アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-3

2022-12-03 07:08:59 | 覚醒のアーキテクチャー
◎悟り後によくある問題点と対策

「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」の第二の要点は、瞑想である修に関するもの。

前段で『修はケンツェ・ウーセル、すなわち智慧と慈悲の光明』とあるが、ケンツェ・ウーセルは、ゾクチェンの祖師の一人。

『そして、活発な状態であれ、平静な状態であれ
怒りや執着、幸福や哀しみが生じるときであれ いつ、いかなるときも
あなたがすでに認識したその法身を認識しなさい
既知の母の光明と、子の光明を再統合し
あらゆる言葉による叙述を超えた、意識のもとに休息しなさい
平静と至福、清澄さと思考、これらを繰り返し崩し去りなさい
突如、 智慧と方便の音節をもってうち砕きなさい

三昧と後得に区別はなく
最中であっても、中断していても、そこに区別を設けないまま
つねに、この区別のない状態に留まりなさい
しかし、安定が得られるまでは
実践を、適当な瞑想の実施に分け
多忙や心の散漫を離れて、瞑想を行なうことが重要である
いつ、いかなる場合も
ただ、法身そのものの流れに従い
これ以上のものはないと、はっきりとした確信をもって心を定めなさい
二番目の要点は「唯一、これだけであると決定する」
ということである』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライラマ14世/春秋社P67-68から引用)

法身は、第六身体アートマン。既知の母の光明と、子の光明を再統合して、広大無辺にしてすべてを含むアートマンなる法身に憩う。

平静と至福、清澄さと思考ですら再統合の障害となるので、これら平静と至福、清澄さと思考を繰り返し崩すことで、ある日突然智慧と方便の音節パトをもってうち砕くということが起こるのだろう。これで、見仏に習熟し、安定化させる。これも聖胎長養の一要素。

悟り後の修行である聖胎長養におけるよくある課題の一つが『三昧と後得に区別があると見る』ことの克服と、『法身以上のものがある』と思い込むことの克服なのだろう。

後得とは、子の光明のことだから、三昧と後得とはそれぞれ母の光明と子の光明であって、「三昧と後得に区別があると見ない」とは、母の光明と子の光明の統合を疑わないということなのだろう。

二番目の要点は「唯一、これだけであると決定する」のこれとは、法身であるとわかる。

この引用文には、慈悲という言葉は出てこない。だが、ダライ・ラマは、智慧により見(見仏)の本質を理解し、慈悲を伴う止(シャマタ)という手段と結びついた空性に安らぐこと、すなわち智慧と慈悲の光明が瞑想であるというニュアンスの説明を出して来ている。よって『修はケンツェ・ウーセル、すなわち智慧と慈悲の光明』である、と。

さらにダライ・ラマは、見(見仏)の本質を理解すると、それに気づいていない人への慈悲の心が自ずから湧くが、智慧と慈悲との光明とはそういうことなのだろうと補足している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする