ソーマ賛歌は、古代インドのヴェーダの中にも類似したものがあり、向精神性薬物であるソーマにより大悟徹底、神人合一、宇宙意識への突入を目指すものであるという立場が明らかにされているが、散佚したのか、最初からバラバラに採録されたのかは解らないが、通して読んでも盛り上がりを欠く。
そこで、ダンテス・ダイジが、それを翻案し、『ソーマ賛歌』を歌い上げた。
『ソーマ賛歌
果てしなく吹きあれる嵐のごとく
それが私の眼を目覚ましめた
私はソーマを飲んだのか?
たくましき軍馬が戦車を引いて天翔るように
それが私を限りなく成長させた
私はソーマを飲んだのか?
母なる牛が子牛を抱くように
激しい歓喜が私を包んだ
私はソーマを飲んだのか?
戦士が戦車のうちに魂をこめるように
私はこの歓喜にすべてを委ねた
私はソーマを飲んだのか?
世界のあらゆる国々なぞ
私の眼のちりほどにも価値はない
私はソーマを飲んだのか?
天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ
私はソーマを飲んだのか?
輝かしい光明のうちに
私は天空と大地のかなたを越えた
私はソーマを飲んだのか?
私は地球やあらゆる星星をつまみあげ
ここに あるいはあそこに置いてみては戯れる
私はソーマを飲んだのか?
それともソーマが私を飲んだのだろうか?
ハリ・オーム・ソーマ
ソーマ・アムリタ・ソーマ』
(ダンテス・ダイジ/メディテーション・トラベルガイドから引用)
不思議なことに似たような気宇壮大な情景を歌った出口王仁三郎の歌もある。
『日地月あはせて造る串団子星の胡麻かけ喰ふ王仁口
日地月星の団子も食ひあきて今は宇宙の天界を呑む』
(出口王仁三郎著作集 第2巻第2部社会批判の展開/吾人の現代観)
出口王仁三郎は、明らかにソーマ・ヨーギではないが、その境地は卓絶したソーマ・ヨーギ、例えばヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスと同様のものであることがうかがい知れる。
ドン・ファン・マトゥスは、カルロス・カスタネダにより、1960年代、70年代アメリカのドラッグ・シーンに大きな衝撃を与え、その影響は未だに続いているし、悪影響も大きい。
ソーマ・ヨーガは廃人になったり日常生活ができなくなる危険性をはらむが、クンダリーニを勝手に上げたり、我流で気を回したり、ただ固定した姿勢で静坐し続けたりしても、妄想にとり殺される様なことがある。またセックス・ヨーガであるカーマ・ヨーガにも依存性とカルマをぐちゃぐちゃなものにされる危険性をはらむ。
しかしながら、どんなまともな行法であっても、人生のすべてを賭けねば大きなリターンはないという原則は共通しており、また賭けたからといって必ずしも成功するとは限らないものである。
だが道教の魏伯陽の故事を見てもすべてを賭けられるものだけが、道に至る。
それでもソーマ・ヨーガは、古代インドでもゾロアスターのペルシャでもハオマと尊称され、重要な悟りに至るメソッドとして命脈を保ち続けている。
ダンテス・ダイジの別の詩にはソーマを水先案内人と見ているものもあり、またもう少しで大悟しそうな人や、一度大悟した人がもう一度それをゲットしたり、維持したりするためにソーマを用いる場合もあることが唆めかされている。
酒をソーマとして使う人もいる。
北欧神話では、ミーミルの泉の水である。
インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。この尿もソーマである。