきました。



ご覧の通り、まったく電車らしくないテーブル付きの席で、二両のうちこちらは

指定席、そして注文すれば食事もできます。
わたしたちはたった二駅だけなので飲み物だけいただきました。



豊岡駅にあっという間に到着。

西舞鶴方面まで行けば、長時間乗れるうえに天橋立も見られるのですが、
今日は時間がありませんでした。



豊岡というのは「カバンの街」だそうです。
駅のホームに「カバンの自動販売機」がありました。
1500円で、ケースに入ったエコバッグが買えます。




「コウノトリの郷」という駅名もあったほどで、この辺はコウノトリの生息地。
車窓から田んぼに降り立つコウノトリの姿をわたしたちも目撃しました。



というわけで、京都に到着したのは4時。
12時半の久美浜初の電車に乗って3時間半です。
お腹が空ききってていたので、駅ビルにある「はしたて」に車内から予約を取り、
このような「金目鯛つくし」のお膳に舌鼓を打ちました。
金目鯛の丼と、金目鯛のフライが乗った冷麺。

この日は京都に一泊してから翌日家に帰りました。

慌ただしい旅行でしたが、久美浜にいた15時間(たった15時間・・・)だけが、
まるで時間が止まったかのようなゆったりとした気分になれました。

わたしは結局三度目の久美浜となったわけですが、
民宿から水着のまま歩いて海岸に行った、昔の記憶を呼び起こすものは何もなく、
新しいコンセプトの癒しの空間が、ここを全く初めての土地のように感じさせました。



 


みどりの日のディナー

2015-05-04 | お出かけ

東京の丸の内にあるフォーシーズンズホテルのメインレストランは
今年に入ってずっと改装工事をしていたのですが、それが完成したので、
さっそくディナーを楽しんでまいりました。

少し息抜きにおつきあいください。



規模としては大きなホテルではないのですが、5つ星で、
在京ホテルの中ではマンダリンオリエンタルとともに我が家の評価の高いホテル。
どんな風に変わっているのか楽しみです。

エレベーターを降りたところのインテリアも変更あり。



開業当時はフロントがこのフロアにあり、この部分から右側が
全てフロントスペースのソファなどになっていましたが、
一階にフロントを移し、ソファスペースをティールームのようにしていました。

今回の改装で、このフロア全部を飲食のスペースにしてしまい、
左をダイニング、右をバー&ティーコーナーにしつらえたようです。



ダイニングスペースも大幅にリモデル。
花瓶に生けられた満天星 (どうだん)が広がりを感じさせます。



バーテンダーも変わったそうです。
どんなカクテルでもイメージだけ頂ければ作ってみせるということだったので、
まずはグレナデンを使ったノンアルコールカクテルを注文してみました。
通されたテーブルはもっとも上席であるコーナーで、東京タワーが見えます。

グレープフルーツを使って甘さ一辺倒にしていないのが大人、なお味でした。




しばらくお料理は大皿の上に敷かれたリネンの上にサーブされます。
プリフィックスコース、まずはタマネギのキッシュ。
熱々で火傷しそうなキッシュは、タマネギの甘みが生きていました。



実はこの少し(3日)前に、お昼にお茶を飲みにきたのですが、
そのときにもこの木の枝にクッキー?を引っ掛けて持ってきました。

見かけからは何か想像もつきませんが、要は練り物系天ぷらです。
これも熱々で、噛むとフキノトウのほろ苦い味がしました。



見ればわかる。ウニですね。
息子はウニカニの類が大嫌いなのですが、これは食べていました。
普通の味付けでは食べられないものでも、創作したものであれば口にできるようです。
オクラのとろりとしたジュレの中に浮かぶウニをすくって食べるのですが、
お味はともかく大変食べにくかったです。
ウニの殻に入っていなければぐいっと一飲みしたい感じでした。

安物のウニは型崩れを防ぐためにミョウバンを大量に使うので、
苦くて妙な味がするものですが、ここのはもちろん塩水ウニといって、
ミョウバンを使わず塩水で保持しているものですから美味しかったです。

北海道出身のアドバイザー(シェフのことかどうかはわからず)が、
今調理を担当しているので、素材も新鮮なものばかりということでした。



このカップが出てきたときに息子が、

「このカップ、ホテルの客室に置いてあったコーヒーカップだ」

といいました。
確かにそうです。
ホテルの部屋でコーヒー紅茶を淹れて飲むために備え付けのものなのですが、
なにしろデミタスサイズなので不便で堪らず、わたしたちは
お茶を飲むときわざわざ大きなカップを持ってきてもらっていました。

「もしかして部屋で不評だからこっちで廃品利用することにしたんじゃ」
「・・・それはないと思う」

真偽はともかく、これはオマール海老のビスク。
フォームの上にかかっているのはカレーパウダーで、このカレー味が
オマール海老独特のちょっとした「臭み」を見事に消す役目をしていました。



お酒の飲めないわたしたちは、「白」といってもこのようなものを注文。
ぶどうジュースじゃありませんよ。
ノンアルコールワインといって、ワインからアルコールだけを抜いたものです。
ジュースのような渋みが全くなく、全くワインのような風味があります。



実は一番美味しかったのがこのお皿。
ただのサラダのようですが、アスパラガスを細かくナイフで刻み、
お皿に乗せられた3種類のゴマやソースで味の変化をつけていただきます。



ウェイターが銀色のドームをばーん!と開けてこれが出てきたので驚きました。
ホッキ貝です。
そういえば北海道の漁港で、ホッキ貝専門食堂のホッキ貝のカレーを食べたことがあるなあ。
今にして思えば、ホッキ貝をカレーに入れるってなんてもったいないんだろうというか、
味がわからなくなってホッキ貝の意味ないんじゃね?というものでしたが。

「イメージキャラクターがホッキー君・・・・だったっけ」
「そういえば、ホッキ貝がホッケー選手の格好してましたね」
「英語でホッケーは”ホッキー”だから・・・」

などと思い出話をしながら貝の蓋を取ります。



これも泡か。
この中にホッキ貝の身が入っているわけですが、さらにその実態はリゾット、
つまり底の方にはご飯があるのだった。
貝も嫌いな息子がなぜかこれにも果敢にトライしておりました。
これだけ手間ひまかけてれば、家でも好き嫌いなくなんでも食べるってことなんだろうか(笑)

うーん、悪いが、母ちゃんそんな料理にかけている時間はないんだよ。



続いての銀色ドームを一応写真に撮るわたし。
ちなみにバケットとバターは死ぬほど美味しかったです。
しかしウェイター氏は

「パンをあまり召し上がられると、お料理の方が・・」

とおかわりを勧めませんでした。
ごもっともです。

さて、例によって恭しく三人のウェイターさんが一斉にドームを持ち上げると、



続いてのお料理は北海道でしか獲れない、カスベでございます。

「ああ、そんな歌ありましたね。カスベの女って」
「それはカスバ」

さすがは関西人、こまめに突っ込んでくれてありがとうTO。 

「へー、初めて見るけどカスベって変わった調理法で食べるのね」

と思う間もなく、



こちらがカスベでございます。
奥の立柱はジャガイモでした。 
ジャガイモだけをわざわざシルバーのドームかぶせて持ってくるんじゃねー(笑)

で、カスベって何者なのかね。

「エイのヒレのことです。北海道や東北などでは煮付けにして食べます」

お味は柔らかくて、なんというか、ハモをこってりと脂っこくした感じ。
ケッパーのと後からかけられたバターソース(冒頭写真)が合う味でした。



ここでまた再びTOがバーテンダーに無理難題を吹きかけます。
(このひとはこういうことになると情熱を燃やす傾向に)

「ウーロン茶を使ったさっぱりめのカクテルを・・」

職人肌のバーテンダー(たぶん)が、一旦できた完成品を気に入らぬ!と捨てて(!)
もういちど作り直した自信作がこれ。

確かに食事と一緒にいただくのに最適のあっさり味でした。



松の香りを肉に移すため?
今からこれを焼きます、と持ってきたカモ肉。
メインはコースによって牛肉、豚肉、そしてこの鴨肉の三種類があります。



実はこのころには十分予想されたことですが、お腹がいっぱいになってきていました。
決して大きな肉ではないのですが、食べられるかどうか不安。



付け合わせもあとから乗せてくるし(笑)
ポテトも肉も、わたしは残してしまいましたm(_ _;)m



しかし非情にもまだまだデザートが終わっていないのだった。
別腹などと言えないレベルにお腹いっぱいですが、頑張ります。



いちごのシャーベットにいちごを煮たソースがけ。
ここで終わりと思ったら、



駄目押しで出てきたケーキは日本酒のババ。
babaというのは決してお皿に書いてある「ハッピーバースデイ」とは関係なく(´・ω・`)
お酒(たいていラム酒)を染み込ませた焼き菓子のことなのですが、
これは日本酒を染み込ませてありました。



そこで運ばれてきた花束代わりのニコライバーグマン・フラワーボックス。
ケーキに火のついたローソクがさしてあって、従業員が皆でハッピーバースデーを歌うというような
恥ずかしいサービスは、ここではやらない主義のようです。よかった。

この日は祝日だった(みどりの日)にもかかわらず、レストランには我々を含め
ディナーを取っているのは3組だけで、わたしたち以外はどちらも
白人系外国人のゲイカップル(多分)の旅行者でした。



最後のお茶と共に出してくるお茶菓子。
だからもう寸分たりとも入らないんだよ!
と思いながらも、ウェイターがこのマシュマロを好きな長さに切ってくれるというので、
本来の大きさくらい、と頼んで切ってもらい、口に押し込む羽目になりました。

というわけで本年度の誕生日は滞りなく終了したわけですが、
今年プレゼントにもらったの
は、・・・・・・ニコンのレンズでした。

これについてもいろいろあったので、またそのうちご報告します。



 


京都・雨の花見旅~「諸子」の味

2015-04-09 | お出かけ

 



日本人はソメイヨシノが好きですが、他の種類の桜も今満開で
存分に美しい開花を楽しむことができました。
将軍塚の周りに紅白に並んでいた愛らしい桜。




桜の種類は300以上あるそうで、だとしたらこれがなんという桜なのか
特定するのはとてもではないけど無理でしょう。



この薄紅色の桜も先ほどのとは違う花弁の形をしています。



これはソメイヨシノ。



雨の雫が今落ちんとするところを捉えてみました。
ちょっとこの時だけはニコンの写真教室を思い出しました(笑)




将軍塚を見下ろすために鉄の物見櫓のようなものができていて、
そこから下を眺めたらこんな景色が眼下に広がっています。



菊地さんという方の手植えの松。(の碑)



有名どころとしては、大隈重信の松というのもあります。
ただ、「後継の松」となっているところを見ると元木ではなく、
接木をして増やした子供の松のようです。

明治年間に一度青蓮院は火事に遭っていますので、もしかしたら
そのときに大隈の松は被害に遭ったのかもしれません。



最初の手植え松のためにはこんな巨大な石碑が建てられたようです。



ここにある桜は年季の入ったものが多いようで、幹にはこのような
苔が寄生しているものがありました。



ちょっとこういうの、キモいと思ってしまうわたしがいる・・。



年代物ですでに姿形も風化してしまった石仏たちがまとめられていました。
もしかしたら寺創建の頃から800年間ここにおられる仏かもしれません。



椿もわずかですが赤い花を咲かせていました。



タクシーを駐車場に待たせておいたので、それに再び乗ってお昼ご飯をいただく
和久傳まで移動。
途中でこんな油そばの店を見つけました。(油そばってなんだろう)
そういえば高校の古文の教科書に自分の犬が戯れて飛びついたのを
尻尾の裂けた「猫又」だと思い込んで

