◎両性具有=完全無欠の神人
出口王仁三郎は、第二次大本事件の公判での裁判長からの質問に対して、伊都能売こそが、厳の霊(男性)、瑞の霊(女性)の合体した完全無欠の身魂であることを、古事記の素盞嗚尊と天照大神のうけひ(誓約)のシーンを引いてわざわざ証明してみせている。
出口王仁三郎は、天照大神と、素盞嗚尊の誓いのシーンには、伊都能売神という言葉は全く出て来ないにもかかわらず、『天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になつたのが、伊都能売神になる』とまで、洞察すべきと断言している。
伊都能売神の完全無欠性は、人間の一つの極致・極点であることは、日常感覚ではわかりにくいが、疑うべきことではないと、老婆親切にも教えてくれているのだ。
『問 それは後で訊く、大本では霊の性質として、厳の霊、瑞の霊と云ふことを説いて居りますか。
答 説いて居ります。
問 厳の霊、是はどう云ふことですか。
答 ちよつと是は……厳の霊と云ふと、古事記にあります、伊都能売神と云ふのがあります、厳の霊と云ふのは厳粛な魂、荒魂と和魂とが勝つた神様が、厳の霊と云ふのであります。
奇魂と幸魂とが勝つた神様が瑞の霊と云ふのです。
霊魂上で云へば、愛魂が即ち幸魂です、奇魂は智恵の魂で、是等の魂の勝つた神様を、瑞の霊と云ふ。
和魂は親魂と云ひ、是と荒魂の勇魂の勝つた神様のことを厳の霊と云ふ。 之をちよつと申上げます、ちよつと長くなるのでありますが、聴いて貰へまへぬか。
問 判つて居りますが、簡単に判り易く云つて御覧なさい。
答 伊邪那岐命が素盞嗚尊に対して、「お前は泣いてばかり居るならば母の国に行け」と云はれたので、「天照大神に一つ御挨拶を申上げて行かう」と云うて高天原に上られた。
其の時、天照大神は、「是は素盞嗚尊が、天津国を取りに来た」と思つて、武装を遂げて御迎へになつた。
其の時に素盞嗚尊は「私はさうぢやない」と云うた。「私は父の命令に依つて母の国に帰りますから、御挨拶に来ました」と云つたら、「さうぢやない、お前は腕力に依つて此の国を盗みに来たのだらう」と云はれた。
其の時に、天照大神の耳の輪と頚の輪と、五百津の珠を渡して、「之に儂の魂は通つて居るから見て呉れ」と仰しやつた。
其の時に、素盞嗚尊が珠を受けて、「狭噛みにかみて、吹棄つる息吹きの狭霧になりませる神の御名は、天之忍穂耳命、其の次の霊が天之菩比能命、其の次の霊が是は天津日子根命、それから其の次の霊が活津日子根命、其の次の霊が熊野久須毘命」、此の五つの霊が現れたと、是は厳の霊と云ふのです、厳粛の厳の霊です。或は又、五つの霊と云ふ。
「それならばお前の心を」と云はれて、素盞嗚尊は自分の十拳の劔を天照大神に渡され、之を一振り振つたら三つに折れてしまつた。
「さがみにかみて吹棄つる気吹の狭霧になりませる神が、多紀理毘売命、次に市寸島比売命、其の次が、多岐都比売命」、皆是は女の神様です。三柱の神様です。愛と智との神様で、実におとなしい神様です。
それで、素盞嗚尊の悪意の無いことが判つたと云ふ。それで瑞の霊、厳の霊と云ふのが出来た。
それで、天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になつたのが、伊都能売神になるのであります。
是は私が云ふことでありませぬで、古事記、日本書紀にちやんと出て居ります。』
(大本史料集成3巻/池田昭編/三一書房P392から引用)( 二次大本事件関係資料)
◎人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行する
信心銘で、禅の悟りを象徴している言葉は、万法一如、真如法界、空、大道等々で、色味がなく、せいぜいがモノクロの山水画を見ているような感じ。これに対してクンダリーニ・ヨーガ系の悟りは、それまでのステップで、十分に枝葉をつけているものである。例えば錬金術書『逃げるアタランタ』XXⅢ図では、背景で、太陽とヴィーナス神が交わって、男女両性具有が成り、その結果、あるいは同時に白髪の赤子が誕生し、世界は黄金を降らして言祝ぐ。
同じくクンダリーニ・ヨーガ系である古事記では、天照大神が素盞嗚尊と天の安の川原で仲直り誓約をするシーンが、男女両性具有の実現であり、禅でいう『好悪なし』。この誓約で生まれた神が、伊都能売神。
道教では、柳華陽の慧命経に、微細身が肉体から離脱して、妙道(クンダリーニのエネルギーコードか)を上昇して「有」を出て「無」に入る(面壁図第七)。さらに心印懸空月影浮(大悟した心は月のように空に浮かぶ)、筏舟到岸日光融(有なる筏舟は太陽の岸に着いて融ける)と、有は無に転ずることを示す。
次の粉砕図第八は、一円相。全体としてダンテス・ダイジの示したクンダリーニ上昇の秘儀に、とてもよく似ている印象がある。
