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 「パドヴァのアントニオ(Sant'Antonio di Padova、1195年~1231年)」も「アッシジのフランチェスコ(San Francesco d'Assisi、1181年~1226年)」も「聖人(英語:Saint、イタリア語:Santo)」です。「聖人」とは、イエス・キリストの模範に忠実に従って生き、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人間との仲介役となり、人々の祈りを聞き入れてくれるように神のそばでとりなしを行ってくれる存在であるとされます。

 カトリック教会では、聖人への崇敬はキリスト教信仰の一部をなしています。プロテスタントでは、神のそばにいて神と人間の媒介としての役割を担う「聖人」という概念がありません。聖書に立ち返ることを主張するプロテスタントには、聖書に根拠を持たないものは認めないのです。

 聖人は「ローマ教皇庁列聖省(Congregation for the Causes of Saints、現長官:アンジェロ・アマート大司教(Archbishop Angelo Amato))」の調査の結果を受けてローマ教皇が公に聖人の列に加えると宣言する(列聖、canonization、canonizatio)ことで誕生します。「列聖式」はローマの聖ペトロ大聖堂で盛大に執り行われます。教皇庁列聖省が調査を宣言すると、その人物は「尊者(Venerable)」となります。さらに、列聖省が調査の結果、その人物の生涯が英雄的で、福音的な生き方であったことを公認すると「福者(Blessed、Beatus)」と呼ばれることになります。

 最も貧しい人々のために活動する「神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)」の創立者、「マザー・テレサ(Mother Teresa)」は亡くなってから6年後に列福されています。この「福者」の中から「聖人」が選ばれていくことになります。それには何十年という時の流れが必要となります。マザー・テレサが「列福」されたのは異例の速さだったと言われるほどで、多くは歴史が長い時間をかけて選別していくのです。

 「聖人」になるためには、「奇跡」を起こしていなくてはなりません。その資格要件は厳しいものです。まず「福者」になるために、殉教者の場合を除いて、一つの奇跡が必要です。教皇庁の調査委員会が資料を集め、厳密に調べ、その調査資料に基づいて、列聖省の専門委員会を経て、枢機卿委員会での会議にかけられます。「福者」に値すると判断されると、教皇が列福の教令に署名し、列福式をもって「福者」と宣言されます。福者の列に加えられた後、もう一つの奇跡があると、「聖人」に値するかが同様な手続きを踏んで判断されるのです。これからすると、聖人は立証が可能な二つ以上の奇跡を起こしていることになります。

 1226年、パリのほぼ南へ350kmほどのフランス中部の町「リモージュ(Limoges)」で宣教活動をしていたアントニオの元に知らせが届きます。10月3日の夕刻にフランチェスコが亡くなったという知らせでした。アントニオはフランス南部からイタリア北部にかけての地域で活発な活動をしていた「カタリ派(Cathares、10世紀半ばに現れ、12世紀の終わりには南フランスの都市「アルビ(Albi)」に由来して「アルビ派(Albigenses)」ともよばれる)」に対抗するために送り込まれていました。カタリ派は、新約聖書の章句に固執し、原始キリスト教団の生活を理想化し、教会とその位階制を否定していたことから、ローマ教皇庁によって異端とされます。



 アントニオは、1225年にフランスにやって来て、モンペリエ(Montpellier、マルセイユの北西160kmほどのところにあり、かつては地中海に臨む海港都市であった)、トゥールーズ(Toulouse、歴史的建築物が多い、人口(約40万人)でフランス第4位の都市)、ル・ピュイ=アン=ヴレ(Le Puy-en-Velay、1000年以上の歴史をもつ司教座都市)、アルル(Arles、ゴッホが晩年を過ごした町で、ローマ時代の遺跡がある観光都市)、ブールジュ(Bourges、パリの南230kmほどのところにあり、中世には交易の中心地であった)、リモージュ(Limoges)などで活動を続けていましたが、マルセイユ(Marseille、フランス最大の貿易港であり、人口(約80万人)でフランス第2位の都市)から帰途につきます。