「猫又よや、よや」

と叫んだ坊さんの話を思い出さずにいられませんでした。
学校で習ったことってほとんどが記憶の彼方ですが、こういう話は忘れないんですよね。




たくさんのお茶屋や料理屋が軒を連ねる路地の一角にあるお店に到着。



個室の中はカウンターがあり、掘りごたつのように座る座敷となっています。
はあ、これは楽~。(正座は苦手です)

カウンターの中で板前さんがマンツーマンでお料理を作ってくれるのです。



座敷の横は土間のようになったスペースで、そこのタイルはまるで
打ち水をしたばかりのように見える不思議な素材でした。



まず食前酒。竹の徳利?とお猪口がでてきます。



和食ですから、前菜とかではなく次々とメイン的なお皿が出てきます。
これはゼンマイの添えられた鰆の刺身(だったかな)。



イイダコの唐揚げ。
タコ嫌いの息子もとりあえず頭の部分だけ食べました。



ジュンサイに木の芽の入った筍のお汁。



焼き物を焼く前に見せに来ました。
右側の魚はモロコといい、琵琶湖で今の季節だけ獲れるものだそうです。

「ブラックバスに駆逐されずに済んだんですか」

と聞いてみたところ、やはり一度はブラックバスのせいで絶滅しかかったのを
なんとか保護し、ブラックバスを「バス釣り」として奨励することで
また獲れるレベルまで回復したのだとか。

真ん中の魚はまるでガラスのような透明な鱗が立っていて、
すこしぞわっとする感覚がありますが、この鱗が美味しいのだそうです。



うにと海老の和え物が出てきたとき、女将さんがご挨拶に来られました。
「奥様」と書かれた封筒に入れたポチ袋のセットをプレゼントしていただきました。
これが本場京都の「お・も・て・な・し」の心というものでせうか。



囲炉裏のようなところに備長炭を入れ、焼き物の始まり~。



包丁さばきも鮮やかに切っているのはミルガイ。



パラリと塩を振っただけのミルガイと筍は絶品でした。



モロコが焼かれ中。

「モロコってどう書くんですか」
「ごんべんに者と子供の子です」
「諸子、か~」


日本海大戦決戦前の三笠で伊地知大佐が12インチ砲塔の中段から、

「本官は最後の訓示をする。
諸子もすでに承知の通り、今から一、二時間の後には待ちわびた敵
バルチック艦隊といよいよ雌雄を決戦とするのである・・・」

と訓示したという話をなぜかこのとき思い出してしまいました。
(今”諸子””伊地知”で検索したら自分のブログが出てきた(´・ω・`))

伊地知艦長は癖であった右指一本で小鼻を撫でる動作の合間ににじむ涙を拭きつつ、

このように続けたそうです。

諸子の命は本日ただいま、本官が貰い受けたから承知ありたい。
本官もまた、諸子と命をともにすることはもちろんである。
いまからはるかに聖寿の無窮を祈り、あわせて帝国の隆盛と
戦いの首途(かどで)を祝福するため、諸子とともに万歳を三唱したい」


というわけで諸子が焼かれ中。
諸子は思ったより淡白で、鱧のような歯触りでした。




鱗焼きされた木の芽あえの白身魚(名前忘れたorz)
脂が乗っていて大変美味でした。

「アメリカ人をこういうところに連れてくると、全部食べ終わってから
大変結構な前菜だったがそろそろステーキか?って聞くらしいよ」

「あの人たちは肉食べないと気が済まないからねえ。
知ってる?ジョージワシントンでは毎日牛3頭食べるんだって」

とか言っていたら、肉が出てきました。
なんと付け合せは土筆と野草です。

「土筆!なんか久しぶりに見た気がする」
「わたし小さい時に学校の帰りに摘んで夜煮付けにしてもらったなあ」
「今土筆の生えた空き地なんてないよねえ」

などと思い出話に花を咲かせながら調理を見ていると、



葉っぱと生の肉の上に熱い出汁を注ぎ入れ、その熱で調理終了。
少し赤みの残った肉は柔らかくジューシーでした。

というところでメインは終わり、いわゆる「お食事」、ご飯です。
土鍋で炊いた美味しそうな白いご飯を、そのままで一口、お茶漬けで一口ずついただきました。



デザートはレモンのゼリーとこのちまき?



と思ったら中は生姜を葛で固めたものでした。
さっぱりして大変美味しかったです。



お薄でお食事はおしまい。



ところで、まるで居酒屋のように騒ぎながら飲食しているかと思ったら、
廊下で携帯を大きな声でかけたりしていた関東から来たらしい一行が、
帰る時になって、預けていたコートを持ってくるのが遅いのが逆鱗に触れたらしく、

「この店最低ね!」

などと大声で叫びまくっているのが車を待っている間聞こえて、わたしたちは顔を見合わせました。
どうしてわざわざ京都のこんなところまで来て、イライラせかせかするのか。
第一、楽しみに来ていて自らそれをぶち壊すなんて損以外の何物でもない気がするのですが。



車を呼んでもらって再び桜のきれいなところを選んで走ってもらいます。



運転手さんの説明によれば、鴨川沿いの桜は上流に行くほど樹齢も高く、
この辺のもので150年は経っているとのことでした。
ソメイヨシノの平均寿命は60年と聞いていたのでこれにはびっくりです。

ここはバス停なのですが、おそらく今日本一風情のあるバス停でしょう。



去年は桜のバックに抜けるような青空の対比が鮮やかでしたが、
薄鼠色の空に溶け込むような桜もまたオツなものです。 

樹齢の高い桜は幹が苔むしているのですぐ分かりますが、それらはまた
河原に向かって枝を下ろしていき、まるでしだれ柳のような枝ぶりに花をつけます。

運転手さんによると、この道を走るのをタクシーは今の時期避けるということで、
なんとなればいつも大変な花見渋滞で動かないからだそうです。
しかし、わたしたちはその渋滞の道ををあえて花見するために走ってもらいました。
車の窓からこんな写真が撮れたのも渋滞のおかげです。


このまま宝ヶ池まで走ってもらい、地下鉄でホテルまで帰ることにしました。
雨の日ならではの車窓花見でしたが、京都の広い地域にわたって桜を見ることができ満足です。


京都市動物園はこの週末だけ夜開園していたようです。
夜桜が雨に濡れる動物園・・・・・知っていれば行きたかったなあ・・。


おわり 







 


京都・雨の花見旅~東郷元帥の松

2015-04-08 | お出かけ

春休みの期間、去年に引き続き京都に一泊してきました。
去年はお天気も良く桜もちょうど満開で、古都の桜を満喫したのですが、
今年は週間天気でも言われていたように、雨となってしまいました。
去年のように桜の下を歩くことはできないでしょうが、、
散り際もまた京都ならではの風情となって楽しませてくれるに違いありません。

 

息子が後ろからいつの間にか撮っていたわたしの後ろ姿。
変な加工と角度のせいでやたら緊迫感にあふれておりますが(笑)
この日はベージュに近い薄いピンクのコートを選びました。
雨が予報されているのでパテントのバッグとブーツで完璧です。



ホテル到着。
京都駅近くの、フロントには日本人の方が少ないという感じのホテルでした。
中庭に見える三角のものは結婚式場です。



どお~~~~ん(効果音)

ホテル到着。
なんでだ?なぜ京都にせんとくんがいる?
遷都されてみやこでなくなった奈良県のシンボルせんとくんが。

「京都にせんとくんされて都の座を明け渡したところのせんとくんです」

てか?



さすがは京都。

いわゆる「ガチャ」もただの「ガチャ」ではありません。
なんと、仏像ガチャ(300円)だ!
家族が見ていない間にこっそりとガチャしてみたところ、金剛力士像が当たりました。
6つのパーツを組み立てるのですが、記憶だけでやろうとしたら結構難しく、

「あれ?このスカーフみたいなのどこについてたっけ」

「腰のひらひらしたのはどっちがどっちだっけ」

となってしまい、結局説明写真を(ちゃんとついている)見るはめになりました。



そして翌日。ディズニーシーの疲れの残っていたわたしたち、
次の日に起きたら完璧に寝過ごしておりました。

「えーと・・・・・朝ごはんって何時までだっけ」
「10時」
「あと5分で終わる」
「いいじゃない、どうせホテルの朝ビュッフェなんてたいしたことないし、
お昼までお腹を持たせればいいんだよ」

ということで、昨日の飛行機で注文したのに時間がなくて作ってもらえず、
もらってきた機内サービスのトマトビスクスープを飲んで済ませました。

というわけで雨なのでタクシーの窓から花見モードです。



京都の運転手さんは観光案内もしてくれるので、目的地までの行程には
桜が綺麗な場所を選んで走ってくれるように頼みました。
これはたしか「世界で一番落差の低い(5m)ダム」のほとりだったと思う。



平安神宮の鳥居の前を通ってくれました。



ここは琵琶湖疏水の観覧船発着所。

ツァー企画者(TO)いわく、

「もしお天気が良かったら乗るつもりだった」



遠目にも不気味な金色の彫像がありました。
「巨大な輝き」と題されたモニュメントだそうです。

よこに黒い石彫りの文字盤がありますが、これには「京都三大事業」が何か、
ということが書かれていました。

「琵琶湖第2疎水」「水道」「市電の走る幹線道路の道路整備」

ですが、わざわざ石に彫ってまでここでそれを言う意味がイマイチわかりません。




ツァー企画者(TO)がタクシーの運転手に告げた行き先はまずここ。
天台宗青蓮院。

東山区にある門跡寺院(皇室や摂関家の子弟入寺した)で、創建は1150年といいますから、
865年の歴史のある名刹で、本尊は「青不動」と称される不動明王曼荼羅。
日本三不動の一つだそうです。
国宝なので開帳は年一度2ヶ月の間だけおこなうため、本堂にはレプリカが飾られていました。

現在の門主は元皇族で、東伏見の名を持ち、久爾宮家の血を引く人物が勤めています。



清水の舞台から飛び降りる、との言葉通り、清水寺の舞台は有名ですが、
ここにある舞台もこの通り絶景を臨む高台に張り出しています。



雨のため霧が出てきましたが、それがまた風情があります。



平安神宮の鳥居と山道が遠くに見えました。
この舞台からの眺めはご覧のように絶景ですが、日曜日なのに人がいないのは
ここには車でしか来られないことと、観光地としてあまり有名ではないからです。

折からの雨も手伝って、花見客でひしめき合う四条や京都駅前とは全く
別の世界のような静謐さに満ちていました。




舞台は大日堂内部のリフォームと同時に、去年、2014年10月にできたばかり。
その模型がガラスケースの中に飾られて展示してありました。

 

境内の桜の木には苔がびっしりと生えていました。



わたしと息子は写真撮影会に突入(笑)
こういう、幹から直接咲いているような花とか、



枝に咲き誇る花とか・・。
市街地の桜はもう盛りを過ぎていましたが、このあたりは
同じ京都市内でも咲くのが微妙に遅いのか満開でした。

雨に打たれて花弁の縁に雫の光る様子は、感動的なまでに美しいものです。
今日一日で終わってしまう、今際の際の光芒とでもいうのでしょうか。



ここを「将軍塚」と呼ぶ地元の人もいます。
将軍塚とはこの丸く盛り上がった部分のことです。
桓武天皇がそれこそ奈良から長岡にせんとくんされたとき、事故が相次いだので、
和気清麻呂は天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、
こここそが都の場所にふさわしいと進言しました。

