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 神に祈りを捧げる「礼拝(worship)」のための専用の空間を「礼拝堂(chapel、cappella)」と言います。主祭壇を囲む礼拝のための空間は「聖堂」と呼ばれて、礼拝堂とは区別されます。礼拝堂は、ミケランジェロの「最後の審判」の壁画のある「システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)」やイエスの母マリアとイエスの生涯を扱ったジョットの連作壁画のある「スクロヴェーニ礼拝堂(Cappella degli Scrovegni)」が有名ですが、必ずしも独立した建物であるとは限りません。カトリックの大聖堂では、大聖堂の側廊などに空間をとり、礼拝堂を設置することが一般に行われています。



 パドヴァの「サンタントニオ聖堂(Basilica di sant'Antonio)」の「主祭壇(high altar)」の背後に「宝物礼拝堂(Treasury Chapel、Chapelle du Tresor、聖遺物礼拝堂、Cappela della Reliquia)」があります。この礼拝堂には「聖アントニオ」の「聖遺物(relic)」が展示されています。「聖遺物」とは、イエス・キリストや聖人の遺骸や遺品を言います。この礼拝堂には、聖アントニオの「顎」と「舌」が展示されています。「説教(sermon)」の非常に上手であったアントニオに相応しい聖遺物と言えるのでしょう。

 聖遺物で有名なのは何といってもトリノの「聖ヨハネ大聖堂(Cattedrale di San Giovanni Battista)」に保管されている「トリノの聖骸布(Shroud of Turin)」でしょう。「聖骸布(Holy Shroud)」とは、磔刑に処されて亡くなったイエスの遺体を包んだとされる布を言います。ローマ教皇「ベネディクト16世」は2010年5月2日、「トリノの聖骸布」が10年ぶりに公開されている大聖堂を訪問、聖骸布の前で4分ほどの祈りを捧げました。教皇はその後、大聖堂そばのサンカルロ広場で野外ミサを行っています。



 話を戻します。宝物礼拝堂には3つの「壁龕(へきがん、niche、像や飾り物などを置く壁の窪み)」があり、中央の壁龕にはこの聖アントニオの「顎」と「舌」が装飾を凝らした容器に入れられて納められています。その手前には拝観のための通路があり、欄干には6体の像が配されています。左脇の聖フランチェスコ、右脇の聖ボナヴェントゥラ、そしてその間に「信仰(Faith)」、「改悛(Penance)」、「謙譲(Humility)」、「慈愛(Charity)」の像が置かれています。

 1263年、サンタントニオ聖堂建設の第二段階が終了します(聖堂の建設は聖アントニオの亡くなった翌年の1232年に始まりますが、竣工までには80年ほどかかり、1310年に完成をみます)。建設開始より30年ほどかけて第二段階が終了した時点で、フランシスコ会士を集めてパドヴァで開催された「総会(General Chapter)」の際に、「ボナヴェントゥラ(Bonaventura)」総長らは聖人の遺骸をサンタ・マリア・マーテル・ドミニ教会から聖堂に移すことになります。聖人の棺を初めて開けることになり、アントニオが訪れた数多くの教会から提供されて遺体を覆っている「聖遺物」を取り除いていきます。そこで、立ち会っていた会士たちを驚愕させることが起ります。それは聖アントニオの「舌」が腐敗しないで残っていたのです。それが「宝物礼拝堂」に展示されているのです。



 サンタントニオ聖堂には最奥にある「聖遺物礼拝堂」を含めて「礼拝堂」が5つあります。まず、聖堂に入って左手(北面)の「翼廊(transept)」に「聖アントニオ礼拝堂(Saint's chapel)」、その左手に「黒髪のマリア礼拝堂(Chapel of the Dark-haired Madonna)」、その奥に「福者ルカ・ベッルーディ礼拝堂 (Blessed Luca Belludi' chapel)」があります。そして、「聖人礼拝堂(聖アントニオ礼拝堂)」」の「身廊(nave)」をはさんだ向かい側の「聖ヤコブ礼拝堂」です。



 先を急いだため、パドヴァのアントニオが亡くなった前後の話を飛ばしてしまいました。次回はその話をしたいと思います。記憶を記録にして残そうとして、パドヴァの話を始めましたが、忙しくて更新もままならず、ミラノで「最後の晩餐」を見た話に辿り着くまでには妻が新たな旅行の計画を立てそうで、中途半端の旅行記になるのを恐れています。

               (この項 健人のパパ)

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