厚生労働省が作成した「人生会議」のポスターが物議を醸しており、厚労省は各自治体への発送を中止すると共に、ホームページでの動画掲載も見合わせました。アドバンス・ケア・プランニング(ACP)というのは、本人が病気などで意思決定能力が低下した場合に備え、あらかじめ家族や介護者などと終末期を含めた医療や介護について話し合っておくことを指すのだそうです。リビングウィルが本人の希望を述べておくものであるのに対し、ACPは、家族や医療者、介護者が話し合って定めるものという違いがあるのだそうです。
厚労省は、そのACPに「人生会議」という愛称を定め、事前の話し合いを呼びかける目的でこのポスターを作成しました。愛称の選定委員を務めたお笑い芸人の小藪千豊さんが、終末期の患者に扮し、自分の想いを正しく伝えられていなかったことを悔いている場面を演じています。事前に話し合いを呼びかけるポスターなのですが、これに対し、脅しともとれる内容だといった批判が相次いだとか。不安を煽るものだ…と言うのが、批判の主旨のようです。国会でも取り上げられ、ポスター作成には、4070万円の契約料が発生している事が明かされました。
自分の意見を持つことは大切な事です。そしてその意見を堂々と述べる事も大切です。ただ不快だからと言って、すぐに相手を全面否定するのは、違っているのではないかと思います。「人生会議」でなく「死に方会議」だとする意見もあったようなのですが、その言葉の持つ響きや残酷さは別として、どんな風に死を迎えたいと思っているかに間違いはないのです。「死に方会議」という言葉を前面に使うのはどうかと思いますが、死に方会議であって構わないのではないかと思うところ大です。
ポスターのデザイン性やメッセージ性に、文句をつける事は簡単です。但し、デザインが全く白紙の「0」の状態から、提案し模索し完成していく作業は、実は大変なものがあります。制作者は、それなりに苦心し、工夫し、悩んだうえで出来上がってきたポスターに、あれやこれやケチをつけるのは慎むべきではないかと私は思います。それが制作者に対する最低限の礼儀です。
自分の生き方は自分で決めたい。つまり、自分の死に方は自分で決めたい。「これが理想の生き方だ」として、社会から押し付けられるものであって欲しくないと、実は思います。著名人の闘病は何かと話題に上ります。正面から病と向き合って、それを克服するのが「勝者」だとする考え方は、同時に現代社会の中に多くの「敗者」を作り出しています。自分は「こう死にたい」と願っても、たとえ公言していても、最期に意志表示が叶わなくなった時、家族の意志が優先されるべきだとも思っています。例えば、「死んでいく者」と「残る者」の宗教が異なる場合、お葬式自体は「残る者」の意志で行えば良いと考えます。こんな風に送って欲しい、こんな風に送られたい、そう思う事は勝手ですし、そう頼んでおくことも勝手です。ですが、あくまで葬儀を執り行うのは、残された者の意思のはずなのです。
そういう理由で、実は根本から「人生会議」が必要なのかと言うと、そうも思っていません。リビングウィルで本人の意思が確認できれば、それで十分です。自分はどんな風に最期の灯を消したいと願うのか。本人の志表示を念頭に家族や介護者は、自分たちの想いの丈を込めて、送り方を決めれば良い。もし、本人が意思表示していないのであれば、なおさら送る者の意思で送り方を決めれば良い。自分の意思はそれぞれ、唯一自分だけが決定できるのですが、他人の思いを決めることはできません。他人の想いを否定するのは違っている…と思うのです。今の社会は他人に対し、あまりにも無遠慮に、自分の考えを押し付けすぎていませんか。
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「インクを替える度、クリーニングが要る」
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厚労省は、そのACPに「人生会議」という愛称を定め、事前の話し合いを呼びかける目的でこのポスターを作成しました。愛称の選定委員を務めたお笑い芸人の小藪千豊さんが、終末期の患者に扮し、自分の想いを正しく伝えられていなかったことを悔いている場面を演じています。事前に話し合いを呼びかけるポスターなのですが、これに対し、脅しともとれる内容だといった批判が相次いだとか。不安を煽るものだ…と言うのが、批判の主旨のようです。国会でも取り上げられ、ポスター作成には、4070万円の契約料が発生している事が明かされました。
自分の意見を持つことは大切な事です。そしてその意見を堂々と述べる事も大切です。ただ不快だからと言って、すぐに相手を全面否定するのは、違っているのではないかと思います。「人生会議」でなく「死に方会議」だとする意見もあったようなのですが、その言葉の持つ響きや残酷さは別として、どんな風に死を迎えたいと思っているかに間違いはないのです。「死に方会議」という言葉を前面に使うのはどうかと思いますが、死に方会議であって構わないのではないかと思うところ大です。
ポスターのデザイン性やメッセージ性に、文句をつける事は簡単です。但し、デザインが全く白紙の「0」の状態から、提案し模索し完成していく作業は、実は大変なものがあります。制作者は、それなりに苦心し、工夫し、悩んだうえで出来上がってきたポスターに、あれやこれやケチをつけるのは慎むべきではないかと私は思います。それが制作者に対する最低限の礼儀です。
自分の生き方は自分で決めたい。つまり、自分の死に方は自分で決めたい。「これが理想の生き方だ」として、社会から押し付けられるものであって欲しくないと、実は思います。著名人の闘病は何かと話題に上ります。正面から病と向き合って、それを克服するのが「勝者」だとする考え方は、同時に現代社会の中に多くの「敗者」を作り出しています。自分は「こう死にたい」と願っても、たとえ公言していても、最期に意志表示が叶わなくなった時、家族の意志が優先されるべきだとも思っています。例えば、「死んでいく者」と「残る者」の宗教が異なる場合、お葬式自体は「残る者」の意志で行えば良いと考えます。こんな風に送って欲しい、こんな風に送られたい、そう思う事は勝手ですし、そう頼んでおくことも勝手です。ですが、あくまで葬儀を執り行うのは、残された者の意思のはずなのです。
そういう理由で、実は根本から「人生会議」が必要なのかと言うと、そうも思っていません。リビングウィルで本人の意思が確認できれば、それで十分です。自分はどんな風に最期の灯を消したいと願うのか。本人の志表示を念頭に家族や介護者は、自分たちの想いの丈を込めて、送り方を決めれば良い。もし、本人が意思表示していないのであれば、なおさら送る者の意思で送り方を決めれば良い。自分の意思はそれぞれ、唯一自分だけが決定できるのですが、他人の思いを決めることはできません。他人の想いを否定するのは違っている…と思うのです。今の社会は他人に対し、あまりにも無遠慮に、自分の考えを押し付けすぎていませんか。
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