天皇はその勧めに従って延暦十三年(794年)、平安京せんとくんに着手されました。
長岡京がたった7年しか都にならなかったのはこのためです。 

天皇は、都の鎮護のために、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、
鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられました。
それがこれ、「将軍塚」です。



「将軍塚」は、国家の大事があると鳴動したという伝説が源平盛衰記太平記に残されており、
新田足利の戦いでは新田義貞軍がここに陣地を構えたということです。

さらに驚いたのは、大東亜戦争の時、ここはなんと

高射砲陣地になった

ということです。
あまり知られていないことですが、京都は昭和20年に入ってから、
5度にわたってB-29の無差別爆撃に遭っており、5月11日にはなんと
京都御所がその対象となっています。
ここ東山でも空襲によって140戸以上が消失していますが、報道管制のため
未だに正確な被害の記録はわかっていないのだそうです。

飛来するB-29を高射砲で狙うとすれば、ここはまさに絶好のロケーションでしたが、
どの程度それが功を奏したかについても今ではわかりません。

京都への爆撃は6月26日を最後に急に途絶えました。
原爆投下地の候補となったため、「その効果をはっきりさせるために」
アメリカ政府がそれ以降の攻撃を禁じたというのが通説です。

効果のわかりやすい盆地の京都が原爆投下地予定だったのをやめさせたのは
スチムソン長官だったという話も前にしたことがありますね。



さて、ところでこの将軍塚脇に一本の松があったのですが、
わたしは一瞥してそこにある「既視感」を感じ取ったのでした。 



その原因はこの文字である。
なぜ東郷元帥の松が?と思ったのですが、将軍塚だから?

そして、将軍塚なのに東郷さんの松だけで乃木将軍のがないの?
と思ったら、境内にはちゃんと乃木将軍の松もあるそうです。
よかったよかった(何が)



気がつくと東郷の松の左側にもう一本松がありました。
すわ、これが乃木将軍の手植えの松?と思ったら、



「黒木大将手植えの松」

「黒木大将って誰?」
「黒木大将といえば黒木為しかおらんでしょう」
「黒木為って誰」
「日露戦争でクロキンスキーってロシア人に呼ばれた人」

どうもこの将軍塚は海軍重視?だったらしい。
ここで海軍高射砲中隊が陣地を構えたのは、もしかしたらこの松があったからでしょうか。

(などと最初書いたのですが、勘違いしていて海軍の呼び名は高角砲でしたorz
雷蔵さんにコメントでご指摘を受けましたのでここで訂正しますm(_ _;)m)


続く。(えっ?) 

 


備前長船「刀剣の里」~刀打ち初めと瀬戸内のエーゲ海

2015-01-15 | お出かけ

備前長船の刀剣博物館での神事、「打ち初め」の続きです。

9時からの打ち初めも滞りなく終了し、刀職人さんたちの
各職場を見学もして、さて帰ろうとタクシーを呼んで待っていると、
本館に挨拶に行ったTOが、

「刀鍛冶さんたちが本物の鍛錬をするから見ていってくださいって」

と戻ってきました。



前半の観客参加型鍛錬は、神事の後のいわばサービスで、
それに使われた玉鋼は「使い物にならない」ので(たぶん)
お供えするだけなのだそうです。
後半のもいわば「縁起」なのでおそらく実際にこれで
刀を打つことはないと思われますが・・。

11時から始まると言われて5分前から待っていると、
1分違わず浄火・きよめび(先ほどの火はすでに消されていた)
開始されました。

刀鍛冶の仕事場というのは今回初めて見たわけですが、
昔小学校唱歌だった「村の鍛冶屋」の歌詞、


暫時(しばし)も休まず槌打つ響き
飛び散る火の花走る湯玉
ふゐごの音さえ息をもつかず
仕事に精出す村の鍛冶屋

を思わせます。
金物鍛治と刀鍛冶を一緒にしてはいけないのかな。




燃え盛る火に石炭投入。
「火の花」は思わず吸い込まれそうなほど神秘的です。



ちなみにこの絵になる光景を撮るために、時間前には
ニコンやキャノンの上級機種をがっつり構えた人たちが
周りを陣取っていました。

右側の二人が赤熱したブロックを叩く「鍛錬」を行います。



ちなみに向こうの刀鍛冶が前半の打ち初めで横に立っていたので、
かるーく質問などしてしまったのですが、この状況を見るに
こちらの方がここで一番偉い刀匠だった模様。



鍛錬が始まりました。
二人の刀匠が代わる代わる槌を頭上まで振り上げて
確かな無駄のない動きで玉鋼を打っていきます。
それは真に阿吽の呼吸。



向こうが匠(横座)、こちらが弟子(先手)。
交互に刀身を鎚で叩いていくことを「向こう槌」といいますが、

「相槌を打つ」

という言葉はこの様子から来ているのです。



さすが本職の打ち方にはまったく迷いがありません。
見ていると、打ち込む時に前足のつま先を上げ、
体重を後ろから前に移動するようにして槌を下ろしていました。
火花の飛び散り具合をごらんください。

彼らはだいたい5年くらいで一人前になるとされ、
刀工が弟子入りすると、この大鎚といわれる槌を自前で用意し、
毎日切り株を相手に叩く練習をします。

動きを車のピストンのようにすると、あまり力を要さず
楽に叩けるようになるということです。

刀工になるためには5年間の修行と文化庁の開催する講習を受けなければなりません。



というところで刀匠の「打ち初め」も終了。
またしても一般人に叩かせてくれるようです。
が、先ほどほとんどが叩いてしまったので、なかなか
名乗りをあげる人が出てきませんでした。
ようやく出てきた第1号。



第2号は・・・おおっと、海外からの観光客だ! 

この日、外国人観光客は結構いました。
ただし欧米系の人たちばかりで、
中国人や韓国人は全く見かけませんでした。
岡山のホテルの朝食会場では日本人はわたしたちだけか?
と思うくらい中国語が飛び交っていたのですが、
彼らはこういうところには足を向けないようです。

「日本刀」「神事」というだけで彼らの方が避けてるのかもしれないし、
あるいはむしろそういう団体客に来られては困るので、刀剣博物館の方も
あえてそちら方面にはインフォメーションを流さないのかもしれません。

差別?いえ、区別です。



ところでお汁粉を作っていたおばちゃんが、この少し前、

「お汁粉まだの人食べてくださ~い」

と呼びかけにきたのですが、彼ら外人軍団に

「オモチ! オモチ!」

と食べる真似をして連れて行ってしまいました。
オモチで十分意味は通じていたようです。



体はでかいがアクションはおとなしめ。



鍛錬する金属は、さっきまでやっとこで掴んでいたのと違い、
柄とつながっているものです。
やっぱりこちらは本当に刀にするのかもしれません。

こちらも叩かせてもらったらよかったかな。

向こうに見えている灰はもち米の藁の灰。
これをまぶしてから火に入れます。
表面を土と灰で覆うことで、鋼を火の中に入れた時に
表面だけでなく中まで均等に熱を入れることができるのだとか。

鋼は鍛錬するほどに均質化し、硬度も上がってくるのですが、
回数が多すぎると逆に均質がしすぎて「面白味がなくなる」ということです。

そのあたりの塩梅を見定める目も刀工には必要なのです



続いて先ほどの男性のお連れ様。
彼女は慎重派で、何度も隣の刀鍛冶に
槌の持ち方や振るい方を確かめていました。



なかなか勢いがありますね。
前の男性とこの女性は数人の外国人グループにでしたが、
(でないとこんなところに来ないよなあ)
同行の日本人が写真を撮りたいというので場所を代わってあげました。

日本刀を打たせてもらうなんて、ちょっと普通ではない
貴重な日本文化の体験となったに違いありません。




さて。

なんだなんだ刀鍛冶場からいきなりエーゲ海?
と思われた方、驚かしてすみません。

これはですね、長船から車で20分ほど行った、
瀬戸内海を望む牛窓というところにあるホテルです。

例の市長さんが「こんなところもありますので是非」
とご案内くださった風光明媚なリゾートホテル。
寒さに震え上がるほど風の冷たかったこの時でさえ、
写真にとってみれば地中海に見えないこともありません。

牛窓というところは地中海気候に似た瀬戸内気候なので、
オリーブの栽培が盛んで、自称「瀬戸内のエーゲ海」
さらにそのオリーブ畑から見下ろす瀬戸内の眺めは素晴らしく、
そこには
「ローマの丘」という広場が・・。

うーん。

こういういかにも欧米崇拝型「地方銀座」的なネーミング、
「日本のハワイ」とか
「日本のエーゲ海」とかって、はっきり言ってすでに
「憧れのハワイ航路」の時代のセンスという古臭さが拭えません。

しかも、 




このローマの丘も、なぜローマかというと、ここにはまるで
ローマの神殿のような6本の柱があるからなんですが、
この柱、なんと

岡山空襲で被災した旧三井銀行岡山支店の瓦礫

を移設したものなんですって。
つまり「戦跡」なんですが・・・それを「ローマの丘」。

これが本当のローマンチックってやつか?

いや、戦跡をローマンチックはまずくないか?



確かにこれでは瀬戸内のエーゲ海としか言いようがありませんが。
ホテル専用のヨットがあり、乗ることができる模様。



ここにも、こちらはギリシャをイメージしたエンタシスが・・。
こうして写真に撮るとそれなりですが、実際に見ると
経年劣化による部分部分の綻びはどうしても隠せません。

「これは・・・1990年前後、バブル終わり頃のセンスですね」

とわたし。
後でホテルの人がまさに

「当ホテルはバブルの終わり頃にできまして」

とそのままの言葉をおっしゃっていたのでおかしかったです。
オープン当初は、近くのヨットハーバーは豪華なヨットで溢れ、
ホテルにも毎日のように観光バスが列をなして、人々が訪れたそうです。

しかしつはものどもが夢の跡、諸行無常の響きあり。
往時のバブリーな建築だけが栄華の名残を残すのみで、今や

地元の老人会の謡教室発表会が行われる(本当にやっていた)
地元密着型の庶民的な会合の場へと・・。


さらに牛窓観光協会のHPを見たところ、瀬戸内交流フェスタとやらで


朝鮮通信使行列や、サムルノリとプチェチュム(扇の舞)」

という、瀬戸内とそれ、なんか歴史的に関係ありますか?的な、
ねじ込まれ(たらしい)ヤケクソ(にしかみえない)イベントが・・。

バブルが消えたので次は韓流ですか?
韓流、流行ってませんよ?わかってますか?

