ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

フェイク

2020年04月30日 | 社会派らぼ
2018年のノーベル医学・生理学賞の受賞者である本庶佑特別教授の名を騙る、偽情報が拡散していると言います。今回のコロナ騒動は、地球が未だ経験したことも無かった規模の危機ですので、本庶先生にしても、同じノーベル賞受賞の山中先生にしても、それぞれの立場から、世の中に提言を送ってくださっています。医学のプロフェッショナルの発言には、耳を傾けるべきものが多いかと思います。

ただ今回は、コロナウィルスが「自然発生したものでなく、中国の研究所で人工的に作られた」などという情報が、本庶先生と京都大学の名を使って拡散されたというもので、ご本人がホームページで強く否定されています。

インターネットやSNSの普及によって、それ相応の立場にいない人間にも、等しく発言の機会が与えられるようになりました。中には識者も気づかないような盲点をキチンと指摘してくれる発言もあり、時代の恩恵なのかと思う事もしばしばです。が、同様にフェイクニュースが広まりやすくなったことも事実です。

2016年に起きた熊本地震の際の「動物園からライオンが逃げた」というデマの記憶が新しいと思います。この時は、神奈川県の男性が熊本市動植物園に対する偽計業務妨害の疑いで逮捕されました。が、1万7000回以上もリツイートされたそうです。今回も、国民に在宅を促すため、プーチン大統領の命令で、ロシア全土にライオンとトラ合わせて800頭が放たれた…などという噂が3月ごろに広まった事があります。報道官が「実はクマを放っている」と冗談を交えて噂を否定していました。

先日の「トイレットペーパーがなくなる」もフェイクニュースではありましたが、全国の売り場からトイレットペーパーが本当に姿を消しました。噂に慌てた国民が、買い占めに走ったためで、現在も一部地域では品薄状態が続いているようです。以来「ロックダウンが行われる」とか「日本新型コロナウィルス」といった偽情報の例は目新しくありません。

統計によれば、若い世代より50~60代の中高年の方が「信じやすい」とも言われています。積極的に発信に参加する若い世代は、自らの体験から、発信源が単なる個人であることを、肌で理解しています。が、最近そうしたツールを使い始めた中高年は、どちらかというとテレビなどから流れて来るニュースに近い感覚で、そうした情報に接するからかも知れません。

何よりフェイクに騙された時に、「騙された」と感じて自分に非はないと捉えるか、騙された自分が誰かを「騙してしまった」と恥じ入るのか、に大きな差があるのではないでしょうか。騙した方が悪いのは明白です。が、騙されてしまった方も悪いのだと捉えない限り、この手のフェイクニュースの広がりを止めることはできないのではないだろうかと思います。

情報は鵜呑みにしてはいけません。自分の頭と感覚で、本当の情報なのか信頼性に欠けるのか、山中先生のブログにあったように、証拠(エビデンス)があるのか証拠には乏しい情報なのか、見分ける感性が必要です。

マスク考

2020年04月27日 | 社会派らぼ
新たな感染確認者の数に一喜一憂する毎日です。ウィルス自体は生物ではありません。DNAだけがタンパク質の殻を被ったようなもので、単独では自己複製できません。宿主の細胞の中に入って、初めて増殖していきます。抗ウィルス薬というのは、ウィルスが細胞に入り込むのを防ぐか、細胞内でウィルスが増えるのを抑制するものでなければならず、限られた感染症に対するものしか開発されていません。コロナウィルスに対する抗ウィルス薬が開発されていない以上、対症療法しかない…というのが現実でしょう。要はこのウィルスの宿主にならないこと。ウィルスが体内に侵入することを防ぐことが、唯一不可欠の方法ということになります。

ですから、私たちにできるのは、マスクなどで自己防衛をし(コロナウィルスは鼻、喉、目から感染するようです)、ウィルスが存在するであろう個所に近づかないことだと言われています。そのマスクが手に入りづらくなっています。先日来、少し手作りマスクの活動のお手伝いを若干していましたのも、ドラッグストアのマスクの棚が空っぽで、コンビニにもスーパーにも見当たらず、早朝からドラッグストアに人が並ぶ…といった現状に抗う方法が、他に見つからなかったからです。

今も店頭の状況はさして変わりありませんが、それでもマスク販売の文字をあちこちで見かけるようにはなりました。先日、シャープがマスク販売を予告していましたが、指定日の指定時間にいくらネットにつないでも繋がりませんでした。予想以上の(いや、そのくらい予想できたでしょうに…!)アクセスにサーバーがダウンしたようです。結局、抽選販売ということになって、今日が申込日なのですが、少しのぞいてみたものの、やはり繋がりません。

マスクの広告を出していたので、のぞいてみた通販サイトでは、商品番号を入れてみても、「該当商品がありません」の表示しか出ませんでした。完売したのか、最初からマスクの広告は単なる人寄せだったのか、見分けはつきません。ネットで注文はしたものの、待てど暮らせど届かない…といった話も良く聞きます。そうした中で、先日ネット注文したマスクが手に入りました。

手持ちが底をつきかけていたので、一安心はしましたが、ドラッグストアに早朝から並びもせず、何軒も店も回らず、ネットで手に入ることに「時代」を感じた次第。今時は、ネットなどの力を持たなければ、「身を護る」事すらできないのだろうかといった、妙な感想すら持ちました。IT弱者といった言葉が使われることがあります。そうした技術は、当然ですが「長けた」人と「疎い」人があります。「IT弱者を作ってはいけない」といった風に言われ、ITに疎い人を置き去りにして行く世の中であってはならない…といった警鐘が鳴らされます。

