ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

仕事観

2013年06月29日 | 社会派らぼ
この春、大阪市が公募して着任したばかりの校長が、3か月で辞職を申し出た…と、ニュースが駆け巡っています。彼が、辞職理由として挙げたのが「『若い』という理由だけで、小規模校に配属、給料が最低級、自分のしたいことができる環境ではなかった」。これに対して、勿論と言うべきでしょうか、批判意見が集中しています。

外資系会社を4社転々とした後に校長職に応募とありました。外資というのは特に能力主義の会社が多いと聞きます。職場を転々としながら、キャリアを重ねて出世をしていくというパターンも一つの「やり方」のようです。それは悪いわけではありませんが、それなら彼は「校長職」には応募すべきではなかったのだろうと思います。「一つ、やりたいことを内に秘め、環境が変わろうと待遇が変わろうと、ただ自分の内なる思いに忠実に動く」仕事観と、「対人の駆け引きや、チャンスをうまく捕まえて、自分のステータスをうまく築いていく」仕事観とは、根本的に相容れないものがあるような気がするからです。

この校長先生は、記者会見などを開くべきではなかったのではないでしょうか。日本語のあいまいさは、時に世の中の行き違いを埋め、角を立てずに物事を丸く収める…という、本当は恥ずべきなのかも知れない不思議なメリットを持っています。自分の都合だけで職を辞すのですから、「一身上の都合」で、何も言わずに舞台を降りるべきではなかったでしょうか。「謝罪することではない」と、胸を張って下りるべき職ではありません。思いをお持ちであったのなら、市教委や現場の先生の反対を押し切ってでも、手腕をふるう覚悟を見たかったと思います。

採用側の市教委は「経歴も能力も、市の教育方針に合致していた」と説明していますが、選考の時点で「経歴」と「能力」しか見ずに、「人」と「なり」を見ていない「非」があるように思います。多くの意見が、辞めた先生に批判的であることが、かえって市教委の反省をうやむやにしてしまいそうな気がします。

ライン

2013年06月27日 | 社会派らぼ
いじめを理由にLINEを禁止する学校が出てきています。LINEアプリを禁止、ないし、学校への携帯持ち込み禁止…といった措置が発表されたりしています。「LINE」と名指しをして、このアプリを規制したところで、「いじめ」自体が
減るという風には考えられません。たとえ学校へ携帯を持ってこないように指導したところで、携帯ユーザー・ラインユーザーがそれで減るわけではありません。いじめの現場が学校の外に出るだけでしかないように思えます。

学校の友だちという輪の中で起きる「いじめ」は、形を変えツールを変え、根強く人間の間にはびこっている「業」のようなものに見えます。携帯などがなかった時代には、授業中に手紙を回したり…もありましたし、ネットが子どもたちの中に広まるにつれて、学校裏サイト的なものの存在や、メールを使った陰湿ないじめなど、話題に事欠きません。人間は、何を使ってでも「人をいじめることができる」ということなのだと思えてきます。だから、そのツールを禁止したところで、形が別物に変わるだけのように思えます。

ネットを使った「いじめ」がはびこるのは、恐らくはそれが対面でないというところから来る安易さにも一因があるような気がします。勿論、シビアないじめは「対面」であっても堂々と進行はしますが、予備軍的なものは、直接手を下す罪悪感が歯止めになるはずなのに、ネットにはそのフィルターが通じません。

本当は、子どもの携帯というものを解禁にすべきではなかったのかも知れません。が、この時代にそれを言ったところで、時代錯誤的な意見にしか聞こえません。フィルタリング対策など、恐らくは何の効果も生みません。多分、人と言うのは、「ある程度」のエネルギーを常にその内に持っています。エネルギーを使う場面が見つからないでいると、それらは人の悪口を言ったり、人をワライモノにしてみたり、世の中を小馬鹿にすることに使われていきます。親が押し付ける「いい学校」といった目的ではなくて、真に魂を燃やせる対象を見つけさせることも教育かもしれません。



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解禁

2013年06月26日 | 社会派らぼ
近所に選挙ポスター掲示板が設置されました。通常国会が閉会しましたので、参院選が始まります。正式な期日決定はまだではありますが、選挙事務は見切り発車でスタートしているようです。今回の参院選からネット選挙運動が解禁されます。…が、何分初めてのことで、かなりの混乱が予想されます。

現在の公職選挙法は未成年者による活動を禁止しています。そのため、未成年者が他人の選挙運動メッセージをリツイートするなどすると、法律違反と見なされてしまいます。総務省では、法律違反で罰せられるおそれがあるので注意するよう呼びかけています。

具体的には、「自分で選挙運動メッセージを掲示板やブログなどに書き込むこと」「他人の選挙運動の様子が動画共有サイトなどに投稿すること」「他人の選挙運動メッセージをSNSなどで広めること」「送られてきた選挙運動用電子メールを他人に転送すること」といった例が挙げられています。選挙運動メールの転送は、一般有権者についても禁止されています。

…が、実際にはそれらをすべて取り締まることは不可能に近いことですし、ネット上でのやり取りのどこまでが個人的なもので、どこからが公開された情報なのかの線引きは事実上不可能に近い事です。私個人的には、ネット上と言うのは、すべてが公開情報だと理解しています。そこに個人的な事情を書き込んでいるケースを理解しがたいと思っているのですが、実際は公開すべきではない情報が山と拡散しています。多くの若者の中には(若者だけとは限りませんが)、ネット上には個人的な居場所があると感じている人も少なくありません。

そもそもネット上での選挙運動が解禁となったのは、既にウェブ発信が日常的で当たり前の状況になっているにも関わらず、相変わらず選挙だけがそれを禁じることに無理が生じてきたせいだろうと思います。良いか悪いかは別として、世の中は既に個人的なつぶやきが大手を振って飛び交う時代にあります。そこが「公開の場」であって取り締まらねばならない…とすること自体、どうにも無理を感じるのは私だけでしょうか。



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発信

2013年06月25日 | 雑談
当ブログでも、一度触れました。岩手県議が、「病院で名前ではなく番号で呼ばれたことに腹を立て会計もせずに帰った」ことをブログに書き込みました。県議は、明らかに病院に非があると思っているわけですが、ネットはそうは判断しませんでした。ここで言う「ネット」とは、責任の所在をハッキリさせることもせずに、時に品の悪い言葉まで使って、一方的に人を非難するような意見までを含めた、多くの「声」を指します。

様々な事象に、それなりに意見を持つことは自由です。その意見を発表することも自由です。但し最低限、どこの何某とまで書く必要はありませんが、ネット上での立ち位置をキチンと名乗り、品性を疑う言葉は使わずに、キチンと書くべきです。どこの誰だかわからないまま(つまり、自分の身を隠して)、一方的に人を罵倒するようなことはすべきではありません。そういう意味で、県議は「自分の身を晒して」意見を書いたわけですが、一方的に人を非難するような、怒りをぶちまけるような書き方は、あまり感心しません。何より、県議の示した「物差し」はあまりにも、一般常識からずれており、それでは反論を食うのは当たり前…とも思える内容でした。

その県議が、どうやら「自殺」をしたようです。まだ報じられたばかりですが、流れからして勢いで書いてしまったブログが炎上し、責任を問われるような成り行きになったことを苦に、思い余っての自殺のように見えます。亡くなられた方には失礼なのですが、どう見ても、あまりにもお粗末な県議です。私たちはそれでも反省をしておくべきだとも思います。批判や非難を書き連ねることには、そんなにエネルギーは要りません、多分。腹立ちに任せて、言葉を連ねればいいだけですから。ですが、その腹立ちの理由を多くの人に納得させるだけの、冷静で品のある説明は必要です。それなしに人を一方的に非難するのは、自殺された県議も今回の多くの「ネット」ユーザーも「レッドカード」ものです。

ネットは、私たち庶民が手に入れた「自由な発言機会」です。が、そこに書き込むものは、社会に対して発信していることを十二分に頭に置いた発言でなければなりません。昨今のツイッターやフェイスブック、ブログなど…立て続けに登場したこれらの発信ツールは、手軽ではありますが、きちんと背筋を正して使うべきものであることを、再認識しておきましょう。誰も、目には見えない暴力をふるうことは許されてはならないし、社会に発信するということは、それなりに責任を持つことだということを認識したうえでの事でなければならないはずです。



