ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

大きなお世話

2012年05月31日 | 雑談
いつの間にか、5月も終わり、明日から6月になります。5月の連休の天候がイマイチだったせいでしょうか、本来なら「五月晴れ」と称されるほど、天候のさわやかな季節のはずなのですが、なんだかグズグズしたお天気(というより、派手な荒天?)が多かったような気がしています。このまま、さらにうっとおしい梅雨の季節に突入するのでしょうか。

近隣の市で「すこやかチャレンジ事業」と題した事業が来月から始められる…と、ラジオのニュースが言っていました。

脱・テレビ宣言をして、その後、不便なら購入しようと思っていたテレビは、まったく不便でなく、ニュース源は専ら、ネットとラジオです。…にも関わらず、テレビを見ている人より、ニュースに詳しかったり(笑)します。

話がそれました。その「すこやかチャレンジ事業」とやらは、20歳以上の市民が、毎日の運動や食生活の目標を立て、達成できた場合に(申告するらしいです)ポイントが付与されるそうです。ポイントが貯まると、500ポイントを上限として、1,000円相当の市内登録店舗の商品券や公共施設の利用券と交換…できるというもののようです。

市民の意識を高め、生活習慣病などを根絶し、予防医療を広めることで医療費の削減を目指すと共に、地元の商店の活性化をも狙う、一挙両得の施策のようです。が、何となく幼稚園児や小学校低学年の「歯磨きカレンダー」や「お手伝いカレンダー」を思い起こすのは、私だけでしょうか。

本人が立てた目標を、本人の自己申告でポイントとし、市内で(上限1,000円程度の)買い物ができる…というのは、市が取り組むには、あまりにもずさん…という気がしてしまいました。自分の居住する地域でも無いのですから、失礼千万、大きなお世話…ですか。

ちなみに、ボランティアもスタンプ制度があるそうですが…、ボランティア(この言葉自体が嫌いなのですが)自体、代償として何かに変えるものなのでしょうか。。。。



描画図形に回転ハンドルがありません

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安ければイイ?

2012年05月30日 | 雑談
先日、携帯電話の機種変更をしました。本体の代金だと聞かされていた値段は、「○○割引」とか、「○○の特典で値引きさせていただきますね」とか、「たまっているポイントで…」等々で、極端に安い金額となりました。(ラッキー!)

ラジオを聴いていたら、(前半を聞きのがしたのですが)F社製のパソコンを500円だと宣伝していました。新品でおまけにプリンタをつけるとも。ただし2年間の指定モバイル契約が必要だという後半部分しか聞けませんでしたので、スペック等は不明ですが、それにしてもあり得ない値段です。

何であっても、値段は高いよりは安い方が良いに決まっています。みすみす、割高商品を買うよりは、少しでもリーズナブルに賢い買い物をしたいものです。が一方で、「安ければそれでイイ」文化も、少し卒業したいとも思います。値段が安いには、安いなりの理由があります。経営努力で値段を下げるのか、品質を落として値段を下げるのか…。いずれにしても、理由が明確に分かっており、その理由に納得して購入するというのが、物事の筋というものです。

ですが、実際には、どうしてその金額になるのかを、イマイチ知らされぬままに、私たちは安いもの神話に踊らされている部分を否定できません。正当な給与が手にできて、モノの値段が正当な範囲で示される世の中というのが、一番落ち着いているのだと思うのですが、どうもその根本的な安定がなかなか得難い世の中のようです。




起動の度に「レジストリチェック」で、たくさんのエラーが見つかります

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考える

2012年05月29日 | 雑談
世の中では、良いことばかりでなく、むしろ大変なことが色々起こっているにも関わらず、日常生活は一通り平和です。以前は「平和ボケ」といった言葉も揶揄して使われていたようにも思いますが、今はそうした言葉すら使わなくなりました。様々な社会の出来事を、一つ一つ真剣に考える…ということが失われて来ているのだろうかという危惧さえ感じたりします。

極端にヒステリックな拒絶をしたり、ブームに乗って何となく大合唱をすることはできるけれど、広く深く考えることが希薄になっている気がします。たまに、気になることを話題に乗せても、「さぁねぇ…」とさして気乗りがしない返事しか返らなかったり、威勢の良い言葉に疑問を投げかけてみると、ふいっと話題をそらされたりすることも、少なくありません。

私たちの世代…というのは、華やか(?)だった学生運動の残り火がチロチロとしか燃えていなかった世代です。それでも、何かにつけ、大きな声で繰り返されるアジ演説も聞いたし、後に暴徒と化してしまう学生運動のもっと純粋で理想に燃えていた頃の話も見聞きしてきました。そういった「時代の勢い」のようなものを今は感じなくなりました。