が、今や「IT弱者」が許されない時代になりつつある…といった印象が拒めません。そうした分野に疎い…は、もはや「洗濯機が使えない」「掃除機が使えない」と同じレベルで、世の中では肩身が狭くなって行きつつあります。だから、全ての人がITを使いこなすべきだとは思いません。ITが苦手であれば、ITに詳しい友人を持ってください。世の中に対して、「助けが必要なんだよ」と手を挙げてください。それが「コミュニケーション能力」と言われるものなんじゃないかと思います。黙って、ITを拒絶しておられては、誰も助けに行くこともできません。

曲がり角

2020年04月24日 | 社会派らぼ
真っすぐに続く道は、先がどんなに遠くても、ずっとその先が見えます。現実には、そんなに長距離に渡って真っすぐな道というのは、この狭い日本には無く、どの道も微妙にカーブしていて、少し先までは見える…といったところでしょうか。曲がり角は、曲がるまでその先の風景が見えません。

コロナウィルス騒ぎの終わりが見えません。私たちは確か、ごくごく普通の能天気な日常の中にいたはずなのに、曲がり角を曲がった途端、コロナがすぐ近くにまで押し寄せていました。ただ、延々と長距離見通せるような道はまずないわけで、必ずすぐに曲がり角が見えて来るはずなのです。でなければ、今は微妙に死角になっていて見えない先が、カーブを曲がるにつれて見えて来るはずなのです。そこにどんな風景が広がるのか、見えない今は、「不安」と「救い」の双方を抱えるしかありません。

リモート〇〇が陽の目を見るようになりました。幸い、既にネットが当たり前の世の中になっていて、若者を中心にネットを自在に使う世代が多くを占めるようになっています。どこでどう経済が成り立っているのか一抹の不安を感じつつ、フリーの便利なアプリがたくさん出回っています。

ビデオ通話やグループチャットなどは、既に当たり前のツールになりました。遠く離れていても、普通に顔を見ながら話すことができる現実を、今の時代に生まれ育った子ども達は、どんな風に理解しているのでしょうか。最近は「オンライン飲み会」とか「ウェブ会議」なども、市民権を得出したようです。ネットショッピングも特別なものではなくなっていますが、近所のスーパーやコンビニでの買い物もいずれはネットが当たり前になるかも知れません。

3密を避ける…意味で、今は人と人が接触することを、極力避けるような工夫が大切です。そのために、今風のアプリが威力を発揮します。…が、その先の曲がり角の向こうで、生身の人と触れ合う経験を持たない(もしくは少ない)子ども達の生活がどんな風になっているのでしょうか。不安が的中するのか、それともウェブが救いになるのか、当面の脅威に向き合うだけで必死の今は、予測が立ちません。

サンサンと陽が降り注ぐ世界でありますように。

ピンチ

2020年04月17日 | 社会派らぼ
コロナ禍の終わりがイメージできません。人間社会の歴史は、これまでも何度も、疫病を乗り越えて来ましたから、おそらく近い将来、私たちはコロナを制圧することができる…と信じてはいます。が未だ、これと言った治療薬が開発されない今、私たちにできる事は、人を避けマスクや手洗いを励行し神に祈る事ばかりで、伝承の時代と何ら変わりない事に愕然としています。

しばしば「ピンチはチャンス」と言われます。その言葉の意図することは充分に理解しますが、所詮それはピンチ時の心構えの問題で、ピンチはあくまでピンチでしかない事を、私たちは良く知っています。つまり、ある意味で「きれいごと」でしかない言葉…だと分かっています。

全国の学校では、連休明けまで休校措置が取られています。が、それも連休が明けたところで再開できる保証もありません。授業と命のどちらが大切なのかと問われれば、間違いなく命ですから、今は耐える時であるのは確かです。ですがそんな中だからこそ、何ができるのかと考える必要があるのは確かです。

学校教育の現場には様々な問題がありますが、事を起こそうとすると常に議論百出。世の中の事に「絶対正解」と言うものが無い以上、賛成意見があれば理にかなった反対意見は必ず出てきて、結果物事を推し進めることができなくなってしまいます。

例えばWeb授業といった事も、技術的に可能な時代にはなって来ていますが、おそらく俎上に載せた途端、日本全国津々浦々まで平等に視聴できる環境が整わない、準備が不十分、生徒一人一人の状況を把握することができないといった様々な理由でブレーキがかかると思われます。確かにそれらは問題です。が、今なら日本全国平等でなくても、ある地域の特定の学校だけでもそうした試みにトライすることができるような気がします。

例えば新学期を秋にするといった事も、いつも議題には上ります。世界の情報を調べてみると、集中して多いのが9月。世界のスタンダードは、秋に始まる国が多いようです。これも、世界に合わせる方が良いのではないかという議論と共に、桜論が必ず顔を出して、新学期は春に据え置かれます。春に花をつける桜があまりにも美しすぎて、この時期に新たな学年を始めるという高揚感が捨てがたいからです。実際今年の桜は早くに咲き始めたにも関わらず、いつまでも美しい花が見られたような気がします。ピカピカのランドセルの背景には、桜の花が似合います。けれど、秋始まりを模索するのであれば、今年はチャンスです。春の新学期が大きくずれ込んで、授業の遅れが現実の問題となっているからです。

どちらが良いか…を議論で定めることがなかなかできないものはたくさんあります。否応なしに、そうならざるを得なくて、結果案外良かったかも知れないという事も、しばしばあるはずです。

もしかすると、ピンチはチャンスになれるのかも知れません。