と思わず観光局を叱咤してしまいそうな迷走ぶりです。
だいたい地元の子供にわざわざ朝鮮通信使の格好なんぞさせるなよな(−_−#)



昔は全席が毎日3回転ずつしたのかもしれないダイニング。
なんとこの状況で強気にもアラカルトなしのコースのみ。

昼時でとなりのカフェは結構人がいたのに、こちらは私たち三人だけでした。
手前はここ自慢のオリーブソーダ。



しかし、食材が新鮮で美味しいのはもちろんのこと、
シェフも腕利きなのか
お料理はなかなかのものでした。



「広島の牡蠣より美味しい」と地元の人が胸を張るカキフライは、
TOが注文したコースのアペリティフ。




薄い仔牛のカツレツはこの日食べた中で一番美味でした。
これも名産であるレモンがあしらわれています。



メインはスズキのクリームソース。
上に乗っているのはマッシュルームを飾り切りしたもの。
粒胡椒が味を引き締めていました。



食事が終わって、フロントマネージャーに部屋を見せていただきました。
日曜日の午後で、宿泊客はチェックアウトしてしまった後とはいえ、
あまり部屋の稼働率は良くなさそうに見えました。



ハイシーズンなどはそれなりに賑わうのかもしれませんが・・。
折しも怪しくなってきた雲がかかり始め、寒々とした海は
なんだか余計に「もののあはれ」を感じさせます。

バブルと前後して起こった「ペンションブーム」の頃は賑わったそうですが、
とりたてて大きな観光地があるわけではない地方が、
観光で栄えるというのは、ここに限らず難しい時代なのも事実です。

それでも、新しいセンスでリノベーションすれば、
都会からそれなりに人を呼べると思うのですが、

何しろそれに先立つものが・・・、という状態なのでしょう。

先ほどの市長さんもこの市を盛り上げていくにはどうしたらいいか、
頭を悩ませている毎日なのではないかと思われました。

「日本のエーゲ海」「日本のローマ」とかではなく、
「刀剣とエヴァンゲリヲン」とのコラボに見られるような
伝統文化と今を融合させる試みの方がはるかに人を呼べると思うのですが、
恒久的な集客には繋がらないのが辛いところです。



食事が終わって、最寄りのJRまでタクシーでまた20分。
ここも無人駅で、駅前には喫茶店どころかコンビニもありません。
駅前のコインランドリーで寒さをしのぎ、
1時間に2本くらいある岡山行きの電車を待ったわたしたちでした。



ー糸冬ー






 


しまなみ海道~村上水軍の城

2014-09-12 | お出かけ

しまなみ海道をご存知ですか。
正式には西瀬戸自動車道という、本州と四国を結ぶ道路で、
間に点在する島々を広島県尾道から今治まで繋がっています。

今回、わずかな時間ではありますが、ここをドライブしてきました。 



といっても、わたしが運転したのではなく、全て地元の方にアテンドされ、
すべてお任せのらくちんドライブです。

現地には前日夜から入りました。
夕食は、某コンツェルンの会長と税理士さん、TO、わたしの4人で
舌がとろけそうなTボーンステーキを頂きながら会話を楽しんだのですが、
この会長さんの話が面白くて、座は大盛り上がりでした。


このグループの業務は多岐にわたりますが、その一環として
「交通」があります。

関西に有名な猫の駅長がいますね。

グッズの売り上げだけで年間6千万、経済効果11億、
しかも何の要求もしない。(会長曰く)
会社に取って「最優秀社員」であり「神様お猫様」。

この方はその「仕掛人」です。 

仕掛人ならではの内部情報をここで少し公開すると・・・。

小さいときに売店のおばちゃんがポケットに入れて育てた。
最近メディアで有名になって「おばちゃんの化粧が濃くなった」。
おばちゃんは「この猫は私が育てた!」状態。
さらにはそのおばちゃんにおじちゃんの影が・・・(内縁の夫?)
という生々しい()話になっている。
初代駅長はもうお年(15歳)なので、
二代目三代目を育成しているのだが初代ほどのスター性がない。

なかでも一番笑ったのが、猫駅長に、和歌山名誉県民の申し出があった話です。
その話が和歌山県から来たとき、会長は恐る恐る聞いたそうです。

「ありがたいですが、他の名誉県民はたとえば誰が・・」
松下幸之助先生と」
「ちょちょちょっとそれはご辞退させて頂けますか」



という楽しい夕べの次の朝、ホテルから庭を見下ろしたらこんな眺め。




朝ご飯はバッフェです。
昨日の夕食を頂いた外のテラスが見えています。



出発は11時。

まずは因島に行きます、ということで
機嫌良く車窓を眺めていたら、
「しまなみ海道→」という表示が通り過ぎました。

「今しまなみ海道って見えたんですけど」
「いや、大丈夫です・・・あれ?うーん・・」

車内でわたしたちがリクエストして、この方の息子さんのCD

(結構メジャーなビジュアルバンドのメンバーだった)
を聴いていたのがどうやら集中力を欠いた原因だったようです。

「ビジュアルロックに気を取られすぎました・・・」 (社長)



というミスで時間を少し無駄にしながらも、
なんとか生口島(いぐちじま)に到着。
広島県尾道からは3つ目の島に当たります。



瀬戸内は思ったより小さな島がたくさんあります。

明らかに誰も住んでいない一軒家サイズの島も。



生口島の有名な観光名所の一つ、
平山郁夫美術館に来ました。



常設展示だけでなく、時々は展示が入れ替わるようです。

生涯たくさんの作品を残した平山先生ですから当然ですね(棒)

この二つの絵は、現代の京都を描いています。

どう見ても平安時代のような街並なのに、よくよく見ると、
ビルもその中にちゃんと描かれているのです。
どちらも巨大な絵でした。




美術館入り口。

平山郁夫がまだ生存中の1997年に出来たといいますから
もう17年も経っているのですが、大変新しく見えました。



このロビーの「気」が良いので心が静まって行くようです。

庭園の緑がまことに目に鮮やか。
エントランスには皇太子殿下ともうお一方、皇室の方(お名前失念しました)の
植樹がありました。



この美術館で特筆すべきは平山の幼少時の絵画が飾られていることです。

見たところ小さいときの絵はピカソやダリのように天才を感じさせるものはなく、
上手いけど所詮子供の絵だなという感じですが、13歳からいきなり上手になります。

しかし、芸大在学中の絵も正直「上手いんだろうけど・・」という感じ。
芸大生ならこれくらい描く学生はいくらでもいるだろうというレベルです。
そして有名になってからは「皆あの調子」。

つまりわたしはこの画家を評価していないらしいことがわかりました。
好きか嫌いかでいうと好きなんですけどね。


ところで、展示作品の一つに「瀞」という絵がありました。
瀞八丁は和歌山から奈良県にまたがる峡谷で、
瀞峡(どろきょう)は渓流下りの名所です。
実はうちの両親が新婚旅行に行った場所だったので、うちには
そのときに買い求めたという瀞峡の小さな油絵がずっとありました。

ところが絵の題名「瀞」の英訳は「A POOL OF RIVER」、
つまり「流れ溜まり」のような題になっていました。
わたしは帰りにこっそり一人で受付に行って、

「あれは和歌山の瀞八丁のことなので、英題は『DORO』だと思います」

とお節介ですが進言してきました。



美術館を出て、取りあえずお昼ごはんを食べることにしました。

歩いて行くと、かわった城壁のようなものが。




何とも不思議な佇まいです。

甍のしゃちほこ?は妙な形の魚。
白壁は至る所剥げて倒壊寸前といった感じです。
よく見ると、旧式のアンテナらしきものも見えます。





さらに区画沿いに歩いて行くと、ごらんのような洋館が。




しかもこれが・・、



お寺の一角に建っているのです。


「何でしょうか。シュールなお寺ですね」



まるで台湾にあったお寺のような・・。


このお寺の正体は「耕三寺」(こうさんじ)といい、
大正・昭和初期に鉄鋼業で財を成した大阪の実業家金本耕三が、
幼少期に過ごしたここ生口島に、まず母親の住居を建て、
それに「潮聲閣」という名前をつけました。

どうやらこのモダンな洋館は彼が母親のために造った家だったようです。



その母親が亡くなると、彼は出家して、

母の菩提を弔うための寺をここに建立したのだそうです。



それに加え、金本はかねてより、この地に誇りうる文化財のないことを

残念に思っていたため、母のために造った家の回りに、
日本各地の著名な歴史的建造物を模した堂宇で埋める計画を立てました。

つまり、ここに「ハウステンボス」や「ヨーロッパ村」のような
「なんちゃって寺院村」を作ろうとしたのです。



工事は完成までに30年を要し、1936年(昭和11年)に創建が始まり、

最後の宝物館が出来上がったときには1968(昭和43年)になっていました。





寺院というより、博物館というのがメインだったようです。

しかし自分の名前を寺院名にしてしまうとは・・。



これは日光東照宮を模した孝養門。
奥には平等院鳳凰堂を模した本堂などもあります。

時間があれば是非見てみたかったのですが、
もう一つくらい島に行ってみたかったので涙をのみました。



境内?はいたるところ蓮の巨大な鉢植えで埋められていました。
さすがに蓮池は造れなかったようです。
一つ一つの実は丁寧に布でくるまれていました。
耕三和尚の母親が好きだった花なのかもしれません。



お寺の向かいに飲食店がいくつかありました。

「穴子専門店とたこ料理専門店、どちらにします?」

どちらか決めかねて、TOに

「わたしが勝ったらタコ、負けたら穴子」

と決めてじゃんけんをし、勝ったのでタコ料理にしました。



こういう飾りのあるところには不安がないでもなかったですが。



TOはなぜか穴子定食。




タコの刺身、タコ天ぷら、タコ飯、タコのおひたし、

タコづくし定食です。
TOとシェアして、穴子も一口貰いましたが、
やはりタコ専門店であるせいか
味付けは今ひとつ(辛かった)でした。 

さすがにタコはお刺身と天ぷらが特に美味しかったです。



壁に貼ってあったレトロなアサヒビールのポスター。

復刻版のようです。



さりげなく部屋の片隅に平山郁夫先生の自筆色紙が!




年代物らしいおかめさん。


さて、この後わたしたちは車に乗って、本土に戻り、
尾道から一番近い島、因島に向かいました。

目的?

わたしの希望で、因島の村上水軍城を見るためです。




村上水軍は、南北朝時代から室町・戦国時代までを活動していました。

瀬戸内の水路を臨む島々に砦を築き、「海賊衆」と呼ばれ、
この海域の一大勢力を誇っていました。



村上水軍の「村上」は因島村上家のことで、瀬戸内海の中心で

11万4500石を領有した「海の大名」でした。

数百年間にわたってこの地域の制海権を握り、
たくさんの合戦に参加したのは勿論、遣明船の警護も行っています。

特に有名なのは6代目の村上新蔵人吉充で、
1555年、厳島の合戦では毛利氏側について、
織田信長率いる織田水軍を壊滅させた実績を持ちます。



瀬戸内の海は古くから

我が国の経済と文明の一大動脈であった その
海を制した村上水軍
自由と熱血の歴史 ここに眠る 奈良本辰也

奈良本辰也は吉田松陰など、幕末の歴史研究家です。



なぜかここに置いてある大小の錨。

いわゆる普通の錨は「ストックレスアンカー」なんですけど。



この日は夕方土砂降りになったのですが、そのせいか

朝からムシムシして陽射しの辛い一日でした。
車から出ると汗が噴き出すくらいです。

その中を

「ここまで来たんですから上りましょうか」
「上りましょう」
(わたしのパンプスを見て)
「奥様大丈夫ですか」
「大丈夫です」(きっぱり)

日頃7センチヒールなんてハイヒールじゃない!と豪語しているので
こんなときも口だけは威勢がいいエリス中尉。
そして登り始めたのですが・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