些細な事を「考えよう」と言っても、早く答えを教えて欲しいと言われてしまいます。どのように「考えて」良いのか分からない…といった、笑うに笑えない場合もあります。物事は、ただ無条件に受け入れることも大切ではありますが、真実がどこにあるのかをキチンと「考える」こともできなければなりません。



パワーポイントファイル内に動画を埋め込む方法

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日本が危ない

2012年05月28日 | 雑談
「日本は危ない」 久しぶりに出会った知人と話していて…、最後に至った共通認識です。元々、考え方や感じ方に、似た側面はあるものの、同じ感性を持ち合わせているわけではありません。いつも、物事の見方はそれぞれに異なっており、違う方向から違う風に物事を見ているのですが、妙に結論のところだけは近しいものがある、不思議な人です。

だからと言って、その日本の国から逃げ出せるわけでもないし、ただ空虚な日々をこのまま過ごし続けるより仕方がありません。それぞれに、自分の身の周りのほんの小さな空間で、人間としてどうあるべきなのかを、小さく発信し続けたとしても、それは多分焼け石に水…なのだと、心の片隅の絶望を否定することができません。。


逆方向へのオートフィル

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失礼なこと

2012年05月27日 | 命の生き方
ブータン国王夫妻が国賓として来日された際、宮中晩さん会前のカクテルパーティの席で、蓮舫氏が携帯電話を使用していた…のが礼を失するのではないかとか、政府主催の東日本大震災追悼式で、台湾代表に献花の機会が無かったことについて…失礼ではないかとか。礼を失する行為というのは、取り戻す術がありません。謝罪や反省は必要ではありますが、時間が戻せるわけではありません。

そんな大それた場面を例に挙げるまでもなく、私たちはしばしば、さした悪意もなく、礼を失する行動をしてしまっているように思います。上述の蓮舫氏は、そこがブータン国王夫妻をお招きしているパーティの席でしたから、ひどく咎められましたが、氏の携帯電話に対する意識は、多分私たちの日頃の意識であり、それは失礼な行為なのだと改めて認識する必要がありそうです。

会議の席で、授業で、会食中、携帯が鳴ってあわてて中座する場面は、当たり前のようになっています。中には、席に座ったまま平気で応答している猛者さえ見かけます。電車内では「他のお客様の迷惑になるので、通話はご遠慮ください」という風にアナウンスが流れます。が、車中の電話ってそんなに迷惑なものでしょうか。車内というのは、目的地に行くまでの時間であって、そこ自体が例えば会議や授業の席になっているわけではありません。朗々と大声で話すのはひんしゅくものですが、複数名で乗車した場合の車中での会話と、携帯の通話は、さした差があるとは、私は思っていません。会議中や授業中の通話の方が、よほど迷惑です。そこは「会議」そのものの時間内なのですから。

私たちの日常…というのは、かなり人に対して失礼に当たることを平気でしているのではないかと思います。定められた時間に間に合わない、人の話をよく聞きもしないで説明を求める、他人の真面目な行為を茶化す、尋ねられたことを軽んじて答えない…。いずれも身の回りで当たり前のように見かけます。が、残念なことにその場で当人を咎めることは、非常にしにくいものです。多分、これらは成人するもっと前の段階できちんと身につけさせておくべき常識です。

就活の面接などで入室する際の「失礼します」、終わって退出する際の「失礼します」など。学生たちは、取ってつけたように学びます。が、その本当の心持ちというのは忘れられて、ドアを開け閉めする際の呪文程度にしか考えられていなかったりします。言葉尻だけ取り繕ったように気取って話すような就職指導も腑に落ちません。

「それは失礼だからしてはいけません」。最近は聞かなくなった言葉です。



2文字分をドロップキャップしたい

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studygift

2012年05月26日 | 社会派らぼ
「studygift」というサイトが批判を浴びています。学費支援プラットフォームと称しているこのサイトは、学費が払えず退学寸前だったり、学生のうちに挑戦したい事があるといった学生が登録し、多くのサポーターと称する一般閲覧者から資金支援を取り付けるサイトのようです。

立ち上げ早々の第1号支援希望者は、坂口綾優さんという早稲田大学社会科学部の女子学生です。正確に言うと、「女子学生でした」でしょうか。というのは、studygiftで順調に支援金が集まったものの、彼女は既に退学しており、早稲田大学からstudygiftに直接抗議連絡が入ったようです。また、この、元はと言えば奨学金をもらって学費に充てていたのが、成績が下がったために奨学金が打ち切られた…という経緯があり、自分が悪いのに他人に支援を請うのは甘えではないかといった批判が集中しているらしいのです。

