アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想の深浅高低-10

2022-12-14 20:06:36 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎冥想の縦軸と横軸

以上のように冥想の深浅高低について、ヨーガ・スートラと釈迦の冥想レベルの比較を出した。これは、ケン・ウィルバーが、その著書意識のスペクトルで覚者の世界観の区分をいろいろと並べているが、そうしたものの一つであって、これぞ絶対的な区分と頑張る必要はないと思う。おおまかにいえば、どのレベル区分法にもニルヴァーナとアートマンは大体あるものだ。ただしそれ以外の区分は人によって千差万別。

冥想の縦軸を七つの身体とし、冥想の横軸を深浅高低にとった場合に、冥想の縦軸である七つの身体でいう最後の2つは、第六身体(アートマン)と第七身体(ニルヴァーナ)であり、個別性を超えた神(仏、無)のことである。

そして冥想の横軸である深浅高低では、ヨーガ・スートラの最上位の二つである有想三昧と無想三昧は、個別性を超えており、いつかは滅びるものである物質性や時間性というものを超えた世界のものである。したがって有想三昧は、第六身体(アートマン)に照応し、また無想三昧は第七身体(ニルヴァーナ、宇宙意識)に照応するものであると考えられる。

したがって冥想の縦軸と横軸において、最後の2段階はそれぞれ照応するものと考えられ、特に最後の第七身体と無想三昧は同じことを言っているように思われる。
この結果冥想の縦軸と横軸は、縦軸たる七つの身体では、第六身体の手前で横軸と交わり、かたや横軸たる深浅高低では、有想三昧の手前で縦軸と交わるイメージになるように考えられる。

政治の紛糾、経済の混乱、人間関係・家族関係の悪化などは、いわば身体の表面に現れる病状であって、病気の原因ではない。これらの病気の本質的原因は、我々の心の内にあるのであって、それを探るためには冥想によるしかないのである。

ところが、あらゆる観点と立場というものは、ジコチューな欲望の一つのツッパリにすぎない。そのため、その原因を探るためには、観点と立場を相手にしない冥想が必要なのである。付言すれば、冥想は、縦軸から追っても、横軸から追っても、ついには「そこ」に到達できるのである。

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冥想の深浅高低-9

2022-12-14 20:04:24 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類6
◎釈迦成道

釈迦が、非想非非想処定を教えてくれるウッダカ・ラーマプッタ仙人のところを去ったのは良いとして、いくらでも天国気分を味わえる非想非非想処定を捨てて、わざわざ釈迦が苦行を選んだのはとても不思議なことである。人生を苦の連続と見る超ペシミスティック(厭世的)人生観の宗教を作り出した人だから、そのような苦行モードに入ってしまったためなのか・・・・・?

閑話休題
それでは入滅での釈迦の冥想レベルのアップダウンはわかったとして、成道の時はどうであったかは、一度は調べておく必要があると思い、調べて見ました。

悪魔の誘惑を退けた後、釈迦は、初禅、二禅、三禅、四禅と、移っていき、夜明けの光の中で、『アムリタ(不死の霊薬)を使う治療法は完成の域に達した。彼は、医師の王として現れ、あらゆる苦痛から解放し、法の王である如来の偉大な座席である如来の母胎(如来蔵)の上に坐って、ニルヴァーナ(寂滅)の幸福の中に(自己)を確立された』
(ブッダの境涯/東方出版p308から引用=方広大荘厳経の仏語訳の和訳)

とあるので、ニルヴァーナに至っている。しかしながら非想非非想処定などの無色界の禅定についての記述がないこと、滅想定の記述もないことについての疑問があり、それらの段階を経過したかどうかはわからないが、ニルヴァーナには到達したということだろう。

 釈迦がニルヴァーナに至る前夜の夜中(第二分)
『かのボサツは真夜中の時刻(第二分)において、過去世の住まい(境地)を正確に思い起こす賢明さの見解の知を直接生み出すために、精神を調え、精神を導かれた。かれは自分自身の,および他人の過去世の数多くの住まい(境地)を正確に思い出された。

