ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

ハロウィン

2016年10月30日 | 雑談
日本人は、他の国の食事や習慣を取り込むことに長けている気がします。世界中の家庭を回ったことがあるわけではありませんから、確かな事は言えませんが、日本ほど、他国の料理が自然に並ぶ食卓というのは無いような気がするのです。どこの国でも、「〇〇料理」を食べさせてくれるレストランというのはあります。が、普通の家庭料理の範疇で様々な国の料理が「日本食」として並んでしまう能力は、秀逸だと思うのです。

同様に、海外のイベントをそのまま取り込んでしまう(あるいは日本風にアレンジして取り込んでしまう)ことにも、異常に長けています。バレンタインデーも、いつの間にか「チョコレートの日」として(海外では違います)、日本の習慣になってしまいました。ここに来て、ハロウィン人気が半端じゃありません。

元々ケルト族の信仰で、10月31日に死者の霊が帰ってくると信じられており、この日には死者の霊に混じって、悪霊や魔女たちも集まってくるために、幽霊たちの災いが降りかからないよう、仮面をつけて身を守り、幽霊たちをもてなしたのが起源だとか。勿論クリスマスがキリストの生誕を祝う日ではあっても、宗教的な意義より食事やプレゼントの習慣が根付いたのと同様、ハロウィンは仮装してどんちゃん騒ぎをする日として、大きな経済効果をもたらすイベントに成長したのだそうです。その経済効果を指摘する声も多くありますが、互いにプレゼントを交換し合うといった風習のクリスマスには叶いません。ハロウィンのパーティーグッズなどの単価は知れたもの(笑)のようですから。

折角楽しんでいる人たちに水を差すつもりは毛頭ありません。ただ、クリスマスやバレンタインといったイベントに比べて、ハロウィンの方がより「強制参加型」であることが、多少気になっています。仲間うちで仮装して盛り上がるところかに端を発し、保育園に子どもたちが仮装して登園するとか、中には従業員が仮装して出社する会社もあるとか、無いとか。制服のように定まったものを着るのでなく、自前で何らかのコスチュームを用意してそれなりに仮装して集合するように言われると、やはり仮装したくない、させたくない人も居るだろうに…と、気になるのです。どうぞ、「仮装がイヤな方は雰囲気だけ参加してくださいね」という優しい一言を忘れずに。

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2016年10月27日 | 雑談
人はそれぞれ、異なる環境で、異なる人生を歩んできます。当然経験したことが違っていれば、人生や世の中に対し抱く感想が異なったものになります。たとえ、同じ環境で同じ経験をしたとしても、受け止める感性が違いますから、受け止めた「個」が異なりますから、その思いが同じ境地に至るはずもありません。

ただし、自身が至った今の境地に正直にあれば良いか…というと、それは少し違うような気がするのです。経験の中で得たものは、本人からすると紛れもない真実であり、他者がどんなに説得しようとしてみても、築き上げた境地が変わる事は無いかも知れません。正しいものは正しいのだと、声を大にして叫ぶことは、その人のあるがままの姿なのだと思います。

ですが、「正しいものは美しい」のだと思い直してみてください。人によれば「美しい」という感性こそ、更に人によってまちまちだと言われるかも知れませんが、真の美しさというものは、政治も宗教も信条をも超えるような気がするのです。ただ単に芸術や自然の美しさをも超えたところにある「魂の美しさ」といったものです。

だから、周囲に「毒」を振りまくのは、やはり美しくは無いと、私は思います。正しければ良いというものでは無いし、一方的に凝り固まった正しさからは、真実は見えません。身構えれば身構えるほどに、他をはねのけようとすればするほどに、自身が遠くに跳ね飛ばされてしまうような気がします。鎧の下に握りしめている「力」を、抜くところから始めたいと思います。

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便利

2016年10月26日 | 雑談
世の中は、より便利に! より快適に! を目指して研究が重ねられます。結果、私たちは先人の労力の数分の1で生活を送っているように思います。家電の殆どは、家事労働の軽減を目指して開発されて来ましたし、実際便利なものを使ってしまうと、以前の労力をかける事は厭わしくなってしまいます。

20年近く前の話かもしれません。冷蔵庫が故障して買い替えた時、冷凍庫の容量が大きいものをと探しました。その冷蔵庫は製氷タンクに水を入れておけば、「勝手に氷」ができる…と、販売員の説明を聞きました。当時の一般的な冷蔵庫は、まだ製氷皿に水を張って冷凍室に置き、必要な時に製氷皿から取り出して使う…といったものでした。最終的にその冷蔵庫を購入したのですが、当時は「氷なんて、取り出せばいいだけの話だから、『勝手に氷』でなくて構わない。」と思っていました。