問題をよく整理して考えてみると…、もともと成績もさして優秀でなく、奨学金などをあてにすることができない学生が、困窮して支援を訴えるのと、彼女のケースとの違いがよく分かりません。敢えて言うなら、奨学金がもらえるほどの能力の持ち主であるのに、努力を怠っているという点に、彼女の問題があるのかもしれません。

失礼な言いぐさですが、先般の生活保護に似ているような気がします。あらゆる努力をして、本当に万策尽きた状態であるのか、書類は整っていても本当は不正受給と言われても仕方のない状況なのか。それを明確に区別する、チェック機構が整っていないところに問題があります。

更に、「学費」は、生きていくために必要不可欠かというそうではありません。困窮しているという学生が、どれほど学問を渇望しているのかは定かではないわけですから、手厳しい批判が集中しています。

なんでも、この女子学生は、就活のためにGoogle+(SNS)を始め、写真投稿で人気1位を誇るユーザーなのだそうです。が、ともかく就活で売りにするものが無かったから、Google+を始めたといった説明も反感を買う一因なのかも知れません。好きでもないと公言する写真を始め、成績が下がるほどにGoogle+にはまり、人気1位を誇る…人であるのなら、もっと「何がしたい」のか目標を高く掲げ、そのために本当に大学が必要かどうかから考え直し、自らの道を切り開いて欲しいとそんな風に思います。

そして、何より、こうした呼びかけに対して、サポーターを申し出る方々も、もう少し、今一つ、何のために援助なのか、どのようにそのお金が活きるのかを考えることも必要ではないかと思います。こうした呼びかけに、手を挙げて応える事も、社会参加の一つではありますが、本当に必要としている社会弱者の手に、そうしたものが届かない限り、意味はありませんから。


数種の塗りつぶしボタンはどう違うのですか

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生活保護

2012年05月25日 | 社会派らぼ
メディアへの露出も多い人気お笑いタレントが、母親の生活保護受給についての謝罪会見を開きました。お笑いも、人気の高い分野のようで、すそ野は広く、大半がそれでは生活ができないような経済状況を抱えていると想像できます。が、彼自身はテレビなどで活躍していたわけで、少なくとも親の生活をみることはできるはずなのに、生活保護を受けていることが批判の対象となりました。

生活保護というのは、申請をしても、親族が経済的に養うことができる状況にあると、認可されません。つまり、親族から扶養が困難だと回答が戻った場合に、その明確な理由や根拠を調査することに強制力が無く、それ以上の把握が難しいのです。今回の謝罪会見でも、何度か福祉からの問い合わせがあった事を語っていましたが、扶養は無理だとの返答で、生活保護が支払われていたようです。

一つには、根本的に社会的責任感が欠けています。ある一分野で秀でたとしても、それをして「プロ」とは言わない。私はそう思っています。人間的な裏打ちは、社会活動をし続けていく中で、磨かれて当然なのですが、残念ながらそれが彼には無かったようです。

今一つは、これは制度の不備ではないかと思います。今回の例は、たまたま著名なお笑いタレントでしたから発覚しましたし、逃げ切れなかった。でも、これを氷山の一角として、このような例がおそらくはとつてもなくたくさんあるはずです。今年3月に生活保護を受けた人数は202万人と発表されており、途方もない数なのは、その中に多くの不適切な事例が含まれていると容易に想像できます。生活保護は知りませんが、何かの手続きをしようとすると、やたら書類が多くて面倒だったりします。それは、こんな風なことが起きることを防ぐ意味があるのでしょうけれど、書類が多くて、手続きが面倒なだけで、それがキチンとしたチェック機構として働いているわけではないという事になります。

簡素化された手続きで、キチンとした「認定」作業ができなければなりません。国は調査の権限を強化するといったようなことを打ち出しているようですが、単純にお金を振り込むといった形でのサポートを続ける限り、すべての事例を検証することには無理がありそうです。



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ひとつひとつ

2012年05月24日 | 命の生き方
人は、一体何歳まで生きたら充分だと感じるのでしょうか。多分、何歳であっても、「まだまだ…」と感じるのだと思います。本人もそして周りも。