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眼力

2013年06月24日 | 社会派らぼ
スマホ向け知育学習補助アプリが次々提供されています。今や、スマホは幼児にとっても”当たり前”の時代に入りつつあります。勿論、無償のものから有償のものまであります。「ひらがな」を指でなぞらせるアプリがあって、上手にたどれると「やったね!」、はみ出したり書き順が違っていると「残念!」と声が出る仕掛けになっていました。「あ」に始まって途中までが無料、その先は有料になっていて思わず苦笑。親心をくすぐる演出です。

今回KDDIが、更に未就学児また中高生向けのサービス提供を始める…そうです。月額数百円で、お絵かきや計算、言葉などが学べるアプリが使い放題との事です。起動直後は保護者向けの画面が表示され、利用時間などを制限するなどの設定をした上で、子ども専用モードに切り替えて子どもに手渡すように考えられています。一方で同じくKDDIが中高生向けに、学習補助アプリも提供するそうです。契約した科目のアプリを起動して、問題を一問一答式で約15分勉強できるようになっているそうです。

先日、大阪市の「学校教育ICT活用事業」モデル校に指定されている小学校で、タブレット端末や電子黒板を活用した公開授業が行われた…という新聞記事を見ました。グループに分かれて撮影した写真を電子黒板で紹介、端末で写真を見たり、まとめを電子黒板に書き込んだりしながらの授業では、「紙に書くより便利」だとか、「検索を使うことで学習が楽しい」といった感想を紹介していました。参観者からも、普段の授業よりも集中しているといった感想が持たれていました。

確かに便利な時代になりました。子ども達にとってタブレットやスマホは、当たり前のアイテムですから、それらを効果的に使わない手はありません。ですが、そこに一抹の不安を感じるのは私だけでしょうか。子どもたちの手元は、すぐに教師の手元に吸い上げることができて、そこで理解が進んでいるかそうでないかの判断が瞬時にできてしまう…といったことも、当然ですがタブレットの強みです。

但し、それが正しい答えを書いたから理解できている、正しい答えを導き出せていないから理解が足りない…。そんな風に教師が把握するのだとしたら、「教師」という存在が要らなくなることになってしまいます。教師が画面ばかりを見て、子どもを見ないといった弊害も起きかねません。理解度というのは、生身の子どもの反応を見て把握すべきものです。それは、その理解を邪魔しているものが何であるのかの見極めまでを含めた、教師の眼力のようなもののはずなのですから。





ファイルを2つ開いているのに、タスクバーには1つしか表示されない

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小雨の三千院

2013年06月23日 | 雑談
私たちにとっては、トテモ大切なお客様が来日されました。お忙しいスケジュールを縫って、お昼から夕方までの時間を私たちのために空けてくださったので、京都を案内してきました。待ち合わせた京都の国立京都国際会館は、異例のものものしい警護。そう言えば、昨日のニュースで天皇・皇后両陛下が開会式に出席されると報じていましたっけ。はるばるスウェーデンから来られたお二人を案内して、貴船と三千院コース。不運にも小雨がぱらつくお天気でしたが、雨にけむる三千院というのも、それはそれで乙なもの。雨にしっとり濡れた苔やアジサイ苑の美しい水色が鮮烈でした。

勿論、私たちの会話は英語でしか成り立ちません。…と言って、私の英語は拙いもの。とても英語を話せるとは言い難いレベルの会話力なのですが、それでも彼らとの会話は成立するのです。いつも、思います。この国の英語熱…というのは、昔から途切れずに続いて来ていますし、昨今は小学校から英語科の授業があるとかで、小さな子ども達の英語塾も高い人気があります。それでも、私たちは総じて、英語コンプレックスを抱えており、それがまた新たな英語熱をかきたてるようです。でも、語学って、多分そうではありません。勿論、商談とか微妙な条件などを話さなければならない場面では、事細かな契約理解などが必要ですし、専門用語は勿論、達者な語学力を必要とします。が、それほどではない場面で必要なものは、「話したい相手」と「話したい内容」です。それさえあれば、たとえそれが母国語でなくても、互いの想いは通じ合います。