たとえば、一つの、二つの、三つの、四つの、五つの、十の、二十の、三十の、四十の、五十の誕生、百の誕生、千の誕生、十万の誕生、何十万の誕生、一億の、百億の、千億の、百千億の誕生、百兆の誕生、何百億の誕生、何百千億の誕生から、一つのカルパの破壊、一つのカルパの再生、一つのカルパの破壊と再生、多くのカルパの破壊と再生に至るまでを。

このような場所に来て、私の名はこれであった。私の種族はこれであった。私のカーストはこれであった。私の生命(生涯)の範囲はこうであった。私がそこに留まった時間の長さはこうであった。私が経験した幸福と不幸とはこれこれであった。続いてそこから去って、他の場所に生まれ、続いてそこから去って、私はこの場所に生まれた。続いてそこから去って他の場所に生まれ、続いてそこから去ってここに生まれた。

このようにして、自分自身、及び全ての衆生の、数多くの種類の過去世の住まいを正確に思い出された。それぞれの性格と記載とを伴って』
(ブッダの境涯/東方出版P302-303から引用=方広大荘厳経の仏語訳の和訳)

これを読むと、メキシコのマサテコ族の呪術師マリア・サビナの境涯と似ていることがわかる。マリア・サビナはニルヴァーナの一歩手前まで行ったのだ。マリア・サビナの言葉「過去も未来も既に達成してしまった、既に起こってしまった、一つのものとしてそこにある。」。

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冥想の深浅高低-8

2022-12-14 20:02:09 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類5

原始仏教の遊行経の、釈迦の入滅シーンの続きです。
『(これまでただ釈尊の説法を数多く聴聞して、それを記憶することには特に傑出していたものの、その説法には説かれなかったこのような場面に遭遇して、すっかり窮地に陥った)アーナンダ(仏弟子)は、(天眼をもってこの情況を見通しにわかに出現した)アヌルッダ(阿那律=仏弟子)に質問します。

「世尊は、もはやすでに完全なるニルヴァーナを遂げられたのでしょうか。」
アヌルッダは答えて言います。
「まだです。アーナンダよ。世尊はいま(色界・無色界すなわち三界のすべてを超えて)
滅想定におられるのです。私はむかし親しく仏から聞いたことがあります。「第四禅から出て初めて完全なるニルヴァーナを遂げる」と。」

その時に世尊は(はたしてアヌルッダの答えたとおりに)、
滅想定から出て(無色界にもどって)、有想無想定に入り、
その有想無想定から出て、不用定に入り、
その不用定から出て、識処定に入り、
その識処定から出て、空処定に入り(ここで四無色定を終えて)、

その空処定から出て(色界に戻って)、第四禅に入り、
その第四禅からから出て、第三禅に入り、
その第三禅からから出て、第二禅に入り、
その第二禅からから出て、初禅(第一禅)に入り(3たび繰り返して)、

その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て、ここに仏は完全なるニルヴァーナを遂げました。』
(阿含経を読む/青土社P952-953から引用)

ここでポイントになるのは、欲界・色界・無色界すなわち三界のすべてを超えれば、既にそこは人間の体験でなく、仏の領域であるが、その滅想定はニルヴァーナではないと、釈迦自身が否定したとアヌルッダが述べているところである。

滅想定(滅尽定(滅受想定))は、三界を超えているので、定ではなく、ヨーガ・スートラでいえば、三昧に該当する。ところが滅想定はニルヴァーナではないので、滅想定はヨーガでいう有想三昧に該当すると考えられる。
で、ニルヴァーナは、ヨーガ・スートラでいえば無想三昧。