日々、やりたいことは何ですか。明確に「これ!」というものを持たずに、何となく日を送っているのだとしたら、これ以上勿体ないことはありません。

やりたい事は山とあります。一生がどのくらいあるかは分かりませんが、どんなに頑張っても、悔いを残さず、すべてのことをやり切ったと思える時は多分来ない…と思います。欲張りですから、やりたいことは、もっとあるのです。どこで線を引いたとしても、まだやるべき事が残ります。

だから、一つ一つを真っ直ぐに、精一杯やり続けていくしか無いのだと、そんな風に思っています。



複数個所にあるデータを一度にコピー

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以心伝心

2012年05月23日 | ぱそこん道
講座というのは、受講される方々が「創っている」ということ、ご存知でしょうか。勿論、全責任を負っているのは私です。ですから、どの講座もおろそかに考えたことは一度もありません。それでも、どんなに私が頑張ったとしても、講座の最後の要を握っているのは、受講者ご自身です。

私が関わる講座というのは、ほんの一部の例外を除けば、殆どが教室形式です。つまり、複数の方々を対象にしています。ですから、ある意味で、どんなメンバーと一緒か…という事にもある種の「運」がつきまとうわけです。但し、誰が良いとか、誰が悪いとかそういうものではなく、相性も含め、講座で出会った方々が以降も親密な交流を続けてくださる…といった例を多々知っています。

時折、子どものように、「自分は知っている」という事をアピールしたくて仕方がない方がおられます。講座中に積極的に発言をしていただくのは大歓迎なのですが、説明もしないことを、先に言いたがる(笑)方には少々困ることがあります。グッドタイミングで言ってくださるのであれば、よいのですが、そういう配慮はあろうはずもありません。先に分かっておいていただきたいことがあるにも関わらず、知識をひけらかされてしまうと、他の方々を混乱させないように説明するのに苦労します。また正しい知識であれば、それもそれ…なのですが、多くが聞きかじりだったり、誤った理解だったりしますから、発言された方を傷つけないように訂正するといった不要な事に気を使わされます。

逆に、知識だけに興味があって…、手順を書きとめたりすることに熱心で、こちらの問いかけには積極的に参加されない方もおられますが、残念です。パソコンに限らず、大抵のことは「知っている」ことと、「理解する」ことの間に大きな差があります。「知っている」ことを口に出したがられる前述の方々も、言ってしまえば「知っていること」に大きな価値を見出そうとされる方々です。

私は「知っている」ことはとても浅いことだと思っています。世の中のいわゆる「受験勉強」を一面好ましく思っていないのも、そのあたりにも一因があります。「理解した」上で、最終的な知識量を問うのであればうなずけますし、ただがむしゃらに覚えることにもそれなりの価値はあります。それでも大半は、ただ表面の知識量だけを追い求める暗記勉強に偏りがちであることも事実です。

それでも、何も言わないにも関わらず、講座中に「修得する」という事の意味を理解していかれる…のを拝見することもあり、無条件に嬉しく思うこともあります。初めて講座に顔を出された頃は、やたら「知ってる」「知ってる」を振り回し、隣に座られた方に考える暇も与えず(笑)手助けをしたがっていた方が、回数多くご一緒するに連れて、邪魔になるような発言はされなくなる、お節介な手出しもされなくなる。これって、以心伝心なのでしょうか。


キーボードもマウスも動かない

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真実

2012年05月22日 | 命の生き方
自分の土俵の中だけからしか物を見ていないと、物の本質を見誤ります。考え方…というのは自由ですから、物の見方には色々あっていいのだと思いますが、真実は幾つもあるわけではありません。常に、自分は正しく物事を見ているのだろうか?という自省は必要です。

人は生まれ育つ環境を選ぶことはできません。そして多くの場合、その環境が考え方や価値観を育みます。気がつけば、一定の価値観が出来上がってしまっているわけで、よもやその感覚が偏っているなどと考えられないことも、致し方無いことではあります。

それでも、長じて以降、世の中というものを冷静に客観的に見るか見ないかは、本人の責任です。様々な人の考え方にきちんと耳を傾け、一つ一つの日々の出来事に真摯に向き合い、常に本質は何であるのか…を見極めようと努めてきさえすれば、世の中を真っ直ぐに見る力というのは、育てられるはずです。世の中の多様化に胡坐をかいて、偏った見方を省みないのは、多分人としての器の狭さです。

自分自身の生の感情で、物事をとらえてしまうことは危険です。しかも、平気でそれを口にすることは、時に罪悪であったりさえします。哀しいかな、人は自分の間違いを直視することに臆病です。無意識に、「いたしかった無かったのだ」と思いたい自分が独り歩きをします。心しておきたいと思います。


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