このようにクンダリーニ・ヨーガ系は各ステップの描写が細かく、具体的なものだが、禅は誠にストレートで核心をついているが、枯淡と言わざるを得ない。
そうしたもともと展開しにくい禅の文化的展開は、書院建築、作庭、華道、茶道、書道、水墨画、わび、さび、俳諧、禅文学、武士道、華美を忌み勤倹を旨とする習慣などに展開していったが、その源流は室町の夢窓国師にある。
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」藤原定家。
禅には、しっかりした根はあるが花も紅葉もなかったところに、それを見せてくれた夢窓国師は日本を豊かにしてくれた。
これからは、クンダリーニ・ヨーガ系も力を入れないと。
※ダンテス・ダイジは、この時代、人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行すると予言。
信心銘で、禅の悟りを象徴している言葉は、万法一如、真如法界、空、大道等々で、色味がなく、せいぜいがモノクロの山水画を見ているような感じ。これに対してクンダリーニ・ヨーガ系の悟りは、それまでのステップで、十分に枝葉をつけているものである。例えば錬金術書『逃げるアタランタ』XXⅢ図では、背景で、太陽とヴィーナス神が交わって、男女両性具有が成り、その結果、あるいは同時に白髪の赤子が誕生し、世界は黄金を降らして言祝ぐ。
同じくクンダリーニ・ヨーガ系である古事記では、天照大神が素盞嗚尊と天の安の川原で仲直り誓約をするシーンが、男女両性具有の実現であり、禅でいう『好悪なし』。この誓約で生まれた神が、伊都能売神。
道教では、柳華陽の慧命経に、微細身が肉体から離脱して、妙道(クンダリーニのエネルギーコードか)を上昇して「有」を出て「無」に入る(面壁図第七)。さらに心印懸空月影浮(大悟した心は月のように空に浮かぶ)、筏舟到岸日光融(有なる筏舟は太陽の岸に着いて融ける)と、有は無に転ずることを示す。
次の粉砕図第八は、一円相。全体としてダンテス・ダイジの示したクンダリーニ上昇の秘儀に、とてもよく似ている印象がある。
このようにクンダリーニ・ヨーガ系は各ステップの描写が細かく、具体的なものだが、禅は誠にストレートで核心をついているが、枯淡と言わざるを得ない。
そうしたもともと展開しにくい禅の文化的展開は、書院建築、作庭、華道、茶道、書道、水墨画、わび、さび、俳諧、禅文学、武士道、華美を忌み勤倹を旨とする習慣などに展開していったが、その源流は室町の夢窓国師にある。
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」藤原定家。
禅には、しっかりした根はあるが花も紅葉もなかったところに、それを見せてくれた夢窓国師は日本を豊かにしてくれた。
これからは、クンダリーニ・ヨーガ系も力を入れないと。
※ダンテス・ダイジは、この時代、人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行すると予言。
◎二元対立を利用したビッグビジネスとマインド・コントロールを越えて
真正の覚醒において、いわゆる日常感覚や社会通念から論理飛躍している部分は、次のような点になる。
1.自分が変われば世界も変わる
2.二元対立そのものは、のっぴきならない現実ではあるが、本源的な原因ではない。その源流は自分とその欲望にある。
1の自分が変われば世界も変わるとは、いわゆる「自分も幸福になり世の中全体も幸福にする道は悪を退治し善を勧めることだ」という社会通念からすれば、およそ消極的、退嬰的ものに思われるかもしれない。だが、実はこれぞ自分が直接に世界全体を善に化す直接的な働きかけなのである。
しかしながら、そのメカニズムを確認したり、体験したりする手段は、自分が大悟覚醒するしかない。
2の二元対立は根が深い。
いわゆるオカルティズムにあっては、地獄的勢力があってそれが世の中全体を悪化せしめているから、それを弱体化、撲滅していくことが世を改善することだなどと説明する。それは天国と地獄があるとか、天界や神界や地獄もあるという霊的な構造で説明しているわけだが、そういう世界観は無数にある世界観の一つにすぎない。
一方真正な世界観とは、覚者の側からすれば、天国も地獄も天界も神界も地獄もなく、今ここだけである。
戦後の古神道系新興宗教は、出口王仁三郎の大本教を源流とするものが多いのだが、大本教の教説自体が霊をメインとする教義であったがゆえに、そうした新興宗教は霊がかりな教義を持っているものが多い。
大本教のメイン教本の霊界物語は旧かな使いでややよみにくいが、例えば谷口雅春の生命の實相は膨大なシリーズだが、現代語で読みやすく、それを噛み砕いてブログに挙げて人気を博しているようなものまである。