やっぱり傘をさしてパンプスで写真撮りながらこの傾斜はきついわー。
60歳の会社社長に距離にしてこれだけ引き離されております。



どうなるかと思ったとき,ようやく頂上に到着しました。

上に資料館ができたのは比較的最近のことです。
中は撮影禁止でしたが、鎧や兜、武器の数々と
ジオラマなどがまとめられていて充実していました。


こんな水軍ならではのデザインの兜とか。

面白かったのは水軍の戦法要領、という

いわゆる艦隊戦のフォーメイションが書かれた紙です。


(パンフより)

また船上で戦う武器として、長い竿の先がかぎ状になっていて、
それで敵の鎧などを引っかけ、水に落としたり、
海上を漂う敵をそれで引き寄せて首を取るためのものがありました。



しかし水軍の殿様始め兵達はどれだけタフだったのか。



ところで頂上に登っても海は全く見えません。


「はて」
「ここから見下ろしたというけど、全く海らしきものもない」

首を傾げていたらこんな看板で親切にも説明されていました。

つまり、昔とは地形が変わってしまって,深く入り組んでいた入り江が
今は全て陸になってしまっていたのです。 



なぜかというと、この看板にもあるように、入り江を耕地にするために

埋め立ててしまったからでした。



水軍の城は、いまやその痕跡が地面に残るだけになり、
これらの城も資料館として1983年(昭和58年)に建てられたばかりの、
「おそらくこんな感じだっただろう」というイミテーションにすぎません。

残された資料から、できるだけ史実に忠実に作られている
・・・・とは思うのですが、全然違うかもしれませんね。





ところで、冒頭の写真を撮ってから、ズームしてもう一度撮った
この写真を見比べ、この数秒の間に窓が開いていたのに気づきました。



丸の中に「上」の入った甍を拡大しようとして気づいたのがこれ。

ここは観光客が開けてもいいような窓だったのでしょうか。



空港に着いたとたん土砂降りになったのですが、東京でも
空が荒れていて、着陸態勢になったとき恐ろしいくらいの
タービュランスがありました。

「積乱雲が空港上空に立ちこめているため、
別方向からの侵入を試みます」

とパイロットのアナウンス。
しかし、タイミングと、他の飛行機の侵入順番を待って、
羽田上空でたっぷり30分は遊覧飛行を楽しみました。

結局大雨と積乱雲で1時間は到着が遅れましたが、
パイロットは優秀らしく、何のストレスもない
ビューティフルランディングを決めてくれ、
わたしは無事帰って来ることが出来たという次第です。


というわけで、わずか6時間くらいでしたが、充実の旅でした。
しまなみ海道をのんびりドライブ、あるいはサイクリングで渡り、
瀬戸内海の水軍の名残を訪ねる旅も悪くなさそうです。
みかんを始め、美味しいものがいっぱいあるようですし、
今度は道後温泉まで行ってみようかな。







大曲花火大会~「秋田讃歌」

2014-08-26 | お出かけ

どっこい一回では終わらない大曲花火大会報告。
当日わたしは始まる前にお弁当を食べ終わり、
カメラの設定をすませて本番を迎え、始まったらほとんど
飲まず食わずでファインダーとモニターを覗きながら、そして、
実際にこの目で花火を見るのに忙しくあっという間に終わってしまいました。


そして、後半になればなるほどシャッターハイになってきて
アドレナリン出っぱなしの状態でした。
ただ見るのも勿論楽しいですが、写真を撮っていた人はおそらく
皆わたしと同じような興奮を感じていたことと思います。



帰りの大曲駅で見かけたいわゆる「撮り鉄」たち。
近くで世界的な花火大会が行われていたのにもかかわらず
こちらにはまったく興味を示さず、電車だけを撮りにきております。

電車を撮るために子供を恫喝したり桜の木を切ったり、
とにかく写真を撮るためにならどんなことでもやってのける集団として
最近何かと評判が悪い撮り鉄さん。

しかし一度だけのシャッターチャンスを逃すまいとカメラを構えたとき、
なぜか伴う重度の強迫観念
人をして非常識な言動にも駆り立て得る、
というこの現象に関しては、撮り直しや練習のできない
花火や、
自衛隊イベントの写真を撮った経験が一度でもある者には
理解できなくもありません。

共感はしませんが。 






このあたりになってくると、シャッターを開ける時間を微妙にずらし、
プログラムの合間に効果を確かめる余裕すら出てきました。
こうなってくるともう強迫観念というよりはむしろ陶酔の域です。

のんびり寝転んで好き勝手いいながら空を眺める、
などという本来の花火を観る楽しみとは全くかけ離れてはいますが。



くまさんの形。

本来「花火は丸いもの」でした。
丸くない花火を採用することによって「創造花火」の緒を作った
有名な花火師の佐藤勲氏がこういう流れを編み出したのは
ひとえに「いままでの通例に対する反抗心」であったとか。

「創造花火」は大曲の花火大会を通して初めて生まれたものであり、
この言葉は大会の代名詞でもあります。

そんな創造花火の技の一つがこの「型物」。
この会社は、
「動物いっぱいの森へ」というタイトルでいろんな動物を登場させました。



パンダ。



アヒル。



牛。



ぶた。
こうやって写真に撮るとわりとしょうもない(失礼)感じですが、
実際に浮かび上がる型物を見るのは本当に楽しく、
観客はおおいに湧いていました。

しかしこういうプログラムが優勝できるかというと、
・・・・・できなかったみたいですね。



この日の最も大きなプログラムは大会提供花火といって、
協議に出演した業者からいろんな「目玉花火」を提供してもらい、
ひとつの大きな作品にちりばめるという趣向です。
この日のテーマは「ボレロ」でした。


(1分20秒からどうぞ)
このときの写真もいくつかありますが、後半になると花火が派手すぎて
写真を撮っても全く訳が分からないものになってしまいます。

わたしもボレロは後半写真を撮ることをあきらめ、
その分自分の目でしっかりと観ることができました。







おそらくシャッターを押すときのブレだと思うのですが、

ちょっと面白いので。



ここからはフィナーレに上がった10号割物の30連発から、

綺麗に撮れたものを。














去年もありましたが、陰影を付けるように

右半分が濃い色になっている玉があります。
よく見るとグラデーションになっていて、
実に良く考えられているものだと思います。













ピースマークが花と一緒に何度も登場したプログラム。

目がつり目の「エイジアンピースマーク」です(笑)



これもよく見ると右下にピースマークが。




さて、というわけで花火終了。

わたしたちのグループは、主催者がずっと片手で掲げるランプを
目印に着いて行きます。
ところで、この日参加したのは総勢9人の団体。
初対面の方が多かったのですが、皆さんと挨拶をし、世間話などをしているうちに、
そのうちの一人である某輸入食品会社の方が

ある海軍中将の孫

であることが判明しました。
誰でも知っているという名前ではありませんが、大隅人事について
調べたことのあるわたしには十分覚えのあるその名前。
それを聞いたとたんわたしが激しく反応したのでその方も驚き、

「女の方でそこまでご存知だとは驚きですなあ。
僕鳥肌が立ってしまいましたよ」

と言われてしまいました。
残念ながら花火大会の間はお話も叶わず、
そもそもその海軍中将個人については、米国駐在武官であった、
ということくらいしか知識がなかったので特に話が弾んだ
というほどではありませんでしたが、そのとき

「秋山真之中将も米国駐在武官でしたね」

というと、

「ああ、よく秋山さんの話はしてましたな」

とおっしゃっていました。
そのうちお話をうかがえる機会があればいいですが。



新幹線の時間待ちをするために立ち寄った花火センター。

ここに大会のポスターが貼ってありましたが、
この写真と比べてもわたしが撮ったのは悪くないと思いません?

素人のわたしより優れている点はシャッタースピードが気持ち長いため、
先がすこし枝垂れていて違う色が出現していることです。



花火の玉が飾ってあります。

これらを筒に詰めて打ち上げるわけです。



20号玉の断面図。

これがはじけると円になり、層ができるわけですね。
この火薬の玉をどう並べるかが創造のしどころです。
赤い紐は導火線でしょう。




待っている間、大曲名物「ババヘラアイス」を主催者さんが買ってきてくれたので
皆でお茶を飲みながら頂きました。

ババヘラとは「ババがヘラで盛りつけてくれるアイス」の意。
名付け親は大曲の高校生だそうです。
ババの腕とか気分とかで形がおおいに変わるそうですが、
基本的には薔薇の形になるように盛りつけるとか。

シャーベットなのであっという間に溶けてきます。
3分以内に食べられなければ負け。なアイス。

ちなみに味ですが、美味しいかとかまずいとか、そういう評価を
あえてするべきではない、とわたしは思いました。



この日の臨時増発にはこんな名前がついています。




こちらは奥羽本線、男鹿線の臨時列車。



ところで、2年前のこの大曲花火のエントリで

「舞い上がれーおおまがりー」

という歌をわたしがいっぺん聞いて覚えてしまった、
という話を
したことがありますが、これは大曲花火大会のテーマソングで、
津雲優という秋田出身のシンガーソングライターが作曲したものでした。

この津雲さんは、なんと2年前に60歳でお亡くなりになったそうです。
2年前の花火大会のときにはまだご健在だったようですが。


この曲と「秋田県民歌」を盛り込んだ「いざないの街」は
花火のフィナーレにも使われていたということも分かったのですが、
この「秋田県民歌」が、いいんですよ。

わたしはババヘラアイスのところで売っているのを見つけ、

この「秋田讃歌II」というCDを思わず買ってしまいました(笑)


ちょっと古めかしい感じがするけど格調高いメロディは一体誰が?
と調べたところ、なんと作曲者は成田為三。


「浜辺の歌」「赤い鳥ことり」「かなりや」

などを作曲した大御所が、昭和5年に作ったものだと知りました。
秋田県民は制定以来この曲を愛唱していて、現在でも
カラオケで歌ったりする秋田出身者は少なくないという話です。
(ソースは秋田在住の主宰者)


メロディに負けず劣らず

「見渡す廣野は渺茫霞み」
「久遠に輝く北斗と高く」


などという歌詞も格調高く、3番には戊辰戦争なども盛り込まれ
実に盛りだくさんな県民歌です。

最後には大曲の花火も登場する、
観光案内の映像とともに一度聴いてみて下さい。





2014年大曲花火大会

2014-08-25 | お出かけ

我が家の恒例行事となった秋田県大曲の花火大会に行きました。
アメリカから帰国して一日を置き陸自の総火演、次の日には
元陸幕長の職場訪問、そして週末には花火大会。


忙しいわー寝てないから辛いわーと(元ネタ知りません)
自慢をする気はありませんが、時差ボケや急激な環境の変化も伴い
まさに怒濤の一週間でございました。

総火演シリーズの幕が切って落とされたばかりですが、
取りあえず週末のこの花火大会についてご報告です。

昨年のこの大曲花火大会エントリは、大会2週間くらい前から
大量の閲覧数が毎日上がってきていました。
それもこれも出発の飛行機に乗り遅れた失敗談、
さらには驟雨に襲われたことからの反省点を盛り込み
「教訓付き」としたせいだと思います(笑)



今年もどうなることやら、と一抹の不安を覚えつつ、

当日の朝を迎えました(わりと本当)

朝焼けがきれいだったのでカメラのテストを兼ねて一枚。

花火の撮影は特殊なので、設定始め注意事項、コツなど、
一年経ってさっぱり脳内から消え失せたそれらの情報を
もう一度確認するだけで前日まる一日かかりました(笑)