…が、実際に使ってみると(今では当たり前の機能なのですが)、「勝手に氷」が作られていて、いつでも手軽に氷が使える…というのはトテモ便利で、逆に言うと、今冷蔵庫を買い替えるとしたら、「勝手に氷」機能は必須かと思います(笑)。ついでに言うと、この冷蔵庫、ドアに軽く手を触れるだけで、扉が開きます。「開ける」という動作が要らなくて、「触れる」だけで良いのです。こちらも説明を聞いた時は「不要」だと思いました。こちらは、次の購入時の必須条件には入れていません(笑)。でも、意外と子どもの家の台所で、冷蔵庫に「触れる」だけで扉を開こうとしている自分に気づいて苦笑します。自動ドアに慣れ過ぎて、手動のドアなのに、前で一瞬じっと止まってしまうのと同じです。「便利」に慣れすぎると、それがいつの間にか「当たり前」になって、いつしか何もしないで「じっと待つ」だけの人間に陥りそうで、正直軽くぞっとします。

朝のカーラジオで、天気予報が流れます。「洗濯指数」とか「傘指数」といった数値を発表している局があります。日中の天気や気温を予報して、この天気だと「外に洗濯物を干していても大丈夫」か、「降雨に備えて室内干しにする」かなどを、一方的に発表してくれるのです。「傘を持って外出」するのが良いか、「嵩張らない折りたたみ傘にする」か、あるいは「傘は要らない」のかまで教えてくれるのです。何気なく聞いていたのですが、フト我に返ると、なんだか違和感が否めません。傘を持って出るか否かは、空を見上げて決めることなのでは?と思いませんか。数値化して計算してみせてくれているのですが、なんだか人間の当たり前の判断力を奪うかのように思えてきたりします。便利(?)な事に慣れすぎると、当たり前のことまで、自分で判断しなくなってくるのでしょうか。

パソコンもどんどん進化して、便利になってきます。(良い事です。)パソコンに初めて触れる人でも、感覚的に使うことができる…といった事が目指されています(多分)。ですから、パソコンの事を深く知らなくても、一端の文書は作れるのですが、便利に慣れ過ぎて、パソコンを「知ろう」としなくなる…という弊害(!だと思います)が否めません。ポスター類の作成も、テンプレートのようなものは山ほどあります。チョイチョイっとダウンロードして、少し文字を取り換えたりするだけで、労せずして、そこそこのものが出来上がります。これは、キット「良い」事に他ならないのだと思います。思いますが、オリジナルデザインに込められている「想い」なるものはいつしか軽視され、その人らしさといったものが微塵も反映されていないデザインで、悦にいっている現状は、正直「良い」事なのでしょうか? そりゃあ、将棋の「次の一手」もパソコンに尋ねたくもなりますよね。

世の中が「便利」になったら、それで人は「幸せ」になるとは限らない。。。。ような気がします。

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給食

2016年10月25日 | 社会派らぼ
大阪市では、学校の給食費の滞納が増加しているそうです。生活保護受給世帯には全額支給されており、経済的に困窮している家庭への支給制度も設けられているとかで、結局のところ問題になっているのは、経済的には支払う能力があるにも関わらず、滞納している家庭の多さと言う事のようです。

そこで大阪市教育委員会では、回収業務の一部を弁護士に委託することを決めたようです。高額滞納者への督促や簡易裁判所への支払い督促申し立てなどを法律の専門家に託すことで、教育現場の負担を減らす狙いがあるとの事。

意図的な給食費滞納している人たちの中には、義務教育なのに何故払わねばならないのか?と、豪語する人もいるとか。「義務」教育というのは、国や自治体に子どもたちを教育する「義務」があるという意味ではなく、保護者が子どもに教育を受けさせる「義務」があると定めているもの。子どもたちが学校に通うために必要なサポートを、親は果たさねばならないという「義務」の事です。勘違いもいいところです。

…が、果たして現代に「給食」は必要なのでしょうか。最近は公立中学にまで「給食」が普及しつつあるようです。が、当初の子どもたちの栄養を補うといった使命は既に終わっており、今ではむしろ栄養過多になり過ぎないように、偏った食生活にならないように…との「食育」が柱となっているようです。それでは、その給食のおかげで、子どもたちの食育が効果を上げているのか?となると、甚だ心細い限りの現状だと思われます。