霊がかりとは、二元対立を出にくいものであり、二元対立を卒業しなければ、真の悟り、神人合一までには至らない。出口王仁三郎も谷口雅春も覚者であると思うが、肝心の古事記では、天国と地獄の結婚あるいは両性具有は、シンボリックにしか書いておらずわかりにくく、霊的な世界観以上の世界については説明不足になっているようにも思える。
※出口王仁三郎の両性具有イメージとは、人間の完成形、西洋で言えば原人間のイメージである。その由来するところは、古事記でスサノオ男神とアマテラス女神が天の安の川原で仲直り誓約をするシーンにおいて、天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが合体したのが、伊都能売。
万人が神知るというのは、万人が両性具有なる伊都能売を越えていくということ。
世俗のオカルティズムやモバゲーの世界では、悪をやっつけ善を扶けるのだが、残念ながらその目に見えない霊的オカルト的な二元対立部分を解決しないままにはぐらかすことでビッグビジネスにもなり壮大なマインド・コントロールにもなっている。
これは、社会全体のマインド・コントロールの結果、心理的に大きなタブーとなっている部分でもあり、払拭には多大な努力が必要だが、世界の武装解除と恒久平和、世界および自分の納得できる人生を実現するには、その解消は欠かせないものだと思う。
自分とその欲望に素直に向き合うこと、自分自身に直面する必要性は、理解されにくいかもしれないが、冥想の役割は大きい。
真正の覚醒において、いわゆる日常感覚や社会通念から論理飛躍している部分は、次のような点になる。
1.自分が変われば世界も変わる
2.二元対立そのものは、のっぴきならない現実ではあるが、本源的な原因ではない。その源流は自分とその欲望にある。
1の自分が変われば世界も変わるとは、いわゆる「自分も幸福になり世の中全体も幸福にする道は悪を退治し善を勧めることだ」という社会通念からすれば、およそ消極的、退嬰的ものに思われるかもしれない。だが、実はこれぞ自分が直接に世界全体を善に化す直接的な働きかけなのである。
しかしながら、そのメカニズムを確認したり、体験したりする手段は、自分が大悟覚醒するしかない。
2の二元対立は根が深い。
いわゆるオカルティズムにあっては、地獄的勢力があってそれが世の中全体を悪化せしめているから、それを弱体化、撲滅していくことが世を改善することだなどと説明する。それは天国と地獄があるとか、天界や神界や地獄もあるという霊的な構造で説明しているわけだが、そういう世界観は無数にある世界観の一つにすぎない。
一方真正な世界観とは、覚者の側からすれば、天国も地獄も天界も神界も地獄もなく、今ここだけである。
戦後の古神道系新興宗教は、出口王仁三郎の大本教を源流とするものが多いのだが、大本教の教説自体が霊をメインとする教義であったがゆえに、そうした新興宗教は霊がかりな教義を持っているものが多い。
大本教のメイン教本の霊界物語は旧かな使いでややよみにくいが、例えば谷口雅春の生命の實相は膨大なシリーズだが、現代語で読みやすく、それを噛み砕いてブログに挙げて人気を博しているようなものまである。
霊がかりとは、二元対立を出にくいものであり、二元対立を卒業しなければ、真の悟り、神人合一までには至らない。出口王仁三郎も谷口雅春も覚者であると思うが、肝心の古事記では、天国と地獄の結婚あるいは両性具有は、シンボリックにしか書いておらずわかりにくく、霊的な世界観以上の世界については説明不足になっているようにも思える。
※出口王仁三郎の両性具有イメージとは、人間の完成形、西洋で言えば原人間のイメージである。その由来するところは、古事記でスサノオ男神とアマテラス女神が天の安の川原で仲直り誓約をするシーンにおいて、天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが合体したのが、伊都能売。
万人が神知るというのは、万人が両性具有なる伊都能売を越えていくということ。
世俗のオカルティズムやモバゲーの世界では、悪をやっつけ善を扶けるのだが、残念ながらその目に見えない霊的オカルト的な二元対立部分を解決しないままにはぐらかすことでビッグビジネスにもなり壮大なマインド・コントロールにもなっている。
これは、社会全体のマインド・コントロールの結果、心理的に大きなタブーとなっている部分でもあり、払拭には多大な努力が必要だが、世界の武装解除と恒久平和、世界および自分の納得できる人生を実現するには、その解消は欠かせないものだと思う。
自分とその欲望に素直に向き合うこと、自分自身に直面する必要性は、理解されにくいかもしれないが、冥想の役割は大きい。