◎想念の隙間とその深度のまとめ
以上の論議をまとめると、以下のようなものになる。
1.想念と想念の間には隙間がある
想念と想念の間には隙間があるとは、まずは日常の顕在意識での想念と想念の間を想定している。その隙間とは、次のようなものである。
(1)突然肉親を奪われるというような不条理。両親早世。
(2)最愛の人の死やペットロス
(3)突然の災害ですべてを失う
(4)霊能力の開顕、心霊体験
(5)アストラル・トリップ(ヘミシンク)
(6)統合失調症における変化した世界観
(7)ドラッグ
(8)くしゃみ、失神
2.隙間の深浅高低
ところが、想念と想念の隙間とは、顕在意識だけでなく、潜在意識での想念である夢と夢との間にも発生している。想念と想念の間である隙間を感知することは、見仏見神見道であって、それ自体悟りと評価されるものだが、それよりも奥がある。それが眠っている状態での夢と夢の間の隙間とでも言うべきものであって、それこそが本物の仏・神・道の深みなのである。
夢と夢の間の隙間は、深い冥想状態でも覚知できることがあり、これが世界の古伝承、各宗教で言及されている所以でもある。
3.想念の消し方の基本線
想念の消し方についてはチベット密教の「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」に参考となる記述がある。
湧き起こる思考(想念)の消し方は次のように三段階で進化する。(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P102)
(1)初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
(2)中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
(3)最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。
※思考の解脱とは、想念の消滅のこと。
そして、この思考の抹消作業に習熟すると、
『長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。』
(上掲書P102から引用)
これにより、隙間である見仏見神見道の意識は、平常活動時にも維持されることとなると考えられる。
4.想念の消し方の冥想手法
想念の消し方の冥想手法としてOSHOバグワンの挙げている実例は以下のようなものである。
(1)息が出て、隙間、息が入る、という三段階を見つめる。これを繰り返す。ヴィパッサナー、呼吸覚醒。
(2)眠ろうとする時に、眠ろうとする自分に醒めている。眠ってもおらず醒めてもいない自分がある。
また眠りから目を覚ましていない状態にも同じチャンスがある。(心理学者のユングもこれをやっていた。)
(3)意識が無意識に変化する瞬間に気づいている。麻薬を投与して、意識をまさに失おうとする瞬間に気づいている。禅の師匠が弟子を殴って縁側の下に蹴り落とす瞬間(正受が白隠を蹴り落とすなど)に気づいている、など。
(参照:未知への扉/第六章 精神的な爆発/OSHOバグワン)
5.想念と隙間との間の移動
OSHOバグワンは、前後の想念から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、「個なる想念・夢」から「隙間である全体に」、連続性なく一足飛びに進むことをいう。そして前後の想念の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。
この爆発をチベット密教「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」では、patoという気合で表現しているが、実は気合でもpatoというマントラでもない爆発的不連続なのかもしれない。自分が死に自分の宇宙が死ぬ。そして宇宙すべてが自分であるという逆転を爆発と呼ぶ。「自分」にこだわった表現をすれば逆転あるいは倒立となる。タロットの吊るされた男。
6.想念と隙間との間の移動にかかる所要時間
想念と隙間との間の移動にかかる所要時間は数秒である。これを刹那という。
だが、同時ではない。想念と隙間は同時には存在し得ないのだ。『浮き世から何里あらうか山桜』でも見てとれる(葉隠)。
7.モクシャへ
想念は個であり、夢も個の側。そしてこの隙間が世界全体であり、仏、神、道の本体であり、七つの身体で言えば、第六身体アートマンに該当する。これは有の側であり、やがて無の側であるニルヴァーナに進む。
以上の論議をまとめると、以下のようなものになる。
1.想念と想念の間には隙間がある
想念と想念の間には隙間があるとは、まずは日常の顕在意識での想念と想念の間を想定している。その隙間とは、次のようなものである。
(1)突然肉親を奪われるというような不条理。両親早世。
(2)最愛の人の死やペットロス
(3)突然の災害ですべてを失う
(4)霊能力の開顕、心霊体験
(5)アストラル・トリップ(ヘミシンク)
(6)統合失調症における変化した世界観
(7)ドラッグ
(8)くしゃみ、失神
2.隙間の深浅高低
ところが、想念と想念の隙間とは、顕在意識だけでなく、潜在意識での想念である夢と夢との間にも発生している。想念と想念の間である隙間を感知することは、見仏見神見道であって、それ自体悟りと評価されるものだが、それよりも奥がある。それが眠っている状態での夢と夢の間の隙間とでも言うべきものであって、それこそが本物の仏・神・道の深みなのである。
夢と夢の間の隙間は、深い冥想状態でも覚知できることがあり、これが世界の古伝承、各宗教で言及されている所以でもある。
3.想念の消し方の基本線
想念の消し方についてはチベット密教の「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」に参考となる記述がある。
湧き起こる思考(想念)の消し方は次のように三段階で進化する。(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P102)
(1)初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
(2)中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
(3)最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。
※思考の解脱とは、想念の消滅のこと。
そして、この思考の抹消作業に習熟すると、
『長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。』
(上掲書P102から引用)
これにより、隙間である見仏見神見道の意識は、平常活動時にも維持されることとなると考えられる。
4.想念の消し方の冥想手法
想念の消し方の冥想手法としてOSHOバグワンの挙げている実例は以下のようなものである。
(1)息が出て、隙間、息が入る、という三段階を見つめる。これを繰り返す。ヴィパッサナー、呼吸覚醒。
(2)眠ろうとする時に、眠ろうとする自分に醒めている。眠ってもおらず醒めてもいない自分がある。
また眠りから目を覚ましていない状態にも同じチャンスがある。(心理学者のユングもこれをやっていた。)
(3)意識が無意識に変化する瞬間に気づいている。麻薬を投与して、意識をまさに失おうとする瞬間に気づいている。禅の師匠が弟子を殴って縁側の下に蹴り落とす瞬間(正受が白隠を蹴り落とすなど)に気づいている、など。
(参照:未知への扉/第六章 精神的な爆発/OSHOバグワン)
5.想念と隙間との間の移動
OSHOバグワンは、前後の想念から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、「個なる想念・夢」から「隙間である全体に」、連続性なく一足飛びに進むことをいう。そして前後の想念の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。
この爆発をチベット密教「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」では、patoという気合で表現しているが、実は気合でもpatoというマントラでもない爆発的不連続なのかもしれない。自分が死に自分の宇宙が死ぬ。そして宇宙すべてが自分であるという逆転を爆発と呼ぶ。「自分」にこだわった表現をすれば逆転あるいは倒立となる。タロットの吊るされた男。
6.想念と隙間との間の移動にかかる所要時間
想念と隙間との間の移動にかかる所要時間は数秒である。これを刹那という。
だが、同時ではない。想念と隙間は同時には存在し得ないのだ。『浮き世から何里あらうか山桜』でも見てとれる(葉隠)。
7.モクシャへ
想念は個であり、夢も個の側。そしてこの隙間が世界全体であり、仏、神、道の本体であり、七つの身体で言えば、第六身体アートマンに該当する。これは有の側であり、やがて無の側であるニルヴァーナに進む。