これによって仏教で見ている冥想(禅定)のレベルは9ではなく、実は10段階であり、それぞれがヨーガ・スートラの分類に符合するものとなると考えられる。

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冥想の深浅高低-7

2022-12-14 20:00:08 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類4

原始仏教の遊行経において、釈迦は今まさに入滅しようとします。
『ここで、世尊は直ちに、
まず初禅(第一禅)に入り、
その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て(以上で色界の禅定を終え)、

空処定(虚空が無限であるという禅定の境地)に入り、

その空処定から出て識処定(心の識別作用が無限であるという禅定の境地)に入り、

その識処定から出て不用定(いかなるものもそこには存在しないという禅定の境地)に入り

その不用定から出て有想無想定(心の表象が存在するのでもなく、存在しないのでもないという禅定の境地)に入り、その有想無想定から出て(以上で無色界の禅定を終えて、これにより生あるものの全世界である三界を超え出て)、

滅想定(心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な禅定の境地に入りました。)』
(阿含経を読む/青土社から引用。P951-952)

※空処定:空無辺処定のこと
※識処定:識無辺処定のこと
※不用定:無所有処定のこと
※有想無想定:非想非非想処定のこと
※滅想定:滅尽定(滅受想定)のこと

以上のように釈迦は、禅定のレベル1から順番に上昇していってレベル9に入ったのである。

滅想定は、既に色界、無色界を超えたところなので、個人という人間性を超えたところにある。ということは、個人が体験しているのではなく、仏が仏を体験する、つまり仏の側の経験のことであると思う。

また滅想定は、禅定の最高レベルである。禅定という定に分類してあるが、ヨーガ・スートラの分類では、定ではなく有想三昧と見られるので、定と三昧がここでは混同されているように考えられる。

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冥想の深浅高低-6

2022-12-14 19:58:20 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類3

色界の禅定4レベルの説明が終わったので、無色界の禅定です。
9レベルのうち上位の4レベルを説明するが、無色界は、物質を離れた世界であるとは言っても、あくまで人間という個人が体験する個人性を残した定のレベルであることに変わりはない。人間の体験なので、それがどんなに素晴らしい体験であったとしても、いつかは変わり、消えてゆく体験なのだと思う。

(3)無色界 
欲望もなく、物質的なものも超えた精神性だけの世界。

(e)空無辺処定:限りない広がりがあるという意識
    
(f)識無辺処定:あらゆるものが限りない広がりにあるという意識

(g)無所有処定:なにもかもがないという意識

(h)非想非非想処定:なにもかもがないという意識もないという状態

なにもかもがないという意識もないという状態は、何も問題がなく、不安もなく、快適で懐かしく、とても素晴らしい状態であるに違いない。初心の冥想修行者としては、一つの目指すべき境地であることは間違いない。また、おそらく通俗霊能力マスターなら、このレベルに至れば大物霊能力者と呼ばれるようなことになるのではあるまいか。

非想非非想処定とは、最上の天国に相当する状態でもあると思う。

しかし釈迦は、 非想非非想処定に満足することができず、その上の段階を目指した。釈迦の何回も繰り返された転生の中で、なにもかもがないという意識もないという状態ですら、本物ではないことをわきまえていたのだろう。定は定であって、人間性の限界を超えることはないのだ。

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冥想の深浅高低-5

2022-12-14 19:56:35 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類-2

原始仏教の遊行経において、釈迦の前生の一つ、大善見王の物語の中に四禅の解説がある。

大善見王が人間としての幸福を得たので、次に天としての幸福を得る実践をしようとして冥想すると、
『そこでむさぼりと淫欲という悪不善について、じっくりと考えをめぐらし(そのような座禅の中で)覚と観がとあり、(欲望や悪を)離れることから、純粋な喜と楽とを生じて(そのような境地からなる)、第一禅(初禅)を獲得した。』
(阿含経を読む/青土社P799から引用)

