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 ローマ皇帝で最初にキリスト教徒となった(313年にキリスト教を公認)コンスタンティヌス帝(Flavio Valerio Costantino、在位:306年~337年)は、324年、ペテロ殉教の地と言われるテベーレ川(テヴェレ川、Tevere)沿いの土地で教会建設に着手しました(25年後の329年に完成)。ペテロはネロの迫害の犠牲になり、64年に逆さ磔の刑で亡くなります。ここに信者の祈祷所ができており、それを教会に変えたのです。

 ペテロ(Pietro)はイエスの十二使徒の一人で、もと漁師でシモン(Simon)という名前でした。マタイによる福音書によると、イエスは「あなたはペテロ(岩)である。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。」と語り、ペテロという名が与えられたといいます(イエスは「ケファ」(アラム語で「岩」という意味)という渾名で呼んでいた。紀元前後の時代、パレスチナのユダヤ人はアラム語を用いていて、ユダヤ教徒であったナザレのイエスとその弟子らはアラム語で話したとされる。「ケファ」のギリシア語訳が「ペトロス」→「ペトロ」)。

 33年に、イエスがイスラエルのエルサレムの地で処刑されると十二使徒らは師の教えを布教するために各地に散っていきます。使徒の中で指導的な地位にいたペテロは布教の最後にイタリア半島のローマへとやってきます。

 当時のローマ帝国の皇帝は第5代のネロ・クラウディウス・カエサル(Nerone Claudio Cesare、在位:54年~68年)でした。64年7月、ローマで大火が起こり、ローマの中心部の大半が焼け野原となります。ネロは暴君でした。豪華な宮殿を建設しようと建設用地を物色していたネロが用地を確保するために放火させたという噂が人々の口の端に上ります。

 ネロは噂を打ち消すためかキリスト教徒の信者を放火の犯人とし、キリスト教徒に対する迫害を始めます。ローマでの新興宗教、キリスト教はこの頃には迫害の対象になるほどの勢力になっていたのでしょう。当然、それをこころよく思っていない勢力もあったことでしょう。ネロはそれに耳を貸したのかも知れません。

 コンスタンティヌスは、ペテロのものとされる墓を参拝するキリスト教信者のために、殉教者記念教会堂を建設します。「バジリカ(Basilica、バシリカ)」という建築の様式で建てられていました。身廊に左右2列の側廊を備えていた「五廊式バジリカ」であったようです。



 ギリシアにはストア(stoa)と呼ばれる、細長い柱廊で、長辺の一方が壁で、他方が広場に面して開放されていた建造物がありました。強い日差しや雨を避けるために利用されたのでしょう。ヘレニズム時代に成立した哲学の学派である「ストア派」という言葉は、この「ストア」に由来します。ストア派の創始者、ゼノンがこのストアで講義を始めたからです。

 このストアを中庭を取り囲むようにコの字型に曲げ、その中庭に屋根を設けたのが「バジリカ」です。この柱廊に取り囲まれた部分の採光を考え、天井を高くし、高窓を設けます。この中央部分は「身廊(nave、navata)」と呼ばれます。教会建築では、ここに椅子が並んでいたりします。身廊を取り囲む部分は「側廊(aisle)」と呼ばれます。



 ローマの「フォロ・ロマーノ(Foro Romano、Forum Romanum、Roman Forum)」には、紀元前55年にガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar、Gaio Giulio Cesare)が造ったバジリカがあります。幅40m、奥行き109mの長方形です。いまでは、壁も柱も屋根もなく、大理石の床に柱礎が整然と並んでいるに過ぎませんが、中央の身廊(Nave)を囲み、左右2列の側廊と前後廊を備えていた建物であったことは見てとれます。



 ローマ教皇(Papa、ローマ法王、初代はペテロとみなされる)の第216代「ユリウス2世(在位:1503~1513、Julius Ⅱ)」は、1502年に、コンスタンティヌス帝が建てた五廊式のバジリカを破壊し、ドナート・ブラマンテ(Donato Bramante、イタリアの盛期ルネサンスを代表する建築家で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のアプスを改築したという)に命じて、新しい聖堂の建設に着工させます。いろいろな建築家の手を経て、1590年にようやくミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti、ルネサンスの三大巨匠の一人(他の2人は、レオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロ・サンティ))設計の円屋根が完成することになります。



 以後、17世紀に入って、教皇たちは巨費を投じてサン・ピエトロ大聖堂を変えていきます。1612年には、身廊が引き伸ばされ、列柱の聳える巨大なファサード(facciata、facade、建築物の正面部分)が完成します。「ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini、バロック期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家)」は、信者を迎え入れる手を表す、楕円形のサン・ピエトロ広場を囲むコロネード(colonnade、円柱間の上部を水平の梁で連結した柱廊)を設計します。



 現在のサン・ピエトロ大聖堂は、建築様式でいうと「バジリカ」ではありません。しかし、サン・ピエトロ大聖堂のイタリア名は“Basilica di San Pietro in Vaticano”(バジリカ・ディ・ピエトロ・イン・ヴァティカーノ)です。ローマには五大バジリカがあるといいます。それは、サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(Basilica di Santa Maria Maggiore)、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(Basilica di San Giovanni in Laterano)、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le Mura)、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Lorenzo fuori le Mura)の5つです。この5つのバジリカは、ローマ教皇により、一般の教会堂より「上位にある」ことを認められた教会堂という意味での「バジリカ」です。



  サン・ピエトロ大聖堂は、他の教会堂とは大きく異なります。教会堂の入り口は西側に設けられ、教会堂の一番奥にはアプス(apse、「後陣」)がある(東側になる)ことが普通なのです。例えば、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の配置が通常といえます。しかし、初代のサン・ピエトロ大聖堂は、聖ペテロの墓地の巡礼を目的として設計されていたため、本来は東側に向けて構築されるはずのアプスは西に向けられ、東側には入り口が設けられていたといいます。それを2代目の現在のサン・ピエトロ大聖堂も踏襲しています。

 イタリアで道に迷い、方位を知りたければ、教会堂で判断すればよさそうですね。でも、バチカン市国では方位が逆だから、迷いそうです。迷わないか! 世界最小の国家(44ha)ですからね。東京ディズニーランド(51ha)より狭く、その86%ほどです。やっぱり迷うか。東京ディズニーランドで迷うのだから。

                (この項 健人のパパ)

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