いっそ「給食」は廃止すれば? 如何でしょうか。勿論、給食産業で生活をしている人たちは多くいるわけで、簡単に「廃止」とは言えない事情も分かります。全廃が無理なら、せめて「給食を希望した者」のみへの提供に切り替えるとか。言い換えれば、給食費を支払って食べたいと申告した者以外は、自宅からお弁当を持って来るという制度です。

払っていただけない…で、済ませて来ていることが問題なのだと思います。今回の弁護士参加による、給食費取り立てが功を奏することを期待しましょう。

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本物

2016年10月23日 | 命の生き方
「新しい酒は新しい革袋に盛れ」という故事があります。新しい思想や内容を表現するには、それに応じた新しい形式が要る…といった意味合いでしょうか。物事には、外観と内容の二面性があります。内容がいくら良くても、それにふさわしい器を持たないと折角の内容が生きませんし、逆にいくら器を飾り立てても、内容の貧弱さは致命傷です。

どうも今どきは、そのどちらをも即席で済ませようとする風潮が濃いようです。それが「合理性」といった心地よい言葉に包まれていて、1から手間暇をかける事自体を楽しむ風潮は廃れています。…だから、本物と偽物を見分ける力というものが希薄になるのかもしれません。手軽な偽物で十分で、本物を求める心そのものが育っていかないのでしょうか。

何であれ、思いっきりの「本物」に出会う機会というのは大切だと思います。本物を本物だと知ること。本物を本物だと認めること。本物を本物として、心の中に焼き付けること。

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振り仮名をカラーで振りたい

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傲慢なのは

2016年10月22日 | 社会派らぼ
先日、ノーベル文学賞がミュージシャンのボブ・ディランさんに授与されるとのニュースが駆け巡りました。勿論、それについては賛否両論、よく既成の概念を打ち破る事ができたとノーベル文学賞を称える人がいる反面、文学賞なら純粋な「文学」にこそ授与すべきで、メロディ・歌声・編曲・歌い方など様々な要素が絡むミュージシャンに贈るのはという懸念の声もあります。…が、いずれにしても、彼の「ノーベル文学賞受賞」は定まった事実になりました。

ところが、肝心のボブ・ディランさんには、連絡がつかず、これだけニュースが流れているわけですから、彼が知らないわけは無いと思うのですが、今も沈黙が続いています。17日の時点で、スウェーデン・アカデミーはディランさんへの直接の受賞連絡を断念したとしています。授賞式は12月10日に行われますが、その席に彼が来る・来ないにかかわらず、彼の受賞を祝うというものです。

それなのに、ここに来て、スウェーデン・アカデミーのメンバーの一人が、ボブ・ディランさんの沈黙は「無礼かつ傲慢だ」と厳しく非難したことから、スウェーデン・アカデミーの姿勢にも非難が起こっています。確かに、受賞をについて態度を表明せず、無視を決め込んでいるこの状態は、イライラが募るかと思われます。世界中が注目する当日のセレモニーの段取りもあるでしょうから、何とか返事しろよ!が本音かもしれません。

但し、多くのネットの声が指摘しているように、勝手に授与を決めておいて返事が無いからとキレルのは、それこそが「無礼で傲慢」だという事になってしまいます。今更ですが…(ノーベル賞などには、ご縁がないもので…)、授与に際し「打診」というのは無いものなのでしょうか。ノーベル賞は世界的な賞だから、受賞した人は必ず「喜ぶはず」というのは、スウェーデン・アカデミーの驕りかも知れません。一方的に人にものを渡し、受け取ってくれなければ困る…というのは、いささか見当違いだと、私も思います。喜んでもらってくれる人には、至上の光栄も、欲しくないという人からすると、迷惑以外の何物でもありませんから。(そういえば以前、イチロー選手が国民栄誉賞を辞退されていましたね。国民栄誉賞は打診するんだ…。)

ディランさんが、授賞式に出席するのか否か。恐らく「否」でしょうね。ノーベル賞というものに価値を認めない…というのが、彼の姿勢のように思えますから、ただ、本当の大人というものは、丁重にお断りを述べるものだとは思います。