 フランシスコ会の1221年会則に大幅な改編を加え、ローマ教皇をその頂点とする権力構造にフランシスコ会を組み入れた「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti)」枢機卿は、1227年、教皇グレゴリオ9世となります。グレゴリオ9世はフランチェスコを1228年には列聖します。フランチェスコが亡くなって21か月後のことでした。その年には、フランチェスコの功績を讃えるために、アッシジの町の北西の斜面を利用して聖フランチェスコ聖堂の建築が始まります。2年後の1230年にはフランチェスコの遺骸がこの聖堂に移されます。



  「ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)」の描く
             「聖痕を受けるフランチェスコ(Stimmate di San Francesco)」

 聖人に列聖されるにはいくつか「奇跡(miracle、miracolo)」を行っていなくてはなりません。フランチェスコが亡くなる2年前の1224年、フランチェスコは「アルヴェルナ山(Monte Alverna)」で断食しながら祈りをささげていた時に、十字架に架けられた「熾天使(Seraph、Serafino)」を見ることになります。そのとき、熾天使はフランチェスコの身体にイエスの磔刑の傷跡を押しつけたといいます。聖痕(stigmata)とは、イエスが磔刑となった際についたとされる傷と同じ位置に現れた信者らの身体の傷を言います。フランチェスコは、聖痕示現者になり、両手、両足、脇腹に聖痕を持つことになります。これも「奇跡」とされます。


  「ジローラモ・テッサーリ(Girolamo Tessari)」の描く
       「聖餐式で跪くラバ(La mula si prostra davanti all'Eucarestia)」(1515年制作)

 パドヴァのアントニオも「奇跡」を行っています。溺死者を蘇生させるということを幾度か行ったそうです。水面に頭を出し、聴き入る魚に説教をしたこと、ラバに聖餐式を行ったことなどの「奇跡」は絵画の題材ともなっています。魚に説教することができたことと関係するのでしょうか。聖アントニオは、「漁師」の守護聖人です。また、理由はわかりませんが、「養豚業者」の守護聖人でもあります。

 人が聖人に列聖されるのは死後のことです。1226年に亡くなった「アッシジのフランチェスコ」は1228年に、「パドヴァのアントニオ」は1232年に、教皇グレゴリオ9世によって列聖されています。アントニオが亡くなったのは1231年ですから、翌年には列聖されたことになります。アントニオは生前から民衆にそして教皇庁に人気の高い人でした。

 時を少し戻します。アントニオがフランスのマルセイユを冬に発ってアッシジに着いたときには春になっていました。フランチェスコの墓に祈りを捧げ、次期の総長を決める「総会(Chapter)」に参加します。新総長の「ジョヴァンニ・パレンティ(Giovanni Parenti)」によって、アントニオは北イタリアのほとんどを占めるロマーニャ管区の管区長に任命されます。大変に有能であったアントニオは30歳には大司教ともいうべき地位になっていたのでした。

 アントニオは精力的に「説教」を各地で行う一方で、修道院を訪れ、そこに暮らす修道士たちにねぎらいの言葉をかけて回ります。その足跡は、現在はスロベニアと国境を接するイタリアの東の端の町「トリエステ(Trieste)」にも及びます。

 1228年、アントニオは「パドヴァ(Padova)」にやって来ます。アントニオの「説教」を聴きに集まる人たちの数は非常に多くて、どの教会もその人数を収容はできませんでした。そこで、アントニオは彼らを引き連れて、広々とした草原に行って「説教」をしたと言います。パドヴァの町の人たちだけではなく、パドヴァの周辺の他の町から、また城や村からも集まったのです。それも夜のうちから集まり始めたと言います。1~2時間の「説教」を聞くために人々は大変な努力を払ったのです。



 ようやく、アントニオがパドヴァに結びつくことになりましたが、この続きは次回に。今回のイタリア旅行で訪れることができたパドヴァのサンタントニオ聖堂の紹介に入ることができます。

             (この項 健人のパパ)

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