レリーズやリモコン機能を使って撮ればよい、というのを読んで
前日にはそのリモコンボタンをアメリカからの荷物の中を全て点検し
探し出すことに3時間費やしたり・・・orz

全てを付け焼き刃で乗り切り、事が終われば速やかに忘れ去る、
という場当たり主義も少し考えものですね。



秋田行きと沖縄行きが早くも満席になっています。
搭乗した便に乗っていた殆どは花火客だったのではないでしょうか。


さて、当ブログを2年前から読んで下さっている方は、
この行事に参加した我が家が2年連続で羽田に定刻に到着できず、
いずれもわたし一人が家族に遅れて現地に到着した、ということを

もしかしたら覚えておられるでしょうか。

さすがに今年同じ轍を二度踏んで三度目を繰り返すわけにはいきません。
いくらそれがブログネタになるといっても物事には限度があります。


そこで万全を期すためわたしたちは駐車サービスを利用する事にしました。


これは、出発の前の時間を指定し、業者に到着デッキまで
車を取りにきてもらい、次の日到着したら持ってきてもらうという
繁忙期の空港利用で酷い目に遭ったことのある人には願ってもないシステムで、
しかも一泊駐車場に停めておく値段とそう変わりない料金設定。

駐車場で空きスペースを探してぐるぐる走り回り、やっと停めた場所から
重い荷物を持って移動せずにすむだけでもありがたいサービスです。


このサービスをする会社のHPを貼っておきますね。


ドリームパーキング

わたしたちは余裕を見て出発時刻の1時間半前に業者に車を渡し、
初めて無事に3人揃って飛行機に乗ることができました。

「なんだか順調すぎて・・・怖い(笑)」
「なんか忘れ物とかしてない?心配になってきた」

参加開始以来波乱続きだったので、「幸せすぎて怖い」状態。



しかしながら何事も起こらず、怖がっているうちに無事に秋田に到着。
ホテルに早めに投宿し、駅ビルにある主催者おススメの比内地鶏のお店で、
美味しい親子丼に舌鼓を打つという余裕まで。



しかもホテルの部屋で集合時間の4時まで仮眠を取り、

体調を整えて出動、という余裕ぶり。

余裕がありすぎて怖い。


待ち合わせ場所の秋田駅には早く到着しました。
駅構内で見つけた、秋田の有名なお祭りである竿燈まつり

提灯がたくさんついた巨大な竿を持つ技が描かれた看板。


わたしたちがアメリカにいる間、TOはこれに行ってきたそうですが、
練り歩く団体の中でひときわ目立っていたのが自衛隊チームで、
何が違うというと、ただ歩いているだけなのに

全員動きに異常にキレがあり見事に統制が取れていた

ということでした。
お祭りといえばねぶた祭りにもTOは誘われて行ったそうですが、
自衛隊のねぶたを見せてもらったところ、それは
どう見ても明治時代の兵隊さんを象っていて、わたしが

「これって・・・青森第5連隊じゃないの?八甲田山の」
「あ・・・」(絶句)

ということがありました。
映画「八甲田山」にも遭難者の記憶のなかにねぶたが登場しましたが、
青森の自衛隊ですからねぶたに慰霊の意を込めるのかもしれません。



新幹線で大曲まで移動します。

車窓からは米どころらしく見渡す限り田んぼが広がり、
一羽の白鷺が飛び立っていました。



大曲に到着。

乗ってきた新幹線「こまち」。



大曲の駅から会場の河原までは約30分歩きます。

途中まではタクシーに乗ることも出来ますが、
交通規制されているところまでです。

去年わたしは日が暮れてから到着したので涼しかったのですが、
一昨年は強烈な太陽と不快な湿度に耐えながら歩いた記憶があり、
この日の涼しさは大変ありがたかったです。



途中で花火が行われる河原に流れる川の橋をわたります。




途中の酒屋さんで飲み物をまとめて購入。

最初から持つと重たいので、できるだけ会場の近くで冷たいのを買います。

酒屋さんの奥にあるサントリーの(動いてない)時計つきポスターは
もしかして、サミー・デイビスJr.?(しかも若い)



共産党や社民党のポスターもそこそこ見ましたが、
このお宅は熱心な自民党支持、しかも粋な(笑)ポーズを取る
安倍総理のカレンダーが・・・。
というか、こんなもの作っているのか自民党・・。 



もしかしたら築100年?という倉や民家がちらほら。



会場到着前から昼花火の音が聞こえていましたが、
着いたころには終わりかけていました。 



席についてまずパノラマで会場を撮影。




桟敷席は一マスいくらで購入しますが、毎年

あっという間に売り切れてしまうそうです。
わたしたちをご招待して下さるのが提供花火のスポンサーで、
こういう企業には優先的にマスが確保されます、

枡席もその周りの野外席も買えない見学者は、下手すると
何日も前から河原にテントを張って場所を確保する人もいるそうです。




2年前は早く来て昼花火もフルで観ましたが、暑い割に

あまり面白くないので主催者の方が去年からやめました。



昼花火は煙を観るようなもので
せいぜいこんな感じ。

指定された枡席に陣取り、一マスを家族3人にもらって、
そこにゆったりと荷物を置きカメラをセットして待ちます。

始まる前にお手洗いに行こうとしたらものすごい列で、
わたしは仕方なく会場を出たところにある仮設トイレまで出ました。
おかげであまり待たずにすんだのですが、帰り道に
枡席のIDパスが首から無くなっているのに気づきましたorz
おかげで再入場するのに苦労しました。


(教訓)
枡席の方、会場を出るときパスは必ず衣服の中に仕舞いましょう。
それから、トイレには普通のティッシュと除菌濡れティッシュを持って行くように。


自衛隊の仮設トイレのような至れり尽くせりの設備ではありませんから、
出た後手を洗うこともできません。(わたしは万全の体制でしたが)




取りあえず2014年度大曲花火大会の始まり始まり~。
まずは皆のシルエットを入れて適当に撮ってみました。

続いて真剣に撮った花火画像をどうぞ。



こういう形に上がる花火を「芯入り割物」といいます。
この花火大会は花火師たちのコンペティションなので、
最初にこの芯入り割物、4層以上の円を描くものが上げられます。

これはよく見ると赤の部分に乱れがありますね。




続いて「自由玉」というのを上げます。

芯入り割物と重複しない自由なものをもう一発上げます。






微妙な色に挑戦した花火もあります。



こういう一斉に小さな花が咲くタイプを千輪といいます。

ちゃんと茎も表現されているものが多い。



煙が綿毛のように糸を引くタイプもあります。
こういうものはだいたい規定の後に続く「創造花火」に
プログラムとして組み込まれます。



点数を付けるにはいい花火の基準があるのですが、

この菊と呼ばれる割物は、まず均整の取れた真円であること。

それで言うと少しこれは中心が歪ですか。

シャッターを押すタイミングも少しの差で開き方が変わってきます。
これは少しだけ早かったかもしれません。



創造花火にはテーマがあります。
これは「ブリリアントカットダイヤモンド」という演技に現れた
四角い花火。



層が三つなので「三重芯変化菊」




ブルーグレーの色が花火で表わせるとは。




これも「千輪」です。




今年はバルブ撮影、露出はF13~16でやってみました。

バルブとはボタンを押している間シャッターが開く機能のことです。
勿論マニュアルモードでISO感度は160。(これより低くならないNIKON1(T_T))
前日苦労して探し出したリモコンですが、電池を替えたのに
作動が不正確で、しかも処理に時間がかかるため(なんで?)
全く役に立たないことが早々にわかり、結局手動で全部乗り切りました。 
来年はレリーズを購入して行こうかと思ってます。行くならですが。



創造花火では速射連発で打ち上げるものが多く、

一つの意匠に他の花が重なってきたりします。

こういうのは、いくつもの花火玉を何十本もの筒に装填し、
導火線によって打ち上げるのです。



創造花火で「氷上のプリンス~決めろ四回転~」

というタイトルのチームがありました。
これは間違いなく浅田真央ちゃんのことだと思うのですが、
「四回転」はこの煙がクルクルと螺旋を描くことで表現していました。



こういう何かを形作るものは「型物」といいます。

文字や星型、ひまわり、蝶、魚、スマイルマーク、
最近ではキャラクターなどもあり平面や立体構造で表わされます。

これは円の中のハート形。



並んだ小輪の花も定番です。




火花が星のように光って露を表現しています(たぶん)




いくつかのチームが必ずおこなうのがナイアガラ。

滝のように空から光の筋がなだれ落ちてきて壮観です。





小さな花が散って行く様子を表わすことも多いですが、

その表情を表現するのも腕の見せ所です。



これは大変お上手な彼岸花。




大変お上手な四重芯菊もの。

わたしがもう少しシャッターを空ける時間が長ければ
花弁の先端に光の変化ができてもっと綺麗だったのですが。

でも本当に花火の写真は難しいです。

 

綿毛のような尾をひくものを「綿菊」というそうですが、
横向きの花を表現したものもありました。 









一つ一つの線が玉のなかに組み込まれている火薬です。

この辺りになって来るとわたしも要領が分かってきて、
かなり的中率が上がってきました。



百発百中、とは言いませんが、少なくとも

規定の花火はほぼ逃すことなく撮れるようになってきます。

花火は練習ができないので、たいてい最初のほうのは
失敗が多くなってしまいます。



玉の中から光が「生えてきた」感じでこういうのは面白いですが、




これなどはもう一息広がりが欲しいところです。

バルブ撮影したのがなにぶん初めてだったので、この辺は課題です。



しかし、こういう花ものは合格かな。




 

すごいなあとおもったのがこれ。

正面から見たところと、横向きの花の組み合わせ。



小花は開いたと思ったらすぐに散りながら光を急激に失うので

シャッターを押すのが遅いとこうなってしまいます。






茎を表現したものはたくさんありますが、ここは葉を付けています。




何を表わそうとしているかは分かりませぬが・・。





下の方の光が何本かたちのぼっていきます。




三脚を立ててブレがないように撮影しましたが、
時々光の筋がこのように震えることもあります。


さて、日本の花火というと世界一との賞賛をほしいままにしていますが、
その中でも特別といわれるこの大曲花火の中興の祖である花火師が、
まだベルリンの壁があった時代、ドイツに行って花火を上げています。

西ベルリン市で行われる花火大会のその前日、彼は
記者会見でこう言いました。

「ベルリンは地上に壁があるが空に壁はない。
日本の花火は何処から観ても同じように見えるので、
西の方も東の方も楽しんで観て下さい」

この言葉を次の日ベルリンの全ての新聞がトップ記事にし、
そのため当日の観客は150万人を超したということです。





コンペティション花火のあいだにスポンサー花火といわれる

企業団体がお金を出して上げさせるプログラムは
花火師たちの腕の見せ所。

ふんだんに火薬も使えるので皆張り切ります。
前にも書いたことがありますが、こういうときに企業は
一つのプログラムに対しだいたい300万円前後をスポンサードします。
わずか数分で消え去り跡形も残らない花火に何百万円。

しかし、瞬間何百万もの人々の目をひき、心を奪い、賞賛を集め、
ついでにスポンサーの名前にも注目が集まります。

思うにこの世で最も粋なお金の「燃やし方」ではないでしょうか。







京都お花見ぶらり旅行

2014-04-04 | お出かけ

息子が春休みになったので京都で遊んできました。
ちょうど桜が満開だったので、お花見も兼ねての一泊旅行です。



京都駅直結のホテルは今までグランヴィアしかありませんでしたが、
最近この近鉄ホテルができ、TOはグランヴィアほど広くなく(グランヴィアは部屋まで遠い)
安いのでこちらの方を常用しているそうです。