※この中で「覚」と「観」は、いろいろな物事をあれこれ考える働きの中で、心の粗い働きを「覚」とし、細かい働きを「観」とよぶ。「喜」は喜び、「楽」は楽しみ、幸福感。

『(つぎには)その覚と観とをすっかり除いてなくし、心の中は浄らかなまことに満たされて、心の底からすっかりよろこび、うれしくて、しかもその心だけをひたすら見つめて統一し、こうして覚もなく、観もなくなり、禅定から喜と楽とを生じて、(そのような境地からなる)第二禅を獲得した。

(つぎには)その心にある喜を捨て去ってしまい、(心を)どこまでもしっかりと守り、ひたすら念(こころの思い)のみに集注して、散乱することがなく、自らの身体の楽をよく知り、賢聖の求めたところである「念をまもりつつ楽が実践される」という、(そのような境地から成る)第三禅を獲得した。

(つぎには)そこにもなお残っていた苦(不快)と楽(快)との両方をすっかり捨ててなくし、それよりもまえに、すでにこころの様々な憂いと喜とを除いてあって、こうして苦楽を超越した不苦不楽の境地に達し、そこでは念を守ることが浄らかであり、純粋そのものであって、(そのような境地から成る)第四禅を獲得した。』
(阿含経を読む(下)/青土社p799-800から引用)

全体としては、釈迦の前生である大善見王の、天としての幸福を実現するためには、第四禅の冥想をすることが必要であるという説明である。天とは仏教十界説の天(上から5番目)のことであり、最高の「仏」に至る冥想ではないのである。

この四禅の段階では、ちょっとスピリチュアルな冥想体験でよく出会う、楽しさ、うれしさ、平静さ、調和した感じなどが、冥想の深まりとともに純粋になっていく消息がうかがえる。

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冥想の深浅高低-4

2022-12-14 19:53:16 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類1

釈迦は、王子という地位や家族という社会的なすべてを棄てて、出家して二人の仙人に教えを受けた。

まずアーラーラ・カーラーマ仙人は、無所有処を説いた。無所有処は、禅定の9段階の7番目であり、世間から見たらかなりすごい。

そしてウッダカ・ラーマプッタ仙人は、非想非非想処を説いた。非想非非想処は、禅定の9段階の8番目であり、冥想ティーチャーの実力としては相当なものがあると言える。
釈迦は、これら二仙人に教えを乞うたが、結局納得することができず、苦行に入って行った。

1.原始仏教では、世界を三つの分野に分類する。欲界と色界と無色界である。
それぞれの分野が冥想の横軸である9つの冥想レベルに対応している。 
(1)欲界
最も下の世界で、淫欲と貪欲などの欲望を持つ生き物が住んでいる世界。
十界説では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間と、天の一部が含まれるとされる。
天の一部までのレベルの冥想は欲界定とされる。

(2)色界
欲界の上の世界で、既に欲望を離れた生き物の住む世界であり、姿や形のある「色」(物質)から成っている世界である。
十界説では天の一部、声聞、縁覚、菩薩、仏に当たる。

冥想(禅定)の4つのレベル(四禅)は、この色界からスタートする。 初禅から四禅まで、どれも、気持ちよかったり、楽しかったりする状態のこと。
(a)初禅
(b)二禅
(c)三禅
(d)四禅
 
以上の欲界や色界での冥想の中で、様々な心地よいスピリチュアルな状態が起こると考えられる。たとえば、幸福感、清らかさ、安心感、静けさ、力強さ、さわやかさ、やわらかさなどが生き生きとした実感として感じられる状態のことである。また天の一部も含まれることから、一部の超能力の発現も起こることがあると思う。

ここまでは、ヨーガ・スートラでいう有尋定が対応すると考えられる。

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冥想の深浅高低-3

2022-12-14 19:38:18 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-3
○三昧の分類