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サイズ数値を入力してもサイズが変わらない

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次の手

2016年10月21日 | 社会派らぼ
対局中にスマホなどを使って不正をしたのではないかという疑いをかけられ、三浦弘行九段が竜王戦への出場停止処分を受けました。日本将棋連盟は、所属棋士に対し、この経緯を説明するとともに、新たに定めたスマホの持ち込み禁止などの規定を説明、遵守を求めました。経緯は、報道によって、一般の私たちも既に把握しています。

ただ、疑惑をかけられた当の本人は、濡れ衣だと不正を否定しています。今後の対応は弁護士と相談中ということで、今はまだ連盟の調査には全面的に協力するという姿勢を示しており、所有のパソコンやスマホを調査会社に提出し、解析してもらうと発表されています。

三浦九段は、対局中の不自然な離席や、自身の指し手とコンピューターの示す手との合致の説明をするよう、協会から求められたと言います。協会が不自然な点を指摘して、三浦九段に説明を求めるのは当然でしょうけれど、不正の存在を指摘するには「彼が不正がない事を証明」しなければならないのではなく、「協会が不正があった事を証明」しなければなりません。

協会が科した出場停止は、あくまで「不正疑惑をかけられたままでは出場できない」とした三浦九段に対して求めた休場届が提出されなかったことに対する措置だと説明されており、だから協会の措置は間違ってはいないとする意見も多く見受けられます。が、少し冷静に考えてみると、協会の姿勢には、問題が潜んでいるように思われます。

もし、三浦九段の主張する通り、彼が潔白だとしたら、あらぬ疑いをかけた事になります。三浦九段は「不当な言いがかり」をつけられたわけで、「疑いをかけられたままでは出場できない」という彼の発言は、「出場者への疑いを撤回するよう」協会に求めたと理解することも可能です。期限までに「休場届」を出さなかった彼が悪いのではなくて、期限までに疑惑を撤回する発表をしなかった協会に否があるという見解です。撤回しないのであれば、彼の不正を証明しなければならない…のではないでしょうか。

今回の事件は、将棋界に蔓延している(かも知れない)パソコン不正使用への毅然とした対処が、最終的な落としどころです。が、その過程では、証明できないものは「疑わしきは罰せず」の鉄則に則って解決するしか手はないのではないでしょうか。コンピューターというものは、人為的な改ざんが可能な代物で、なかなか証拠採用するには無理も多いのです。メールに証拠能力が無い事に近いような問題が存在します。彼が提出したパソコン以外のパソコンが存在していない…という保証もありません。今後も、スマホだけを規制すれば良いわけではなくなります。ウェアラブルパソコンは既に開発中です。

対局会場に、パソコンソフトの画面が公開され、指し手の双方がパソコンの「次の一手」を見たうえで、自身の「次の手」を指すなどというのが、将棋界の未来図になる…のでしょうか。あくまでパソコンが長けているのは、これまでの膨大なデータを分析して、確率論として「次の一手」をはじき出すだけです。それでは「面白味」が欠けてしまいませんか。

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データ入力後のアクティブセルの動き

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市長賞

2016年10月20日 | 社会派らぼ
青森県黒石市で、夏祭り写真コンテストが行われました。そこで、一旦最高位の市長賞に選ばれた作品が、実はいじめを苦に自殺した中2の葛西りまさんが被写体となっている事が判明しました。まつりは8月15日から20日にわたって行われました。この期間中の写真に限ると言う事で募集された「黒石よされ写真コンテスト」は9月16日が締め切り、10月17日が審査発表とされていました。りまさんが自殺したのは、祭りの終わった後、8月25日です。一旦決まった受賞ですが、9月になって市長賞にはふさわしくないとして、取り消しの連絡があったと言います。

市は、自殺中学生が名前も写真も公表されていなかった事に配慮し、作者の承諾を得て内定を取り消したと言います。ところが、市長賞内定の連絡を受けた遺族は、その後の相応しくないという連絡に納得できないとして、写真を公表、実名も明らかにしました。ここから、抗議電話やメールが実行委や市にかなりの数、寄せられたとの事で、一転、市長賞授与が発表されました。

黒石市の市長は、会見を開き、誤解と混乱を与えたことを陳謝し、改めて市長賞の授与を発表しました。取り消しの理由には、亡くなった人が被写体の作品を審査対象にすべきでないといった点が挙げられ、氏名や写真などのプライバシーを発表すべきでないとの配慮も働いたようです。黒石市のイベントですから、すべては主催者が決定すべき事です。