京都駅の南口は最近すっかりこぎれいになりましたね。
大昔は本当、何もなかったんですよ。
タクシー待ちをしていたら派手なショッキングピンクのプリウスタクシー発見。 

チェックインしてからすぐに朝昼かねて予約を入れていたイタリアンに向かいました。



旧都ホテル、現在ハイアットリージェンシーに到着。
ドアマンは日本語をしゃべる外国人でした。
(あ、日本人かもしれないのか)



桜を見ながら食事ができるということで紹介してもらったイタリアンレストラン。
グリッシーニとフォカッチャが美味しかったです。



庭に大木が一本あるだけなのですが、「桜が見られるレストラン」として
登録されているだけあって見事でした。

 

「ここに泊まっても良かったのに」

というと、

「ここは『出る』と評判だから、そういうのに敏感な人(わたし)に配慮してやめた」

何でも昔病院だったから出る、と結構言われているそうです。
ただまあ、京都でそんなこと言いだしたら「因縁」のない場所の方が少ないんじゃないかっていう。



ランチは本日のパスタかピザを選び、それに一品がついてくるというもので、
わたしはトマトソース&モッツァレラのパスタを注文。
ピザは、パプリカにズッキーニ、茄子という息子の嫌いな三大野菜でした(笑)

息子は晩が和食だと聞くと、「夜の分も今食べる」とイミフなことをいい、



大山鶏の単品を注文して食べまくっておりました。



ランチ終了後、次の目的地に向かいます。



ホテルの前の道。
「うぞうすい」と京都市博物館の前の道です。
バスのデザインが昔と全く変わっていない・・。



さて、我々が次に向かったのは四条歌舞練場。
今日のメインイベントは「都をどり」鑑賞。
この界隈のきれいどころが京都に春の訪れを告げるあでやかな踊りを
繰り広げる京都名物で、この日は初日となります。

 

ぱっと見ただけでここに写っているほぼ全員が「日本人ではない」ことがわかるでしょう。
京都に観光に来た外国人は京都らしい、日本らしい見物を求めてここに押し掛けます。



しだれ桜と普通の桜が満開で、皆この桜をバックに写真を撮っています。
しかし、中国人のポーズの取り方というのはどうしてこう端で見ていて恥ずかしいのか。 

シャッターの一瞬に彼らがものすごい気合いを入れてポーズを作るのと
日本の女の子が(女の子でなくてもやってるけど)Vサインするのはどちらがまし?
 



しかし、日本の桜の美しさを愛でる心に国境なし。
満開の桜を日本の観光の思い出にすることができたこの日の観光客は幸いです。



この日は4月1日、つまり都をどり初日だったので凄い人でした。
当日券は後ろの席しかなかったのではないでしょうか。
わたしたちはお茶屋さんからの紹介だったのでここでチケットをピックアップ。
なじみの芸妓さんからチケットを買うご贔屓さんもこちらです。



見事に満開です。

京都には花街が全部で5つありますが、そのうち都をどりを行うのは4つ。
この日の「をどり」は特に出演芸妓の数が多く艶やかなの祗園甲部の花街が行ったものです。

初演は明治5年。
明治の世になって「都でなくなった」後、京都は一時寂れかけたのですが、
それに危機を感じた地元が考案した「博覧会」の余興として、三代目井上八千代が
普段は座敷で披露する踊りを舞台でも見られるように創案したものです。



「をどり」、となぜか「を」を使うこの踊りですが、例えば別のお茶屋が行う
宮川町の「京おどり」は昭和25年と比較的最近始まったせいか「お」です。



待っている時間に、観客は土産物屋を冷やかしたり、庭を歩いたりします。



そして、声がかかったら、「お茶券」を持っている客は
このような階段を上って移動。
京都に地震が起こらなくて本当によかった、と思わせる普請です。



階段を上ればそこは異次元が出現。
ここで、芸妓さんがお茶を点てているのを眺めながらお抹茶とお菓子をいただきます。



芸妓さんのお茶の点て方を「立礼式」(りゅうれいしき)といいます。
時々、点てたお茶を直接客に運んだりしていましたが、特別客でしょうか。



この小皿はお土産に紙で包んで持って帰ります。

「あれ、このお皿見たことあるなあ。
っていうか、『スズメ食堂』でえさ入れにしてたお皿だけど」
「だからわたしが前に来たとき貰って帰ったんです」(TO)
「そういえば初めてじゃなかったんだっけ」

TOは以前もお茶屋さんのつてで席を取ってもらったそうです。



観光客が芸妓さんの写真を撮れるのはここだけなので、あたかも撮影会の様相を呈しています。
写真に撮られていることを思いっきり意識して、彼女らは顔も仕草もかなり「作って」いました。
白塗りに目尻に入れた真っ赤な紅、まるで人形のようですが、
そんな彼女らに、ご贔屓筋でもあるのか、目の前で嬉しそうに手を振っているおじさんがいました。

しかし、芸妓はすうっとかすかに目で挨拶しただけ。
そのように躾けられているのかもしれませんが、決して表情を綻ばせることはしません。

あの独特の祇園ことばも、出自と個人的感情を巧みに隠すものだと聞いたことがあります。



この後観客は演舞場に移動し、観劇します。



開演したら写真撮影は禁止。
禁止だ、というておろうに、わたしの前の外国人の男(多分ロシア人)は
一人ならず二人もが途中でカメラを取り出し撮影しようとして、そのとたん
後ろから脱兎のごとく飛んで来た会場係にプラカードを出されて注意されていました。
日本人ならまず「駄目」と言われればやらないんですが、今はいろいろいるからねえ。
中国人とか中国人とか中国人とか。

どんなものを観たかについては都をどりHPをどうぞ。

出演者のなかで特に美貌の(と思われた)芸妓は男役で「都の少将」という役名でした。
謡の歌詞はわたしも腐っても日本人、かなりの部分理解できたのですが、

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん

という後白河法皇の作った 『梁塵秘抄』など、知識として知っているもの以外は
ほとんど身振り手振りと状況でストーリーを察するという感じです。

後から息子が

「まっっっっっったくわからんかった」

とぼやいていましたが、

わからなくていいの、感じるんだよ」

というと

何も感じなかった」

まあ、あれに価値を見出すのは子供では難しいかもしれないなあ。

 

その後タクシーに乗って祇園を後にしました。 



タクシーから見た八坂神社はご覧の通り。
平日なのにものすごい観光客です。

 

百万遍に到着。
新々堂でお茶を飲もうと思ったのに、お休みでした。
ここは、パリ帰りのパン屋さんが「カルチェラタンのカフェのような」お店を目指して
大学前に昭和5年(!)オープンしてそのままです。

京都は戦災に遭いませんでしたので、そのままの姿を留めています。

仕方がないのでその近くの喫茶店に入ったら、狭い店なのにカウンターのカップルが
盛大にタバコを吸い出し、咳が止まらなくなりそうだったのですぐに出ました。



百万遍角にある「かぎや」でTOが手みやげ購入。
実はわたしが初めてTOにもらったプレゼントというのが
何を隠そうここの益壽糖というニッキ味のお菓子でした。
今にして思えばそれがお付き合いのきっかけになったと言えばなった、のかもしれない。
(遠い目)



構内に入ってみました。



ノーベル賞受賞記念の碑はこのように実際に貰ってから建てましょう。(忠告)

ところでどうして東大はノーベル賞を取れないのか。
などと言う話をしながら歩いていくと、



これもおそらく福井先生(とか湯川先生)がいたと思われる古い校舎。
勿論のこと今もそのまま使われています。



台湾の成功大学構内と似た雰囲気です。
成功大学は台湾のトップ3大学なので、ここと同じような位置づけですか。



構内の桜も満開で(そりゃそーだ)学生たちが静かに花見をしていました。



急性アルコール中毒などにつながる「アルハラ」啓発ポスター。
「罰ゲーム飲み」や「一気飲み」を強要されて死んだ人もいるよ、だそうです。



生徒だけでなく先生にも啓蒙ポスター。
特に外国人研究者との共同研究で油断しないように、とあります。

「国際交流の推進は大切ですが・・・・」

だそうです。
技術者を目指す学生に、技術流出による国力の低下の危険も啓蒙してほしいですね。



構内の桜を一枚。
今回はニコン1だけを持ち、レンズは変えませんでした。



ダイインしている学生、春眠暁を覚えずというやつですか。



「入るまでは、この時計台が高く見えたもんなんだよ・・」

そう、何を隠そうこの学校はTOの出身大学でもあります。
父親の出身大学を一度ぐらい息子に見せておくのもいいんじゃないか、
と今回時間が空いたので急遽企画しました。

正面の楠は当大学のシンボルツリーですが、テントが残念。



次は平安神宮近く、岡崎にある「武徳殿」。
昔、大日本武徳会武道専門学校という武芸専門の学校があったところです。
通称武専は村上もとかの漫画「龍ーRON」に出てきました。
(あの漫画、主人公が武専にいたときが一番面白かったような・・。
安重根を褒めてたあたりで読むのをやめたので知りませんが)

武道専門学校は戦後GHQによって武道を禁止されたときに廃校になり、
その跡地はしばらくGHQが接収していました。
今は総合武道場になっています。



向かいのカフェ「La Voiture」で名物のタルトタタン(リンゴの焼き菓子)を頂きました。
関西在住のころ、演奏会の帰りによくここに立ち寄り、ご自慢のこのお菓子を食べたものです。
その頃いた白髪のオーナーはお元気かどうか 聞いてみると、なんと

「先月亡くなりました」

とのことで・・・。
なんというか、偶然というのか・・。

女友達とここで時間つぶしにチェスをしていたら

「雰囲気が壊れるからやめてください」

と叱られたことがあります。
お客さんでも自分が気に入らなかったらずけずけとものをいう、
だけどなんだかいい感じの店主さんでした。

合掌。


ここから夕食の場所まで歩きながら近づくことにしました。
外国人旅行者のための「ハンディクラフトセンター」はじめ、
刀も売っていますが・・・・
外国人が買ったとしてどうやって持ち出すのでしょうか。



甲冑ひとそろい26万円。
アメックスも使えます。



鴨川の河原を歩いていくことにしました。



お昼は花見でにぎわっていたようです。



夕方のせいか、花弁がきれいなピンクに撮れました。







歩いていくと、このような飛び石があったので、ここを渡ることにしました。



渡りだして、この日の服装(皮のスカート)では、
少し脚の広げ方に制限があり、意外と敷石の間隔もあることに気づきましたが、
渡りだしてしまったので引き返すわけにいきません。



わたしは骨折して手首に金属を入れそれを辛うじてつなぎ止めているという状態なので、
もしここで脚を滑らせたらもういろんな意味で人生終わりです。

案外流れも早くて、落ちたら流されるのもほぼ確実。
かかとの低い靴で良かった。
というか、ヒールのある靴だったらまず渡ってませんけど。



激流を必死にさかのぼる亀さん。



さて、河原から道に出て現地までタクシーに乗りました。
ここが今夜のお食事どころでございます。



・・・・・お寺?