三昧には、有想三昧と無想三昧がある。三昧とは、心をなくして、対象のみとなった状態である。

有想三昧と無想三昧に、もはや人間個人というものはなく、神の側、絶対者の側の体験のことであり、もはや体験とは呼べない体験のことである。

仮に誤って有想三昧と無想三昧を、個人という人間の認識形態の一つと理解したり哲学したりするならば、それは現実とはかけ離れた夢想のようなものになってしまうだろう。

以下の佐保田鶴治の説明は、三昧が個人の心理らしく説いているので要注意。

(1)有想三昧
  『三昧のうち、尋、伺、楽、我想などの意識を伴っているものは有想とよばれる。』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P49から引用)
※楽:尋、伺が消えた心地よい状態。
※我想:見る主体である力と見る働きである力とを一体であるかのように思い込むこと。(あらゆる現象が顕現するための最初の要件がこれである)
(出典:解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P49-50)

有想三昧を冥想の縦軸との対比でみれば、認識対象があり、個人を超えた神のレベルなので、第六身体、アートマン、天地創造神話の世界、不壊なるイデアの世界が、有想三昧の舞台ということになるだろう。

(2)無想三昧
 『もうひとつの三昧は、心の動きを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。』
(上掲書P51から引用)
  ヨーガ・スートラの劈頭に、ヨーガとは心の働きを死滅することとあり、ヨーガの目的は無想三昧である。

無想三昧を冥想の縦軸との対比でみれば、第七身体であり、ニルヴァーナであり、仏教で言う空であり、禅で言う絶対無であり、密教で言う大日如来であり、太極であり、タオであり、神であり、最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
言葉で表現できないものである。

以下の摩訶止観は、ヨーガ・スートラより時代が下るが、止念をそれなりに評価している。
「ここでいう絶対の止観とは、横と竪(たて)のあらゆる相対的な意味を超えており、あらゆる思議を超えており、あらゆる煩悩や苦果を超えており、あらゆる教や観や証を超えているのであり、これらのすべてがみな生ずることがないから、それを止と名付け、その止も得ることはできないのである。」(詳解摩訶止観現代語訳篇/大蔵出版P120-121摩訶止観巻第三の上から引用)

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冥想の深浅高低-2

2022-12-14 19:20:10 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-2

ヨーガ・スートラは、バラバラに章立てがされているところがあり、多分グルの口伝があったのだと思うが、説明が不足しており、そのままで読んでも、さっぱりわからず、とりつくしまがない。

その体験をしさえすれば、こんなものを読む必要はなく、その体験をしていないならば、こんなものを読んでも役に立たないということはあるとは思う。

だから解説付きのを読むことになるが、解説する人が、たとえばラーマクリシュナ並みの人でないとちゃんとした解説にはならないのだろう。

○定の分類
 定と三昧は違う。定は人間個人としての体験であるのに対し、三昧は神の側の体験である。だから定の説明には認識をするとか、認識をしないとかいう表現が必ずある。
なおヨーガ・スートラでは、無想三昧が最高とされている。

(1)有尋定
  『定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じているものは有尋定とよばれる。』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P71から引用)

(2)無尋定
  『定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけが一人あらわれている。これが無尋定である。』
(上掲書P72から引用)

(3)有伺定と無伺定
『前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。』
(上掲書P73から引用)

※「尋」:感覚世界についての観念
 「伺」:より精妙な世界についての観念

このように定では、客体・対象と観念が常に話題になっており、人間個人としての体験であることがうかがえる。

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冥想の深浅高低-1

2022-12-14 19:13:58 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-1

冥想の縦軸である時間的広がりは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、アートマン、ニルヴァーナと七つの身体に沿って展開する。七つの身体は七つのチャクラにそれぞれシンクロしているので、この展開は、ムラダーラ・チャクラ、スワジスターナ・チャクラ、マニピュラ・チャクラ、アナハタ・チャクラ、ビシュダ・チャクラ、アジナー・チャクラ、サハスラーラ・チャクラと進むとも言える。