但し、釈然としないものが残る理由は、多くの人が指摘したように、「黒石市のいじめ」をイメージする作品を最高位に選びたくなかったとの本音を、違う理由で説明した事にあるのかもしれません。加えて、意見を述べる事や、批判することは悪いことではありませんが、すぐに短絡して市役所などに抗議電話やメールを送り付ける風潮は、あまり好ましいとは思いません。ネットを含めた通信技術の発達は、良く「炎上」と表現される苦情の殺到を招きます。電話やメールの応対を見聞きしたわけではありませんが、恐らく一方的に怒鳴りつけるとタイプのものも多く含んでいるように想像します。批判や意見は、然るべき方法で、紳士的に抗議すべきです。と共に、非難を受けて、安易に決定を覆すところも、当初の取り消し決定が、深謀遠慮の末に選んだものでない事を露呈しています。

批判が多ければ、すぐに撤回することも、「潔し」と言えなくもありません。が、もし取り消し決定が、様々な状況を深く考えた上での已む無い決定であったのなら、キチンとそれを説明をすべきではないだろうかと思うのです。もとより、氏名などプライバシーの公開は、家族の了解を得ての市長賞内定でしょうから、問題はありません。まつりの写真コンテストは、市の宣伝の一環として行われているわけですから、「いじめ」や「自殺」「死」と言った現代の暗部を彷彿させる作品を、使うことはしたくない…というのが大きな判断であったかと想像します。それが市の方針なら、そのように遺族にも作者にも何度でも説明をすべきなのだと思います。「いじめ」や「自殺」と言う言葉を避けたために起こった行き違いのように思えるのです。

笑顔の少女…とされている問題の写真ですが、思いっきりの晴れやかさを感じない事が気にかかります。あまりにも短かった彼女の人生とその苦悩に心からの哀悼を表すると共に、現実から逃げる方法は他にもあったのではないかという無念さが消えません。

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図形がいつの間にか回転してしまう

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2016年10月18日 | 雑談
「秋」だからでしょうか、各所で人権関連のイベントが行われているようです。当節の自治体は、どこでも人権問題に力を入れており、県民・市民を集めて「つどい」的な行事を行うところはたくさんあります。…が、主催者の思惑通りに、参加者がたくさん集まってくれるわけではなく、必然的に動員をかけて、人を集める事になる場合が少なくありません。それでも、何らかの役員に当たった年に、半ば強制であれ、そのような話を聞いて、考える機会を持つのは悪い事ではありません。持ち回りの役員であれば、年を重ねるごとに、順により多くの人たちが関わることになって行きますから。

が、そうして、自治体でも学校でも、職場でも、「人権」を学ぶという場を多く持ちながら、実際の世の中は、差別やいじめの無い理想に決して近づいては行かないという矛盾を感じています。だから根強く繰り返さねばならない…というのが、おおよその考え方です。で、このような学習の機会は更に一層増え、それぞれに趣向を凝らし、効果的な学習方法を模索することが続きます。

立ち止まって考えてみると、ニュースになってしまうほどの問題を起こした者たちが、このような人権学習について無知識だったかというと、実はそうではないはずです。学校であれ、親からであれ、繰り返しそのような事を聞く機会はあったでしょうし、「人権に関する」作文だって、絵だって、一度や二度、書いたこともあるでしょう。それなのに、彼らは問題を起こしてしまうわけです。虐待だのネグレクトだの、無抵抗な命が弄ばれるニュースも、後を絶ちません。では命の尊さを学ぶ機会が無かったのか? と言えば、恐らくそうではないと思うのです。

「学習する」とか「学ぶ」事は大切です。知らなかったことを知り、考えもしなかった事に思いを馳せ、「命」を尊重すると言う事は、どういうことなのかを学習することは、繰り返し繰り返し重ねて、初めて効果があるものだと信じたいと思います。でも、もしかすると、「学ぶ」事には、そんなに大きな意味が無いのではないかと思えてきます。頭の中で学び、○○は「悪いこと」で、○○が「良いこと」のように、いくら学習しても、それがその人の「良心」にならない限り、単なる頭でっかちになってしまうだけのような気がしてなりません。してはならないとされる言動を「してはならない」と頭で理解しても、理性で「しない」事を選んでいるだけ…ではダメなのではないでしょうか。「理性」と「心」は別のところにあって、「心」は自分で育てない限り、育っていかないのかも知れません。

心に水をやる社会…でなければならないのだと思います。

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一旦変更した列幅を元の状態に戻したい

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