むしろ「内容」が、どれほどこちらの器にあるか…が、大きな要素になります。「日本は仏教国なのか?」「日本でのドラッグはどれほどの状況なのか?」「おみくじを木に結ぶのは何か?」「日本の庭…は、何を表現しているのか?」彼らの質問は、どれを取ってみても、「Yes」とか「No」とかで答えられるような単純なものではありません。その裏にある背景や、しきたりや、もっと広い世界観を持っていなければ、まともに答えられないようなものばかりで、英語力はともかくタジタジ…です。それでも、いい加減に笑ってごまかすわけにはいきませんので、一生懸命に話し、彼らは一生懸命に聞いてくれます。

そうしていると、そこには「国」とか「語学」と言った障壁は全くと言って存在しなくなります。互いに「とても大切でいとしい人たち」でしかありません。英語教育より先にすべきことがあります。日本の英語教育を考える現場で、是非とも忘れないでいただきたいと思っています。



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自己責任

2013年06月22日 | 雑談
この頃のパッケージ食品などは、簡単に手で開封できるように作られています。スパイスの小袋なども、ある方向からなら手で切れるようになっているものが多く、わざわざはさみを出す必要がありません。食品に限らず、シャンプーやリンスなども、切り込み口がついていて、そこからなら手でちぎれるような工夫が凝らされています。

たまたま今日、開けようとしたパックにも、上部の左右にそれぞれ切り込み口がついていました。が、そのパッケージに書いてあった文章が、「ハサミを使うとよりきれいに切ることができます」という但し書きで、思わず笑ってしまいました。その但し書きの意図はおそらく…、手でちぎれると書いてあったのに、巧く開封できなかった…といった類のクレームを頭に想定しているような気がします。

でも冷静になって考えてみたら、食品を開封する時にハサミを使えばいいということくらいは、小学生でも分かります。わざわざそれを書かなければならない時代は、きっととても貧しい時代なのだろうと思わざるを得ません。そういえば、先日知人が、蜂に刺されて受診した際、治療後に「次回、もう一度受診する必要はないけれど、あくまで自己責任でお願いします。」と医者に言われたといって、憤慨していました。「自己責任で」という言葉に、妙に反応して、医者にもあるまじき言葉だくらいの勢いだったので、「そう言わざるを得ない世の中なんだ」とやんわり諌めました。これも同じ図式です。その医師は、診察して薬を処方したことで、もうこれ以上のトラブルには発展しないことを、経験値としては分かっています。但し、「もう来なくていい」と断言すると、万一の際にも受診することなく症状を悪化させて、「受診する必要はない」といった医師の責任問題に発展することを避けることができません。

要は、悪意があるわけでもないのに、万全の注意を怠ったために「訴えられる」世の中なのだということです。切り口上でものを言う側だけに責任があるわけでもありません。人はどんな時にも「自己責任」で行動しているものなのですが、どこかに甘えがあって、誰かに責任の一端を押しつけたくなるものです。それが「訴訟」ばやりの世の中を作り上げてしまいましたが、訴訟したところで無謀な責任転嫁を社会が認めなければ、やがてそれは無駄なことだと悟るに違いありません。

鶏が先か、卵が先か…の議論かも知れませんが、根拠のないクレームを早々に却下する社会基盤が欲しいところです。自分の事は、自分自身が全責任を負うべきなのだと、皆が理解をしていれば、わざわざ但し書きをしなくても良くなるはずではないでしょうか。そういう私も、パソコンのレジストリを触るような操作や特別なソフトのご案内には必ず一言添えています。「あくまで自己責任でお願いします。」…それは、1個人としての自覚を促す一文のつもりです。


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覚悟・経験・訓練

2013年06月21日 | 命の生き方
ヨットで太平洋横断中に、救助要請をしていたニュースキャスターの辛坊治郎氏と全盲のセーラー岩本光弘さんが、無事に海自救難艇で救助されたそうです。まずはお二人ともが、無事でお元気だということですから、何よりです。

