◎見:「リクパそのものに直接導かれること」
『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』はパトゥル・リンポチェ作。
『「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」、およびその注釈
導師に帰依いたします
見はロンチェン・ラプジャム、すなわち無限にして広大な広がり
修はケンツェ・ウーセル、すなわち智慧と慈悲の光明
行はギェルウェー・ニュグ、すなわち菩薩行
こうした実践を行なうことができるものは
まさにこの生において悟りを得ることになろう
それに、たとえそれが叶わなくとも、なんと幸福なことか
なんと喜ばしいことか!
見については、ロンチェン・ラプジャム
三つの言葉は要点を突く
まず、あなたの心を緩やかに解放しなさい
思考を離れ、心が散漫になることも、集中することもないまま
くつろいで、この穏やかな状態に安らいでいる最中に
突如、心をうち砕くように「パト!」と発声しなさい
激しく、力強く、そして不意に。ああ、なんとしたことか!
そこには何もない。 驚きのなかで立ちすくみ
驚きにうち負かされる。 しかし、すべては透明に澄み渡っている
新鮮にして純粋、かつ唐突。それゆえ言説を超えたもの
これこそが、法身の純粋な意識であると知りなさい
第一の要点は「リクパそのものに直接導かれること」である』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライラマ14世/春秋社P66-67から引用)
第一の要点は、見に関するもの。見とは、見方。見の極みは、仏を見ること。(見仏未体験の人も含めて想定している)
第二の要点は、修に関するもの。修とは瞑想。
第三の要点は、行に関するもの。行とは行為のあり方。
『見はロンチェン・ラプジャム、すなわち無限にして広大な広がり』のロンチェン・ラプジャムとは、ゾクチェンの祖師の一人。『無限にして広大な広がり』とは、すべてを包含する広大無辺の広がり。
パト!という気合の発声で、リクパという仏性そのものに直接導かれたのだ。見仏が起こったのだ。
ダライ・ラマは、この見仏の理屈がわかっても実際に見仏する人は多くはないというニュアンスの解説を加えている。
パト!という気合は唐突だが、くしゃみなど仏性が露見する裂け目を意図的に作り出すことを狙ったものなのだろう。その裂け目から仏性を目撃するのだ。
古神道の禊に雄詰(をころび)の禊というのがあって、これは気合を鍛錬するもの。
また笹目秀和が崑崙山の500歳の仙人と数日過ごした際に、洞窟外でその仙人が気合を出すのを聞いている。気合も重視されるべきテクニックの一つなのだろう。
西洋ではあまり気合的なものは重視されない。また最近の冥想法で気合を鍛錬するものはまず聞かないが、チベット密教に気合を用いるテクニックがあるのは想定外だった。見仏の呼び水として気合を用いるとはね。
「リクパそのものに直接導かれること」とは、まず見仏することが、最低条件であって、見仏体験が起これば、その体験に導かれることがあるということなのだろう。また見仏体験の後に、自動的に悟り後の修行も始まるものだとも読める。そして見仏を安定させる。
『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』はパトゥル・リンポチェ作。
『「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」、およびその注釈
導師に帰依いたします
見はロンチェン・ラプジャム、すなわち無限にして広大な広がり
修はケンツェ・ウーセル、すなわち智慧と慈悲の光明
行はギェルウェー・ニュグ、すなわち菩薩行
こうした実践を行なうことができるものは
まさにこの生において悟りを得ることになろう
それに、たとえそれが叶わなくとも、なんと幸福なことか
なんと喜ばしいことか!
見については、ロンチェン・ラプジャム
三つの言葉は要点を突く
まず、あなたの心を緩やかに解放しなさい
思考を離れ、心が散漫になることも、集中することもないまま
くつろいで、この穏やかな状態に安らいでいる最中に
突如、心をうち砕くように「パト!」と発声しなさい
激しく、力強く、そして不意に。ああ、なんとしたことか!
そこには何もない。 驚きのなかで立ちすくみ
驚きにうち負かされる。 しかし、すべては透明に澄み渡っている
新鮮にして純粋、かつ唐突。それゆえ言説を超えたもの
これこそが、法身の純粋な意識であると知りなさい
第一の要点は「リクパそのものに直接導かれること」である』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライラマ14世/春秋社P66-67から引用)
第一の要点は、見に関するもの。見とは、見方。見の極みは、仏を見ること。(見仏未体験の人も含めて想定している)
第二の要点は、修に関するもの。修とは瞑想。
第三の要点は、行に関するもの。行とは行為のあり方。
『見はロンチェン・ラプジャム、すなわち無限にして広大な広がり』のロンチェン・ラプジャムとは、ゾクチェンの祖師の一人。『無限にして広大な広がり』とは、すべてを包含する広大無辺の広がり。
パト!という気合の発声で、リクパという仏性そのものに直接導かれたのだ。見仏が起こったのだ。
ダライ・ラマは、この見仏の理屈がわかっても実際に見仏する人は多くはないというニュアンスの解説を加えている。
パト!という気合は唐突だが、くしゃみなど仏性が露見する裂け目を意図的に作り出すことを狙ったものなのだろう。その裂け目から仏性を目撃するのだ。
古神道の禊に雄詰(をころび)の禊というのがあって、これは気合を鍛錬するもの。
また笹目秀和が崑崙山の500歳の仙人と数日過ごした際に、洞窟外でその仙人が気合を出すのを聞いている。気合も重視されるべきテクニックの一つなのだろう。
西洋ではあまり気合的なものは重視されない。また最近の冥想法で気合を鍛錬するものはまず聞かないが、チベット密教に気合を用いるテクニックがあるのは想定外だった。見仏の呼び水として気合を用いるとはね。
「リクパそのものに直接導かれること」とは、まず見仏することが、最低条件であって、見仏体験が起これば、その体験に導かれることがあるということなのだろう。また見仏体験の後に、自動的に悟り後の修行も始まるものだとも読める。そして見仏を安定させる。