入ったところには白雪姫と7人の小人の置物が。
じゃなくて、誰だか知らないけど皆坊主。坊主の石像。
変わった趣向のレストランである。



ご~~~~~ん。(鐘の音)

みたいもなにも、そのままお寺じゃないですかここは。

そう、ここは「寺が本業、副業は料亭」の生臭寺。
いや、そんなことを言ったら失礼かな。
お寺の精進料理というのは昔から普通に外部の人間も飲食できるものだし。
提供するのも「精進料理のコース」。

京都にはこんなお店もあるんですねえ。



本道に続く道にそって「料飲部門」の建物があります。
お店の方によると、この形態での営業を始めたのは30年前のことだとか。



個室のテーブルは重役が座りそうなふかふかの回転椅子を装備。
座敷では外人さんは我慢できませんからね。

このときわたしたちの隣の部屋はインド人の家族でした。
なるほど、インド人も菜食なら遠慮なく来ることができます。

わたしがお手洗いに立ったときに会ったのはどうもアラブ系。
アラブ系も何か制限がありましたね。
菜食なら、一部を除くアメリカ人以外はどんな民族でも、いかなる宗教もOKです。



まず、おうすとなぜかせんべいが出てきました。



続いて前菜のトレイ。
茄子の田楽、酢レンコン、ごぼうの青のりまぶし、焼き麩、
山芋のすりおろしにカボチャの煮たの、卵焼き、こんにゃくなどです。



野菜の天ぷら。
シソの上は蘭。
蘭の花が食べられるとは知らなかった。
まあ、天ぷらにしてしまえば紅葉でもなんでも食べられるものですけど。



ごま豆腐。
精進料理の花形?というような存在のごま豆腐ですが、
ここのはとても濃厚でした。
今は忙しいので(笑)しませんが、昔はよく手作りしたものです。



栗のイガ。
イガイガは茶そうめんを揚げたもので、中はサツマイモを練ったもの。
お菓子感覚でした。



もうこの辺に来るとお腹がいっぱいで、少し味見をしただけで終わった
「うなぎの蒲焼きもどき」。
醤油で味と色と筋を付けた湯葉?に、ミソで黒い部分を表現。



というわけで食事は終了。
最後に本堂を取ってつけたようにお参りしました。
お賽銭を入れ、手を合わせて

「ご馳走さまでした」

と・・・・違~う!



青海波文様の白砂のお庭もあり、ここを見ながらバーで一杯も可。
本堂の真横(しかも同じ本堂内)がバー、ってあなた・・・・・。

というわけで、京都の春を目でも舌でも満喫しました。

京都は行くたびに人の歴史の深さというのか、奥の深さと、
それと同時に町の比叡山より高いプライドを感じます。
何回行ってもただの観光客でしかいさせてくれない敷居の高さとでも言うのか。

だからこそ世界の人々が憧れてやまない町であり続けているのだと思いますが。
今回、桜の季節に久しぶりに見た京都は、相変わらずの京都でした。 (←褒めてます)





翌日帰って来たら、家の桜も満開でした。
花見客が観に来るわけでもない一本の木ですが、これもなかなか立派ではないですか。



京都のような「特別な場所」でも、うちの桜でも、桜は桜。
寝室から眺められるこの桜を独り占めしながら、今夜は疲れた体をゆっくり休めるとしましょう。







 

 


長野県松本~雪と温泉と靖国参拝(その1)

2014-01-07 | お出かけ

 

年末のお正月旅行?、長野県松本の温泉についてもう少し。
実はこの温泉、去年TOが訪れ、大変気に入って
「妻子と
お正月三が日泊まれないか」と聞いてみたのだそうですが、全くダメ。
こういうところで正月を過ごしたい人、リピーターによって、前年の1月、
つまり一年前から予約が埋まってしまっていたのだそうです。

というわけでTOは年末の仕事を、一週間家に帰らずに大車輪で片付け、
本来師走でもっとも忙しい頃にもかかわらず、この時期の旅行となったのでした。 



松本市内から車で約20分走ればそこはもう人里離れた雰囲気の鄙びた温泉。
実はここには「温泉ブーム」のころまであと2つくらいの温泉旅館があったそうですが、
ブームが去っていずれも淘汰されてしまい、ここだけが生き残ったという構図。

しかし、生き残るにはそれなりの理由があり、それはこの旅館が従来の温泉旅館から
現代の人々にも訴えかけるホスピタリティと、洗練された設備をもつ「リゾート・スパ」
に方向転換をしたことに理由があるようです。 
 



二泊して一泊ずつ別の部屋を楽しんだのですが、どちらにも内風呂がついていました。
夜は勿論、折から積もった雪を眺めながらの朝風呂は最高です。

画像を撮ることが出来なかったのは残念ですが、ここには露天風呂を含む浴場が4つあり、
そのうちひとつ「立ち湯」は、立ったまま浸かれる深い浴槽が、
浴場の一つの壁が切り取られ窓も何もなく外に向けられている「半露天風呂」で、
少しぬるめの親湯は、いつまでもそこに遣ったまま外を見ていられます。
冒頭の景色が浴槽からの眺めとほぼ同じで、渓流のせせらぐ様を眺めながら、
冷たい空気に顔のほてりを鎮められつつ入る温泉はまさに「命の洗濯」といった感がありました。



TOが思わず「買って帰ろうよ」と口走った、備え付けの丹前。
女性客用にこのような真っ赤が選ばれていましたが、実にいい色です。

泊まり客はほぼ100%これを着て館内をうろうろしますが、
若い人は勿論、おばあちゃまが着ても不思議と可愛らしく映る色でした。



殆ど「外」にしつらえられた休憩所。
まるで絵画のように外の景色を眺める一角です。
温暖な気候のときには長居が可能ですが、この季節は無理。
皆、写真を撮りに出てくるくらいでした。



さて、温泉旅館といえば夕食の時間が決められ、時間になれば大広間に行って、
(部屋に持って来てくれるのはマシな方)すっかり冷え冷えになった刺身ばかりのお料理に
一人一つ小鍋がついて来て湯豆腐だの寄せ鍋だの、そういった「温泉的ゴージャス」な、
どこにいってもわりと同じような料理がでてくるものと相場が決まっています。

着物を着た仲居さんが愛想よくしゃべくりながら、ライターで火をつける様子は、
もはやどこの温泉での夕食だったか判然としないくらいよくある温泉風景です。

が、この温泉は少し様子が違う。



レストランは二つあり、そのうち一つはこの「マクロビオティック的創作フレンチレストラン」。

「創作」というのも、その昔のペンションなどでは素人のフランス料理もどきに使われ、
すっかりご利益のなくなった響きですが、ここのは本物です。
腕利きのシェフがセンスよく仕上げた料理は、素材よし味付けよしセンス良し。



「マクロビオティックなのにどうして肉が出てるんだ?」

と仰る方、あなたは鋭い。
マクロビというのは基本穀物菜食でアニマルフード(動物の身体から出たもの)
を使わないというのが身上です。
わたしは一度ボストン郊外の「クシ・インスティチュート」という、マクロビの創始者である
久司道夫氏の「マクロビオティック道場」(合宿所)に泊まったことがありますが、
こういった厳密なマクロビオティック料理とここの料理は全く違います。


ここの道場ではマクロビ道場を「ウェイトウォッチャーズ」だと勘違いしたのか、
「やせる!」と固い決意をして乗り込んで来た太ったアメリカ人が、

まるで修行のように我慢しながら青い顔して野菜の山と格闘する姿が見られ、
わたしたちは

「山を下りたら(タングルウッドという人里離れた山中にあった)この人たち、
絶対その脚でマクドナルドに行くだろうな」

などといっていたものです。

つまりここのシェフは「正食」といわれるマクロビの調理法を学び、
その手法をこのようなフレンチに生かしているだけのようです。



温泉旅館なんて、ご飯と温泉に浸かるしか楽しみがないのですが、
その「ご飯」というのを、ただの「温泉会席」ではなく、都会のグルメをも
唸らせるものにするというこの旅館の戦略は功を奏していると思われました。

温泉は覚えていても、宿の食事なんて、いくつか行けばどこがどこだったか、
わからなくなってしまうくらい画一的なものだからです。

朝ご飯もまたしかり。

ここの朝ご飯は、夜と同じ場所で食べることになっており、
そのレストランも着物ではなく白いシャツに黒のエプロンをきりりと締めた、
ソムリエ風のお洒落な制服を着た若い女性が給仕します。



各テーブルには、いつでも鍋物が出来るような設え。
窓の外の景色が見えるように、下までガラス張りにしてあります。




朝食は和食と洋食から選ぶことが出来、どちらを選んでも

二日目は湯豆腐がついて来ました。



洋食は具たっぷりのスープがメイン。

小皿がいくつもついて野菜たっぷりの健康的なものです。

見たところ、奥さんが日本人であるドイツ人、やはり奥さんが日本人の
こちらはアメリカ人の宿泊客を目撃しました。
来日が長い学者とか、そういった知的職業に就いている人に思われました。


そういう外国人にとってはこの旅館は、日本の文化のよさを体現していると同時に
西欧風に慣れた人でも不足ないと感じるサービスや清潔さがあり、
大変居心地がいいと思われるのではないかとふと思いました。


ところで、ここに到着したとたん、まだ電話での仕事の指示が残っているTOは
外に電話をしにいきました。
なんと、この中では携帯電話の電波が通っていないのです。

急遽追加申し込みをしたテザリングは勿論わたしの携帯Wi-Fiも通じる気配なし。
ここで三日間過ごすというのに、それはわたしにとって非常に辛いものがあります。

「たまに温泉にいるときくらいインターネットも電話もなしで過ごせんのか」

という至極全うなご意見もあろうかと思いますが、
わたしにはこのブログの毎日エントリをアップするという重大な
使命があるの。

自分で勝手にやってるだけとはいえ。




さて困った、と館内をうろついてみると、なんと一階に書斎が。

ここに置かれた一台のパソコン。

「ここならもしかしたらWi-Fiが通っているのでは・・・」

そう思ってデバイスをチェックすると・・・・ビンゴ。
ちゃんとフリーのWi-Fiが通じているではありませんか。

以降、温泉とご飯の合間にはMacとiPadと電源一式と本を入れた愛用のバッグを
(皆さん、このカバンの優れているのは、とてつもない
丈夫さにあって、
これだけ一式入れて持ち歩いても全く型くずれすることがないのです。

だてに安藤優子氏が『これでいつも漬物石でも運んでいるのか』と言われたわけではないのよ)
抱えてこの部屋に入り浸るエリス中尉の丹前姿が見られるようになったのであった。

しかし、先ほどの「外座敷」とはただガラス戸で隔たっているだけのこの書斎、
ストーブの近くにいても長時間の作業には脚が冷えて大変でした。 



ふと本棚を見るとそこにはなにやら懐かしいものが・・・。
これは初版ではなく、復刻版だと思われます。
うちにもそういえばこれあったなあ。

 

ここには「三回訪れたお客様だけが使えるクラブラウンジ」もありました。
わたしは初めてですしTOも二回目なのですが、そこはそれ、
いろいろあって、二日目に使わせて頂くことになりました。

ちょっとした食べ物が置かれ、お酒も飲めます。

本棚には児童書を含む蔵書があり、その中にわたしが小さいときに読んだ
「エレン物語」という少女童話を見たときには懐かしさのあまり驚きの声がでました。
パラパラと読んでみると、殆どの内容というか一字一句に覚えがありました。
小さい頃の記憶って強烈なものですね。



このクラブのデスクにはその日の新聞が読めるように置かれていたわけですが、 



そこにあった新聞の第一面は・・・・・・!


続く。