◎人間の側の体験に非ず
8世紀の中国でのこと。師匠である南泉が弟子の趙州に「道とはどんなものですか」と質問された。南泉は、「平常心が道である」と答えた。
そこで趙州は、「平常心をそこへ向かう目標として据えてよいでしょうか」と問うと南泉は、「そこへ向かうようなことをすれば、たちまち落ちてしまう」と答えた。
さらに趙州は「それを目指さないならば、それが道であることをどうやって知ることができましょうか」と問う。
南泉は、「道は「知」に属するものでなく、かつまた「不知」に属するものではない。「知」は妄想であり、「不知」は、善でも悪でもないもの(無記)。もし、真に目指しようのない道に達してみると、それは虚空のようにがらりんとしたものである。これを強いて述べるべきではない。」
これを聞いたとたんに趙州は、大悟してしまった。
(無門関第十九則)
無門は、南泉は説明し過ぎだとクサしており、これで悟った趙州はもう30年修行せよ(修行が足らないということ)とまで言っている。
言葉による説明や問答で知的理解しても道には届かない。
天国も地獄も越えて、ことばで説明できないそのものずばりこそが平常心である。平常心とは、社会人の常識的心理状態を言うのではなく、不安や怒りや恐怖で動揺していない心理状態を言うのではない。それは人間の側の体験ではない。
8世紀の中国でのこと。師匠である南泉が弟子の趙州に「道とはどんなものですか」と質問された。南泉は、「平常心が道である」と答えた。
そこで趙州は、「平常心をそこへ向かう目標として据えてよいでしょうか」と問うと南泉は、「そこへ向かうようなことをすれば、たちまち落ちてしまう」と答えた。
さらに趙州は「それを目指さないならば、それが道であることをどうやって知ることができましょうか」と問う。
南泉は、「道は「知」に属するものでなく、かつまた「不知」に属するものではない。「知」は妄想であり、「不知」は、善でも悪でもないもの(無記)。もし、真に目指しようのない道に達してみると、それは虚空のようにがらりんとしたものである。これを強いて述べるべきではない。」
これを聞いたとたんに趙州は、大悟してしまった。
(無門関第十九則)
無門は、南泉は説明し過ぎだとクサしており、これで悟った趙州はもう30年修行せよ(修行が足らないということ)とまで言っている。
言葉による説明や問答で知的理解しても道には届かない。
天国も地獄も越えて、ことばで説明できないそのものずばりこそが平常心である。平常心とは、社会人の常識的心理状態を言うのではなく、不安や怒りや恐怖で動揺していない心理状態を言うのではない。それは人間の側の体験ではない。