そしてかたや、横軸である空間的広がりが、いわば冥想の深浅高低と位置づけられる。

定と三昧は、冥想の深浅高低の基本である。定と三昧の定義は、インドで5世紀頃成立としたとされるヨーガの根本聖典であるヨーガ・スートラに、基となる説明がある。
前の6種は、定や三昧までの準備段階であり、7番目が定で、8番目が三昧である。

1.制戒(ヤーマ)
  不殺生、真実、不盗、不淫、無所有の五戒を守る。

2.内制(ニャーマ)
  肉体と心を清浄に保つこと。生命をつなぐに足るだけのものに満足すること(知足)。
断食その他の肉体的苦行。マントラ・ヨーガの実践(読誦)。一切万象それ自体であり、一切万象の母であり、一切それ自体万象である神への祈念(自在神への祈念)

3.坐法(アーサナ)
  冥想をするのに安定した快適な坐り方

4.調息(プラーナヤーマ)
  呼吸法により、粗い呼吸の流れを整えること。出息、入息、保息を行い、調気(呼吸停止まで)に進む。

5.制感(プラティーヤハーラ)
  五感の諸器官が音や光などの外から来るものに惑わされず、心の動きに従うこと。

6. 総持(ダーラナ)
  心を一つの場所に集中すること。

7.定(ジャーナ)
  対象と心そのものが一体化すること。

8.三昧(サマディー)
  対象だけになり、心をなくしたような状態。

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冥想十字マップ狂言について-2

2022-12-14 06:50:57 | アヴァターラ神のまにまに
◎有相三昧と無相三昧はあなたの体験ではない

冥想十字マップ狂言の続き。
ダンテス・ダイジは、定(禅定、ディヤーナ、動揺することがなくなった一定の心理状態)と三昧(サマーディ)を区分する。空間的進化とは、定においては個人である自分があるが、三昧に進むと宇宙全体、世界全体がある、あるいは何もかもないという形に進化するという意味。

『あなたの空間的進化とは、
そのまま非時空連続的な深化であり、
単純に言えば、
坐禅あるいはクンダリニー・ヨーガの修行のことである。

坐禅冥想には、
それ以外の冥想でもよいが、
次のようなステップがある。

ステップ1・有想定
仏教なんぞでいう欲界定と四色禅定のこと。
単純に言えば、平静さ・さわやかさ・注意深さ・やわらかさ・歓び・直観・
幸福感・清らかさ・安心感・静けさ・力強さなどなどが、
ある調和した身心として生じているということ。
低級あるいは、実用的なポピュラーな神通力なんぞは、欲界定あたりで起こり得る。

ステップ2・ 無想定
仏教なんぞで言うところの四無色禅定のこと。
すなわち、
空無辺処定・・・限りない広がりがあるという意識。
諸無辺処定・・・あらゆるものが限りない広がりにあるという意識。
無所有処定・・・何もかもがないという意識。
非想非非想処定・・・何もかもがないという意識もないという状態。

ステップ1・有想定と、
ステップ2・無想定とは、
あなたが修行することによって、
あなたが体験することができる。
しかし、
有相三昧と無相三昧は、
あなたの体験ではない。
単純に言えば、
三昧とは、そこに絶対者の
七つの顔・七つの次元・七つの宇宙、
七つの絶対、七つの全体、
七つの冥想が、冥想している、あるいは、冥想していないという、
そのことであり、このことである。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジp189-192から引用)

※ステップ2の諸無辺処定は、識無辺処定の誤りだと思われる。
※有想定、無想定、有相三昧、無相三昧の想と相の違いについてはわからない。

有相三昧と無相三昧とはサマーディのことだが、有相三昧は、世界全体が冥想しているということで個人は世界樹でいえば小枝の一つに過ぎない。無相三昧は、もちろん個人の体験ではなく、言葉で表現できないもの。
このあたりは覚者にとっては常識だが、一般人には非常識にして、最重要ポイント。

この部分はダンテス・ダイジにしては珍しく丁寧にわかりやすく述べている。
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