結果論で物を言うのはアンフェアですから、辛坊キャスターの挑戦が無謀ではないかという論は伏せます。私は、氏がどれほどの力をお持ちなのか、どれほどヨットに長けておられるのか、どれほどの訓練や練習をこの挑戦に向けて準備されたのかを知りません。ですから、軽々しく、彼らを非難することはしたくないと思います。成功した時だけやんやの喝さいを送り、そうでない場合ははた迷惑だとばかりにこき下ろすのはアンフェアだと考えます。

ですが、現代は「素人の時代」だと私は思っています。素人であっても、何にでも挑戦することが許される時代です。プロを差し置いて、素人がなんでもやってしまおうとする時代でもあります。それは、心意気としては認めるけれど、必ずしもそれが良い時代を意味はしていないようには感じています。

パソコンが普及しました。素人が、簡単にそこそこの印刷物やWebサイトを作ることができる時代です。…だから、一方ではそれらを生業としていた職種は存亡の危機にさらされていきます。時代の流れというのは、止めようがありません。プロが居なくなって行きます。これは仕方がない事なのでしょうか。結局、「プロ」が姿を消していっているだけでなく、出回る印刷物のデザインの質が落ちて行っている…ということに繋がっていると感じます。ただ、形を真似ることができればそれで良いという考え方がある一方で、やはり「覚悟」と「経験」と「訓練」に敬意を払う謙虚さを失ってはならないと、私自身は考えます。

「24時間テレビ」といった企画モノが、時折テレビに流されます。そこでは、素人に無理やり過酷なマラソンを走らせる…といった試みが何年も続けられていて、それを「感動」とか「勇気」とか報じていたりします。走りたい人と走らせたい人がいて、それを見たい人がいるなら…構わないのですが、「覚悟」も「経験」もなく、大した「訓練」もせずに、それを見世物にするのは、違うのではないだろうかといつも思います。



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ライン

2013年06月20日 | 社会派らぼ
あるリサーチによると、「LINEのトーク利用に疲れる」と答えた大学生が回答者の半数近くに上っていました。未読か既読かが相手に分かるので、既読になったのに返事をしないのは悪い…そう思って返信をするようで、そのやり取りに正直疲れているという結果です。同じリサーチで、平均利用時間の統計もとられていましたが、3割近くが「1時間以上」と答えています。…そりゃあ、疲れるでしょう(笑)。1時間以上も、半分義理でやりとりが続くのであれば、疲れて当然ですが、だからと言って利用機会が減るわけではないという、今の大学生事情らしいです。

次々、アプリが登場する中、LINEは便利だと思う数少ないアプリの一つです。優れものだと、私も思っています。アンケートに見えているのは、「LINEを使う」のでなく、「LINEに使われている」大学生の実態なのだと思います。どこかで何かがひっくり返っているのです。用事があるからLINEをするのではなく、LINEをすることが用事になっている…。?? 伝えたい内容があって、電話か、メールか、LINEか…となれば、LINEがダントツに便利だと感じる用向きもあります。伝えるべき内容によるのでしょうが、相手を拘束せずに、何度かのやり取りが可能ですから、メールや電話よりはるかに手軽です。…にも関わらず、大学生の多くが「拘束されている」と感じていることになります。

用事がないのにやり取りをしているからではないでしょうか。ともすれば、「友人との繋がり」を勘違いしている向きがあります。四六時中、連絡を取り合うことが「友人」なのではなく、確たる絆を持つ友人同士が、必要な連絡を取り合うもののはずなのです。時間と空間を共有することは、互いの理解を深める一般的なやり方ではありますが、今は必要以上に時間を拘束し合わなければ、理解だと思えないようでもあります。理解というのは、確たるものの考え方が出来上がっている者同士が、相手の考え方を知ることに他なりません。確たるものの考え方を模索する以前に、べったりと寄り添っていなければ不安で仕方がないのが、いまどきなのかも知れません。

フェイスブックにしてもツイッターにしても、ネットを介して新たな繋がりが生まれるケースもありはしますが、それを人と繋がりを確かめる手段に使うことには疑問があります。結局のところ、人との繋がりは、今も丁寧に織り上げていかなければならないことにキット変わりはありません。



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