ぱそらぼ (ぱぁと1)

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生還

2009年11月02日 | 命の生き方
伊豆諸島の八丈島近海で転覆したキンメダイ漁船には8人が乗り組んでいたと言います。残念ながら既に船長は遺体で発見されていますが、転覆4日目にして3人の船員が、転覆船内から救出されました。残る4人の捜索活動が必死で続けられていますが、未だ発見には至っていません。

各紙が「奇跡の生還」と報じています。救出後の記者会見では、生きて帰れるとは思っていなかったと語っておられましたが、一方で「生きることだけを考えていた」「家族のことを考えていた」という風にも話されました。極限の状態を間一髪で分けたものは、一方に重なる幸運があったでしょうが、何よりも彼らが口にした「生きることだけを考えた」精神力ではないだろうかと想像します。

彼らの極限と、日常の瑣末を一緒にするのは話が違うとは思うものの、事は「ダメだから」ダメに至るのでなく、「ダメと思うから」ダメに至るように思うことがあります。よく「運」も「能力」の1つだと言われることがあります。人智の及ばないことはあると充分に理解した上で、運さえも引き寄せる気迫というものは、充分存在するのではないだろうかと思ったりするのです。

医学が進歩し、不治の病が治るようになった現代では、昔なら本人には告知しなかった、病気の予後(余命)が、堂々と語られるようになっているそうです。それは、聞いた本人にそれなりの自分の人生を完遂する道を探る余地を残すことであり、患者の「知る権利」ともとらえられています。ですが、医者が語る予後はあくまで確率論であり、それがあたかも事実であるかのような物言いをするのは、現代の傲慢ではないかと私は思います。

4日間を耐え抜いた彼らは、迫り来る死の恐怖に向かいながら、一縷の「生」にすがりつくことで、その「生」を手繰り寄せることができました。その状況はどう考えても絶望に近かったのに(予後…という言い方にすれば、可能性は「無」であったはずなのに)、「生きる」ことへの執着は彼らに想像以上の精神力を与えてくれたようです。患者が、客観的に自分の容態を知ることと、統計学的にどの程度の致死率であるかを知ることは、別問題ではないかと思えてきます。

十把一からげの告知を「する」とか「しない」とかの議論は、少し違っているような気がします。人間は「明日」のことが分かっている…と思う思い上がりを反省しなければならないのではないでしょうか。どんな明日が来るかは、分かるかに思うことは違うのではないでしょうか。


手を抜くところと抜いてはいけないところ
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